「夏目君の周りってさ、いっつも新しい女の子がいるよねぇ」
「何言ってんの、そんなわけないでしょ……私はいつだって、葉山さん一筋ですからっ!」
「ふーん、どうでもいいけどねー」
そして私はペガサス号に跨り、真梨先輩のアパートへ大学へ、そして三条通りへとひた走るのである。
「そう言えばさ、このお話って結局、私がキューピットをするっていうお話だよねぇ」
「違うでしょ……それ違うでしょっ!葉山さんはヒロインでしょ!しかも、キューピットって私が知らない設定だからね……」
「あーそうだったんだ。知らなかったよぉ。それにしてもさ、部長さんもそうだけど、男の子って真梨子先輩みたいに胸の大きな女の子好きだよねー」
「その、あの、えっと、そういうエッセンスも大事と言うか、主に大人の諸事情っていうか……色々あるんですよ……もちろん、私もおっぱいは大好きです」
「なんかさぁ、すっごく薄っぺらいよねぇ、色々とさぁ」
円満解決が難しい方の三竦み。誰か1人が泥を被れば、涙を流せば、忽ち解決する三竦み……誰が泥を被り、涙を流すのか……その答えは大晦日の夜、NHKのテレビカメラを通じて全国へ……
やはり、葉山さんとはじめて出会った夏休みのBBQまで遡らなければならないだろうか…
「あ、それ私も聞きたい」
「え……なんで葉山さんが…?」
「うん。実はね。私も良くわかってないかなぁって」
「えぇ……今更それ言いますか……」
と言うわけで、物語は夏休みに開催されたBBQにまで遡るところからはじまる……
肌寒いはずのベランダに佇み、オリオン座を見上げてはシリウスを探す私は、不思議と少しも寒さを感じなかった。
炬燵で寝付いたものの丑三つ時を二刻ほど過ぎた頃、全身の痛みで目が覚めてから寝付くに寝付けずにいる。夢うつつと頭だけはこの世の中で一番柔らかい物に乗っかった様な感触が残っているが、背中の痛みに比べれば儚い夢であったと言いたい。
夜明けに幾ばくかの時間を残して、見下ろす町並みはとても静かで、清澄さえ感じさせる。
そんな静寂の中に身をおいていると、真梨子先輩を苦しめる悪夢など何もなかったように思えてきてしまう。
襖を開けっ放しの寝室では真梨子先輩が寝息を立てて眠っている。その無防備な寝顔を見ていると、果たして私はどこまで信用してもらえているのだろうか。ふとそんなことを考えてしまった。
私とて明確な男子であるからして、男子たる欲情も持ち合わせていれば、それを夢みることだってある。だから今一度私は先輩にどこまで信用してもらえているのだろうかと考える。
そして、将来、あの寝顔をすぐ隣で堂々と見ることができる男が羨ましく思えて仕方がなくなった。あの100万ドルの寝顔をすぐ隣で見ることができる男のことが……
そんな事を考えながら二度寝をして、目が覚めると炬燵の上には焼鮭と味噌汁、卵焼きに湯気を讃えるご飯、白菜の漬け物が並べられてあった。
「ごめん、起こしちゃったね」寝間着のまま台所から顔を覗かせながら先輩が言った。
「おはようございます」
私はぼおっとしながら、ぼおっと挨拶をして、豆腐と若布がくるくると揺れている木製椀の中を覗き込んでいた。
「顔洗っておいでよ」
私の寝起きのふやけた顔を覗き込みながら先輩はお姉ちゃんのように悪戯に微笑んだ。調理の手間が1人分だけ増えたにもかかわらず先輩はとても嬉しそうだった。
私はお言葉に甘えて洗面所で顔を洗い、鏡を見やるに水が滴ってもやはりいい男ではないことを再確認して朝食を頂くことになった。
こんなちゃんとした朝食はいつぐらいぶりだろうか……少なくとも実家に帰らなければありつくことは難しい。
「お味噌汁辛くない?」
「とても美味しいです」鰹出汁がしっかりと効いた味わい深いお味ですとも。
味噌汁一つとっても、日頃から作り慣れていたし先輩の女子力の高さを見せつけられたように思う。私は男であるわけだが……
将来、このご飯を毎日食べられる男のことも羨ましくなった。
同じような事をつい先ほど思ったような……既視感に苛まれつつ、つい癖でご飯を味噌汁の中に入れてしまった。
朝食を終えて、少ししてから私と先輩は連れだってアパートを出て、その隣に住んでいる大家さんの元へ行った。大家さんに会う為だろうか、今日の先輩の出で立ちは、とてもフェミニンだった。桃色とも赤色とも言えない柔らかくて優しい色合いのワンピースをきている。
出てきた大家さんに事情を説明すると驚愕の色を浮かべた大家さんは「今日中に換えておくわね」と二つ返事で交換してくれることを約束してくれたのだった。
「大家さんいい人で良かったですね」
「うん。とっても良い人だよ。あのアパート学生が多いからかな。男の子のとこへなんか作りすぎた料理持ってあげてたりしてるもん」
「羨ましい限りですよ」安さに負けてアパート選びを間違えたと今更後悔した私だった。
「恭君さ。ご飯作ってあげようか?」
流し目で言う先輩。
「そんな暇無いでしょ。卒論もあれば就活だってあるのに」
『是非お願いします』と喉まで出かかって慌ててこれを飲み込んだ私は、冷めた声色で切り捨てるように言った。
「こう見えて私、結構、料理できるんだけどなぁ」と唇をとがらせて言う先輩を見て、私はもしかして本気で言っていたのだろうか?と思ってしまったが、それとて真梨子先輩お得意の思わせぶりであるからして冗談だと認識しておいた方が後々傷が浅くて済む。
文化祭を前日に控え、大学構内では二極化がその色を強めていた。私のように準備に余念なく当日を待つ者と未だ準備成るに至らずと必死に作業を続ける者。
私は言いたい。何事も余裕と余念をもって望まなければならないと!
二日前まで同じ穴の狢であった私がそんな傲岸不遜な弁を垂れ流しても、賛同する者どころか四方から金槌が飛んで来そうだ。
だから、「それじゃ用事があるので」と先輩を正門の前に残し私はペガサス号にまたがり「えっ、恭君も講義あるんじゃないの」と言う先輩の言葉を振り切ってスーパーに併設されてあるホームセンターへ向かったのだった。
開店時間丁度の店内では未だ品だし作業に勤しむ店員の姿が目立っている。私は特売トイレットぺーパーに後ろ髪を引かれつつもこれを振り切って『鍵コーナ』へ向かうと、多種多様と並んだ南京錠を手当たり次第にカゴの中に放り込んだのだが、レジに行く前に財布の中身を確認して落胆した私はその多くを返却した。南京錠のくせにどうしてこんなに値が張るのか。
我ながら特売トイレットペーパーを買わなくて良かったと自身の決断を賞賛した。
「しまった……」
当面の生活費を南京錠に換えて帰宅した私は、部屋に入った途端に漂う悪臭と開きっぱなしになっている冷蔵庫の扉を見て唖然として頭を掻いた。そう言えば、真梨子先輩から緊急連絡があってから取る物も取り敢えず駆けつけたとはいえ、冷蔵庫の扉さえも閉めずに行くとは……この匂いは牛乳だろうか……
私は重いレジ袋を畳の上に放り出すと、まずは悪臭と冷蔵庫の中身を整理する作業に没頭せざる得なかった。結果、食べかけの食品はほぼ全滅し、残ったのは缶ビールと危険匂の漂う生卵だけ。
生活費の全てを今し方使い切った私にとってはまさに絶望と言うに久しい事態であるが、人間、水だけあればなんとか生きて行ける。その上明日からは甘美祭が始まるのであるからして、各部の差し入れを拝借すればなんとか空腹は満たされるだろう。
押入の中にしまってあった焼き菓子の缶を取り出すと、ひと思いに畳の上にひっくり返した。途端にアルミのコインが畳の上に山積みとなり、一時金持ち気分を味わった後、片付けが面倒な事に気が付いて頭垂れた。
とりあえずは一円玉の山は置いておくとして、私は早速買ってきたばかりの南京錠の鍵をばらすと空になった缶の中へこれを全て落とし入れた。
「むう」残った錠と空になった財布を交互に見ながら私は缶の大きさに対して鍵の絶対数が少なすぎると唸った。
これでは、鍵を隠すなら鍵の中。と言う単純且つ即効性のある私の作戦が成り立たない。私としては缶の中に溢れんばかりの鍵の中にただ一つだけ先輩の家の鍵が混じっている。と言うのが理想であって、こんな疎らな中に先輩の鍵を潜ませるのは私の理想からかけ離れている。
財布の中を確認すると、理想と現実の狭間で頭を抱えるか煩悶としたあげくに妥協をするか、いずれかの選択肢しか存在しない。けれど、男子には妥協してはならない時が必ずある。加えて、ここで妥協をしてしまっては自身の生活を顧みず理想を求めた美しき自己犠牲の精神が無駄になってしまうではないか!理想的な結果に至らずとも許容範囲に収まる程度までは足掻きたい。いやなんとしても足掻かなければ。先輩の為と言うよりはすでに自分自身の意地のために後詰め策を練りはじめた。
実を言えば、まだ現金は残っていた。仕送りとは別に部長の私用や執行部のお使いなど、汗と鼻水も積もればなんとやら。しかしながら、これを投入してもなお、焼け石に水であるから安易に使うことはできない。購入するは購入しなければならないのだが、できれば残った金銭を最大限行かした買い物をしなければならない。
しばらく、寝ころんで考えを巡らせてから、鼻面くらいまである一円玉の山を見て「これを両替するか」と良案に思えて愚策に結論を得ようとしていた瞬間に私はひらめいた。そして、途方もなく後悔をした。往々にして思い込みとは人を間違った方向へ導く。私は机の引き出しから汗と鼻水の結晶を財布の中に入れると、再びペガサス号に跨ったのだった。
三条通りを遡ること5分程度でペガサス号を止めた私は迷わずに自動ドアをくぐった。そして見つけた南京錠は種類に関してはホームセンターには到底及ばないながら、錠前自体の性能や安全性を求めていない私にとっては質よりも安価であることが第一条件なのだった。今日ほど100円均一店が頼もしいと思ったことはない。私の興味は錠前よりも付属している鍵に向いた。なんのことはない、見た目にはホームセンターのそれと瓜二つではないか。
私はつい嬉しくなって、通りかかったパートとおぼしき女性に「この鍵をひと箱下さい」と言った。
「ひと箱ですか?」と露骨に訝しむ表情で見られてしまったが「文化祭で使うんです」と口から出任せを追加すると「在庫を見てきます」とすんなりレジ後ろにあるドアに姿を消してしまった。
なかなか帰ってこない。勢いで箱で頼んだが、この手の商品はひと箱、何個入りなのだろうか……頼んでおいて代金が足りないともなれば、それなりに羞恥心である。
「お待たせしました」
台車と共にドアから出てきた女性は。小包ほどの大きさのダンボールを私の目の前で開けると「こちらでよろしいでしょうか?」と確認を求めた。素っ気ないダンボールには個数は書いてなかったし、中身はぎっしりと詰め込まれていたので、瞬時に数えることもできず、財布を握る手に力を入れながら「はい」とだけ答えた。
何事もまず覚悟を決めることが大切である。覚悟を決めてさえいれば、例えどんな結末であろうとも受け止めた上に内外の傷も比較的軽傷で済むし、何より狼狽しなくて済む。恥の上塗りと醜態を晒した上に狼狽えては醜さ百倍と言うものだ。
『えっと40個くらいだけもらえませんか?』万が一に備えて台詞も用意周到に私はレジへむかったのだが……原価は100円よりも安いらしく。一個百円にしては安価な支払い金額だった。
やはり頼りとするべきはホームセンターではなく100円均一である。支払いを済ませてダンボールをペガサス号のカゴに入れると、JR奈良駅まで続く緩やかな坂をかんがみて、サドルに跨ることはせずにハンドルに手をかけて徒歩で帰路を急いだのだった。
クリアパッケージの山と比例して増える錠前、1円玉のそれを順にみやると何かの儀式のように思えてきてしまう。ゴミも増えたが鍵も増えた、結局のところ缶の半分ほどしか埋めることしかできなかったが、錠前一つに付いてくる鍵が4本であるから、総数にして200本くらいにはあるはずだ。
この中に似たような鍵を一本混ぜてしまえば、持ち主でも見つけ出すのは至難の技だろう。
缶の中を埋め尽くす銀色の鍵の中に手を入れて見れば痛いほど冷たく、握っり上げては放してみれば、まるで小銭のようにじゃらじゃらと缶の中へ落ちていく。大した作業をしたわけでもないと言うのに、全身に鉛が流れ込んだように急激な疲労感が全身を広がって行く。これが俗に言う燃え尽き症候群と言うやつだろうか……などと思いながら、私は畳の上に寝転がった。
気が付けば正午を回っていた。
◇
微睡む暇もくれやしない。
寝転がってすぐに携帯が震え、見やると先輩から大学に迎えに来て欲しい旨が記されてあった。無視をしてもよかったのだが、どうせ、この鍵満載の缶を先輩の元へ届けなければならないと言うことを思い出して私は返信をせずに缶を携えてペガサス号に跨ったのだった。
大学までの登り道をえっちらおっちら登って行くと、すでに正門の所に先輩が待っていて。
「いつも返事頂戴っていってるのに」と可愛らしく頬を膨らませた。
先輩……わざとやってますよね。
「お待たせしました。今日2コマだけでしたっけ?」
「一つ休講になったんだよ。だから一緒にお昼食べようと思って」そう言いながら先輩は購買で買ったであろうビニール袋を私に見せた。
「ご馳走になるとして、それなら食堂で待っててくれれば良かったのに」
「ほら、今日は気持ち良いから外で食べようかなって思って」
そう言えば、今日ははっきりと晴れるでもなくかといって風があるわけでもなく。過ごしやすい気候だった。
「もう鍵替わってますかね」
「わかんない。でも夕方くらいになると思うよ。まだお願いしてから4時間と経ってないし」
「愚問でした」
そう言われればそうであった。珍しく朝早くからあちこち走り回ったうえに寝不足が加わって、時間の感覚が麻痺してしまっているようだ。
「2人乗りとか久しぶりだわ」
そう言いながらペガサス号の荷台に横向きに腰を据えると、思わず振り返る私の肩に手を乗せてから、「行き先はお任せ」と片目を瞑って見せたのであった……真梨子先輩であれば、やりそうなことではあったが……
私は「落ちても知りませんよ」と言いつつ、高揚した気持ちを押し殺して、はいよっぺガサス!と坂道を転がり始めたペガサスの手綱をしっかり握りながら、まさか生涯の内に女子を荷台に載せて走る日が来ようとは……内心ときめいて仕方がなかった。それはそれとして、私が真に驚いていたのは、先輩が荷台を跨がずに。横乗りをしたことであったのだ。ワンピースと言う出で立ちのためかもしれないが、個人的に荷台に跨いで座る女子を見ると、げんなりとしてしまう。品性の欠片もありもしない。
勢いだけで見切り発進したものの、思い切りブレーキを握るたびに、断末魔の金切り声を上げるペガサス号には一抹の不安が拭いきれず、適当な所で止まらなければと思わざる得ない私であった。
使うたびに効きが悪くなるブレーキが遂に効かなくなってしまった。舟橋商店街を通り抜け、川沿いの道にハンドルを切ったところで私はペガサス号を止め、先輩に歩くことを促した。
幾ばくか葉の残る桜並木を見上げながら、歩き出した先輩は珍しく無口で、これからペガサス号との付き合い方について考えていた私もさすがにそちらの方が気になってしまった。
麗らかな昼下がり、この道ですれ違うのは老夫婦か気まぐれなジョガーか。広い道もないからとにかく雑音が少なく、ある意味特有の雰囲気のある世界がここにはあった。桜並木を少し進むと、凸凹したアスファルトの道から桜の花びらを象ったレンガが敷き詰められた道との堺があり、その脇には川縁へ降りる階段が設けてあって、ただ降りるだけで桜の大樹の麓へ行くことができた。
この道を通る度にこんな汚い川を眺めながら一時を過ごす者がどこにいるのだろう。と眉を顰めていたものだが。まさか自分がその『者』になろうとは思いもしなかった。
増水すればたちまち姿を水面下に消してしまうだろう、タイルが敷き詰められたスペースにはコンクリート製の見た目にも頑丈、インテリの欠片もない長いすが設けられてあり、真梨子先輩は先にその椅子に向かって階段を降りて行ってしまった。
私が椅子の所にやってくると、先輩は袋の中をまさぐって「どっちが良い?」と昼ご飯に買い求めていた菓子パンを取り出した見せてくれた。
「先輩が先に選んでください」
「じゃあ、私メロンパンにするから、恭君はコロネね」
「頂きます」
私は頭を掻きながらそう言って、チョココロネを受け取った。
さてどうしたものだろうか……この時、私はどうでも良いことを思慮していたのである。すでにズボンのポケットには片手を忍ばせてある。早く答えを導き出さなければ、次の瞬間には手遅れになってしまう。それでは思慮とて本末転倒であろう。
このような事は、いつか、彼女と呼べる乙女とのデートの時にこそ。そう考えていたのだが……
私は何も言わずにズボンのポケットの中で握っていたハンカチを取り出すと、真梨子先輩の鞄の隣に広げて敷きやっと「どうぞ」と呟いたのであった。
きょとんとしていた真梨子先輩の表情からすれ、私はとてつもなく恥ずかしくなってしまった。てっきり。「ありがとう」の一言が先行すると思っていた……乙女とのいいや、葉山さんとのデートの事前練習として、行動してみたのだが……この結果は家に帰ってから冷静な頭でもって次はどうしたものか論争する必要がありそうだ。
「何が面白いんですか」
私は頭を掻いた。真梨子先輩は何が面白いのか、くすくすと笑いながら、ハンカチの上に腰を降ろすと、やはり何が可笑しいのかそのまま笑い続けていた。
これでは私の立つ瀬がない。
「今時、こんなことする人いないよ。恭君って紳士だねえ」
紳士と言われることは嬉しくある。だが、笑い声と共に言われると、からかっているのか篤実と評されているのか判断に困る。
「そのワンピースを汚すのは勿体ないと思ったんですよ。これから家庭教師のバイトもあるんでしょ」
これも真実である。全てが婦女への愛情と言いたいところである。だが、半分はワンピースに一片でも土色がついてしまうのが勿体ないと思ったからなのだ。
「春また来たいね」
目尻の涙を拭ってから水面を愛でるように見つめながら真梨子先輩はそう言ったのであった。
◇
先輩よりも早くコロネを食べ終えた私は、会話の機会を窺うことなくただ、浅い流れの水面を見つめては佇んでいた。やはり季節は確実に冬へ向かっているようで、何もせずにじっとしていればそれなりに冷えてくる。
「なっちゃんも一緒だったら良かったのにね」
先輩はスカートの上に零れたパンクズを払いながら呟いた。
「それなら、小春日さんや音無さんも……」古平も……と言いかけて言うのをやめた。黒一点は私だけで十分だ。
「なっちゃんと何かあった?」
「どうしてですか」
「ついこの前まで良い雰囲気だったのに、今はぎくしゃくしてるって言うか、さ」
「それは先輩の勘違いです。良い雰囲気になんてなった試しがないし、どうやら私は葉山さんに嫌われてしまったようですから」
「もう葉山さんのことはいいんです」先輩が口を開きかけたの制するように続けて私はそう言った。
「女の子って、男の子からすれば面倒くさいんだよ。だからさ、少し我慢してあげてよ。今はそうでも時間が解決してくれると思うから」
そんな優しい顔でこちらを向かないでください。私は先輩のお節介加減に腹が立った。恋愛請負人と名を馳せ、知る人の居ない真梨子先輩であるから葉山さんをさりげなく紹介してくれたあの日は……あの日ほど先輩に感謝した日はなかった。そう思って疑わなかった。
思い起こせば私はこれまで、恋をするほど好きでもない異性に対して幾度か告白をしてきた『友達でいたい』とか『ごめんなさい』とか『そう言う告白はいや』とか『無視』とか……大凡、これ以上ないくらい振られ続けた経験をのみ培ってきた私なのだ。自身でもこれ以上の振られ方はあるまいと、次こそは成功するに違いない。と胸をときめかせ加えて真梨子先輩が後ろ盾てくれる現状から失敗することなど……微塵も感じていなかった。けれど、世間は広い、私1人が経験する事象の多さからすれ世間は広すぎた。
まだ外堀を埋めている最中に『告白する前に振られる』を新たに経験した。そんな経験値ばかりを高めてなんとする。ファンファーレと共にやさぐれ捻くれレベルがアップするばかりではないか。
縁は異なもの味なものと言うが、私は古平や部長を筆頭に阿呆漢との縁には恵まれても乙女とのご縁には遠く恵まれない星の下に生まれてしまったのだと生まれの不幸を呪うしかないのだ。
諭すように語りかける先輩の声を聞き流しながら私はやさぐれていた。そして、畳の上に残してきたゴミの山の後始末と1円玉の山の事が心配になり頭を垂れたのだった。
夕方を前に「冷えてきたね」と先輩が呟いて、頃合いだろうと「そろそろ交換も終わってると思いますよ」私はそう言うと静かに立ち上がった。
言葉少なく歩く道すがら私はやっと理解した。確かに私としては葉山さんが居ない方が気を遣わなくていい分、助かったのだが。内心ではどうして先輩が葉山さんを伴っていなかったのが疑問だったのだ。感づいたのか葉山さんから何か聞いたのか、先輩は私に『諦めるな』と言いたくて二人きりで話す機会をつくったのだろう。けれど、どうしようもない。仲直りもなにも喧嘩をしていないのだから直しようがない。それに、そもそも自分の恋路を先輩頼みにした私も情けがない。先ほどはつい先輩に腹を立ててしまったが、それこそ愚考だった。他力本願の丸投げでは成就するものも成就するはずがないのだから……
大家さんの家に行くと「もう鍵の交換は終わってるからね。恋人に頼るのも良いけどストーカーだったら警察に連絡してよ」と大家さんは心の底から真梨子先輩の事を心配してくれていた。本当に人の良い大家さんであるが、一つだけ訂正しておきたいと思う。
私は真梨子先輩の恋人ではない。
「恋人だってさ。これからも頼らなくっちゃね」
新しい鍵をキーホルダーにつけながら、嬉しそうに話す先輩。この人は究極の楽天家なのか事の重大さをすっかり忘れてしまっているのか。
「あんまり代わり映えしないね」
自宅へは先輩が先行することになった。缶をペガサス号のカゴに忘れて来てしまったことに気が付いて私が引き返したからである。
ドアの前で私を待っていた先輩に私が言った。確かに、据え付けられたドアの風合い違いに新しい鍵穴を見るに交換されていることは見た目にも確かではあったが、どうやら錠自体は以前と同じシリンダー型の物らしかった。
「前の鍵じゃ開かないから大丈夫だと思うけど」先輩は、以前使っていた鍵を入れて見たが錠は開くことはなかった。
そして、視線はメータケースのドアへ行くのだ。
「駄目だって言っても聞きませんよね。合い鍵の隠し場所を用意しましたから」
どれだけ言っても先輩はまた同じことを繰り返すだろう。ならば、やめさせるよりも、受容の後にそれに沿った対抗策を考える方が論理的である。それが事件のあった夜、炬燵の中で熟慮の末に出した私の結論だった。
「これ、全部鍵……」私が差し出した缶の蓋を開けて先輩はそう呟くと、何度か鍵の群れに指を差し込んでかき回すようにしていた。
「木を隠すなら森の中って言うでしょ。鍵を隠すなら鍵の中です」
私は少しばかり得意になって言った。諺のようなことをすらっと言えるとどうにも自分が偉くなったような気になって心地が良い。
「ありがとう。こんなにしてもらって……恭君は私の王子様だね」目尻に浮かんだ涙を拭いながら先輩が言うので「そこ泣くとろろじゃないですよ」とすっかり自己陶酔していた私は思わぬ涙に、舌を噛んでしまった……臨機応変に立ち回れない辺りは自己嫌悪である。
「でもこれじゃ、どれが合い鍵なのかわかんないね」完爾として口元に笑顔を作る先輩だったが、遂に涙を拭いきれず何よりも透明な雫が頬をつたい、やがて顎の先から足下へ落ちて行く。
「ごめん。嬉しくって……でも変なスイッチ入っちゃったみたい」と震えた声で続ける先輩。
「喜んでもらえたなら私も嬉しいです」私は頭を掻きながらやっとそう答えることができたのだった。
その後しばらく先輩は泣き続けた。そんな先輩の姿に昨夜の事を思いだしていると「上がっていってよ」と先輩は充血した目で言うのだ。私は困った顔をしてから作品を部長に提出しなくてはならない旨を伝え、これを断った。
お邪魔しても良かったのだが、話すことは川縁で全部話した気がするし部長への提出の件は本当だった。
珍しく食い下がらなかった先輩は「昨日から本当にありがと、やっと安心できた。後……ハンカチ嬉しかったよ。まさか映画のヒロインみたいなこと、してもらえるなんて思ってもみなかったから」と真梨子先輩は申し訳なさそうにはにかんで見せた。
「当然のことをしたまでです」と私は胸を張って答えた。
別れ際、
「ハンカチ洗って返すからね」と先輩は私の背中にそう言った。ポケットの中にずっと入れっぱなしにしていて、もしかしたらあの椅子よりも汚いかもしれないハンカチであるからして、今更ながら逆に私が申し訳ない気持ちになってしまった。
私はスキップをしたい気持ちを抑え、ドアの閉まる音を待った。そして、階段に差し掛かったところで、その音が聞こえるや否や、本当にスキップをしながら階段をおりた。階段をスキップで降りるなどと、高度なスキップテクニックが自分に備わっていたことに驚きつつ、私はどこまでも上機嫌だったのである。
感謝の言葉の後に『当然のことをしたまでです』この一言がただ言いたかっただけかもしれない。それでも良い。この広い世の中で『当然のことをしたまでです』と実際に言うことができた男子が幾らほどいようものか!私の悦喜は最高潮達し、ペガサス号への数歩の合間を拳を突き上げ、私は今なんと格好の良い男なのだろう!と疑いもしなかったのである。
その刹那「格好悪いぞ。スキップ恭君!」真梨子先輩の声が聞こえた。ペガサス号に跨った私が見上げる先には、悪戯に微笑む真梨子先輩の姿があった。
私の栄光は5分と保たなかった……
○
今日を1日がんばりましょう。と目まぐるしい日々を越えて、ようやく私は最後の釘を打ち合えたのでした。
教室の端で居眠りをしている人、床に散らばる木材片やダンボール、絵の具が何重にも練られたまま固まってしまっているパレット。改めて見回してみると如何に作業が壮絶を極めていたかを窺い知ることができます。
「ふぅ」私は一息ついてから、軍手を外して資材置き場の上におくと、外注リストが所狭しと書かれた黒板に向かい、最後の外注品のところに赤いチョークで横線を引いたのでした。
後は、外注元である各部、同好会が品を取りにくるだけですので、やはり私達の仕事は終わったのでした。
「お疲れ葉山さん。ごめんね、外注ばっかりお願いしちゃって」実行委員の音無さんがペットボトルのお茶を差し入れてくれました。
「いいえ。楽しかったですから」
「明日は本番だから、今日はゆっくりしてよね」
「はい」
そう返事をしてみたものの、個人作品があるわけでもなければ小春日さんのように最終日にファッションショーを控えているわけでもありませんから、どちらかと言えば参加者と言った方が正しいのかもしれません。
心地よい疲労感に包まれ、半ば燃え尽きたようにぼおっとしていました。教室に差し込む夕焼けのオレンジが一層疲れを助長しているように思えてしまいます。
このままここで玉響のうたた寝をしてしまっても誰に何を言われることもないのでしょうね。そんな事を考えながら差し入れのお茶を一口飲みました、喉の渇きさえも忘れていましたので、含んだお茶は私の体の中を巡って乾いた体を潤してくれているようでした。
「終わり」
寂しいような嬉しいような。いずれにしても私の役目はこれにて終わりとありなりまして候。なのです。
ジャージの上着についた木くずを払いながら帰っている途中に真梨子先輩から電話がありました。
「はい」
「よかったぁ、なっちゃんまた携帯家かと思ってた」
そう言う先輩に私は少し口をすぼめました。資材の調達や作業の進行具合など、その連絡手段として携帯電話必須アイテムで、ここ3日間、私は生涯で一番携帯電話を使ったと胸を張って言えるのです。何せ、充電器を大学へ持ち込んだくらいですから。
先輩が「前夜祭しようよ」と言うので私は一度家に帰るか否か考えてから、直接先輩にアパートへ行くことにしました。
「何か買って行く物ありますか?」とメールを打っている最中に「何も買ってこなくっていいからね」と先輩からメールが入りました。何もかもお見通しなのですね。私は携帯をポケットに片付けると、少し歩みを早めました。
何を作るのかは知りませんでしたが、お手伝いくらいはしなくてはいけませんあから。
「お邪魔します」
先輩のアパートに到着すると、丁度先輩は誰かに電話をしている所でした。小春日さんでしょうか?と思っていたのですが、電話を切ってから「いらっしゃい。小春ちゃんも呼んだんだけど、まだ準備残ってるって」と言うのです。では一体誰に電話をかけていたのでしょうか。
「今夜はお鍋をします!」
エプロンを私に差し出しながら先輩は高らかに宣言をしました。
「朝夕冷えますもんね。がってんです」
私は頼りない腕を曲げて力こぶをつくる仕草をしてこれに答えました。
お鍋の材料を切ったりと準備をしている最中、今日中に千年パンツの仕上げをすることや、
「ねぇ、どうして上下ジャージーなの?」
「家にあった汚れても良い服がこれだったんです」
「ふーん。それ、高校のジャージーでしょ」
「はい。母が送ってくれた荷物の中になぜか入っていたんです。送り返すのがめんどうだったので箪笥の奥にしまってたんですけど、思わぬところで大活躍です」
「うーん。ジャージーかぁ」
「ジャージーにエプロンが不似合いな事ぐらいわかってますよ。スカートでは釘打ちはできないんです」
「うーん。そう言う意味じゃなくってね。んーそこまでマニアックじゃないと思うわけよ。私は」
「ジャージーはマニアックですか?みんな着る時は着ますよ。体育の時とか」
「さすがにロリコンじゃないと思うし……」
「私はロリコンじゃありません!」そんな噛み合わない会話をしていました。
やはり一度家に帰って着替えてから来た方が良かったですね。お手伝いを優先させたことに関しては後悔はありませんが………そんなにジャージー姿がおかしいのでしょうか?
コンロと土鍋を炬燵の上にセットしていると、呼び鈴がなりました。
「ごめん。なっちゃん出て」
私は音無さんでしょうか。と思いながら「はーい」と玄関へかけて行き、ドアを開けるとそこには両手に重そうな袋をぶら下げた夏目君が立っていました。
「あ、こんばんは」私は思わず夏目君の顔から視線を逸らしてしまいました。それ自体に意味はないのですが、てっきり音無さんだと思っていたので驚いてしまって……つい……
「これ先輩に頼まれたものです。とりあえず、ここに置いときますね」
夏目君は小さく会釈をして、そう言いながら携えていた袋を玄関に置きました。
「それじゃ、私はこれで」今度は夏目君が私から視線を逸らしてそう言います。
ドアが静かに閉まってから、夏目君が置いて行った袋の中身を見るとそこには南京錠が売るほど入っていたので違う意味で驚きました。
「あれ、恭君じゃなかった?」
お玉を持ったまま先輩が玄関に来たので「夏目君でしたけど、これを置いてすぐに帰りました」
「えぇー嘘ぉ。前夜祭一緒にしようと思ったのに」あからさまに肩を落として残念がる先輩です。
さっきの電話の相手は夏目君だったのですね。私は得心がいきました。そして同時に、しくじってしまった事に気が付いたのです。これは夏目君と先輩の親密度を上げるチャンスではありませんか!っと。
「追いかけましょうか?まだ間に合うかもしれませんから」私はそう言いきらない内にドアノブに手を掛けました。
けれど「追いかけなくてもいいよ」っと先輩の手が私の腕を掴んだのでした。
「え……でも……」私は宙を泳ぐ右手を引っ込めました。
「今夜は2人だけでお鍋しよ。ちょっと寂しいけど」
そう言う真梨子先輩は何かを諦めたような……そんな風でした。
○
「そう言えば、この大量の南京錠。どうしたんですか?」これは夏目君に聞いた方が良いように思ったのですが、とりあえず先輩に聞いてみました。
「んーとねぇ」
先輩は土鍋に昆布を入れてから少し考えていましたけれど、「こっち来て」と玄関の方へ行ったかと思うと、さっさと外へ出て行ってしまいました。
私も急いで後を追って外に出ると、先輩がガスメーターの防火硝子張りの蓋を開けていました。
「これ見て」
私が出てきたことを確認してから、先輩は以前に見た物よりも2倍以上は大きいお菓子の缶を持ち上げて私に見せてくれました。
「合い鍵の置き場所ですよね?」
缶の中をのぞき込みと、同じ様な形をした鍵が缶の中程までぎっしりと入っているではありませんか「これ、先輩がしたんですか?」思わず眉を顰めて先輩に聞きました。すると、
「違うよ。恭君がね、わざわざ用意してくれたの、私のこと心配して」と缶をまるで自分の子供のように愛おしそうに見つめる真梨子先輩です。
「なるほど。ブラウン神父ですね」
「誰それ?」きょとんとする先輩でした。
「木を隠すなら森の中。と言う言葉の原型を作った人です」ブラウン神父は物語の登場人物なので、厳密にはその著者が作った人なのです。
「そうなんだ、知らなかったわ。なっちゃん物知りだね」
先輩は普通に驚いているようでした。中学の時にたまたま小説を読んで知っていただけなんですけど。
「でも、これだけあったら本物を見つけるのも大変ですよね……」
私は先輩の抱える缶の中に手を入れて、ひんやりと冷たい鍵を掴んでは離しを繰り返しました。なぜかお金持ちになった気分になるのは気のせいでしょうか。
「だよね。だから、目印どうしようか考えてる途中なの」ガスメーターの下に缶を戻しながらそう言う先輩は「だからまだ合い鍵入れてないの」と苦笑をしながら続けてそう言いました。
確かに、これだけの鍵の中からたった一本の鍵を見つけ出すことはとても難しい事だと思います……けれど、これではどれが本物なのかさえわからないじゃないですか。合い鍵とはもしもの時に重宝する鍵ですから、もしもの時、すぐに見つけ出せなければ意味がありませんし、それが急ぎの時であれば「こんな余計なことをして!」と憤る事請け合いです。
夏目君は感謝と迷惑が絶妙に織り交ぜられたややこしいことをしますね。と私は思ったのですが、当の先輩は「頼んだわけでもないのに……恭君らしい優しさ」とまんざらでもない様子だったのでそれを口に出すことはしませんでした。
お鍋の中身が煮える間、私は足先から沸き上がる羞恥心に顔が熱くなるのを感じていました。
「夏目君を呼ぶなら言っておいてくださいよ」
「言ったらなっちゃん帰っちゃったでしょ?」
「どうしてそうなるんですか。せめて、先輩が出て下さい」
今になって考えてみれば、きっと夏目君は吹き出すのを我慢していたのだと思います。目の前にいきなりジャージーにエプロンをした女の子が現れたなら、そのちぐはぐさに笑ってしまうことでしょう。人は驚きすぎると言葉が出てきませんけれど、爆笑を堪えている時だってやはり言葉を発することができないのです。
「そんなに恭君のこと嫌わないでよ。悪気はないんだから」
「だから嫌いとかそう言うのではなくって、こんな格好でその……恥ずかしいじゃないですか!」
帰るとか嫌いとか、先輩はいちいち話しを変な方向へちゃかすので私はつい語気を強めて言ってしまいました。言い終わった後に、先輩が惚けていたので、しまった。と思ったのですが、次の瞬間には「なんだ恥ずかしかったんだ。よかったぁ」と言いながら真梨子スマイルを炸裂させたので、私は内心ほっとしたのでした。
◇
先輩と別れ、大学へ寄った後、家に帰って来た私は突きつけられた現実に思わずため息をついた。文芸部展示室に並べられた他部員の作品の中に『千年パンツ』紛れ込ませた後、執拗に電話を掛けてくる部長の電話を尽く無視をしてさっさと帰宅したのだが、畳の上にはゴミの山と鍵の無い南京錠の山、そして私の命綱となるかもしれない1円玉の山がそのまま残っていた。
どうやら妖精さんは私の留守中に現れなかったようである。かといって、帰って来てこれらの山がどうにかなっていたらそれはそれで恐ろしい。妖精さんなど押入にも引き出しにもいやしないのだ。
とりあえず、それぞれをレジ袋に詰めて部屋の片隅へ固めておいておいた。腹が減ったと冷蔵庫を開けてみればものの見事に何もなく、卵だけがあったからとりあえず卵を焼こうと殻を割ってみれば、途端に得も言われぬ悪臭が私を襲った。生命の危険を感じた私はたちまち台所から退避してみたが、悪臭は私をホーミングするかのようにどこに逃げても追いかけて来た。咽せながら最終的にベランダへ逃げ込んだ私は、心なしか黄ばんで見える部屋の中を見ながら、生でも焼いても茹でても良し、美味必然の生卵がいつの間に化学兵器に成り代わってしまったのだろうか、と真面目に熟慮をし、もしかしたら侵入者があったのかもしれないと結論づけた。
私はベランダから望むマンションに灯る明かりの一つ一つを見ながら、あの一つ一つに家庭があって今頃、美味悦楽の真っ直中にいるのだろうな。などと、マッチ売りの少女に同情の念を馳せる一方で、やっと窓をあけて悪臭に支配される部屋にはいったのだった。
空きっ腹に寒さは答えるのである。
喚起と言う喚起を施して後、ベランダほど冷えはじめた室内にいて私は携帯が震えていることに気が付いた。また部長だろうと無視をするつもりでいたがもしかしたら、と携帯を手に取ると案の定、真梨子先輩だった。
昨日の今日であるから、私はまた何かあったのだろうかと臍を固めて電話に出ると
「あっ、恭君。今大丈夫?」と普段の声が聞こえて来たので胸をなで下ろした。
「大丈夫です。なんですか?」
「あのね、恭君がくれた鍵の鍵ってどうしたかなって思って」鍵の鍵って……先輩のことだからてっきり、『前夜祭しよっ!」などと突拍子の無い提案をしてくるのかと思った。現在の私にとってはとても有り難い提案なので、電話口一番に甘美祭の話題に私は落胆の色を隠せなかった。
「錠の方なら、まだ持ってますよ」捨てようにも南京錠は何ゴミになるのだろう。やはり燃えないゴミだろうか。
「よかった!今テレビ見てて良いこと思いついたの。悪いんだけど家に鍵持って来てもらえないかな」
「全部ですか?」
「うん、全部!」余程、良案が閃いたのだろう。先輩の声は私と逆ベクトルで明るく弾んでいた。
私と言えば「わかりました。もう少ししたら持って行きます」と素っ気なく返事をして期待はずれと一方的に切ってしまった。
空腹は時として人格さえも変えてしまうのである。
期待はずれだっただけに、余計にタイミングが悪いと思ってしまうのはもはや仕方がないことだと思う。昼間無理矢理2人乗りをしてペガサス号のブレーキがお亡くなりになってしまっていたことを忘れていたのだ。仕方が無く、すでに食い込むビニール袋を両手に下げて私は真梨子先輩のアパートへと向かったのである。
両腕が疲労を通り越して痺れはじめた頃、やっと先輩のアパートに到着した。呼び鈴を鳴らすとドアの向こうから、「はーい」と言う声が聞こえた。声からして先輩ではないことがわかったからもしや、と思うも時すでに遅く開いたドアの先には葉山さんの黒い瞳があった。
目があってしまったので不器用な間があってから「あ、こんばんは」と言った。すると葉山さんは返事をすることなく視線を逸らしたではないか。目は口ほどにモノを言うのだから、どうしても嫌われてしまったものだ。と私も葉山さんから視線をはず
して「これ先輩に頼まれたものです。とりあえず、ここに置いときますね」できるだけ葉山さんが視界に入らないように気をつけながら運んで来た荷を玄関のところに置いた。
「それじゃ、私はこれで」
瞬間だけ葉山さんの姿を眼に焼き付けると足早にその場から退散した。
帰りの道すがらも部屋に帰ってからも、私の頭の中はジャージー姿の葉山さん一色であった。普段着の葉山さんも可愛らしい。だが赤に近い紺色のジャージー姿の葉山さんとてやはり愛らしい。ドアから顔を覗かせた葉山さんを思い出しながら今更ながら、共学の高校へ行っておけばよかったと猛烈に後悔したし、目視撮影にて脳内現像された葉山さんに思いを馳せてはどうしてエプロンをしていたのだろうとか、やっぱり可愛いなぁ。と私自身がすでに【振られた(仮)】現実を踏まえた上でもまだ葉山さんに恋いこがれている事実を認めざるを得なくなった。この感情だけは決定的な結論を彼女自身から告げられない限り、私本位に都合良く割り切れるものではない。
私は葉山さんのことが好きだ……彼女の事を考えると夜も眠れず空腹さえも忘れてしまう。
だからこそ、今のままではいけない。このままでは、自分の気持ちすら伝える勇気がない言い訳に煩悶と歪曲を繰り返しあげくにフランソワーズちゃんしか愛せなくなった部長の様に堕落してしまう。
私はアレを男子の成れの果てと呼んでる。
明日から数日続く甘美祭はそれにうってつけの機会であり、日頃では絶望的でもこの誰しもが浮かれる数日間に関しては勝率がかなり上がる……らしい……古平情報なだけに信用しきれない部分もある。だが、この機会に成功を収めることができたなら、
後に続く、クリスマスや大晦日を最大限充実させることができる。
理詰めにて十分に自身を鼓舞した私は、闘志をみなぎらせ来る一世一代の天王山はこの機にあり!勝負はいつでも一か八か石橋叩きくそ食らえ!
