新たに鎮守府へと着任した正規空母・瑞鶴は、敬愛する姉・翔鶴との再会を果たす。
めまぐるしく過ぎる鎮守府の日々の中で、瑞鶴は徐々に、姉に向ける思いが単なる姉妹のそれを超えようとしていることに気づき始める。

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月のしずく

 私は不幸な艦娘なんだと思う。

 誰かを好きになる自由が、初めから条件つきで渡されているなんて、古い悲劇の脚本みたいで笑ってしまう。いっそ舞台の上で踊れたら、いくらか気も紛れたかもしれない。

 夜の海は静寂と月明かりの世界だった。小さな波の合間を縫って、ときおり冷たい風が吹きすぎる。姉妹と呼ぶには何もかも違いすぎるふたりの髪が、暗い海を指して流れる。

 姉は放心の瞳で私を見つめている。けれど、そこに私は映っていない。

 「妹」じゃない瑞鶴は、彼女の瞳に映ってくれない。

 いつの間にか泣いている自分に私は気づいた。頬を伝い、伝ったそばから次々に地面へ吸い込まれていく水滴は、やけによそよそしかった。

 ――ごめんね、翔鶴姉。

 声にならないつぶやきを残して、私は姉の身体を離れた。

 

 空と海の溶け合う場所に水平線があった。ひとり小さな桟橋に立ち、瑞鶴は胸いっぱいに吸い込んだ潮風を吐き出して言った。

「ホント、いいところねえ」

 鎮守府は暖かな朝の平穏に包まれていた。聞こえるのはわずかな海鳥の声と、みなもを走る船の音ばかり。朝日をはじく海面に戦いの色はなく、波は深い青をたたえながら、寄せては返し、返しては寄せる。あまりに平和な光景だった。

 桟橋に立つ瑞鶴の正面に海があり、それを囲うような形で左右に小さな山が張り出している。半月型にくり抜かれた港――地図に起こせばおおよそそんな体裁だろうか。旧海軍設立以来、鎮守府はこの海とともに歴史を刻んできた。

 左右の山を腕にたとえるならば、この場所は海をまるごと抱きすくめる身体、その本体に当たる。中央に赤レンガ造りの庁舎、周囲に入渠施設や建造ドックなどのコンクリート建築が立ち並び、鎮守府はいっぱしの軍施設としての威厳を重々しくたくわえていた。時代を経て洗練されたその威容に緊張を感じながら、瑞鶴は中央庁舎に続く広い石造りの階段を上る。

 と、その時であった。黒い木製の鎮守府正面玄関を開けて、中から何者かが姿を現した。

「あっ……」

 口にしかけた言葉を飲み込んで、瑞鶴はその場に立ち尽くした。

 ここに来て初めて目にする艦娘の姿だった。射手の装束、自分とさほど変わらない背丈、長くつやのある雪のような白い髪、優しげな目つき。他の誰を間違えようとも、このひとだけは間違えるはずがなかった。

「翔鶴、姉……?」

 噛みしめるように瑞鶴はつぶやき、やがてその発見は確信に変わる。

「翔鶴姉!」

 自分の声に自分で驚く。弾かれたようにこちらを見た翔鶴の顔に浮かぶ表情、その驚きと喜び。一歩一歩、踏みしめるように階段を上る瑞鶴の足取りは、知らず知らずのうちにその速度を増していく。早足はいつしか駆け足に変わり、ついには背中の荷物も振り捨てて、その身ひとつの体になって、瑞鶴は愛しい姉の胸元に飛び込んだ。

「翔鶴姉……会いたかった、ずっと」

「瑞鶴……」

 くすぐるように名前を呼び合い、ふたりは互いを抱く手にいっそうの力を込めた。余計な言葉は必要なかった。きつく触れた互いの身体を通して、感情は休みなくふたりの間にやり取りされていた。

 やがて、ふたりはそれさえ惜しむように相手の身体から手を離し、つややかに濡れた互いの瞳を見つめた。

「着任の日、今日だったのね」

 人差し指の甲で目尻をぬぐいながら、微笑み混じりに翔鶴は言った。

「聞いてなかったの? 翔鶴姉」

「瑞鶴が来るってことは聞いていたんだけれど、提督が日取りを教えてくださらなくて……」

「そうだったんだ……あ、それサプライズってことなんじゃない?」

「サプライズ?」

 横文字はわからないわ、という風情で翔鶴は首をかしげる。

「提督さんは翔鶴姉を驚かせようと思ってたのよ、きっと。現にびっくりしたでしょ?」

「ええ……本当に、心臓が止まるかと」

 胸に手を当てて翔鶴は言う。その奥に残る感情の余韻を、ことさらに確かめるような仕草だった。

「翔鶴姉は大げさね。でも楽しそうな人じゃない、提督さん」

「ええ。少し自由すぎるお人だけれど、きっと瑞鶴にも優しくしてくださるわ」

 翔鶴は笑っていた。触れたものを癒さずにおかない、何か特別な、大きな力を持った笑みだった。その柔らかな熱にあてられたように瑞鶴もまた微笑みを浮かべる。形容しがたい何らかの鼓動、熱い感情のうごめきが胸の一点を中心にじわじわと広がっていく感覚があった。

「行きましょう、提督が執務室でお待ちよ」

 翔鶴はごく自然に妹の手をとり、軽く引いた。瑞鶴の身体に電流が走る。白くたおやかな姉の指先。それに触れている自分。今になってようやく瑞鶴はひとりの女性としての自分を胸の内に意識した。と同時に猛烈な恥ずかしさがこみ上げてきて、姉にとられた手をつい反射的に振り払ってしまう。

「瑞鶴……?」

「あ、違うの、これは……」

 後悔は津波のように押し寄せてきた。何か言わねばと思うほどに心は乱れ、消えては浮かぶ弁明はどこにもはっきりとした像を結ばない。

 翔鶴の目に失望の色はない。振り払った手に拒絶の意思を感じたわけではなさそうだが、何か妥当な理由がなければ彼女も怪しむだろう。内心の揺らぎそのままに瑞鶴はあたりを見回し、背後の地面に打ち捨てられた背嚢(はいのう)を発見する。

 ――これだ。

「そう、荷物。ほらあそこに。拾わなきゃ、だから」

 震える声を隠すように瑞鶴は駆け出し、荷物を拾って姉の元にとんぼ返りした。

「あら、駄目よ瑞鶴。支給品は大切にしないと」

 姉の感想はそれだけのようだった。猜疑心のなさ、彼女の素直さに救われた形だが、それはそれで騙されやすいということなのだから心配でもある。一方が満たされればもう一方に穴が空く。心とは難しいものだ。

「う、うん。気をつけるね」

 何とかそれだけを答えて、瑞鶴は歩き出した姉の後ろに続く。手を差し伸べてくることはなかった。

 それでいい、とは思うのだ。次に同じことをされて平気でいられる自信が瑞鶴にはないのだから。しかし、だとすれば、このぼんやりとした寂しさは一体どこから来ているのだろう。

 見知らぬ場所で気が動転しているのだろうか。そうだ。そうに違いない。無理に自分を納得させることに決めて、瑞鶴は足早に姉との距離を縮めた。

「ここよ」

 たどりついたそこは、物々しい木製扉の前だった。見上げた位置に無骨な「執務室」の表記。先ほどとは違った緊張が瑞鶴の全身を包む。敷き詰められた廊下の赤絨毯にさえ、無言の威圧を感じる。社交性はあるほうだと自覚しているが、しかし提督ともなれば相手は佐官級の上官。平常心を保つのは難しい。

「大丈夫よ」

 そんな彼女の心持ちを察したものか、翔鶴は妹の肩に手を置いて言った。

「提督は優しいお方だし、私もついているから」

「……うん!」

 活力を取り戻した面持ちで瑞鶴はうなずいた。彼女にとっては、提督が優しいことにもまして、最愛の姉が側にいてくれること、それが何よりの心の支えなのであった。

「準備はできた?」

 姉の問いに、妹は笑顔で答える。

「うん……もう大丈夫。翔鶴姉がいるから」

 翔鶴もまた笑う。その頬が上気しているのは、それだけ嬉しいという感情の表れなのだろう。

「提督。瑞鶴が着任いたしました」

 ノックの後に翔鶴が呼びかけると、ほどなくして「入れ」との声。うなずいて扉を開けた姉に続き、瑞鶴もまた扉をくぐる。

 提督は白い軍服を身にまとい、机の上に散らかした書類を眺めていた。くわえ煙草に不精ヒゲ、吸殻のたまった灰皿と、その横にはくたびれた帽子。年の頃は、ざっと見て三十路の坂を越えるか越えないかといったところか。いずれにせよ几帳面な人物ではなさそうである。

「おーよく来たよく来た」

 こちらを見もせずに提督は言う。

「…………」

 瑞鶴は完全に面食らってしまって、凍りついた表情をどうすることもできなかった。

 翔鶴が非難する声をあげた。

「提督! 新しい子を迎える時はちゃんとしてくださいっていつも、」

「ごーめんごめん」

 翔鶴の小言をものの見事に聞き流し、提督はここで初めて瑞鶴に目をやった。

「えーっと、で、なんだ、君が新しく着任した」

「あ、はい。正規空母瑞鶴……です」

 一応敬礼もして見せたが、このゆるみ切った空気の中ではむしろそのようなかっちりした儀礼の方が浮いてしまう。

「あぁいいよいいよ楽にしてて。俺そういうの気にしないから」

 しまいには提督自身がそんなことを言い出す始末である。この人はこれで本当に軍人なのだろうか。艦隊を統べる提督なのだろうか。名前と制服を借りたアルバイトではないのか。瑞鶴はもはや疑問符なしにこの提督を見ることができなくなっていた。

「提督。もう少し上官としての威厳を……」

 落胆のため息とともにたしなめる翔鶴だが、当の提督は気にもとめない。

「いやそれでもいいんだけどさ、ほら、萎縮しちゃうでしょ。変にプレッシャーかけると。それで働きが悪くなったら本末転倒だし」

「それは、そうかもしれませんけれど……」

「でしょ? 俺としちゃあ無意味な厳しさなんて願い下げなのよ。このごろはパワハラだ何だって世間様もうるさいし。要は勝てりゃあいいんだから。あ、煙草切れてる」

 提督は空になった煙草のパッケージをくずかごに投げ入れ、

「ごめん翔鶴、後で買っといて。いつものやつでいいから」

「かしこまりました……」

 諾々と従う姉の顔に、瑞鶴は気苦労の絶えない部下の悲哀を見た。いつか自分もこんな顔をする日がくるのだろうか。想像するだに恐ろしい話である。

「……って、え? 翔鶴姉、秘書艦なの?」

 そういえば、と瑞鶴は辺りを見回す。この部屋には自分と姉と提督以外に人影がない。翔鶴が秘書艦でないと仮定した場合、もうひとり艦娘がいなければ辻褄が合わないのである。ということはつまり――、

「あら、言ってなかったかしら?」

 あっけらかんと翔鶴は答える。やはりそうか。

「聞いてないわよ! っていうか翔鶴姉、本当に秘書艦なんだね……」

「ええ。もう一年くらいになるかしら」

 秘書艦といえば提督直々の通達を受けて抜擢される艦娘である。選定条件を提督の独断に頼っている以上誰もが秘書艦になれるわけではないし、なれたとしても提督の意向によって外されてしまう可能性は常につきまとう。ゆえに秘書艦はもっぱら肩書きではなくその「勤続年数」によって評価される。翔鶴の一年が特別長いというわけではないが、積み上げた日数にはそれ相応の重みがあるのだ。

「そうだったんだ……すごいね、翔鶴姉」

「提督のご好意よ。私はそんなにすごくないわ」

 その時ばかりは屈託のない笑みを浮かべて翔鶴は言った。

 ――提督のご好意、か。

 それはどういう「ご好意」なのだろう、と考えて、瑞鶴はすぐに打ち消した。いましがた自分の中に湧き起こった暗い色の何か。深入りしてはいけない、そう思わせるだけの危険な誘惑がその「何か」には潜んでいた……ように思う。

 瑞鶴は思い出す。提督の話をするとき、姉の顔にはどこか喜びの色があった。例の暗いものが顔を出すのは、まさにその場面を思い起こしている瞬間なのだ。

 この暗闇の正体は、あるいは押し殺された自分の「欲求」なのかもしれないと瑞鶴は思う。自分が何を欲しているかはわからない。が、それでもひとつだけ言えることがある。姉が提督を思う一瞬、自分は確かにその上官への「暗いもの」をにじませているのである。

「……瑞鶴?」

「……え?」

 はたと我に返った瑞鶴の正面にこちらを覗く姉の顔があった。

「わっ! しょ、翔鶴姉?」

 すっとんきょうな叫びをあげつつ瑞鶴は飛びすさる。

「どうしたの? 何か考えごとをしていたようだけれど」

「あ、いや……何でもない、何でもないの。ちょっと頭がぼーっとしちゃって」

「風邪かしら? 心配だわ……瑞鶴、ちょっとこっちに来て」

「?」

 言われた通りに近づくと、翔鶴はふいに額を近づけ、瑞鶴のそれと合わせた。

「……!」

 驚くどころの話ではなかった。近すぎる姉の顔、閉じた両目、長いまつ毛、桜色の唇、肌に感じる吐息の温度。そのすべてがありえない距離に存在し、あまりにあっけなく瑞鶴は限界を迎えた。視界がくらみ、呼吸が乱れ、頬の熱ささえ夢のように遠い。この病じみた浮遊は、確かに風邪に似ている。

「熱はないみたいね。でも念のために休んだほうがいいかしら。息も少し上がっているし」

 始まりの唐突さにまして終わりもまた唐突だった。接触はほんの数秒、その間に生じた動揺を立て直す暇もなく、翔鶴は話を進めてしまう。

「提督、すみませんが瑞鶴を医務室に連れて行っても……」

「構わんけど……瑞鶴お前、別に病気でも何でもないだろ?」

「え? あ、はい、平気だと思い……ます」

 聞かれてみればそうとしか言えない。上の空になったのは考えごとをしていたからで、息が上がったのは姉の顔が近かったからだ。瑞鶴の健康は明白である。病気だなんて、ありえないのだ。

「ですが提督……」

「心配性なんだよお前は。それに鈍感でもある」

 心配性――その一言で、提督は翔鶴の過保護を斬って捨てた。

「そう……でしょうか」

「実の妹だからね。しょうがないとこもあると思うけど。ある程度はこう、仕事として割り切ってもらわなきゃ、だからさ」

「気をつけます……」

「そう落ち込まんと、新人の前なんだから」

「すみません……」

 こりゃ何言ってもへこむな――そう心中に察したのか提督はんー、とうなりながら後頭部をかき、

「まあ、何だ。いろいろグダグダだけど張り切って働いてちょうだいよ、新人ちゃん。うちはこういうとこだから初めのうちは戸惑うかもしれんけど、みんな気のいいやつだから」

