板張りの床が、わたしの体温を吸い取って、このまま心まで凍らせてしまえばいいと思った。
わたしは、空母専用の弓道場の片隅で力なく座り込んでいた。
提督の部屋を飛び出してから、時間の感覚が希薄になっている。
長い時間が経ったような、そうでもないような。
提督の部屋に入ったのがヒトヒトマルマルだったけれど、今は何時だろう。空は灰色の雲に覆われて、陽が見えない。
道場内は薄暗く、先ほどまでの雨のせいかジメジメしていて辛気臭い。
ため息を吐く。吐息が震えていた。
自分が情けなくて、泣きたくても泣けないのだ。
冷静になればなるほど、自分の行動の愚かさに潰されそうになる。
提督に、横恋慕と言われた。
「そうかもしれない……」
わたしは加賀さんに強要していた。でも提督は違ったのかもしれない。
「そうかも……しれない……」
結局、わたしは一人で掻き回していただけなのかもしれない。
このまま、どんな顔をして鎮守府に戻っていいか、分からなかった。
――足音。
わたしは顔を上げる。
視線の先に、翔鶴姉ぇが立っていた。
「しょうかくねぇ……」
「瑞鶴……!? よかった。こんなところにいて」
翔鶴姉ぇは一瞬驚いてから、安心した表情をしてわたしの方に歩いてくる。
「え……」
わたしは小さく声を上げた。
翔鶴姉ぇの後ろから、加賀さんと提督も現れたのだ。
「どうして」
「あのね瑞鶴、加賀さんから全部聞いたのよ」
と翔鶴姉ぇ。
「なにを……」
わたしは咄嗟に加賀さんを見た。加賀さんは何か吹っ切れたような瞳でわたしを見ていた。
――それだけで、わたしには理解できた。
加賀さんは話したのだ。資材の無断使用のことも、わたしが加賀さんの弱みに付け込んだことも。
「加賀がね、貴女が最近おかしかった理由を話してくれたのよ」
提督が言った。
「加賀は養成所時代、貴女二人の教官だったんですってね。それで、少しでも貴方たちの戦力を増強させようと、今度の作戦で必要な艦載機を私に無断で作っていた。そしてそれを貴女に発見されて、必死に口止めしてたって、そういうことだったのね」
――え、それだけ?
提督は続ける。
「貴女も加賀に憧れていたと翔鶴から聞いているから、だから、辛かったのは分かるわ。正直、私も作戦に掛かりっきりで、資材の管理を秘書艦任せにしていたし、あとケッコンで少し浮かれていた部分は認めるわ」
提督は素直に謝辞を表した。
「え。えぇ……」
もしかしたら、加賀さんはわたしのことを伝えていないのか。
「でもね、それとこれとは話は別。瑞鶴、指輪を返しなさい」
提督は穏やかに、けれど命令口調で手を出した。
「はい……」
わたしは、懐から指輪の入った箱を取り出し、「ごめんなさい」と言って提督に返した。
提督はわたしから箱を受け取ると、抱きしめるように抱えた。
「加賀さん……わたしのこと……」
加賀さんは、こくんと頷いた。
やはり、加賀さんはわたしとの秘密を喋っていない。
わたしを庇ってくれたのだ。
――あぁ。加賀さんは、本当にお人よしで、甘くて……
心が締め付けられ、涙が瞳に溜まっていく。
「瑞鶴、ごめんなさい。貴女に辛い思いをさせてしまったわ」
「そんな……加賀さん……悪いのはわたしの方です。わたしは、加賀さんの優しさに甘えて、つけこんで……ひどいことをしてしまいました」
視界が滲む。
「ごめんなさい……。加賀さんごめんなさい……」
言葉は嗚咽で震え、上手く言えなかった。
「……わたし……加賀さんのことが好きで、好きだったから……」
「いいのよ」
ふわりと、花の香りに包まれる。
加賀さんが抱きしめてくれたのだ。
「わたしも、瑞鶴のことが好きよ」
加賀さんの肩越しに、翔鶴姉ぇと提督が驚嘆した顔をしていた。
「ちょ、ちょっと加賀!?」
「瑞鶴!? そ、それってどういう意味なの!?」
もしかしたら、加賀さんの好きと、わたしの好きは、少しだけ食い違っているのかもしれない。
でも、今はこれでいい。
「だから泣かないで、瑞鶴」
加賀さんの指で涙をすくい取ってもらう。なんだかそれだけで、目の前の霧が晴れたように、加賀さんの瞳を真っ直ぐに見ることができた。
「はい……もう泣きません」
「そう」
そして加賀さんは提督に振り返り、
「提督、貴女とケッコンは控えているけれど、今回は瑞鶴に辛く当たり過ぎよ」
そう言った。
「だって……」
提督は一瞬泣き出しそうな顔をする。
「そもそも加賀が私に無断で艦載機を開発するからこうなったんでしょ!」
