Angel Beats! ―SCHOOL REVOLUTION― 作:伊東椋
日がすっかり暮れた帰り道、俺は日向と並んで男子寮へと歩いていた。ユイを満足させるために、野球を始め、今日はその日の分が終わった後に日向がやって来たこともあって、こうして俺は打ったボールを日向と共に片付けを済ませると、泥や土で汚れた身体で帰路につく。
「お前、ユイと二人で何やってるんだよ」
何気なく、日向が問いかける。俺は不審な気を感じさせないように、細心の注意を払いながら平静を装う。
「別に。 あいつがホームランを打ちたいって言うから、それに付きあってやってるだけだよ」
嘘ではない。正にその通りと言えば、その通りなのだが。
「ふーん……」
日向は俺の顔をチラリと覗き込んでいたが、それ以上深い追求を仕掛けてくることはなかった。
この妙に居辛い空気を払うために、俺は一つ余計なことを口にしてみる。
「特に深い意味はないから、安心しろよ」
そんな俺の言葉に対する日向の反応は、予想以上だった。
「ば…ッ! んだよ、それ……どういう意味だよ…ッ」
その反応に、俺はぽかんとなる。
そして、日向の動揺を表した顔を見て、つい吹き出してしまう。
「……くっ」
「……何、笑ってんだよ」
「何でもねえよ」
案外、俺より日向(こいつ)の方がわかりやすいのかもしれない。
「変な奴……」
そう言うと、日向は拗ねたようにそっぽを向き、ガニ股で歩き始めた。そんな日向の行動が可笑しくて、俺はつい笑みを浮かばざるにいられなかった。
寮の前に近付くと、日向が寮の前で何かを見つけた。
「おい、お前の相棒さんだぜ」
「えっ?」
日向に言われて、俺はそこで初めて気付く。寮の前に凛とした背で立つ、一人の女子生徒。その海のような蒼い色をした鋭い瞳が、俺の方を真っ直ぐに射抜いていた。
「沙耶……」
寮の前に立っていたのは沙耶だった。何時からそこに立っていたのだろうか。沙耶は俺の方をジッと見詰めたまま動こうとはしなかった。俺が近付くと、沙耶は俺の正面へと身体を向ける。
「どうしたんだ、沙耶。 もしかして、俺を待ってたのか?」
「ええ、そうよ。 あなたを待つ以外に、あたしがここに立つ理由があると思う?」
何故か、沙耶との間にぴりぴりとした気配を感じる。それを日向も察したのか、俺の肩をぽんと叩くと、「先に行くぜ」と早々に寮の中へと入って行った。
残された二人。そんな俺たちの間を吹き抜ける風が、妙に肌に冷たい。ざわざわとした妙な空気が俺たちの間を包んでいる。
「(……何だ?)」
沙耶はジッと俺の方をその鋭い瞳で射抜いたまま、視線を逸らすことも、動こうともしない。
俺は圧巻されそうになりながらも、何とか踏ん張った。
「…で、俺に何か用か?」
「……………」
もしかしてだが……沙耶は今、不機嫌なのか……?