と、ノープランで勢いづいていたのであった。
◇
無駄に興奮をしてうまく寝付けなかった翌日、私は部長からの着信で最悪な朝を迎えた。
全然把握していなかったのだ、どうやら、甘美祭初日、展示室の案内係が私であるらしく、「シフト表を作らない部長が悪い」と抗議してみるも、聞きとれないほどあれやこれやとがなり立てるので、仕方がなく着の身着のままで大学へ向かうことにした。
徒歩で大学へ向かうと、えらく文化祭らしく様変わりしていたので正直に驚いた。昨日訪れた時にはその毛すら感じられなかったと言うのに、一晩でよくここまでやってのけたものだ。
秀吉の一夜城も吃驚である。
『甘美祭』とかかれたアーチをくぐって、講堂まで所狭しと露天がならび、ピロティでは演芸部が客引きに奔走していて、一部の学生が執行部に追いかけられていて。賑やかなること祭りの如し。「文化祭はこうでなければいけない」私は納得するように頷いた。『祭りは雰囲気を楽しむものだ』祖父の口癖であったが、それまさに、「同じ阿呆なら踊りゃなそんそん」講堂棟からメイン会場であるグランドを挟んだ向こうに見える部室棟の屋上から上がっている広告気球を見上げながら私はもう一度呟いた。
間に合わなかったのだろうか。講堂棟の中庭内にある緑地帯ではクリエイティブらしい面々が何やら急ピッチで建設中であった。ご苦労なことである。
ビンゴゲームに白熱するグランドを横切って部室棟内にある文芸部の展示へと向かうと受付と書かれた紙コップを置いた長テーブルに部長がいて、電話口と替わらない音量で何やかんやと文句を言われた後に真梨子先輩の近況を聞かれた。
「そんな事、知るわけないでしょ」面倒くさいので適当に返事をして展示室内に入ると思っていたとおり文芸部員の面々が出展した作品を身内同士で褒め合っていた。
そんな微笑ましい情景に唾棄したい気持ちを抑えつつ、狭い室内に並べられた文芸紙や個人作品、部長のフィギュアコレクションを一通り見て回った私は、受付席に腰を降ろして、大きな欠伸をしつつ大袈裟に伸びをした。
去年もそうだったが、いくらスペースが余ったからと言って、フィギュアを並べるのはいかがなものだろうか。過去の作品を並べるなり、やりようはあるはずだろうに。
身内論評を十二分にし終えて、満足感を漂わせて部屋を出てきた面々を見送りつつ、「夏目君のも面白かったよ、もう少し推敲したらもっと良くなったのに」と感想をくれた愛すべき隣人を「〆切に間に合わなかったんだ」ともっともらしい言い訳をしてやり過ごし、静寂を取り戻した廊下で私はさっそく机に突っ伏したのであった。
◇
三十分ほど意識を失って、足先の寒さで寝られなくなった私は、エアコンの入った展示室内に入ると、受付から携えてきた油性ペンでフィギュアに落書きに興じたのである。
瞳を塗りはじめた所で、ポケットが震えるので取り出してみると、真梨子先輩からのメールだった。
[中庭で面白いことするから、なっちゃん誘って一緒においでね]
ほう。また悪巧みですか先輩……大好物です。
私と葉山さんとの仲を取り持ってくれる先輩の気持ちは、とても嬉しかったのだが、私の気持ちの中ではすでに他力本願では成せるを成せず成るを成らせず。もう覚悟を決めていた。
[葉山さんとは行けません]
[どうして?]
[葉山産にはすっかり振られていたんです。先輩も私と葉山さんの事は気にしないでいいですから]
回りくどいやりとりを続けて、電話を掛けてこられても困る。少々仰々しく葉山さんとの結論ではなく私自身の結論を託して、最後のメールを送信した。
送信した後になってあんな文を送った方がよっぽど電話がかかってくると思い直し、急いで携帯の電源を切った。
何の接点もなかった葉山さんとの切っ掛けを作ってもらえたこと。ただそれだけで良かったはずなのだ。これ以上のお膳立てはいらない。
必要なのは不退転の覚悟ただそれのみ。
○
お鍋を食べ終わった後、先輩と千年パンツの仕上げをして、明けた甘美祭当日。先輩は準備があるからと朝早くに大学へ向かい、先輩と一緒に部屋を出た私は、一度家に帰ってから美術部の展示コーナーにそれを展示しに行きました。
一端木綿のように長くてでも汚くて。急ごしらえにしては風合いや汚れの具合など、うまく表現できていると思います。
お祭り日和の本日は、お日様ぽかぽかで温かく、かといってそよ風は冷たくて心地よく。お昼寝日和でもありますね。そう思ってしまう私はすっかり寝不足のようでした。
気持ちよさそうにふわふわと青空を泳ぐアドバルーン。会場随所に見あたる大道具のほとんどは美術部とクリエイティブ部とで製作したものです。ですから私が手がけた物も見あたりますし、携わらずとも製作最中を見知っている物も数多く。自分の作ったものが誰かの役に、また、この甘美祭と言うお祭りを構成する一部になっていることを実感すると、昨日、最後の釘を打ち終えた感慨が蘇るようでした。
「葉山さん。お疲れ様」
学食前で小春日さんと出会いました。服装からからすれ小春日さんはまだ作業を続けているようで「お疲れ様です。まだ作業ですか?」と私が小春日さんの肩越しに中庭を覗くと、クリエイティブ部の方でしょうか数名が中庭の緑地に何やら建設をしていました。
小春日さんは「急遽作ることになったんだってさ。私はもう作業終わったんだけど……」軍手をジーンズのポケットに押し込みながら「着替えに変えるのが面倒になっちゃって」と苦笑しました。
「でも、よく引き受けましたよね。クリエイティ部も今朝ギリギリでなんとか外注を消化できたって聞きましたけど」
「だよねぇ。私だったら絶対断る。学食のチケットちらつかされても断るわよ!」小春日さんは腕を組むと何度も頷いてそう言うのでした。
文化祭を経験するたび学生は逞しくなる。なんて噂がまことしやかに噂されていましたけれど、どうやら事実だったようです。
私と小春日さんは連れだって、カフェに様変わりした学食に入ると、二階の席へ移動しました。
まだ甘美祭が開催されて間もない事もあってか大凡は県大の学生が占めていました。
「そう言えばさ」
入り口とは逆方向の窓側の席に腰を降ろすと同時に小春日さんが身を乗り出して言いました。
「何ですか?」
「先輩には秘密って言われてるんだけど」周りを気にしながら声を潜めて続けます。
「もちろん、お墓まで持って行きますとも」私も『秘密』と言う言葉に惹かれて、身を乗り出して小春日さんに顔を近づけました。
「真梨子先輩、クリエイティブ部の人達と一緒に何か作ってるみたいなのよ」
「何か?ですか……もしかして、それって中庭で作っていたのと関係があるのかもしれませんね」
「んーどうだろ。ちらっとしか見えなかったんだけど、私が思うにあれは鳥居だと思うのよ」
「鳥居ってあの神社にある鳥居ですよね?」
「そう、その鳥居。朱色じゃなかったけど形は鳥居だった」
「と言うことは真梨子先輩がクリエイティブ部の人に手伝ってもらってるってこと……かな?」
「真梨子先輩が鳥居を作る理由はわかんないけど、仮に真梨子先輩が頼んだんだとしたら、クリエイティブ部が手伝っててもおかしくないかも」
細くて形の良い人差し指を顎のところにやって「クリエイティブ部の部員の何人かは真梨子先輩の事好きだし、部長は去年仲人してもらったしね」と続けて言いました。
「そうだったんですか!初耳です………」
「そうだよ。他にも美術部と弓道部とソーイング同好会とサッカー部と……映画研だったかな。みんな仲を取り持ってもらったの」
「そんなに……ソーイング同好会とサッカー部は小春日さんと古平君ですよね」
私は思いついたままを口にしてみました。
「あぁ。うん」
すると、小春日さんは急に口元をすぼめて視線を机に落としてはもじもじとするのでした。
その可愛らしいことと言ったら!
「いたっ!」
私が小春日さんの微笑ましい姿を見てにこにこしていると、俄に入り口の方が騒がしくなり、突然の落雷のようにそんな声が響いたかと思えば、ぺったんぺったんがこちらに迫って来るではありませんか。
「ぇえ、先輩」小春日さんが眉を痙攣させてそう呟きます。
声で何となく落雷の主が誰なのかはわかっていましたけれど……まさか、明るい茶色だった髪の毛の色を黒に戻して且つ巫女装束で現れるとは思っても見なかったので、私の横手に胸を張るように仁王だった先輩に私は言葉を失ってしまいました。
そして先輩は大きな声で言うのです「恭君振ったって本当!」っと……私は寝耳に水と思わずカフェラテをこぼしそうになってしまいました。
「そんなっ!振るも何も告白さえもされてません!」
私はみるみる自分の顔が熱くなるのを感じました。
「それに声が大きいです。メールか電話にして下さいよ」先輩が、大きな声で言うものだから、周りの視線が一点に集中してしまっているではないですか……ただでさえ突然闖入してきた巫女装束に視線は釘付けとなってしまっていると言うのに。
「何度も電話もしたしメールも入れたもん。でも出ないし返事もないから、直談判!」
「えっ、最近はちゃんと携帯を持って来てます」私は急いでポケットの携帯を取り出しました。
「あ……電池が……」使用頻度が増えるとバッテリーの消費も増えるのですね……
「バッテリー切れじゃ葉山さんに罪はないよ」携帯の画面を見たまま固まっている私に小春日さんが助け船を出してくれました。
「なっちゃんさ。本当に振ってないの?」
「誰が言ったのか知りませんけど、私は振っていませんし、告白もされてないんです」
私は語気を強めていいました。身に覚えが無いのだから否定し続けるしかありません。
「なんだぁ。もう恭君はいつもそうなんだから」
先輩は私の瞳を見つめて事の真意を確かめたのでしょうか。少しの間、考えてから大きく息を吐きながら、脱力したように両手を机の上についてそう言いました。
「夏目君が、振られたって言ったんですか?」
「多分、私の勘違い。本っ当にお騒がせしました」手のひらを会わせて深々と頭を下げる先輩なのでした。
「中庭で面白いことしてるから、きっと来てねぇ」そう言い残して先輩はぺたぺたと草履を鳴らしながら足早に入り口付近の雑踏の中へと消えて行ってしまいます。まるで嵐のようですね。私がそんな風に思っていると「嵐みたいだったね」と小春日さんも言うので「私も今そう思っていました」と笑いあったのでした。
○
「はじまっちゃうと、なんかもう終わっちゃったみたいだね」伸びをしながら言う小春日さんはどこか眠そうです。
「そうですね。急にやることがなくなると、気が抜けてしまって」
昨日までの忙殺の日々がまるで嘘のみたいです。はじまりと同時に終わりが始まる。そんな風に言いますが、本当にその通りです。本来は本番こそ楽しまなければいけないのですが、どうしても準備に明け暮れた日々を思い出しては寂しくなってしまいます。
きっと、大変だったけれど、とても充実した毎日だったのでしょうね。
「んーどうせやるなら徹底的にやった方がいいよね。お互いのためにも」
私が賑わう学食内を見て感傷に浸っていると、小春日さんが突然そんなことを言うので私は「甘美祭をですか?」と聞きました。
「違う違う。キューピット。真梨子先輩と夏目君のキューピットするって決めたのに、ちんどん屋とか文化祭の準備とかで何もできてないから……」
「あぁ……そうでした……」
実を言うと私もすっかり忘れてしまっていました。
「この甘美祭でなんとかできないかなぁ」
「良い機会だとは思いますけど……どうしたらいいか……」
何もしないまま暗礁に乗り上げた気分です。確かにこの文化祭と言う機会を逃す手はありませんけれど、私には何をどのようにすればいいのか皆目検討が付かないのです。
「夏目君にとっては忘れられない文化祭になっちゃうけど……まずそれからはじめないと……」
悩むに悩めず、小春日さんの提案を待っていた私は深刻そうな小春日さんの表情を斟酌して思わず息を飲みました。
そして「あのね……」と小春日さんが重々しく口を開いたのでした。
◇
文化祭での買い物は2日目に行うに限る。そもそも素人屋台であるからして、初日のクオリティたるや味見程度のもので、とても財布を開いてまで購入する価値などありはしないのである。
だから翌日の昼前に再び大学へと足を運んだ私は、早速、作り置きをしすぎて売り物にならなくなった、たこ焼きと焼きそばを手に入れると、文芸部の展示スペースへと向かった。甘美祭期間中、構内での飲食は禁止されていたが、そんなことを気にする私ではなかったし、この小さな背徳感が味を良くしている感さえあった。
「夏目君。君どんな奇術を使ったんだい」
無人の受付の机の上に食べ終わったゴミを置いたタイミングで、部長が展示室から出てきたので驚いた。
「何の話しですか」
「これだよ」そう言いつつ携えたノートを開いて見せた。
『訪問帳』と表紙に大きく書かれた新品同様のノートには、珍しく作品の感想やらが何ページにもわたって記されてあった。
「今年は盛況ですね」この訪問帳が去年の使い回しだと思えば尚更だ。
「いや。それにも驚いたんだけどね。これ全部君の作品への感想なんだよね」
確かに、感想の一番上にの所には『千年パンツの感想』と書かれている。全ての感想の上にそう書かれているのである。著者である私が一番奇妙奇天烈と顔を顰めたくらいだ。
「天変地異の前触れだよ」
嫌味を残して受付席につくなり部長は「僕は何を間違えたんだ」と頭を抱えてしまった。編集長を気取ってみたものの、編集監督できなかった作品が世に受けたのが余程堪えたらしい。
「似非なんだから、気にしないでも良いじゃないですか」と慰めた積もりが、「なんだと、うるさいうるさいうるさい!」逆に火に油だったので、噛みつかれる前にノートを机の上に置いてその場を離れた。
「ゴミ置いてくな!」と声だけが廊下を追いかけてきたが、聞こえない振りをしたから万事問題はない。
二階へと続く階段を上った私は多目的室へ向かった。確か美術部とクリエイティブ部が作品の展示をしているはずだからである。
芸術に興味すらない私であったが、先ほど拝読した感想の中に『美術展示で実物を見て気になりました』と言う記述があり、それを読んだ私が今度は気になったわけである。
多目的室は賑わいを見せていて、クリエイティブ部と美術部の部員の何名かが熱心に来場者に作品の説明をしていた。
それは会場の窓側に展示されたあった。
衣紋掛けに掛けられたそれは、パンツと言うには長く、下に行くほど尻つぼみ。両脇から伸びる細い物はまるで手のようで……まるで一端木綿のようだった……と言うか、千歩譲ってもパンツではく、ふんどしではなかろうか……
まさかとは思ってみたものの、作品の下の所にはマジックペンで『千年パンツ』と書かれてあった。
「ふむ」何とも言えない汚れ具合とくたびれ加減に千年経てばこうなるのか。となぜか著者である私が納得してしまった。実に無責任な話しであるが、私は千年パンツに関して実体像を想像していなかった。
そして、作品タイトルの下に制作者欄に先輩と葉山さんの名前があったことに関しても納得できてしまった。そう言えば、制作するようなことを言っていた気がする。
「千年パンツってどんな小説なんだろうね」
「文芸部の展示で読めるらしいよ」
「ちょっと行ってみない?」
私の隣で特大ふんどしを見ていた高校生くらいの女の子達がそんな会話をしながら、多目的室の出口へと向かって歩いて行く。
なんと至福の時だろうか! 私は嬉しい悲鳴を上げそうになって、もっとちゃんと推敲をしておけばよかったと猛烈に反省したのだった。
後悔をしても今更どうなるわけでもない。だから私は逃げるように部室棟から退散して本館の方へ向かうことにした。グラウンドでは相変わらずビンゴ大会をしている。よくもまぁそんなに景品があるもんだな。などと思いつつ、更に歩いていると、突如、緑色の短パンに同色のランニングシャツ、顔には黒に目の周りを赤く塗った覆面マスクをした変なモノが現れ。無駄のないランニングフォームで私の横を駆け抜けて行った。
その後から遅れて「それ捕まえてぇ!」と箒を両手に持った音無先輩が駆けて来たので、
「どうかしたんですか」と声を掛けた。
「あの覆面。昨日から甘美祭を荒らして回ってるのよ」
どれくらい走ったのだろう、音無先輩は『執行部』と書かれた腕章を直しながらその手で額の汗を拭った。
「食い逃げですか?」
暢気に言ってしまった私に、
「それならまだ可愛いわよ」と鼻筋の通った音無先輩の顔がこちらを向いた。私としてはもう少し背が高ければ好みであると思った。
手配ネーム『ラン覆面』と執行部が名付けたそれは、先ほどすれ違った上下ランニング姿で覆面マスクを被った男で、主な犯行は手を繋いでいるカップルの間を「爆発!」と言いながら裂いて駆けたり、1人でいる女の子に小玉林檎飴を配ったりするらしい。最新の犯行手口としては、楽しそうなカップルの男の方にだけ水風船をぶつける凶行も確認されているとのことだった。
「暇な奴も居たもんですね」私は率直な感想を述べてみた。
「暢気に言わないでよぉ。昨日から苦情がひっきりなしで困ってるんだから。ただでさえ会場運営に人手が足りないって言うのに」音無先輩はとても窶れた表情を作って私に陳情する。
そんなこと私に言われても困るのだが……
話しの流れとして「と言うわけだから、夏目君逮捕に協力して。うまく言ったら、執行部で発行してる模擬店の無料券あげるから」となり当然の帰結を持って「わかりました。是非協力させて下さい」私は執行部に手を貸すことになった。もちろん、これは健全なる甘美祭の運営の為であって、決して無料券に身の籠絡を許したわけではないと言っておきたい。
音無先輩から箒を受け取った私は、先輩の所持している無線から「奴は再び本館方面に逃走中です」と言う無線を聞いて、先輩よりも早くに韋駄天走りで駆け出した。
私は一刻も早く奴を捕縛して晩ご飯を手に入れなければならないのだ。何せ、金がない私には転じて食う物がない。
冷蔵庫にあるのは腐った卵だけなのだ!
「私は学食の方から行ってみるから、本館よろしくね」
中庭のグラウンド側の端にある図書館横の通路で音無先輩と別れた私は、緑地帯にできた黒山の人だかりを苦々しく思いつつ、事務所へ通じるドアを開けると二階へと上がった。
本館2階は各研究室が並んでいて、甘美祭とは一線を引いた静寂が漂っていた。治外法権と各教員が割り振られた研究室に入りきらない荷物を廊下に置いているので、さながら旧館の物置のようである。
手に持った箒をそれとなく左右に振ったりしながら、歩いていると、柄が何かに当たったらしく、瞬く間に床一面に小さい何かが広がった。拾い上げてみると、それはどうやら金平糖らしく、食べて確認をとまで気は起きなかったがその形からそうだろうと私は思った。
どうしてこんなところに金平糖が。当然のようにそう思ってみたものの、瓶詰めされた素麺にボートのオール。何が入っているのか不明な大きなダンボール箱と、置きっぱなしになっている荷物のバリエーションの自由さに金平糖くらいあっても何の不思議もないと思い直した。
丁度、箒を持って居るのだから後でか片づけるとして、私は窓を明けて中庭を見下ろした。
鬼ごっこの鉄則はまず高いところに登ることなのである。
格好からしても、あの有り余る体力と脚力からすれ、陸上部であることは明白であったが、それはきっと甘美祭の後に執行部が陸上部を断罪するであろうから、今はあまり重要ではない。
今大切なのは一刻も早く無料券を……ではなくて不埒漢による凶行を阻止することなのだ。
緑地帯を中心に中庭は人でごった返しているので、覆面男は中庭を通ることはしないだろうと私は考えた。そして、ビンゴ大会よりも人気を博している緑地帯には白い鳥居が立っており、そのすぐ前には巫女装束に身を包んだ真梨子先輩の姿があった。髪の色を黒に戻していたので、一瞬誰だか判別できなかったが、はじめて声を掛けられた時に見た黒髪姿を思い出して真梨子先輩だとわかった。
あの人は常に人々の中心にいるな。と感心しつつ、鳥居に『県大大明神』と黒文字で書かれていることに気が付いて、なんじゃらほいと頭を掻いた。
お客の合間から見え隠れするのがこそばゆいようでもどかしいが、制服の3割増しと、巫女装束の先輩が動く様は見ていて一向に飽きなかった。
今更ながら、どうして髪を茶色に染めたのだろうか。などとどうでも良いことを考えてしまった。
「あぁ」
私はしばらく先輩の巫女姿に見とれてから、無線を片手に部室棟の方へ駆けて行く音無先輩の姿を見て任務を思い出した。
とは言え、追えば逃げるし逃げたら追う。を繰り返したところで不毛な消耗戦になるだけではなかろうか。私は体力がないことは自負しているし、とてもではないが覆面男を真面目に追いかけたところで追いつけるはずもない。
「罠でも張ろうか」
再び真梨子先輩を見ながら、呟いていると、下界の事務所辺りが騒がしくなった。そう思った次には階段を激しく駆け上がる音が私の視線をまだ誰もいない登り口へと向かわせる。
足音のカウントダウンで飛び出して来たのは果たして、緑色の上下に大凡を黒で覆われた覆面マスクをした男だったのである。
男は箒を構えた私に怯むことなく猛然向かってくると「ちぇすとーっ!」と叫びながら水風船を投げた。一つは窓の外へと消えもう一つが私の顔に命中をした。
私は「ふんぎゃっ」と声を出してその場に尻餅を付くと、急いで濡れた顔を袖で拭っていると、なぜか色々な崩壊音と「はんぎゃやわあ」と言う断末魔の叫び声が廊下に木霊した。
「うぅ……」急いで立ち上がろうとすると、金平糖に足を滑らせもう一度派手に尻持ちをついてしまった。その際、尾骨をしこたま打ったので、私はあまりの痛みに翻筋斗打ってから、脂汗を滴らせた。
追跡を、となんとか立ち上がってみると、眼前には大きなダンボール箱に頭から突っ込んで大人しくなった覆面男の姿があった。
「うむ」棚から牡丹餅と言うのはこういうことを言うのだろうか。
因果応報とはこれしかり。私は、彼の体に倒れかかる花瓶やら土器やなんかをどけてやると、彼が落としたであろう水風船を広い上げダンボールを開けて、至近距離から思い切り後頭部に投げつけた。
彼が意識を取り戻して、藻掻く姿を見て。どうせならマスクを取ってから投げれば良かったと思った。
「たっ頼む!逃してくれ!」開口一番、彼はとても犯罪者らしいことを口走った。
「断る」
賞金首をむざむざ逃がすほど私の心は広くはないのだ。
「そう言うなよ。タダとは言わない。使いさしだがポケットの中に模擬店のチケットが入ってる。それをやるから。なっ」
私は彼の言うことが真実であるか否かを確かめるべく、短パンのポケットと言うポケットをまさぐった。結果、全模擬店で使えるチケットが6枚とあめ玉が2つ、後は膨らます前の水風船がたっぷり。が出てきた。
とりあえず、チケットと水風船をポケットにしまってから、どうしたものか。と束の間考えた。このチケットも欲しいが報酬のチケットも捨てがたい……
「お前は彼女がいるのか?日頃勉学に励み心身ともに鍛える私には彼女がいない!できないんだっ!だと言うのに、日頃からへらへらしてる奴に限って彼女がいやがる。こんな不公平が許される世界は悪意に満ちて居る。俺はその悪意を堂々と見せつける奴らに鉄槌を下している。俺のように嫌な思いをしている同士は大勢いる。それでも誰も声を、行動をできずにいる……だから私は行動に打って出たまでだ。これは革命なんだ。次の学生会長選挙で俺は学内恋愛禁止を訴えるつもりだ。俺の覚悟は生半可なものではないんだ!」
私が一挙両得、旨みだけをなんとか独り占めできないだろうかと思案している間中、男は荒唐無稽なことを叫き散らしていた。
「静かにしろ。他の執行部に気づかれる」他の執行部員が現れてはややこしいことになる。だからそういったのだが……「お前……じゃあ」彼はとても自分に都合の良い方向へ勘違いしたようだった。心なしか涙声であるのは感動の涙か、頭の打ち所が悪かったのか。男の涙ほど見ていられないものはない。
「執行部は私のような執行部員以外の人間も動員して、お前を捜している。今外に出るのは自殺行為だ。そうだ、この先にある教員専用トイレに隠れていろ。ほとぼりが冷めた頃にまた革命活動をすると良い」その勘違いは私にとっても好都合だったので、やっとダンボールから頭の抜けた男に、熱くそう話すと彼は「ありがとう。本当にありがとう。こんな所でこんな形で、同士と出会えるとは思っても見なかった」と涙声で握手を求めてきたので、私はそれに応えた。
「それじゃあ。本当にありがとな」彼はさわやかにそう言うと、2階の一番奥。窓も無ければ非難扉もない、完全な袋小路たる教員専用トイレへと向かって走って行ってしまった。
そこが、己が墓場となるともしれずに……
汗ばんだ手でしこたま握手をさせられたので、男臭がうつってやすまいかと、ズボンで手の平を拭ってから嗅いでみたが、ソースの匂いしかしなかったので、手を洗わずに携帯を操作して。メールで音無先輩に覆面男の潜伏先を知らせた。
程なくして、音無先輩を筆頭に集結した執行部7名は手に手に得物を持って教員トイレへと突撃を敢行した。私は3階への登り口でその様子を見守っていた。これぞ、真の棚から牡丹餅であろう。
しかし、窮鼠猫を噛むとはよく言ったもので、覆面男は半分覆面を脱がされそうになりながらも執行部の包囲を突破し、階段の方へ全速力で迫って来るではないか、私は想定外の事態に狼狽して階段を数段駆け上がった。駆け上がってみたのだが、結局彼は階段を使うことなく、派手に転びながら反対側の廊下へと消えて行ってしまった。
廊下には再び大きな崩壊音が木霊し、その後に追いついた音無先輩を含まない執行部6人にタコ殴りにされたあげく。甘美際執行部室へと連行されていってしまった。
「この裏切り者め!」
私に向かって言ったのだろうが、そんな譫言など誰が聞くものか。そもそも、私は逃がしてくれとは頼まれても見逃してくれとは頼まれていないのだから、裏切りではないし、金平糖が滑ること学習しない彼がやっぱり悪い。
彼は大義名分たる雄弁を長々と述べたが、要約すれば『羨ましい』の4字で済んでしまう。恋人の有無において他人を羨む気持ちはわかるし同情もする。だが覆面男よ
、世の独り身男子はお前のように妬みや羨む気持ちに支配されないように日頃心身の鍛練を怠らず、ついにこれを克服した。だから、お前のような凶行に走ることもないのだ。
覆面男よ。若気の至りと改心した後は心身の鍛練怠りなきよう……
ただ、一つだけ褒められると言えば、ビリビリに破かれほとんど素顔が露呈してもなお、覆面を被り通そうとした一本気にだけは哀悼の意を捧げたいと思う。
音無先輩から報酬である無料チケット10枚綴りを受け取った私の懐は覆面男を唾棄すべき阿呆と糾弾をせず、寧ろ愛すべき阿呆と同情と賞賛を与えていたのである。
○
『県大大明神』それは突如として中庭の緑地帯に現れました。
甘美祭二日目の朝、遅めに大学へ出掛けた私は「恋守りいかがですかぁ」と声を張る真梨子先輩の姿を見かけました。先輩は白い鳥居のすぐ横に立っていて、格好が昨日と同じ巫女装束でしたので、昨日の巫女さん姿は今日のこの日の為だったのですね。と納得したのでした。
「先輩、お早うございます」まだ、来祭者も少なかったので、私は先輩に声を掛けました。
「お早うなっちゃん。どうよ、これ」
「鳴海さんとこで借りたんだぁ」と嬉しそうに一回りして衣装を披露する先輩なのです。
「とても似合ってますよ。可愛らしいです」巫女姿はとても似合っていましたけれど、見慣れていた明るい茶色だった髪の毛がカラスの濡れ羽のような黒髪に様変わりしているの正直なところ、まだ慣れない部分はありました。
「お守りとは、この南京錠のことですか?」
先輩の立つ前に置かれた机の上には『恋守り 一個500円』と書かれた小さい看板と大小それぞれの南京錠が並べられてありました。
「そう。恋人岬って知ってる?あれの真似なんだけど」
「知ってます。確か、錠に二人の名前を書いて鍵を閉ると永遠に結ばれるって言うのですよね。テレビで見たことがあります」
「そうそれ。この前の前夜祭の時、夕方のニュースでやってて、閃いたのよね。使い道に困ってた南京錠も有効利用できるし、南京錠代も回収できるし、一石二鳥!」鳥居を何度か叩きながら、先輩はピースサインをして見せます。
「そうですね、先輩は賢いです」前夜祭の日、夏目君がアパートに持って来た南京錠がこんな形で使われるとは思って見ませんでしたけれど、先輩らしい素敵なアイデアだと私は感心しました。
「なっちゃんも後でおいでよね」と言う先輩に私は「小春日さんを誘ってみます」と返事をして、部室棟へ向かいました。
何を隠しましょう。今日は展示の担当日なのです。
途中、メイン会場のステージ上で人間黒髭危機一髪。のリハーサルをしていましたので、少しの間これを見ていました。玩具動揺に飛び出すのなら危ないですね。と思う反面、どんな仕掛けがされているのかが気になる私なのです。
海賊役の担当員が樽を模したダンボールの中に不器用にもなかなか入れない姿を見ていると『頼んだわけでもないのに……恭君らしい優しさ』そう言った真梨子先輩の姿が不意に蘇りました。普通は頼まれてもあれだけの量の南京錠を買い集めることなんてしません。それを頼まれもしないのに買い集めに走ったのは一重に真梨子先輩への愛情が成せる技ではないでしょうか。ひょっとしたら夏目君も真梨子先輩の事を……と勘ぐったところで、今度は小春日さんの提案が蘇りました。
私は浅いため息をつくと、真梨子先輩の為と思えばこそできることですが、できることならやりたくはないですし、今日と言う日の夕暮れが来なければいいのに……と今度は深くため息をついたのでした。
「やあ、そんなに悲観することはないよ」
再び歩き出した所で後ろからそんな風に声をかけられました。振り向いてみると、そこには緑色の短パンとランニングシャツ、目の部分をのみ周りを赤く縁取った黒い覆面を被った男性が小さい林檎飴を持って立っていました。
「?」私が首を傾げていると、
「1人は決して孤独と言うことはないのだから。1人と言うことは自由であると言うことさ、二人でいることなど束縛の何者でもないのだからね。さぁこれをあげよう」
何を言いたいのかは不明ですが、男性は手に持った林檎飴を私に差し出しました。
「ありがとう……ございます」私は不気味に思ったのですが、甘美祭のイベントかなにかでしょう。と思い林檎飴を受け取りました。
「また会おう!」
私が林檎飴を受け取ると、男性は短くそれだけを言い残し颯爽と部室棟の方へ走って行ってしまいました。無駄のない綺麗なフォームで走るって行くので、陸上部の方でしょう。私は遠くなる緑色の背中を見送りながらそう思ったのでした。
展示室へ向かうと、文芸部の人達が千年パンツの前で何やら相談をしている様子でした。一様に怪訝な表情をしていたので、どうかしたのでしょうか?と不安になってこっそりと近づいて見ました。すると「夏目君はうまく考えたよね。美術部とコラボするんなんて」「僕の世紀末ベアーも立体化してもらってたら、今頃、感想と評価の嵐だったに違いないのに……」「部長に言って来年は美術部と合作しようよ」そんな事を話をしていましたので内心ほっとしましたし、少し来年が楽しみになりました。
「あっ、葉山さん。覆面男がここに来なかった?」
作品の説明用の用紙をバインダーに挟んでいると、音無さんが駆けて来たかと思うと早口でそう聞きました。なので、「ここには来ていませんけれど、部室棟に来る前に会いました」と答えた後、受付の机の中に入れておいた林檎飴を見せては「これをもらいました。何かのイベントなのですか?」と聞きました。
「違う。執行部はあんなのを容認も黙認もしない、あれはテロよ私たちへの挑戦なのよ!」
鬼気迫る表情でそう言うと、トランシーバーで誰かに指示を出しながら、踵を返して再び駆けて行ってしまいました。
「(イベントじゃないんだ)」てっきり、何かのイベントだと思って遠慮無く受け取った林檎飴でしたが、音無さんの話しを聞くと急に薄気味悪くなってきてしまい、とても食べる気にはなりません。赤くて甘くて丸くって可愛らしい林檎飴には何の罪もないと言うのに……
あの覆面の人は何がために、あんな格好で林檎飴を配って回っているのでしょうか。
閑散とする展示室から外を覗くと、メインステージ裏がよく見えます。ピンク色の上着を着た係の人達が小道具を運んだり何かの打ち合わせをしていたりしています。模擬店を出している人達もそれぞれに甘美祭に参加してそれぞれに楽しんでいるでしょう。
今この時に青春を燃やそう
音無さんに言われて恥ずかしくも私が発表したこの言葉は、そのまま今回の甘美祭のメインフレーズとして使われ、正門の看板にも書かれていますし、本館の屋上から下げられた垂れ幕にも記されてあります。青春とは一体なんなのでしょうね。
私は青春を燃やせているでしょうのか。甘美祭2日目の昼下がり、そんなメランコリップに黄昏れていた私なのでした。
ステージから、がなり立てるだけの騒がしい演奏が終わり、舞台裏が一層忙しなって来た頃、小春日さんから夏目君のアドレス記したメールが届きました。
私は昨晩予め作成しておいた文章をコピーすると夏目君宛のメールに貼り付けまし
た。いきなりのメールですので、アドレスを聞いた人も記しましたし、夏目君も文芸部の展示担当などの都合もあるかと思いましたので1日前に送信することにしました。
「
こんにちは、突然のメールで驚かせてしまったと思います。アドレスは古平君から小春日さん伝いに聞きました。大切なお話がありますので、明日の夕方5時に体育館裏の駐輪場に来てください
葉山 夏美
」
大学構内で一番人気の少ない場所は、部室棟裏の焼却炉がある場所なのですが、そこはフェンス一枚を隔てて、一般の人が通る道と接していますので、待ち合わせは体育館裏の駐輪場にしました。
甘美祭開催期間中は駐輪場は使用禁止になっていますし、誰でも体育館裏に呼び出されたなら、話しの内容は往々にして想像できるものです。お風呂場などで私なりに練習をしてみましたけれど、どれだけやってうまく話せる自信が私にはありませんでした。なので、できれば結論だけを伝えて済むようにしたかったのです。
そして、私は送信ボタンを押しました。どんな返事が返って来るのでしょう。不安な気持ちを抑え、黄昏時の空を見上げながらしばらくその場で携帯を握っていましたけれど、遂に返信が届くことはなかったのです。
◇
景品が底を尽きたのか、遂に終わってしまったビンゴ大会の後のステージ周辺は実に閑散としていた。お陰で並べられたパイプ椅子を荷物置きとして使えたから私としては助かった。夕方にはお笑い芸人のステージがはじまるらしく今はその前の休憩時間と言ったところだろう。
ステージ上では奇抜なファッションでただがなるだけの軽音部のライブが行われていた。観客も少なく、今パイプ椅子に腰をおろしている大凡半分以上は私と同じ、休憩をしているに違いない。その証拠に一番静かであろう後列の席だけが賑わっているのである。前座にさえなりもしない。
かくゆう私とて、模擬店で買ったカラアゲとフランクフルトを食べ、さらに隣の椅子には焼きそばとたこ焼きが置いてある。これを平らげたら千年パンツのお礼も兼ねて林檎飴でも葉山さんに差し入れに行こう。そんなことを考えていた。
焼きそばに手を伸ばした時、携帯が震えた。けれど、鰹節が踊っている間に一口は食べておきたかったからポケットの携帯はほおって置いて、焼きそばを食べることにした。食べている途中で、演目が落研の落語に変わり、ステージ袖から出てきた女子部員が可愛かったので、口だけを動かしながら彼女をしばらく鑑賞することにした。可愛らしい彼女の次はむさ苦しいのが出てきたので、携帯を取り出そうとポケットに手を入れた所で、フライドポテトとおでんの出張販売がやって来たので、入れた手で携帯ではなくチケットを取り出して買いに向かった。おでんは素人作りにしては味が滲みて美味しかった。久方ぶりに食事らしい食事に幸福な満腹感に浸っていると、心地よい眠気がふよふよしてきたので、そのまま椅子の上に横になって少し眠ることにした。
食べたい時にたらふく食べ、眠たくなれば寝る。これすなわち幸せと言う。
◇
宵の口前に流々荘に帰った私は、風呂に入った後ようやく携帯を見た。それはメールで。差出人が知らないアドレスだったために、ゴミ箱へ捨てようかと思ったが、件名のところに『葉山です』と書かれてあったので、ゴミ箱へ捨てなくて良かったと思った。
「
こんにちは、突然のメールで驚かせてしまったと思います。アドレスは古平君に小春日さん伝いに聞きました。大切なお話がありますので、明日の夕方5時に体育館裏の駐輪場に来てください
葉山 夏美
」
腹が減る前に寝てしまおうと万年床に寝転がって文面を確認したので、思わず足をじたばたとさせてしまった。これは思わぬ朗報ではあるまいか!脈無しと完全に諦めてしまって早、1ヶ月と少し。外堀を埋めることをやめて早1ヶ月と少し……押して駄目なら引いてみなっ!と言う言葉があるがこれいかに……恋愛は鹿猟に似ていると聞いたことがある。追いかけては警戒心の強い鹿に気づかれて逃げられてしまう、故に、わざと追わずじっと待ちかまえると警戒心を緩めて鹿は再び戻ってくる。知らず知らずの内に私はこの駆け引きを心得、無為自然と実践していようとは、自分の策士加減が恐くなるほどだった。
「まてよ」
仰向けになって天井を見上げて見れば、舞い上がった埃が蛍光灯に照らされて雪虫のように見えた。そんなのを見ていると、妄想モードに移行する前に古平の顔が浮かんできたのだから不愉快だ。
アドレスは確かに古平のものとは異なるアドレスだった。けれど、葉山さんがわざわざ古平からアドレスを教えてくれるように小春日さんに頼むのは不自然ではなかろうか?真梨子先輩の家に頻繁に出入りしている葉山さんなら真梨子先輩に直接聞いた方が手っ取り早いはずだ。それに、よくよく考えてみれば、明日の事を今日メールする必要もない。もっと言えば、大学構内で一番人気の無い場所は部室棟の裏であって、駐輪場がある関係上体育館裏には人通りがある、そんな場所に呼び出して公衆の面前での公開告白をする阿呆が果たしているのだろうか?
