Angel Beats! ―SCHOOL REVOLUTION― 作:伊東椋
古式みゆきにとって、弓は自己を象徴する全てだったと言って良い。それ程、私という人間は弓に育まれ、弓と共に生きてきた。しかし、その生きる全てそのものだったものは、あっけなく音を立てて崩れ落ちた。以来、私は魂が抜けた抜け殻のようなもの。
そんな私が、弓を引きたいと思うのは、一体どれくらいぶりなのだろうか―――
女子寮の部屋。普段なら授業中の時間帯なために、ルームメイトは不在で、私一人だ。殻の中に閉じこもるように、私は自室で一人、机に向かって一冊の本を開いていた。
それは長らく手に触れることさえなかった、弓道を書いた本。その心得や動作が細かく、丁寧に書かれた本を、私は初めて目に通していた。
弓に再び思いを寄せるようになったのは、この世界に来て初めての事だったのかもしれない。おそらく、きっかけはあの時だろう。
沙耶さんと出会った時、私はまるで愚痴を吐きだすように自分の過去を話した。その事で、自分の中の何かが変化した。彼女と接している内に、私はまるで彼女が昔、自分もいた場所に、とても近くにいた仲間のように感じられて―――要は、どこか似ている部分があって、初めて心を開ける人を見つけた気がした。
彼女と出会った事で、再び弓に対して思いを寄せるようになった自分に気付いたのは、つい最近の事だけど―――
「…!」
その時、部屋の扉からノックの音が鳴った。
ちょっとだけ、胸の鼓動が高鳴る。
それは緊張だった。
でも、私は扉の向こうにいるのが誰であるかを知っていた。
私は本を閉じると、緊張と共に一歩、一歩と足を踏みしめながら、部屋の扉の方へと向かう。
そして扉を開け、彼女を出迎える。
「こんにちは、古式さん」
「沙耶さん……」
「準備は、良いかしら?」
「……………」
沙耶さんの真摯な瞳が、私の片目を射抜いた。
でも、私も負けじと沙耶さんの瞳を見据え返す。
やがて沙耶さんの視線が私の胸元へと移動した。私の胸には、私の意思を表すように、本がぎゅっと握られていた。
それを見て、微笑みと同時に頷いた沙耶さんが、もう一度私の方に視線を見据える。
「万端みたいね。 行きましょう」
「…はい」
そして、私は一歩、寮の部屋から足を踏み出す。
それが、私にとっては大きな第一歩だった。
―――弓道部、道場。
普段は弓道部の練習場として使用されている区画に、私は初めて足を踏み入れていた。神経を落ち着かせる木の匂いを吸い込むのはどれくらいぶりだろうか。
私はその場の空気を静かに吸い込むと、意を密かに固めた。決意を新たに固めた私の顔を確かめた沙耶さんは、私に弓道部から拝借した弓道衣を差し出す。久しぶりに触る弓道衣を、私はそっと受け取ると、迷う事なく更衣室へと向かった。
私が、もう一度弓を引きたいと言う思いを抱いたのは、つい最近の事――――
それは、ある少女の姿を目撃した時。
ほとんど誰もいない中庭で、二人の男女が何かをしている。それは沙耶さんといつも一緒にいる彼と、一人の小さな少女だった。
かつて不自由だった身体のために何も出来なかった事を、この世界で成し遂げようとする姿。自分のやりたかった事を、彼女はどんなに大変でもそれを成そうとしていた。それは、今の私が出来なかった事だった。
この世界に来て、絶望ばかりしていた私。だが、そんな私と違って、生前の自分の人生で成せなかった事をこの世界で成そうとしている人が、こんなにも近くにいたことを、私は強く思い知ったのだ。
「古式さんの、やりたい事って何?」
その時、唐突に紡がれた沙耶さんの言葉が、すんなりと私の中に入ってきた事を覚えている。
私のやりたかった事―――
それはとても簡単で、分かり切った答えだった。
―――もう一度、弓が引きたい―――
いつの間にか、そう答えていた私。そんな私に、沙耶さんは笑顔で頷いて言った。
「あなたの今後するべき事が、明確になったわね」
弓が引きたい。
ならば、引けば良い―――
私の今も引きずる弱さを吹き飛ばす絶好のチャンスであり、自分自身の願いでもある。それを気付かされた私は、再び弓を引く決意を固める事になるのだった。
白い筒袖に自分の腕を通し、赤い袴を腰に締めた感触は、果たしてどれ程ぶりだろうか。その弓道心に身を通した自分の身体に、懐かしささえ感慨深く感じられた。
袖から腕に流れていく空気の流れに、心地良さを感じる。
身が軽くなったような思いで、私は更衣室を出た。
弓道衣に身を引き締めた私を迎えた沙耶さんは、「わぁ…」と声をあげると、黙って私を見てばかりになった。余りに見るものだから、私はつい恥ずかしくなってしまう。
「とてもよく似合ってるわね、古式さん。 凄くカッコいいわッ!」
「そ、そうですか?」
「ええ、もちのろんよッ!」
