熊野と世界の果てで   作:あーふぁ

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世界の果てで熊野と過ごした2カ月

 8月があっというまに終わり、まだ暑さが続く9月がはじまった。

 昼間から気温がほとんど変わらない今は、夕日がまぶしい夕方の午後5時。

 監視所の1階に入ってくる夕日の光は肌をちりちりと焼くかのように暑い。

 外から聞こえてくるセミの鳴き声のおかげで暑さが加算された気もし、やる気が低いのが常態化しているこの頃。

 窓を全開にして入ってくる空気は弱くて生ぬるく、肌に汗が湧き出てくるのを止めることができない。

 着ている服は下はいつもの制服だが、上は黒のTシャツを1枚に汗拭き用のタオルを首に巻いているだけ。

 暑さに耐えつつ机に向かってやっているのは熊野に関する書類。

 熊野専用艤装に関連するもの、視覚障害の戦闘運用についての意見、視覚障害者である艦娘と暮らしての日々の感想などが書くことが多くて苦労している。

 4日前に摩耶から渡されたたくさんの書類を書きつづけ、あともうちょっとで終わりそうだ。俺の手伝いができないからと、ひとりで町へと遊びにいった摩耶には多少の恨みがある。

 ひとり黙々と書類を続けるのは前にいた鎮守府以来で懐かしさを感じる。嫌なことがあってここにきたが、あの頃の楽しかった日々もまだ覚えている。

 はじめはこんな田舎でどうなるかと思ったが、熊野がいたおかげで自暴自棄にもならずに住んでいる。

 開いた窓から制服姿の熊野が畑に水やりをしている姿が見える。

 熊野を目にするだけで心が落ち着くのは楽しそうに水やりをしていのもあるけれど、今まで会話をしてきて信頼できることがわかっているからだと思う。

 文字ばかり眺めていた心が癒えたところで視線を書類へと戻し、熊野と暮らしての感想をいかに素晴らしい女性かということを書き始める。

 小説のような文章を軍にあげる書類として熱心に書いていると、水やりを終えた熊野が杖を使って戻ってきた。

 仕事をしている俺に向かって歩いてくる熊野の顔からは、額から顎へと汗が流れ、ポタポタと床に落ちていく。

 俺はすぐに立ちあがり、暑さで疲れている熊野の汗を拭おうと自分の首に巻いてあるタオルに手をかけた。

 だが、すぐにそれは汚すぎると気付くことができ、暑さで鈍っている自分の思考に腹が立つ。

 なにか拭くものはないかとあたりを見回し、綺麗な布はないため大急ぎで2階へ行って綺麗なタオルを取ってくる。

 まだ机の前に立っている熊野の後ろに来て、荒い息を少し整える。

「熊野、汗を拭くからこっち向いてくれ」

 振り向いてくれた熊野は不思議そうな顔になっていた。

「渡していただければ自分でできますけど」

「俺がやりたい気分なんだ」

「ではお願いしますわ」

 俺は熊野の顔にそっとタオルを当て、優しく顔全体をタオルで拭いていく。

 汗から花のような匂いがする気がして、鼻を顔へと近づける。

「あの、くすぐったいのですけど」

「悪い。熊野からいい匂いがしたものだから」

「汗臭いわたくしを喜ばせようとしなくてもいいですわ」

 本当なんだけれどなぁ、と言っても信じてもらえないのでこの言葉は心の中にしまっておく。

 顔の汗を丁寧に拭き終わり、次に首筋と両手を拭いて終わる。

 そうして全部が終わり、1歩下がると熊野が服をまくりあげた。

 服の下には汗ばんでいるけれど綺麗な白い肌のお腹と、おしゃれな白いブラが見えてしまったので急いで熊野の手を掴み、下へと降ろす。

「そこは自分でやって……そうだ、シャワーを浴びたほうがいい」

「提督がお仕事を続けているのに、ひとりだけ休むのは気分が悪くなります」 

 突然に服を下げられたことに驚きもせず、からかわれたのだと気付くが俺のことを気遣ってくれるのは嬉しくなる。

 熊野の手にタオルを握らせ、俺は机へと戻る。

「2階で汗を拭いてきますわ。こっそりとなら覗いてもいいですわよ?」

「お色気たっぷりな体に成長したら覗かせもらうよ」

 熊野は「残念」とつまらなそうに言って階段をあがって、2階へといった。

 自分ひとりだけになり、慌ただしかった時間に深く息をついて緊張した気分を落ち着ける。

 距離が近いのはいいけれど、近すぎると熊野はもはや性別を気にしなくなるのかと悩む。

 熊野に手を出す気はまったくないが、あれだけ無防備な姿を普段からしていると俺以外の男がいたときに危ない目にあってしまうかもしれない。

 どうやって納得してもらえるかをあとで考えることにし、今は熊野小説となり始めた書類を書き続ける。

 ―――それから熱心に書き続け、夕日が落ちてなくなり月が昇ろうとするころに熊野は戻ってきた。

 先ほどとは違って予備の制服を着ていて、汗ばんでいる肌はなくなっていた。

「提督、コーヒーは飲みますか?」

 それを聞いて考える。

 熊野が作るコーヒーは手間がかかり、ドリップ式やサイフォンなどの様々な道具を試すことが多い。それらは熊野にとって難しく、時間もかかる。それにおいしくできることはそんなに多くない。