「それは貴女が聞いてくれないからよ。私を傷付けたくない気持ちは嬉しいわ、だけど過剰に心配されるのも辛いものよ」
「うぅ……」
提督は加賀さんに反論できないようだった。
「でも……でも加賀には資材の無断使用の罰として、謹慎だって命じることができるのよ」
「強硬手段……」
翔鶴姉ぇが感心したように言う。
きっと加賀さんを想う気持ちは、わたしも提督も同じなのだ。
わたしは加賀さんと一緒に立ち上がって、宣言する。
「提督……」
「なにかしら」
「これからは、正々堂々と戦います」
「なによ正々堂々って」
提督は箱から指輪を取り出すと、加賀さんの左手薬指に素早く通した。
「私には、これがあるのよ?」
しかしわたしはもう動揺しない。
「あら偶然ですね」
わたしも懐から出来たて新品の指輪を取り出し、加賀さんの手を取ると、提督が付けた指輪の上から、わたしの指輪を重ねた。
わたし以外の三人が驚愕した表情を浮かべる。
「さっき資材無断で使って、作っちゃいました。これでわたしも加賀さんと同じですね。罰として二人で謹慎させますか?」
提督室を飛び出して工廠に来た時、わたしは妖精さんに、この指輪の複製をお願いしていたのだ。
「翔鶴姉ぇだけじゃ、今度の作戦、難しいんじゃないですか?」
わたしは少し背の高い提督を下から、見つめる。
「……分かったわよ」
提督がため息を吐きながら、両手を開いて見せた。
「このことは不問にするしかないわね。それに、今度の作戦は加賀にも出撃してもらわないと」
諦めたように笑うのだった。
「……提督」
加賀さんも口には出さなかったが、嬉しさを隠しきれないようだった。
「良かった……良かったよぉ」
「翔鶴姉ぇ!?」
いきなり翔鶴姉ぇが泣き始めた。
「提督申し訳ありません。妹がたび重なる迷惑とご無礼を働いてしまい……ぅぅぅ」
さめざめと泣きながら提督に頭を下げる。
「いいのよ気にしないで翔鶴」
「そうだよ翔鶴姉ぇ」
「ばか!」
「えぇ!?」
翔鶴姉ぇは、キッとわたしを見てから抱き付いてきた。
「苦しいよぉ!」
「ばか! ばか! 今度の今度こそ瑞鶴が解体されたりどこか南の小さい泊地に飛ばされたちゃったりしないか、本当に心配だったんだから! 瑞鶴に何か処罰があったら、私どうしたらいいか……!」
「よしよし。ごめんね。ごめんね。わたしはどこにも行かないから」
うえええんと子どものように泣く翔鶴姉ぇを抱きしめながら、加賀さんとはまた違う愛を噛みしめる。
そこへ――
「え、瑞鶴への処罰は、あるわよ」
と、提督が言った。
「「「へ?」」」
おそらくわたしを含め加賀さんと翔鶴姉ぇが同時に疑問符を浮かべたと思う。
「これだけ私たちを振り回したんだから。瑞鶴には今度の作戦中は鎮守府で謹慎してもらうわ」
「え、だって今加賀さんも次の作戦に出撃させるって!」
わたしは掴みかからんばかりの勢いで提督に詰め寄る。
「もともと、連合艦隊への申請は当鎮守府からは空母二隻という割り当てが決まっているの」
「そんなぁ」
「だから瑞鶴は謹慎」
「それに」と。提督は、いつか二人でいるときに見せた、挑発するような笑みを浮かべる。
「私は瑞鶴に、たくさん聞きたいことがあるから」
これは、あれだ。挑戦だ。どちらが加賀さんをより愛しているかの勝負を仕掛けられているのだ。
「なるほど……」
わたしは逡巡してから、答える。
「そういうことなら、わたしにも提督と話すこと……たくさん、た~~くさんありますから」
わたしと提督の間に、不可視の火花が散る。
「それなら決まりね。覚悟しなさい」
と提督。
「やだ翔鶴お姉ちゃん、加賀先生……あの提督怖い……」
わたしは怯えた顔をして加賀さんと翔鶴姉ぇを交互に見た。
「大丈夫瑞鶴? お姉ちゃんがついているわよ」
「瑞鶴、困ったら私にいつでも相談しなさい」
「え、ちょっと何で私が悪いみたいになってるの!?」
狼狽する提督にわたしはペロっと舌を出す。
戦いはもう始まっているのだ。
かくして、加賀さんを巡る提督との火蓋が切って落とされた。
この先に待つエピローグの結末は分からない。だけど、わたしは加賀さんの笑顔のそばにずっといたいと、願うのだった。
空を覆う雲はいつの間にか薄くなり、日差しが差し込んでいた。
初夏を思わせる風がわたしたちを撫でて走る。高く、遠く――
(終わり)
なんだかんだできっと丸く収まった瑞加賀のお話です。
この後エピローグに繋がりますので!
楽しんでいただければ光栄です。ご意見ご感想お待ちしております。