半分の月が昇る夜空のしたで、夜の見回りを終えた俺は監視所兼住居へと戻ってきた。
海から吹いてくる風が夏だというのに肌寒さを感じる。
制服の上に着ている薄いジャンバーはやはり手放せないなと服の偉大さを実感しながら、持っていた懐中電灯の明かりを消して扉を開ける。
部屋には明るい電気の照明がついていて、ソファーでは制服姿の熊野がいて本を読んでいる途中だった。
「おかえりなさい」
「ただいま」
本を持った姿勢のまま、俺が扉を開ける前から振り向いていた熊野と夜の挨拶を交わす。
こういうやりとりをするたびに、今日も仕事が終わったという充実感がある。
信頼できる人がいて、帰りを待っていてくれるというのはなんだか落ち着くものだ。
「寒い中、お疲れさまでした。温かいコーヒーを飲みますか?」
「頼むよ」
読んでいた本をテーブルに置いて熊野が立ちあがると、台所へと歩いていく。
入れ替わりに俺はソファーに深く座り、懐中電灯と着ていたジャンバーをテーブルの上へ投げるように置く。
深い息をついて、今日の仕事も終わったと一安心する。
けど、こんな見回りだけでいいのかと今の仕事に少しの疑問を持つ。
もっとも他にできることはないし、見回りも重要な仕事だ。
勝手に落ち込みはじめる思考を振り払い、台所にいる熊野のうしろ姿を心配しながら眺める。
なぜなら熊野はコーヒーを1杯作るのを苦労しているからだ。
目が見えないと水の量もうまく淹れられないし、お湯がはねたときに驚いてヤカンを落としたこともある。
だから俺はすぐにでも飛んでいけるような心構えをする。
熊野は俺の心配を知らずに気分良さげに棚から計量カップを取り出し、いっぱいに水を入れる。
普段から同じ場所に置いてあるガスコンロへと手を伸ばしてヤカンの位置を確認すると、水を入れて火をつける。
この時点で俺はもう緊張で苦しくなっている。
熊野を信頼していないわけじゃない。怪我がしないかと心配だ。熊野が怪我しないならヤカンでも計量カップでも壊していいと思うほどに。
お湯が沸くのを待つあいだ、視線に気づいたのか俺へと振り向いて熊野が困ったように微笑む。
「そんなに心配なさらないでください」
「怪我はしないでくれよ?」
「今日こそはできる気がしまして」
失敗せずにコーヒーを淹れてくれたことは1度もない。
不安しか感じないセリフを聞いて、すぐそばで見守りたいがそうしてしまうと熊野の成長を止めてしまう。
とても苦しい思いで熊野から視線をはがし、目をつむる。
―――聞こえてくる音は虫の声。
外で見回りをしていたときは虫の声が聞こえていたのに、戻ってからはそんな音を感じる余裕がないほど緊張していたことに気付く。
その音を聞きながら心を落ち着けていると、熊野がドリップ式コーヒーのパックを探してマグカップに設置する音が聞こえた。
少し時間が経ち、お湯が沸く音が聞こえはじめる。
目を開けておそるおそる熊野を見ると、手にミトンをはめてお湯が沸くタイミングを待っていた。
難しい顔をし、いつヤカンを取ろうかとしているのを見るとつい笑みが出てきてしまう。
今は集中しているためか、俺の生暖かい視線を気づかずにヤカンを取るとマグカップの上へと持っていく。
慎重にペーパードリップへとお湯をちょろっと注ぎ、それがしっかり入ったのを音で確認したあとにもう少し入れて蒸らす。
片手をマグカップにあて、ヤカンを傾けてゆっくりとお湯を入れていく。
溜まっていくコーヒーの温度を、手で感じることで入っている量を確認しているみたいだ。
慎重に入れる作業が終わるとヤカンをコンロの上に置き、ペーパードリップを外してゴミ箱へ捨てる。
コーヒーを淹れる作業が終わると、熊野はやりきったという表情と共に大きく息をつく。
それを眺めていた俺も大きく息をついて安心する。
いつのまにか俺までが緊張していたらしい。こういう気持ちは、親が子供を見守るような気分なんだろうか?
