Angel Beats! ―SCHOOL REVOLUTION―   作:伊東椋

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EPISODE.52 In Your Memory

 突然ハッとなって、目を覚ます。何時寝たのか覚えていないが、自分が今の今まで気を失っていたことは何となくわかった。

 体中が痛い。今がどういう状況なのか、何がどうなっているのか、冷静な判断力を取り戻すにはもう少し時間が必要である頭で、俺はぼーっとうっすらとした暗闇に映る電車の天井を見詰めていた。

 そうだ、俺は受験会場に向かうために電車で――――

 そこで、俺は思い至ったようにポケットの内にある携帯を取り出す。

 開いた携帯の液晶画面に浮かぶ時間を見る。

 「……やっべ、過ぎてるじゃん……センター試験……」

 声を出すのも精一杯だった。

 これじゃあ試験を受けることさえ出来ずに終わるな……と、俺は未だに思考が冷静に定まらない頭でそんなことを考えながら、力をふっと抜いていた。

 だが、静かすぎる静寂が俺の耳を、どこか変な匂いが俺の鼻を、それぞれ刺激する。俺はそこで大分今、自分に置かれている現実を掴みつつあった。重たい身体に再び力を絞り込み、ぐっと起き上がる。

 そして俺は立ち上がって、目の前に広がる光景を知って、愕然とした。

 正に声が出ないとはこの事だった。

 電車に乗っていた大勢の乗客が、薄闇の中で倒れている。積み重なるように、隙間を埋め尽くすように倒れた人々からは、呻き声が微かに聞こえてくる。だが、呻き声さえ出さずにぴくりとも動かない人も少なからずいた。

 目の前に広がる惨状に気を奪われていると、後ろから聞こえてくる金属音。

 振り返ると、そこには隣の号車からやって来たらしい男がいた。

 だが、俺が彼のぼろぼろな姿を見つけると同時に、男は崩れ落ちるように倒れた。

 「おい…ッ! 大丈夫か……!?」

 俺は足を引きずりながら、男の方に向かう。

 「少し……ふらふらする……」

 「額から血が出てる……」

 男の額から流れる血。すぐにその傷を確認すると、俺は破った布で止血を試みる。

 「意識は……?」

 「大丈夫……」

 外観からしてわかる怪我は額の傷ぐらいだが、まだどこかを傷つけているかわからない。おまけに頭というのは人間にとって最もデリカシーな部分だ。今が平気だったとしても、頭というのは決して油断はできない。

 「気分は……吐き気とかあるか?」

 「ッ……大丈夫……あんた、医者か?」

 「…まさか。只の学生だよ」

 俺は破った布で彼の頭を巻き上げる。これで止血はどうにかなるはずだ。

 意識はあるし、返事をする元気はある。

 「立てるか?」

 俺は彼に肩を貸しながら、彼の身体を起き上がらせる。

 とりあえずここを出た方が良いと判断したからだ。

 こんな場所じゃ、まともに怪我を見ることだって出来ない。

 俺たちは扉を蹴り破り、何とか車外に飛び降りる。俺の後に、続いて彼も飛び降りるが、着地と同時に足をふらつかせる。俺は咄嗟に倒れそうになった彼を支えた。

 「大丈夫か?」

 「ああ、すまない」

 彼はそう言って苦笑を浮かべるが、やはりまだ調子は悪そうだ。

 「…ッ!」

 そして俺は、外に出て、その光景を目の辺りにする。

 いや、ここはまだ外じゃない。

 崩れた瓦礫、覆い尽くすトンネルの壁。傾き、破損した電車。それらが全て、俺たちが今置かれている状況として物語ってくれていた。

 「ひでえ……」

 「ああ……兎に角、助けを呼ばないと……」

 だが、開いた携帯は圏外。

 「くそ…!」

 中に閉じ込められ、こちらから助けは呼べない。最悪だ。

 だが、今、俺は他にしなければならないことがある。

 「中にいる人たちを助けよう」

 電車の中には巻き込まれた大勢の乗客が取り残されている。あんな悲惨な状態だ。自力で動けない者も大勢いるだろう。

 俺が電車の方に歩き出すと、そばから掛けられる声があった。

 「手伝おう」

 彼の言葉に、俺は驚く。

 「大丈夫なのか?」

 「…まだ少しふらつくがな」

 そう言って、彼は苦笑する。

 「五十嵐だ」

 彼は自己紹介と共に、握手を求める。

 俺も自分の名前を返しながら、それに応える。

 「急ごう」

 それが、始まりだった。

 閉じ込められた世界で、俺たちの、長く苦しい戦いが――――

 