部長ならばやりかねないながらも、葉山さんに限ってそんなことをするとは思えない。考えれば考えるだけ葉山さんの顔は遠のき、古平の顔が色濃くなって行く。
私は携帯を畳の上に放り投げると今夜の夢見に期待することなく寝ることにしたのであった。
◇
煩悶として目覚めを迎え、空腹を満たす手段もなく少し早いが腹を満たすために大学へ行こうかと考えていると、呼び鈴がなった。
来客があるとすれば真梨子先輩か古平くらいなものだから、水風船を一つ携えてドアを開けた。
「朝の早くからごめんなさい。隣に越してくる事になった神原と申します。騒がしくしますけど堪忍して下さい」
大和撫子だった……
長くて真っ直ぐな黒髪を背中でまとめたその人は、顔立ち整い鼻筋の通ったとても素敵な女性だった。小股の切れ上がった背格好や目鼻立ちはどこか真梨子先輩に似ている気がしないでもなかったが、純白のシャツに水色のスカートは色合い控えめで、薄化粧な為か、全体的に地味で昭和の雰囲気すら感じられる。飾りっ気がないにも関わらず、清楚可憐なその人は私が出会った2人目の大和撫子であることには間違いはなかった。
「どうかされましたか?」つい彼女の顔を見つめてしまっていた。
「いえ、夏目と言います。どうぞよろしく」
お隣にこんな素敵な人が越して来ようとは、この古くてカビ臭い流々荘も捨てたものではなくなる。
「皐月さん。大家さんの言ったとおり冷蔵庫は部屋についてました」
名前は皐月さんと言うらしい。
私が気の利いた話しの一つでもして差し上げようとした、その時、隣の部屋から、幼い顔つきながら年の頃なら私と同じくらいの青年が出てきた。
「あら、それは良かったわ。冷蔵庫買わへんかったから。大助かり」
手のひらを会わせて喜ぶ皐月さんは、「勝さん、こちらお隣さんの夏目さん」
皐月さんが私を紹介すると、「はじめまして、隣に引っ越してきました神原 勝です」と青年は礼儀正しく姿勢を正して深々と頭を下げた。
神原と言う青年は来年の四月から県立大学に入学することが決まっていて、少し早いながらも早い目に慣れておいた方が良いと、この季節に引っ越してきたらしい。そんな事よりも、神原青年と皐月さんの間柄が気になって仕方がなかったが、諭すように話してみたり、色々と注意をしているところからすると、従姉妹か姉か……母親と言うことはないにしても彼女と言うこともなさそうだ。
てっきり、引っ越し業者を頼んでいるものと思っていたのだが、見やるに、下に止めてある軽トラックからせっせと二人で荷物を運び込んでいるので「手伝いましょうか」と声を掛けた。
「いえ、そんなの悪いです」と皐月さんは笑って見せたが、額に浮かぶ汗を見れば嫌でも手伝いたくなってしまうと言うのが男心なのだ。
古今東西美人は得だ。
私は皐月さんの為に進んで、軍手を借りて荷物運びを手伝うことにした。荷物を運んでいて気が付いたことがある。2人分にしては荷物が少なく、皐月さんの分とおぼしき荷物も見あたらない。どうやら、皐月さんと神原青年は同居するわけではなく、隣には神原青年1人が生活をするようだ。
落胆を隠せないで居た私であったが「御夕飯くらいは作りに来るからね」と言う皐月さんと神原青年の会話を聞いていて、定期的に皐月さんに会うことができると内心喜んだ。
お昼前に、皐月さんに近所のスーパーの場所を教えると、皐月さんはがま口財布を片手に買い物に出掛け、軽トラックに残っていた小物類を地面におろしてから「駐車場に入れてきます」と神原青年も行ってしまった。
2人は田舎の人間なのだろうか。初対面の人間にこんな無防備を晒すなんて……もし私が悪人であったなら、神原青年の荷物の中から小銭貯金が根こそぎなくなっていても不思議ではない。
私は善人ではない。だが、悪人でもない。悪いことを目論んでもそれを実行しない限りは悪人ではない。つまり、私は目論んでも実行できない小心者だったのである。
手伝ってくれた御礼も兼ねてと、お昼ご飯は皐月さんの手料理をご馳走になることになり、荷解きをしていない神原青年の部屋には調理器具がなかったので、昼食は私の部屋で食べることになった。来客用の小さい丸テーブルを出してきた以外は座布団もなく、申し訳無く思ったが、当の二人は全く気にならない様子だった。
皐月さんは鼻歌交じりにフライパンで手際よく、親子丼を作ってくれた。丼がなかったのでカレー皿に盛りつけられた親子丼。北陸の方で使われると言う甘い醤油が隠し味と皐月さんが教えてくれた。半熟でふわふわ加減の卵を箸で割ると中から鶏肉やかまぼこが顔を出す、長ネギの緑も色鮮やかでこれらを白飯と一緒に口の中に入れたなら、絶妙な半熟加減が白飯と混ざったかと思えば出汁の旨みが喉に至るまで広がって行く。鼻で呼吸をするたびに鼻腔をくすぐる出汁の残り香が一口で二度までも美味しいと演出をする。
私は今までこんなに美味い親子丼を食べたことがない。私は感動のあまり思わず箸を止めてしまった。
「お口に合いませんでしたか?」と不安げに私を見て皐月さんが言う。
「いえ、こんなに美味しい親子丼は、はじめて食べました」本当の事を言った。
「そんな大げさなぁ。でもとっても嬉しいです」
「照れます」と続けて言って私の肩を小突いた皐月さん。どこかその仕草がオバサン臭かった……
食事中、皐月さんは神原青年について良く喋った。生まれた所からどうして奈良の地へやって来たのか「皐月さん、そんなことまで言わなくていいですよ!」と何度か神原青年が皐月さんの口を塞ごうと試みる一幕もあったりと、この二人は恋仲以外の縁で持って結ばれているのだろう。私はそう思った。
「一昨日から県大で文化祭やってるから、後で見に行くと良いですよ。最終日だから売り切れの模擬店もあると思うけど」
来春から後輩となる青年に私は先輩風を吹かせて言った。私が県大生と言うことは話していなかったが、それはまた来年の春また話せば良い。
「皐月さん。荷解きしたら行ってみようよ」そう神原青年が提案するも。
「荷解きしていたら模擬店が全部売り切れになってしまうわ!お昼を片したらすぐに行くわよ」皐月さんは、今すぐにでも文化祭に出掛けたい様子だった。
神原青年は私と違って良く働く。食器の洗い方も丁寧で、洗い終わった後、布巾でシンク周りに飛び散った水滴さえも拭き取る繊細さである。ひょっとしたら皐月さんの手解きなのかもしれない。
「それでは失礼します。本日は本当にありがとうございました」「ありがとうございました」
部屋を出て行く間際に、2人は謝意を伝えながら揃って姿勢を正すとゆっくりと頭を下げた。ここ2年間で出会った誰よりも礼儀正しいその様に、思わず私も何かを思い出したように「こちらこそ、美味しいお昼をご馳走さまでした」と頭をさげたのだった。
礼には礼をもって対する。無理矢理下げる頭もある。けれど、心から礼を尽くされたとき、心から感謝をしたいとき、自然と頭は下がるものなのである。
頭を上げたとき、清々しくも背中に一本筋が通ったような、そんな面持ちだった。
◇
午後3時を過ぎた辺りで私はメールフォルダを開くと、葉山さんからのメールを選択し、2回ほど文面を確認した。このメールが葉山さん本人からの純粋なメールであってほしいと願う半面、どうしてもそれを信じ切れない自分がいる。
水風船は用意した。私はどちらに転んでも良いように、
「
わかりました。午後5時に体育館裏の駐輪場へ参上します
」
と簡素な文章を作成すると、少し考えてから送信した。
甘美祭最終日を迎えて、構内では各模擬店がわかりやすい二極化を向かえていた。余裕を持って片付けをはじめる店と、頻繁に歩き売りを行う店である。
チケットがまだ数枚残っていたので、これを大好物の唐揚げに全てつぎ込もうと思っていた私は唐揚げを売る店だけ売れ行きを確認して、体育館横にある梯子を使って、屋上へ登った。
気持ち程度に角度がつけられた屋根を伝って、駐輪所が見渡せる場所についた私は、執行部に見つからないように目立たないように寝そべってその時がくるのを待ったのであった。
○
結局、昨日中に夏目君からの返信はありませんでした……私はてっきり、すぐに返信があると思っていたので、どうして返信をもらえないのでしょうか?と不安になっ
てみたり、もしかしたら、届いていないのでは……もう一度送った方が……でも同じ文章を2度も送るなんて……と気が気でない1日となってしまいました。
昨日ほど、携帯電話に注意を払った日はありません。
すぐに返信があっても、罪悪感は否めないのです。けれど、それは夏目君が私が告白をすると言う大前提で心を躍らせて即座に返信をしてきたと言う心情を慮っての罪悪感なのです。ですから、このように『返信がない』と言う場合は想定をしていませんでしたから、予想外の事に事実として私が困惑をしてしまっている状態です。
真梨子先輩には内密に計画してことですから、私はとりあえず小春日さんに連絡をしてみました。
「夏目君が葉山さんの事を好きなのは間違いないと思うから……返事が無い理由はなんでかわからないけど、ギリギリまで待って来なかったら、電話するしかないかも」
と言うのが小春日さんの考えでした。
「そうですね。まだ時間はありますから、待ってみます」
携帯を充電器に繋いでから、私は別の心配をしていました。小春日さんが言った『電話するしかないかも』が頭から離れなかったのです。メールをするだけでも騙しているようで罪悪感に苛まれると言うのに、直接電話を掛けるだなんて到底私には無理だと思ったからです。
「ああ……なんでこんな事になってしまったんだろう」
親愛なる真梨子先輩の為とは言え、楽しいはずの甘美祭真っ直中でこんなに沈んだ気持ちになるだなんて……本当なら、模擬店で買った林檎飴を冷蔵庫に入れて、同じく模擬店で買った食べ物を食べ過ぎてしまいましたね。とお腹をさすっていてもおかしくないと言うのに……
軽めに夕食を食べ、お風呂に入った後、ふっと「真梨子先輩は何をしているんだろう」そんな事を考えました。甘美祭の準備や夏目君と先輩との事が重なって先輩の家には遊びに行っていません。敏感な先輩の事ですから、きっと、雰囲気で私が水面下で動いていることに気が付いているはずです。だからこそ、あの夜以降、先輩は私に夏目君の話をしなくなりましたし、夏目君と無理矢理二人きりにする切っ掛けも作らなくなりました。
私は人として真梨子先輩の事を尊敬していますし、同じ女子としても敬愛しています。だからこそ、私は先輩と距離をおくことにしたのです。秘密を隠したまま、先輩と普段通りに接することなんて私にはできません……
こんな夜に限って面白いテレビも無ければ読みかけの本もありません。
まだ深夜には早い時刻でした。私は何をするわけでもなく炬燵の中に入って、掛け時計の秒針を眺めていましたけれど、気後れしても言えるようにと、明日、夏目君に告げる台詞の暗唱をすることにしたのでした。
炬燵で朝を迎えた私は、伸びをして欠伸をしました。そして、蓑虫のように這い出してから、携帯を見に行きます。
「!」期待をしていなかっただけに、メールの着信を示すライトの点滅を見た瞬間に私は目を完全に覚ましたのです。
「あぁ」覚醒をしてメールを確認すると、それは小春日さんからのメールでした。
こんな事を言うと小春日さんに怒られそうですけれど、期待をしてしまっただけ、とてもがっかりしてしまいました。
がっかりしていても仕方がないので、顔を洗って髪を梳かしてから朝ご飯を食べることにしました。
納豆をかき混ぜていると時も携帯が気になって仕方がありません。ご飯を食べている時でもさえも……それでも夏目君からの返信はありません。
「なんで私がこんなに気にしなくちゃいけないの」
私は洗い物をしている最中、ついにそんな風に思うと、その後は怒濤の如く洗い物を終えてしまって、大股で携帯電話まで歩くとあっという間に電源を切ってしまったったのでした。
暗闇を恐れるのは目を開けているのに見えないから恐いのです。ならばいっそ閉じてしまえば見えなくて当たり前なので落ち着くと言うものです。電源が入っているから携帯が気になってしまうのです、電源が切れていればメールが届いてもわからないので気にする必要もありません。
私は怒っていました。なのでそのまま携帯をベットの上に放り投げると、洗濯に掃除とここのところ疎かになっていた家事にとりかかったのでした。
洗濯物を干しながらつけっぱなしにしているテレビからは、冬のコスメ特集をしているようでした。母が普段お化粧をしないせいか、私もお化粧をほとんどしたことがありません。ですから、普段でしたらコスメ特集にはあまり興味がないのですが、今日に限ってそのかぎりではありませんでした……
思えば小春日さんや真梨子先輩はちゃんとお化粧をしています。いいえ、同じゼミの女の子も美術部の先輩も後輩もしています。どうして?と聞いたことはありませんけれど、きっとお化粧は下着を履くことと同じようなものなのでしょう。今年のトレンドは明るめのチークと目を大きく見せるお化粧なのだそうです。もちろん、チークやグロス、アイシャドーなどの言葉は知っていますよ。ただし、使ったことはありませんけれど……もっと言えば、持ってさえもいません。
私だって……お化粧の一つもできなければ!と思い立って百貨店の化粧品売り場に行ってみたこともありました。けれど、どの化粧品もそれなりのお値段がする上に種類が豊富過ぎて何を揃えればいいのかさえもわからず、這々の体で家に帰ったことを思い出します。
そのことを母に話すと「若い内は化粧なんてしなくっていいの」の一点張りで、以降それが母の口癖になってしまいました。私はそんな母に言いたいのです、「お母さんは年を取っても化粧をしてないじゃないですか」と。
普通、好意を抱く異性に告白をする時、人は一番の自分でその場所へ向かうと思うのです。男性はお化粧はしないと思いますが身だしなみには特に気を遣うかと思います。ならば、私も着る物はもとより、やはりお化粧をした方がいいのでしょうか……
面倒くささが先立って『いつもの自分で』と思い込みたいのですが……私の方から一方的に断る場合でも、やはりそれ相応の格好をしていかなければならないと思うのです。
私は恐る恐る携帯の電源を入れました。もうお昼前だと言うのにメールは入っていません。念の為に、センターに問い合わせて見ましたけれど結果は同じでした。頭垂れる暇もなく、私は小春日さんに電話を掛けました。
甘美祭へ出掛けていないと良いのですが……
「はい、返信来た?」3回ほどのコールの後に小春日さんが出ました。
「いいえ。もう甘美祭に出掛けてますか?」
「うん。夕方からファッションショーあるから、それの準備してる」
「そうでしたね、ファッションショーでしたよね」本当はすっかり失念してしまっていました。
甘美祭最終日、夕方からフィナーレまではソーイング同好会のファッションショーが行われるのです。今日のステージの為に小春日さん達はずっと製作に取り組んで来たのですから……それを私の思いつきで邪魔するわけには行きません。
「ん?何?用事があったんじゃないの?」
「小春日さんは古平さんに告白をするとき、お化粧をしていきましたか?」
「そりゃ、していったわよ。前日にヘアサロンも行ってネイル行ってすっごい気合い入れたよ」
「え……ヘアサロンとネイルにもですか……」
「うん。折角、真梨子先輩がお膳立てしてくれたチャンスだったから自分でできる事は全部しておきたかったのよ。納得した自分で告白して振られても納得できるけど、手を抜いて振られたら、髪の毛ちゃんとしてたらとか『もしも』って絶対後悔すると思ったから」
「……」私は返す言葉がありませんでした。そうなのです、小春日さんの場合は背水の陣で望んだ告白なのです。それに比べて私の場合は半ば演技の告白ですから、今ひとつ実感がありません。そうですよね、恋人ができるか振られるか、二つに一つの大勝負。それなら事前にできる備えは全てしておくものです。散ってなお後悔をしない為にも。
「小春日さん、お願いがあります」
私は生半可だった自分自身に決意を持たせる為に、あえて忙しい小春日さんにお願いをしました。断られることも覚悟していましたし、とても迷惑を掛けることも承知の上です。
「いいよ。2時間くらい前に同好会室に来て」
もしも、断られたなら今から化粧品を買って自分でなんとかするつもりでした。けれど、あっさりと小春日さんが承諾をしてくれたので、電話越しに胸を撫でおろしたのでした。
気合いだけではお化粧が上手く出来るとは思えませんから……
○
自分に出来ることは後悔無きように。
私は夏目君に告白をする心持ちで、髪を梳いて洋服を選びました、お気に入りのベレー帽とポーチを下げて、早い目に大学へと向かいました。
甘美祭最終日の今日はすでに片付けをはじめている模擬店もあれば、値引きをしてでも売り切る模擬店と二分化の様相がとても極端です。
中庭を過ぎた辺りで、両手に持ちきれないほどに食べ物を携えた女性と出くわしました。
「あの、失礼ですけど、貴女はここの学生さんですか?」上着を羽織らず季節的には肌寒い服装のその人は大きくて丸い瞳で私を捉えてそう言いました。
「はい。私はここの学生です」
率直にそう答えると、「皐月さん待ってくださいよ」とこれまた大量の食べ物を持った男の子が長に早歩きで現れます。
「勝さん!この方ここの大学生ですって、雰囲気も顔つきも勝さんの好みやんか。さい先がいいわぁ。あ、この子、来年からここの大学に通うんです。どうぞよろしくお願いしますね」
無手勝流に言いたいことを言ってから、皐月さんとおっしゃる女性はお手本の様な姿勢で頭をさげます。
「ちょ、皐月さん何言ってるんですか!急にすみません」顔を赤くした男の子はそう言うと、皐月さんとおっしゃる女性のお尻を膝で押します。
「もう、勝さんったら女性のお尻を触るのいけないことですよ」
「触ってません、押したんです!」
不機嫌な表情を作る皐月さんでしたけれど、2人はとても仲が良いのですね。そう思えてしまうから不思議でした。
皐月さんはまだ何か言い足りない様子でしたけれど、勝さんに押され、ついに図書館の角に消えて行ってしまいました。
「姉弟?親子?」多分、前者だろうと私は思います。
部室棟に入ると、すぐさま衣装を運ぶソーイング同好会の方を何名も見かけました。手の甲に針山をつけて、腰にはまるで美容師のように断ち切り鋏や安全ピンを収納したホルダーを下げていたり、仕上げか修正にてんてこ舞いと行った感じです。2階にある同好会室へ近づく度に、私がいかに無理なお願いをしたのかを思い知るようで後ろめたいようで……とりあえず小春日さんに会ったなら、一番に謝っておこうと思わずにはいられませんでした。
「お邪魔します」私は、磨りガラス越しに室内に誰か居ることを確認してからドアをあけました。
「やっほー。葉山さん気合い入ってるね」ドアを開けて一番に目に入ったのも口を開いたのも小春日さんでした。
「わぁ、すごい。まるでメイク室みたいですね」
長椅子を壁づたいに並べ、配置されたパイプ椅子の数だけヘアーブラシや大きめの置き鏡と化粧品のセットが並べてあります。
「まるでじゃなくて、今日だけこの部屋はメイク室なのよ。ちなみに、メイクさんは私」
「そうなんですか!」
小春日さんにそんな隠れた才能があったなんて。私は同じ女子として、自分のみならずメイクを施せる小春日さんをすごいと思いました。
○
小1時間ほどをかけて、私は小春日さんにメイクをしてもらいました。
爪の赤色、唇の淡い桃色。どんどん色づいて行く私はまるで女の子のようでした。もちろん、私は女の子なのですが、どんどん違う自分になって行くようで、鏡に映る自分の顔を見つめていると、不安がちないつもの自分がどこかに行ってしまうようでした。
「もし……葉山さんが夏目君の事を少しでも好きな気持ちがあるんだったら、葉山さんが幸せになっても良いんだからね」
誰もいない部室で小春日さんはヘアピンやタオルを片付けながら言いました。
「どうしたんですか、急にそんなことを言うなんて」
「ほら、私ってば先輩の為、先輩の為って葉山さんの気持ち考えないで巻き込んじゃってたから、今朝メイクの事で電話もらって、もしかしたらって思っちゃって」
「てっきり、夏目君もがっかりするようないつもの服装かと思ってたら、意外と気合い入れて来るからますますね」メイクアップが終わった私の顔を鏡越しに見ながら、小春日さんは私に優しい視線でそう言います。
「それは考えすぎです。私は夏目君のことをなんとも思っていません。ただ、はじめから断るにしても、ちゃんとしていないと、不誠実だと思っただけです」
これは本当です。例え結末がわかっていても投げやりにしてはいけません。ちゃんとするべきはちゃんとしないといけないのです。後腐れなきように……それに、先に好きになった女の子を知っているのに、後出しじゃんけんで勝ちに行くようなことを私はできません。
いずれにしても、本当に気持ちがないからそんなことも言えてしまうのかもしれません。
「そっか、ごめんね。へんな事言った」
「はい。小春日さんは変なことを言いました。私の普段着は夏目君をがっかりさせませんよ」真梨子先輩のように露出度の高い服などは着ていませんけれど、エキセントリックな服装でもありませんから、私の普段着を見て誰もがっかりなどしないのです。
「あっ、ごめん!そんなつもりで言ったんじゃないって、その、つまり、物の例えで、あの……ごめんさない」
「冗談ですよ」私は笑いながら言いました。そんなことで目くじらを立てるほど私はプリプリしていません。
「嫌な役だけど、お願いね」
「はい。メイクありがとうございました。行ってきます」
嫌な役です。大嫌いな役回りですが、もう私の覚悟は決まっているのです。決めているのです!それにメイクを施した私はどこか私ではないような不思議な感じがして、今であればどんな嫌な事もでもちゃんと顔をみて言えそうな気がします。
もう一度、小春日さんにお礼を言ってから、私は部室棟を後にして待ち合わせ場所である体育館裏の駐輪所へ向かったのでした。
◇
県大大明神は最終日の夕暮れ近くになってもまだ訪れる人が途切れる様子はなかった。鳥居から連なる行列が全てカップルであるところが謎なのだが、一体先輩は何をしているのだろうか?いずれにしても、盛況であるのだから良しとすべきなのだろうが……
そんな事よりも、私は雑踏に見え隠れする巫女さんの姿をじっと見つめていた。双眼鏡を持ってくれば良かったと後悔するほどに……はじめて真梨子先輩と会った時、先輩の髪は黒かった艶めく深い黒色だった。服装も葉山さんよろしく落ち着いていてどちらかと地味目。白いヘアバンドがよく似合って居たし、気が利いてよく笑う先輩の人柄に私はとても惹かれていた。入学したてで、情緒不安定だった私が想わずも特別な感情を抱かずには居られなかったのは仕方が無いことだと思う。
だが、その感情に希望や妄想はあっても決して現実的でないことはわかっていた。文芸部の部長を筆頭に真梨子先輩に好意を抱く男子の数は星の数よりも多い。俗に言う高嶺の花と言うやつである。もしかしたら……なんて妄想を毎晩と描いては諦める毎日を過ごし、気が付いた時に先輩はまるで別人のようになってしまっていた。髪を明るい茶色に染め、露出度の高い服を着るようになった。真梨子先輩と言う人間は何一つ変わっていなかったが、私にはその風体が理性に合わず、いつの間にか特別めいた感情も雲散霧消した。
どうして今になって髪の色を戻したのだろうか……聞いた所で「巫女さんに似合うと思って」と言われるだけだろうけれど……
先輩に葉山さんを紹介してもらった時、先輩のキューピットぶりの噂も聞いていたかた、近いうちに葉山さんが私の恋人になるかもしれないと思えて、それはそれはときめいた。舞い上がりもしたし、毎日念入りに体を洗うようにもなった。だが、興奮が冷めてくると何か違う気がしてどうにも本腰が入らなくなった。葉山さんは飛び切りの美人と言うわけではないが、控えめで笑顔が素敵で飾らない所は私の好みなのだ。いつかの感情のように一日中葉山さんの事を考えることもないし、不謹慎にも葉山さんに夢中にならなければならないのに、昨日、ステージ上に居た落研の女子を可愛いと心揺れてしまった。男子の嵯峨と言えばそれまでなのだが、そう言い切れないとても不可解な心中は私自身ですらようとして知れなかったのだ。
穴が開くほど先輩を見続けた。本当に穴が開いてしまったら困るので、私は駐輪場へ視線を戻し、手持ちぶさたと水風船を弄んでいた。柔らかくて手に吸い付くような感触がいたく気に入って揉みしだいていると簡単に割れてしまった。何度か同じ事を繰り返していたらものすごく虚しくなった。
約束の時間よりもかなり早かったが、ふと駐輪所を見下ろすと、白いベレー帽を被った女の子の姿が目に止まった。角度的に顔が見えないのがもどかしい……だが、どうやら姿から女の子であり、古平ではない。私は確信を持つと、念の為に水風船を一つだけ携え屋根から地上に降りた。
体育館の角からそっと覗いてみると、絵に書いたヒロインのような格好をした葉山さんが佇んでいたのである。私は高鳴る気持ちを抑えて、深呼吸をした。
ここから↓
「おい、お前……」
どのタイミングで後ろか前から、どちらから葉山さんに会いに行こうか。などと考えていると、不意に後ろから声を掛けられた。
「?」どこかで見たような顔と、はっきりと覚えている顔が並んでいた。
「やっぱりっ、同士じゃないかっ!」
「あっ」
私はその刹那に逃げ出そうとしたが、陸上部の反射神経を侮るなかれ、駆け出す前に後ろ襟を捕まれてしまった。
「あの時は裏切り者なんて言って悪かったな。そうでも言わないと、お前まで捕まると思ったんだ」と彼は言う。
「解放されて何よりだな」
「ああ、これも茂月さんのおかげだ」
そう言いながら彼は隣に佇んでいるトレンチコートの女の子に視線を移した。どうやら彼女は茂月さんと言うらしい。
「はじめまして。茂月です」
「どうも、落研のステージ見ましたよ」
「ほっ本当ですか!ありがとうございます。私、はじめてでとても緊張しちゃって、自分でも何話していたか覚えてすらいなくって、ちゃんと話せてましたか?私……」
茂月さんは懇願するように私に感想を求める。私は「はい。物怖じしない語り口でとても面白かったです」と答えた。実のところは彼女を脳裏に焼き付けることに必死で何を話していたかなど、一片も覚えてはいなかった。
けれど「そんなぁ」とまんざらでもないと彼女は嬉しそうだった。来年のステージに期待したいと思う。
「そうだ、同士たる君にこれを託そうと思って、探してたんだ」
彼は、そう言うと、上着のポケットから継ぎ接ぎだらけの覆面を取り出して私に差し出すではないか。
「俺は……その、茂月さんがいるから、もう必要ないんだ。そう言うことだから、学内恋愛禁止令の件も……本当にすまない。私は今年の学生大会に出馬はできそうにない」
目の前の2人は時折視線を合わせては話しを繰り返し、彼は照れくさそうに頬を指で掻きながらそんな事を話すのである。
「どうしてまた……?」
「林檎飴を彼からもらって、そのお礼に話し掛けて……」茂月さんは小さい林檎飴を私に見せてくれながらそう教えてくれた。
「じゃあなっ!元同士よ。生きていれば良いこともあるさっ」
溌剌とした語気でもって、彼は私の手に無理矢理覆面を握らせると、後ろ手に手を振りながらピロティの方へと歩いて行く。ちゃっかり茂月さんと繋いだ手を見せつけながら……私は激怒した。言うまでもなく怒髪天の如く怒り心頭である。私は覆面を被ると水風船を掲げ「天誅!」そう叫びながら彼の背中を追いかけた。私に気が付いた彼は彼女の手を放さずにピロティの中に逃げ込む。彼女に被害が及ぶのは忍びないが、この恨み晴らさずしておくべきか……
ピロティは未だ緑地から続く行列で混雑しており、瞬く間に逃げ道を失った彼は、私に向き直ると何かを言おうとしたが、私は問答無用で水風船を力の限り彼に投げつけたのである。
「やめ、ぶはっ」
至近距離にて水風船は果たして彼の顔面に命中し、彼の目の辺りを爆心地にして辺りに水を飛び散らし、一時ピロティは騒然となった。もちろん、結末を見届けると覆面を脱ぎ捨てその場から立ち去った私である。落ち着きを取り戻した雑踏が犯人捜しをはじめた頃には、すでに林檎飴を売る模擬店の前に立って「この小さい方の林檎飴を一つ」林檎飴を買っていたのである。
○
小春日さんとの打ち合わせでは、私に好きな人がいる旨を夏目君に話すことになっていて、夏目君が食い下がってた時は「ごめんなさい」と繰り返して、その場から逃げることになっています。私としては追いかけて来られたらと心配なのですが、小春日さん曰く決定的に振られたら追いかけて来られない。そうです。男子心とはそんなものなのでしょうか……私は不安を払拭できないまま、緑地帯の近くを歩いていました。
恋愛成就を願う男女の列が未だに途切れることのない県大大明神を横目に、私は体育館裏の駐輪場へ足を進めます。まだ時間が早いですから夏目君は来ていないと思います。けれど、私はすでに手に汗をびっしょりと掻いていましたし、口を閉じて居なければ口元が震えてしまって仕方がありません。どうしてこんなにも口の中が乾くのかもわかりませんでした。
駐輪場に夏目君の姿はまだありませんでした。ほっとした半面。永遠に時間が止まってしまえば良いのにと腕時計をみやって私は思いました。
世界が違って見えます。周りはとても明るい色彩に溢れていると言うのに、私だけは灰色の世界に覆われているのです。どうして私だけがこんな想いを……とつい逃げ出したくなります。真梨子先輩のためと割り切っているのにどうしてこんなにも沈んだ気持ちになるのでしょうか……
絡まった糸玉から出た三本の糸。解くにはどれか1本を切ることが1番早いと思います。本来糸には始まりと終わりの2つしかありえません。だから3本目は切ってしまう方が良いのです。
真梨子先輩は夏目君の事が好きで、夏目君だって真梨子先輩が相手なら文句の一つも言えないと思います。だから私が切られ役なのです。
なのですが……頭ではわかっているのに……どうして……
「お待たせしました」
私は思わず腕時計を見ました。約束の時間にはまだ半時以上もあります。こんなに早く夏目君が現れるなんて……すでに予想外です……
「こんにちは」
「こんにちは」夏目君はどこか嬉しそうな表情をしていました。その表情を見やるに私の胸はとても痛みました。
けれど、これは真梨子先輩の為なのです。私は目をぎゅと瞑ると「私には好きな人がいます。真梨子………えっと、だから絶対に無理ですごめんなさい」何度も練習をした台詞だけを思い出して一呼吸で全てを言い切ったのでした。
昨晩からあれだけ練習をしたと言うのに、ちゃんと言えませんでした。どうして真梨子先輩の名前が出てきてしまったのかは私にもわかりません。
「え……」夏目君は困惑の色を隠せないでいる様子でした。
これでいいんだ。これで……中庭に見え隠れする赤と白の装束。これから訪る幸福を未だに知らず、後輩の恋路のために奔走する愛すべき人。
こんなやり方をしたら、夏目君の近くには居られなくなる。だから先輩のそばに居ることだってできなくなる。それが代償だと言うのであれば、喜んで差しだそう。平凡で退屈な毎日に彩りをくれた人。自分では見ることができなかった世界を見せてくれた人の幸せのためならば……一世一代の恩返しです。
全ては夢のまにまに、それは次の瞬間に崩れてしまう積み木のようで……目覚めて
しまえば最初から何もなかったように惚けて佇む私がいるだけ。
「えっと……はい。わかりました……」
とても気持ちが悪い時間が永遠と続くかのように思えました。もしも夏目君が食い下がったなら、私は泣いてしまったことでしょう。けれど、夏目君は頭を掻きながらそう呟いただけだったのです。
私は俯いたままでした。やがて夏目君は「それでは」と短く言って私に背を向けて歩き出します。
これで良い。小春日さんとの打ち合わせ通り。胸を突き破るほど大きく早い鼓動が頭の中に響く中、私は一生懸命に自分自身にそう言い聞かせました。堪えなければならないのです。夏目君の背中を見ながら、鼓動が私を急かしました。この機会を失ったなら次はない……と……
困惑と動揺を隠せないはじめて見る夏目君の表情。夏目君は私の事を本当に想ってくれていたのでしょうか。例えそうであっても私は夏目君の事を好きではありません。
でも、夏目君には貴方のことを想っている人がすぐ側にいる。それを教えてあげなければ私はただの卑怯者です。
言いたいことを言うのは、伝えたい事を伝えるのは子供のやることで、大人に等しい私は知るを知らせず我慢をすることも美徳としなければ……いけません。
違う! 私はやっと気が付きました。色々な理由を並べ、真梨子先輩の為と思い込み、全部全部目を逸らして、自分を欺いて……伝えるべきを伝えず、それを美徳として気取ることが大人であるはずがありません。
誰の何のせいにするのではなく、自分の行いに責任を持つことこそ大人の行いなのです!
