俺と熊野が軍の監視所に来て4週間。今は8月のはじめになったばかり。
世界の果てともいえるこの場所に本格的な夏がやってきた。
先週までは海からの風が涼しくもあったが、今では太陽の光は痛みを感じるだけだ。
たった1週間で結構変わってしまった。
そんな暑い日々を、それぞれ別な鎮守府から不幸な出来事で飛ばされてきた俺と熊野の2人は、監視の目もなく気楽に生きている。
とは言ってもこっちに来てからの仕事は業務日報を書き、非常時には電話するというだけだから仕事をやろうとしてもできないのだが。
仕事が少ないことは楽だがやることがないと精神がダメになってしまいそうだ。
けれど軍の仕事が少なくとも、生きるための仕事はある。
今の生活環境をさらに良くする、ということだ。
軍からの給料も補給物資も常に遅れてくるから、なおのこと自分たちでできることをやらないと死んでしまいそうだ。
だから俺は晴れていても涼しい朝の5時から畑に来て草取りをしている。服は動きやすいジャージに軍手だ。
畑の手入れをサボっているとすぐに雑草がもこもこと出てきて、あっという間に伸びてしまう。
毎日のように雑草を抜くのは面倒。
一時期、耕さず草も取らず肥料もやらないという自然農法をやろうとしていた。
でも熊野が『野菜はたくさん食べたいのですけど?』と言ったからそれはやめた。
自然農法というのは味がよくなるが、収穫量が少ないらしい。
……ここにきてから俺もずいぶんと農業知識がついたが、読書好きの熊野はさらに詳しくなった。
段々と食事に関して主導権を取られていくことを悲しく思いながらも、汗を流しつつ、しゃがんで手で雑草を抜いてく。
色々思うことはあるが、まずは目の前の仕事を片付けないといけない。
早く終わらせて朝飯でも食おうと集中しはじめたときに、家兼監視所となっている建物から扉が開く音が聞こえてくる。
その音に反応して振り向くと熊野の姿があった。
いつもならまだ寝ている時間なのに制服をしっかりと着て、ポニーテールの髪は俺が結んでないためにぼさぼさになっている。
杖を地面につき、視覚障害で目が見えない熊野は、目を閉じたまま立ち止まっている。
周囲の音を聞いてから俺へと顔を向けてきた。
「こんな朝早くからどうした」
「なんとなく目が覚めましたの」
熊野に近づき、表情を見るが体調が悪いようには見えない。
本当にきまぐれで起きてきたようだ。
「なにか手伝えることはないかしら?」
疲れるし汚れる畑仕事はあまりやらせないように考えていたが、そうまで言われると手伝ってもらいたくなる。ただ、今は雑草取りだけだから見えないとやりづらいだろう。
「ないな。だから戻っていろ」
「ではあなたのそばにいさせてくださいな?」
甘い声を出してくる熊野に、いつもなら理不尽なこと以外では俺の言うことを聞いてくれるが今日は違う。
無理に家へと帰そうとしたが、熊野にもなにか考えがあるかもしれない。
「そこで待っていてくれ」
すぐに家に入り、椅子と麦わら帽子にタオルを持ってくる。
日陰がある家の軒下に椅子を置くと、熊野の正面へ行って手を胸の前へと差し出す。
「熊野」
そう声をかけると、熊野の手が俺の前でさまよってから柔らかい手が俺の手を掴む。
「どこへ連れていってくれますの?」
楽しそうにいうその言葉に返事をせず、ゆっくりと椅子の前へと連れてくる。
熊野の手を俺から離し、椅子に触らせた。その瞬間に不機嫌になった熊野は持っていた杖で。コツンと俺を軽く叩いては椅子に深く腰掛けた。
次に麦わら帽子をかぶせ、タオルを手に持たせる。
「夏の朝を楽しんでくれ」
「……思い切り働いてくるといいですわ」
俺から離れることになり、座っているだけということが不満らしく低い声で文句を言ってくる。