 

 俺と五十嵐の二人から始まった救助作業は、進むに連れてその規模を少しずつ大きくさせた。動ける者は動けない者を助け、車外まで連れていく。そして使える物を極力使って怪我の手当てを行った。中には重傷の者もいたが、応急手当てが精一杯だった。

 そうして、みんなの協力もあって、電車から降りれる者はほとんど降りることが出来た。だが、周りから漂うのは絶望と悲しみだ。これからどうなるのか、助かるのか、そんな不安がこの場にいる人々の内に充満している。

 「……………」

 俺はそんな空気を振り払うように、ある場所を目指して足を上げることにする。

 「出口を見てくる! 出られたら、助けを呼んでくるッ! そうしたら必ず戻ってくるから。 ライト、少し借りてくな!」

 「ああ、頼むッ!」

 トンネルは長い。まだ闇の先がどうなっているのかは未知数だ。

 もしかしたら出口があるかもしれない、そんな淡い希望を抱きながら、俺は闇に向かって歩を刻む。

 「音無ッ!」

 「?」

 俺を呼び止めたのは、一緒にみんなを助けるのに協力してくれた五十嵐だった。

 五十嵐は笑みを浮かべると、高く響き渡るように言った。

 「絶対助かろうッ!」

 その言葉が、周りの不安とは異色で、故にそのまま吹き飛ばしてくれそうな淡い希望だった。

 そして俺はその希望を助長するように、

 「ああッ!」

 と、高らかに返すのだった。

 そして俺は再び歩き出す。天国か地獄か、どちらか待っているかのような闇の先へと。

 

 ―――しかし、現実は非情だった。

 長いレールの先を目指して歩いた俺の目の前には、ライトの光に照らされて浮かぶ瓦礫の山が立ち塞がっていた。

 携帯を開いてみても、圏外の表示は変わらない。

 どこかに出口はないかと辺りを見渡すが、隙間なく瓦礫で塞がれている。

 「くそ…ッ!」

 俺は吐き捨てる。

 思わず腹に力が入って、突き刺すような痛みが俺の身に襲いかかった。

 「いッて…ッッ!」

 今更のように気付いたかのような、鋭い痛み。じわじわと固くて鋭い痛みが拡散していく異常な程の痛みが俺を蝕む。

 思わず膝を折り、立っていられなくなる程だった。

 携帯を落とし、俺は横腹を抑えながら項垂れる。

 尋常ではない痛み。どこかおかしい、そんな異変を感じる。俺は自分の横腹を確認するように、袖を掴む。

 「な……んだよ、コレ……ッッ」

 俺の目に映るのは、今まで見たことがない程に紫色に染まった自分の横腹。

 そこから俺の精神を撫で上げるように痛みがじわじわと広がっている。

 だが、その場で痛みに悶えるばかりにはいられない。

 痛みを堪えながら、俺は立ち上がる。

 とにかく、戻らないといけない。

 俺は足と痛みをずるずると引きずるように、元来た方向へと引き返した。

 

 