「夏目君、待って!」
私は力強く目を見開くと、大股で遠ざかる夏目君の元へ歩み寄りました。
「え」振り向いた矢先に私が近くにいたので、夏目君は思わず仰け反ってしまいます。
「さっき私が話したことは嘘です。その、嘘ではなくて……私は夏目君の事は好きではありません……」
「……」
私は勢いのままに言葉を継ぎ接ぎました。事実として私は夏目君のことが好きではありません。それが大前提です。
夏目君は何も言いませんでした。その代わり、今までにないほどの冷めた視線を私に向けています。無理もありません、現状では私がわざわざ呼び止めたあげく、今一度とどめの一言を言ったにすぎませんから……これ以後に私が発する言葉は決定的且つどうやっても、誤魔化しが聞かない現実です。やはり、本能的に話してしまうことをためらっているのでしょう。口が急に動かなくなってしまいました。体が急に震えだして止まらなくなりました……。
私は一度大きく深呼吸をしました。そして多くを諦めたのです。
この一言で真梨子先輩に絶交をされても小春日さんに軽蔑をされても仕方がない。その時は謝って謝っていっぱい後悔をしよう。そんな風に……
「私は夏目君の事を好きではありません。だけど、真梨子先輩は夏目君のことを愛しています」
「はぃ?」夏目君の反応は見るからにわかりやすいものでした。
「意味わかんないですよ。なんでそうなるんですか」
「真梨子先輩は夏目君のことが好きです。でも、夏目君が私に気があると思って、色々とお節介をしてくれていたと思っています。けれど、お節介を焼くために夏目君と一緒にいる時間を先輩はとても楽しんでいました」
それはもう束の間の夢に陶酔するように。
「それは考え過ぎです。先輩は私以外の誰にでも同じですよ。底抜けに明るくて気さくで……」
「そんな風に思っていませんよね。そんなわけがないんです。先輩は大学では派手な服装をしてみたり、髪の毛を染めてみたり、夏目君から嫌われようとしていたんです」
「仮に、私の事が好きだと言うのなら、そんな事をする必要ないじゃないですか」
「いいえ。ありますよ。真梨子先輩だって女の子なんです。好きな人に告白をして、楽しい今を失うくらいなら、気の無い振りをして、少し嫌われて距離をおいておけば、関係が壊れることもないですから……」
「違いますよ……」夏目君が急に語気を弱めて俯きます。きっと思い当たる節があるのです。
「違いません!」私は強く言いました。
「夏目君は言いましたよね。円満解決が難しい方の三竦みって」
「確かに……言いましたけど」
「最初は、私1人が泥を被るつもりでいました。けれど、それだけでは何も変わらないと思ったんです。先輩の居ないところでこんなことを話してしまって、先輩に軽蔑されるかもしれませんし恨まれるかもしれません。でも、今話したことは事実なんです」
「まだ。わけわかんないままですけど……少なくとも、葉山さんが先輩から軽蔑されたり恨まれたりすることはないと思います。俺は喋りませんから」
「でも……」
例え夏目君が話さなくても真実を知ってしまった夏目君の挙動から真梨子先輩は感じ取ってしまうことでしょう。仮にそうならなかったとしても、真梨子先輩の気持ちを夏目君が知ってしまった以上、その原因が私にあることは遠からずわかってしまうことです。
中庭に見え隠れする先輩の姿が目にはいると、私はとんでも無いことをしでかしてしまったように思えて来て、冷や水を浴びせられたように体が鉛のように重く、軽くめまいさえ感じます。
「約束します。それじゃ」
霞む視界の先に居た夏目君の表情は明らかに変わっていました。去り行くその背中に覚悟のようなものさえも感じるほどです。
私はその場にしゃがみ込むとしばらく動くことも、何も考えることすら出来なくなってしまったのでした。
○
春日山に日が落ちて、花火が上がって……甘美祭は終わりました。
私は罪悪感と達成感が入り交じったとても複雑な心境のまま本館の正面玄関の階段に座ったまま、膝に顔を埋めてただそこに居ました。
自分で自分がわからりません。どうして、土壇場になってあんなことを……そしてそれが正しいと決めつけてしまったのでしょうか……小春日さんと計画した通りにしていれば、それで全てが上手くいくはずだったのに……私は最低です。冷静になればなるほど『伝えない優しさ』もあるはずといかに自分が愚かで短絡的あったかと言うことを思い知るのです。
結局、私は1人で泥を被ることが恐ろしくなったのです。今を取り巻く楽しい関係が全て崩れてしまうことが怖くなったのです。だから、真実を伝えると自分を欺いて最後の最後に自分自身をかばって必死に弁護をしたのです。
真梨子先輩に嫌われたくなかったのです……すでに先輩のためではなく、私は私の為に計画を利用してしまいました。最低な人間です……小春日さんに軽蔑されて叱責してもらいましょう。
そうでなければ、私が私を許すことができません。
「探したよ。電話してもでないし……家に行っても居ないし」
顔を上げると息を荒げた小春日さんの姿がありました。今にも小春日さんに懺悔の弁があふれ出しそうになります。だから私はそれを堪えるために口元に力を入れました。すると、今度は涙が溢れてきたので、再び膝に顔を埋めるしかありませんでした。
「甘美祭終わっちゃったね。強者どもが夢の後、一生懸命だったよ私は、葉山さんは?」
「……」
「変な事聞いてごめん。それからもう一つごめんなさい。嫌な役を押し付けて、今夜を限りに私は最低で卑怯な人間になったよ」
「そんなこと!ないですよ」
きっと私は泣いてしまっていたと思います。滲んだ先に見える小春日さんの顔は穏やかでとても優しい表情をしていましたもの。
「大事な友達に全部泥被らせて。自分は後からおめおめと慰めて同情しようとしてるんだもん。そう言うのを卑怯って言うんだよ」
「なら私も卑怯で最低です。土壇場で恐くなって、夏目君に本当の事を話してしまいました」
「お芝居だって、話したの?」
「違います。真梨子先輩が夏目君の事を好きだって言いました。先輩は今を失いたくないから、告白しないで夏目君の嫌う派手な服を着たりしてわざと嫌われてたって、幾つか嘘もつきました」
先輩が夏目君の事を好きだと言う事以外は私の推測なのです。理路整然として聞こえますけれど、それが実だとは限りません。
「嘘じゃないよ。多分それは全部本当のことだと思う。先輩が急に髪の色変えたり服の趣味が変わったりしたのって、夏目君と知り合った頃からだから……」
「そんなの……」私はついに我慢でき無くって、声を上げて泣き出してしまいました。
「泣かないでよ。ごめん。本当にごめん」
小春日さんはそう言いながら、私の頭を優しく抱きしめてくれました。早く泣き止まないとと思えば思うほど涙は止まらず、寧ろ感情の起伏は激しくなるばかりです。しばらく私は感情にまかせて泣きじゃくるしかできませんでした。
「いっぱい泣いていいんだよ」嗚咽が収まった頃、耳元で小春日さんがささやきかけてくれました。
突如として沸き上がった無数の拍手に私がようやく顔をあげると、私と小春日さんに向けて模擬店の片付けをしている人達が拍手をしてくれていたのです。見れば、私と同じく泣いてしまって人もいるのです。
「みんな甘美祭をやり遂げた感動で泣いてるんだと勘違いしてくれてるみたい。今夜だけは堂々と泣いても許されるよ」
「そうですね。でももう大丈夫です」私は鼻をすすって涙を拭いてから「私が余計なことをしなければ、先輩と夏目君は結ばれたのかもしれません。でも私が余計なことしたから……」
「それなら私も同罪だから。葉山さん1人のせいじゃない。それにね、私思うんだ。真梨子先輩が髪の色を戻したのにも絶対意味があるって」
「先輩は巫女だから黒にしたって」
「多分それは嘘。ちんどん屋の時だって戻さなかったのに、今更戻すなんて変だよ。
私の勘が正しければ、髪の色だけじゃなくて服装にも変化があるはず……自分の気持ちに気が付いてるんだよ先輩だって」
「私達に出来ることはあるのかな……」
「うんある。私達にとっての天王山は甘美祭の打ち上げだよ」
泣き腫らした顔で小春日さんの顔を見上げる私に小春日さんはそう言い切りました。
それから小春日さんと明日、先輩にも夏目君の事を話す旨を二人で確認しあい、小春日さんが撮影した甘美祭の写真を見せてもらいながら二人して大学を後にしたのでした。
明日を含め今後どう転んでも、小春日さんは私の味方で居てくれる。そう確信がもてただけでも気持ちがとても軽くなりました。
だから、私は湯舟に使って何度も顔を洗ってから拳を高く突き上げ決意を新たにしたのです。ここまで来たらもう引き返すことはできない。やると決めたら最後まで。ここで臆病風に吹かれたなら女が廃る
と。
◇
覆面の彼を見習うわけではないが、私は葉山さんに贈る林檎飴を買ってから、体育館裏に駐輪場へ向かった。
「お待たせしました」
俯き加減で佇んでいた葉山さんは私が声を掛けると、とても驚いた様子で急いで腕時計を確認していた。そう言えばまだ待ち合わせには30分ほど時間があっただろうか。
「こんにちは」
「こんにちは」
依然として葉山さんは顔を上げなかったが、覆面の彼の奇跡とも言うべき奇跡を目の当たりにしたばかりなので、どこか気持ちが高揚していたのだろう。私はこれから待ち受ける幸福の瞬間を想像して、きっとにやにやしていたに違いない。
「私には好きな人がいます。真梨子………えっと、だから絶対に無理ですごめんなさい」
だが、彼女の口から出た言葉は、私を天国から地獄に突き落とすものだった。正しくは煉獄にいた私を地獄に突き落としたわけだが、いずれにしても私は酷く混乱をして困惑をした。だから、「え……」としか返事をすることができなかった。
葉山さんは目を強く瞑ったまま、口元も固く一文字に結び、私の前に立っていた。
『好きな人って誰なんですか』『最初から振るつもりだったんですか』『だったらどうしてそんなに着飾ってるんですか!』即座に目の前にいる女の子に対して投げかける言葉が浮かび上がってきた。そしてそれに追随するように、罵詈雑言が酷く尾をひいた。
夢のまにまに、ついに積み木は崩れてしまった……葉山さんが私の事を好いてはいないことは薄々気が付いていたし、理解もしていた。けれど、もしかしたら……と決定的な告白が無い以上は……と諦めつつも心の片隅に常に『もしかしたら』と言う希望がついて回っていた。それが私の生きる糧であったことは言うまでもない。
今、私の胸の隅っこに輝いていた希望は無情にも打ち砕かれ、完全なる闇のみが私を支配しようとしていた。もう、脈がないのであれば、相手が誰であれ恨み辛みを重ねて吐きかけてやったところで何を後悔する必要もない。気持ちの悪い無言の間を費やして、そんな事を考えた私は沈黙を破り、
「えっと……はい。わかりました……」とだけ答えた。
なぜか、葉山さんの姿がいつもよりもずっと小さく見えて、心なしか震えている気がした。ここで、彼女に悲し紛れに怨恨を吐き散らかしたらなら……彼女が泣いてしまうほど罵詈雑言を浴びせられたなら……彼女の心を傷つける事が出来たなら、今は満足できるかもしれない。だがしかし、後々私は後悔の念に苦しみ暮れることになると思うし、一生の悔いを残すことになると思った。
私にはそれだけの後悔を背負ったまま生きる自信がない。
俯いたまま何も言わない葉山さんに私は「それでは」と呟くように残して、彼女に背を向けたのだった。
万事はこれで良いのだ。腑では依然として恨み節を吐き出せと胎動を繰り返して止まないが、一朝の怒りに我を忘れる事無かれ。怨嗟を口にしたところで葉山さんの心は何一つ変わりはしない。
それに……悲しいと思う気持ちのどこかほっと安堵した気持ちが確かにあった。どういうわけか私自身にもわからなかったが、きっと、前もって葉山さんに振られたと思い込んでいた予行演習がそう感じさせたのだと無理矢理に思うしか心の持って行きようがなかった。
「夏目君、待って!」
「え」突然の声に振り返ると目の前に彼女の顔があったので、思わず私は体を仰け反らせてしまった。
「さっき私が話したことは嘘です。その、嘘ではなくて……私は夏目君の事は好きではありません……」
「……」
私は不意を突かれた上に、今一度念を押されて振られたのでさすがに彼女に対して怒りを露わにした。わざわざ呼び止めてとどめを刺さなくてもいいだろう。
だが、それは言葉の一端でしかなく、何かを躊躇していたのだろうか、彼女は大きく深呼吸をしてから続けて言ったのである、
「私は夏目君の事を好きではありません。だけど、真梨子先輩は夏目君のことを愛しています」と。
「はぃ?」私は、あまりの藪から棒さにそう声を出すしかなかった。
「意味わかんないですよ。なんでそうなるんですか」
まったくその通りである。
「真梨子先輩は夏目君のことが好きです。でも、夏目君が私に気があると思って、色々とお節介をしてくれていたと思っています。けれど、お節介を焼くために夏目君と一緒にいる時間を先輩はとても楽しんでいました」
私を振ったかと思えば、次は真梨子先輩が私の事を好きだと言う。すでに脈略以前の問題だろう。どう解釈すればそんな帰結にたどり着くのだろうか。
「それは考え過ぎです。先輩は私以外の誰にでも同じですよ。底抜けに明るくて気さくで……」
阿呆らしい。私はこれ以上話しを続けるつもりは無かったが、一方の彼女は先ほどとはうってかわって瞳に覇気が感じられる。それに気が付くとつい言葉が止まってしまった。
「そんな風に思っていませんよね。そんなわけがないんです。先輩は大学では派手な服装をしてみたり、髪の毛を染めてみたり、夏目君から嫌われようとしていたんです」
「仮に、私の事が好きだと言うのなら、そんな事をする必要ないじゃないですか」
「いいえ。ありますよ。真梨子先輩だって女の子なんです。好きな人に告白をして、楽しい今を失うくらいなら、気の無い振りをして少し嫌われて距離をおいておけば、関係が壊れることもないですから」
「違いますよ……」言い切れなかった。
言われてみれば、真梨子先輩が髪の色や服装を変えたのは私と知り合ってからだと古平も話していたし、虫騒動の夜も合い鍵事件の夜も、どうして先輩は私だけを呼んだのだろうか……
「違いません!」完全に葉山さんの覇気が私を飲み込んでいた。
「夏目君は言いましたよね。円満解決が難しい方の三竦みって」
「確かに……言いましたけど」
「最初は、私1人が泥を被るつもりでいました。けれど、それだけでは何も変わらなないと思ったんです。先輩の居ないところでこんなことを話してしまって、先輩に軽蔑されるかもしれませんし恨まれるかもしれません。でも、今話したことは事実なんです」
「まだ。わけわかんないままですけど……少なくとも、葉山さんが先輩から軽蔑されたり恨まれたりすることはないと思います。俺は喋りませんから」
喋るはずがないし、喋りようがないではないか。先輩にどう喋れと言うのだ『先輩は俺のことが好きなんですか?』とでも聞けと言うのか。そんな間抜けな質問など死んでもごめんだ。
「でも……」
ここに来て突然、彼女は語気を弱め、本当に全身を振るわせはじめた。どうしたのだろうか、あれだけ断言していたのに私を言い負かす勢いはどこに行ってしまったのだろうか。
それは不可解ではあったが、私だって大混乱の心中にて彼女を気遣う余裕はなかった。
「約束します。それじゃ」
その後は一度も振り返らず図書館横の階段からグランドに降りるとメインステージではソーイング同好会によるファッションショーが行われていた。とりあえず、開いている席に腰を落ち着けると、ようやく、手に林檎飴を持って居たことに気が付いた。
厭世の際、私はさながら精神が死んだしまった抜け殻でありゾンビであると言いたい。葉山さんに振られたかと思えば、その彼女は真梨子先輩が私の事を好きだと言う。よりにもよってどうして真梨子先輩なのだろうか……先輩に想いを馳せる男子は私の知る限りで6人はいる。部長を省いた後の5人に関してはサッカー部のキャプテンであったり、バスケ部のエースだったり、野球部の背番号1番だったりするのだ。私のような取り柄もなければぱっとしない男が入り込む余地などどこにあると言うのだろうか。
「今日は真梨子先輩のお供はしてないんですか」
串焼きをしゃぶりながら、古平が私の隣に腰を降ろした。いつ見ても気色の悪い顔である。
「帰宅部のお前がどうして文化祭に居るんだ」
「何言ってるんですか、帰宅部でも金さえもってれば来ても良いんですよ」
「こうしてお金を落としてますからね」と串焼きを見せた。
「真梨子先輩も考えましたね。あんな商売があるなんて。さすがは狡兎と名高いだけはある。いいや女狐と言った方がいいかもしれない」
古平は自分で言っておきながら、キシシッと汚らしい笑い声をこぼした。
「狡兎はお前だ。そして先輩は女狐ではない」
もっと言うなればお前こそ悪名高きぬらりひょんだ。
祭りの楽しみ方は人それぞれだ。その証拠に、私のすぐ後ろに座っているカップルなど、鍵に仲良く名前書き並べて楽しそうな声を出しているではないか。なんと憎たらしい楽しみ方だろうか。
「狡兎は酷い言い方ですね。これでも私は真梨子先輩の身を案じて身を呈してまで忠告をした男なんですよ」
「嘘つけ」
「嘘じゃありませんよ。あなたも真梨子先輩に信用されてませんね。あんにいつも飲み会に呼ばれてるくせに。聞いてませんか?家に帰ったら、テーブルの上に覚えのないメモが置いてあっ……」
私は古平が言い終わる前にその胸ぐらを搾りあげた、その衝撃で古代は持っていた、串焼きが地面に落ち、地面で一度跳ねて転がった。
「いきなり何をするんですか。せっかくの串焼きが台無しだ」
さらに締め上げたが古平は物怖じせずに落ちた串焼きを惜しそうに見ていた。
「正しくは、侵入したんだろ。どうして家の中に入ったりした。忠告なら口で言えばいいだろ!先輩に何の恨みがある言ってみろ!」
ファッションショーのBGMのお陰でさほど目立たずにすんだが、それでも私と古平の周りの席から人の姿が消えた。
「生憎、真梨子先輩には大恩はあっても、恨みなんてありはしませんよ」
小春日さんとの仲を取り持ってもらった大恩もあれば、私同様に偏屈者な古平を先輩は嫌うことなく、みんなの輪の中に溶け込ませてくれた。その恩を仇で返しておいてその物言いはなんだ。
「離して下さい」古代も声を荒げずとも冷淡な視線で私をにらみつけた。
私が手を離すと「あなたは知らないだろうけど、先輩を抱きたい男なんて幾らでもいるんですよ。あんな服装でしかも、いつもヘラヘラしてるもんだから、尻軽女で二言返事で部屋にあげてもらえるってね。そんな阿呆なやつらならまだ良い。本当に恐いのは、自分の口でそれを言えない奴らですよ。陰険で意気地のない奴らもいましてね。つい先日、真梨子先輩が相談室に入って行ったんで、本意ではなかったんですが、聞き耳を立てたんです。そしたら、なんでも男が大学の帰り、家までついてくるらしくてね。それだけでも耳を疑ったんですけど、相談員の一言にももっと耳を疑いましたよ。なんて言ったと思います?」
「知るか、もったいぶるな」
「助けを求めに来たって言うのに、一言めに『そんな服装をしてるあなたも悪い』ですよ。僕も思わず笑っちゃいましたね。こんな阿呆に相談するだけ無駄だと思ったんですよ。僕だって先輩の服装が悪いなんて微塵も思わない。そんな湾曲した妄想を抱く奴が悪なんだ」
私は目を大きく見開いて髪の毛を逆立てた。悔しいが古平の言うとおりである。そんなバカ者に相談をしたところで何も解決などするはずがない。きっとそれは真梨子先輩も感じたに違いない。
「だから、先輩の家に入った理由にはならないぞ」
古平が冗談半分にあんな犯罪行為に及んだのではないことはわかった。だが免罪符にはならない。やり方なら他にいくらであったはずだ。
私がそう言うと、古平は砂まみれになった串焼きを広いあげると、静かに立ち上がり、不機嫌と言いたげな表情で「あなたも、真梨子先輩と冗談半分で付き合ってるなら、そろそろ潮時にした方がいい。怪我をしてからじゃ遅い」と捨て台詞のように言った。
「どういう意味だ」
私も立ち上がり古平に歩み寄り、そして古平の肩を掴もうとした頃合いで、
「先輩のアパートの合い鍵、1本3万円で売れると知って、悠長に構えてられますか」と横目で私を制したのであった……
私は少しの間、戦慄して動けなくなっていた。
古平が座っていた椅子に静かに腰掛けると、事態は私の知らない所でそんな深刻なところまで進んでいたのか……真梨子先輩のことは古平よりも ずっと知り置いていると思っていたのだが……それがどうした……それはただの井の中の蛙。胸に縋られていい気になって居ただけではないか……
悔しいが合い鍵の一件は、先手を打つことができたから古平の功績であると言える。今にして思えば先輩は合い鍵の一件をしでかした犯人に見当をつけていたのかもしれない。だから、恐怖に怯えながらも通報するという手段には手を出さなかった。
乱れた呼吸が浅くなる頃、握っていた林檎飴がなくなっていることに気が付いた。
顔を上げるとソーイング同好会の面々が壇上に勢揃いをしてカウントダウンをしている。メンバー全員と会場の観客が声を揃えて「ゼロ」とカウントしたと同時に、部室棟から数発の打ち上げ花火が夜空を焦がした。
一斉にわき起こる拍手喝采。壇上では感極まった同好会面々が涙をもってそれぞれの健闘をたたえ合っている。
【これを持ちまして、甘美祭を終了いたします。各部・同好会は速やかに後片付けを開始して下さい。尚、ゴミの分別や粗大ゴミは甘美祭執行部の指示に従ってください】
学内にアナウンスが何度か流れ、その後はスピーカーと言うスピーカーから蛍の光が流れはじめた。
神無月を締めくくる宴が終わった。同時に私の灯火も完全に消えた。
◇
私は早々に観客席を片付けに現れた、運動部員にパイプ椅子と居場所を奪われ、泣くに泣かれず中庭へと移動した。
「あっ、恭君!探したんだよ」
さすがに最終日ともなれば見慣れたものでる。朱と白色の巫女服を纏った真梨子先輩が簡易金庫を持って草履をぺたぺたと鳴らしながらやってきた。
「見て見て、鍵全部売れたんだよ。と言うか売った!」と嬉しそうに胸を張って言う。
はいっ。と言いながら先輩はその金庫を私に差し出した。
「初めは500円で売ってたんだけど、食い付きが悪いから400円に値下げしちゃった。もし足りなかったらごめんね」
金庫を受け取り蓋を開けてみると、小銭と紙幣が何枚か納められてあった。大きな紙幣が一枚見当たるかぎり、私の支払額よりも多い事は歴然としている。
私は大きな溜息を吐いた。こんなことのために、真梨子先輩は美術室にこもって小道具を作り、全日を通して巫女姿で中庭に立っていたのか……そう思うと、ただ静観していた自分がどこまでも情けない。加えて古平の話しを思い出すと胸に迫るものがあった。
感謝こそしたくない。それでは、鍵の代金を先輩への善意に見返りを求めていたことを認めてしまうようで……感謝の言葉も思うことすら憚った。けれど、その愛情に深きにどうにかしてその行いに思いに、私の気持ちを伝えたい。そう強く思うのである。
「どうして来なかったの?」
脳天気な声色で先輩は私に聞いた。この人はこの数時間の間に私が経験した絶望と戦慄と感謝の出来事を全然知らないのだから責めようがない。
「振られました」
「誰に?」
「葉山さんにです」
「それって恭君が思い込んでるだけでしょ?なっちゃんに確認したら、振ってもない
し告白もされてないって言ってたよ」やはり、葉山さんに何度も確認をしていたらしい。先輩らしいと言えば先輩らしい……
「そんな後ろ向きじゃ駄目だよ」私の方を小突きながら言う先輩に私は、
「いえ、さっき、体育感裏で公式に振られました」と先輩をまっぐに見つめて告げた。
「えっ…うそ……」
「本当です。振られた気でいただけ傷は浅いですよ」
「そんなのって……」
真梨子先輩は見る見る間に表情を曇らせると、急いで携帯を取り出して操作をはじめたが「先輩」と私がそれを制した。
「真梨子先輩には折り入ってお願いがあります」
携帯を触る手を止めて先輩は私に向き直った。どこか不安げな表情をしたまま……
「なに」
「明日から、派手な服装はやめてもらえませんか」
「えっ、どうして……急にどうしたの?」
困惑の色を隠せない先輩だった。悔しいが私も古代と同意見である。真梨子先輩がどのような格好をしようとも、それは先輩の自由であり、それにとやかく言う権利は誰にもありはしない。単純に邪な思いを抱く悪辣漢がこそ悪なのである。
「お願いします。明日から、派手な服装をやめてください!」
私は、頭を下げた。
そして、「お願いしますこのとおりです」私は膝を折り、手をついてお願いした。恥も外分も打ち捨てた私はさらにアスファルトに額を擦りつけて先輩に懇願したのである。
◇
思えば場所を考えれば良かった。
いきなり土下座をした私に片付けに奔走していた学生全ての視線が集まり、その後に続いて、どうしていいのか困った表情の真梨子先輩に視線は移る。視線に耐えかねてか、先輩は何も言わずに走り去ってしまった……
「今時、土下座で交際を迫るやり方はどうかと思うよ」1人取り残された私に、通りかかった部長がくれたお言葉である。先輩の反応からすれライバルが1人減ったと思ったのだろう。とてもにこやかな顔だった。
再び喧騒に包まれる中庭にあって真梨子先輩にはとても悪いことをしてしまったと反省した。
流々荘に帰ってから、とりあえずメールでもう一度先輩に謝っておこうと思ってみたものの。葉山さんの言葉が蘇り古平の言葉が蘇ると、どうやっても指が動かなくなった。
先輩からメールが来ない現状を鑑みれば、先輩だって怒っているだろうし、中途半端な謝罪を繰り返したところで火に油である。事情を説明することができない以上は時薬にて関係の回復を試みた方が無難であると言いたい。
そう言うことなので明日の夕方から開催される『合同甘美祭お疲れ様会』には欠席することにした。
私が行かなかったからと言って誰も気にする人間などいやしないのだから。
○
「頼まれた通り、先輩にも夏目にも仕込んだ。こんな胸くそ悪いことはもうごめんだ」
次の日の夕暮れ時、私は甘美祭お疲れ様会が催される近鉄新大宮駅前にあります一条と言うお店の近くで古平さんと会って話しをしていました。もちろん、呼び出したのは私です。
「はい。感謝しています。でも、もう一度だけお願いしたい事があるんです」
「真梨子先輩か?それとも夏目か?協力するとは言ったけどな……」
「小春日さんにです」私は、嫌気がさしたと言わんばかりに話す古平君の言葉を遮って言いました。
「どうしてそうなる」
「小春日さんの彼氏である古平君にしか出来ないと思うからです」
目を細めてあからさまに猜疑心をむき出す古平君に私は、あるお願いをしました。それは恋人である古平君であれば難しいことではありません。ただ極々自然にお疲れ様会を楽しんだ延長線上にあるのですから。
「これきりだ。どんな幼稚なことであって今後僕は一切協力しないからな」
「はい」
踵を返す古平君を見ながら私はほっと胸をなで下ろしました。今まで古平君には小春日さんからお願いしてもらってばかりでしたから、私からお願いして引き受けてもらえなかったらどうしましょう。そんな一抹の不安があったのです。
私が引き受けた役回りはこれで盤石です。
思った通り夏目君は会場に姿を現しませんでした。私は終始先輩の隣にいて代わる代わる先輩に話し掛けてくる男子学生の多さに驚きつつ、これだけの男子学生に愛されていながら、その誰ともお付き合いをしない先輩はとても一途なのだと思うばかりです。
先輩はいつも通りでしたけれど、携帯を一度も触りませんでしたし夏目君の事を一度として話題に上げることもしませんでした。
小春日さんは古平君がしっかりと抱え込んで放さず、しきりに乾杯を繰り返して居る様子で、私として事は万事滞りなく……でした。中でも先輩がとても落ち着いた装いで現れたのでこれは小春日さんの勘が当ったのかも。逸る気持ちを押し殺して「今日は家庭教師のバイトから直接きたんですね」と聞いてみると「明日までバイトは全部お休みいれてるよ。だから、今夜はなっちゃん家においでよね」と言うので、ますます風は今私に吹いている。と追い風を感じいずにはいられない私だったのでした。
午後8時を過ぎた辺りで、合同お疲れ様会はお開きになりました。まだまだ宵の口
あたりでお開きにするのは、この後各部同士、気の合う者同士で引き続き『打ち上げ』を行えるようにとの執行部の心遣いなのだそうです。音無さんからそのように聞きましたので間違いはありません。
「彼女は酔ったみたいだから。僕が連れて帰る。後は頼んだ」
真梨子先輩が各方面からの2次会への誘いを断っている間に、古平君が眠ってしまっている小春日さんを背負って私の所までやってくると小声でそう言い、周りからからかわれながら踏切の先へと消えて行きました。
程なくして、先輩が「ごめん、お待たせ」と言私の隣に現れました。そして、2人して先輩のアパートへと歩き出したのでした。途中、コンビニへ寄ってお菓子とデロリンを買いました。先輩が小春日さんも呼ぼう!と言うので、事情を説明すると「小春ちゃんはいいよねぇ。頼りになる彼氏がいてさぁ」と唇をとがらせるのでした。
風に靡く薄水色のスカートに黒いニーソックス、気まぐれな風に見え隠れする肌色の太腿。夜空と同じ色の髪にはシリウスのように際だつ白いヘアバンド。冬を前にした季節にしては少し薄着に見える白いシャツにスカートと同じ色のベスト。今夜の先輩はとても清楚可憐で素敵な女の子です。一体誰に見せるためにこんなお洒落をしてきたのでしょうね……「今日は飲んだー」とスナック菓子の入った袋を大きく振りながら少し前を歩く先輩。ふくらはぎの所に刺繍の黒猫がいることに気が付いて嬉しくなりました。