「は、はい。よろしくお願いします!」

 弾かれたように敬礼する瑞鶴だが、こういう儀礼がいらないのだったか、と後になって思い直す。

「あい、じゃそういうわけで。翔鶴、この子を宿舎まで案内したげて。荷物の整理とかいろいろあるでしょ」

「かしこまりました。行きましょう、瑞鶴」

「うん」

 立ち直ったのか立ち直っていないのかわからない微妙な声音で翔鶴はうなずき、瑞鶴をうながす。

「失礼致します」

「あ、最後にいっこだけ」

 帰り際、背中にかけられた声に瑞鶴は振り返る。提督は立ち上がっていた。

「できるだけ死なないようにな」

「……了解です」

「ほら、あれだ。手続きとかいろいろめんどいからさ」

「はあ」

 最後の一言は余計なんじゃ、と思いつつ、でもこういうところがこの提督さんなのかな、と思う自分も確かにいて、瑞鶴は自分が嬉しいのか失望しているのか、はっきりしない心境の中にいた。

「わかり、ました。生き残ります。何としても」

「まあ最悪サボるって手もあんだけどね」

「提督!」

 翔鶴の声が飛ぶ。

 

「大変そうだね、翔鶴姉」

 先を歩く姉に付き添いながら、ぼそりと瑞鶴はつぶやいた。

「あんな提督さんの下で働いてさ。私、心配だな。翔鶴姉のこと」

 それはほぼ瑞鶴の本音だった。彼女には、ズボラな上司の下で姉が余計な心労を負っているようにしか思えなかった。無論、着任したばかりの自分に鎮守府内の人間関係がどこまで見えていたかは疑問だが、それにしてもやはり心配なものは心配である。

「ふふ、ありがとう瑞鶴。私は大丈夫よ」

 翔鶴の浮かべた笑みはどこか儚かった。誰にもどうにもならない大きな流れの中で、拠りどころなく揺れる自分をただ知っているような、そんな頼りない笑みだった。

「本当に? 無理しちゃダメだよ、翔鶴姉」

「無理は、していないと思うのだけど……むしろ逆かしら。提督はほとんど私に仕事を預けてくださらないから、それが心配なの」

「……そうなの?」

 それはありえないことじゃないのだろうか。瑞鶴は思う。あんな、怠惰に服を着せたような人が部下に仕事を押しつけないなんて、そんなことが果たしてあるのだろうか。

「意外でしょう? けれど本当なのよ。提督はすべてご自分で仕事をこなしてしまうわ。それこそ、秘書艦なんていらないくらいに」

 ふいに立ち止まり、翔鶴はこちらを振り返った。並んで歩こう、という合図だろうか。横に立つと、姉は再び歩き始めた。

「そう、なんだ……。あ、でも煙草」

 瑞鶴は気づく。そうなのだ。提督は翔鶴に煙草の使い走りを頼んでいた。確かに秘書艦らしい仕事とは言えないかもしれないが、提督は姉を部下として使っている。

「ふふ、そうね。でも前は煙草さえ自分で買っていたのよ」

 あれでもだいぶ改善した方なの――と、翔鶴はつけ加えた。

「じゃあ……」

「ええ、仕事をしていないのは私の方。提督はとても優れたお方なの。だから本当は、私なんて……」

「そんなこと……!」

 言いかけて、実際、どんな言葉をかけたらいいのかわからない自分に瑞鶴は気づく。そうだ、まるきり新米の私には、まだ何を言う資格も与えられてはいない……。

「ありがとう、瑞鶴。その心遣いだけで十分よ」

 翔鶴は立ち止まり、妹を見つめ、その身体をやわらかく抱きしめた。

「翔鶴姉……」

 複雑な感情を声に乗せて瑞鶴はつぶやいた。それは確かに姉のひとつの感謝の形には違いない。しかしなぜだろう、瑞鶴は、その感謝を本心から喜ぶことがどうしてもできなかった。

「寂しいの……? 翔鶴姉」

 答えはあまりにもあっさりと口からこぼれ落ちた。そういうこと、なのだろう。秘書艦としての自分とその職務に従事しきれていない自分がせめぎ合い、この哀れな姉の内側にはある種の「寂しさ」のようなものが生まれているのだ。

 できることなら、その寂しさを癒してやりたい。この細くもろい身体に巣食う痛みを取り除いてやりたい。――けれど、私にそれができるだろうか。

 絶対にできる、とは言い切れない。その淡い無力は、あまりに冷たい現実として瑞鶴の心にのしかかる。

「……そうかもしれないわね」

 そう言って、翔鶴はそっと瑞鶴から離れる。すでにその目に憂いの色はなかった。そこにはただ、常の通りの、風に吹かれて消えてしまいそうな笑みの縁取りだけが残されていた。

「ごめんなさい。嫌な話を聞かせてしまったわね」

「ううん、全然そんなことない。……がんばってね、翔鶴姉」

「ええ」

 翔鶴はそれ以上何も言わず、瑞鶴の先に立って歩き始めた。

 ――翔鶴姉が遠くに行ってしまう。

 そんな感慨が、出し抜けに瑞鶴の胸を刺した。

「…………」

 小さく首を振って、他愛もない妄想を打ち消す。

 落ち込んでいる場合ではない。自分は新たな艦娘として、まぎれもない戦力としてこの場に立っているのだから。着任早々に身内の問題で立ち止まっては、そう、翔鶴型の沽券に関わるというものだ。

 ――と、そんなふうに割り切れたらどんなにいいだろう。

 まとまらない思いを心中に抱えつつ、瑞鶴は宿舎に続く木の廊下に迷いの一歩を踏み出した。

 

 考えごと、という言葉を口の中に転がして、瑞鶴は深い深いため息をついた。ここ最近は三秒以上ものを考える機会が本当になかった。着任後の一週間はまるで砂嵐だ、と瑞鶴は思う。逃げる間もなく巻き込まれ、自分がどこにいるのか、何を見ているのか、立っているか座っているかもわからないまま気づけばすべてが終わっている。ここ数日はとりわけその感が強かった。艦隊への配属、同僚との顔合わせ、宿舎での荷解き作業……片づけるそばから積み重なる山のような課題。その忙しさときたら、目が回るというより視界がブラックアウトするといったほうが正しいくらいだ。

 正直にいって、瑞鶴は着任翌日からいままでの記憶をほとんど持ち合わせていなかった。しかし周囲の艦娘は親しげに寄ってくるし、瑞鶴自身、彼女らの顔をどこかで見たような気はしている。つまり瑞鶴は記憶こそ存在しないけれども、立派に対人ネットワークを結ぶことには成功したのだ。着任早々の艦娘としてはまず御の字といっていいだろう――これも久々になる大きな伸びをして、瑞鶴は宿舎に当てられた自室の畳に大きく寝転んだ。

 よくよく考えれば、これが着任以降初のきちんとした休暇だった。よくまあここまで生き延びた――そんな自嘲的な称賛が胸の内に響き、やがてどこかに消えていった。思えばこの部屋の内部もろくに確認していない。異常だな、と思いつつ瑞鶴は笑う。荷解きはしたし寝泊まりもしている、なのに部屋の様子がよくわからないというのは明らかにおかしい。が、そんな異常が当たり前に起きてしまう場所、それが鎮守府なのかもしれない。

 部屋のつくりはシンプルで、机と寝具と電灯と窓、それだけで説明できてしまうような画一的な空間である。二人部屋と三人部屋があり、瑞鶴に当てられたのは翔鶴と寝泊まりする二人部屋……なのだが、この部屋に案内されてからこちら、瑞鶴はまともに姉と話をしていない。片方が起きていれば片方が寝ている、という状況が続いたためである。互いに互いの寝顔を見ることしかできないここ数日の苦悩は、とても言葉では表現することができない。今日を境にそれも終わりだ、と思えば幾分気も楽になるのだが、いかんせん身体が言うことを聞かなかった。溜まりに溜まった疲労がついに牙を剥いた――おそらくそんなところだろう。襲い来る猛烈な眠気が、寝転んだ瑞鶴の身体を畳の上に縫いとめてしまっていた。

 目を開くことさえ億劫で、瑞鶴は重いまぶたを半眼に閉じる。こうなってしまえばもう、彼女の眠りを邪魔するものは何もない。

 どこか海の浮力にも似たその感覚に、瑞鶴はゆっくりと身を任せ、深い意識の底に沈んでいった……。

 ――――。

 どれだけの時間、眠り続けていたのだろう。目を開けると、窓から射し込む西日の色で部屋は黄金色に染まっていた。昼過ぎにここに横たわった自分は、だから夕暮れに至るまで一度も目を覚まさなかったことになる――まとまらない思考でどうにかそこまで考えを繋げ、瑞鶴はのろのろとその場に起き上がった。どうせ今日は一日休みだったんだし、髪なんて結ばないで布団にもぐればよかった。にぶい後悔は心の壁に泥のようにこびりついて離れない。その泥を落とすため、というわけでもないがとにかく顔を洗うことに決めて、ふらふらと立ち上がった瑞鶴の耳に、壁越しのその声は響いてきた。

「……あくまで噂でしょ? そういうこと軽々しく口にするのって、あんまりよくないと思うけど」

 聞き知った艦娘の声だ。しかし顔と名前がどうしても出てこない。とりあえず腰を下ろすことにして、瑞鶴は盗み聞きに専念する。

「でも火のないところに煙は立たずって昔から言うでしょ。ほんとに何もないんだったら噂だって流れないわよ」

「そうかなあ」

「そうよ。それに提督の机にそういう書類があるのを見たって駆逐艦の子が」

「どの子が言ってたの?」

「さあ……人づてに聞いた話だからそこまでは」

「ふうん……」

 何のことはない、よくある噂話だ。聞き耳を立てつつ瑞鶴は笑い、同時に小さなため息をついた。自分だってそういう話は嫌いじゃないが、こうして冷静な立場から聞くと実にあやふやで無責任なものだ。結局、いまのふたりの話の中に具体的な人名や根拠のある事例はほとんど登場していない。強いてあげるなら提督だが、それにしたってある種の記号、シンボルマークとしての「提督」だろう。そこに血の通った人間としての提督は想定されていないに違いない。

 まあ、言ってしまえば噂とはそういうものだ。事実にこだわる義理なんてどこにもないのだから、話し手は自分の都合がよくなるように中身を書き換えたり、つまらない情報を消したり、あるいはもっと大きなことを平然と行ったりする。ウソとマコトが同じ鍋でごった煮にされてしまうのだ。その時点で噂に信用もへったくれもない。

 ――という具合に、寝起きの勢いで難しいことをつらつら考えていた瑞鶴だが、やはり柄にもないことはしない方がいいのか、段々と頭が痛くなってきた。小さなうめき声をあげ、何とはなしに部屋の中を見回すと、鏡に映った自分の顔に畳の跡がついていた。ばっちり目が合ったその顔にみるみる朱色がにじんでいく。

 恥ずかしい……と思っていると、途切れていた扉越しの会話がいつの間にか再開されていた。

「……そういえばそうよね。最近仲いいもんね、あのふたり」

「でしょ? 恋しちゃってるのよ、翔鶴秘書艦。思わせぶりに窓の外なんか見つめちゃって」

 翔鶴秘書艦!?

 反射的に瑞鶴は立ち上がっていた。

 冷や水をかぶったような衝撃だった。引きずっていた眠気も何もその衝撃でいっぺんに吹き飛んでしまって、瑞鶴は大きな目を見開いたまま部屋の入り口に駆け寄り、間抜けな諜報員の体で扉向こうの様子をうかがった。

 古い木のドアに耳を当てると、ちょうど話し声が遠ざかっていくところだった。かろうじて何かを言っていることだけはわかるものの、肝心の内容までは聞き取れない。かといっていまから部屋を飛び出し、彼女らを追って単刀直入に噂の真偽を問いただすのもばつが悪い話だった。実の妹に聞かれていたと知れば彼女らは十中八九気分を悪くするだろうし、口を閉ざしてろくに喋ってくれないこともありえる。瑞鶴としてはむしろそちらの線が強いように思う。何せ渦中の艦娘の血縁者なのだ。警戒しない方がおかしい。

 ――それに、いまの私のこの顔は、誰かに見られていい顔じゃない。

 そういう個人的な事情もあいまって、現在、瑞鶴がこの部屋を出るのは手段としては下の下といえる。落ち着こう、とにかく落ち着こう――浮つく心にそう命じ、瑞鶴はドアの前を離れ、部屋の中央に小さく座った。が、しかし、じっとしていられるはずもなく、ものの五分と経たないうちにうろうろと室内を歩き回る自分がいた。

 姉が提督といい感じになっている――先ほどの噂を鵜呑みにしてまとめればそういうことになる。いい感じとはつまり恋仲か、それに近しい関係ということだ。いつの間にそんな関係ができあがっていたのだろう。瑞鶴の着任当日、提督のそばに立つ姉にそんな様子は見受けられなかった。気安さや親しさは無論あったが、言ってしまえばそれだけだ。瑞鶴が見た景色の中に、およそ色恋を感じさせるような感情の流れは一切なかったと思う。それがどうして今日になっていきなり「思わせぶりに外を見つめる翔鶴姉」なのか。瑞鶴の知らない空白の一週間に一体何があったというのか。

 一度気になりだすと、それ以前の思考にはもう戻れなかった。

 レンアイ。口の中につぶやいてみても、それはただの不器用な音の羅列にしかならない。自分がいかにそういった世界から離れて生きていたかということをまざまざと思い知らされる。

 姉は何を思っているのだろう。彼女が提督に向けている「好き」は、私にくれる家族の「好き」とどう違うのだろう。誰かをよく思うということに種類があって、それぞれに持つ色が違うという感覚は、いくら言葉で説明されても瑞鶴にはわからない。ただ、そういうものがあるんだなあ、という認識が他人事のようにあるだけで、それは「わかっている」こととは違うのだ。自分はどこまでコドモなんだろう、と思う。

 ドライに考えるなら、姉が誰を好きになろうが、どんな恋愛をしようが、そこには何の問題もないはずだ。

 ――でも、なぜだろう、

「……何か、やだな」

 歩き回ることをやめ、膝を抱えてその場に座り、ぽつりと瑞鶴はつぶやいた。

 それが純粋な、いまの彼女の心境だった。

 部屋には夕闇が迫りつつある。夕日の色が薄れ、空いた隙間にするりと夜が忍び込む。思いだしたように明かりをつけても、夜は依然として夜のままだった。

「……翔鶴姉」

 返事が返るはずもなく、空気に溶けて声は小さく消えていく。

 どうしてこんなにつらいのだろう。姉の幸せを願うなら、こんな感情は消えてしまった方がいいのに。けれど心は正直だ。絶対に嘘を言わない。いい悪いで決められることじゃない。――だからこれは、まぎれもない私の本心。

「……やだ、もう」

 うつむき、きつく自分の身体を抱きしめる。手に触れる感触、姉とお揃いの部屋着、そこに宿る針のような罪悪感。

 本当はわかっていた。――私は翔鶴姉の幸せなんて願っていない。翔鶴姉の隣にいる自分を、私は願っているんだ。だから、誰にも渡したくないその場所を提督さんに取られたのが悔しくて、やりきれなくて、

 ――妬ましいんだ。

 その醜さ、いやしさで、瑞鶴は自分が張り裂けてしまいそうだった。

 これが私の中の「暗いもの」の正体。

 憎しみではない。独占欲とも違う。もっともっと暗くて、汚くて、おぞましいもの。そのぬかるみの中に自分はいる。

 抜け出さなければ。もうひとりの自分が言う。

 でも……どうやって。

 いつまで待っても、どれだけ待っても、返事は聞こえてこなかった。

 そのとき、半ば考えることをやめた瑞鶴の中に、あるひとつの考えが浮かんだ。

 ――あの噂を確かめに行こう。

 もうそれしかない。瑞鶴は思い詰めた。姉と提督がそういう関係にあったなら、そのときはすっぱりあきらめよう。あきらめるというのもおかしな話だが、とにかくふたりの仲を応援するのだ。けれどあの噂が嘘だったなら。

 ――嘘だったなら?