沙耶さんは笑ってそう言うと、ぐっと親指を立てた。私はそんな沙耶さんを目の前にして、とても嬉しく感じてしまう。
再び弓道衣に袖を通した事で、本来の自分を取り戻せた気がして仕方がない。それもそのはずだ。かつての私にとって、弓道とは私の全てだったのだから。
「準備は、本当に出来たようね」
「いいえ」
「?」
でも、これはまだ、本来の私の姿ではない。
「あとこれで、最後です」
「あ…ッ」
次の私の行動を見て、驚きの余りに声をあげる沙耶さん。
私の“弱さ”、その元凶である、右目を覆った大きな白い眼帯―――
それを、私は剥ぎ取った―――
覆っていた白い眼帯が剥ぎ取られ、露になった、私のもう一つの目。閉ざされていた瞳は、ゆっくりと開かれたが、その瞳は悲愴に満ちた色ではなかった。凛とした華の如く、的を射抜くように真っ直ぐに咲き誇った、自慢の瞳。
「古式さん……あなた……」
沙耶さんの驚愕は、拭い切れない様子だった。
それでも構わず、私はその目をしっかりと開かせた。
“視える”―――
私の目は、視える。
私の目は、的を見詰め、射抜く事が出来るのだ―――
「これが、あなたの弓を引く時の瞳なのね……」
沙耶さんが、ぽつりと感嘆するように漏らしている。
私は答えず、ただ足を前に踏み出す。
「では……行きます」
弓を手にした私は、沙耶さんに見送られながら、道場へと足を運ぶ。私はその時から既に、目の前から数十メートル離れた的を、射止めるつもりで真っ直ぐに見据えていた。
射法八節。弓を射る事とは、この八節で全て説明できる。
教本にも必ず書いている基本的な知識・動作であり、私も弓道の道を進み始めた頃から教えられてきた。
まずは―――足踏み。
弓を射る位置、射位で的に向かって両足を踏み開く動作。
最初に“執り弓の姿勢”を取る。弓を左手、矢を右手に持ち、両拳は腰に、両足を揃えて立つ。続いて射位に入り、足踏みを行う。
自然と最初の動作を始める事が出来た。
次に―――胴造り。
足踏みを基礎として、両脚の上に上体を安静におく動作・構えの事。
弓の下端を左膝頭に置き、弓を正面に据える。右手は右腰の辺りに置き、足踏みと共に弓を引くための基本姿勢を作る。
覚えている。
その身体の流れは、まるで川のように、決まった方向へと流れていく。
矢を番えて弓を引く前に行う準備動作―――弓構えを行い、弓矢を持った両拳を上に持ち上げる動作、弓起しを終え、次の動作である“引分け”へ繋げる。
引分け―――打起こした位置から弓を押し弦を引いて、両拳を左右に開きながら引き下ろす。
記憶の奥底から、土石流のように記憶の濁流が流れ込んでくる。その一つ一つの動作を、まるで昨日のように、つい先程の事のように行っていく。私は糸のようにぴんと張り詰めた精神の下で、興奮を微かに覚えていた。それさえも抑え、冷静に動作を流す身体を制御する。
引分けが完成、遂に矢を放つ準備が完了した。
矢の先は、既に的を狙った状態になっている。
私はこれを何度も、数え切れない程に同じ動作を繰り返してきたはずだ。
今回もまた同じだ。
そしてまた、いつも通りに、的に狙いを定めて射るだけ。
でも、今回は違った。
いざ弓を引くとなると、強烈な違和感が私に襲いかかったのだ。ぐにゃりと歪んだ感覚が私の照準を狂わせる。的との距離、角度、全てがわからなくなる。まるで世界が陽炎のように歪んでいくようだった。
「……………」
今、私が視えているものは、何だ?
視力を失い、全てを失った片目が、今、何を見ている?
それは、初めてではないはずだ。
かつては、視えていたはずのもの。それがもう一度、視えるようになっただけだ。
この世界で、自らの弱さで縛り続けていたものを、取り外した意味を、自分は理解しているはずだ。覚悟は、視力を失ったその時から、とっくの昔に出来ていたはずだ。
何を躊躇う必要があるか。
何を恐れる必要があるだろうか。
ただ、引きたかった弓を引けば良い。
何故ならそれが、私の全てなのだから―――
会。
弓を引く姿勢が完成した時、私は彼の声が聞こえた気がした。
「古式」
瞬間、脳裏に浮かぶ彼の面影。それが、引き金となった。
「古式さん…!」
彼の声が聞こえたと同時に、沙耶さんの声が、私を後ろから優しく押してくれた。
そう、これで終わりにしよう。
あの的に、弓が当たろうが、外れようが、どうでも良い。
ただ、弓を引ければそれで良い。
全てを失い、絶望と共に生きた人生に、終止符を打とう―――
弱い自分に、暗闇の人生に、別れを告げよう。
離れ。
そして、弓が引かれる。
私の指から、矢が放たれる。
その矢は、ここにあった私の弱い全てを乗せて放たれた事を表すように、涼しい風が身体を突き抜けた気を感じさせた。
的に向かって、放たれた矢が真っ直ぐに空気を貫いていった。