アパートの階段を上りながら、私は今一度、臍を固めていました。小春日さんには申し訳ないですが、ここは私が1人で嫌われます。もしも、私と小春日さんを同時に嫌いに成らざる得なくなったなら、寂しがり屋の先輩の事ですから、きっと困ってしまうはずです。今日を限りに小春日さんに先輩をお願いするつもりです。今夜、夏目君は先輩のアパートには来ないでしょう。小春日さんも明日の朝まで眠り続けるでしょうし、古平君はもう私の前にすら現れないかもしれません。先輩は私と対峙せざる得ないのです。
役者は揃いました、ここからが総仕上げです。
「たっだいまー」先輩は上機嫌で部屋に入って行きました。
私は、何があっても何を言われても怯まず泣かず妥協せず。先輩を想う真心のままにとオリオン座の端で輝くシリウスに誓ってから、
「咲く時を 知りてこそ先輩の 恋も恋なれ 藍も愛なれ」そう呟いたのでした。
○
「さぁて、まず何から聞こうかしらね」
私がデロリンを炬燵の上に置くと、ニーソックスとベストを脱いだ先輩が徐にそう言いました。
「甘美祭のことですか?」私は先輩に向かい合うように腰を降ろしました。
「恭君から聞いた。正式に振られたって。本当なの?」
「はい。私にはその気持ちがありませんでしたからはっきりとさせました……」
先輩がそのように話す限り、夏目君は先輩に余計なことを一切話していないようです。こればっかりは夏目君に感謝しなければいけません。
「まだ結論を出すのは早いと思うんだよね。もっと、時間をかけてから結論を出しても遅くないと思うの。恭君って不器用なだけで、見かけによらず優しいし、一生懸命になってくれるんだよ。だからね」
夏目君の良いところを思い起こすでもなくすらすらと並べる真梨子先輩……それは、それだけ先輩が夏目君のことを見ている証拠。聞けば聞くほどに、先輩は夏目君の事が好きなのだと伝わってきます。
なのに、まだ無理をして私の為と言い訳をして……必死に考え直すように諭す先輩を見ていると私はやるせない気持ちと同様にお腹の辺りが熱くなるのを感じました。
「だからね?」先輩は、それでも私を説得し続けました。とっくに私の腹は決まっていると言うのに……
夏目君でさえもその真実を知っていて、全てを知らないままでいるのは先輩ただ1人だけなのです。言い方は悪いですが、裸の王様です。
「私のことはいいんです。先輩はどうなんですか」
私はついに口火を切りました。もう、何度も決意を固めましたし、この期に及んで怖じ気づいていては女が廃ります。
「へ?私……?なっちゃん、何言って……」
「先輩こそ、夏目君の事が好きなくせにどうして、無理をしてるんですか。私には時間はあります。けれど、先輩には時間がないじゃないですか、もうすぐ就職活動で忙しくなって今までみたいに、夏目君と会う機会もなくなります。先輩は今のままで本当に良いのですか。絶対に後悔をしないんですか」私は先輩の言葉を遮って強く言いました。冗談ではないことを示すために、眼孔を鋭くして先輩を見据えます。
「私が夏目君を、なっちゃんわけわかんないよ……」
目に見えて狼狽する真梨子先輩は、私から視線を合わすことができないまま、天井を見たり、台所を見たりしていましたが、最後は自分の手元に視線を落ち着かせました。
「先輩を見てればそれくらいわかりますよ。それに、私が夏目君を振ったのは先輩の為です」
「そんなっ」先輩は声を細めながらも咄嗟に身を乗り出しました。
「もう、何真剣になってるの。私が夏目君の事を好きなわけないじゃない」
「先輩。好きでもない相手にノートPCを貸しっぱなしになんてしませんよ……パソコンだって夏目君との接点の一つなんですよね」
「違うよ。それは違う」
「服装だって、夏目君が派手なのが嫌いだって知ってわざとですよね。古平君も小春日さんも言ってました。先輩が急に髪の色や服装を変えたのは夏目君と親しくなってからだと」
「違う……私の趣味だから……夏目君は関係ないよ」
「趣味なのにどうしてクロゼットの中には一着もなかったんですか」
「それは、それは……とにかく違うのっ!」先輩は声を荒げると、急いで立ち上がると玄関の方へ体を向けます「違いません!」私も炬燵に手を突いて立ち上がると先輩を上回る声量でこれを制し、行く手を阻みました。二人の間に衝撃で炬燵から落ちたデロリンが転がり、やがて、キッチンへと続くフローリングの端で止まりました。
ここから↓
「私も小春日さんも古平君も先輩に幸せになって欲しいんです。今度は先輩が幸せになる番なんです。お願いします。私達に先輩の恋愛を応援させてください」
私は言いました。
先輩は無言のまま、小刻みに首を左右にさせているだけで、何も言いません。
私は考えました。このまま先輩が私を押しのけてでも部屋を飛び出して行ったなら、どうすればいいでしょうかと。きっと、この場から先輩を逃がしてしまったなら、次の機会は絶望的でしょう。これ以上の会話を全身で拒絶している先輩は二度と私の前に姿を見せることすら避けるかもしれないからです。
1分1秒がとても長く感じられました。足の指先から凍り付くように冷たくなって来る初めての感覚が私の不安を一層かき立てます。
どれくらい時間が経ったでしょうか。お互いに黙したまま、、膠着したまま微動だにできず、呼吸の一つが唾を飲む喉の動きさえも鮮明に目立つ張りつめた時間が……
次の瞬間。
突然、容赦ない呼び鈴の連呼が始まりました。その次はドアを何度も叩く音が部屋の中に響きます。先輩は、はっとして視線を玄関の方へ移すと早歩きで玄関へと行ってしまいました。駆けて行かなかったのは、私に逃げる意志がないことを示していたのでしょうか。一方の私はと言うと、先輩を避けようとしてはじめて足が動かないことを知り、無様にも尻餅をついてしまっていたのでした。
なんて情けない私なのでしょうか……
「なっちゃん来て」先輩の声に、途中まで四つん這いになりながらも玄関まで行くと、顔色の悪い小春日さんが先輩に寄り掛かっていました。
「もう卑怯者は嫌なのに 何でよぉ」私の姿を見つけると小春日さんはそう良いながら泣き出してしまいます。
私と先輩は小春日さんを両方から支えて、なんとか炬燵の前まで運んできました。
「小春ちゃん、どうしたの?古平君は?」
水の入ったコップを差し出しながら先輩が小春日さんに言うと、小春日さんはコップを両手で持ったまま「先輩、私が悪いんです。私を夏目君に話してって……」嗚咽混じりにそんな意味不明なことを言うのです。ますます混迷を極める先輩でしたけれど、小春日さんが持っていたコップを炬燵布団の上に落とすと同時にその手を口へやったのを見て、即座に小春日さんを台所へ連れて行きました。
「なっちゃんごめん。窓開けてくれる」
小春日さんの落としたコップの処理にあたっていた私は、水が半分残ったコップを炬燵の上に置くと、窓と言う窓を開け広げ、最後に換気扇を回しました。
小春日さんもとても辛そうでしたけれど、シンクの惨状を見るに後片づけも相当辛いものになりそうです。
「こんなに飲むなんて小春ちゃんらしくない……」
その後、譫言のように「こうちゃんのばかぁ」と繰り返す小春日さんを2人でベットまで運び、それから、諸々の後片づけをしました。
シンクを洗い終えた後も臭いはなかなか消えませんでしたので、しばらく窓は開けておきました。冬の足音が聞こえる昨今ではやはり、日が落ちれば足下から冷えて来ます。
私は何度か鼻を啜ってから、そろそろ窓を、と思い部屋の窓を閉めてから最後にベランダの窓を閉めに行きました。部屋の灯かりを背に受け、幾らから明るく感じられる夜空にはくっきりとオリオン座が見て取れます。不意に吹き込むそよ風が耳をくすぐると、私の頭の中はまるで透明になっていくようで、ようやく私は私を客観的に見ることができました。使命感からか思い詰め過ぎていたのでしょうね。先輩の気持ちを踏みにじって私の考えを驕慢にも押し付けようとしていました。戸惑う気持ちも困惑も驚嘆も……あったでしょうに……人の心とはそんな簡単に整理できるものではないのですよね……そんな単純なものではありませんから……
洗面所から帰って来た先輩は換気扇を止めに台所へ寄ってから、先ほどと同じ位置に腰を降ろしました。
私もそれに続いて、同じ場所に腰を落ち着けました。今度は先輩の行く手を阻むことはしません。もし、先輩が飛び出して行ったなら、帰ってくるまで待つつもりです。
「私が古平君に頼んだんです。本当は今夜、小春日さんと2人で先輩に話すはずだったんです……」
確かにお願いはしましたけれど……ここまで泥酔させるまで飲ませるなんて思いもしませんでした。
「なるほど。なっちゃんは友達想いね」寝室の方へ視線をやってから先輩は呟くように言いました。
寝室からはまだ小春日さんの譫言が微かに聞こえてきます。きっと「こうちゃんのばか」をまだ繰り返しているのだと思います。
「先輩……さっきは言い過ぎました……ごめんなさい」
「謝らないで。私も悪いの……胸の中を見透かされたみたいで、つい頭に血が上っちゃって……笑えないよね。自分ではうまく隠してたつもりが、実はバレバレの図星で慌てて誤魔化そうとして大きな声出して……」
「それじゃあ、やっぱり……」
「うん。私は恭一君の事が好き。第一印象は何考えてるのわからなくて不思議な子。だったけどね。だって、「女の子の1人も助けられないなんて男子の名折れです」なんて平気で言ってたくらいだもん」
先輩は観念したように表情を緩めると、苦笑をしながら話してくれました。
「だけど、真面目で不器用だから損ばっかしして、貧乏クジばっかしひいて……でも、誰かの為に一生懸命で……私のパソコン直すのに夢中になって講義遅刻して単位落としたこともあるくらい……最初はほっとけない弟みたいに接してたんだけど、段々、男らしい一面を見ることが多くなってきて……」
口元をすぼめて、炬燵の上のコップを持て遊ぶ先輩は、やっぱりどこにでもいる恋する女の子でした。
「気が付いたら好きになってた。でも、その時私は、恭君のお姉さんみたいな立場が居心地が良くて、想いを伝えてその関係が壊れるのが恐かったの。だから、恭君の嫌いな派手な格好もしたし髪の染めた。外見だけでも別人になりたかった」
「そこにどうして私だったんですか」
「理由はなっちゃんが恭君好みの女の子だったから……恭君がなっちゃんとうまく行けば、私の中の恭君への想いを断ち切れると思った。本当に自分勝手で酷い話しよね。謝ったって駄目だと思うけど、ごめんね」
私はつまり……当て馬だったと言うことですか……
「いいえ。謝らないでください。そのお陰で私は真梨子先輩とも仲良くなれましたし、小春日さんとも友達になれました。それに、先輩と知り合ってから毎日が忙しなくって、とても充実していたと思えるんです」
それは事実です。当て馬の事実には多少なりとも落ち込みましたけれど、それが切っ掛けで今年は毎日が充実していて、朝が来るのが楽しみで仕方がありませんでした。
「忙しないって、何それぇ」
「本当のことですよ。先輩と知り合っていなければ、ちんどん屋をすることもなく、ふんどしを作ることもありませんでしたから。とても楽しかったです」
「ありがとう」
「お礼を言うのはこちらの方ですから」私はビニール袋に入れたまま、転がり落ちたままになっていたデロリンを拾うとビニール袋から出したのですが……
「先輩!」私は興奮して大きな声を出しました。これは出さずにはいられません。
「それ虹色!」ゆっくりと振り向いて先輩に見せると先輩も即座に興奮の大きな声を出すと、急いで携帯電話を取りに走りました。
私は慎重の上に慎重を重ねて、そっと七つに色が分離したデロリンを炬燵の上に置きました。キャップ辺りの赤をはじめに、オレンジ、黄、緑、水、青、の順にそれぞれが独立した層をなし、底の方にうっすらとした紫色で終わっていました。
「こんなことってあるんですね」
「うん。デロリンの7色分離って都市伝説だと思ってた……」
「ここに実在するんですから、伝説じゃなくなっちゃいました」
「うん!」
しばらく2人して伝説の7色を見つめていました。2人して呼吸にすら気を使って、物音一つ立てずにそれはそれは穴が開くほどその神秘に酔っていたのです
ひとしきり堪能した後「あっ、写真、写真!」と真梨子先輩が写真を撮り始めたので、私も慌てて携帯で写真を何枚も撮りました。先輩はデジカメを持ち出して、色々な角度から撮影をしていて、あまりの必死な姿に私は思わず笑ってしまいました。
そして、2人して満足がいくほど写真を撮り終わってから数分後に、7色はそれぞれの色が浸食しあうかのように混ざりあい、1分も経たないうち気色の悪い駁色になってしまったのでした。
「あぁ、無茶苦茶な色になってしまいましたね」
「そうだね。でも、こうして振れば」そう言うと先輩は混沌色のデロリンを振りました。すると、不思議なことに真っ白に変わって行くので「わぁ」と思わず私は声を出してしまったのです。
「光ってさ全色混ぜたら白色になるんだって。まるで今の私みたい……色々な気持ちが混ざり合ってぐちゃぐちゃになって、でも最後はなっちゃんが混ぜてくれてスッキリ真っ白」
「そんな……もっとやり方があったはずだと反省しています」
「もう一度言わせて。ありがとう」
先輩のはにかんだ顔を見ていると、ここ数日の間に起こった目まぐるしい出来事がまるで夢のように思えます。
夏目君。
夏目君は言いましたよね。円満解決は難しい方の三竦みだと。後は夏目君次第です。夏目君がどんな答えを出すにしてもきっと、丸く収まると私は思いますよ。
だって、友情とはどんな時でも衰えず、順境と逆境を経験して、いよいよ堅固なものになっていくものなのですから。
◇
物事には最初があって終わりがある。甘美祭実行員会に出席をして、クリエイターとして昼夜と製作に励み、甘美祭当日を迎え、それが一定の評価を受け、そして、思いもよらない告白で幕を閉じた。締めくくりの打ち上げにだけ参加しないと言うのは、まるでエンディングのない映画のようなものである。
けれど、悪いことばかりではなかった。
「作りすぎたので、良かったどうぞ」
時計を見ながら「今頃は……」と畳の上に寝転がっていると皐月さんが、肉じゃがを持って来てくれた。大きく切ったジャガイモがゴロゴロと入っていて、それでいて芯まで良く味が染みこんでいたし、少し甘い味付けが実家の肉じゃがを思い出させてくれた。
今年は実家に帰ろうか……
昨夜は割と早く寝たにも関わらず、眠りすぎて迎えた翌昼、顔を洗ってから1日を損したような面持ちでいると、携帯が光っていることに気が付いた。
先輩からだろうかと携帯を手に取るとメールは2通。1通目は葉山さんからだった。
「
昨日の夜、先輩にも話しをしました。今日の正午。先輩が文芸部室で待ってますから、必ず行ってあげてください。このメールを最後に私のキューピット役は終わりです
」
もう一通も開いてみると、またしても葉山さんからだった。
「夏目君は円満解決が難しいと言いました。けど、丸く収まると私は信じています」
「私は信じています……か……」これは脅し文句ではない脅迫ではないだろうか。
恋のキューピットは聖純天使の印象だが、本当は、天使半分悪魔半分、堕天使こそ似つかわしいのではないだろうか。
畳の上に寝転がって、掛け時計を見やるともう午後の1時を回っている。大学はすでに平常稼働していて中期・後期に向けたレポート提出や試験で文化祭とは違った忙しない時期を迎える。けれど、甘美祭を締めくくれなかった私はどこかまだ、祭りの余韻が消化しきれていないのだ。
「って!」
私は時計をもう一度確認すると半笑いで、今一度葉山さんからのメールを読んで冷や汗をたらふく流した。その後、嵐の如く着替えをしてペガサス号に跨って部室棟へ駆けたのである。
昼まで寝ていた私が言うのもなんだが、葉山さんを恨みたいと思う。なんで今日の今日なんですかっ!
「あっ、何してるのよ!早く、まだ先輩待ってるから!」部室棟の入り口には小春日さんが携帯を持って立っていた。
「ちょっ、寝癖つけてくるとか意味わかんないよ!」
「えっ」
しっかりスタンドが立たず横倒しになったペガサス号を無視して私が入り口への入り際、小春日さんはそう私の背中に叫んだ。廊下の窓に映る私は小春日さんの言う通り寝癖もそこそこに未だ目の充血さえも抜けきっていない。文芸部室を目と鼻の先に見ていながら、私は踵を返すとトイレへと廊下を駆け抜けた。
待ち合わせに遅れていくならまだ可愛い。だが、1時間以上はすでに遅刻とは言えず、明確な意思表示とも取られかねない……私なら……泣きたい気持ちを我慢して家路を歩いている頃だ……すでに先輩が部室に居る確率さえ奇跡の領域だ……その奇跡を可能にしてくれたのは、私が堕天使と呼んだ彼女たちだ。
彼女達は紛れもなく私にとっての聖純天使であった。
完全に寝癖を網羅することはできなかったが、事は1分1秒を争う!私はダッフルコートの袖で髪の毛の水気を拭いながら今度こそ部室の前まで駆けた。
部室前の廊下には葉山さんが居て、小春日さんとは違い彼女は憤怒の色ではなく安堵だけを頬のところに浮かべていた。
「すみません。遅れてしまって」私は荒い呼吸を気にしないで膝に手をやりながら葉山さんにそう言った。
「よかったあ……もう来ないのかと思ってました」胸のところに手をやって安堵の表情でそう言ってから、
「先輩は、必ず来るって信じてましたよ」すれ違い様に笑顔を向けて言ったのであった。
私とすれ違うように廊下を歩いて行く葉山さんの背中を一度だけ見て。私は大きな深呼吸を2度ほどした。
違う意味で鼓動は早かったが、これから目の当たりにするであろう事柄については別段心臓が高鳴ることはなかった。事前に葉山さんから話しを聞いた効果だろう。これなら、冷静に真梨子先輩と会話をすることが出来るはずだ。
私はドアをゆっくりと開けた。
舞い上がる埃、それが差し込んだ西日に照らされ、まるで雪のような錯覚を見せる。いつもと同じ長テーブルの並びに、並べられたパイプ椅子……いつも通りの文芸部室なのに、今日だけは全く別の空間に思えた。
陽の差し込む窓辺に先輩は静かに佇んでいた。
「遅れてすみません」私は入室者に気が付いてこちらを向いた先輩に深々と頭を下げて謝った。
「いいの。おかげで考える時間もできたし」
真梨子先輩は朗らかに笑顔を作ると、目元だけ少し困った様な表情になって私の方へ歩み寄った。
陽の光に艶めく長髪の黒髪に、紅いカーディガン、その下のワンピースは純白で丈が短め、露わとなるはずの素足には髪の色と同じニーソックスがしっかりと露出を防いでいる。そして、忘れられるはずがない……私がプレゼントをした白いヘアバンド。
私が異性に対してはじめてのプレゼントだった……
顔にかかる髪の毛を耳元へ掻き上げながら、ゆっくりと歩いて来る先輩の姿を見るにつけ、入学してまもない頃、文芸部屋を見学しに訪れたあの瞬間へ忽ち遡ってしまったような感覚に囚われてしまった。
見学に訪れた時も部室には真梨子先輩1人しかおらず、部室に入ってすぐ立ち尽くしていた私に優しく声を掛けてくれた、
「ちょっと外歩こうか」っと。
「はい」私もあの時と同じように短く返事をすると、先輩の後塵を拝して部室棟を出たのだった。
私が文芸部に入部を決めたのは、真梨子先輩が文芸部員であると部長であると勘違いしたところが決め手だった。こんな素敵な先輩と一緒に大好きな創作が出来るのであれば、それは私にとっては至福の時間と言って他ならなかったからだ。
現文芸部部長がそうであったように、他部の部員がそうであるように、私も一目で真梨子先輩の虜になってしまっていたわけである。
そして、何かと世話を焼いてくれる先輩に、バレンタインのお返しと言う建前でヘアバンドをプレゼントした。その後の絶望が当時の記憶を片隅へ追いやって居たのか、今の今まで忘却の彼方にあった記憶だ……ヘアバンドのプレゼントを受け取った次の日から、先輩は別人になってしまった……
あの時、先輩は私を学食へ連れて行き、当時の文芸部部長を紹介してくれた。だが、今日の先輩の足は食堂の方角ではなく、部室棟と平行して設けられてある裏門のその先へ向けられていたのである。
裏門を出て左に2度曲がって、いつか先輩と歩いた佐保川沿いの道へ入った。小春日和にも関わらず、往来する人影はない。散歩するには遅すぎるし、犬の散歩には早すぎる……そんな時間帯なのだろう。
「あの、先輩」
桜並木を後塵を拝しながら歩きはじめてすぐに私から先輩に声を掛けた。いつもよりずっと歩調が早い先輩を呼び止める意味も込めて。
「……」ぎこちなく振り返る先輩。油ぎれのロボットみたいで可笑しかった。
「先輩も葉山さんから聞いたんですよね……その……色々と」
私が葉山さんから先輩の事を告げられたように、先輩も葉山さんから何かしら告げられているはず。否定したい気持ちもあったが、現実に連絡が葉山さんから来ている限りはきっと、何らかの接触があったと考えるのが普通だろう
「うん。実は昨日の夜聞いたばっかし。と言うか、言い合いになっちゃった」
「言い合いですか……」私の隣に落ち着いた先輩は無邪気を装った笑みを浮かべながらそう話した。
どうして言い合いになったのか?葉山さんが何をどう話したのかについて、とても気になったが、それを今聞くのはどうかと思ったのであえて聞かずにおいた。私が先輩の事を好きだ。と伝えたのではないのだろうか?てっきりそう思っていたのだが……
「ねえ。葉山さんのどこが好きになったの?」
桜の大樹が近くに見えてくる頃合いで先輩は急に私の少し前に駆けると、振り向き様にそんな質問をするのである。
もちろん私は即答出来なかった。それは優しい所とか笑顔が……とか、無難且つ適当で薄っぺらい理由を並べるつもりがないからで……
「わかりません」
事実だった。葉山さんに振られる少し前から、私は葉山さんのどこに惚れているのだろうと悩んだ。こういうものは考える前に感じるものだから、どこがどうのと言う問題ではない!と結論づけたのだが……現実的にも先輩にはじめて紹介された時、葉山さんの雰囲気に一瞬見とれただけで……その後は暗示のように葉山さんの事を好きだ好きだと繰り返し思い続け振られる日に至ったのだ。いずれにしても、回答としては最低極まりない。
「それ多分、すごい最低なこと言ってる。さすがの葉山さんも怒ると思うよ」
「ですよね……」きっと、葉山さんでも怒ると思うし、自分でも最低なことを言っていると自覚もある。けれど、先輩に『最低』と言われた刹那、私の胸の中に気泡が浮きあがるみたいに怒りの感情が生まれた。
いつだってそうだった……
特に先輩と2人きりで居るときは特にそうだ。どうしてこんなに息苦しく思うのだろう。私よりも背が低い先輩が私よりもずっと大きく感じられて、気が付いたら背伸びをしている自分がいる。本当の感情を殺して、素知らぬ顔をしてみたり平気を装ってみたり。1年前は、何でも相談できて素直に言いたいことが言えていたのに……
先輩は怒ったのか、それから無言で私の前を歩き続け、桜の大樹に到着するや、あの日と同じく大樹の横から続く川原への道を1人で降りて行ってしまった。
階段の下。風が吹いて、洋服が揺ると、思った以上に華奢なその人は私が見下ろしてやっと、肩を並べられたようなそんな気がした。
枯れ枝のような桜越しに、悪戯な風に眉を顰めながら髪を耳に掻き上げるその人が居る風景は、えも言われぬ文学的な純景だった。
先輩に遅れて、川原に降りた私は、すでに腰を降ろしている先輩の隣に控えめに腰を落ち着けた。
「さっきの質問ですけど」
「葉山さんの事?」
「はい。きっと、雰囲気が1年前の先輩に似ていたからだと思います」
ぶり返す話題でもなかったが、何も言えなかった事も悔しかったし、先輩に対しても腹が立ったので、今更、無意味な事を口走ってしまった。
「そん……やっぱり、最低だよ……」
1年前の先輩の事を持ち出したのは、ささやかな嫌味であり事実であった。火に油とわかっていたのに、再び先輩に『最低』と言われ、加えて、それを呟くように言われた私は……ついに我を忘れてしまった。
「最低なのはどっちだよ……俺が最低なら先輩は最悪だよ!」
「え……っ」
こんなに驚いた先輩の顔を見たのはいつくらいぶりだろう……そうだ、私がバレンタインのお返しと格好つけてプレゼントを贈った時以来だ。
「1年前、俺がプレゼントを渡した次の日に髪も服装も変えて別人みたいになって、やっと諦めがつきはじめたのに、なんで今頃そんな格好してるんだよ!」
そう。はじめて葉山さんを見た時、雰囲気が先輩に似ていると感じた。私は最低だ。葉山さんに頬を叩かれても文句は言えまい。
先輩以外の誰かを好きになれば、忘れられると思った。拒絶されたと思いたくなくて、でも現実は残酷で、苦しくて……本能的にそうあるようにと求めていた。そして、あの日、先輩に葉山さんを紹介されて、完全に希望と期待を打ち砕かれた私は控えめな服装に垢抜けない顔付きの葉山さんに過去に見た初恋の人を思い出して、この人に心を奪われようと努めた。無理矢理美化して好きになった。
「そうしてってお願いしてきたのそっちじゃない!みんなの前で土下座までした!」
「それは!っだからって、そのヘアバンドしてこなくても良いだろ!大体なんでまだ持ってるんだよ……」
「そんなの私の勝手でしょ!」潤んだ瞳は真っ直ぐ私を見つめていた。
なんて幼稚なんだ。まるで子供じゃないか。節度もなければ遠慮もない……これじゃ嫌われても仕方がない。私は、我に返ると先輩の顔を直視できず、視線を水面に逃がしてしまった。
「恭君は最低よ。私の前だといつも大人ぶって言いたいことも遠慮するし、声を掛けても避けるし」
「最初にそれをしたのは先輩です」
「それは悪いと思ってる。だから……」
「だから、罪滅ぼしに葉山さんを紹介したんですよね。そんな事、望んでもないに勝手なことして葉山さんまで巻き込んで。最悪だよ」
「罪滅ぼしのつもりなんてない。私は恭一君に変わって欲しかった……一歩手前で臆病になる性格を……」
「なんだよそれ。変われるわけない!好きな人に拒絶されたと思ったら、それ以上嫌われないようにするしかないだろ……臆病にだってなるさ……あの時っ、あの時、俺には先輩しか居なかったんだ!」
思わず立ち上がってしまったことも、口から出した言葉にも後悔をした。
「拒絶なんてしてない!髪の色も服装も変えたのは……距離を保ちたかっただけ。気持ちに気が付くのが怖くて……別人になれたら……失望されたら、恭一君の気持ちが自然消滅すると思ったの……」
勢いよく立ち上がった先輩の顔は、それでも先輩の顔は私の目元よりも低くあって……先輩の頬から伝い落ちた透明な滴はその足元で跳ねて…それを見つめるにつけ、私の視線だけは先輩よりもずっと低くなってしまった。
「ずるいよ。そんなのずるい!俺の気持ちに気が付いてたくせに、告白もさせてくれないなんて……そんなのって……」
「違う。恭君の気持ちには何となく気が付いてた……気が付きたくなかったのは私自身の気持ちよ……本当に好きな人には本当の私を見られたくなかったの。大学での私を好きになってくれた人に……本当の私を知られたら、嫌われてしまうから……それが怖かったの」
先輩も俺と同じ臆病者なんだ。私はその言葉を飲み込んで、1年前を思い出すように考えた。映画のフィルムが送られるように、色々な先輩が蘇ってくる。
「見栄っ張りで、言い出したらきかなくて、いつも大人ぶってて平気な顔して、でも本当は寂しがりやで恐がりで、虫が大嫌いで人見知り。その癖に面倒見が良くて、優しくて、料理が上手くて、良い匂いがして、真面目で、笑顔が良くて、お酒が弱くて、恥ずかしがりや……」
この1年で、色々な先輩の素顔を目の当たりにしてきた。俺は最低だ……葉山さんに心を奪われていたはずなのに……思えば、いつも先輩のことばかり見ていたのだから……
先輩は驚いた顔をしていた。
「俺は先輩の言う通り、最低な男です」
「違う、恭一君は最低なんかじゃ……」
「違わない。俺は葉山さんに気があるように見せかけて、ずっと真梨子先輩を見てました。誰かに向けたかったんです、去年からくすぶり続ける気持ちを」
「それは……どんな気持ちなの……」
先輩は涙を拭うことをせず、真っ直ぐに私の瞳を見つめて言う。
その充血した二つの眼は、誤魔化しも脱兎も……どうしても私をこの場から見逃してくれはしないらしい……
もしかしたら、と期待と絶望を繰り返しながら、それでもずっと胸の奥に燻り続けたこの気持ちに嘘はない。ひょっとしたら、こんな気持ちのことを真心と言うのかも知れない
私は一度、観念したように頭を垂れた……そして、臍を固めて大きく息を吸い込むと
「俺は……俺が真梨子先輩の事を好きだって気持ちです!」
と春風のよう柔らかくも凛として、そう告白したのである。
やっとまた全てが動き出した気がした。たった一言。この一言が言えないまま、この言葉を胸の奥に縛り付けたまま1年と言う時間を過ごして来た。1年越しに解き放たれたそれは、とてもとても重くて想たい言の葉だった。
告白してしまえば、あれだけ迷って躊躇をし、恐れて苦悩した日々がまるで嘘のように思えてくるから不思議だった。俯いてしまった先輩の姿をみれば、返答を待つ必要もない。
例えこの後に絶望が待ち受けてようとも、きっと私は、とても清々しい気持ちで涙を流すことだろう。
快哉!と泣きじゃくることだろう!
