Angel Beats! ―SCHOOL REVOLUTION― 作:伊東椋
私はある日、光の蝶を見た。
それは唐突に、私の見る世界に入ってきた。
それはとても小さくて、本当に大した事の無い、突然ではあったけどそれ程気にするものでも無く。
私はただ、ひらひらと飛ぶ光の蝶を、特に考えることもなく眺めていた。
―――でも、それが全ての始まりだった。
その日から、私の人生は闇にじわじわと喰われていったのだ。
私は弓道の名門家の娘として、弓と共に過ごす毎日を小さい頃からおくっていた。
代々弓道を名門として引き継がれてきた御家柄から、私も大きな期待を背負い、いつも弓道に励んでいた。
お前には才能がある、と褒めてくれた父のためにも、私は、私を期待してくれる人たちを、裏切る事は絶対に出来ないと思っていたから。
だから私は努力に努力を重ねた。全国にも名を馳せられるような地位まで昇りつめ、数々の栄誉を貰っても、私は決して足を止めることはなかった。私がどんどん期待に応えていくと、父や皆の期待も、大きくなるばかりだった。
弓道のスポーツ推薦で高校に進学し、私は高校に入っても弓道部に入部し、その腕を振るった。私は高校生になっても、皆の期待に応えようと、弓を引き続けた。
「古式は本当に凄いな。 さすが、弓道の名門である古式家の娘だ」
私という存在には、必ずと言って良いほど、家の名も挙がる。私への期待は、私をここまで育ててくれた家に対するものと同じだと言っても良い。父からもそう教えられた。古式家のためにも、お前は常に強く、大きくなれと、幼い頃から言われてきた。
「うわー、見て見てっ。 古式さんが放った弓、全部真ん中を射抜いてるよ!」
「本当に古式さんって凄いよね」
同じ弓道部の仲間からも、期待を寄せられる。大会が近くなると、仲間が先生やとても優しく接してくれる。
「あれ? あの人、剣道部の……」
最後の弓を的の真ん中に当てた直後、不意に聞こえてきた仲間の声。私はふと、道場の出入り口に視線を向けた。
「…!」
一人の男の子が、そこにいた。道着を着ていることから、すぐ近くにある別の道場で部活をしている剣道部の部員であることはすぐにわかった。
その人は私の方を見ていた。
私が視線を向けると同時に、その人と視線が合う。
その人は私と視線が合うと、ふっとその場から離れてしまった。微かにお辞儀をしているように見えたのは気のせいではなかったかもしれない。
私と目が合った剣道部の部員の彼は、私も知っていた。
―――宮沢謙吾。
剣道部では凄腕の持ち主として有名で、彼の功績も度々耳にしている程。実家が剣道の道場を開いているせいで、彼も幼い頃から剣道一筋だと聞いている。
要は、その生い立ちは私とどこか似ていた。
でも、私はそれ以上に彼に関心を抱くことはあまりなかった。
「(見られた、かな……)」
彼と合った視線を思い出して、ぽつりと心の中で漏らす。
私はもう一度、弓を持つ。
その時。
「……ん」
微かに、視界に黒い紐が降りてきた。
しかしそれは少しの間だけで、すぐに消えてしまった。
今のは一体何だったのだろう。
しかしそんな疑問は一瞬の間だけで。
私は特に意識することなく、その後も弓を引き続けた。
ぼやけた白世界で深い霧の中にいる。
失明した者は、よく言う言葉だそうだ。
そんな思いを、私が味わうとは夢にも思わなかった。
でも、世界は非情だった。
私はとうとう、頻繁に光の蝶を見るようになった。
さすがにおかしいと思って、母と共に病院へと検査に行った。
そして検査の結果、私は医師から宣告を受けた。
「あの……今、何て……」
宣告を聞き、母と共に驚愕に打ちひしがれた私は、震える声で目の前にいる医師に尋ねた。
医師ははっきりと言った。
私は目の病気にかかっている。今まで見てきた変なものもその病気の症状で、病気は既に深刻に進んでいる。
それを聞いて、私は愕然となった。
眼。
病気。
症状。
深刻。
それらの単語が、繋がり何を意味するのか。
「……治り、ますよね……?」
恐怖に震えながら、私は必死の思いで訊ねる。
でも―――
「誠に残念でなりませんが、既に手の打ち様もない程症状が進んでいます。 失明されるのも、時間の問題かと……」
「………………」
母が隣で泣き、私は涙が出なかった。