 戻ってきた俺の姿を見つけるや、俺の名前を呼びながら駆け寄ってくる五十嵐。その瞳には希望の光が垣間見えたが、それを見てしまったと同時に俺は申し訳ない気持ちに陥る。

 「どうだった?」

 「……………」

 俺は重たい口を何とか開きながら、俺が見てきたことをありのまま説明するしかなかった。

 「……そうか。 脱出は難しい、か……」

 「すまない……」

 「なに謝ってるんだよ? 音無は何も悪いことなんかしてないだろ。 むしろ、俺たちは音無に助けられてる」

 「そんなこと……」

 俺は、自分に向けられている数多の視線に気付く。

 それぞれの感情が表されたような瞳。落胆、絶望、苛立ち。中には無気力な瞳もいる。

 俺はそれらの視線に向けて、ぐっと足を踏み込む。

 「みんな、聞いてくれッ! トンネルは前も後ろも土砂で塞がっている。 携帯も繋がらない。 外との連絡も取れない」

 一瞬、ざわつく。

 だが、俺は続ける。

 「これからは一心同体。 一人だけ助かろうなんてことは考えないでほしいッ! 食糧と水を集めて、平等に集めようッ!」

 「ちょっと待てッ! 何時からおめぇが仕切ることになったんだぁッ!」

 「じゃあ誰が仕切るッ?!」

 俺の代わりに答えてくれたのは、五十嵐だった。

 「怪我人の看病の指揮を誰が取るッ! こいつには医療の知識がある。 まさか怪我人は放置なんてことはないよな?」

 「そ、それはないけどよ……」

 真っ直ぐにビシビシと言う五十嵐の言葉と威勢に、彼らはたじろぐ。

 辺りを見渡せば、他の者たちも五十嵐の言葉によって、今とこれからの現実を受け止めたかのように、素直に納得するような表情になっていた。

 俺は内心で五十嵐に感謝しつつ、俺も言葉を紡ぐ。

 「―――必ず助けが来る。 それまでの辛抱だ」

 そして最後のひと押しのように、俺は高らかに告げる。

 「一緒に頑張ろうッ!!」

 

 

 そして、俺たちのサバイバル生活が始まった。日の光は一切射すことはない閉じ込められたトンネルの中の世界で、俺たちは助けが来るまで生き抜こうとする努力を始めた。食糧は分け与え、水も同様だ。だが最低限の量で分割しても、俺たちの命を繋ぎとめるソレが尽きるのは時間の問題である。それもまた、百も承知の状態だった。

 だが、時は刻々と過ぎていく。そして同時に俺たちの食糧や水も減っていく。

 途中で耐えられなくなった奴がパニックを起こしたりと、何度も障害は当然の如く俺たちの身の周りに起こった。それは起こるたびに、確かに絶望や不安が俺たちの上に積み重なっていった。だけど、俺はめげなかった。いや、俺だけでなく、五十嵐や他の生き残った人々も、耐え抜こうとした。試練を乗り越えて、俺たちの絆は深まりつつあったのもまた事実だっただろう。

 「お前って、すげぇよな」

 俺は一番の重傷者の定時的な手当て(気休め程度にもならないが)を終え、そっと彼を寝かせつけた後、唐突に五十嵐がそんな風に声を掛けてきた。

 「何がだ……?」

 「いや…何でそこまで献身的なんだろうなって。 NPOにでも入って、海外にでも行く気か?」

 五十嵐はそう言いながら笑う。俺はその時、五十嵐にそう言う事を言われて初めて、心に蟠(わだかま)るものを覚えた。

 「いや、そんなつもりはないけど……」

 そもそも俺は、他人のために何かを尽くしたい思いから、医者を目指して勉強をしていた。

 そしてそれは、いつも病気がちで寝てばかりだった、かつての生きがいだった妹という存在がきっかけで―――

 「ま、お前みたいな奴がいたからこそ、俺たちはこうして生き長らえてるわけだけどな」

 「五十嵐……」

 「音無のような統率力があるリーダーがいなかったら、とっくに俺たちは絶望の淵に叩きこまれて、何もかも諦めてただろうよ……お前のおかげで、俺たちは僅かでも希望を持って、こうして助けを待つことが出来ているんだ」

 そう言って、五十嵐は俺に水が入ったペットボトルを差し出した。

 ある時、規則を破った一人の騒動で失ってしまった水。俺自身が失った水の分を負う事にしたのだが、結果的に五十嵐にもその負担を背負わせてしまっている。五十嵐はあの日から、俺に僅かな水を分け与えてくれている。