麦わら帽子の上から頭をぐりぐり撫でると、ぺしぺしと何度も手を軽く叩いてくるのがなんとも可愛らしくて笑みがこぼれてしまう。
俺に触られた麦わら帽子の位置を細かく直す熊野を見たあとに俺は疲れる雑草取りを再開する。
―――ずっと草をむしっていて思うことがある。
自分が食べるために畑の世話をすること、人間関係を気にすることなく好きなことができること。
そして熊野とふたりっきりで静かだけど楽しい時間を過ごすことは、もしかしたら贅沢なことなんじゃないかって。
ここに来てから給料は下がったし上下水道も不便になったが、その不便さもいいかもしれない。
出世の道が閉ざされたから軍に気を使わなくてもいいし。
考え事をしながら黙々とやっていると汗がだらだらと流れていることに気付き、日陰の下にいる熊野の隣へと移動する。
「あちぃ……」
「お疲れさまです」
熊野が手探りで俺の顔へとタオルを押し付け、汗をぬぐってくれる。その優しい拭き方に心が癒された。
わずかずつ体が冷えてくるなか、畑をぼーっと眺めていると熊野が嬉しそうな声を出してくる。
「働いた男の人の汗というのはいいものですわね」
「そういうものかね」
「ええ。特にわたくしのためにというのが」
「おい」
小さく声をあげて笑う熊野に釣られ、俺も声を出して笑ってしまう。
それからは熊野とこれからの畑をどうするか会話をした。
途中、会話が楽しくて水を飲みたくなるのを我慢していたがどうやって気付いたのか、熊野に怒られて一緒に家へ入る。
そのあとは井戸から汲んだ水で体を洗い、熊野が作ってくれた朝食を一緒に食べた。
◇
朝食を食べたあとは家の中で一歩も外を出ずに点字や視覚障害について勉強をし、のんびりと過ごしていた。
そのあとに熊野が『今日は月が見たい気分ですの』と言ってきたので夜に行く約束をした。
風景を見ることができない熊野が『見たい』というのは時々あり、大体の場合は気分転換に行きたいという意味だ。
照れ隠しなのか、そういう言い方が好きなのかはわからない。
そして月が出ている夜となった今。
砂浜から見上げる空は雲はほとんどない。
まんまるに近い月が夜空に浮かんで柔らかい月明かりが降り注いできて、海からはざざーんという心地よい波音と風がよく聞こえてくる。
杖を持った熊野は俺より先に歩き、砂浜をぐるぐると歩きまわってはお気に入りの場所を探している。
俺はというと、ふたりぶんの毛布を持って熊野の後ろをついていく。
「ここにしましょうか」
「おう」
海から少し離れた場所に座った熊野へ毛布を手渡し、人がひとり入れるほどの距離を置いて俺も座る。
お互い毛布に包まり、寒い海風が吹くなかで見るのは月だ。でも寒いものは寒い。
服装は昼間に着ていたジャージから、熊野に軍服に着替えて欲しいと言われたとおりにしている。
なぜそんなことを言ったのか、教えてはくれなかった。
そのうちに熊野が言ってくれるだろうと思って静かに月を眺めている。
10分ぐらいしたときだ。
熊野が毛布に包まったまま、俺のすぐ隣にやってきて体を密着させてくる。
「寒いのか?」
「提督、そこは何も言わずに優しくするのが男のたしなみですわよ?」
そう言われるも、恋人でもないのに下手に優しくすると嫌われると思って遠慮していたというのに。
そもそもこの場合の"優しくする"というのはどうすればいいのだろうか。
考えても何も思いつかず、そのままでいると熊野の体が寒さで震えているのがわかる。
帰ろうというのは熊野が言う優しさにはあたらず、帰ろうと言ってこないことからまだ月が見ていたいと感じる。
足を開き、体に巻いていた毛布を外す。
「熊野、おいで」
優しく声をかけると、熊野は俺に体を向けて手で体や足を触ってくる。
足を開いているということがわかると、ゆっくりと足の間へと入ってきて背中全体を預けてきた。