そんな思いが俺の中に過ぎる程、目の前にいる沙耶からは異様な雰囲気が感じ取れる。
「そ、そういえば……そっちは、どうだったんだ? ほら、お前が言ってた奴の……」
「―――!」
空気が変わった。それはざわっと、落ちていた落ち葉が舞い上がるような、急な上昇、その一瞬。
俺が思わず黙って固まっていると、沙耶の方から口が開いた。
「……叶ったわ」
「え……?」
「彼女の、望み通りに……そして、あたしの前から、旅立った……」
その声に、いつもの鋭さや気迫はない。
ただ、静かに、穏やかに紡がれた声色。
俺はそれだけで、全てわかった。
沙耶を見て、目の前で立ち尽くすパートナーを見て、俺は全てを知った。
「(そうか……)」
この世界から、満たされた人が―――
脳裏に、ある一人のギターを抱え、歌い切った一人の少女を思い浮かべた。
そして、一瞬だけ思い浮かべて、再び沙耶の方を見る。
「(やっぱり、お前はすげぇよ……)」
俺なんて、いつまでも満足させてやれないで、こうして苦労していると言うのに。
沙耶はしっかりと満たしてあげることが出来たんだ。
「……そっか。 それは、良かったな……」
「良かった……?」
「沙耶……?」
沙耶の唇が、きゅっと紡がれる。
「本当に……これで、良かったのかしら……あたしのした事は、間違っていなかったのかしら……」
悲しそうな色を顔に浮かべる沙耶。
両腕の肘を掴み、抱き、その腕は微かに震えている。
「……沙耶」
俺は、その震える手を、そっと触れる。
「―――!」
驚きと、泣きそうな顔が入れ混じった表情を浮かべた沙耶が顔を上げる。
俺はそんな沙耶に向かって、言う。
「お前のやった事は、全然間違っていない。 それどころか、お前はそいつの想いを叶えてやる事が出来たんじゃないのか」
「想い……?」
「ああ。 こんな時間が進まない世界で、そいつの中にある止まっていた想いを、沙耶は叶えさせる事が出来たんだ。 すげえよ、沙耶は……」
「……………」
俺には、きっと真似できない事だ。
沙耶にしか出来ない、沙耶だからこそ出来る事なのだろう。
やっぱり俺とは違って、沙耶は凄い奴なんだ。
「……決めた事とは言え、正直きつかったわ」
ぱっと俺の手を振り払うと、そのまま自分の髪を払う沙耶。俺は虚空に投げ出された手を戻しながら苦笑する。
「お疲れさん、本当に」
「……で、そう言う音無くんは何だか苦労しているようね?」
「う、気付いてたか……」
沙耶はジトリとした瞳を俺に向けたと思うと、ハァ、と大きな溜息を吐いた。
「やっぱりあなたはまだまだね。 あたしがいないと、何も出来ないパートナーってどうなのかしら」
「そ、それは……」
悔しいが、言い返す言葉が見つからない。
そんな自分が情けなく思える。
「……でも、言いだしっぺはあなたなんだから、ちゃんと最後まで為し遂げなさい。 あたしも、そばにいてあげるから」
「え……」
自分の耳を疑うような言葉を聞いて、俺は思わず間抜けな顔で沙耶の方に視線を向けた。少し顔を赤らめてそっぽを向いている沙耶が目に入る。
「な、何よ……『何こいつさりげなく恥ずかしい事言ってんだ?』とでも思ってるような顔をして」
「い、いや……そんなことは……」
「ああ、そうよ。 今までちょーっと憂鬱になってたけど思いがけないパートナーに励まされてちょっとは優しくしてやろうかなと思い言ってみた言葉が思ったより恥ずかしい事に後から気付いた間抜けで恥ずかしいあなたの唯一無二のパートナーよ、ほら、こんな恥ずかしいパートナーを持って可笑しいでしょ? 笑いたければ笑いなさいよ、あーはっはっはってッ!!」
勢い余って言葉を捲し立てた沙耶を前に、俺は圧倒されるしかなかった。言い終わった後に、呆然とする俺の前で、息を切らして顔を真っ赤にした沙耶が肩を上下させている。
「……大丈夫か?」
「うるさいわね……ゼェ…ゼェ……撃つわよ……」
本当に撃ちかねないので、全力で拒否しておく。
しかし、同時に安心した。
ああ、いつもの沙耶だ―――
さっきまでの空気も忘れたように、俺は目の前にいるいつもの沙耶を見て、安堵の域に心を委ねていた。
「……じゃあ、よろしくな沙耶」
「ふん……」