 自分は、どうするというのだろう。その先の想像は瑞鶴にとって未知だった。

 姉と提督はただの秘書と上官であり、それ以上でもそれ以下でもない。終わり。解散。……とは、ならないだろう。これは物語ではない。幕引きの後にも日常は続くのだ。――だとしたら、すべてが平和に片づいた後で、私と翔鶴姉はどうなってしまうのだろう。あるいは何も変わらないのか。

 結局、いまは考えるより行動、という結論でしか、瑞鶴は自分を納得させることができなかった。

 けれど、そんな自分にもひとつだけ言えることがある。

 窓の外に目を向け、そのむこうに広がる夜の海を瑞鶴は見つめた。海は受動的だ。太陽なしには輝くことさえおぼつかない。昼間あれだけ光を弾いていても、結局それは「反射」という他者ありきの現象でしかないのだから。そして、同じことは人にも艦娘にもいえる。

 ――だから私には、翔鶴姉が必要なんだ。

 服を着替え、明かりを消し、あたりに満ちた夜を呼吸する。

 女は度胸。

 何とはなしにそんなセリフをつぶやいて、瑞鶴は暗い部屋を後にした。

 

 といって、いきおい部屋を出たはいいものの、一体自分が何をすれば最善なのか、瑞鶴にはとんと見当がつかなかった。

 がらんとした木の廊下を歩きつつ考える。

 目的ははっきりしている。姉と提督の仲をこの目で確かめることだ。「この目」で確かめる以上、人脈を使った情報収集はあまりいい手とはいえないし、そもそも新米である瑞鶴は、この鎮守府においてまだ他人以上戦友未満という立ち位置だ。こそこそすれば目につくし、最悪信用を失うということもありえる。となれば手段はおのずと限られてくるのだが……。

「でもなあ」

 廊下に響く硬い靴音を聞きながら、瑞鶴はため息をついた。限られた手段とは、すなわち、提督の部屋に急襲をかけるということだ。無論部屋に入るつもりはない。壁際に立って耳を澄ませれば会話も聞こえてくるだろう。そこを狙う。

 しかし危険が大きいのも事実である。

 執務室前の廊下は庁舎でも特に人通りの多い場所だ。任務の受注から備品の陳情に至るまで実に多くの案件が提督の元には寄せられる。そしてそれらの案件を持ち寄るのは例外なく艦娘である。廊下が混み合うのは当然の成りゆきといえる。瑞鶴自身、部屋の前に長い列ができているのを何度か見たことがある。この状況に出くわしたら部屋の前には立てないし、姉と提督の「現場」を押さえることもできない。つまり、狙うべきは何よりも「タイミング」なのだ。

「タイミングかあ……」

 狙い目は深夜だろうか。普通に考えればそうだが、この鎮守府がどこか普通でないことは、提督のひととなりを筆頭として瑞鶴も承知している。深夜が安パイと考えるのは早計だろう。

 廊下に列ができていたのは午前中だったからその時間帯は除外できるとしても、残された「午後」という言葉のあいまいさといったらない。もう少し的を絞って部屋の前をうろうろできたらいいのだが――、

 と、そのときであった。いつからそこにいたのか、ふと瑞鶴が前を見やると、巡洋艦とおぼしき艦娘が早足気味に廊下を歩いていた。

「……あ」

 その背中には見覚えがあった。どこかで見た……そう、食堂だ。食堂で見た。同型の艦娘と親しげに話していたのだ。明るくて活発な子だったからよく覚えている。アップにまとめた髪、セーラーにハーフパンツという出で立ち、大きな黒い瞳。この子とは話が合うな――直感的に瑞鶴は思ったのだった。名前は確か……、

「……青葉」

「はぁい! 青葉をお呼びですかあ?」

 聞こえないと思ってつぶやいたのだが先方は思いのほか地獄耳だったらしい。くるりとこちらを振り向き、ただでさえ大きい目をくりくりと見開きつつ駆け寄ってきた。

「おお、これはこれは。お話はうかがってますよう」

 うかがわれていたらしい。けれど悪い気はしない。明るく社交的な子はこちらとしても大歓迎なのだ。

「初めまして、よね。えと、正規空母の瑞鶴です。よろしくね、青葉さん」

 敬礼し、並一通りの挨拶を口にする。

「青葉で構いませんよう。これからよろしくお願いしますねえ」

「うん、じゃあ……青葉」

「はい、どーもです、瑞鶴さん!」

 やっぱりこの子とは馬が合いそうだ、と瑞鶴は思う。物言いがはっきりしていて裏もなさそうだし、その場にいるだけで空気がぱっと華やぐようなオーラがある。長いつき合いになりそうだな、という予感があった。

「つきましては、瑞鶴さんにこちらを受け取っていただきたいのですが」

「?」

 そう言って青葉が差し出したのは、活字と写真でいっぱいに埋め尽くされた一枚の紙だった。題字とおぼしき太枠の中に古い字体で「鎮守府通信」と書かれている。そのタイトルからして、広報紙なのだと大体の予想がつく。そういえば鎮守府のあちこちにこれと同じ体裁の印刷物が貼られていた気がする。本格的にここで出回っているものなのだ。青葉はそれを渡してきたということになる。

「え? じゃあこれは……」

「お察しの通りです!」

 青葉は高らかな声をあげた。

「我が鎮守府の月刊広報紙『鎮守府通信』は現在、この青葉が執筆、編集、印刷業務を一手に担って連載しているのです!」

 瑞鶴は素直に感嘆する。

「すごいすごい! え、これ、本当に青葉がひとりで作ってるの? よくできてるわねー」

「いえいえ、それほどのものでは」

 頬を赤く染め、くすぐったさを我慢するように身をよじりつつ青葉は言った。可愛い仕草だなあ、と瑞鶴は思う。

「若輩ゆえまだまだ至らぬ部分も多く、日夜ジャーナリズムの何たるかを追いかけている次第です、はい」

「でもこんなにちゃんとした広報紙作れるなんてやっぱりすごいわよ。私には絶対真似できないもの。ちゃんと取材とかもするんでしょ?」

「それはもちろん!」

 青葉はピンと背筋を伸ばし、

「事実に基づいた報道、それが青葉のポリシーです。取材はジャーナリズムの第一義、その綿密さが肝要なのですよ」

「そういうのって大事よね。ウソつかないってことだもんね」

 なるほどよくわかる話ではある。青葉のこの性格なら公明正大を売りにするのはしごく当然と言えるし、だからこそここまで熱っぽく話すのだろう。「ありのまま」に対する執着というか、そういう精神的なエネルギーが言葉の端々に感じ取れるあたり、ジャーナリストは青葉の天職といえるのではないか。

 ――ん?

 ジャーナリスト?

「あっ!」

 瑞鶴は叫んだ。

「どうかされましたか、瑞鶴さん」

「あ、ううん、何でもないの、何でも」

 手を振ってごまかしつつ、瑞鶴は考える。

 これは使えるのではないか。

 快活で裏表がなく、真実を追求し、何よりも取材にこだわる若きジャーナリスト。

 この子に頼らない手はない。打算というよりは藁にもすがるような思いで瑞鶴はそう結論づけた。

 しかし……いいのだろうか。

 決心の糸がわずかにゆるむ。

 青葉はおそらく鎮守府随一の事情通だ。無論「そっち」方面にも通じていることは明らかで、聞けば大概の情報は引き出すことができるだろう。だが、裏を返せばそれは「疑いようのない真実に自分が触れる」ということでもある。そのとき瑞鶴が対峙するのはもはや疑惑ではない。ヴェールを剥がされ、誰にでもそうとわかる形でさらされた事実なのだ。

 瑞鶴は逡巡する。いまさら迷うも何もないということはわかっているけれど、それでもまだ引き返せるという逃げ道が瑞鶴の決心をにぶらせる。すべてがつまびらかになったとき、自分は前と同じように姉と接することができるのか。

 ――いや、もう迷う段階じゃないのか。

 大きく息を吸って、吐く。考えても答えの出ない問いを、覚悟ひとつでねじ伏せる。

 女は度胸――今度は心の中につぶやいて、瑞鶴は強く目を見開いた。瞳に意志の光が宿る。

「青葉!」

 名前を呼び、その細い肩をがしと掴んだ。

「は、はいい!?」

「聞きたいことがあるの。いいかしら」

 その口調には、有無を言わせぬ言葉の強さがあった。

 

「……なるほどなるほど。それでどうしても真偽を確かめたい、と」

「うん……そういうこと」

 言いたくないことだが仕方なかった。青葉の協力を取りつけるため、瑞鶴は自身の感情を正直に交えて説明した。さすがに例の「暗いもの」については伏せたが、肉親として姉の交遊が気になること、それが切実な問題であることについては言及を惜しまなかった。怪訝な顔をされる覚悟もあった。

 しかし、当の青葉の態度はといえば、瑞鶴が思うよりもずっと淡々としたものだった。

「ふむ、青葉はあまりゴシップネタは好かないのですが……察するに、瑞鶴さんも相当思い詰めていらっしゃるご様子」

「……やっぱりそう見える?」

「むしろそうにしか見えません。瑞鶴さんは、とてもお姉様思いの方なんですね」

「そんなんじゃないよ」

 首を横に振り、青葉の言葉を否定する。

「全然、そんなんじゃない」

 自分の欲に従って他人を利用するようなやつが、姉思いだなんてありえない。――私のこの感情は、もっと汚い言葉で形容されるべきだ。

「そうですか」

「…………」

 つかのまの沈黙が、二人の間に流れる。

「……正直、」

 先に口を開いたのは青葉だった。

「あまりおすすめはしません。青葉には、瑞鶴さんが何か後ろめたいものを隠しているように思えます。興味本位なら話は別ですが、瑞鶴さんはそうではない」

「そうだね……そうかもしれない」

「自覚があるならなおさらです。知るべきでないことを知らずにすますのも、ひとつの勇気ではないかと」

 沈黙を返事にして、瑞鶴はじっと床を見つめた。そこにはどんな答えも隠されていない。無意味な視線が逃げ場を求めて虚空にさまよう。

 感情を抑えた声で、青葉は続ける。

「何ぶん女の子たちの噂ですから、すぐに広まるものとは思います。ですが、ある程度の距離を置くことはできるでしょう、いまはまだ――」

「できないよ!」

 口をついたのは、悲鳴じみた叫びだった。

「! ……ごめん」

「瑞鶴さん、」

「でも、やっぱり私にはできない。翔鶴姉が遠くに行っちゃうかもしれない。前みたいな翔鶴姉じゃなくなっちゃうかもしれない。最低だってわかってるけど、でも、私、嫉妬してるんだ。提督さんに」

 結局、その「暗いもの」を隠し通すことはできなかった。感情を感情のままにむき出しでさらすことがどれだけ危険か、頭ではわかっていたはずなのに。

「……知って、どうするおつもりですか」

 青葉は、ついに訊いた。返答いかんによっては断固たる対応をせねばならない、その一言を。

「噂が嘘なら、それでいい。本当なら……私は、二人を応援するつもり」

「できますか、あなたに」

 答えようとして、言葉にならなかった。できる……そう一言、弱々しくでも言い切ってしまえばいいものを。ここまできて誠実も何もないというのに。どうしてその程度の小さな嘘がつけないのか。

「わからない」

 そう、わからないのだ。不器用な本音は、おまけにひどく不恰好でもある。

「そうですか」

 青葉は小さなため息をつく。この子でもこういう顔をするんだな、と考えて、瑞鶴はすぐに打ち消した。

 ――違う。私が、こういう顔をさせてしまっているんだ……。

「……結論から言いますと」

 青葉がふいにこちらを見すえて言った。

「お二人が恋仲にある可能性は高いです」

「…………」

 唐突な宣告。しかし思ったほどの衝撃はなかった。心のどこかでその回答を、瑞鶴自身、予期していたからかもしれない。

「書類を見た、という艦娘が何人かいます。司令官の机の上に、他の書類とごっちゃになって置かれていたとか」

「その、書類っていうのは……」

「はい。おそらくはケッコン手続きの」

「そう……」

 瑞鶴は努めて平静を装ったが、果たしてどこまで内心を隠せたものか。

 ――そうか。翔鶴姉たちはもう、そんなところまで……。

 何ということだろう。着任初日に会ったとき、自分は姉の顔色を読み違えていたのだ。ケッコンを意識するとなれば恋愛期間も一年や二年では効かないだろう。秘書官にする前から提督は姉を見初めていたのかもしれない。まったく気づけなかった。つゆほどにも考えなかった。にぶいどころの話ではない。これではただのバカではないか。視界が暗く陰ってゆく錯覚に、瑞鶴はとらわれた。

「ありがとう。青葉」

 礼を言うにも、ひどく気力を使うような気がした。

「やはり、言わない方がよかったのでしょうか」

 青葉は、軽率な自分の言動を後悔しているように見えた。

「そんなことない」

 心の段取りをつけ、言葉そのものを噛みしめるように、瑞鶴は言う。

「けど……私、まだ提督さんに嫉妬してる。でもそれは、遅かれ早かれ、向き合っていかなきゃならないものだから。青葉は、悪くない」

「……いつでも頼ってくださいね。青葉は瑞鶴さんの味方です」

「うん。ありがと」

「私は部屋に戻ります。瑞鶴さんは――」

「私も戻るよ。こんな顔でいつまでも歩き回れないし」

「気づいてらしたんですね」

 青葉も瑞鶴も、そのときばかりは顔に微笑みを浮かべていた。

「うん。それじゃあ」

「はい。またゆっくりお話しましょう」

 くるりと背を向け、後腐れなく、二人はその場を後にする。

 長い廊下に続く窓から月の光が射している。点々と延びるそれをたどりつつ部屋を目指し、瑞鶴はひとり考えた。

 青葉の言葉に裏はない。それはわかる。あの子に悪意があったなら、あれほど親身になって話を聞いてくれはしなかっただろう。

 ――けれど。

 それだけではあの子を信じることはできない。考えたくはないが、彼女の情報そのものが間違っていた可能性もあるからだ。その意味で、誠実さと嘘は必ずしも矛盾しない。ふたつが同時に同じ皿で振る舞われることもあるということだ。