 「だけど、お前のような奴が無理をし過ぎて先にぶっ倒れるんだ。 自分の身体も大切にしておけよ?」

 「……ああ、ありがとな」

 俺は五十嵐の気の良い笑顔に応えるように、素直に生命の水が入ったペットボトルを受け取った。

 僅かな水だが、口にし、喉に通ると強い気を与えてくれるような潤いが流れ込んでくる。五十嵐の気持ちが籠ったその水は、俺に力を与えてくれた。

 美味い。

 本当に。

 「よし…」

 俺は沸き上がる気を握り締めると、立ち上がろうとする。

 まだ怪我人は他にも沢山いる。そいつらの方も見てやらなくちゃな……と、俺は足元をぐっと踏みしめ、ゆっくりと起き上がる。

 その時―――

 「―――ッ?!」

 鈍い痛みが電流のように体中を駆け廻り、俺はガクリと膝を折る。

 そんな俺の姿に怪訝な表情を浮かべる五十嵐がいた。

 「ど、どうした? 音無。 もしかして、どこか具合でも悪いのか……?」

 「大丈夫だ…」

 俺は装うように、精一杯の少し歪んでいるかもしれない笑みを浮かべる。

 「ちょっと、疲れで足がふらついただけさ……」

 「おいおい、だから言っただろ。 無理するなって」

 「ああ、そうだな……後で少し休むよ……」

 俺はまるで五十嵐から逃げるように、微かに震える足取りで、その場を後にする。

 五十嵐の気を掛けてくれているような視線に見送られながら、俺は密かに横腹を抑えつつ、歩を刻んだ。

 「……くそ。 まだ、まだ……駄目なんだよ……」

 俺は自分の身体にそう言い聞かせ、崩れそうな膝を必死に抑えながら、自分のやるべき役目に向かうのだった。

 

 

 「音無ッ! 音無ッ!!」

 俺は五十嵐の呼びかけに、閉じ込められてから夢を見なくなった眠りから目を覚ました。五十嵐の只事ではなさそうな声色を聞いて、俺は咄嗟に身体を起こす。

 「なんかやばいんだッ! 来てくれッ!」

 五十嵐を含めた数人がある場所に集まっている。あそこは一番の重傷者が寝かせ付けられている場所だ。嫌な予感がする。

 「……ッ」

 俺は横腹の痛みに襲われながらも、急いで立ち上がり、五十嵐の方へと駆け寄った。

 五十嵐たちが囲んでいるのは、頭に目立ち過ぎる程に包帯を巻いた一番の重傷を負った男。いつもは壁に寄せ付けるようにしているのに、目の前の彼はぐったりと横たわっている。嫌な感覚が俺の指先を蝕む中、俺はその手で彼の身体を掴んで引いた。

 「―――!!」

 ざわっと震える空気。

 そこには、恐ろしい程に顔色を無くした男の顔があった。

 すぐに心臓の鼓動を確認するが、鼓動は聞こえず、呼吸によって起こる胸の上下に動く膨らみも全く見られない。口元から漏れるものは泡だけだ。それらの状況を知った俺が取った行動は、蘇生への対処方法だった。

 「……ッ! ……戻れ…ッ……戻れ……ッ!!」

 必死に彼の胸の中心を押しながら、俺は念じるように繰り返す。人口呼吸を試みても、彼が戻ってくる気配は全くと言って良いほど無かった。

 みんなが見守る中、俺は無我夢中でその行動を繰り返し、続ける。だが、その光景は見るに耐え難いものだったものかもしれない。

 「……ッッ! ……戻…れよぉ……ッ! ……ッッ!!」

 何時しか、俺の言葉は既に言葉ではなくなっていた。五十嵐に止められた時には、俺の口から漏れるものは、嗚咽へと変わっていた。

 「……くそ…ッ!」

 一人の死は、その場にいる全ての者に、初めての絶望の底を観覧させてみせた。

 そして俺は、崩れた足場から、一人で闇の底へと落ちていった。

 

 

 闇の海に落ちて、沈みながら、俺は思う。

 

 

 ―――あの日から、俺は何を頑張ってきたんだ?

 

 あいつに、初音に生きる意味を教えられて……

 

 それで……また人の命を目の前で失って……

 

 

 ……何も、変わっちゃいない。

 

 

 ―――俺は、無力なままじゃないか。

 

 あの日から、何も変わっちゃいないじゃないか―――

 

 

 くそ……くそ……ッ!

 

 

 

 

 

 

 あの日から、閉じ込められてからどれくらいの時間が流れたのだろう。

 

 最早それを覚えている者は誰もいない。むしろ、そんなものはどうでも良いとさえ思えてきた。

 遂に食糧や水が尽き、生き残った俺たちの体力も限界に近付きつつあった。

 冷たい場所に身体を寝かせ、出来るだけ残る体力を消耗させないように。

 だが、その身体はどの道動くことさえままならない。

 このまま朽ち果てていくのか。

 そんな結末が、俺たちの想像に生まれるようになっていたかもしれない。

 

 寝たまま、動けない。

 

 俺は、初音の事を思い出していた―――

 

 