まだ少し顔を赤い沙耶。機嫌を直してくれるのはまだ先のようだ。
「……そういえば、音無くん。 あなた、今、ユイちゃんと……」
「ああ、そうだよ」
俺はユイといた中庭での事を思い出す。そう言えばユイとジャーマンスープレックスの練習をしている最中、俺は沙耶を見かけていた。その隣にいた女子生徒と一緒にいる姿を。
「ユイちゃん……か」
「?」
前から気になっていた事だったが、どうやら沙耶は前からユイの事になると、どこか気を思う事があるらしい。
それが何故かはわからないが。
「あの娘が満たされることなんて、到底ないとは思うけど……」
俺は、その沙耶の言葉を聞き逃さなかった。
「な、何でだ? だって、あいつが一番この世界で満足してそうじゃないか? いや、確かにあいつはやりたい事が沢山あり過ぎて、今こうして俺が苦労しているが……」
「そうじゃない。 やりたい事とか、そういう事じゃなくて……」
「沙耶は何か知ってるのか?」
「……知ってると思う。 でも、それが正しいのかどうかは、あたしには断言できない」
「な、何だそれ……?」
意味がわからない俺に対して、沙耶は不機嫌オーラを倍増しする。
いらいらとした視線で、俺を鋭く睨みつけてくる。
「あなたには、まだわからないでしょうけど。 それがわからないと、あの娘を満足させるなんて到底出来っこないわよ」
「な、何だよ……じゃあ、それが何なのか教えてくれても良いんじゃないのか? 沙耶は知ってるんだろ」
「教えるとか、そういう事でもない……駄目なのよ、それじゃあ」
「協力してくれるんだろ…ッ?」
「……他人を自分よりも……になったら、あなたにもわかるんでしょうけどね……」
「…え? 何だって?」
「何でもないわ」
ぷい、とそっぽを向くと、沙耶はそのままくるんと踵を返し、俺に背を向けて歩き去ろうとする。
「ちょ…ッ! 帰っちまうのかよ…ッ!?」
「そうよ。 もう暗くなってきたし、ここでお別れね」
「待ってくれ…! せめて、ヒントだけでも教え……」
「ない。 それじゃあまた明日ね、音無くん」
「お、おい…ッ!? 沙耶……ッ!!」
手を伸ばし、呼び止めようとしても、沙耶は俺の声も聞かずにそのまま俺の前から立ち去ってしまった。
一人残された俺は、意味もわからないままに、その場に立ち尽くす。
「何なんだよ……」
それから、俺はその悩みを抱えるようになり、次の朝になるまでそれが何なのか、沙耶の言葉の意味を追求するために、悩み続ける事になるのだった。
結局、沙耶の言葉の意味がわからないまま、今日もまたユイと日が暮れようとするまで野球を続けた。
既にいくつの球を投げ、打ったのか数えていない。ユイが懸命に打ったボールが辺りに幾つも転がっていた。
「どうした…ッ? 全然振れてねえぞ……ッ!」
続けるに連れて、ユイのバットがボールに当たる打率は低くなるばかりだった。ユイが振るバットは最早貧弱で、ボールをかすめる事さえ出来なくなっている。
もう一度、俺はボールを投げる。
「……ッ!」
ユイはバットを振るが、また空振り。そしてそのままふらふらと身体を回し、ぺたんと力なく地べたに座り込んでしまった。
座りこんだまま、ユイは動かない。顔を下げ、荒い呼吸を繰り返している。
「大丈夫か?」
座りこむユイのそばに駆け寄る。
「お前、手、見せてみろ」
「……ッ」
手、と言うと、過敏に反応したユイを俺は見逃さなかった。
「嫌だ……」
「……見せろって」
嫌がるユイの手を、俺は少しだけ強引にでも掴んで、その手を引いた。その直後、俺の目に映ったのは、一目見てわかる程にぼろぼろになったユイの小さな手があった。バンソーコーが貼られ、何とか隠そうとはしているが、その手のひら中に広がった傷やたこは隠し切れていない。
「ああ……」
思わず、そんな声を漏らしてしまう。
見るからに痛そうだ。無理もない。こんな小さな手で、ずっとバットを握り続けていたのだから。
「……所詮、無理なんだよ」
「…!」
努めて明るい声で、ユイは言う。
そして立ち上がると共に、続けてそんな言葉を紡ぐ。
「もういいや、こんな夢」
それはあっさりとし過ぎていて、そして虚しい程に響いていた。
俺は思わず声をあげる。
「諦めるなよ…ッ?!」
だが、ユイは続ける。