あとは俺のところまで持ってくるだけだから、もう安心してもいいだろう。
熊野を見ているとまた怒られるだろうからテーブルの上に置いてあるものをどけて座っているのと反対側のソファーに置き、天井を見上げてやってくるのを待つ。
普段よりも慎重な足取りで熊野がやってくる。
「提督、テーブルの上を片付けて欲しいのですけど」
「もう終わった」
「あら、それはありがとうございます」
感謝の言葉を言うのなら、むしろ俺のほうだと言いたいがゆっくりとテーブルの上にマグカップを置こうとする熊野を見て、喋るのをやめる。
ことり、とマグカップが置かれる音がすると熊野は俺へと手を伸ばしてくる。
そのまま待っていると俺の体に触れ、そのまま体をくっつけて隣に座ってきた。
熊野は俺に顔を向けると、とても満足そうな顔をしている。
「この熊野、コーヒーをしっかりと淹れることができましたわ!」
「声がうるさい」
初めて成功したコーヒーでテンションが上がっている熊野に文句を言いつつ、マグカップを手に持ってコーヒーを口の中で転がすようにして飲む。
隣にいる熊野から緊張の気配がするのを感じながら、入っている量が少ないコーヒーを口の中でじっくりと味わって俺は感想を言う。
「苦すぎる」
「そこは『とてもおいしいよ』とか『さすが熊野だな』というシーンではありません?」
「正直な男が嫌いなのか、お前は」
そう返事をしてマグカップをテーブルに置くと、熊野は俺の太ももを軽くパシパシと何度も拗ねたように叩いてくる。
しばらく放っておいて、おとなしくなったあとにコーヒーを飲んでいく。
「次もまたコーヒーを淹れてくれ」
「……おいしくなくても?」
「おいしくなるまで俺は熊野のコーヒーを飲むよ。おいしくなっても飲むけどね」
空になったマグカップを熊野の手に持たせ、頭がすっきりしたことでシャワーを浴びる前にもう一仕事をしようというやる気が出てくる。
◇
2階に行き、昼間に町へ行ったときに古書店のじっちゃんからもらった銃を手にする。
理由は俺が気にいったと言っていたが他にもなにかありそうな気がしたが、疑問を頭の片隅に追いやって細長い袋に入った銃と汚れ拭き用のタオルを持って1階に下りていく。
マグカップを片付け終わった熊野はさっきと同じ位置に座っていて、そこから距離をちょっとあけて隣へと座る。
テーブルに銃を置き、袋を開けるとそこには古びた銃が1丁と8発の弾があった。
「それはなんですの?」
「昔の銃。古書店のじっちゃんがくれるっていうから喜んでもらったんだよ」
「ああ、あのおじいさまですか」
じっちゃんから説明を受けたときに、銃は昔に狩猟のために使っていたものだという。
その銃は13年式村田銃という単発ボルトアクションを猟銃に改造した、30番(12.3mm)の弾薬仕様のものという説明を受けた。
隣を見ると、熊野が興味を持っているらしくそわそわと落ち着きがない。
俺は金属薬莢の弾をひとつ取り、タオルでしっかりと磨く。
「手を出して。弾を渡すから」
汚れがないのを確認し、俺の体へ嬉しそうにくっついてききた熊野の手に弾を置く。
熊野は弾を手の上で転がし、想像していたのより弾が大きかったらしくて興味深げに触っている。
俺は銃を手に取って状態を確認する。
思っていたよりも綺麗で表面にはヒビや傷、汚れが少ない。
丁寧に手入れをしていたのがわかる。こんなにも大事にしていた銃を俺に渡すなんて、本当にどういう理由だったんだろうか。
「大事にされているこの銃を、なんで俺なんかにくれたんだろうな」
熊野は手で転がしていた弾をテーブルの上に置き、あごに人差し指をあてて考える。
「……あのおじいさまはおひとりで暮らしていましたか」
「87歳なのに良く働いて、頑固で義理人情に厚いって居酒屋のおっちゃんたちが言ってたな」
「食堂のおばさまたちから話を聞いたことがあります。妻は先にお亡くなりになり、遠くで暮らしている子供たちとも仲が良くないと」
俺と熊野が聞いてきた話を合わせると、俺に銃をあげる理由が足りない。