もう見えなくなると言われた私の瞳は、既にその機能を失っているかのように、涙を落とすことはなかった。
そして、私は光を失った。
私の目に襲いかかった病気は容赦なく私の視界を、そして生きがいを奪った。目が見えなくなっては、もう弓は引けない。生きがいだった弓道の世界に、私は生きる術を完全に失った。
私に大きな期待を寄せていた人たちも失望した。父は病気で視力を失った私に寄せていた期待を裏切られたことで、やり場のない怒りと絶望を抱えていたと思う。それが原因なのか、家の中も少しずつ揺らぎ始めていった。古式家を支えていた柱が、大きく揺らいだ。
視力を失った翌日から、登校する私の右目は白い眼帯に覆われていた。私を期待していた弓道部も、私が弓を引けなくなった事で、私の居場所は無くなった。私に優しく接してくれた仲間たちは、あくまで同じ部員というだけで、そこまで親しい友達というわけではなかった。私が視力を失った時から、弓道部の仲間たちと接することは当然のように無くなった。
というよりは、私の方から離れたと言っても良かった。弓が引けなくなった者は、弓道部にいても意味がない。私は退部届けを提出すると、二度と弓道部に関わることはなかった。
これから私はどうやって生きていけば良いのか―――
私が背負っていた色々な人たちの期待を裏切ってしまった。生きがいでもあった弓道を失った私に、生きる意味など無くなっていたのだ。
私は無意味な日々をおくる。制限された視界に慣れようとし、ただ登校し、ただ息をするだけの、全く無意味な生活を。
私には親しい友達はいない。弓道一筋だった私には趣味も無い。こんなつまらない人生を、私はおくることになった。
そんな無気力な毎日をおくっていたある日、二度と関わることはないと思っていた弓道部の仲間が、私に声を掛けた。
弓道部を退部してから姿を見せなくなった私を心配して、私の相談相手を捜していたと言う。
そして私は、弓道部の仲間の紹介で、ある人と出会った。
「初めまして、になるのか。 俺は剣道部の、二年生の宮沢謙吾だ。 よろしく」
「……宮沢、さん」
あの日、私と目が合った剣道部の人。
それから、私は宮沢さんを相談相手とした日々が始まった。
宮沢さんは私の相談相手として、いつも私と話してくれた。宮沢さんのことは学校内でも有名だったから、名前と噂だけは知っていた。家が剣道の名門で、道場を開いていることから幼い時から剣道の稽古に励み、今や誰にも負けない剣道部の有名人であると。
学内では、弓の古式、剣の宮沢と並ばされるほど、私たちは似ていた。
「古式は、何か趣味はないのか?」
「趣味、ですか……」
いつもの昼休み、私は宮沢さんとお昼を一緒にさせてもらいながら、会話をしていた。
「私は昔から弓を一筋にしていたので……特にありません……」
「そ、そうか……」
「……すみません」
「いや、古式が謝る事なんて何もない」
「宮沢さんの趣味は何ですか……?」
「お、俺か? そうだな……俺は、その……読書だ」
「読書、ですか……?」
「ああ、似合わないとは思うが俺は読書を嗜む。 読書は良いぞ。 古式もどうだ?」
きっと宮沢さんは、私に弓道以外の生きがいを持ってもらおうと、私に他の趣味を聞いてきたのだろう。でも弓道一筋だった私は無趣味過ぎた。そして私からの問いかけに、宮沢さんは読書だと答え、私にも薦めてくれた。
私は宮沢さんを見て、すぐにそれが嘘だとわかった。宮沢さんがそんな趣味を持っているなんて聞いたこともないし、宮沢さんの事を見ているだけで、わかってしまうから。
でも、宮沢さんはいつまでも私の話相手になってくれた。
「私、今まで弓道一筋で……ただ、弓道だけを頑張ってきたんです……家や皆の期待を背負って……でも、私は全てを裏切ってしまいました……」
こんな私の言葉だって、宮沢さんは真摯に耳を傾けてくれた。そして、宮沢さんは嘘を吐くこともなく、思ったことを言ってくれる。
「……宮沢さん、こんな事を聞くのは失礼だというのは承知です」
「聞こうか」
「―――もし、宮沢さんが私のように、生きがいを……剣の道を断たれてしまったら、どうしますか?」
こんなことを聞くのは、剣道の道に生きる宮沢さんに無礼だということは自分がよくわかっていた。
私も、かつては弓道を一筋に生きてきたから。