 ――結局最後に残るのは、私が直接見たものだけか。

 胸の内につぶやき、ふと足を止め、瑞鶴は窓の外に広がる空を見つめた。

 夜をにじませたその瞳に、上弦の月が映り込む。

 

 我が軍の損害――大破2、中破3、小破1。うち空母の大破、小破各1。友軍艦の小破2。

 敵方の損害――認められず。

 旗艦大破により作戦を破棄、一六三○、当該海域を撤退。一七四○、鎮守府に帰投す――。

 皆傷だらけだった。

 泣いている艦娘もいた。砲塔がひしゃげて、ろくに弾を出せなくなっている者もいた。無事に済んだ甲板などひとつもなかった。誰もみな、その華奢な身体に相応の痛みを抱え、帰還の途についた。

 いっそ笑いがこみ上げてくるほどの、豪快な負け戦だった。

「それじゃあ、私は帰還報告をしてくるから」

 黄色みがかった夕日を背に受け、翔鶴はいまにも消え入りそうな声でつぶやいた。

「うん……」

 力なく首を振る瑞鶴にもまた、隠しおおせないほどの疲労がにじんでいる。

 甲板の大部分を砲撃で失った姉は、自分だってボロボロのはずなのに、その痛みや苦しみを表に出すことはしない。どころか彼女は、

「瑞鶴。あまり気に病んでは身体に毒よ」

 こうしていまも、不甲斐ない自分に優しい言葉をかけてくれるのだった。

「…………」

 瑞鶴はいたたまれなかった。

 ――私のせいだ。

 ――私のせいで、勝てる勝負に勝てなかった。

 作戦経過は順調のはずだった。空母を含めた高速艦六隻で敵部隊を急襲し、可能な限りの打撃を与えて引き上げる、ヒットアンドアウェイの電撃作戦。取り立てて難しい動きを要求されるでもなく、気を抜きさえしなければ遂行は容易な部類の任務だった。

 そう、気さえ抜かなければ遂行は容易だったのだ。

 瑞鶴はあからさまに注意を怠った。――つもりはなかったのだけれど、やはりうわの空だったのだろう。ひとり隊列を離れ、僚艦の静止も聞かず、ふらふらと気の向くままにたどり着いたそこは敵部隊の電探(レーダー)圏内だった。

 趨勢(すうせい)はその時点で決した。

 まずい、と思ったときにはすべてが遅かった。飛び交う砲火と空中戦の直中でようやく正気を取り戻し、瑞鶴は、焦りと喪失感にさいなまれながらも艦載機をけしかけた。しかしあらかじめ押さえられた空に戦いを挑むのはあまりに無謀であり、結果、空母翔鶴を旗艦とする高速艦隊は見るも無残な大敗北を喫したのだった。

 誰も瑞鶴を責めなかった。「勝負は時の運」――そう言って笑う艦娘もいたし、ある駆逐艦などは、瑞鶴の顔を見ると急いで涙を拭き、無理に笑顔を作ってこう言った。

「だいじょうぶです。わたしたち、全員生きて帰ってこれました。次に勝てれば、しっぱいじゃありません」

 慰めや励ましが、ときに鋭い刃物となって心に刺さることがある。いまがまさにそのときだった。いっそひと思いに非難してくれれば、と思う。これではまるで生殺しだ。やりきれない後悔は、この世のどこにも捨てられないまま胸の底へとわだかまる。自分ひとり小破で済んでしまったという事実も、そこには関係していると思う。

「翔鶴姉、私……」

 枯れた声で姉の名を呼ぶ。

「あなたのせいじゃないわ」

 そっと、翔鶴は妹の身体を抱きしめた。

「…………」

 傷が触れ合うより先に、心が痛んでいた。

 ――私のせいなんだよ、翔鶴姉。戦って負けたことも、傷だらけになったことも、全部。

 離れ際に、瑞鶴はじっと姉の瞳を見つめた。

 揺れていた。

 哀しみと慈しみを半々に取りまぜた、壊れものを見る目がそこにはあった。

 鈍い痛みが瑞鶴の胸を貫く。

 この目に浮かされて、私は――。

「瑞鶴、あなたは少し休んだ方がいいわ」

 澄んだ高い声が、瑞鶴の思考を現実へと引き戻す。

「休む……」

「そう、休むの。最近いろいろと考えごとをしているようだけれど、あまり根を詰めてはだめよ。できることもできなくなってしまうわ。だから――」

「うん。ありがとう、翔鶴姉」

 半ば会話を打ち切るように瑞鶴は言って、不器用な笑みを顔に浮かべた。傍から見たその表情は、笑顔と呼ぶことさえ躊躇われるようないびつなものだったかもしれない。けれどいまはこれが限界。屈託なく笑うには、感情が邪魔をしすぎていた。

 心ここにあらずの体で何度も振り返りながら、翔鶴は中央庁舎に続く階段を上っていった。力なく手を振り、瑞鶴はその姿を見送る。

 ――今日も翔鶴姉は翔鶴「姉」のままだった。

 それ以上の存在ではありえなかった。姉の優しさを前に自分はどこまでも妹でしかなく、だからこそ距離を縮めることはできない。決して。

 瑞鶴はため息をついた。すでに誰の姿もない階段を見るともなしに眺め、静かに後ろを振り向き、視界いっぱいに黄昏の海の光景を焼きつける。

 初めて見た鎮守府の海は綺麗な青色だった。それがいまでは夕暮れ時という理由で黄金色に変わり、やがて夜がこの水面を深い墨色に染めかえる。そうして小さな「一日」という単位が、無限に繰り返されてゆく。

 ――そこには誰の都合があるのだろう。

 益体もない考えが頭をよぎる。

 自分がこうしてここにいること、姉が提督の秘書艦であること、それらはすべて何らかの都合によるものだ。互いの立場や責任、主義主張を複雑に折り合わせ、ひとつの大きな矢印を作る。組織はその矢印に従って足並みをそろえ、進むのだ。

 時の流れや月の満ち欠けにも、そういう都合は存在するのじゃないのだろうか。

 誰に決められたわけでもない。頼まれたわけでもない。それでも朝日は東から西に駆け抜け、暮れていく。月は闇夜を明るく照らし、朝の訪れを見届けて消える。そこに何の意図も都合もないと考えるのはどうなのだろう。この世のどこかにそれを決める人がいはしまいか。月の歯車を回し、夕日に油を注ぐ役輪を負った、そんな人々が。

「……あはは」

 ばっかみたい。

 何考えてんだろ、私。

 日はじきに暮れようとしていた。あの夕日が沈み切ってしまえば、この鎮守府にも夜が来る。幾千年幾万年と繰り返された夜、あらかじめ訪れを約束された暗がり。

 彼方の空に半ば没した太陽。

 知らない誰かの知らない都合で、世界はまた少しだけ暗くなった。

 

 あてもなく彷徨ううちに、瑞鶴の足は庁舎へと向かっていた。宿舎に戻るわけにもいかず、かといって僚艦と入渠するのも気まずくて、結局消去法的にたどりついたのがこの場所だった。姉がいるという幼い打算も、そこにはあったかもしれない。

 時間帯ということもあるのか、建物内はがらんとしていた。いやに張り詰めた沈黙が空間の隅々までみっしりと詰まっており、時折その沈黙を破って紙をこする音が聞こえる。最低限の人員を除けば、おそらくほとんどの艦娘がいまは食堂にいるのだろう。ふいに瑞鶴は、自分がとてつもない孤独の中にいることを感じた。暗いところが好きなつもりはなかったのだけれど、最近は光より影に当たっている時間の方が長い気がする。何かダメだな、私――自嘲的なつぶやきは声にならない。

 どこを目指すわけでもなく、ただ先があるからという理由で漫然と廊下を歩く。二階へ上がる階段の途中に大きな写真がかかっていた。白黒で若干不鮮明だったが瑞鶴はすぐにピンときた。空母だ。しかも正規空母。写真横には艦の略歴と簡単な説明文が載っており、これが先の大戦時に撮られたものだということが知れた。白黒も不鮮明もそのためだろう。さらに目線を下げると、そこには無骨な筆致で「赤城」と彫りつけられていた。

 赤城。

「……って、まさか」

 間違いない。「あの」一航戦の赤城だ。会って話したことはまだ一度しかないが、演習風景を見たこともある。新米の自分とはまとっているオーラからして別物だった。このひとには勝てないな――直感的にそう思わせるだけの実力差がそこにはあった。

 しかし、そういった力量的な面とは裏腹に、瑞鶴はどうしてもこの正規空母を好きになれなかった。

 艦隊最古参、鎮守府のエース、連合艦隊空母筆頭――彼女を讃える言葉は数あれど、そのどれもが赤城という艦娘を言い表すには不十分である、ということは、実際に会って話をすればたちどころにわかるだろう。

 それほどにすごい(ひと)ではあるのだ。

 なるほど、写真の一枚や二枚飾られることもしごく当然といえる。……のだが、瑞鶴にはどうにもその実力や名声を赤城自身が鼻にかけているように思えてならなかった。

 無論根拠などない。思い込みだと言われてしまえばそれまでだ。が、理屈やつじつまを超えた感情的な部分では、やはり赤城は鼻持ちならない存在なのだった。

 だが同時に、彼女は瑞鶴が目指すべきひとつの理想像でもあった。

 赤城なら、たとえ任務で負けたとしてもここまで悩みはしないだろう。ハナから後ろ暗い感情には取り合わず、なぜ自分が負けたのか、どうすれば勝てるのかを徹底的に分析して何らかの糧を得るに違いない。そのストイックさ、戦いへの誠実な姿勢こそが彼女を美しく見せているのかもしれない。瑞鶴にはわかる。そういうひとはきっと、負け方も綺麗だ。

 言ってしまえば一流、ということなのだろう。何か絶対的な壁のようなものが自分と彼女の間にはある。一航戦と五航戦――そういった対立の図式に問題を落とし込むのは簡単だが、そこまで話が単純だとも思えない。

 考え方の形――それ自体あまりに漠然とした、「戦争」への向き合い方、というべきか。そういうところが根本的に違うのだと思う。黙々と任務に従事し、大きな成果を挙げ、戦場の悪魔を手なずけていく「一流の」艦娘たち。感情の揺れが勝敗を左右する、ゆえに彼女らは感情を捨て、純粋な戦闘機械としての自己を定義する。

 ――そんなひとたちを、私は超えられるだろうか。

 否、追い越さなければならないのだ。

 正規空母という肩書きが、瑞鶴を運命の渦に捕らえて離さない。いつかは心を捨てて、艦隊の勝利に貢献せねばならない自分。戦えば戦うほどに薄まっていく「自己」という存在のあいまいさ。見敵必殺の名の下に無限回の殺戮を繰り返したとき、果たしてそこにいるのは本当の「私」なのか――、

「考えごとですか?」

 突然の声に飛び上がるほど驚いて、瑞鶴は後ろを振り返った。聞いた声だなとは思ったが、そこにいたのは他でもない、

「赤城、さん……」

 名前の後ろに「さん」をつけたのは就役期間を踏まえての配慮であり、まったくもって他意はない。先輩だから礼儀を通した、それだけのことだ――誰に聞かせるでもない釈明の言葉が、次から次へと瑞鶴の脳裏に浮かび、また消えていく。

「あら、これ私の写真。ふふ、何だかくすぐったい気がしますね」

 瑞鶴よりも少しだけ高い位置に、柔和な彼女の微笑みがあった。いついかなる場所でも色あせない黒髪の美しさ。クセのある髪を強引にツインテールでまとめている瑞鶴とはまさに雲泥の差である。悔しいが、一航戦の赤城で間違いない。

 しかしこのタイミングでこの[[rb:艦娘 > ひと]]とは。噂をすれば……と思う気も起こらない。偶然とはかくも人の心をもてあそんで離さないものなのか。

「どうしました? 見たところ怪我をしているようですけれど……入渠施設でしたら」

 赤城は踊り場の窓から覗く夜を指差し、

「あちらに」

「あ、いえ、違うんです。これには理由があって……」

 瑞鶴はうろたえた。無意識に敬語を使う自分に気づいたからだ。一航戦への反目を意識するなら敬語などもってのほか、もっとトゲのある言葉を遣うべきだろうに、完全な手抜かりだった。前に話したときは事務的な場所での事務的な会話だったからよかったものの、このような半プライベート空間での言い回しは、その後の人間関係を決定づける引き金となりうる。

 まずったな――瑞鶴は内心に独りごちる。こうなれば仕方ない。黒星ひとつなら後でいくらでも取り返せる、と思うことにしよう。言葉遣いなどは所詮、口だけのものでしかないのだから。

 瑞鶴は小さく息を吸い、気圧されまいと身構えて、

「赤城さんは、提督にご用事ですか? この時間帯だとみんな食堂にいると思うんですけど」

 赤城はある種独特の間を置いてから、

「食事はひとりで摂る方が好みなので、こうして時間をずらすことにしているんです」

 と言った。柔らかな物腰だった。声にも態度にも、敵意は微塵も感じられない。すべて了承したうえでこうなのか、それとも単に鈍感なだけか。前者ならまだ張り合いもあるが、後者なら拍子抜けだ。

「瑞鶴さんは……そういうわけではなさそうですね。何か悩みごとがあるように見えます」

「え?」

 思わず素の声になって、瑞鶴は聞き返していた。

 赤城は笑いながら、

「違っていたらごめんなさいね。でも、そんな風に見えたものだから」

「はあ……」

「私、人が悩んでいると何となくわかるんです。独特の空気が出ているというか。よかったら聞きましょうか? お話」

 おせっかいだったら構わないんですけど、と最後につけ加えて、赤城は瑞鶴の顔を見つめた。そのまっすぐな視線に耐えきれず目を泳がせた瑞鶴は、言い知れぬ敗北感のようなものを内心に感じていた。

 笑ってしまう。敗北感? いつから自分は勝負などしていたのか。向こうには戦意など初めからないというのに。一方的な敵意を抱いた自分が腹立たしくも可笑しかった。

 改めて自分の心境を振り返る。

 赤城に悪意がないことは明らかだ。結局、一航戦だ五航戦だと名前に固執しているのは自分だけであり、このつまらない意地さえ捨てればすべてが丸く収まるのである。

 瑞鶴は顔をあげる。目前に立つ空母はいまだに「一航戦の赤城」のままだった。ひとの認識が簡単には変わらないことを、少しだけ寂しく思う。けれどそれも、永遠不変のことがらではないはずだ。