「色々とアリガトね。 何で、こんなことしようとしてくれたの?」
そして、俺に問いかける。
「それは……お前が、やりたかった事だろう? 最後まで頑張れよ…ッ!」
俺はバットを引きずりながら、沈もうとする夕日に向かって歩くユイの背に向かって声をあげる。
ユイは引きずっていたバットを抱えると、俺に背を向けたまま、普段の声色で言った。
「ホームランなんて冗談みたいな夢だよ。 ホームランなんて打てなくても、こんなにいっぱい身体を動かせたんだから、もう十分だよ。 毎日部活みたいで、楽しかったなぁ…ッ」
それは俺に言っているのに、ユイは夕日に向かって言うように、言葉を紡ぐ。ユイの小さな身体が夕日の光に包まれて、眩しく輝いている。だが、そんなユイの背中が、俺には何故か遠くに見える。
「言ったでしょ? 私、身体動かせなかったから……だから、すげぇ楽しかった…ッ!」
「……………」
本当に、ユイ自身はそれで良いと思っているのだろうか。
その明るい調子の声が、俺にはどこか虚しく聞こえた。
「……じゃあ、もう全部叶ったのか?」
「叶う? 何が?」
そこでようやく、ユイは俺の方へ振り返った。
「その……身体が動かせなかった時に、したかった事……」
「……ああ……」
このままでは、沙耶の言葉の意味を知る以前に、ユイを満足させてやる事なんて出来ない。
だが、今の俺に出来ることは、ユイのしたい事を叶えてやる事ぐらいなのだ。
「……もう一個あるよ」
「それは、何だ?」
良かった。まだ、もう一個あるとさ。
それじゃあ、俺はそれも叶えてやるだけだ。
俺は野球の次に、それをやろうと、立ち上がる。
そして立ち上がる俺の耳に、ユイの言葉がはっきりと届く。
「―――結婚」
その瞬間、時間が止まった。
「え……」
俺は思わず、驚きを隠しきれない声を漏らしていた。
驚愕を浮かべる俺を背に、ユイは構わずに続ける。
「女の究極の幸せ……」
俺は、予想だにしなかった。
ユイの口から、そんな言葉が出てくるなんて。
「……でも、家事も洗濯もできない。 それどころか、一人じゃ何もできない迷惑ばかり掛けてるこんなお荷物……誰が、貰ってくれるかな……?」
だから、俺は黙ってユイの言葉を聞き続ける事しか出来ない。
「神様って酷いよね。 私の幸せ……」
何時しか、ユイの声は、その手が、小刻みに震えていた。
「全部、奪っていったんだ……」
ユイの知られざる、想いの真実。
俺はそんなユイの明かされた想いの大きさを、理解していなかった。
なのに、俺は無責任な事しか言えない。
「そんな事……ない……」
「じゃあ先輩―――」
ザッと足を踏み出し、今まで背を向けていたユイが、俺の方に振り返る。その瞳は普段と違って、真っ直ぐで、鋭いもので俺の方を射抜いていた。
真っ直ぐに俺の方を射抜いたまま、ユイは口を開く。
「私と結婚してくれますか」
その言葉がどんなに重いか、どんなに大きいのか、俺は真に理解していなかった。
いや、出来ていなかった。
そしてそれが余りにも重過ぎて、大き過ぎて、俺は口を開くことさえ出来なかった。
俺は、ユイの本当の想いを知らなかった。
そしてその想いが、どれだけのものなのかを、俺はわかっていなかった。
それは、俺なんかの人間では受け止めきれないもの。
あんなに小さかったユイが、今の俺には、自分よりずっと大きな存在に見える。
ユイは黙って、その視線を俺に射抜いたまま、離さない。
「それは……」
やっとの思いで出た声。だが、その先の事を、俺は言えるわけがないし、その権利もない。
俺がそれを言うには、ふさわしくない―――
だが―――
「―――俺が、してやんよッ!!」
その声が、俺たちに大きく響いた。
正確には、ユイに届いたと言って良いだろう。
直後、ユイの手から離れたバットの転がる音がカラン、と響く。
その声に振り返った先には、一人の男が立っていた。
その男は、俺がよく知っている人物。唯一、ユイの想いを受け止められる人間が、そこにいた。その男、日向は、俺たちの前に毅然とした物腰で立っていた。驚きに目を見開いたユイの視線は、既に俺ではなく、日向の方を射抜いている。そして、日向はそんなユイの視線さえも全て受け止めるようにそこに立っていたのだった。