それなのに、それを失ったらという事を聞くのだ。変に思われるのも仕方がない。
でも、私は聞かずにはいられなかった。
「……剣の道を断たれたら、か」
「……………」
「俺だったら……遊ぶな」
「遊ぶ……?」
「ああ。 例えば腕を折って剣道が出来なくなったとしても、それが永遠なものになってしまったとしても、俺は遊ぶだろう。 剣道が出来なくなったのであれば、別の事をすれば良いだけの話だからな」
「……………」
生きがいという程の大切なものが失われた時、そんな単純に済ませるものだろうか。
少なくとも、私には無理だった。
でも、宮沢さんは言い続ける。
「勿論、剣の道を捨てるわけではない。 剣への想いは、以前より変わらないだろう。 だが、俺はきっとこうする。 仲間たちと馬鹿やって騒いで、自分が馬鹿になったみたいに、何に対しても笑うんだ。 悲しい思いを塞ぎこむようにな」
「……………」
宮沢さんの言っていることは間違っていないのだろう。もし宮沢さんが剣の道を断たれたとしても、本当に宮沢さんは今、言った通りになりそうだ。実際に、宮沢さんの周りには大勢の友人がいることは、学内でも有名だったから、私も知っていた。
確か、リトルバスターズという団体だっけ……
「羨ましいですね……」
私はぽつりと、宮沢さんに聞こえないような声で小さく呟いた。
「古式はいないのか? そうやって騒げる友達は」
「友達はいます……でも、皆弓道部の人たちばかりで……」
「そうか……」
それに、私は昔から弓道一筋に生きてきたから、最近の若い娘たちが興味を持つような話題は正直付いていけなかった。昨日見たテレビ番組の話も、芸能人の話も、ファッションの話も、漫画やドラマ、映画などの話も。
「……だから、今こうして接する事が出来るのは、宮沢さんだけです」
私は周りの娘たちと違って、全然女の子らしい所など持たない。弓道に生きる者として、女の子らしい趣味は一切持ち合わせることはなかった。私自身も必要だとは考えなかったし、弓があれば十分だったから。
でも、私はその弓を失った。
「……私、ふと思うんですよね。 このままで良いのか、って。 でも、何も出来ないんです。 ただ、ぼーっと生きるだけの毎日。 学校にいる間はまだマシです。 授業を受けて余計な事を考えずに済むから。 でも、放課後になって……部活をしている人たちの音や声を聞いていると、切なくなるんです。 そして弓道部にいた頃を思い出してしまう。 私はいつも逃げるように寮に帰りますが、夕食の時まではする事がないので、その日の復習をやって……そして夕食を食べたら、次の日の予習をして……でもそれも終わってしまえば、本当にする事がなくなるんです。 後は、寝るだけです。 そして私はいつも思います。 まるで、息をするだけのようで……無意味に生きていると思えて、仕方がないんです」
「古式……」
「……すみません、長々と私なんかの話を聞いて頂いて」
「いや。 これが俺の役目だ」
宮沢さんは真剣に私の話を聞いてくれる。
でも、私は宮沢さんにいくら話しても……私に灯る明かりは弱いままだった。
こんな事、宮沢さんに悪い事だって言うのはわかっている。
でも、私はやっぱり、絶望の淵に落ち込んだままなんだ……
希望が見えない。
私の右目は、何も見えないから。
「……お前は、俺の知っている奴に少し似ている」
「え……?」
「かつて今の古式のように、暗闇に引き籠っている奴がいた。 でもそいつは、今ではしっかりと自分の足で歩く事が出来ている。 まぁ、まだ心配な所はあるがな……」
「……だから、私の力になろうとしてくれているのですか?」
「勿論、俺が古式の力になりたいと自ら思っているからだ」
「宮沢さんが……?」
「少しでも、俺は古式の力になりたいんだ……」
宮沢さんの真摯な瞳が、私を真っ直ぐに見詰めてくれる。
でも、それでも……
「……ありがとうございます、宮沢さん」
私は、やっぱり……
「宮沢さんの気持ちは嬉しいです。 でも……」
見えない。
前まで、見えていたものが。
「私は……やっぱり、見えない……」
私は顔を下げ、肩を震わせる。
そんな私を見て、宮沢さんは何も言わなくなった。
私はただ、宮沢さんの隣で、肩を震わせるだけだった。
私の人生は、視力を失ったあの時から、既に終わっていたんだ……