「それじゃあ、ひとつ、聞いてもらってもいいですか」

「ええ」

 ぽつぽつと、瑞鶴は今日の敗戦について語り始めた。

「……っていうことがあって。姉のことを考えてるうちに、気づいたら敵の縄張りで」

「ええ」

「みんな大破とか中破とか、大怪我で。私だけが小破で済んじゃったんです。負けたのは私のせいなのに」

 赤城は黙って瑞鶴の話を聞いていた。返事といえばときおり打つ相づちくらいのもので、ほとんど何も口にせず、瑞鶴の話すままに任せていた。

「赤城さんみたいな強い艦娘でも、こういうとき、悩んだりするんですか」

 意を決して、瑞鶴は尋ねた。しかしそれは、放たれた時点ですでに答えの用意された問いだった。

 ほぼ間違いなく彼女は否定するだろう。私情を殺し、任務に従事するのが艦娘――おそらくはそんなことを言うに違いない。こうして見る限り赤城は冷徹な戦闘機械というわけではないけれど、それでもその判断力は一級なのだろうから。

「……悩みますよ。というよりむしろ、悩んでばかりというか。お恥ずかしい話ですけれど」

「え……?」

 だから、赤城のそのセリフを聞いたとき、瑞鶴はどうしても自分の耳を信じることができなかった。

「そんな……嘘です。だって赤城さん、強いじゃないですか。わざわざ悩むようなことなんてないんじゃ、」

「そんなことはありません。悩んだり苦しんだりは日常茶飯事です。それに……私はあなたが思うほど強い艦娘ではないから」

 ごまかすような笑みを浮かべて、赤城は言った。

「強くない……?」

 このひとは何を言っているのだろう――初めに瑞鶴の胸を満たしたのは、そんな素朴な疑問だった。だってそうだ。赤城が強くないとすればこの世界のどこにも強い艦娘などいないことになってしまう。そうならないためにも、このひとには「強い艦娘」でいてもらわなければ困る。

「何言ってるんですか。赤城さんは強いです。戦闘経験も、沈めた艦の数も、私よりずっと多いんですよ」

 意地になって、瑞鶴は赤城に詰め寄った。先輩に対して失礼だということはわかっている。けれど、納得できないことをそのままにしておくのは自分に対して失礼だ。

「そうではないのよ」

 赤城は緩やかに首を振って、瑞鶴の言葉を否定する。

「確かに、轟沈させた艦の数は戦場の栄誉として記録されます。けれどそれは暴力に優れているというだけで、強いということではないわ」

「わかりません。赤城さんが何を言いたいのか、全然」

「……そうね。私にもわからないことを、ひとには伝えられないわよね」

「からかわないでください!」

 カッとなって、瑞鶴はつい大きな声を出してしまった。慌てて口を閉ざすも、吐いてしまった言葉までなかったことにはできない。

「……すみません」

「謝らなくていいのよ。わからないことを言ったのは私なんだから」

 沈黙が降りた。急速に冷えていく頭の片隅で瑞鶴は、強さとは何か、という観念的な問いを転がし始めていた。

「ひとつ、いいですか」

「はい」

「さっき、悩んだり苦しんだりは日常茶飯事だって、赤城さんは言ってましたよね」

「ええ」

 こんな自分につき合ってくれる先達への感謝を噛みしめつつ、瑞鶴は問いを投げる。

「やっぱり、どれだけ実力をつけても、そういうものからは逃げられないんですか」

 赤城は、すぐには答えなかった。薄く目を閉じ、考えをまとめる数秒の空白をおいて、

「……そうですね」

 と言った。

「むしろ長く戦えば戦うほど、そういったものからは逃れられなくなります。尊敬していた先輩は私の目の前で自爆しました。嵐に巻かれた支援艦隊はついに帰ってきませんでした。親友が目の前で吹き飛ばされるのを見たこともあります。下半身だけの姿になって、彼女は海の底に沈んでいきました」

 全身から血の気が引いていく、その感覚を、瑞鶴はどこか遠いものとして感じていた。

 ショックのあまり声も出なかった。むき出しの現実は、たとえそれが伝聞であっても、ここまでひとを圧倒するものなのだ。それを実際に経験した赤城の衝撃はどれほどのものであっただろう。想像することはできても、それを確かな実感として受け取ることが、瑞鶴にはできなかった。

 独白は続く。

「戦場とはそういう場所です。生と死の境界があまりに近く、ともすれば自身の命さえ見失ってしまいそうになります。そんなところで心を平静に保つのは、口で言うほど簡単なことではありません」

 瑞鶴は考える。果たして自分は、そこまでの覚悟を持って戦いに臨んでいただろうか。ここに来て初めて大敗を喫したあのとき、傷ついていく仲間を見て、それでも死にはしないだろうと高を括ってはいなかったか。

「そういうことがあるたびに、私は立ち止まって考えなければなりませんでした。戦うことの意味とは何か、本当の平和はどこにあるのか、どうして私は心ある『艦娘』に生まれてきてしまったのか。考えることを知らない鉄の塊であったなら、こんなふうに悩むこともなかったのに、と」

「赤城さん……」

 気遣いのつもりでかけた言葉は、誰の元にも届かずに消えていった。それひとつ取ってみても、瑞鶴は自分がどれだけ卑小な存在であるかを感じずにはいられなかった。

 やっぱり、と瑞鶴は思う。このひとは弱くなんかない。他のひとより少しだけ心のきめが細かいという、ただそれだけのことなのだ。そして同時に、その繊細さを律する精神力をも彼女は持って生まれてしまった。本来ぶつかるはずだったそれらを同じ心のうちに囲うことで、彼女は戦いの苦しみに囚われたのだ。弱いのではない。強いのとも違う。「赤城」の名を与えられた美しき正規空母は、そんな不可避の葛藤の中で、辛くもここに生きている。

「……軍を辞めようとは、思わなかったんですか」

 瑞鶴は尋ねた。戦いを放棄し、軍籍を抜ける――前世紀の呼称になぞらえて俗に「解体」と呼ばれるそれは、艦娘の人事における特例措置として一応は認められている。無論誰もが自由に辞められるわけではないが、激しい戦闘の経験によるノイローゼの発症などはその「許可条件」の中に含まれているのではなかったか。慣れない思考に苦しみながらも瑞鶴は考える。

「もちろん、除隊を考えたこともありました」

 ふいに赤城が口を開いた。あてのない思考を取りやめ、瑞鶴は彼女の表情に目を向ける。

「ですが、そのとき、すでに私は艦隊の末席ではなく、隊を率いる立場にいました。預けられた責任を振り捨ててまで、私は籍を退くことができなかったのです」

「そんな……」

 持って生まれた資質がゆえに、彼女は逃げることを許されなかった――そういうことなのか。自分がどんな形を持って生まれるか、自分自身は選べないというのに。

「力があるから、優秀だから逃げられないなんて……そんなの、おかしいです」

「そうかもしれません。けれど、責任ある者が誰かを守らねばならないのも事実です」

「…………」

 それは、いまさらの事実だったのかもしれない。

 艦娘になる、軍属になるということは、取りも直さず命の責任を負うということだ。他ならぬ自分自身の働きによって、敵味方の生死が決定する。栄誉を重ねるほどに、昇進を重ねるほどにそれらは重く、取り回しの利かないものになる。

 そういう世界に、赤城も瑞鶴も生きている。

 赤城は言う――その身に重ねた血と栄光と、ほんのわずかな悲しみをもって。

「私が逃げるわけにはいかない――その現実を知ったとき、私はある決意をしました」

「決意、」

 おうむ返しに呟き、瑞鶴はそっと赤城の顔から目をそらす。そこに宿った感情の意味が、唐突な実感を伴って彼女の目に映ったからだった。

 赤城は目を閉じ、息を吸い、再びその目を見開いて言った。

「私のような艦娘をこれ以上生み出さないようにしよう、という決意です」

「赤城さんのような……」

「はい」

 このひとは笑い方を見失ってしまったのだ、と瑞鶴は思った。それはどこまでも笑顔に似た表情でありながら、本質的にはまったくの別物だった。

 泣くことに声も涙もいらないということを、知りたくもないそんな事実を、それでも瑞鶴は強く胸に刻みつけた。

「嘆きはすべて私たちが引き受けます。あなたたちが思い悩む必要はありません。加賀さんも長門さんも同じ気持ちです。死線を越えた艦娘は皆その結論に達します。いずれ矢面に立たなければならないこともあるでしょうが、それまではどうか、自分の思いを大切に生きてくださいね」

 心はとても簡単に、私たちの側を離れてしまうものですから――そう赤城は締めくくった。

 気の利いた言葉など、何ひとつ浮かばなかった。ただ一言、

「……ありがとうございます」

 という、別人のような自分の声が聞こえただけだった。その不甲斐なさにいたたまれなくなって、瑞鶴は慌てて頭を下げ、

「あの、その、本当にありがとうございます。言いたくないこと、色々あったかもしれないのに、こんなところで」

 瑞鶴の心には、赤城に対するかつての敵意は微塵も残されていなかった。残るはずがなかった。あまりにも悲愴な彼女の言葉が、瑞鶴の胸に巣食うちっぽけな感情を残らず流し去ってしまっていた。

「気にしなくていいのよ。ほとんど、私の独り言みたいなものだから」

「そんなことありません。赤城さんの言ってたこと、大事にしようと思います」

 最後にもう一度深々と頭を下げ、「失礼します」と言ってから、瑞鶴はその場を後にする。階段を上った先には二階があり、二階には提督の執務室がある。そこにはもういないかもしれないが、最愛の姉にあって、伝えるのだ。

 この思いを。

「瑞鶴さん!」

 大きな声で名前を呼ばれ、弾かれたように瑞鶴は振り返る。

 赤城だった。

「思いは伝えることで初めて存在を許されます。あなたの心の正直なところを、大事にしてあげてくださいね」

 どきりとした。まるでこちらの心を見透かしたようなそのセリフ。

 けれど、嫌ではない。

「頑張ります!」

 力強い頷きを返し、瑞鶴は庁舎の廊下に希望の一歩を踏み出した。

 

「……まあ、最後だけは、提督の受け売りなんですけれどね」

 誰にも聞こえぬ声でそう呟いて、赤城はゆっくりと階段を下りていった。

 

 入りづらい部屋、というものがある。

 言ってしまえば提督の執務室なのだが、この場所はいつ来ても、いつ見ても背中に嫌な緊張が走る。中にいるのはダラけた上官と実の姉だけだというのに。私って意外とあがり症なのかな、と思いつつ小さな深呼吸をひとつ。気持ちを落ち着かせ、大きな木の扉をノックしようとしたところで、その話し声は聞こえてきた。

「……そういやお前とも長いつき合いになるな。コンビ組んで何年になる?」

「……一年と少しだったと思いますけれど……提督?」

 姉の声だ。それに提督もいる。ノックの形に握った拳をすんでのところで引っ込めて、瑞鶴は扉の向こうのふたりの会話に耳を傾けた。つくづく諜報の機会に恵まれているなあ、と思う。

「ああいや、何となく気になっただけなんだけどさ。着任はいつだっけ?」

「三年と六ヶ月前……だったと思います」

 今度は答えを用意していたのだろう、翔鶴はすぐに答えた。

「ふーん」

 そっかそっか、と言ったきり、提督は押し黙ってしまう。少なくともこちらに声が届いてくることはなかった。こうなると控え目な姉としては所在ない心持ちだろう。いや、案外この程度の沈黙には慣れているのかもしれない。秘書艦として提督の傍にいればこのあたり、自然と鍛えられるのではないだろうか。

 しかし、どうにも無駄が多いというか、悠長な会話だ。任務報告が終わったならさっさと入渠させればいいものを、提督は一体何を考えているのだろうか。日頃死ぬな死ぬなと言っておきながら大破の艦娘をそのままにして平気な顔とは、どうかしているとしか思えない。そこまで姉と話したいことがあるようにも思えないし――。

 ――いや。

 果たして本当にそうだろうか。

 特に何の意味もなく、提督は姉と他愛のない話をしているのだろうか。

 瑞鶴は思い出す。先ほど聞こえてきた会話――提督は姉の着任歴や秘書艦歴を尋ねていた。姉の戸惑い方から察するにあれは日常的な提督の発言ではない。むしろその逆――普段あまり聞くことのないセリフだ。特別な言葉は特別な状況で用いられるものだ。つまりいまが提督にとっての特別な状況ということであり――。

 考えすぎかな。

 複雑な思考を打ち消し、瑞鶴は現実の意識へと舞い戻る。どうも推理の類は苦手だ。普段ミステリーなんて読まないし、そもそもこういう理屈っぽい考えは、突き詰めていくと頭痛の種になる。大変よろしくない。

 というのは建前で、実際のところ瑞鶴は、あの思考の果てに存在するであろう「解答」に迫ることを恐れていた。

「ふーっ。提督ってのは何でこんなに書類仕事が多いのかね。決められた場所にこうやって、判をつくだけなら猿でもできるってのによ」

「提督、そういうことなら私にお任せいただければ……」

「ん? ああごめんごめん、そういう意味で言ったんじゃないのよ。お前らは戦うのが仕事だから、こういうのは全部俺が引き受けるってんでいいんだけどさ。でもまあ、思ったりもするよな。こんな書類ホントにいんのかよ、ってさ。お上の帳尻合わせのために余計な判つかされてたんじゃたまんないよなって話」

「提督、そのような発言は……」

「軍規に背く言動、だろ。わかってるよ」

「……はい。お控えになるべきかと」

「でもこの書類とか見てみ。装備の最新化はちっとも飲まないくせにやれドックを拡張しろだの庁舎を改修しろだの、命令すんのはとんちんかんなことばっかりだ。まったく、どこの官僚上がりが舵取ってんだか知らないが、現場のことを何もわかっちゃいない。見た目を飾れば敵が勝手に沈んでくれると思ってんだろうな」

 提督は、珍しく言葉に怒りをにじませているようだった。普段粗雑でやる気のない素振りを見せているだけに、それは特段際立ったものとして瑞鶴の心に映る。

「……おかげでお前をそんな姿にしちまった」

「提督……」

 姉の声。なるほど、この怒りは「義憤」か。提督は、上司の批判をすると見せて、その実、部下を傷つけた自分自身に対して怒っているのだ。

 いい人なんだな――素朴な思いが瑞鶴の胸に満ちる。

「ま、俺の作戦が悪かったってのもあんだろうけどさ。古い武器を直し直し使わなきゃならないってのもそれはそれでやりきれない部分があるだろうよ。瑞鶴あたりが文句を言ってそうだけどな」

 どきりとした。提督の話に自分の名前が出たこともそうだが、それにもましてこの戦いの責任が自分にあること、その罪悪感が彼女の胸を圧迫していた。

 違うんです提督。装備が悪かったんじゃありません。作戦も完璧でした。全部私のせいなんです――そう言ってしまえたらどんなに楽か。しかし瑞鶴は、こうして執務室の扉に張りつくいま、どこまでも卑劣なひとりの艦娘でしかなかった。

 気弱な姉の声が聞こえる。

「いえ、瑞鶴は……他の皆さんも、文句を言ったりというようなことは……」

「ん。まあそれならいいんだけどな。ただ、不満はため込まない方がいいってのも事実だ」

「はい……」

「まあいいや。とにかくいまはその身体を直してきな。何だかんだ言っても、やることはやんなきゃならないんだからさ」

「ありがとうございます。……失礼いたします」

 足音が近づいてくる。まずい、と思うが早いかドアの前から身を引いたそのとき、提督の声が翔鶴を呼び止めた。

「おおそうだ。いっこだけいいか?」

「はい」

「後で話がある。入渠が済んだらいつもんとこに来てくれ」

「……かしこまりました」

 いつものところ?