この銃はよく手入れされている。ボルトアクションの部分はやや動かしづらいが、全体的に綺麗な状態だ。
「銃をくれたとき、父親からもらって自分も使っていたって言っていたな」
「それは大事にしないといけませんね」
熊野は弾をテーブルに置き、銃に興味があるらしく俺へと両手を差しだしてくる。その手に俺はゆっくりと銃を渡す。
「重いぞ」
熊野は銃を受け取ると、愛おしそうに撫でていく。
「ずいぶんと古いですが大事にしているのがわかります」
「でもさすがにもう使えないって言ってた。銃身の内側は錆が出ているし、部品も弾薬も今では手に入らないって」
親子2代にわたって使い続けた銃。
今ではもう使えないが、それを俺に渡した理由を考える。
単純に処分に困って俺へと渡したという可能性もあるが、俺が受け取ったときはとても晴れやかな顔をしていた。
あのじっちゃんとは話をしたり、将棋を教えてもらったり、時々は店で買い物をしたぐらいだ。日曜大工もしたかな。
寂しさをまぎらわせてくれた、息子のように思ったという理由であげたのだろうか。
「提督」
「あー、なんだ?」
「提督の考えていることはきっと間違っていると思います」
口に出していないのに、熊野は俺の考えを違うと言っている。
なら、他になにがあるというのだろう?
続きの言葉を待っていると、熊野は俺に銃を返してきたのでそれを受け取り、もう1度銃を眺める。
「提督はあのおじいさまと仲がよろしかったですわよね?」
「あのじっちゃんといるときは楽しかったな。行くたびに歓迎されて茶も出してもらったり」
バカ話をしてくるときを思い出すと、自然と笑みが浮かんできてしまう。
「人に物を送るときはどのような感情がつくのでしょうか?」
熊野に言われて考える。
嫌がらせ、自分を気にいってもらいたい、機嫌をよくしてもらいたい、自分と同じ趣味を知ってもらいたい。他にもあるがどれも違う気がする。
じっちゃんが俺にくれた時のあの表情はなんだった?
過去を懐かしむような、孫を見るような優しい目。あれは俺が喜ぶ姿を見たかったのだろうか。
唸り声をあげて悩んでいると、熊野があきれたため息をついてくる。
「あなたはいつも難しく考えすぎです。あのおじいさまは自分という存在を覚えてもらいたかったということもあります。むしろ、わたくしにはそれしか感じません」
「そこまで断言できるのか?」
「はい。おじいさまも、その父親も使っていた大事なものです。銃という物や金銭的価値よりも重要なのは意思です。代々使ってきたという意味はどういうものでしょうか?」
それは家族の絆、または信頼。
熊野に言われて納得する。
じっちゃんは俺を信頼してくれたのだ。
まだこの場所に来てから1カ月ちょっとした経ってない俺のことを。
「言いたいことは言葉で言えばいいのにな」
「言葉よりも、時にはそこに在るだけで何百何千の言葉の代わりになることもあります」
そういう考え方ものあるのか。今度じっちゃんに会ったらなんでくれたのか、と聞こうとしていたがそれはあまりいいことではないかもしれない。
しかし、熊野はよく考えている。
読書好きでゲーテや哲学書を好んでいるということもあるからか。
俺がずれている考えをしているときにはこうやって助言をしてくれる。熊野の存在は、言葉がなくてもそこにいるだけで俺は心が落ち着く。
……ついさっき熊野が言っていたことを思い出す。
物がそこにあるだけで言葉の代わりになるというのなら、すぐ隣に大事な人がいるというのはどういうことになるのだろうか。
でもそれをちょっと考えただけでやめる。
すべての行動、意味を理解しようとするのはつまらない。
考え続けるということが大切なのではと思い、隣に熊野がいることはもしかしなくてもと幸せなのかと感じる。
こんな女の子は、外見も性格も素敵すぎて俺にはもったいないぐらいだ。
コーヒーの描写に不安が。
連載を続けるという大変さを実感し、続けている人を尊敬する。
次は閑話。違う提督が耳が聞こえない鈴谷と出会う話。