私は一人、食堂で寂しく食べる。
周りはそれぞれグループで食事を楽しみ、喧騒が包まれている。
そして彼も―――その一人だった。
喧騒の中心で、特に騒いでいるとある一団。その中に、宮沢さんはいた。
私と似ている宮沢さんは、私が持っていないものを持っている。
宮沢さんは私の存在に気付いたけど、私は気付かないフリをする。宮沢さんは、あんなに良い友達を持っている。それを改めて知ると、何故かここには居られなくなった。
この気持ちは何だろうか。
私はすぐにその場から立ち去った。もう一度、宮沢さんが私がいた場所に視線を向けていたが、既に私は食堂を逃げるように飛び出していた。
やっぱり私は、宮沢さんのようにはなれない。
私は、弱い。
宮沢さんのように、楽しく騒げる自信がない。
何もかも、自信がない。
私はとても弱かった。
宮沢さんは、またいつものように私の相談相手になってくれる。
でもそれは、宮沢さんの貴重な時間を私が奪ってしまう形にもなっていた。
剣道部はそろそろ大会が近いと聞いた。宮沢さんは剣道部のエースとして大会に向けて練習に励まないといけないはずなのに、そんな貴重な時間を削ってまで、私に会いに来てくれた。
私はその事でいつも謝っているのだが、宮沢さんは「気にするな」と、いつも優しく返してくれる。
でもそれが逆に、宮沢さんへの申し訳ない気持ちが膨らむばかりで、苦しかった。
私は、周りに迷惑をかけてばかりだ。
私が弓道が出来なくなったことで、私に期待していた父を中心に、家の中は変わってしまった。私が視力を失ってからは、実家に帰ったのは一度きりとなり、もう家に帰ろうとは思わなかった。
私は……いらない娘だ。
そして私は、決意した。
酷い決意を。
ある日、私は授業を無断欠席して学校の屋上に昇っていた。普段は立ち入り禁止とされている屋上は、弱い風が吹いているだけで何もない。私はふらふらとした足取りで、屋上の端に向かった。
柵を乗り越え、地上から数十メートル離れた場所に立つ。指の先まで、言い様のない微かな寒気が伝わる。ここから一歩でも前に進もうとすれば、真っ逆様に地上に落下するだろう。
そして、助かる保障もない―――
私は自分で、全てを片付ける決意をした。
弓道部の仲間たちや家族、宮沢さんには申し訳ないと思う。
でも、私はやっぱりこうして生きている事が耐えられなかった。
自ら命を断って楽になると言う、酷い決意を抱いた私は、人知れず、その身を投げ出そうとする。
その時―――
「君ッ! 何をしているんだッ!」
「…ッ!?」
突然聞こえてきた大人の声。振り返ると、教師たちがいた。柵の向こう側にいる私を見て、教師たちは愕然とした表情を浮かべた。教師たちは各々に、そこを動くなとか、考え直せとか、説得を口にしながら慎重に私の方に近付いてくる。
「こ、来ないで……」
「落ち着くんだッ! 馬鹿なことはやめろッ!」
「嫌……」
近付いてくる教師たち。
このままだと、また皆に迷惑をかける。
私は、これ以上―――
その間、私がどれだけ呆然としていたかはわからない。
ただ、柵を乗り越えた教師の一人が、私を捕まえようと手を伸ばしかけた所で、私は意識を取り戻した。
「嫌……ッ!」
私はその手から逃れようとして、一歩、後ずさった。
そう、一歩……
ずるり。
「――――ッ!!」
私の足は、虚空へとずり落ちる。
紐が解かれ、黒髪が宙に広がる。
あっという間に、私の身体は無重力の空間に投げ出されていた。
そして―――重力に従って、私は落下する。でも、私が見える視界や、身体の感覚が、全てがスローモーションに感じた。
「あ……」
儚い声が、漏れる。
そして―――最後に映ったのは、光の蝶だった。
日の光が覆い、そして―――宮沢さんが、映し出される。
私が最期に見たもの、そして言葉にしたものは―――
「宮沢さん……」
「………そして、私は死んでこの世界にやって来ました」
周りを包む喧騒の中、私の話を聞いていた沙耶さんは、最後まで私の話を黙って聞いていた。
沙耶さんがどんな表情をしているのか、私には見えない。
「……これが、私の弱さなんです」
そう言って、私は眼帯をそっと触れる。全ての根源を。希望が見えなくなり、絶望の淵に叩きこまれた私の人生の象徴を。顔を下げた私の片目だけの視線の先には、冷めた肉うどんが佇んでいた。