「すみま……」
「駄目!謝らないで……」
先輩をこれ以上困らせまいと、口を開くと。先輩は即座にそう言って私に喋らせなかった。
「私も恭一君の事が好きです」
先輩の小さな唇が動きを止めた一瞬、その瞬間だけ満開の桜が彩る風景が私には確かに見えた。肩を振るわす先輩の後ろに桜吹雪が……
「私は怖かったの。恭一君がもっと私の事を知って、嫌われてしまうのが……だから逃げたの。今のままの方が良いって自分に言い聞かせて……私も苦しかったんだよ」
先輩はそう言ってから、拭っても拭っても止めどなくあふれ出ては止まる気配のない透明な滴をそれでも拭いながら「嬉しい気持ちで一杯なのに、なんで止まらないんだろう」と声を震わせながら続けて言った。
私は、そんな先輩を前にしてどうしていいかわからず「やっぱり、すみませんでした」とつい先ほどの事を謝罪することにした……我ながら、正真正銘本物の気遣いのできない男であると思った。
「どうして謝るの……謝らないでって言ったのに……」
「そうじゃなくって……その、さっきは言い過ぎました……色々と」
「いいの……久しぶりに胸の所に響いたよ。1年前の恭君はさっき以上にズケズケ言ってたよ。それも含めて好きになったんだから」
「え、そんなにズケズケ言ってましたっけ……俺……」
「うん。スカートの丈が短いとか、白は太って見えるとか。好きじゃないならはっきり言わないと男は勘違いする生き物だ!とか他にも……」
「いいです言わなくて。お願いしますから言わないで」
そんな事を言っただろうか……そんなお母さんみたいな事を俺は先輩に言ったのか……
「嘘」目尻のところを拭いながら先輩は無邪気に微笑むのである。
「えっ!」反省をして損した。
「あ、でも最後のは本当。あの時、丁度、野球部とサッカー部の人に告白された事を恭君に話したばっかりだったから」
「男って生き物は勘違いと下心で出来てるんです」
今更ながら大人げなかった昔の自分を思い出して恥ずかしくなってしまった私は、視線を明後日の方向へ投げてからそう言ってお茶を濁したのだった。
○
「遅刻とか意味わかんないよ。葉山さんから先輩の気持ち聞いといて遅刻だよ。やっぱり、意味わかんない」
近鉄奈良駅地下にあるスターバックスに移動した私達は、先輩と夏目君が今頃どうしているだろう。そんな事を考えながら、迫り来るレポートの山と後期試験の対策を話していました。けれど、小春日さんは夏目君が遅刻して来たことがよほど気に入らないらしく、5分に1回は夏目君を悪く言うのでした。
「今日の今日で呼び出したのも悪かったんだと思うし…」
「でも、レポの提出期限とか試験のこととか甘美祭の反省会とか諸々考えたら、今日しかないんだもん」
それは小春日さんの言う通りです。なので、無理は承知で夏目君に急遽メールをしたのです。
本当は、あのメールをもってキューピット役は終わるはずでした。けれど、先輩から、「どうしよう。恭君来ない……」と言うメールをもらって、小春日さんと急いで文芸部室へ向かいました。文芸部室で先輩はとても不安な表情で窓の外を見ていました。
「もう一度、連絡してみたら」と小春日さんは何度か言いましたけれど、私は考えるところがあって連絡できず、加えて先輩も「連絡しないで良いよ。恭君、不器用なんだよ。こんな日にかぎって寝坊してるのかも……大丈夫。きっと来てくれるよ」
その強がりな笑顔は……とても悲しく私の目に映りました。
3人で半時ほど文芸部室で待ちました。でも、夏目君は一向に現れず……連絡の一つもありません。やがて、しびれを切らせた小春日さんが「外見てくる」と文芸部室を出て行ってしまい、それに煽動されるように私も文芸部室前の廊下に出ました。
確かに、もう一度メールをした方が良かったのかもしれません。けれど、この局面では『来ない』と言うのも明確な意思表示だと私は思ったのです。夏目君はすでに私の出しゃばりで先輩の気持ちを知っているのですから……どんなに鈍感な人であっても、この呼び出しがどのようなものであるかなんて事は、わかりきってしまっていることでしょう。
部室を出るなり弾丸のように駆けて行った小春日さんがそのまま夏目君の家まで押しかけないでしょうか。と玉響心配になりました。けれど、小春日さんは部室棟の入り口辺りを行ったり来たりを繰り返しているだけでしたので、私は胸をなで下ろしました。
皮肉な事に、2階に居る私には飛び出して行った小春日さんよりも遠く、本館までも見渡せてしまいます。けれどどこにも夏目君の姿はありません。
そして1時間が過ぎ。先輩の悲しむ姿を見たくなくて部室にも入ることができず、かといって立ち去るわけにもいかず。私はいつの間にか祈るように本館を駆け抜けてやってくる人影をさがしていました。
「約束します」夏目君は確かにそう言いました。私は、その言葉をこの三竦みを円満解決すると言う意味で受け取りました。だから私の中には今日のこの日に夏目君が必ず来ると言う自信がありました。でも、それが今揺るぎつつあります。
夏目君。あなたが約束してくれた円満な解決方法はこんな結末なのですか。先輩1人を泣かせてしまう。こんな結末が……。だとしたら私は夏目君のことを絶対に許しません。
目を閉じて携帯電話を握って握りしめて私は祈り続けました。
それから、どれくらいの時間が経ったでしょうか。体感では数分程度だと思います、俄に外が騒がしくなったかと思うと、息せき切った夏目君が階段を駆け上がってきたのです。
私は「遅い!」と憤る前に、心からの安堵と先輩に対する使命の達成を感じ得ずに
はいられません。紆余曲折はありましたけれど、これで揃うべく所に揃うべき登場人物の全てが揃ったのですから。
「すみません。遅れてしまって」
手を膝にやって、息も切れ切れに夏目君は言います。
「よかったあ……もう来ないのかと思ってました」
本心です。本当にもう来ないのかと思いはじめていましたから……
これを持ちまして本当に私のキューピット役は役目を終えます。もう一言二言余計な助言を言ってしまいそうになりましたけれど、それは蛇足と言うものですから、すれ違い様に、
「先輩は、必ず来るって信じてましたよ」とだけ伝えたのでした。
その後、私は一度も振り返らずに部室棟を出ました。夏目君はきっと、私に視線を向けたことでしょう。私が夏目君だったら、そうしたと思いますから。
「あの葉山さん?聞いてる?」
「あぁ、えっと何だっけ……?」
実は小春日さんが夏目君の事を悪く言う度に、私も何度も今日の出来事を思い出しては、何度でも「良かった」と安堵していたのです。ついそちらに気を向けすぎてしまっていました。
「消費者行動論のレポートよ。あれノート見ても資料読んでも、書ける気しないのよね」
「それなら、図書館に参考書があって、それを読んだら結構楽に書けたよ」
「えっ!もう書いたの」
「えっと、うん……まだ読み返して推敲しないとだけど」
「あぁ。憎っくき二日酔いぃ」
小春日さんはそう言いながらテーブルに突っ伏すと額で広告の印刷されたテーブルクロスをぐりぐりとしました。
「ごめんね。でも、あそこまで飲ませてってお願いしたわけじゃなかったんだけど……」
「いいの。珍しく古平君が2人きりで2次会しようって言うから、はしゃいで飲み過ぎたのは私だから……だってさぁ。付き合ってるのに付き合い悪いんだもんこうちゃん」
「あぁ……」私は返す言葉思いつきませんでした。
付き合ってるのに付き合いが悪い彼氏……相思相愛の形は色々あるものですね……
「はい。幸せな時間でした。酔っぱらって押しかけて……そして、ほとんど何も覚えてなくてごめんなさい。だから色々ごめんなさい」
さらに額でぐりぐりしながら小春日さんが言います。
「もう済んだことだから。それに先輩だって逆に心配してたし……」私は苦笑しながら言いました。一番迷惑を被った先輩が怒っていないのに、私が目くじらを立てるのも変な話しです。
それに、先輩にせよ私にせよ。小春日さんのあのタイミングでの登場には救われた感も否めませんから。
「今日だって、顔出すって言ってたのに来ないし……約束ねってメールに書いたのに……来ないし……そう言えば、夏目君、寝癖のまんまで来てたよ。目充血してたし、絶対寝てたよあれ」
どうやら夏目君を悪く言うのは、古平君に約束をすっぽかされた八つ当たりだったようです。
痘痕も靨。一度好きになったら、どんなに嫌な所も愛らしく見えるてしまう。恋の魔法ですね。私は自分で思って恥ずかしくなってついにやにやしてしまいました。
「ぶーっ。人の不幸を笑うなんて性格悪いなぁ」ひとしきりにやにやした後、視線を戻すと頬を膨らませた小春日さんの顔がありました。
「小春日さんのことじゃなくて、その、思い出し笑いと言うか、なんと言うか……」
「いいですよーっだ。葉山さんなんてクリスマスには独りの寂しさをとことん味わってしまえばいいのよ」
「はい。しっかりと味わいたいと思います」
私はすっかり困ってしまって居たので、そう言いつつ困った顔をするしかありませんでした。
結局その日、先輩からは何の連絡もありませんでした。
○
大学の付属図書館に缶詰になってレポートや試験勉強をしていると、甘美祭の準備にキューピット役にと奔走していたことがまるで幻だったように思えて仕方がありません。最初は自室で勉強をしていたのですが、自宅だとつい、テレビを見てしまったり、読みかけの小説を引っ張り出してみたり、掃除がしたくなってみたりと誘惑が多くて、勉強に集中できませんでしたので、こうして付属図書館で勉強をしています。と書けば、雑念を振り払って集中できている様に思えますが、実際には参考書の隣に図書館にある文庫が数冊置いてあるのですっかり本末転倒状態です。
誘惑には抗いがたし……です。
あの日以来、先輩とは連絡も取っていませんし、姿も見かけていません。私も図書館に家にと籠もりっきりですから姿を見かけないのは当たり前ですし、勉強の邪魔になると思って、先輩も連絡を取ることを遠慮しているのだと思います。
小春日さんとは履修している講義が大体同じなので、試験についてやレポートについて連絡を取り合っていますけれど。
つい最近まで毎日のように一緒に居たのが嘘のように1人でいる時間が増えました。クリスマスもそれぞれに恋人と過ごすでしょうから、二人と顔を合わせるのは忘年会
くらいでしょうか。そんなことを考えてはその前に立ちはだかる試験に頭を悩ませる私だったのでした。
◇
流々荘に籠もるのも後数日の我慢だ。にっくき試験が明ければクリスマスである。私にとって今年のクリスマスは人生初の特別なクリスマスになる。もちろん、真梨子先輩と一緒に過ごす特別な一日であることは言うまでもない。
部屋に先輩がいつ来ても言いように掃除をしようか先輩の差し入れで空腹を満たそうか、真梨子先輩とどこに出掛けようか……勉強を差し置いて私は先輩の事ばかりを考えていた。
携帯を見れば先輩からのメールが入って居たし、早速作った先輩専用受信フォルダもすでにメールで一杯だ。
文字通り、私の周りは真梨子先輩だらけとなってしまっていたのである。
しかしながら、我ながら中学生のような告白であったと反省してもしきれない。化けの皮が剥がれるとはこれまさに……大人ぶっていただけで、精神年齢は中学生のままであったようだ。
いつか誰かに告白はすると思っていた。だから色々妄想もしたし想像で訓練もした。恋愛映画を見て勉強もしてみた。だから完璧なはずだったのだ。
景色の素敵な場所か高級レストランか……手に花束や、贈り物を携えて、正装をした上で愛おしい人と相対して浪漫をふんだんに織り交ぜた紳士的な告白を……現実はかくも私の想像と想定からかけ離れ過ぎていた。
素敵な告白どころか、あれでは中学生の喧嘩のようではないか。先に我慢できなくなった私が悪いのだろうか……
終わりよければ全て良しと、先輩はまんざらでもない様子であったが、やっぱり私は釈然としない。
……
「嬉しい」と私の告白を受けて涙を流した先輩は、ずっと押さえていた感情を抑え切れず私の胸に飛び込むと、私の顔を見上げ、そのまま有無を言わせず……唇を重ねる……
……
私の入念な予行演習の状況は多岐にわたったが、結末はこの一点に行き着いていたはずなのだが……
うむ。おかしい。
とはいえ、脳内にて長年に渡り私の予行演習に付き合ってくれた、黒髪の長髪美女にはお別れを言わなければならない。名残惜しいとはいえ、恋人ができてなお彼女とお付き合いし続けるのは気が咎める。
天井を見上げながら理性の呵責に喘いでいると、先輩からまたメールが来た。
「
ちゃんと勉強してる? 単位落としたらクリスマス予定いれるからね
」
私のビーナスはなんでもお見通しらしい。私は名もなければ顔もおぼつかない脳内の彼女にお別れを告げると、先輩が差し入れてくれた、竹の子の炊き込みご飯おにぎりと皐月さんが持ってきてくれた、おでんとを食べながら机に向かい直したのであった。
○
自分の身に起こって欲しくないことは思っても口に出してはいけない。亡くなった祖母の口癖でした。クリスマスにそれを深く思い出すことになるとは思ってもみませんでした。
クリスマスの昼下がり、私と小春日さんは三条通りを近鉄奈良駅方面に登って行く途中にある洋菓子店を目指し、木枯らしの吹く中を歩いていました。町並みも街路樹もすっかり冬の装いですが、今日と言う一日だけは師走の終わりにあって、心だけほっこりと暖かいのです。
「クリスマスを恋人同士で過ごすとか信じられないわよね。家族と過ごしなさい家族と。爆発しちゃえ」
向かいの道を歩く男女を睨みながら小春日さんはずっと毒を吐き続けています。
試験前に「葉山さんなんてクリスマスには独りの寂しさをとことん味わってしまえばいいのよ」と私に言った小春日さんの顔をよく覚えています。もちろん、私には恋人はいませんし、実家にも帰りませんから1人で普通の日常としてクリスマスを過ごすつもりでいたのですが、なぜか、先輩と小春日さんと女子3人で過ごすことになってしまいました。
先輩は、家庭教師をしている女の子の家のパーティーに招待されてしまって、断れなかったそうです。
「先輩も先輩よね。彼氏が出来て初めてのクリスマスだって言うのに、バイト優先しちゃうとかって」言葉の節々に棘のある小春日さんです。
昨日から機嫌の悪い小春日さんには……理由を聞くことなんてできません……
「なんでも、お父さんがアメリカ人らしくって、クリスマスはアメリカ風に盛大にパーティーをするらしいよ」
「おっきなツリー飾ったり、サンタの格好したりするのかな」
「そこまではわからないけど……」
確かに、アメリカのクリスマスと言えば、家の中に大きなツリーを飾って、お父さんやなんかがサンタの格好をしてと言うイメージしかありません。このイメージだって子供の頃にみたホームアローンと言う映画で見たそのままのイメージですから。
「公衆の面前で手を繋いだり、腕組んだりとか信じられない!恥を知りなさい!」会話が途切れるとすぐさま、噛みつきはじめる小春日さんなのです。
「まぁ、ほら、試験の打ち上げと言うことで、女子会です女子会」
「だね。試験の打ち上げ!そうよ打ち上げよ!」
妬みが一周りした空回りな感は否めませんでしたけれど、通りすがるカップルに噛みつくよりは余程ましだと思う私でした。
○
先輩が予約をしておいてくれたケーキを受け取ってから、その洋菓子店でもう一つホールのケーキを買いました。
それと言うのも、
「先輩さ、このケーキ完全に夏目君と2人で食べるために予約したよね」な大きさ
だったので、急遽、後2人分を買い足したのです。
「そう言えば、昨日、夏目君を見かけたよ」
帰り道、JR奈良駅前の交差点で信号待ちをしていると、ふっと斜向かいにあるケンタッキーのお店が目に入り、そのことを思い出しました。
「どこで?」
「そこのケンタッキーに駆け込んで行って……」
「今日のために予約してたチキンでもキャンセルに行ったのかな」
「それはわからないけど、脱げた靴もお構いなしに駆け込んでて」
その日私は、丁度今立っている場所に立って信号待ちをしていました。そうしたら、三条通りから疾走してきた夏目君が信号無視をして交差点を駆け抜け、歩道との段差で躓いてその時に靴が宙を舞ったのです。でも夏目君は気にもせずに店内に入って行ってしまいました。
「えぇっ。そんな必死にキャンセルに行ったって、一日前じゃ無理でしょ……そう言えば、葉山さんはその……イブに出掛けてたんだ、誰かと一緒とか……?」
「一人で実家に送る三笠を買いに行ったの。三条通りにある桃佳堂に」
「はぁ?」露骨に小春日さんは私の顔を見てそう言いました。
小春日さんが聞いたので、話したと言うのに、『はぁ?』だなんてなんとも酷い小春日さんです。
「三笠って、あのどら焼きみたいなやつでしょ?」
「うん。普通のどら焼きよりも一回りくらい大きいかなぁ」
三笠とはどら焼きの別名です。外見が奈良にある三笠山に似ていることにちなんで、奈良や京都ではどら焼きの事を三笠と言います。私もつい先日、お歳暮に贈りたい和菓子の特集番組を見ていて知りました。
「なんで、三笠なの?他にも………」小春日さんはそこで目を閉じて考えに考えて「奈良ってそう言えば観光地の割りに名物とかってないよね」と言いました。
「えっと、奈良漬けとか柿の葉寿司とか鮒寿司とか名物がないなんて言うと奈良の人に怒られるよ」
正直、小春日さんが大きな声で『名物がない』と言うので、私は思わず周りを気にしてしましました。確かに、古都奈良と言えば歴史的には京都よりも古い観光地です。けれど、住んでみて知ったのですが、決め手になるような名物や特産の美味しい物が見あたらないのです。
「あー確かにそうだけど、奈良漬けとか柿の葉寿司、お土産に持って帰ってもねぇ」
「よっ、喜ばれるに決まってるよ!」私は声を少し大きくして言いました。隣の人がこちらを見ている気がしてたものですから。
「そうかなぁ」
「一昨日、母から電話があって、帰郷の話しをした時に、和菓子が食べたいから、帰って来る前に実家に送るように言われて。実家は山間にあって近くに和菓子店とかないから」
「へぇ。私も今年はお土産買ってかえろうかなぁ。鮒寿司とか」
青信号を渡りながら小春日さんが悪戯な笑顔を浮かべてそう言うので、私は冗談だと思い「それはお土産じゃなくて罰ゲームになるね」と言うと「うわっ。名物を罰ゲーム扱いとか、葉山さん今奈良県民をみんな敵に回した!」と言われてしまいました。慌てて周りを見回して見ると、隣を歩いていたお爺さんが私を睨んで居ることに気が付いて、さらに慌てて「そんなっ、冗談に決まってるじゃない。私は好きだよ鮒寿司」と言い繕いましたけれど、罰ゲームだなんて我ながら小春日さんよりも酷い言いようです。
好きと言いましたけれど、私は鮒寿司を食べたことがありません。奈良県民の皆様そして鮒寿司さんごめんなさい。
◇
イブの昼下がり私は逃げていた。
先輩と過ごす生クリームよりも甘ったるいクリスマスの1日前のイブの昼下がり、実家に送る三笠を手配しに三条通りにある老舗和菓子店の桃佳堂に出掛けた帰り道、丁度、古本屋から出て来た部長とその取り巻きに出くわしてしまった。
彼らは私の行く手を遮って「クリスマスは部長の部屋で闇鍋やるから空けておけよ。って予定なんてないか」と私を罵った。
「無理ですごめんなさい。本当にごめんなさい。行きたくありません」つい最後に本音が出てしまった。
去年ならば、同じ穴の狢と愛のある罵り合いをしただろうが、今年に関しては彼らに比べて私には万里の長城よりも遙かに長い心神的優位性がある。だから素直に謝った。
もちろん、従順なる真梨子先輩の崇拝者である部長に先輩と私のことは話すわけにはいかない。部長に知れるや、クリスマスに犯罪に手を染めかねない。
「予定もない君に救済の手を差し伸べているって言うのに、素直になれよ夏目君」
クリスマスと救済をかけたらしい。笑えないし笑う気もない。
「新作のゲームも持って行くし、クリスマスに相応しい神アニメも持って行くからさ」部長と愉快な仲間達の1人がそう言って、親指を立てた。
グッジョブ。と……
どこがグッジョブなんだ。大体、ゲームとアニメに釣られてほいほいと行く阿呆がどこに居るのか。
ただでさえ部室で毎日のようにむさ苦しい面々と顔を合わせていると言うのに、どうして神聖なる恋人達の恋人達による恋人達の為の愛に満ちた聖日を、よりにもよってむさ苦しい連中と鍋を囲まねばならんのか。
今年のクリスマスは忙しいのである。まず、朝から真梨子先輩と出掛けて、プレゼントを買い合いっこをして、先輩の予約したケーキを二人で取りに行って、先輩の部屋で先輩の手料理でもってシャンパンを片手に乾杯をするのだ。だから私は忙しいのである!
「君、何をにやにやして居るんだい。気色の悪い奴だなぁ。そのうち逮捕されてもしらないよ」
毛虫でも見るような目で私を見ながら部長はそう言って笑った。愉快な仲間達も続いて笑った。つい、先輩との甘いクリスマスを想像してしまってそれが顔に出てしまったことについては何も言うまい。ただこれだけは言いたい、
「2次元の女子にしか興味のない阿呆どもと一緒になんて過ごせるか!」
私は言ってやった。すると、ショックか図星か、動揺した愉快な仲間達の1人が古本屋の袋を落とし、中身が半分ほど露出すると、それは二次元キャラが印刷された同人誌であった。
「なっ!フランソワーズちゃんは3次元だぞ!こいつらと同じにするな!」間違った所で激高する部長である。
思わぬ部長の裏切り発言に愉快な仲間達が俄にざわついた隙を見逃さなかった私は、更に何かをがなり立てる部長の言葉に聞く耳を持たずに踵を返すと猛然と逃げたのである。
もちろん追っ手が掛かるのに時間はかからず、後ろを見ればすでに数名の愉快な仲間達が私を捕まえんと足に鞭を打っている。クリスマス色に染まる三条通りを善男善
女の群れをかき分け、時にはその間に割って入りながら私は必死に逃げ続けた。
韋駄天走りで三条通りを駆け抜けた私は、運悪くJR奈良駅前の交差点で信号に捕まってしまった。奈良市街では大動脈であるこの道路が私に対する要害として立ち塞がるのであれば、逆にこれを乗り越えてしまえばこの要害は私に与し、彼らにとっての要害として有り続けるだろう。
私はもう一度後ろを振り返り、着実に迫り来る追っ手を視認すると、虎穴に入る覚悟で横断歩道の上に躍り出たのである。盛大にクラクションの雨を受け、解れた足下は歩道へ上がるステップを上がりきれず、思い切りけつまずいた拍子に右足の靴が脱げて歩道に転がったがそれをも気にとめず、そのまま眼前のケンタッキーに転がり込んだのだった。
トイレに籠城することに決めた私は便座に腰掛け額の汗を拭うと、彼らが本物の阿呆であることを神に願った。今日はイブである、クリスマスではないがその前夜祭にも奇跡は起こるはずだ。
「夏目、出てこいよ。靴がどうなっても知らないぞ」
奇跡は果たして起こらなかった……
即座に万策尽きて雪隠責め一辺倒なわけだが……そもそも私には策もなければ、右の靴もない。体力の限界から流々壮まで走行は不可能と判断しての横断とトイレへの籠城だったのだが……
「お店にも迷惑だろう。早く出てこいよ」
「この同人誌みせてやっても良いからさ」図太い声が消えた。例のオタクの彼は腹回りの脂肪からして走るに向いていない。その彼が居るということは……
「もう観念したまえ。出入り口は一つしかなく窓もないだろう」部長も到着していると言うことだ。
「別に何もしないし、何なら、他にも同人誌見せてあげるか出ておいでよ」
なんで、基本的に同人誌を餌に使うのだろうか。ここで出て行けばまるで私が同人誌を見たさに出てきたみたいではないか。尚のこと出にくいわ!
それはさておき、部長の言う事は確信をついていた。出入り口は一つだけ、加えて窓はなく、唯一外に通じているのは天井にある小さな換気口だけ。
私は今更ながらに戦慄した……これは……これこそ、世に言う絶対絶命であると。
◇
「あなたもバカですねぇ。部長達とケンタッキーで騒いだらしいじゃないですか」
「どうしてお前が知っているんだ」確かに、騒いだ。厳密に言えば騒いだのは部長と愉快な仲間達であって、私はトイレに入っていただけだが。
「大学に苦情が来たらしいですよ。お宅の学生がトイレ前で騒いで迷惑したって」妙に似合うエプロンをしながら、野菜を切る古平はいつにも増して不気味である。
確かに『オタク』がトイレ前で騒いだのは事実であるが、それとてほんの10分程度の事で、大学に苦情を訴える程ではないと私は思う。過剰防衛だ。
「もうすぐ、ケーキも到着するから、準備いそいでくれよ」
フランソワーズちゃんを片手に現れた部長は、すでにサンタ棒を被ってクリスマスを謳歌している様子だった。
「もう終わりますよ」
「そうかい、今年のケーキは期待しておいてくれて結構だからね」
そう言うと部長は愉快な仲間の1人が持ち込んだ、魔女っ子モノのアニメを昼前から鑑賞している。全24話を網羅する気でいるらしい。
どこを見てもフィギュアとアニメのポスターが目に入る、部長らしい部屋だと言えば聞こえは良いが、そこに、むさ苦しい男だらけ計6名が入り浸っているのだから、混沌空間と言って然るべきだろう。男臭いったらありゃしない。
本来なら、今頃、真梨子先輩と先輩が予約してくれたケーキを取りに行っている頃合いだったろうに……私は玉葱を切りながら、思わず溢れて来た涙を拭った。
「玉葱で泣くとか、そんなベターやめて下さいよ」
「うるさい。玉葱とはそう言うものなんだ」そう反論しつつ、目頭を押さえる私である。
先輩との甘い時間を考えれば考えるほどに、男子の肥溜めたる部長の部屋に居る現状を嘆かずにはいられようかっ!
ケンタッキーで繰り広げられた攻防は、予想外の形で呆気ない幕切れを迎えた。
絶対絶命の中、私は虎視眈々と強行突破の機会を窺っていた。そんな時、真梨子先輩から電話がかかって来た。取ってみると、先輩の口から、まず謝罪の言葉があり次ぎに、明日のクリスマスは家庭教師先のパーティーに出席しなくてはならない旨と、クリスマスは振り替えで行う提案、そして最後に何度も何度も謝罪の言葉があってから「あぁ。丁度、明日はこっちも都合が悪くなったから、また日を改めて」と私は嘘をついた。感情を込めて言えたかどうかは覚えていない。
「どうせ、こんなことになると思ったさ」その瞬間、私の何もかもが燃え尽きた。
夢も希望もクリスマスの予定も何もかもが燃え尽きた私は、意気消沈したてほやほやで解錠すると、自らドアを開けて部長ので力無く座り込むと「明日、闇鍋参加します」と無条件降伏したのであった。
そして、今まさに闇鍋の材料を古平と一緒に切っている最中と言うわけだ。
「闇鍋と言う割りに、普通の具材だな」
すでに切り終えた具材とこれから切る予定の野菜。中でも部長の実家から送ってきたと言う、ズワイガニはとても立派で目を引く。
「まあ、さすがに消しゴム入れたり絵の具いれたりなんてしませんよ。」と手際よく蟹をさばいて行く古平は「去年、懲りましたから」と続けた。
「やったのか……絵の具を……」
やっぱり阿呆だ。
いつの間にか、魔女っ子アニメ全24話を見終わり号泣をしながら、早々に格闘ゲームをはじめた愛すべきクソ野郎どもを見ながら私は届いたばかりのピザの箱を注視しながら呟いた。
「ピザを入れるなよ」と……
◇
宵の口を過ぎて、ケーキを取りに行って帰って来た部長は大凡ケーキの箱には似つかわしくない大きさの荷物を持ち帰り、鍋の準備の終わったテーブルの上でわざわざ設置した鍋とコンロをどかしてケーキを披露した。
部長がケーキを慎重に取り出すと、浪漫を共有できる愉快な仲間達から悲鳴にも似た完成が沸き上がった。
「これ、咲良オト子ちゃんじゃないっすか!神クオリティぱねぇっ!」
「テンションあがりまくりですよ。立体とか反則ですって部長!」
「そうだろう。ネットでイメージ画像を送って、3Dプリンターで立体化!そして、それを洋菓子店に持ち込んで、特注のケーキを作ってもらってからの、さらに表面プリント加工を施した世界に一つしかない特注10号の愛の形なのだよ!DVDBOX並みの出費だったがねっ」
「マジですか!部長の愛半端ないです」
「レジェンドっす部長、ついにその高みへ!」
鼻高々と説明する部長と、携帯で写真を撮りまくる仲間達。同じ場所、同じ時を共有しているはずなのに、場に生まれたこの温度はなんだろうか……
部長達が騒いでいるのは今絶大なる人気を誇っている、擬人音声ソフト『咲良オト子』が満面の笑顔でもって胸元に大きなハートのオブジェを抱きしめているフィギュアが乗った大きなホールのケーキである。ケーキの表面一面に同キャラの顔が大きくプリントされてある懲りようで、こんなふざけた仕様であるにもかかわらず、目の細かいホイップで装飾が施されてあり、ケーキ自体はプロの仕事がうかがい知れた。
人の価値観はそれぞれと言うが、こんなところに情熱と財産を惜しげもなく全力を注ぐ部長の執着心には呆れてしまったが、オタクの底力を見たようで……オタクって怖い。私は素直にそう思ってしまった。
「10号って、食べきれるのか」
私の見たことのあるホールケーキの3倍の大きさはある。
「あれ食べる気ですか?殺されますよ」
「はぁ?」
食べるために買ったケーキを食べたら殺されるってそれは理不尽と言うものだ。
「あれはしばらく観賞用で置いておくんですよ。食用はもう冷蔵庫に入ってますから」
エプロン姿の古平があまりにもしれっとして言うものだから、私は冷蔵庫を確認してみた。すると、通常サイズである6号程度のホールケーキが出てくるのだから笑えない。やっぱり、オタクは阿呆だ、いや部長が阿呆だ。
古平の言う通り、ひとしきり撮影と感想を言い合った面々は、予め用意されていたかのようにフィギュアの避けてあるスペースにケーキを運ぶと何事もなかったかのように、闇鍋パーティを開始したのである。
「アイマスクしたかぁー。電気消してから持ち寄った一品入れろよ」
部長が音頭をとって、アイマスクが配られそれを全員が装着したところで部屋の電気が消された……らしい……何せアイマスクをしているからわからない。それどころか、手元も見えず、どこに鍋があるのかさえもわからない。
そもそも、一品を持って来ていない私は、ズボンのポケットの中にあった10円玉を握ると、なんとか鍋の中に放り込んだ。
私と違い闇鍋の楽しみ方を知っている周りの面々は、
「気をつけろ!爆発するぞ、危険が危ないんだぞ」とか、
「煎じてから入れれば良かったかなぁ」とか、
「わぁ臭っ!ちょっ、噛むな噛むな」とか、
「3秒ルール、3秒ルール」とか、
意味深なワードを大きな声で言いながら、各々『何か』を鍋の中に投入している。無駄に場を楽しませるコツを心得ている奴らである。
蓋が閉じられてから、部長が明かりのスイッチを押した。コンロに火をつけてから、冷凍庫に入れてあったビール缶を出してきては手際良く、全員に行き渡らせ、それを確認してから立ち上がった部長はビールを高々と掲げると、
「諸君!今年も同士が誰1人欠けること無く!この聖戦の夜に集えたことを私は誇りに思う。さあ、祝杯をあげよう、我ら文芸騎士団の栄光に!そして、聖夜に列する愛すべきクソ野郎どもに!」
「「「「愛すべきクソ野郎どもに!」」」」多分、乾杯の代わりだと思うのだが……見事にハモるところが意味不明である。
「今夜の0時に恋愛シュミレーションのPSβ版ソフトの特装限定版が販売するらしいです」
「聖夜に並んでる、オタクの同士にってところか」
「ええ。今夜の特装限定版には大手サークルの人気同人作家の同人誌がついてくるって言うんで、昨日辺りからネットでは偉いことになってますよ」
「その情熱は理解も同情もできんな。古平、さっきからしれっと話しているが、お前やけに詳しいな」
大手サークルのあたりから、部長と話しているみたいだったぞ。
「僕はもう並んでもらってるんで、0時過ぎてから取りに行けばいいだけですから」
そんなことは聞いていない。
「いや……ってお前買うのかよ!古平お前……」
古平にそんな趣味があったなんて知らなかった。3次元に彼女まで居るくせに2次元の女の子に思いを馳せるなんて……
「別に今夜買わなくてもネットでも予約すれば手に入るんですけどね。ネットだと、明日の朝発送だから手元に届くのは聖夜販売の2日後になるんですよ。2日のラグとか中古買ってプレイしてるのと変わりませんからね。聖夜販売は聖夜に買って朝までプレイするのが製作サイドへの礼儀ってものです」
いやだから、そんなことは聞いてないってば。
「うん。その通りだよ!よく言った古平君!君は我々の鏡だな」鍋が煮える以前にできあがりつつある部長である。
「夏目君も飲んでおかないと、食べられないよぉ」
その忠告の意味とは……
そう言えば、普段あまり酒を飲まない古平も缶ビール2本を飲み干し、すでに3本目に突入している。なんだこの罰ゲームのような飲酒の早さは……と周りの酒気に疑念を抱いていると、鍋の煮え立つ音と共にその理由が判明した。
「これは……」
鍋蓋の孔から吹き出す蒸気によって拡散される、異臭が私の鼻腔を襲撃したのである。強い芳香剤と干物を発酵させたようなとにかく、悪臭を超越した異臭であった。
私は急いで残りのビールを胃袋に流し込むと、飲みきらないうちから携えておいた缶び蓋をあけて、続けざまに飲み込んだ。
するとどうだろう。瞬く間に鼓動が激しくなり耳の芯まで熱く火照りはじめ、目の前の空間が揺れはじめたかと思うと、あれほどの異臭を一切感じなくなってしまった。そして私は誘われるままに、漆黒の世界へと沈んだのである。
「下戸のくせに、一気に飲んだりするから。鍋はじまる前に潰れるとかウケる」
刺すような寒さと背中の痛み、そして古平のそんな皮肉を聞きながら立ち上がろうとすると、目の前の世界が酷く回転するので、仕方がなくその場に座り込んだ。
「ここはどこだ」
「部長の部屋のベランダですよ」
「そうか、にしても寒いな」
「外だし、それに雪も降って来ましたからね」
私は手すりにもたれかかり黄昏れる古平を尻目に、部屋の中に入ろうと硝子戸を開けた。すると、精神を病みそうな臭いと温い空気が漏れ出てきたので、即座に戸を閉めて古平に向き直った。
「今回の犯人は僕ですかね。練り芥子を入れた巾着と練りワサビの巾着を入れてみたんですけど。まさか溶け出すなんてね」と古平はケタケタと乾いた笑い声をあげ、そして咽せた。
「生産者と製造者に謝れ。このクソ野郎」
「あなたにクソ野郎呼ばわりされる筋合いなんてないですね。一口も食べないで失神してただけなんだから」
「うるさい。中で何してるんだ」
「ちょっと前に全員が白旗あげたので、今はアニメ見ながら酒盛りです」
「お前は行かなくて良いのか、隠れオタクの古平君が」
「やめて下さいよ。僕はオタクであってオタクではない。アニメには興味はありません。ギャルゲー専のオタですよ」またケタケタと笑う古平……どうやら酔っているらしい。
「そう言えば、小春日さんはどうした」
認めるのも悔しい気もするが、古平には小春日さんと言う彼女が居る。そもそもクリスマスの夜にこいつがここに居るのかと言う疑問はあった。だが、聞いてどうなるものでも、興味も無かったので聞かなかったのだが……
「そりゃ、こっちの方が楽しいからに決まってるでしょ。3次元の女なんて面倒くさいだけですよ。誕生日だのクリスマスだの口実を作っては1日拘束したがるし。約束に1時遅れたら怒るし、泣くし。俺のセルビアさんなんて寝落ちして一晩放置してても笑顔のままだし、束縛しないし。それに言ったでしょ。今夜は朝までプレイするのが礼儀だって」
私は目を細めて、さも当然と意味不明なことを喋る古平を見ていた。私が言えた口ではないが、1時間も待たされれば怒るし、記念日は一緒に過ごそうと思うのが普通だ。
「お前、まさかそんな理由の為に彼女を蹴ったのか」
私は唖然として聞いた。酔った上での言葉であることを加味すれば、それが本音で
ない可能性だってふんだんに残されているはずなのだ。
だが、
「クリスマス嘗めんな!今夜限定配信される特別ストーリーがどんだけあると思ってるんだ。ミニスカサンタコスのセルビアさんは今日一日だけなんだよ。新作ゲー持ち帰ってからハードディスクパンク寸前までDLするのは大変なんだよ、今すぐ帰ってやりたいんだよ!時間との勝負なんだよ」血走った目で私の胸ぐらを絞り上げて古平は吠えたのである。
私の言葉のどの辺りが逆鱗に触れたのかは定かではないが、地雷を踏んだことだけは間違い無いらしい。
前言を撤回する。古平は本気だ。そしてセルビアさんって誰なんだよ!
「そう言えば、そう言うあなたこそ、真梨子先輩とどうなってんです。クリスマスだってのに、こんな所に居てさ」
十分に楽しんで居るくせに、こんな所呼ばわりとは酷い奴である。
「先輩は家庭教師先のパーティーに出ないといけないらしい。でなければ降伏なんてするもんか」
「付き合って間もない最初の記念日に蹴られるあなたの方が蹴った僕よりも、悲しいですよね」
またケタケタと笑おうとしたので、その前に私は唾を吐きかけてやった。「ぶわっ、汚ったね」と慌てて飛び退く仕草はなかなか面白かったのだが「夏目。その件について、詳しく聞かせてもらおうか」顔だけを戸から覗かせてそう言う部長の顔は面白くなかった。
障気の渦巻く室内に引きずり込まれた私は混沌とした鍋の中を覗いて、唖然としてから、部長に無理矢理、公開裁判に出廷させられてしまった。「付き合って間もないって、誰と誰のことかな」腕を組んで見下ろす部長。ズボンのチャックが全開なのが気になって仕方がなかった。
私は考えた。ここで下手に嘘をつけば、それが忽ち命取りになりかねない。意味不明な執着心はすでに知りおいている。
だから私は「セルビアさんとに決まってるじゃないですか!セルビアさんのミニスカサンタコス万歳!」と言って万歳をしたみた。
毒には毒をもって制する。オタクにはアニメネタを持って誤魔化す!