 考えていた時間は、ほんの数秒にも満たなかったと思う。

「!」

 瑞鶴は気づいた。「解答」に至ってしまった。いや、それはまだ答えと呼べるほど上等ではない、ただの憶測なのかもしれない――けれど。

「失礼いたします……あら、瑞鶴?」

 顔をあげる。

 そこにあったのは、夕日の港で見た、あの姉の顔だった。奥には提督の姿も見える。

「どうしたの?」

「いや、あの……」

 瑞鶴の頭が白熱する。ダメだ。あまりに多くの情報が押し寄せてきてすぐには処理しきれない。けれど何か言わなければ。この場を取り繕わなければ。それはもはや理性を超えた反応だった。

「その……どうせお風呂に入るなら、翔鶴姉と一緒がいいな、って思って」

 我ながら無理のある言い逃れだったと思う。しかし当の姉は何に気づいた様子もなく、微笑みの表情を浮かべ、

「あらあら」

 と言ったのみだった。

 提督は何も言ってこなかった。よく見ると、彼は机の後ろの窓から軍港の夜景を眺めているのだった。

「行きましょう、瑞鶴」

「う、うん」

 姉の声に促され、瑞鶴は入渠施設を目指す。

 ――翔鶴姉に、話、聞かなきゃだな。

 手のひらにじっとりと汗がにじんでいた。

 

 焦りが何も生まないことは経験則でわかっていた。隣を歩く姉にちらちらと横目を使いながら、瑞鶴は必死に自分を落ち着かせようと試みる。自然体、平常心、マイペース――浮かぶ言葉はまるで泡のようだ。生まれては弾け、消えた傍からまた浮かぶ。そもそもそういうことを考えている時点で緊張は抑えられていないのかもしれなかった。

「ごめんなさいね、瑞鶴。待たせちゃったみたいで」

 翔鶴がぽつりと言った。廊下の端、ちょうど階段に差しかかる折であった。

「ううん、平気。待つのそんなに嫌いじゃないし」

 笑いながら瑞鶴は言った。小さな嘘だった。誰かを待つことなんて好きになれるはずがない。それでも瑞鶴があの場にとどまったのは、ひとえに盗み聞きという目的を優先したからだった。

「そう……それならいいのだけど」

 いくらか安心した様子で、翔鶴は階段を降り始めた――そのときだった。不用意に踏み出した一歩目を外し、姉の身体が大きく左に傾いた。

「……!」

 危ない、というよりも先に身体が動いていた。とっさの判断で両手を伸ばし、瑞鶴は転げ落ちそうになる姉の身体をすんでのところで抱きとめた。

「大丈夫!?」

「ええ……ありがとう、瑞鶴。大丈夫よ」

 そう言って笑う姉の顔は、鼻先数センチの距離にあった。

 瑞鶴の胸を、ふいに火のような感情が満たした。

「……ご、ごめん」

 慌てて離れるも、激しい動悸ばかりは抑えようもなく、瑞鶴はしばし、熱くなる自分の頬と格闘していた。

 ――またこれだ。

 病気なのかな、本当に。

「瑞鶴? どうしたの?」

「あ……」

 姉がこちらを覗き込んでくる。ダメだ。それ以上はいけない。抑えが利かなくなってしまう。

「何でもないの。さ、行こ、翔鶴姉」

 姉の顔を見ないように、震える声でそう言って、瑞鶴は勢いよく階段を降りた。

「あ……待って、瑞鶴」

 翔鶴もまたゆっくりと階段を降りる。

 やけっぱちの熱量が、正体不明の方向へと瑞鶴を駆り立てていた。

 

 幸い入渠施設には誰もいないようだった。広い脱衣所に人影はなく、大きな扇風機だけが無人の空間にむなしく風を送っている。先に来ていた僚艦は[[rb:高速修復材 > バケツ]]を使って早々にここを去ったのだろう。姉とふたりでゆっくり話をするには都合のいい環境だった。

「ここに来るの初めてなんだよね、私」

「あら、じゃあいろいろ教えてあげるわね」

「うん……ありがと」

 入渠の仕組みについては聞きかじりの情報で知っていたが、それでも知ると実際に使うとでは勝手が違った。なぜだか少し、緊張もする。

「瑞鶴はここを使って。私はこっちで着替えるから」

「うん……」

 翔鶴が服を脱ぐのに合わせて、瑞鶴もまた着替え始める。ちょうど、背中合わせに着替えるような形である。

「…………」

 衣擦れの音が背後から聞こえる。女同士、しかも姉妹である以上何の気兼ねもいらないとはいえ、やはり緊張するものは緊張する。

 ちらりと後ろを振り返る。

 そこには当然のごとく、服を脱いだ姉の後ろ姿がある。

「!」

 そのとき、心の中を駆け抜けた一瞬の感情の律動。

 どうして自分が罪悪感を持っているのかわからない。家族なんだから、姉妹なんだから、もっと自然にしていればいいのに。見てはいけないものを見てしまったような感情に襲われるのはまるっきりお門違いだ。

「瑞鶴……?」

「ひっ、」

 瞬間、冷たい手に背中をなでられたかと思う。姉の声に対してこんなに敏感な自分を瑞鶴は知らなかった。慌てて浴場の扉へと走り、背中越しに「先、入ってるから」と言っていそいそと入る。

「ふう……」

 後ろ手に扉を閉め、瑞鶴は深いため息をつく。手ぬぐいを忘れたことに気づいたがこの際どうでもいい。ただ、姉の身体を見るのも姉に身体を見られるのも恥ずかしくてたまらなかった。足早に浴場を突っ切り、瑞鶴はその奥の一番広い湯船にざぶざぶと踏み入って腰を下ろした。壁を間近に見る形である。少し熱めに調節された湯が全身を包む。

「あ、気持ちいい……」

 足の先から溶けていくようだった。冷たくそっけない海の水とは何もかも違う。何だかんだで自分も疲れていたのだ。このままゆっくりお湯に浸かって、

 ――いや。

 そうじゃない。危うくぬるい思考に頭を支配されるところだった。風呂の湯加減やら何やらにかまけている場合ではない。いまは姉と話をする絶好のチャンスであり、そのためにしなければならないことは――、

 特にないけれど。

 ――ようは私の気持ち次第ってことか。

 とりあえず、身体の向きだけは変えた。壁を見つめる陰気な姿勢から浴場全体を見渡す視点にシフトし、瑞鶴はそこに、あられもない姉の姿を発見する。

「翔鶴姉……!」

 いつの間に、という言葉を飲み込み、瑞鶴はなめらかな姉の肢体を見つめ――我に返り、目をそらす。

 ――やっぱ私、変だ。切実に変だ。

「初めてのお風呂はどう? 熱くないかしら」

 動揺する瑞鶴とは対照的に姉はのんびりとしたものだった。おもむろにしゃがみ、湯船に手を差し入れて「少し熱いかしら……でもこれくらいがいいのよね」などと思案している。思案が終わると湯船に入り、こちらまで歩み寄って身体を沈める。当然のように肌が触れ合っている。瑞鶴の頭はたかだか五十度足らずの環境で沸騰寸前だった。

「ふう……気持ちいいわね、瑞鶴」

「う、うん」

 返事をするにもおっかなびっくりの瑞鶴だった。おかしな話だ。いま隣にいるのは間違いなく姉の翔鶴であり、初対面の誰かというわけでもないのに、互いの距離が少し近くなるだけで、こんなにも身体が固くなってしまう。

 しばし無言の時間が続く。浴場いっぱいに満ちた湯気の中で、ときおり、ふたりの身じろぎする音が響く。この場所は繊細だ。普段なら聞き逃すような音も、ここでは大きく聞こえる。戦いや喧騒といったものの一切から遠く離れて、一時の平和を味わうのも悪くない。いつしか瑞鶴は疲労を忘れ、ただよう湯気にほっと自分のため息を溶け込ませた。

「鎮守府にはもう慣れた?」

 煙る湯気の温度にまぎれて、翔鶴がぽつりとこぼした。慈しみをそのまま声にしたような、優しい口調だった。

「……うん。みんないいひとだし、楽しいよ」

「それならよかった」

「今日は失敗しちゃったけど」

「勝ってばかりじゃ艦娘は成長できないわ。負けて直して、強くなるのよ」

「うん……」

「いつか瑞鶴にもわかるときがくるわ。大丈夫よ、きっと強くなれるから」

「……うん。ありがとう」

 風呂という場所は、得てしてひとの本音を誘い出すものらしい。他愛のない[[rb:四方山 > よもやま]]話に花を咲かせるうちに、いつしか瑞鶴は当初の目的を忘れそうになっていた。しかし――、

「失敗しても平気よ。私も提督も、あなたの味方だから」

 その一言が、のぼせ上がった瑞鶴の思考を一気に現実へと引き戻した。

 提督。

 眠そうに煙草をふかすその横顔と、隣に立つ姉の姿。

 心の隙間に染み入る冷たい感情、わずかに覗く「暗いもの」の一端。

 いま、目の前にいる姉が、姿かたちのよく似た別人になってしまうかもしれないという恐怖。

 口にしかけた言葉を幾度となく飲み込み、ようやくそれらしいセリフを組み上げて、瑞鶴は姉に向き直る。

「翔鶴姉……あのさ、」

「?」

 姉は小さく首をかしげ、瑞鶴の瞳をまじまじと見つめる。

「その、提督のことなんだけど」

「提督の?」

「うん」

 まるで思い当たる節がない、という風情の翔鶴だった。こくりと唾を飲み下し、瑞鶴は、

「噂に聞いただけだから、違うときは違うって言ってね。翔鶴姉と、提督のことなの」

 と前置きし、話し始めた。

「翔鶴姉は提督の秘書艦でしょ。だから噂になってると思うんだけど、その」

 上手く言葉にできない自分がもどかしい。しかし言わねばならない。確かめねばならないのだ。その一心で瑞鶴は、

「翔鶴姉は、提督さんのこと……どう思ってるの」

 ついに言った。

 その瞬間、時間が止まった気さえした。ふわふわと明滅する視界の中、自分が口走った言葉の重みと不可逆性とを噛みしめる数秒間が、瑞鶴には数分にも数時間にも感じられた。

「提督のこと?」

「……うん」

 もう、戻れない。

「そうねえ」

 姉は容易には答えなかった。のんびりと頭上を見上げ、考え込む素振りを見せる。訊いたこちらが馬鹿らしくなるほどに、この鈍感な姉は何も察していないらしい。あまりのもどかしさに頭が燃えてしまいそうだった。

 瑞鶴は姉に倍する速度で思いを巡らせていた。彼女は何と答えるのか。その答えによって自分は何を思い、何を決断するのか。

 知らず鼓動は早くなる。

 自分の心音が聞こえる。

 やがてその音に、歌うような姉の声が混じる。

「提督は、とても素敵な方だと思うわ」

 素敵な方。その言葉を、瑞鶴は心の中で反芻する。

 それは何の解決ももたらさない言葉だった。あまりに間口が広すぎて、意味の捉えどころが見つからないのだ。

 そうじゃない、そうじゃないの翔鶴姉――叫びは胸のうちにわだかまるばかりで声にならない。声にならない言葉はつまり無であり、実質そこにないのと同じだ。

「……そうなんだ」

 結局口からこぼれ落ちたのは、そんな空虚な台詞だけだった。

「……提督はね、」

 翔鶴は言う。ゆっくりとしたその口ぶりに変わりはない。まるで瑞鶴の声など聞こえなかったかのようだ。立ち込める湯気は、あたかも霧のように互いの感情を遮断する。

「本当はとても優しい方なの……って言っても、あまり実感は湧かないと思うけれど。でも、どれだけ表に出てこないことでも、側に立って見ていると透けてくるものなのね」

 夢見るように、昔を懐かしむように姉は語る。胸を締めつけられるような痛みが瑞鶴を襲った。彼女の紡ぎだす一言ひとことが、いまや瑞鶴という少女に向けられた無数の刃物の切っ先だった。

「だから、私だけは知っていなきゃって思うの。提督のそういう、繊細な部分を。……本当は強くない人だから」

 瑞鶴は確信していた。やっぱりそうだ。翔鶴姉は提督が好きなんだ。それはもう、私なんかじゃどうにもならないことなんだ。

 しかしその落胆とは裏腹に、瑞鶴はどうしても確かめずにはいられなかった。それは自分にさえ歯止めのきかない、正体不明の感情の暴走だった。

「……翔鶴姉はさ、」

 どこも見ないように、濁った水面だけを見つめるようにして、言う。

「提督のことが好きなの?」

 しばしの間をおいて、姉の返答があった。

「ええ、とても」

 翔鶴は笑っていた。

 それは本物の表情だった。誰より純粋で、混じり気のない、ゆえにその輝きで誰かを傷つけてしまう心のはたらきだった。

「そう、なんだ……」

 聞かなければよかった。確かめなければよかった。――思わないようにと決めていた感情が、後から後から溢れて止まらなかった。

 少しだけ、泣きそうでもあった。

「私、出るね」

 言葉少なに言い捨てて立ち去ろうとするその背中に、しかし、翔鶴は声をかけた。

「瑞鶴……?」

 姉は何かに気づいた様子だった。けれどその「何か」が何なのかまでは思い至っていないらしい。

 でも、それでもいい、と思った。

「……ありがとう、いろいろ話してくれて」

 背中越しにつぶやく。通り一遍の感謝が、むなしい響きを伴って空気に溶けた。

「でも、」

 そして、瑞鶴は言った。

「私たぶん、翔鶴姉のことちゃんと見られそうにないや」

「瑞鶴……」

「じゃあね」

 半ば逃げ出すようにして、瑞鶴はその場を後にする。

 冷たい床を踏みしめる足は、後悔の針で血だらけだった。

 