 天気が良く晴れたある日、初音は調子が良かったらしかった。らしい、と言うのは本人がそう言い張っているだけだからだ。実際はいつもよりは咳が目立っている。

 「けほけほ…ッ」

 ほら、また咳き込みだした。

 「もう休んだ方が良いんじゃねえのか……?」

 だが、初音は拒否権を行使する。

 「もうちょっと読みたい」

 「……………」

 初音が読んでいるのは、いつものように俺が初音のために買ってきた漫画の雑誌だ。相変わらず適当に買ってきたものだから、前に買ってきた雑誌から続いているものなのか正直わからないが、それでも初音は俺が買ってきた漫画の雑誌を楽しみに読んでくれている。

 咳をしてまで、俺が買ってきた漫画の雑誌を読みたいと言う初音の意思に、俺は否定する権利を持たない。

 仕方なく、初音がしたいままにさせてやった。

 「仕方ねえな……」

 だが、そのままでは兄としての尊厳が許さない。

 「ほら」

 俺は溜息混じりに立ち上がると、着ていたジャンパーの上着を初音に羽織らせてやる。初音の小さな身体はすっぽりと収まった。

 「風邪でも引いたらことだからな。 でも、何で良くならないんだろうな?」

 「ドナーがいれば良いんだけどね……」

 「ドナー?」

 初音の口からは滅多に聞いたことがないような言葉の種類に、俺はやけに印象濃く記憶に残った。

 

 そう、初音はあの時、ドナーという単語を口にした。

 そして、その単語の意味する所を、俺は初音から教えられたことがある。

 医者の先生か看護師から聞いたらしい、ドナーという存在。

 それは―――他人が他人の命を繋ぎ止めるもの。

 

 「……五十嵐、サインペン……あるか……?」

 「………あぁ」

 俺はすぐそばにいる五十嵐からサインペンを受け取る。その行為でさえ、微々たる体力しか残されていない身には精一杯の事だった。

 俺は五十嵐からサインペンを受け取ると、自分の保険証を懐から取り出した。

 視界がぼやける中、俺は保険証の裏面に視線を定める。

 そこには―――臓器提供の文字が刻まれている。

 それは、自分の命が尽きた時、自分の死んだ身体に残された臓器を、生きるために必要としている他人に提供できる事を記したもの。そこに自分の意思さえ書き記す事が出来れば、たとえ自分の身体が死んだとしても、その身体は他の誰かのために役立てることが出来る。

 俺は迷わず、全ての欄に、震える手が持つペンで書き記す。

 「……ふん、全くよぉ……」

 すぐそばから、五十嵐の微かに笑い捨てるような声が聞こえた。

 そして、五十嵐もまた自分の保険証を手に持った。今度はそれを見た別の奴が、怪訝に疑問を投げかける。

 「んだよ、それ……」

 五十嵐は保険証の裏に書きこみ始めると、丁寧に答えた。

 「こうしておくと……自分の命が尽きても……それでも、その命が他人(ひと)のために使われる……生きてきた意味が作れるんだ……」

 五十嵐の言葉が、俺の耳に入ってくる。

 だけど、俺はそれをただ聞いているだけで。

 周りが俺たちと同じことを始めたことに、俺は五十嵐に言われるまで気付くことが出来なかった。

 「なあ……やっぱお前はすげぇよ……音無、見ろよ……あれだけ絶望していた連中が、誰かに希望を託そうとしている……」

 俺は、五十嵐の言葉に返してやることができない。

 答えてやることも、見ることも。

 「……お前が、みんなの人生を……救ったんだぜ……」

 ああ、そうか……

 俺は、成し遂げることが出来たのかな……

 これで俺は、叶えたかった事を、叶える事が出来たのかな……

 「音無……」

 もう、俺は空だった。

 あれだけ痛かった横腹の痛みも、もう感じない。

 痛みに耐えるために抑えていた手も、もう必要ない……でも、もうその手も動かすことが出来ない。

 力が無い手から、保険証とペンが音を立てて落ちる。

 俺は―――その音さえ、聞いていない。

 「なあ、音無……聞いてんかよ……」

 光が、射しこむ。

 石が崩れて落ちてくるような音と共に、光が俺たちの方へと射しこんでくる。

 「音無ぃ……ッッ」

 俺は、真っ白な光を浴びる。

 やっと、俺たちは外に抜け出せた。だけど、俺とみんなとは、意味が違った。

 俺は身体を包み込むような真っ白な光を浴びる。その光は世界を覆い尽くすように広がり、俺の意識をゆっくりと真っ白な世界の先へと吸い込んでいった。


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