「それだけでは許されないぞ!」
「えっマジですか」酔っているから誤魔化せると思っていたのだが……
「今夜のセルビアさんはなっ!サンタビキニ仕様なんだ!有料アイテムだが、愛あるお布施と喜んで課金すべきだ」
「そんなの当たり前じゃないですか。そのほかサブヒロインのアイテムもフルコンプは基本でしょ」
「古平君。君の愛は我々共通の愛だ!」
古平が私に助け船を出したとは考えにくく、ただのオタク魂の共鳴だと私は分析する。けれど、結果的に私は解放されたわけだからこれで良しとしよう。
その後は、アニメを見ている者にメインヒロインを熱く語る2人。そしてそれを見ている私と、三者三様に無駄な時間を過ごし、22時を回った所でいつにない統制のとれた機敏な動きで、大方の片づけが行われ。23時前には部長の部屋を出発していた。
その頃には雪は止んでいた……
いよいよ本格的な愛すべきクソ野郎どもへと化して行くわけである。今夜発売されると言うゲームの販売に並ぶ為に三条通りへと向かう集団から後れて歩いていた私は、頃合いを見て離脱すると流々荘へ舵を切ったのである。
「こんばんは、夏目さん」
「こんばんは、皐月さんと神原君」
流々壮に帰って来ると、丁度、皐月さんと神原青年が階段を降りて来た所に出くわした。
「クリスマスのお料理作りすぎたので、お持ちしたんですよ」
お酒でも飲んだのだろうか、皐月さんの頬がほんのり紅い。
「ありがとうございます。今夜は部活のメンバーで飲んでたんですよ」
「そうだったのね。そう言えば、綺麗な女の子が夏目さんの所に来ていましたよ。お酒を買いに行って帰って来たときに丁度、いてらしてね。お留守みたいですよって教えて差し上げたんですけど」
思い出すように言った皐月さんは続けて、「夏目さんの彼女さんはとっても綺麗な人なんやね」と口元に手をやって少し笑った。
「もう、皐月さん!ごめんなさい、皐月さん久しぶりにお酒飲んじゃって」慌てて神原青年が皐月さんの着物を引っ張りながら言った。
「だって、お友達ですか?って聞いたら「いえ、彼女です」って。うふふ」確かに、皐月さんは少し酔っているようで、すっかり目元が緩んでしまっている。
「そうですか……」
皐月さんを送る神原青年と別れて、階段を上がりそのまま右手の端のドアまで歩く。みすぼらしいドアノブに触れながら、先輩も触れたのかな。などと考えながら鍵を差し込んで捻って見ると、簡単に鍵が開いてしまった。
温度も音もない室内は、とても簡素で広く見えて、そして灰色をしていた。明かりをつけてみても、心ここにあらずと、無性に部長達と一緒に家電量販店に並んで居れば良かった。そんな幻聴のような心の叫びも聞こえて来るようで……12月25日、何気ない一日であるにも関わらず、人一倍独りで居ることが精神的に答える日。
先輩を恨んではいない。愛すべきクソ野郎を自負する部長と愉快な仲間達との闇鍋もそれなりに楽しかった。
それに、クリスマと言えど、労働に勤しんでいる学生も居れば1人でぼんやりと過ごしている学生だって山ほど居るわけで、その辺りを加味すれば、例え愛すべきクソ野郎どもであっても、バカ騒ぎをして過ごせる相手がいた私はそれなりに幸せだったのかもしれない。
私はエアコンのスイッチを入れてから、押入を静かにあけた。
中にはがらくたの中に混じって明らかに場違いなリボンが掛けられた箱が一つ入っている。試験一週間前の友引の日、偶然見つけて買った先輩へのクリスマスプレゼント。本当なら、今頃先輩の手の中にあるはずのプレゼントだった。
吐く息が白く天井へ向かって伸びては薄引として消えて行く。先輩の事を恨んではいない。恨んではいないけれど、やっぱり少し寂しい。
「真梨子先輩……来てくれたのか……」寂しさも小さじ一杯の幸福で……
その事実だけでなんだかお腹が一杯、幸せな気持ちになった。
○
「彼氏が居るのに、なんでどうして、羨ましく思わないといけないだろうね」準備もそこそこにベランダで黄昏れる小春日さんです。
先輩から予め預かっておいた合い鍵を使いって部屋にお邪魔しました。御呼ばれに行っている先輩も帰って来てからそんなに食べられないと思いましたので、「ビーフストロガノフ買おうよ!」と言う小春日さんをなだめて、サンドイッチやフライドポテトなど、軽食を帰り道にある惣菜屋さんで買ってきました。ですから準備と言っても、惣菜をお皿に移すだけで、準備と言う程の作業もありません。なので、一度それぞれ家に帰ってから19時頃に先輩の家に再集合することしました。
「小春日さん、寒いです」私はマフラー巻き直しながら言いました。
先輩の部屋ですから気を遣ってエアコンは掛けていません。なのに、小春日さんは硝子戸を開けたまま、ベランダで眼下を行き交うカップルを見つけては、恨み節を呟くのです。
「だってさ。だってさぁ!何で今日がクリスマスなのよぉ」
「寒いです」私は硝子戸を閉めました。
「ちょっと、葉山さんの薄情者っ」
炬燵のスイッチを入れて独りで入っていると、やがて小春日さんが寒さに耐えかねて入って来ました。
「今日はテレビ禁止ね」小春日さんはそう言いながら、炬燵の上に置いてあったテレビのリモコンをテレビ台の上に置きに行きます。
「別に良いよ。あまりテレビは見ないから」
そう言うと、私はポーチの中から文庫本を出して読み始めました。試験勉強の最中に見つけた読みかけの小説です。
電車の中で暇だろうと、見送りに来てくれた幼なじみがくれた本です。
舞台は京都にある大学で、その大学の学生である主人公とヒロイン、その友人達がが巻き起こす恋愛模様がコミカルに描かれてある作品で、ひょいっと現れて一言だけ残して消えて行く脇役がとても重要な役回りだったり、台詞がとても深かったり。伏線がふんだんに織り込まれていて、しかも、それをちゃんと物語の中で拾って行くので、何度もページを戻って読み返してしまいます。お陰で今日も寝不足です。
「今日のテレビは一年で一番悪意に満ちていると思うのよ。どの番組もクリスマス、クリスマスばっかし」
「そうだねー」
「大体、キリスト教徒でも無いのにクリスマスを祝うなんておかしいわよね」
「うんー」
「明日、世界が滅ぶとしたら、最後に何食べたい?」
「そうなんだー」
「……」
「……」
「私が悪かったです。ごめんなさい。だから無視しないで」
「えっ?」
いつの間にか向かいに座っていた小春日さんが、身を乗り出して言います。顔を上げた時、思いの外小春日さんの顔が近くにあったので驚きました。
「あぁ、つい夢中になってて」
「その本、そんなに面白いの?」
「うん。本当は荷物の中に埋もれてしまってて、試験勉強中に見つけて、また読み始めたんだけどね」
「ふーん。葉山さんは本を選ぶときって、カバーで選ぶ?それとも少し読んでから買うの?」
「うーん。自分で本を選ぶ事は少なくって、友達に進められた本とかが多いかな。この本も見送りに来てくれた幼なじみにもらった本だし」
「へぇ。そうなんだ。幼なじみが居るんだ、なんかそう言うのいいね」
「小さい時は、お互いの家に泊まりに行ったりしてたんだけど、高校で彼が部活に入ってから、あまり口も聞かなくなっちゃったけどね」
高校生になって、弓道部に入った彼は去年はインターハイに出場を果たし、それなりの成績を残したそうです。確か、スポーツ推薦で弓道の強い大学へ通っていると母から聞きました。
「ふんぎゅ」
私がまた文字に視線を移そうとすると、小春日さんは炬燵に突っ伏すと、額でぐりぐりをはじめてしまいました。
「えっと……」
「葉山さんの裏切り者ぉ。うぅぅぅ、イケメンの幼なじみとか、幼なじみ羨ましいぃ」
「携帯の連絡先とかも、全然知らないし……」それにイケメンだなんて一言も言っていませんし……
「わざわざ見送りにくるとか、絶対脈ありじゃんか。その本の最後のページとかに『好です』って書いてあるんだよ。その為の本なんだよ」
「あーっと」
好きも嫌いも……従兄弟なんですけど……
小春日さんの痛い視線に促され、渋々、最後のページを見た私は思わず「おぉ」と小さく驚いてしまいました。
「嘘!」慌てて小春日さんが私の所に駆けてきました。
「見てください、発行が21年1月11日第二版の発行日が11月11日です!」
これはもう編集さんがお茶目さんとしか言いようがありませんね。私が『1』の並びに喜んでいると、「なーんだ。ラブレターとかかと思ったのにぃ」と小春日さんは大層落胆をした様子で炬燵の向かいまで帰って行きました。
「先輩遅いね」
「そうだね」掛け時計はすでに20時を過ぎてしまっています。
私はまた額で炬燵ぐりぐりをはじめた小春日さんを見ながら、小説をポーチの中にしまって、「連絡してみようか」と言いました。
「うん。葉山さんお願い。今日私は携帯を見たくないの、持ってきてるけど」
「それはまたどうして……」いつもなら、私が読書をするように、小春日さんは携帯に夢中になって私の話も上の空だと言うのに、珍しくも今夜に限っては携帯を取り出しさえもしていません。
「昨日ね……寂しくってさ……待ち受けをね。去年クリスマスにこうちゃんと撮った写真にかえたの。そしたら、余計に寂しくなっちゃって……だから、今日は一日私の携帯は呪われているの。彼女をほったらかしにするこうちゃんが悪いの……」とさらにぐりぐりを加速させる小春日さんでした。
「どうしたの?メールくらいなら良いと思うけど」
携帯を持ったまま、指を動かせないでいる私に、小春日さんは首を捻りながら言いました。
「もしかしたら……先輩、夏目君の所にいってるのかも……」
先輩にとって、今年は夏目君との記念すべき最初のクリスマスです。バイトの延長ですから、仕方がないですよね。と比較的軽く考えていた私なのですが、小春日さんの恨み節を聞いている内に、もしかしたら、先輩も小春日さんに近しい気持ちなのではないでしょうか。そう思えてきてしまったのです。夏目君の心境まではわかりません。でも、夏目君だって先輩と……いいえ、恋人と過ごすクリスマスを楽しみにしていたはずですから、きっと先輩は罪悪感を抱えていることでしょう……なら、帰りに夏目君の所へ向かっても不思議はありません。
今、先輩が夏目君と会って居るかもしれない。なら、メールを送ることさえも憚らねばなりません。
「あぁ、かもしれないね。バイトだから仕方が無いって言っても、男の子って根に持つからなぁ。事あるごとに持ち出すのよ」
それは小春日さんでは……と思いましたけれど、私は決して口に出して言うことはしませんでした。
○
「知恵熱で魘されそう……」
20時を半時過ぎた頃、先輩はとても疲れた顔をして帰ってきました。リボンで装飾された大きなテディベアのぬいぐるみを傍らに置いて、ハイヒールを玄関に力無く脱ぐと、「一生分の英語喋った気分」と玄関で膝を抱えてしまいました。
米国のクリスマスパーティーには米国人のお客さんも多く、ほとんどが英語で会話をしなければならず、聞き取るのにも話すのにもとても苦労をしてあげくに、語学力への自信を無くして精神をすり減らして帰って来た先輩なのでした。
「お疲れ様です。先輩、大丈夫ですか?」
小春日さんは台所にある、お湯張りボタンを押してから、玄関に駆けて来ました。
「うん。ごめんね待たせちゃって。代わる代わる、財布の中からクリスマスイブに撮った家族とか恋人の写真を見せてくれるもんだから、抜けられなくって」
むくんだ脹ら脛を揉みほぐしながら、先輩はそう言うと、ようやく立ち上がり台所で水を一杯飲みます。「ふう」先輩らしからぬ煙草の臭いが先輩の疲労を色濃く思わせているようでした。
私は小春日さんが浴室に居ることを確認してから「夏目君の所へは行かなかったのですか」と小声で聞きました。どうしても気になってしまって、我慢ができませんでした。
「うん。帰りに直接行ったみたんだけど……留守だった」虚空を見つめるように天井を仰ぐ先輩。きっと、玄関で膝を抱えたのはパーティのことではなくて、それが原因だったのでしょうね。
「夏目君もわかってくれますよ。連絡もしたんですから。先輩の夏目君は優しい男です」
「ありがとう。多分、怒ってないと思うけど……自信ない……」力無く、コップをコンロの手前に置くと作り笑顔で「早くお風呂入らなきゃ」と言い残して寝室へ着替えを取りに行ってしまいました。
私は、先輩が残したコップを洗いながら、とてもクリスマスを祝う気分にはなれないと思っていました。先輩の心中を察すればこそ、楽しく祝うことにさえ罪悪の念がつきまとうからです。
「お湯張り終わりましたー」腕まくりをした小春日さんが台所まで跳ねるようにして帰って来たかと思うと、弾んだ声でそう言うのです。
「ありがと。まずはスッキリしてくるね」小春日さんの声に寝室から現れた先輩は、
そう言い残して、着替えとともに浴室に入って行きました。
急に元気になった小春日さんを、吹っ切れたのでしょうか?と見ていると、小春日さんは私にだけ聞こえる声で言ったのです、
「楽しく騒ぐ気分じゃ無いけど、先輩、独りにできないもんね」と。
「うん。そう、今日の先輩には私達が必要!」私は奮起をして小春日さんに返事をしました。
小春日さんの言葉に、我に返った私は濡れた手をタオルで拭いてから、お皿に移しておいた料理をレンジに入れました。
「やっぱし、ビーフストロガノフ買えば良かったのにぃ」頬を膨らまして小春日さんが言いました。
「残ったら、困ると思うよ」
「葉山さん、お母さんみたいー」子供なのは小春日さんだと思いますけど……
独りじゃない。それを確かめることが今日に限っては大切なことなのです。もしかしたら、クリスマスとはそれを再確認するための日なのかもしれません。いいえ、きっとそうなのです。
出遅れてしまったものの、惣菜の量もそんなにありませんから、浴室からドライヤーの音が聞こえはじめた頃には準備が整いました。
「葉山さん。これ」悪戯な笑みを浮かべながら、小春日さんがクラッカーを差し出しました。
「わぁ、懐かしい、私これ久しぶり」
私は子供の頃は、このクラッカーの音が苦手で、誕生日やクリスマスの時は、クラッカーが終わるまで両手で耳を塞いでいました。
「私も子供の頃以来!スーパーで見つけて買っちゃった」
「なんだかワクワクするね」
私はそう小声で言いながら、先輩に見えないように台所に角に隠れて、先輩が来るのを今か今かと待ちました。
そして「うーん。良い匂いねぇ」とティディベアを抱き抱えてリビングへ入って来た先輩目掛けて、一斉にクラッカーを鳴らしたのです。
パンッと乾いた破裂音が二つ重なったかと思うと、飛び出した紙吹雪やカラーテープが尾を引いて、先輩に向かって飛んで行きました。
「もう!吃驚するじゃない!」髪に被さったカラーテープや顔についた紙吹雪をそのままに、尻餅をついた先輩は眉を顰めて言います。
先輩を怒らせてしまったように、ドキリとした私でしたけれど「クリスマスっぽいねぇ」とすぐにケラケラ笑いはじめた先輩を見て私も小春日さんも一緒になって笑いました。
もちろん内心ではすごくほっとしていた事は秘密です。
○
「これねぇ、プレゼント交換で当たったのよ」ティディベアの縫いぐるみに顔を埋めたりしながら先輩が言います。
「アメリカのクリスマスって派手なんですか?」
「そんなイメージあるけど実は違うの。ほら、クリスマスって向こうじゃ宗教行事の一貫だから、イブは特に家族とかと過ごして、今日は教会に行ったり親しい人達とパーティーしたりするみたい。もう、お開きになってるんじゃないかな?」
掛け時計をみると、もう22時を回っていました。
「あっ、でもプレゼントのスケールはアメリカ大陸って感じだったわよ。これよりももっと大きなスノーマンの縫いぐるみもあったもん。後はね、ジェイソンの仮面と玩具の斧のセットとか、誰が喜ぶの?っていうのもあったわね」
「それって、すでにネタに走っちゃってますよね」
「だよね。それ当たった人、早速、仮面つけて絵真ちゃん追い掛けてたもん」冷えてしまったフライドポテトを抓みながら先輩はそう言うと続けて「絵真ちゃんって私が家庭教師してるお宅の娘さんね」と捕捉をしました。
「先輩、ワインって結構おいしいんですね。私はいままで苦手意識でした」
コップにつがれたシャンパンを飲みながら小春日さんが言います。まだ数杯なのですが、すでに目が据わってしまっていて……それで私をずっと見るので、正直、不気味です。
「小春ちゃん、これシャンパンだから」
クラッカーを鳴らしてから、すぐに先輩は冷蔵庫の野菜室から、シャンパンを二本出して来ては「あんまり良いお酒じゃないけどね」と言いながら金属製のキャップを
開けて、私達に注いでくれました。
シャンパングラスが無かったので、みんな硝子のコップに注いでの乾杯でした。
「シャンパンとワインなんて親戚みたいなものですよ。そう言えば、先輩聞いてください」
言葉尻が怪しくなって来た小春日さんは、また炬燵に額をぐりぐりし始めます。
「小春ちゃんは飲み過ぎ禁止だからね。前科あるし」
と言う先輩の言葉を無視して「葉山さん実は裏切り者だったんですよお。だってね、涼しい顔して地元に彼氏が居るんです。しかも幼なじみでイケメンなんですよ。反則よお」ふやけたような口調でそんなことを言うのです。
となれば「えぇ、そうだったの!」と耳の先まで紅くなってしまっている先輩も食いつき「なんでよ。どうして言ってくれないのぉ!」と私の所へ詰め寄って来ます。
まぁ、そうなりますよね……
「いえ、小春日さんに話した幼なじみは彼氏ではなくて、従兄弟なんです」イケメンかどうかは私の判断に余ります……
「従兄弟なの?幼なじみなのに?イケメンなのに?従兄弟なの?」
「はい。母の妹の息子さんです」
先輩も小春日さんもイケメンイケメン言い過ぎだと思います……
「なんだぁ。だってさ、小春ちゃん」
アヒルのように尖らせた唇を、向けた先には炬燵に突っ伏したまま動かなくなった小春日さんの姿がありました。
どうやら、眠ってしまったようでした……それにしても器用な寝相です。
「ねぇ、なっちゃん」
小春日さんが眠ってしまった事を確認してから、先輩がまるで素面のように深刻な表をして私に言います。
「なんですか先輩」
乾杯の時に注いだ分さえもまだ飲み干していない私は、もちろん酔っていませんから、次ぎに先輩の口から何がとびだすのでしょうと内心ではしっかりと身構えることができました。
「本当に恭君のこと良かったのかな」
「良いも何も、私は夏目君に自分の気持ちをちゃんと伝えましたよ」
『好き』と言うのも気持ちであれば、『嫌い』と言うのもちゃんとした気持ちです。ただ、私の場合は『好きではない』と言うのが実のところでしたけれど。
「ありがとう。これで、何もかもがんばれそうな気がする。やっぱり、気になっちゃってたから」
「それにしても、夏目君も鈍感ですよね。パソコンを貸してくれた時点で気が付くと思いますけど」
「うーん。パソコンを貸した時はね。実はまだ好きじゃなかったのよ」
「えっ、そうだったんですか?私の早合点でした」てっきり私は、夏目君の気を引くためにパソコンを貸したのだと思っていました。
「でもどうなんだろ。好きだったのかなぁ。どう思う?」先輩のとろけそうな目元で言います。
「先輩。ベットに行って下さいね」
「大丈夫……な気がするの……でもね。黒ビールが悪いの、ドイツのビールがパーティーでね。みんなすっごい飲むのよ。麦茶飲むみたいに……」
小春日さんと同じように、気持ちだけは起きているつもりなのでしょうね。先輩もついに横になるとテディベアを抱いたまま寝息を立ててしまいます。
私は、泳ぐように気泡漂うコップの中を見ては、それを一息に飲み干しました。炭酸の刺激がのど越し良く、それでいてフルーティーな味わいです。鼻の奥から抜けて行く甘い香りを余韻に、思わずもう一杯飲みたくなる。そんなお酒でした。2杯目を頂くことはしませんでしたけれど、直に私も眠くなってしまってどうしようもなくなるのですね。そんな風に思って、玉響眠くなるまでの間、先輩の部屋を見回してみたりしていました。小春日さんがいて先輩がいて、食べかけのお菓子と惣菜があって。ゴミ箱の場所を知っていて、冷蔵庫にはケーキが入っていて……今年の上旬、はじめてこの部屋にお邪魔したとき、私は借りてきた猫のように小さくなっていました。今ではそれがとても懐かしく感じられます。
「ケーキどうしよう……」私は手を後ろに投げ出して大きく息を吐きました。
円満解決が難しい方の三竦み。私も同じように考えていましたから、一時はとても落ち込みました。
一歩違えていたら……と思うと今でも悪寒が走ります。この空間に自分が居られなくなってしまった未来があったのですよ。こんなに楽しくって愛おしい場所に私だけ居られないのはとても不幸なことですよね。
去年の私であれば、何のこともなく、何気ない一日としてクリスマスを過ごすことが出来たと思います。けれど、一度この暖かい場所を知ってしまったなら、孤独にクリスマスを過ごすなんて、私には自信がありません。
最初から居なければ寂しくはない。けれど、居たのに居なくなると狂おしい程寂しくて仕方がない。
しみじみと感じています。私は今幸せなのだと。
そんな風に私が1人で悦に浸っていると、
「私、寝てないから」と言いながら小春日さんが急に顔を上げたので、私は驚きました。
「おはよう」
「私寝てないから、ちゃんと起きてたから」体を乗り出して強く主張します。
「えっと、うん。そうだよね」
私は、真っ赤になっている小春日さんのおでこを見ながら、苦笑をして言います。けれど、どうして、そんなに寝ていた事実を認めたがらないのでしょうか?
「うぅ」
「気持ち悪いなら、早い目に言ってよね」あの惨状はあまり思い出したくありません。
「気持ち悪くはないの。ワインとかは結構平気なの私。焼酎と泡盛は駄目なんだけど」
「そうなんだ」
相変わらず目元が据わっているのがとても気になるのですが……
「そう言えば、葉山さんは実家にいつ帰るの?」
「私は28日に帰省する予定。小春日さんは?」
「私は古平君次第かなぁ。その、一緒に過ごすっていうのもありだと思うのよ、2年目だし……そろそろ、色々あっても良いと思うのよ!」お酒が入ると饒舌になる小春日さんです。
「葉山さんは大晦日って紅白派?それとも格闘技派?」
「私はどちらでもないけど、祖母と祖父が紅白を見るから毎年、紅白を見て行く年来る年を見てから、友達と初詣に行くかなぁ」
「へぇ、家はお父さんが格闘技大好きだから。でも私はテレビ自体あんまし見ないで、お節作るのお手伝いしたりしてるかな」小春日さんはコップに残っているシャンパンを飲みながら、ますます饒舌になって「あんな殴り合い何が面白いのか理解に苦しむわ」と続けて言いました。
「お節のお手伝いするんだ」今時こういう事を思うのもどうかとも思いますけれど、同じ女の子として恥ずかしい気持ちになりました。何せ、私と言ったら炬燵に入って寝ころびながら本を読んだりうたた寝をしたりしているだけで、台所に行くと言えば、お手洗いのついでにつまみ食いに寄るだけなのですから……なんだかとっても恥ずかしいです。
「すごくなんてないよ、だって私つまみ食い専門だもん」してやったりと小春日さんはとても楽しそうに笑っていました。
「それなら私も専門」私も一緒になって笑いました。どうしてもとても楽しい時間です。
「そろそろ、お開きにしないとだね。肝心の先輩は寝てしまってるけど」
柱時計を見ると、もう日付変更の時刻を過ぎてしまっていました。楽しい時間は過ぎるのはとても早いですね。
「何言ってるのよ。今日はお泊まりする気まんまんです。私。」
「えぇ、でも先輩に迷惑じゃ……」
「想像して見てよ。『ただいま』を言う相手も居ない冷え切った部屋。誰かに電話したくなって携帯をみたら、恋人と幸せに写ってる去年の私がいてさ……泣いちゃうよ私?それでも良いって言うの……葉山さんは鬼だよ……」
「えっと……」明日、予定があるかもしれない先輩に迷惑だと思っただけなのですけれど……
「先輩だって、こんな真夜中に可愛い後輩を帰すようなことはしないわよ」
「そうだと思うけど……」
先輩のことだから『泊まっていって』と言うと思います。けれど、親しき仲であれば余計に礼儀を重んじなければなりませんから、先輩に甘えっぱなしになるのもどうかと思うのですよ。
「泊まるのは泊まるにしても、せめて、片付けくらいはしておきましょうよ」
そう言いながら、私は、炬燵の上に散らばっているお菓子の小袋や開いているお皿などを持って台所へ向かいます。
「お酒は私にまかせといて!」小春さんは瓶に半分ほど残ったお酒をコップに注ぎながら、勇ましく親指を立てています。
「よろしくお願いします」
お酒は別にやっつける必要はありません。ですが、酔っている小春日さんに手伝ってもらった方が余計に手間が増えそうな気がしたので……私は1人で片付けることにしました。
先輩を起こさないように、洗い物をしていると、カウンター越しに突っ伏してしまっている小春日さんの姿が見えます。今度は片手にコップを握り、もう片方は瓶に手を掛けたまま……とても器用な小春日さんなのです。
「また、寝てないって言うのかな」
起きたなら、また「寝てないから」と言い張るのでしょうか、と起きがけの小春日さんを思い出しながら私は1人で笑っていました。どうせ、私しか起きていないのですから、笑うくらい恥ずかしいこともありません。
小春日さんを見ていて思いました、「それにしても、ビーフストロガノフ買わなくてよかった」っと。
洗い物を終え、残った惣菜にラップを掛けていざ、冷蔵庫へ入れようとして「あぁ」
スペースの大半を占拠しているホールケーキの箱を2つ見つめながら私はそんな声を出しました。小春日さんが起きている間に先輩が予約した小さい方の1箱分だけでも食べておけば良かったと後悔するも後の祭りです……
私は両手に、惣菜をまとめたお皿を持ちながら、
「ケーキどうしよう……」途方に暮れてしまったのでした。
◇
楽しくも切ない聖夜を過ごした翌昼、実家から帰省の有無を問うメールがあったので、年が明けてから帰る旨を返信しておいた。すると、お土産は三笠が良い。と続いてメールが届いた。土産を持って帰るという前から土産の催促ならぬ、土産の指定をしてくるとは……さすがは我が両親。それを見越してすでに三笠を郵送し終えている私は、三笠については触れず「帰省する交通費がない」とだけ書いて返信しておいた。
すると、その日の夕方にはに「交通費振り込んでおいたから」とメールが届き、専業主婦のフットワークの軽さと軍資金の供与に感謝した。三笠がもう届いているだろうから、それも良い方向へ作用したと私は確信している。
実を言えば、帰りの交通費くらいは残っていた。けれど、31日までに色々と物入りとなってしまった私は嘘をついて臨時の仕送りをお願いしたのだ。
今朝方、私は男を見せた。
毎年先輩は年末までバイトをしていて実家には年明けに帰郷する。今年も例年通りであると聞いた私は、思い切って「一緒に初詣に行きませんか」とメールを送ってみたのだ。
返信までに2時間ほどあったから、至極ドキドキとしたが、後輩から恋人へ昇華した私と先輩の関係上。そんな臆病に構える必要もなかったのだろうと思う。
何せ慣れていないもので……
やがて先輩から「うん。行く!東大寺に行こう!」と凝った絵文字をふんだんに用いた返事が帰って来たのでほっとした。続けて待ち合わせなど細かい内容のメールのやりとりを何通かした。
作戦決行日時が決定した私は、首周りが伸びきったTシャツやら穴の開いたジーンズを正すため、奈良に来てはじめて衣類の買い物へ出掛けたのである。懐はいつになく暖かかったのでつい、日用品の買いだめを……などと即行で目的を見失いかけたが、すぐさま今進むべきレールを思い出した。
三条通りを歩きながら、あれやこれやと見て回って疲労が溜まってくると、ペガサス号の修理にくらいは必要経費にしても良かったのかも知れないと後悔した。何せ、すっかり慣れた三条通りとは言えど、目的が違えば歩き方も大きく異なるもので、遊びに来ることに終始していた私は、古本屋やゲームセンターに映画館など娯楽施設は網羅していても、衣料品を取り扱う店舗に関してはまるで素人であったのだ。古平にメールをしても電話をしても梨の礫で、頼りになんぞとなりもしない。
聖夜から徹夜でゲームをすると言っていたし、限定DLエピソードがどうのと話していたから、未だに引き籠もってゲームに興じているのかもしれない。
その後、何日かに分けて奈良町の方面へ行ってみたりして、なんとか、可もなく不可もなく無難な服装を購入することが出来た。よく考えれば、この寒空の下、活躍すべきは上着なのだから、まず上着を買うべきだったと後悔をした。
何せ、上着と言えば、着古したダッフルコートしか持っていない私なのである。
その翌日、まだ日が昇りきらない時間帯に、古平から返信が来た。眠た眼でメールを見た私は、あまりのショックに現実逃避の二度寝を敢行した。昼前に起き出した私は、もう一度メールを読んで怒りに我を忘れ「もっと早く教えろ!」と書き殴った文面を返信した。諸々後悔しようとしていた矢先、携帯の画面に送信に失敗した旨を伝えるメッセージが出力されたので、ほっとした。
古平曰く
「
三条通りに服なんて買いに行きませんよ。僕なら、イトーヨーカドーに行きますね
」
だそうだ。
イトーヨーカドーは近鉄大和西大寺駅と近鉄新大宮駅の間にある大型ショッピング施設で『そごう百貨店』が撤退した後に建物をのままに営業をはじめた、メガストアである。
立地的には新大宮駅寄りにあるものの、流々荘からはそこそこ距離があるため、あまり行った事がなく、ましてペガサス号が使えない今となっては、完全に買い物圏外であり、私の中ではその存在さえも忘却してしまっていた……
普段であれば、諦めてしまうところなのだが、今回の作戦は初戦にして天王山であるのだから手加減は出来ない。だから私は久しぶりにイトーヨーカドーに行くことしたのである。
なるほど、古平の言うとおり、ブランド品は少ないながら、手頃な価格でそれなりの物が手に入り且つ、種類が豊富だった。だが、すでに内着は買ってあるので、後ろ髪を引かれながら、ジャケット売り場に出掛けた。
「むぅ」
並んだジャケットにジャンパーにコート、品定めをしていて、私は顔を顰めるしかかなかった。何せ、どれもこれも予算オーバーだったのだ。三条通り行った事を、激しく悔やんだが後の祭りである……結局、私は昼飯代わりのあんパンを買って家路についたのだった。
悔やんでいても仕方がないので、なんとか今ある装備で当日に備えるべく、先輩と初詣に着て行く服に着替えてみた。値段のわりに……と思ってみても、最終的に、ダッフルコートで覆ってしまうからまるで意味がない。
鏡に写る冴えない自分を見ていると、結局の所、何を着ても代わり映えなど期待もできないだろう。そう思うと、せめて残った軍資金を真梨子先輩の為に使おう。私は見掛け磨きを諦めて、中身で勝負をすることに決めたのであった。
○
師走は特に忙しいと言うが、ここ数日間は本当に早く過ぎて行ってしまったように思う。どうせ怠けて過ごすのだろうと思っていたのだが、隣で大掃除に勤しむ皐月さんと神原青年に触発されて大掃除をしてみたり、そのゴミを出しに行って大家さんと出くわして、流々荘の大掃除も手伝う事になったり、そのお礼に美味しい天丼をご馳走になったり、町内会の鏡餅つきを手伝ったり、何かと予定が横は入りをしてきて、気が付けば大晦日になっていた。体は疲労していたが、精神的にはなぜか清々しかったしとても充実していたから摩訶不思議である。
「10時に行基前ね」とハートの動く絵文字が添えられたメールを読み返して、約束まで5時間以上あることを確認して畳の上に寝そべる。いやはや、こんなに大晦日が待ち遠しいのはいつくらいぶりだろうか……お年玉がほしさにもういくつ寝ると、を歌っていた小学生くらいまで遡らなければいけないだろうか。
待ち遠しい5時間。
何かしようと思えばできる5時間。
けれど何もせずにじっと早く経って欲しい5時間。
この時間をとりあえず私は初詣のシュミレートに費やすことにした。まず、三十分程前に近鉄奈良駅前にある行基像前に到着しておく。10分前くらいに先輩が来て……
「何を話そうか」挨拶はするとして……
困った。待ち合わせた直後に躓くとは……
「夏目恭一!お前はすでに包囲されている。大人しく我が文芸部主催の年越し鍋パーティーに参加しろ!」
私が難問に取りかかろうとした矢先。ドアの外からそんな声が聞こえて来た。
「ったく……」流々荘まで押しかけて来るとは思いもしなかった。
阿呆に盆暮れ正月は関係ないのだろうな……
「何のつもりですか。今夜は予定がもう入ってるんです」
私は本当の事を言った。
「うそつけ!うそをつけ!君はっ君は今夜真梨子さんと初詣に行くんだろ!そうなんだろ!誤魔化したって駄目だからな、もうネタは上がってるんだ」
「そうですが何か」
私はまた本当のことを言った。
「嘘だとは……言ってくれないんだよね……」
「はい」
「なんでだよ……なんで君なんかが!僕じゃなくて君なんだよぉ」
まさか泣いてるんじゃないだろうな……大声で叫ばれても迷惑だが、ドアの前で泣かれるのも迷惑だ。
幸いにして、お隣さんは数日前に帰省しているから良いとしても。ご近所迷惑なことにはかわりない。
「君には何が何でも、今夜はパーティーに来てもらうからな」
「嫌です。クリスマスの惨劇を繰り返すだけですよ」
「大晦日まで真梨子さんを追いかけて回すつもりかい」
「部長にはフランソワーズちゃんがいるじゃないですか」
「フランソワーズちゃんを今夜だけ君に譲るから、僕に真梨子さんを譲ってはもらえないだろうか」さも、当然のように意味不明な提案をして来たかと思えば、聞いたこともない真面目そうな声で部長は「最大の譲歩だ」と付け加えた。
「アホですか。そんな人形いりません」
「にっ!人形とは何だよ!人形とは!フランソワーズちゃんに謝れ!この野郎!」
フランソワーズちゃんを人形呼ばわりされた部長はついにドアを何度か蹴りつけた。
古いベニア板のドアは本当に壊れそうな勢いで軋んでいたが、何とか持ちこたえてくれた様子だった。薄くて頼りないドア一枚が今の私にとっては頼みの綱なのだから……
私は面倒くさいことになった。と思いつつ窓の外を覗いてみると、愉快な仲間達の何人かが見あたった。てっきり部長は単独で来ていると思っていたから、大晦日の夕暮れに時に本気の包囲戦をしかけてきた親愛なる暇人どもに感嘆した。
「立て籠もるつもりなら、新年まで包囲し続けるからな。夏目恭一!君に逃げ道はない!」
いちいちフルネームで呼ぶのをやめてほしい。
包囲すると言っても、ただ外で待っているだけなのだから、私が何をせずとも、冬将軍がひ弱な部長の体温を奪ったあげく、風邪のプレゼントにてもれなく寝正月のフルコースを味わってもらえればと思う。だから、私は大きく構えて、その後2時間ほどを万年床で微睡んで過ごし、まだ3時間もある。と頭を掻きながら、ドアの覗き穴から外を覗くと、震えながら読書をしている部長の姿があった。
窓の外にはポータブルゲームに勤しむ愉快な仲間達の姿が見える。
もう少しくらいは……と万年床に入って微睡む準備をしたところで、私は上体を起こし胴震いをしたのである。
駅前までの移動時間も加味して厳密には後、2時間と15分後には部屋を出なければならない。この時間の間に部長一味が霧散すれば問題はない。しかし、もしもそうしなければ……
親愛なる阿呆どもは、包囲を突破してみたところで、必ず追いかけて来ることだろう。残念ながら私に彼らを置いてけぼりにするだけの脚力はない。ましてや一味を率いて駅前には絶対に行くことは絶対にできない。ならば、
私がするべきは包囲の突破&追っ手を撒くことだ。
手段は選ばないとしても、どのタイミングで突破するかだ。一味の混乱に乗じて姿をくらまさなければならない。地の利は同等程度。ならば多勢に無勢で私が不利だし、援軍は帰省の煽りを受けて期待できない。ペガサス号は使えないし、走るにしても体力的に限界がある。
思案に暮れていると、携帯電話が震るえていることに気が付き、手に取ると、未知の番号だった。部長の嫌がらせかと思ったのだが、とりあえず出てみると、電話口に意外な人物が立っていたので束の間返事をすることができなかった。
着替えを済ませ、冷蔵庫から弾薬を手に一つ。残りはダッフルコートのポケットに忍ばせた。約束の時間まで1時間……
やるかやられか、今年最後の一番勝負ここが私の天王山。
腕時計の長針が午後9時を回った直後、私はドアを勢いよく開け放つと、座り込んで震えていた部長の顔に変色した生卵を投げつけた。部長は間一髪読んでいた本でこれを防いだが、本で防ぎきれず飛び散った破片に「ふへぇ」と飛び上がった部長は本を投げ捨て、慌ててズボンに垂れた青銅色の黄身を手で払っていた。見た目よりも強烈な悪臭が最悪だった。
私は次弾をコートのポケットから装填しながら階段を駆け下りて一階に躍り出た。
「逃げたぞ!」部長の怒鳴り声に、手にゲーム機を携えたままの一味が私の前に立ちはだかる。
私は足を止めることなく、卵爆弾を一味に足下に投げつけるた。すると、一味は「あげぇ」と忽ち立ち上る悪臭に、体を仰け反らせる。私は続けざまに爆弾を一味の胸と太腿に炸裂させてから、大学とは反対方向にある近鉄新大宮へ向けて全速力で見通しの良い坂道を走りはじめたのであった。
『小春日さんから連絡があって、古平君が文芸部の部長さんに今夜の事を話してしまったみたいなんです』
電話の主はなんと葉山さんだった。生涯ではじめて、振られた女の子からの突然の電話に困惑したことは言うまでもなかった。
『音無さんが車で行基前まで送ってくれるそうなので、9時30分くらいに新大宮駅のタクシー乗り場に向かってください。夏目君。先輩を、真梨子先輩をよろしくお願いします』
そして、私を振った女の子は私にとっての救世主の手配までしてくれたのである。
「わかった。ありがとう」
『真梨子先輩をよろしくお願いします』と言うフレーズが電話を切った後もやけに耳に残ったいたのだが、あの台詞には一体どういう意味が込められていたのだろうか。
近鉄線に対して横切るように引かれたJRの踏切を渡った私は、何度か後ろを振り返えざるえなかった。何せ住宅街に入るまでは見通しの良い緩やか坂道が続いている。後ろを見れば、打ち漏らした一人を荷台に載せ、今にも部長がペガサス号を漕ぎ出そうとしているところが見えた。
自殺行為だ。私はすでに噎ぶ呼吸に焼けそうな心肺に鞭打って走り続けた。
「逃がすかぁあ!」
案の定、坂道を降るペガサス号はすぐに私の背中へと迫った。坂道に加えて、荷台の過重に部長渾身の立ち漕ぎであるから、その速度は安易に想像できる。想像できるからこそ自殺行為なのだ。
ゴミ同然にアパートの駐輪所に放置されてあったペガサス号を大家さんから借りた当時からブレーキが壊れていて、騙し騙し使って来たのだが、いつか先輩を荷台に載せて走った時に完全にブレーキが壊れてしまった。私ですら使用を控えているレベルでブレーキは大破しているのだ。
「マジかぁあ!」
止まりたいタイミングでその事実に気が付いた部長は、声色を涙色に染め、私の尻に前輪を突き刺したまま一緒に柊の垣根に突っ込んだのだった。