 あまりに広すぎる浴場に翔鶴はひとり、取り残された。

 瑞鶴は行ってしまった。彼女のあの言葉がどこから来るものなのか、その真意を知ることは、ついにできなかった。

 自責の念が翔鶴を襲う。瑞鶴は相当思い詰めていたようだった。理由はいろいろあるにせよ、実の妹がそこまで追い込まれていながら、少しも気づけなかった自分が情けなかった。

 思い返せば確かにその「兆候」はあったのだ。

 たとえば宿舎での妹の振る舞い。勤務時間の違いから直接話すことは少ないが、それでもまったく言葉を交わさないわけではない。そしてその数少ない会話の中で彼女はときおり探るような目を見せたり、突発的に話題を変えたり、そのような不可解な行動を取ることがあった。どうということもないものとして翔鶴は流していたが、いまになって思えばそれは彼女なりの「サイン」だったのかもしれない。

 けれど、どうしたらいいのだろう。呆然、という言葉そのままに翔鶴は自分の行くあてを見失っていた。

 しかしその迷いも長くは続かなかった。

 ――追いかけなきゃ。

 漠然とした思いは、あるいは使命感に近いものだったのかもしれない。妹が迷っているのなら、姉は隣に立ってその迷いに立ち向かわなければならない。自分が落ち込む余裕はないのだ。

 素早く辺りを見回し、翔鶴は壁に取りつけられた防水式有線端末を外して声を吹き込んだ。

「すみません、高速修復材の使用を申請したいのですが……」

 ややあって、機械的な声が返答した。

『確認手続きを行います。登録コードとお名前をどうぞ』

「00731、正規空母翔鶴です」

『……照合完了しました。高速修復材の使用を許可します』

 小さく息をついて、翔鶴は端末を置いた。やがて翔鶴の浸かる湯船に淡い緑色がにじみ、同時に身体の疲れがみるみる取り除かれていく。

「……瑞鶴」

 立ち上がる。妹が何を感じ、何を考えていたかはわからないけれど、それでも、このままではいけない。

 と、浴場を後にする翔鶴と入れ替わりに、小柄な少女たちが駆け込んできた。第六駆逐隊の面々だ。風呂場としての側面を持つ入居施設には、傷のない艦娘もしばしば訪れる。彼女らもその類に違いない。

 無邪気な第六駆逐隊は、翔鶴の姿を目にするや否や口々に挨拶の言葉を叫び、湯船に飛び込んでいった。こうしてみるとまるきり子供だ。戦いの影など少しも感じられない。実に仲がいい。

 かすかな寂しさを胸中に感じつつ、翔鶴はその場を後にする。

 姉妹とは、家族とは、やはりかくあるべきものだ。

 

 肩にかかった髪を払う。まだしっとりと濡れていた。暗く人気(ひとけ)のない道を闇雲に歩き、突き当たりの階段を駆け降りる。

 肌を刺す冷気は刃物に似ている。まるで無数のナイフが吊るされた道を歩くかのようだ。進めば進むほどに痛みは増し、身体は傷ついていく。戻ろうにもそこには依然として刃物があり、痛みからは逃げられない。救いの道はどこにもない。つまりこの寒さは、いまの瑞鶴そのものを包む運命なのだ。運命の刃が、現実の風に形を変えて瑞鶴の肌を(さいな)んでいる。

 誰にも顔を見られていないのが唯一の救いだった。いま、自分は、とても正常と呼べるような顔はしていないと思う。仮に誰かの目に映れば怪しまれ、見咎められ、話を聞かれるかもしれない。そのとき自分が上手な嘘をつけるかどうかは半々だ。正直に言って自信はない。癇癪(かんしゃく)を起こして飛び出したくせに、後になってくよくよと悩むのが自分の悪い癖だと思う。けれど、癖は容易に治せないから癖なのだ――そんな言いわけさえ、いまは苦かった。

 足の進みに任せて歩くうち、いつしか海を臨む広場に出ていた。海面を半円状に切り取った、公園のような場所である。等間隔に並んだベンチとガス灯、敷き詰められたレンガの地面が少々牧歌的な印象を与える。軍港やドックのひしめく中央部から離れているため、当然のごとく人影はない。そうでなくても今日の主役は静寂だ。誰も、訪れてはこないだろう。ようやく落ち着ける場所を見つけた気がして、瑞鶴はいくつか並んだベンチのひとつに腰を下ろした。

 自分の意思とは無関係に、深い深いため息が出た。胸の奥に押し殺した緊張を、そのひと息ですべて吐き出そうとする精神の呼吸だった。風呂に入ったばかりの身体が、鈍い疲れを訴えた。

「……翔鶴姉」

 握った拳を膝にそろえ、うつむき気味に瑞鶴は漏らした。取り返しのつかないことをした――その思いだけが、心の中で空回りしていた。

 言葉は、言ってしまった後に捕まえて引き戻すことはできない。本質的に一方通行の代物だ。だから気をつけなければならないのだ。摩擦やいさかいの初めには必ず言葉がある。一度感情の火をつけて発砲してしまえば、言葉は必ず相手の心を傷つける。そんなこと、わかっていたはずなのに。

 いや、きっとわかっていなかったのだ。瑞鶴は思う。理解した事柄を実行できて初めて、それは「わかっている」ということになるのではないか。

 ――だからあのとき、私は何も知らなかった。

 無知という武器で、翔鶴姉を傷つけたんだ。

 一際大きな波の音が背後に爆ぜる。ついと後ろを振り返り、瑞鶴は、世界に空いた巨大な穴のような夜の海を見つめた。

 無言の一瞬が過ぎる。

 立ち上がり、少し高めに作られた手すりに身体をもたせる。この手すりが、言わば陸の最果てを示す標識だ。ゆるやかなカーブを描いて横に伸びる木材に両腕を載せ、重ねた両手に顎を置き、考える。

 いっそ自分が物言わぬ船のままだったら。

 光の届かぬ海底に沈み、魚の歌を聞きながら永遠の時を数える。それも悪くないかもしれない。そうしていれば、少なくとも不器用な言葉が誰かを傷つけることはない。ただ少し、水と孤独が身に沁みるだけだ。

 かつてはここに暮らす艦娘のほとんどがそういった運命を辿るはずだった。それが何の因果か、人の身体と心を与えられて自分たちはいま、ここにいる。どうしてそうなったのかは明かされない。理由だけがすっぽりと抜け落ちたまま、それでも彼女らは任務に従い、海に出る。そもそもが矛盾をはらむ存在ゆえに、ふと立ち止まったとき、艦娘は自己の存在理由の空白に気づくのだ。

 ――どうして私はここにいるのだろう。

 瑞鶴もまた、そのひとりだった。

 赤城は自分の思いを大切にしろと言っていた。けれど、本当に苦しい場面に立ったとき、心によみがえる他者の言葉は、やはりどこまでも他者の言葉でしかなかった。誰かを思うということが罪の色を含むのなら、心ある艦娘は一体、何を信じて進めばいいのか。

 海は波打つ金属のように重く、冷たく打ち寄せる。うつろな視界に水平線を探したが、暗闇に消えたそれはどこにも見つからない。

 冷えた手をじっと握り、また開いた。心ない海面を背景に、それはどこまでも白かった。

 この手が姉に触れていたこともあったのだ。

 かすれた夢のような記憶だった。無邪気な子供そのままの振る舞いで姉の胸に飛び込む自分。残っているのは印象ばかりで、細部はまるでピンボケしている。そのとき味わった感情の片鱗が、甘いような苦いような、独特の感覚を伴って瑞鶴の胸に蘇る。

 あの頃の自分にはもう戻れないと思う。

 ちょうど着ていた服を裏返すように、自分は、内側に隠していたものを余すことなくさらけ出してしまっている。聞き分けがいい、とは言わないまでも、どこにでもいる普通の妹として収まっていればこんなことにはならなかった、というのは確かだろう。

 この感覚は異常だ。

 ありきたりな姉妹愛などとうに超えてしまっている。姉を誰かに取られたくない、という気持ちがどうしようもなくはたらく。それは独占欲以外の何ものでもなかった。

 この感情は何なのだろう――と考えて、ふと瑞鶴は思い出した。

 彼女が見つめる夜の海に記憶のそれが重なり、二重写しの映像を作り出す。ここ最近のことだ。正確な日時は思い出せないが、夜ではないということは記憶からわかる。

 どうして忘れていたのだろう。

 瑞鶴はゆっくりと記憶の糸をたぐり寄せる。あのときの自分もまた、いまと同じように手すりを握って海を眺めていた。

 心を使うできごとが続いていた。言ってしまえば感傷的だったのだろう。勤務の空き時間を使ってふらふらと海沿いに歩き、たどり着いたのがこの場所だった。

 何となく足を伸ばし、何となくベンチに座り、何となく海に向き合った。この時期にしては珍しく、見上げた空の青色がくっきりとしていた。髪をなでる潮風が心地よく、暗いことを考える自分さえ忘れそうになっていた。しかしその一方で、何かぬくもりのようなものを求める自分もまた、心のどこかに存在するのだった。

 瑞鶴はこの記憶の行く末を知っている。髪を揺らしていた風がやみ、つかの間の沈黙が辺りを支配する。やがて彼女の背後にひとりの艦娘が立ち、寂しげなその背中にこう声をかけるのだ。

 

「ここにいたのね、瑞鶴」

 

「え……?」

 あまりな唐突さで、現実は彼女の元に帰ってきた。

 ふたつの声が聞こえていた。

 記憶のそれともうひとつ、消え入るような響きのその声は、彼女の背中にかけられたものだった。

 瑞鶴は振り返る。ゆっくりとしたその動きが、あの日と同じ軌道をえがいた。

 ――翔鶴姉。

 硝子(ガラス)を吐露するような繊細さで、瑞鶴はつぶやいた。

 姉はガス灯の光からこぼれ落ちた、あまりに儚い輝きのひとかけらだった。悲しげなその微笑は、わずかな風にも耐えられないように思われた。ほんの一、二回、まばたきをした次の瞬間には、彼女の姿はもうそこにないのかもしれなかった。

「どうして、ここがわかったの?」

 瑞鶴は尋ねた。声の震えが自分でもわかる。怖いのだ。姉に否定されるより早く、姉を遠ざけかねない自分が。

 翔鶴は一歩、瑞鶴に歩み寄ると、ほんのわずかに首を傾け言った。

「……お姉ちゃんだから」

 うつろな空白が瑞鶴の脳裏を占めた。

 ――そう、このひとは。

「追いかけてなんて、頼んだ覚えないけど」

 漠然とした拒絶の意思が、瑞鶴の背中を押した。

 心にもない言葉だった。

 けれど、こうして偽りの感情に自分を投影しなければ、とても痛みに耐えられなかった。

 伏せた睫毛の下、睨みつけるふりをして姉の表情を盗み見た。

 二秒見て、目をそらした。

 翔鶴は言った。

「頼まれなくてもするものでしょう?」

「――――」

 それは優しさに裏打ちされた、残酷すぎる感傷の発露だった。

「……翔鶴姉はずるいよ」

 夜風が、かすかにその強さを増した。

「そうやっていつもいつも優しいのは、暴力なんだよ。誰も翔鶴姉みたいに優しくなれないから、みんな、自分が嫌いになる」

 それでも翔鶴姉は悪くない。

 優しいだけだから。

 けれど、それはとてもずるいことだと瑞鶴は思う。

「……何があったの、瑞鶴」

 病人を労わるように翔鶴は言った。刺激すまいと思っているのだろうか。いや、そんな表面的な気遣いではありえない。もっと純粋で痛ましい、同情を超えた思いだ。

「話したくないって言ったら?」

「……聞かないわ。でも心配なのは本当よ」

 そうなのだろう。彼女の本心は真っ直ぐひとに伝わりすぎる。嘘なんて言えるはずがなかった。

 沈黙が降りた。

 まとまらない考えを巡らせつつ瑞鶴は思う。いま自分が欲しているものは何だろう。姉の隣に立ち、並んで歩く。それだけでは足りない。もっと近くで、触れあって、見つめあって。互いに服を選ぶのもいいかもしれない。姉にはどんな髪飾りが似合うだろう。考えるほどにわからなくなる。どこまでが姉妹で、どこからがそうではないのか。いまも自分の正面に立ち、綺麗な顔を悲しみに歪めているこのひとと――、

 私は、どうなりたいんだろう。

 ――恋愛。

 誰かの声がそう言った。

 不意をついて瑞鶴の脳裏によぎったその言葉。ともすれば見逃してしまいそうなそれを、かろうじて意識の先端に引っかける。

 場違いな言葉だと、頭の中ではそんな声が聞こえていた。けれどその常識を思い切って剥がしてしまえば、そこには思いのほか違和感を持たない自分がいるのだ。

 もう一度、心の中で同じ言葉を繰り返す。

 ある種奇妙な納得を伴って、その一言は瑞鶴の胸に落ちてきた。

「……私ね、」

 何か言おうと思うより先に口が動いていた。

「翔鶴姉が提督とできてるんじゃないかって聞いて、それで、あんなこと訊いたの」

 翔鶴は何も言わなかった。赤城さんと同じだ、と思った。

「その話を聞いたとき、私、すごく嫌な気持ちになった。最低……だよね」

「そんなことないわ」

「そんなことある!」

 押し殺した感情が、小さな叫び声になって飛び出した。

「……ダメだよ、翔鶴姉。そうやって優しくするから、私、勘違いしちゃうんだよ」

 瑞鶴は必死に涙をこらえた。しかし声ににじむ涙だけは、どうしても拭うことができなかった。

 赤城の言葉が蘇る。つい今しがたまでそれは、確かに他人の言葉のはずだった。

 あなたの心の正直なところを、大事にしてあげてくださいね――。

 いまではそれが、自分のもののように感じる。

 そして、瑞鶴は言った。

 

「翔鶴姉のことが好き。もう、どうしようもないくらい」

 