くっついている俺たちに熊野と俺の毛布で体に巻きつけ、毛布のなかで熊野の体に手をまわして抱き締めるような形になる。
暖まりはじめた熊野と俺はまた静かに月と海を眺める。
ほんのりと熊野の髪の匂いを感じてきたとき、ふと気付く。
今日の熊野はやけに甘えてくることに。
昨日か今日になにかあったかな、と考え事をしていると熊野が声をかけてきた。
「怖くなりましたの」
前を見ている熊野から寂しさを感じる声が。
「敵も来ないし静かなところじゃないか。不便すぎる生活だけど、それが楽しくもあると俺は思っているよ」
「おだやかに日々を過ごし、信頼できる提督がいるのは素晴らしいことです。けど、幸せ過ぎるのです」
熊野は俺の手に自分の手をあて、そっと優しく撫でてくる。
「今の生活が終わることを考えてしまったとき、怖くなったんです。また邪魔な艦娘として扱われるんじゃないかって。目が見えない以外は普通の艦娘で、やめることもできないのですから」
落ち込んでいる熊野に優しい言葉をかけてあげたい。
けれど、どういうことを言えばいいのだろうか?
いくつもの言葉をかけようとも熊野が考えている怖さをやわらげることすらも難しい。
『いざとなったら俺がお前をもらいうける!』というかっこいいこともできない。
嘘をついてもいいとも思うが、俺はそれをしたくはない。
「月を見たいと言ってたよな。あれは今していることを期待してか?」
「それもありますけど……。こうでもしないと提督とくっつくことができないのですけど」
俺へと顔を少し向け、頬は月明かりでもわかるほど赤くなっている。
俺にとって守るべき存在であり大事にする必要がある艦娘の前に、1人の女の子だ。ここに来てからの俺は対等の関係を望んでいる。
1度熊野の甘えを受けてしまうと、もう戻れなくなりそうだ。そうしたらこの関係が崩れてしまいそうで。
熊野が今の生活がなくなることを怖がっているが、俺も怖いことがある。
それは熊野に嫌われることと、失うことだ。今まで一緒に暮らしてきて、お互いに大事な存在となりつつある。相手を頼り、自分が生きている意味を相手に見出す。
暖かい毛布を体から離し、もたれかかっている熊野を転ばさないようにゆっくりと立ち上がる。
「熊野と仲良くしたいとは思っているよ」
「そう、ですか」
落ち込んだ声を聞くと罪悪感で胸がいっぱいになってくる。今すぐにでも甘やかしたい。
だが我慢しなければいけない。俺と熊野のために。
そう誓ったばかりなのに、寂しげな背中を見ると心が揺らぐ。
「友達という扱いじゃダメか?」
「それってどういうことですの?」
不思議そうに顔を向けてくる。俺は何度か深く息をつき、説明をしようとするが口が開かない。杖と毛布を持つように言い、困惑しながらも言うとおりにしてくれた熊野の前に膝をつく。
そして膝と背中に手をあててお姫様抱っこをする。
何も言わずに突然抱きあげられた熊野は可愛い悲鳴をあげるが無視して歩き始める。
「わかったか?」
「なにがです!?」
「友達に会いに行くのは悪いことだと思うか?」
その一言を聞いて少しあとに俺の言いたいことを理解してくれたのか、幸せそうな笑みを浮かべてくれる。
俺が言いたいのはこうだ。
上司と部下という関係だが、友達になってしまえば話は簡単になる。
たとえ離れることになっても友達なら会いにいけるし、堂々と触れあうこともできる。
もしかしたら俺がわがままを言って引き取ることができるかもしれない。
それと艦娘と友達になるとはっきり言えば、物珍しさに協力してくれる人が出てくるだろう。
大部分は楽観的希望。嘘に近い。
だけれど熊野は俺の言葉を信じてくれる。
俺の胸に感じる熊野の柔らかな感触と暖かい体温。すぐそばにあるというのが答えなのかもしれない。