ペガサス号に追突された私は垣根に突っ込み、さらに激しく垣根に突入した部長は側溝に体半分が嵌まっていたし荷台のもう一人は、前輪が変形してしまったペガサス号の下敷きになって倒れていた。
垣根から脱出した私は、強打した臀部をさすりながら損傷は軽微、と自己診断をしてから歩き出したのだが、動かしてみるとあちことがじんじんとして脈打つように痛んだ。
ふと足下を見やると、一味が携えていたゲーム機が見あたったので、ペガサス号の下から私を見上げている一味に視線をやってから、最後の爆弾を取り出すと、「頼むやめてくれ!部長に脅されて仕方なくやったんだ!」と安い命乞いをする一味を尻目に、目の前でゲーム機を青銅色の黄身で染めてやった。
「あぁぁぁ!」
その直後、断末魔の叫び声が新年を待つ静まりかえった住宅街に響き渡ったことは言うまでもない。しかし、私からすれば当然の報いだ。人の恋路を邪魔する者は犬にでも噛まれてしまえばいいのだ。
走るに走れず、額に脂汗を浮かべて新大宮駅前に到着すると、タクシー乗り場から少し外れた路肩に車外に出て待っていてくれた音無さんを見つけることができた。
「大晦日にすみません。お世話になります」私は呼吸を整えながら頭を下げて言った。
「気にしないでよ。夏目君には甘美祭で協力してもらったし、親友の真理ちゃんの為でもあるしね」そう言うと、音無さんは屈強なボディとデザインを併せ持つSUVの運転席に乗り込んだのである
「なんか、イメージないですね。こんな大きい車って」
音無さんと言う女性はどちらかと言えば華奢な体躯とおっとりした雰囲気を漂わせる人であったので、こんな厳つい車に乗ってしまうと、どうしてもそのギャップを口に出さずには居られない……イメージでは、可愛らしいピンク色の軽自動車に乗っていそうなのに……
「家の車だからね」とカーナビを操作する音無さんはナビに表示された真っ赤に染まった地図を見て「うわぁ、初詣に狙いの車かな。大晦日なのになんでこんなに混んでるのよ」と独り言のように呟いた。
ナビの情報通り、近鉄奈良駅方面に続く幹線道路は大渋滞しており、それに脇道からの横入りが多発するので、一向に進む気配がなかった。
「なんか臭くない?」
ラジオを聞きながら、音無さんは渋滞に苛立つこともせず、小さい鼻を私の方に向けてひくひくさせて言うので、
「気のせいですよ」と私は誤魔化し、内心では約束の時間まで15分を切っていることに苛立ち、焦っていた。
約束の時間まで10分を切った頃、ようやく高天交差点にさしかかった。絶品パスタが懐かしいコンビニを横目に見ながら、タイミング良く信号が赤になったので「音無さんここで降ります。本当にありがとうございました」言いながら、車のドアを開けた。
「ん、そだね。走った方が早いかも」
「先輩。良いお年をお迎え下さい」
「夏目君も。グットラック!」
もう一度、音無さんに頭を下げてから車のドアを閉めると、点滅しはじめた歩行者用信号を間一髪で交わして、コンビニ前まで走り、次の信号は無視をしてさらに駆けた。臀部にズボンが擦れるたびに何とも言えない痛みが走る中、真冬の風も何のその、私は額に汗しながら、力の限り走り続けた。行基像の見える場所で、息をついた私は、腕時計を見て、後1分残っている奇跡を八百万の神々に感謝した。
そして、行基像の前に真梨子先輩の姿を見つけた時は倒れ込んでしまいそうなくらいに脱力してしまった。
「すみません。遅刻しました」
「後1分あるからセーフだよ」
少しカールさせた黒髪には白いヘアバンドがあり、首もとにはバーバーリーチェックのマフラー、品のある薄桃色のフレアトレンチコートに足下は黒いストッキングと明るい皮色のロングブーツ。控えめな化粧に、いつものふんわり甘い香り。
どこからどう見ても……香りに至るまで、いつかの私が初恋に心が揺れた、その人が私の前に立っていた。
「間に合った……」だと言うのに、その感慨に浸りきれない現状はどうしたものだろうか……
なんとか約束時間に遅刻せずに到着することができた私は、しばらく、放心して気遣ってくれる先輩の言葉にあやふやな言葉で返事をしていた。
東大寺の方面に流れる人の数はまだ疎らで、時刻的には少し早かったこともあり、近くの喫茶店に私達は入った。待ち合わせたそばから満身創痍の私への労り以外の何者でもないと理解していたから、長居はするつもりはなかった。
「なんで、そんなに汗かいてるの?」ダッフルコートを脱いだ私に先輩がハンカチを渡してくれた。
「すみません」ハンカチを受け取りながら、こんなに早くコートを脱ぐことになろうとは予想してなかったと思いながらも、コートの下の装いにこそ自信はあるのだから、その点での備えは盤石だった。
「なっちゃんから恭君の電話番号教えてくれって電話あったんだけど?」カフェオレを注文してから先輩が言った。
「電話ありましたよ。葉山さんのお陰で今ここに居るってわけです」私はアイスコーヒーを注文した。
「どうゆうことなの?」
私としては、葉山さんからの電話があればこそ、部長とその一派の魔の手から逃れることができた。だから彼女の功績を先輩に話して聞かせたかったのだが、その、先輩と彼女と私の間には、つい最近まで複雑な人間構図があった。だから、ここで彼女を賛辞してしまっては先輩は不安に思ってしまうことだろう……すでに、先輩の表情には不安の色が見え隠れしているし……
私は、私がこの行基前に到着するまでを部長が部屋に押しかけた所から子細丁寧に事実だけを話した。ペガサス号の最後、葉山さんが音無さんに連絡をしてくれたこと、音無さんの家の車が厳つかったこと、そして、走って走って首皮一枚間に合った事を全部。
「そんなことがあったんだ。みんなに迷惑かけちゃったね」
運ばれてきたカフェオレにシロップを入れながら先輩が言った。
「はい。でもだからこそ、待ち合わせの時間に間に合って良かったです」私はもちろんブラックである。
結局の所、先輩と合流できたならそれで万事問題はない。しかし、多方面の人達の尽力を得た限りは、より最高な形で報告が出来た方が良いに決まっている。もちろん、葉山さんや音無さんには先輩から今日の話しが行くのだろうけれど……
それにしても、諸悪の根元である古平にはどんな鉄槌を下してやろうか。
◇
喫茶店の外を行き交う人の数が目に見えた頃、私達は喫茶店を出て、東大寺を目指して歩きはじめた。目指すは、年跨ぎの0時に開門する大仏殿の中門である。普段は閉門しており、新年に合わせてのみ開門される。
すでに混雑を見せる参道を歩いていると人の群れを割いて歩いてくるモノがあった、それは大きな雄鹿だった。
「鹿って夜行性だっけ」と言いながら真梨子先輩は鹿の写真を撮っていた。途中地下道を通るのだが、今夜に限っては出口が見えない程の混み合いだ。まさか中門からここまで並んでるんじゃないだろうな。そう思ったくらいだった。
春日野町の交差点はもはや歩行者天国となっており、交通整理の警官がいなければ、年が明けてもこの交差点は車で通ることは至難の技だろう。そもそも、この年の瀬が迫った時刻に車でこの交差点を通ろうと思うこと自体が荒唐無稽であると私は言いたい。
いつもは午後8時を過ぎれば露店も土産物店も閉まり、閑散とする参道も今夜ばかりは道を狭しと出店が軒を連ね。土産物店も木刀やら背中に『奈良』とプリントされた、だんだら羽織を仕舞って、甘酒やおでんを振る舞うスペースにしているようだった。
春日大社へ向かう流れと袂を分かつからか、交差点を渡った辺りから混雑の中にも普通に歩く程度には支障をきたなさい。
奈良で迎える大晦日と初詣は、はじめてで、もちろん、東大寺にはゼミと個人的にを含め何度も足を運んでいたが、それは何の事もない平日の昼間の話し。夜の、まして大晦日の東大寺ははじめてだった。そもそも私は大晦日の夜から初詣に行ったことがなかった。だから余計に新鮮に感じたのかもしれない。混雑は嫌いだし並ぶのはもっと嫌いだったのだが……
けれど、今夜は嫌な気がしない。隣に先輩がいるからだろうか。無論、それこそが明瞭な理由たり得る。もう一つ理由らしい理由を挙げるとしたらなら……幻にも似たこの独特で不思議な雰囲気だろう。見慣れているはずの風景がまるでそれとは異なっているように思えてならない。
「大晦日の0時を過ぎると、町も人も新しく生まれ変わるんだよ」私が幼少の頃、祖母がよく言っていた言葉を思い出した。
「出店はお参りしてからね」これも祖母によく言われた言葉だ。
私が狐に抓まれているようにただ歩いていると南大門をくぐった辺りで、先輩が立ち止まり「もし迷子になったらここで待ち合わせね」と言った。
「迷子にならないから大丈夫」私はそう言うと先輩の手を握って再び歩き出したのであった。正直、自分でも藪から棒に何をしているのかわけがわからなかった。先輩も最初はとても驚いた顔をしていたが「こっちの方が温ったかいね」と言ってわざわざ私と繋いでいる方の手袋を外して再び手を繋ぎ直した。
先輩の手はもっと柔らかくてつるつるしていると思っていた。私の中に居た真梨子先輩はもっと餅のように弾力があって蒟蒻のようにつるつるとした手をしていた。けれど、今繋いでいる手は所々がざがざとしていて、指先にはペンだこがあって……
手はその人を顕著に且つ正直に表す。私はやっぱり、ずっと先輩のことを誤解していたのだと改めて確信した。
先輩の手を労るように強弱をつけて握ると、先輩も同じように握り返えしてくる。まるでモールス信号のようだ。
「なんか楽しいよね」私の顔を見上げて言う先輩に「はい。悪くないです」と私は返事をした。我ながら素っ気ないと思った……何せ、私自身とても楽しかったのだから。
大仏殿の中門が見えはじめると、ゆっくりと進んでいた人の波が滞るようになったので、私と先輩は詰まる所まで歩き、ようやく初詣の列に並んだ、もう少し端に陣取った方が良かったかと思ったが、中門の近く、鏡池で行われているとんどの炎が見える限りは、そんなに後ろの方と言うわけでもない。開門と同時に列が乱れるだろうがそれさえ乗り切ればスムーズに初詣を済ませることができるだろう。
私の頭の中は至って冷静であった。例え周りが仲睦まじく新年の詣でを待ちわびるカップルの中に居たとしてもだ。
「恐い顔してどうしたの?」
「えっ、いえ、もう少し端の方がよかったかなって」
「大丈夫だよ。はぐれないし、もっと大丈夫」先輩はどこまでも愉快そうである。そんな姿を見ているだけで、私までも幸せな気分になってくるから不思議だった。
独り身たるはなんとする!と現実が充実している男女を禍々しく見つめて続けて来た観察者にして哀れな阿呆どものメシアであると自覚していた私は、すっかり独りでいることに慣れてしまっていた。だが今夜は違う。いいや、これ以後私は観察者でもなければメシアでもない。むしろ、観察され禍々しく思われる側に回ることになるだろう。
写真を撮りまくっている先輩の姿をさりげなく見てみる。すると一層、頭の中に冷たいものが吹き抜けて静謐と冴えわたって行くような感覚が強くなった。
冴えわたっても、この感覚の原因はようとして知れなかった。けれど、一つ気が付いたと言えば、何があっても先輩を守らなければと言う気持ちである。はじめて手に入れた大切にするべきモノを、私は何を犠牲にしても守り抜かなければ。と……
「(そうか)」
私は理解した。これは紛うことのない自己犠牲の正義なのだ。やっと気が付いた。今まで私は手にしたことがなかったから、はじめて手にして芽生えたモノの正体がわからないでいたのだ。
愛の力とは誠に恐ろしい。狡兎のように生きようと決めていた堕落した私を、瞬く間に騎士道に則り死へすら勇ましく身を躍らせる正義漢へと生まれ変わらせたのだから。
「あ、そうだ」思い出したようにそう言った先輩は携帯をコートのポケットに仕舞まうと、たすき掛けにしている大きめのポーチから、リボンで包装された包みを取り出した。
「はいこれ、クリスマスプレゼント。遅くなってごめんね」
「え、あぁ。ありがとうございます。嬉しいです」受け取ると、とても柔らかい。「開けてみて」と言う先輩の言葉に「わかりました」と丁寧に包装をとくと、キルトチェック柄のマフラーが入っていた。
「これ、マフラー……」
「恭君マフラーとかしないから、いつも首元寒そうだなぁ。って思って」先輩は「かして」と感動に耽る私からマフラーを取ると、すぐさま私の首に巻いてくれた。先輩が巻いてくれたマフラーはとても軽くて肌触りが優しく、そして暖かかった。
「これ、全然チクチクしませんね。実はマフラー苦手なんですよ、敏感肌っていうか、チクチクするあの感じが嫌いで……」事実だ。だから私は真冬でもマフラーを巻いた事がなく、毛糸のセーターも着たりはしない。
「よっかったぁ。ウールかカシミヤか悩んだんだけど、カシミヤにしといたんだぁ」
どうして先輩はこんなに嬉しそうなのだろうか……ウールもカシミヤもどこがどう違うのかわからなかったけれど、少なくとも毛糸よりは上等な品であることは私の肌が証明してくれている。
この暖かさこそ、先輩からの贈り物だ。
「あぁ、しまった」マフラーの感触を確かめていると、先輩へのプレゼントを持って来るのを忘れてしまった事を思い出した。
「どうかしたの?」
「先輩へのプレゼント忘れてきてしまって……何せ、切羽詰まってたもので……言い訳ですごめんなさい」
先輩には申し訳ないと思った。けれど、あの状況を考えれば、今夜持ち出さなくて正解だったのかもしれない。仮に壊れなかったとしても包装は台無しになっていただろうから……
「謝るのは私の方。クリスマスごめんね。付き合いはじめて初めてのクリスマスだったのに……」
そんな顔しないでくださいよ先輩。
「それについて、喧嘩をしてもいいですけど、それはまたに機会にしませんか」
「どういう……こと?」
「えっと……つまり、怒って無いってことです。だから、喧嘩するのは次の機会にってことで」
自分で何が言いたいのかわからなくなってきてしまった……つまり、私が気にしていないと言うことを伝えたかっただけなのだが……
「変な恭君」伝わったのか伝わっていないのか、とにかく先輩はそう言うと俯いてしまった。
想定と予想を巡らせていても、実際にその場に立ってみると、それは想定と予想を軽快に裏切ってくれる。私にはそんなイレギュラーを矯正することも出来なければ、順応することもできない……情けないかぎりである。
それから、しばらく二人の間には会話が生まれることはなかった……私は話し掛けなかったが、その代わりに先輩の手を握る手を強めた。すると、先輩もそれに呼応するように強く握るのである。本来であればもっと愉快な話をしながら過ごすものなのだろう……でも、私にはそれだけで十分だった。
先輩の手の温もりが感じられるだけで……
周りの雑音が一層大きくなるにつれ、開門の時が近づいているのだと気が付いた。腕時計も携帯も、先輩と手を繋いでいたので、見ることも取り出すこともできなかったが、それくらいの事は窺い知ることくらいはできる。
「もう今年も終わるね」白い息を吐きながら空を見上げて言う先輩。
「そうですね。色々ありすぎて、わけのわからない1年でしたよ」
本当に色々あった、色々あり過ぎて、年の締め括りにこうして先輩と一緒に居るのが不思議で仕方がない。どこをどうねじ曲げればこんな結末にたどり着けるのだろうと。
澄んだ空には相変わらず、こぼれんばかりの星々がその身を燃やして輝いている。オリオン座を象る一角に青白く輝いているシリウスを見上げて私は「シリウスって知ってますか」と先輩に聞いた。
先輩は「聞いた事あるけど……オリオン座の近くで一番光ってる星だっけ」と夜空を指さしながら自信なさげに言った。
「恭君、天体とか好きなの?」
「オリオン座とか有名なのしかわかりませんけど、シリウスだけは名前が格好良いから昔から好きなんですよ」
星座早見表と言うのを小学校の時にもらった当時はよく天体観測に出掛けた。早見表だけを持って行っての天体観測だったが……クラスでの一番人気は北極星で、次いで北斗七星とカシオペアだった。けれど、捻くれていた私は、名前の格好よさからシリウスだけを見上げ続けてきたのである。
「格好良いって、恭君らしいね。私はやっぱり、北斗七星かなぁ、小学生の頃ね、あの柄杓の形がとっても不思議だったんだよね。こんなに星が一杯あるのに、ちゃんと柄杓の形に見えるのって不思議だと思わない?」
「そう言われれば……」
そう言われればそうだ。こうして何千何万とある星々の中にあって、柄杓の形をちゃんと認識出来るのは、とても不思議で面白い。明度の違いだと言ってしまえばそれまでだが、それを言い切ってしまわない所にこそ浪漫があるのではないだろうか。
そんなことを考えていると「今、変なこと言ってるって思ったでしょ」と先輩が体を寄せて顔を見上げて来るので「いえ、それは浪漫ってやつなのかなって」とつい言ってしまった……
もちろん「変な恭君っ」と先輩に言われてしまったことは言うまでもない。
◇
やがて、その時はやって来た。
誰がはじめたとも知れないカウントダウンの合唱がいつしか始まり、それがゼロを迎えた時、場の盛り上がりは最高潮に達し、場を埋め尽くす新年の歓喜に染まった。
実際、私と先輩も合唱に混じってカウントダウンをして「開けましておめでとうございます」と言い合った。
中門の開門がアナウンスされ、大きな門が開かれると、堰を切ったように人混みが列を乱して進み始める。不規則にうねる人の波に私と先輩は終始翻弄され、何度か手が離れそうになったが、その度に私が先輩を引き寄せてこれを凌いだ。そんなことも踏まえて、いつの間にか先輩は私の腕を抱きしめ体を寄せるようにして進むようになっていた。
「あのカメラ、行く年来る年かな?」
先輩が指さす先には、中門の端に組んだ足場の上に大きなテレビカメラが据えられてあった。
「行く年来る年って、今年の干支にちなんだところが映されるんじゃなかったでしたっけ?」
「そうなの?じゃあ、奈良テレビかなぁ」と少しがっかりしたように言う先輩。全国放送と地域ローカルとでは仕方がない。
思った通り、中門を過ぎた辺りから数名のガードマンが誘導を行っていたので、無軌道な混雑は解消され、スムーズにお参りを済ませることができた。後が支えているからと、願い事もそこそこに帰りの順路を進みかけて、先輩がやけに長く手を合わせていることに気が付いたので、私もそれに付き合って手を合わせなおしたりした。
中門から離れた出口から出て、中門を見やると、嫌になるほどの人混みだった。自分達もあの中に居たかと思うと吐き気すら催すほどである。
「ねぇ、2人で写真撮ろう」
帰りには林檎飴を先輩に買う事を決めていた私は、早々に林檎飴の出店を探していた。すると、先輩がそう言って私の袖を引っ張った。
「撮りますよ」
「2人でないと意味無いの」
そう言うことか……無神経なことをした。と頭を掻いていると、先輩が通りすがった老夫婦を呼び止めて、写真をお願いしていた。
旦那さんだろう、白髪の男性は難しい顔をしていたが、奥さんの方がのり気で、先輩が「初めてのデートなんです」と付け加えると、気前よく3枚も写真を撮ってくれた。
ふと思った、あんなに難しい顔をしている男と私が女であったから絶対に一緒になるようなことはしない。けれど、もしかしたら、家では奥さんに甘えっぱなしなのかもしれない。甘えないにしてもそれに準ずるものがあるはずだ、でなければ結婚などしないし、こうして幾星霜と連れ添うわけもない。そんな風に考えてみると、難しい顔を無理矢理作っているように思えてきて、つい私は口元を緩めてしまった。
「何が可笑しいの?」老夫婦にお礼を言ってから、携帯を操作していた先輩は1人でにやにやしていた私の顔を見上げながら不思議そうな表情でそう言うので、
「いえ、林檎飴を買いにいきましょう」と私は言う事にした。
「いいね林檎飴。おっきいの買おうよ!」
新年を迎え、厳かだった雰囲気が一変して明るく軽く、そして賑やかになった参詣道を私達は歩きはじめた。
「そうだ、恭君の携帯貸して」
林檎飴を買ってからすぐに先輩がそう言ってきたので、素直に携帯を渡した。「んー使い方が違うからなぁ」と何やら悪戦苦闘をしているようだったの「鯛焼き買ってきます」と先輩を残して鯛焼きを買いに行った。
「もう、置いていくのなし!吃驚したじゃない。急に居なくなるんだから」と口をとがらせて追い掛けて来た先輩に私は間髪入れず「はい、これ先輩のカスタード。ちゃんと行くときに言いましたよ。鯛焼き買って来ますって」と言うと「うそおぉ」と目を細める先輩だった。
「あっこれこれ、携帯返すね」
焼きたての鯛焼きを思い切り頭から囓って、口の中で頭を弄んでいる先輩を尻目に、私は何をしたのだろうかと携帯を見てみると待ち受け画面が先ほど撮った二人の写真に設定されたあった。
「もしかして、先輩の待ち受けもこの写真にしてるとか?」私は待ち受け画面を見せながら先輩に聞いた。
「初ペアルックってことで」としてやったりの先輩であった。
「年明け、春日大社にも行きませんか」
「いいけどどうして?」
「先輩の就職成就のお守りも買わないといけないし、まだおみくじ引いてないから」
「あぁ、就活がんばんないと。考えただけで鬱になる。おみくじで大凶とか引いたらどうしよう」
露骨に落ち込む先輩……
「俺に出来ること限定ですけど応援しますから。おみくじは大吉が出るまで引けばいいだけです」
神様なのであるからして、正月くらい、おみくじ運勢の上書きをこそっとしておいてくれるに違いない。
「うん。私がんばるよ。頑張って内定もらえたら、お祝いしてくれる?」
「もちろん、それは盛大にお祝いしましょう!」
「自信ないけど必死に頑張る。内定とってみせる!」
林檎飴を持った手を突き上げ、そう宣言する先輩を傍らに、私は今年も1年慌ただしい1年になることを予感して胸を高鳴らせた。
やはり、私はシリウスにはなれまい。誰かが傍に居てくれないと、すぐにダメになってしまう。誰かに光を当ててもらわなければ、一片も光ることができない。
そうだ。私は月で良い。いいや。月が良い。
つかず離れず美しい地球を見守ろうではないか。そして、地球を脅かす隕石が近づこうものなら、私が身を呈してこれを守りたいと思う。
私と言う男は臆病な上に無駄な肉もついていなければ筋肉もまた同じ。けれど、一生に一度くらいは、愛おしい人の為にこそ、花と散りたいと思うわけだ。もちろん、むざむざと散るつもりはない。
何度だってビックバンを起こして不死鳥の如く復活を遂げて見せようではないか!
○
光陰矢の如しと1年は瞬く間に過ぎてしまいました。特に、真梨子先輩と知り合ってからは過ぎゆく毎日がとても早く感じられました。とても楽しくて愉快で、きっと日々が輝いていたのでしょうね。明日が待ち遠しくて仕方がありませんでしたもの。
実家に帰省してからは独り暮らしの緊張感も緩み、家事の一切を母に甘えてしまっています。地元の友人と忘年会にも出かけたり、純然と遊びに行ったりもしました。けれど、それ以外は、寒さにかまけて炬燵の番をしているのが常でした。
洗濯に買い物、掃除も料理もしなくて良いと言うのはなんて幸せなことなのでしょうか!
特に何もせずに大晦日を迎え、友人と初詣に出掛ける約束の返信を書いていると、突然小春日さんから電話がかかって来たので出てみると、
「大変なの、私、古平君に先輩と夏目君が付き合いだしたって話したの。古平君も協力してくれたからいいよねって思って。そしたら、古平君、気に入らないってふて腐れちゃって、文芸部の部長さんにも教えちゃって……」
電話口の息づかいからも、ものすごく慌てて居ることはわかりました。わかりましたけれど……
「教えただけなら、大変じゃないと思いますけど?」その通りだと思います。
「古平君が言うには、今頃、夏目君のアパートを襲撃してるだろうって……」
「えっ!」私は思わず、炬燵から出て大きな声を出してしまいました。
「真梨子先輩に連絡したら、今夜、夏目君と初詣に行くって」
「そんなっ、もう7時を回ってますよ」
「約束は22時らしいんだけど……私、帰省しちゃってるのよ……」
「私も今実家です……」
「あっ!音無先輩ならまだ奈良にいるかも!年末年始は実家が忙しいから年明けゆっくり帰るって言ってたし」
「でも、音無先輩に頼んでもどうにもならないんじゃ……」
例え音無先輩にお願いをしたとしても、事態が好転するとは思えません。私は家族の目を気にして冷え込む廊下に出て小春日さんに呼びかけました。けれど、電話はすでに切れてしまっていたのです……
私はどうしたら……と考えました。考えに考え、とにかく夏目君に襲撃計画の旨を伝えることを考え至りました。
夏目君に電話をしようと思いましたが私は夏目君のメールアドレスしか知りません。確実に夏目君の電話番号を知っているのは……と玉響考えてから、台所へペンを取りに戻ってから、着信履歴から電話を掛けました。
「はい。どうかしたの?さっき小春ちゃんからも電話あったんだけど?」
先輩は外に居るのでしょうか、車の走行音が聞こえています。
「すみませんが、夏目君の電話番号を至急教えて欲しいんです」
事は急を告げています。ですから、不躾にも私の要件だけを押し通しました。
「うん。わかった、言うよ」少しの沈黙があってから先輩はさも当然と夏目君の電話番号を暗唱します。
私はそれを、手の甲に書き、さすがですねと感心しながら「ありがとうございます。必ずこの訳はお話しますから」と言葉少なく先輩に伝えると、先輩の返事を待たずに電話を切りました。事は急を告げているのです。私は先輩には後から謝ることにして、早速電話を掛けようとしたその時、知らない電話番号から着信がありました。
「はい」この忙しい時に!と思いながら出てみると、
「えっと葉山さんの携帯で良いのかな? 私、音無なんだけど」なんと音無先輩からだったのでとても驚きました。
「小春日さんから、全部聞いた。実はもう実家に帰ってるんだけど、車出せるからどこに行けばいいかな?」
「本当に良いんですか……そんな、大晦日なのに……」
「いいの、いいの、家に居たって手伝いさせられるだけだし。それに、夏目君や葉山さん達には甘美祭でお世話になったしね。夏目君をお姫様の所へ届けたげるよ」
「ありがとうございます本当に。先輩はどの辺を待ち合わせ場所にしたら都合が良いですか?」
私は免許をまだ持っていませんので、大学に入ってから一度も車で移動をしたことがありませんから、その辺りの感覚はまったくわかりません。
「うんとね、大宮駅のタクシー乗り場近くでどうかな?あそこで拾えれば奈良まで一本で行けるし」
「わかりました。場所は新大宮のタクシー乗り場で伝えます。時間的なものはどうですか」
「うーん。道路混んでなかったら9時くらいにはつけるけど……大晦日ってどうなんだろう」
「私にもわかりません……それなら、9時30分で夏目君に伝えておきます」
「あっうん。それなら確実に間に合うと思う!」
「すぐに夏目君に連絡します。すみませんが、よろしくお願いします」
「私が好きでするんだから、気にしないでね。私一度こういうのやって見たかったんだ、恋のキューピットみたいなの」
「じゃあねっ」
音無先輩ははしゃいだ声を残して電話を切りました。一方の私は依然としてドギマギの真っ直中です。クリスマスも2人で過ごせなかったのに、初詣まで邪魔をされてしまったとあっては真梨子先輩と夏目君があまりにも浮かばれないではないですか!
もうとっくの昔にキューピット役は終わったと思っていたと言うのに……私は、そんな事を考えながら夏目君に電話をしました。
「夏目君?葉山です」
確かに『通話』状態になっているのに、返事がなかなかなく。私は間違えてしまったのでしょうか?と手の甲に書かれた番号と画面に表示されている番号を確認しました。
「え、どうしたんですか」番号は間違っていませんでした。
「小春日さんから連絡があって、古平君が文芸部の部長さんに先輩との初詣を話してしまったみたいなんです。手遅れかもしれませんが、部長さん達は今夜夏目君の所へ襲撃に行くみたいなんです」
「え、あ、なんで、古平が」
夏目君は要領を得ないばかりか、酷く困惑している様子でした。無理もありません。自分の知らない所で話しが筒抜けて、思わぬ邪魔者に今夜を台無しにされようとしているのですから。
「音無さんが車で行基前まで送ってくれるそうなので、9時30分くらいに新大宮駅のタクシー乗り場に向かってください。夏目君。先輩を、真梨子先輩をよろしくお願いします」
捲し立てるように私は言いました。とても早口になってしまっていたと思います。
けれど、最初は大切なのです。最初のクリスマスを逃してしまった先輩の為にも、夏目君には何が何でも部長さん達の魔の手を掻い潜って音無さんの車に、真梨子先輩の元へたどり着いてほしい……出来ることなら、奇跡が起こって……願わくば、約束の時間までに辿り着いて欲しい……私は祈るように言いました。
「わかった。ありがとう」
私の願う気持ちがそう聞こえさせたのでしょうか、夏目君はとても精悍とした返事を返してくれました。全てを言わなくても『任せておけ』と語気にそう聞こえて来てしまうくらいに……
○
紅白に去年一昨年と出場していなかった、演歌の大御所が今年は出場しているらしく、祖母と祖父はその話題でとても盛り上がっていましたけれど、私は夏目君が約束の場所に到着できたのかどうかが気になってしまってそれどころではありません……それ以前に私はその大御所を知りません。
「夏美もすっかり携帯っ子になったね。そんなに見なくても、鳴るんでしょう?」
私が携帯をしきりに気にしているのを見ていた母が、お節料理の下準備を終え、炬燵に入りながら言いました。
「別に携帯っ子ってほどじゃないもん」母が言うのは正しいです。連絡があれば着信音が鳴ります。だから、いちいち画面を確認しなくてもいいのです……でも、気になるものは気になるのです!
母に携帯っ子と言われて、へそを曲げた私は携帯を炬燵の上に置くと、携帯を気にしながら紅白を見ていました。
液晶画面の中では男性ばかり6人のグループが歌っていました。
「夏美、これなんて言うアイドルグループか知ってる?」
「知らない。これアイドルなんだ」私はそう言う話題にまったく興味がありません。小春日さんにつっこまれて、ジャニーズがジャニーズと言うグループでないことを知った私ですから……
「6doorって言うのよ、知らないの?」信じられと言った風に母は言います。
「興味ないもん」興味がないのだから仕方がありません。
「6人とも名前に『戸』って入ってるんだって、それくらい知っときなさいよね」そんなどうでもいい情報を鼻高々と言われて反論出来ないのも、なぜか悔しい気持ちになります……当然、
「ワイドショーばっかり見てるから太るんじゃないのー」と嫌味の一つも言いたくなります。
炬燵の上にあった、三笠を取ろうとした手を止めて「何その言い方」と言った母は、伸ばした手をばつが悪いように引っ込めて炬燵の中に入れると「連絡待ってるの、男の子?」とあからさまに興味本位で聞いてきます。
「お節の準備はいいの?」その手の話題に捕まると、母はいつだって言うのです、
「私が夏美くらいの年にはもうボーイフレンドがいたけどねぇ」と……
「はいはい」アイドルグループの名前と同じくらいにどうでもいい情報です。
「大体、夏美は……」
母が続きを言おうとした時、携帯が鳴りました。私は母の話しを無視して、携帯をひったくると急いで廊下へ出たのです。
「ありゃ、奈良ん残してきた恋人やろ」お婆ちゃんがお母さんに言う声が聞こえました。ですが、それを否定しているだけの余裕がありません。
「葉山です。小春日さん、どうなったの……」
電話の相手はもちろん小春日さんです。音無さんから連絡あるかもと思っていたのですが、やはり小春日さんからでした。
「音無先輩に連絡したんだけど、夏目君間に合ったっぽいって」
「ぽいっ……?奈良駅まで送ってもらったんじゃないの?」
「それがね。道が大渋滞してて、間に合いそうにないからって、コンビニがある交差点あるじゃない?あそこで夏目君降りたんだって」
「あの交差点なら、奈良駅まで走れば5分もかからないよね……」
「うん。だから、大丈夫だと思うんだけど……もしも、逢えてなかったらどうしよう。私のせいだよ……先輩になんて言って謝ろう……」
「大丈夫。夏目君は真梨子先輩の為なら光の速さで歩ける人だから」我ながら意味不明なフォローだと思います……
ですが、私には底知れない自信がありました、電話口で聞いた夏目君の最後の言葉。根拠はありませんが、なぜか私には自信があったのです。
「確かに、夏目君は真梨子先輩の為なら何でも出来そうだけど、さすがに光の速さは……」
「えっと、とにかく、もう私達に出来ることは全部やったと思うから」
「うん、そうだよね。でももし……」
「もし、逢えなかったのなら、私も一緒に謝る。同じキューピットじゃない」
「ありがと。あぁ、逢えてる思うんだけどなぁ」
最後まで小春日さんは不安を拭いきれない様子でした。その気持ちは痛いほどわかります。自分の行いのせいで誰かの幸せを台無しにしてしまったとしたならば……考えるだけで胃がキリキリと痛みます……人事尽くして天命を待つ。意味合いとしては少々違いますが、遠地に住まう私にはもうどうすることもできないのです。
私は少し薄情なのかもしれないと後ろ髪を引かれつつも、初詣の準備しに自室へ戻り、上着とポーチを持って再び居間に戻って来ると、ポーチから試験勉強の時に見つけた読みかけの小説を取り出して炬燵に入って読み始めたのでした。
今年は紅組が勝利したようです。読み終えた小説を炬燵の上に置いた私は、コートに袖を通し、マフラーを巻いて出掛ける準備をしました。『行く年来る年』を少し見てから初詣に出発しようと思っていたからです。
炬燵の上に置いた小説……物語の結末から言うと破局的な展開で幕が降りました。私としては、大団円が好みでしたので、どうもお腹のところがスッキリしません。大団円でも終わる物語は読み終えた後に残る快哉の心地がほこほことして好きなのです。だから、破局的であったり、中途半端な終わり方は好みではありません……
そう言えば、私の恋のキューピット物語も、中途半端に年を跨いでしまいそうです。
新年まで後3分。こんな気持ちで新年を迎えるのは嫌だなぁ。と私は極力楽しいことを考えるように努力をして、初詣の帰りに、おっきな林檎飴を買って帰ろうと心に決めたのでした。
「あ、東大寺……」
『行く年来る年』に今年は東大寺が映し出されていました。丁度、中門が開門されようとしている所で、アングルから言えば中門の斜め上くらいから撮影しているのでしょうか?中門を通って参詣する様子が写るようになっているようです。
「あら、東大寺じゃない。あそこって干支関係あるの?」
「知らない。鹿年なんてないし……」行く年来る年は毎年、次の年の干支にちなんだ寺社仏閣から放送します。けれど、今年はなぜか東大寺からなのでした……
新年まであと1分。
『今年は耐震補強などを含めた大規模修繕作業が終わり、美しく生まれ変わった東大寺大仏殿から新年をお届け致します……』
「へぇ」奈良市内に住んで居ましたけれど、大規模改修をしていたのは知りませんでした。
「へぇって、あんた奈良に住んでるんでしょ」
「奈良に住んでたって、いつでも行けるから奈良公園とか東大寺とかあんまり行かないもん」その通りです。行こうと思えばいつでも行けてしまうので、つい足が遠きがちになってしまいます……
テレビではNHKのアナウンサーが東大寺の歴史を説明していました。けれど、参詣を待つ人達が一斉にカウントダウンをはじめると、忽ち画面が中門に切り替わりました。
やがてカウントがゼロを刻み『新年明けましておめでとうございます』アナウンサーがそう言う声に混じって、今夜一番の盛り上がりの声がカメラのマイクを通して盛大に聞こえていました。
「それじゃ、初詣行って来るね」
台所でお節料理を作っている母にそう行って私は部屋を出ようとしました。そして、携帯を炬燵の上に忘れていることに気が付いて取りに言った時に、私は見つけてしまったのです……参詣客の中に……中門を進む牛歩の人波の中に!
「あ……あぁっ!」私はあからさまに大きな声を出しました。そうです、出さずにはいられなかったのです。
「夏美どうしたんね、そげな大きな声出して」
立ち上がろうとしていた祖母が驚いて固まったまま私に言います。
「気にせんで!」私は、そう答えると、急いで廊下に飛び出しました。
逸る気持ちを抑えて携帯を操作します。こんな時に限って変な場所を触ってしまったりして、使ったこともないアプリが起動してみたりするのです。それでも、私の心は弾んでいました。大晦日を曇天気分で過ごし、そのまま新年を迎えました。けれど、けれど!明けて新年5分と立たずに、こんなに嬉々として友人に電話をかけられるのですから!今年の一年は良いことがあるに違いありません。たとえ、この後、おみくじで大凶を引いたとしても、忽ち大吉に変えてしまう自信さえもありましたもの。
「あっ、小春日さん。行く年来る年見た?」電話を掛けると、ワンコールで小春日さんが出ました。
「今電話かけようと思ってたとこ。見たよ見たよぉ~。ばっちり2人写ってた。間に合ったんだぁ。良かったぁ」今にも腰が抜けてしまいそうに小春日さんの声はふやけてしまっていました。あれだけ心配していましたから、喜びも一入でしょう。
「先輩ってば、腕にすがりついちゃって、もう。見てられなかったよ」
「それくらい良いじゃない。クリスマスの分もあるんだし」
行く年来る年の中継に果たして、夏目君と真梨子先輩が映し出された時は、本当に驚き過ぎて瞬間だけ呼吸を忘れてしまいました。仲睦まじく、夏目君の腕にしがみつく真梨子先輩は私の知る、真梨子先輩ではありませんでした。寂しがり屋でやっと好きな男の子とデートをすることが叶った女の子。もしかしたら、それこそが本当の真梨子先輩の姿なのかもしれませんね。
「キューピット成功だね」
「うん。キューピットって本当大変……もう懲り懲り」
本当にキューピットが終わった……小春日さんと頷きあってはじめてそう実感することができました。
「ねぇ、私、緊張し過ぎてお蕎麦吐きそうになったもん。あーでも私はまだキューピットしなきゃだから」
「えっ?誰の?」
私は、玄関でブーツに足をねじ込みながらそう聞きました。他に誰が居たでしょう?知り合いの顔を思い浮かべていました。思い当たるとしたら……音無先輩でしょうか?
小春日さんは少しの間、笑いをこらえるように、声を押し殺してから言いました……
「葉山 夏美ちゃんのっ」っと。
「えぇっ!」
私はわかりやすく狼狽してしまいます。何せ、思わずスマホを落としてしまいそうになったのですから!
上ずった私の声を聞いて小春日さんは今度こそ声を出して笑いました。
「もうっ!」
電話口で頬を膨らませる私でしたけれど、テレビで見た先輩と夏目君の姿を思い出すと、心の奥底から「よかったぁ」と思えたのでした。
果たして、私の物語は……いいえ、夏目君と真梨子先輩の物語は大団円にて、ひとまず終幕を終えることができました。
2人の物語はこれから先もまだまだ続きます。けれど、それは私が読むことを許された物語ではないと思うのです。
それはまた、他の誰かが綴る別の物語なのですから。
~おわり~