 きつく目を閉じていた。何も見たくなかった。熱くなる頬を悲しみが冷やし、伝わらない思いの不甲斐なさを噛み締める。

 向こう見ずの感情、向こう見ずの言葉。裏目に出るばかりで、ちっとも形になってくれない。

「……瑞鶴」

 見渡す限り暗闇の視界を、柔らかな温度が占めた。

 目を開けた。

 顔を上げた。

 吐息の触れ合う距離に迫った姉の顔は、その近さゆえに遠かった。

「私も好きよ、瑞鶴」

 ――違う。

「……そんなんじゃない」

 私は、手に入らないものが欲しいんだ――いまさら気づいたそれだけの事実に、心は押しつぶされてしまいそうだった。

 その思いが背中を押したのかもしれない。

 「……翔鶴姉、」

 目を閉じ、姉の顔に自分のそれを近づける。

 何が正しくて何が間違いかなんて、少しもわからなかった。

 あるいはそれは、好意という感情の引力なのかもしれなかった。

「…………」

 口づけの一瞬は、夢のように過ぎた。

「……こういう好きなんだよ、私の好きって」

 後悔は、消える寸前の炎の揺らめきのようだった。

 私は――、

 自分は、不幸な艦娘なんだと思う。

 誰かを好きになる自由さえままならず、こうして不器用に立ち振る舞わなければならない。まるで悲劇か何かの脚本だ。

 海には夜が溶けていた。小さな波の音にまぎれて、ときおり冷たい風が吹きすぎる。白と黒、あまりに違いすぎるふたりの髪が、暗い海を指して流れる。

 姉は我を失った瞳で瑞鶴を見つめている。けれど、そこに自分は映っていない。

 ――「妹じゃない」私は、あのひとの目に映ってくれない。

 いつしか涙を流している自分に気づいた。頬を伝い、伝ったそばから次々に地面へ吸い込まれていく水滴は、まるで自分から切り離された存在のようだった。

 ――ごめんね、翔鶴姉。

 声にならないつぶやきを残して、瑞鶴は姉の身体を離れた。

 離れようとした。

 それができなかったのは、手首を握る姉の手がそこにあったからだった。

「……待って」

 静かに抑えられたその声は、しかし、悲愴な決意に満ちていた。

 

「……待って」

 妹が遠くに行ってしまう――その直感だけが翔鶴の行動を支えていた。

「…………」

 ゆっくりと、瑞鶴はこちらを振り向いた。

 上目遣いにこちらを見つめる一対の濡れた瞳が、翔鶴の心を捉えて離さなかった。

「そんな顔をしないで、瑞鶴」

 無理に笑顔を作って翔鶴は言った。目尻にたまった妹の涙を指の背で拭い、努めて明るく振る舞おうと試みる。

「翔鶴姉……」

 複雑な表情だった。悔やんでいるようでもあり、救いを求めているようでもある。きっとそのすべてが正しいのだ。彼女の顔に映るもの、それがすなわち彼女の葛藤なのだろうから。

 そう、本当につらいのは彼女なのだ。

だからいまは、自分の感情は置き捨てなければならない。

「どうして……私、あんなことしたんだよ? 私たち姉妹なのに、家族なのに、気持ち悪いと思わないの?」

 瑞鶴の目から、一粒の涙がこぼれ落ちた。

 その悲しみの表情にさえ、どうしようもなく惹かれていた。

「気持ち悪いなんて、思うわけ……」

 翔鶴の目に涙がにじんだ。

 ――いけない。

「思うわけ……ない……」

 耐えられなかった。

 行き場をなくした感情の波が、堰を切ったように溢れ出した。

「翔鶴姉……?」

 瑞鶴の声が聞こえる。しかしその顔が見えない。どうしても見えない。

 だめだ、いけない、そう思ってはいても、一度決壊してしまったものを元に戻すことはどうあっても不可能だった。

 平衡感覚を失い、力なく地面にくず折れ、翔鶴は前後不覚に陥ろうとしていた。

 

 ――翔鶴姉が泣いている。

 その独白を他人事のように感じながら、瑞鶴は、自分がひどく冷静であることに気づいた。実の姉が涙を流しているのに、嗚咽を漏らしているのに、その原因はもしかしたら、自分にあるかもしれないのに。

 突如として訪れた冷静さ――それはいわゆる「冷めたこと」とは違った。こうして姉の姿を見つめるさなかにも、彼女のそばにいたい、彼女の声を聞きたいという欲求は確かに存在している。

 ただ、いまはそんな場合ではない気がする。

 それはある種の使命感に似た感情だったのかもしれない。

「翔鶴姉……」

 小さくつぶやき、瑞鶴はかつて姉がそうしてくれたように、彼女の身体を優しく、やわらかく抱きしめた。

 細い肩であり、小さな身体だった。こんな、本当なら守られるべきであるはずの身体で、それでも姉は自分のことを守り続けてくれていたのだ。

 彼女にだってつらいときはあったはずだ。しかしそのことに自分は気づかなかった。どころか甘えてさえいた。

 遅すぎる後悔が瑞鶴の胸に押し寄せた。いつの日も自分は自分の感情を押しつけるばかりで、相手がどう思うかなんて考えていなかった。さっきだってそうだ。そんな利己的な感情を指して自分は「好意」だの「恋愛」だのと思い込んでいた。間違っている、と思う。こんな独りよがりな愛情の押しつけを、どうして愛と言えるのか。

「ごめんなさい……瑞鶴」

 翔鶴が言った。

「どうして翔鶴姉が謝るの?」

 瑞鶴は続ける。

「悪いのも、迷惑かけたのも、全部私。ごめんね翔鶴姉。嫌だったよね、あのときも」

 ――この恋を終わりにしよう。

 瑞鶴の胸に、小さな決意の火がともった。

 好きなひとの笑顔は守らなければならない。自分がそれを奪う立場であってはいけない。もし自分がそれを破って欲求に従うようなことがあれば、

 ――私は、ただの邪魔者だ。

 深く息を吸った。

 覚悟が決まった。

 そのときだった。

「……違うの、瑞鶴」

 抱きしめた腕の中で、翔鶴の声が響いた。

 ゆっくりと、その身体が離される。

「私、瑞鶴のこと、気持ち悪いなんて思わなかった」

「え……?」

 幾分収まりはしたものの、彼女の声はまだ涙まじりだった。泣きはらした目元を隠すこともせず、言葉を搾ることにのみ意識を傾けている。

「ただ、どうしたらいいかわからなかったの。私は先輩で、あなたの姉で、女で――そういうことを考えているうちに、わからなくなって」

 訥々と語られる姉の言葉。いまひとつ要領を得ないそれらの台詞の節々に、瑞鶴はしかし、引っかかるものを感じていた。

 ともすればそれはただの思い込みなのかもしれない。違和感に名前をつけることなんてできないのだから、考えすぎだと打ち消してしまえばそれまでだ。

 ――けれど、本当にそうなのだろうか。

 姉の独白は続く。

「瑞鶴のこと守らないとって……ずっとそれだけを考えていたはずなのに、気がついたら利己的なことばかり頭に浮かんで、」

 私、もうどうしたらいいのか――。

 透明なしずくが、翔鶴の瞳を再び濡らした。

「……翔鶴姉」

 早鐘のような鼓動の早さに、唐突に気づく。

 ――そんなはずない。

 しかし、打ち消せば打ち消すほどにその期待は脳裏を占めた。どうしてこの期に及んでそんな想像が膨らむのか。自分のことを考えるならば、何より姉のことを思うのならば、こんなことを考えてはいけないのに。

「あのとき瑞鶴に触れて、私、確信したの。やっぱりこの感情は本物だった。嘘だったらよかったのにって思ったけど、でも駄目だった」

 そして、翔鶴は言った。

 

「あなたのことが欲しいって、ずっとそう、思っていたの」

 

 何もかも夢のせいだと思うことは、ついにできなかった。腕に伝わる確かな体温が、どうしてもそれをさせてくれなかった。

 それはまさしく瑞鶴の求めていた答えだった。そうなってくれればどんなによかったかと、思い続けてやまなかったひとつのハッピーエンドだった。

 けれど、いざそれを目の前に無造作に放り出されてみると、簡単なことではその事実を受け入れられない自分がいた。

 姉はあまりに傷つきすぎたのだと思う。互いが互いに同じ感情を抱いているとも知らず、無理にそれを押し殺そうとして失敗し、いつしか彼女はボロボロになっていたのだ。

そんな悲しいことがあってはならなかった。

 たった一度、そう、たった一度だ。思いを心に隠すことなく、通わすことさえできていればこんなことにはならなかった。

 これ以上姉につらい思いをさせてはいけない。

 その一心だった。

「……いいよ」

「え……?」

 姉の身体から離れ、瑞鶴は言った。

「たとえ姉さんらしくない翔鶴姉でも、私、全然構わない」

 あんまり私を見くびらないで。

 私の「好き」はそんなに簡単じゃないから。

「瑞鶴……」

 言ったあとで、自分がとても恥ずかしいことをしているという認識に至る。

「い、いや、あの、これはかっこいいことを言いたいとか見栄を切りたいとかそういうのじゃなくて、その」

「瑞鶴」

 目を白黒させる瑞鶴に、翔鶴が言った。

「ありがとう」

 その声に、もう涙は混じっていなかった。

 ほっとする。

「……この先、いろいろなことがあると思う」

 一語一語を確かめるように瑞鶴は言う。

「私たちは恋人だと思っていても、周りから見ればやっぱり姉妹だから。拒絶されたり、嫌な思いをすることはたぶん避けられない、でも」

 息を吸う。

 この言葉が、ちゃんと彼女に届くように。

「私たち、ひとりじゃないから」

 きっと、綺麗に笑えていたと思う。

「……ええ」

 翔鶴の表情もまた、輝くような笑みのそれに変わる。

 煌々と夜を照らす月は、空に浮かんだ真白な窓のようだった。

 

 自分はずいぶん変わったと思う。本部のエリートコースを早々にドロップアウトしてからこちら、地方の一鎮守府に移りいろいろとやってきたが、初めのうちは酷いものだった。

 当時の自分を指して提督と呼ぶことは不可能だったと思う。

 どれだけ仕事をこなそうと給金は同じ、という理由から仕事をサボり、そのたびに秘書艦に怒られた。もちろん改心などしなかった。左遷の毒気に当てられ心まで役人に堕したか――耳に入るそんな噂もどこ吹く風、退廃的な日々を送っていた。いまもそうだが、赤城や長門には迷惑をかけた。

 それがどうだろう。立派とは言わないまでも自分は変わった。もしかすればそれはただの勘違いで、いまも昔も自分は自分のままなのかもしれないが、それでも艦娘をただの兵器と見下すようなことはなくなった。彼女たちもまた自分と同じ、血の通ったひとつの命なのだと思うようになった。

 きっと自分は怖かったのだと思う。失敗をおそれ、努力が報われないことをおそれ、情の移った相手がいなくなることに怯えて動けなくなっていたのだ。

 孤独の殻にこもることが唯一身を守る手段だと、そう信じて疑わなかった。

 そんな殻を打ち破ってくれた艦娘の存在は、だから自分なんかよりもよほど偉大で素晴らしい存在なのだ。

 それがいつだったのかはわからない。けれど、いつしか自分は変わっていた。ふとした一瞬、自分は殻の外にいた。

 人並みに仕事をし、人並みに恋をした。

 そしていま、彼は人並みの失恋を経験しようとしている。

「柄じゃない、ってことなのかねえ」

 二本目の吸殻を夜の海に放った。小さな赤い火は冷たい水面に呑み込まれて消えていった。俺の存在もこんなもんだな――乾いた笑いとともに益体もない考えを巡らせてみる。

 しかし本当なのだ。すでに三十路を越えたオジサンの枯れ具合に比して、艦娘たちのパワフルさにはいつも驚かされる。

 そんな彼女らが、彼女らなりの価値観で恋をしようとしているのなら、そこに自分の言葉が入る余地なんてないのだ。

「ったく、こんなもんまで作っちゃってよ」

 制服のポケットから、丁寧に折りたたまれたそれを取り出す。

 覚悟を決めて、一息に握りつぶした。

 それには彼の名前が記されていた。しかしそこに彼女の名前はなかった。

 いま、この瞬間に永遠の未完成を宿命づけられたその書類は、彼の手を離れて暗い海原に消えていった。

 広場は半円型をした、牧歌的なレンガ造りの空間である。

 陸の最果てを示す木の手すりに両腕をつき、提督は世界に空いた巨大な穴のような夜の海面を見つめた。

 まぎれもなくこれは失恋だ。孤独な男やもめが年甲斐もなく乙女に恋をし、そして敗れた。それだけのことだ。

 思いを告げる前に終わる恋なんて、最高にかっこ悪い。一昔前の自分ならショック症状を起こして、ところ構わず辺りに反吐を撒き散らしていたことだろう。

 しかし自分は変わった。それがいいことなのか悪いことなのか、ときおりわからなくなることもある。だが今回に限っては、年を取るのも悪くないと思う。

 何せ、他人の幸せでこんなに煙草が美味いんだから。

 

 日記をつけることにしました。提督に何か仕事はありませんかと聞いたとき、「日記をつけたらどうだ」と言われたのがきっかけです。日記を仕事として与えられるなんて、何だか見習いの駆逐艦みたいで笑ってしまいます。それだけ平和ということなのでしょうか。

 この日記は鎮守府の公式文書というわけではないので、私の感じたことや経験したことを自由に書くことができます。いままで書きものといえば軍に関係する書類ばかりだったので、こうした個人的な備忘録を書き記すのは新鮮な体験です。誰かに読んでもらうためのものでもありませんから、この先赤裸々なことを書くことになるかもしれません。それはそれで少し楽しみでもあります。

 さて、今日も鎮守府は平和です。もちろん演習も出撃もありますが、現在、深海棲艦との戦いは小康状態に入っています。みなさんが轟沈の危険から少しでも離れられるのは純粋に嬉しいことです。このまま戦争が終わってしまえばいいのに、とも思います。けれどもちろん、そんなことはないのでしょう。戦いはいつか必ず激化します。つらい別れを経験するかもしれません。私はただ、この平和が少しでも長く続くことを祈るのみです。

 ここまで書いて、ふと書き添えておかねばならないことを思い出しました。妹の瑞鶴のことです。妹が、私の恋人になったあの夜からそろそろ三ヶ月が経とうとしています。私たちの関係についてはまだ鎮守府のみなさんには話していません。なにぶん難しい問題ですから、軽々しく打ち明けることはできないのですが、然るべきときが来ればそのときは言うつもりでいます。いまのところはまだ、私たちは仲のよい姉妹としか思われていないようですが、いつまでも隠しているのは後ろ暗いことです。近いうちに瑞鶴にもこのことを話さなければならないでしょう。

 何だかあまり日記とは呼べない内容になってしまいましたが、初めはこんなものなのかな、と思うことにします。日記のような簡単なものにもやはり向き不向きがあるのでしょうか。瑞鶴だったらどんな日記をしたためるでしょう。少し気になります。

 最後にふたつだけ、ここ数日のニュースを書いて今日の日記は終わりにしておきます。

 ひとつめ。瑞鶴が新たに秘書艦になりました。私と彼女の共同体制です。元々控えめな仕事を半分にするのですから時間はさらに空くでしょう。瑞鶴は「翔鶴姉と一緒の時間が増えて嬉しい」と言っていました。かわいいなあ、と思います。

 ふたつめ。これは私を含めた一部のひとにしか知られていないのですが、提督が私たちに特注のペアリングをあつらえてくださいました。指のサイズもぴったりです。いつの間に測ったんだろう、と思いますけれど、それよりも何よりも私と瑞鶴は嬉しさでいっぱいでした。

 勤務中はつけられませんから、宿舎でふたりきりになったときにこっそり()めて楽しんでいます。いつか人目もはばからずにつけられたらいいわね、と話しています。


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