 悩んでいる俺の態度がわかったのか、拗ねた様子で棚から瓶に入ったインスタントコーヒーを取り出して見せてくる。

「ホットでお願いするよ」

 コーヒーの作り方にこだわりがある熊野は、俺が愛用しているインスタントはそれほど好みじゃない。それでもインスタントを使ってくれるのは俺が忙しく、疲れていることを理解してくれているからだと思う。

 インスタントコーヒーは手軽にでき、安い早いうまいと三拍子だ。

 ホットならコールドと違って冷やす手間もなくなるし、より簡単安全になる。

 熊野が作ったコーヒーができあがり、手渡しされたマグカップを手に取って口の中にちょっとだけ入れる。

 そのコーヒーの味は苦かった。

 目で判断できず、お湯の入れる量はカップに手をあてて温度の変化によって把握している熊野だ。

 だから熊野のコーヒーは毎回味が違う。

 苦かったり薄かったり、時にはちょうどいいこともある。

 うまいコーヒーを飲みたいだけなら自分でやればいいだけだが、熊野にやってもらうということが大事だ。淹れてもらうことを俺は楽しんでいる。

 熊野から楽しげに『コーヒーを飲みますか?』と聞かれて断ったら、きっと寂しそうな表情になってしまって俺は物凄く後悔するに違いない。

 その1回の選択で熊野とここで暮らすのんびりとした幸せな時間は崩れてしまいそうな幻想を感じてしまう。

 少量のコーヒーで様々な考え事に頭が満たされ、熊野が淹れてくれた想いを感じながらコーヒーを飲んでいく。

 苦い味のコーヒーはだらけた意識を刺激してくれる。

「それでお仕事のほうは終わりましたか?」

「もう1度書類全部を確認して終わりだよ」

「お疲れさまでした」

 腰を深く曲げ、お礼をする姿に動揺するが顔をあげた熊野は俺の動揺を気にすることなく台所へと戻っていった。

 初めてあそこまでされ、驚くのも無理はないと自分の乱れた心を落ち着かせていく。

 俺がやっている書類はすべて熊野ひとりのためのものだ。だからああやって、礼をしてくれたんだろう。

 そうでないと、熊野がここからいなくなるんじゃないかという考えが出てきてしまう。

 いずれかは俺と熊野が離れるときが来るだろうけど、まだそれほどすぐではないはず。

 障害を持ち、戦えなくなった艦娘たちを再戦力化しようとしている軍の動きはまだ鈍い。

 軍やメディアの伝える情報を信じるならば、戦線は安定している。

 だから、これからもきっと大丈夫だ。

 自分でも根拠に乏しいことを信じたくなるほど、俺はこの場所での熊野との生活を楽しんでいる。

「摩耶さんにもコーヒーを持っていきますわ」

 暗くなった室内に照明のスイッチを入れ、マグカップに入ったコーヒーを持って熊野は外へと出ていく。

 摩耶は昼飯を一緒に食べてからは会ってなく、テントのなかでなにかをやっているようだ。

 自分は熊野に頼りすぎなんじゃないか、と弱気になるがそんなことを考えるよりも今は書類を片付けるべきだ。

 終わった書類をじっくりと1枚1枚確認し始めると、部屋に熊野とジャージ姿の摩耶が入ってくる。

 摩耶は湯気の立っているマグカップを持ちながら、俺の机の前へとやってきて確認している書類を覗き込んでくる。

「提督がやっている書類は確認だけで終わるって熊野から聞いたんだけど?」

「ああ、真面目に軍人している気分になったよ」

「そっか。じゃあ、あたしは荷物まとめてくるか!」

 その言葉が理解できず、意味を聞こうとして書類から顔を上げると摩耶は熱いコーヒーを一気に飲み干してマグカップを机の上に置く。

 そうしてから早足で外へと出て行った。

「……熊野、あれはどう解釈すればいい?」

 摩耶が置いたカップを手に持って片付けようとした熊野に聞くが、熊野は首を横に振る。

「書類が終わるなら、出番はもうすぐだって言っていましたけど」

 自分なりに言葉を理解するなら、単にできた書類を自分の手で持っていき、報告も上司にするということだろうか。

 だからといって、今から準備して出ていくのは相当に慌ただしい。

「よくわからないが、腹が減ったな。熊野、夕食を作ってくれるかい?」

「はい、いますぐに」

 今の幸せがちょっとずつ崩れていく気配がしながらも、熊野の笑顔に俺は心から安心した。

 

 ◇

 

 日が落ち、夜になった頃には3人ぶんの料理ができあがり、俺の仕事もすべて終わった。

 手が空いたのでテーブルに食器を並べたり料理を運んでいると、きちんと制服を着て背中にリュックサックを背負った摩耶がやってくる。

「書類をもらいに来たぞ」

「今から帰るのか?」

 すっかり出かける準備が出来ている摩耶に聞くと、摩耶の顔はどことなくにやけている。向こうにいる自分の提督がよっぽど嬉しいみたいだ。

「できあがったらすぐに戻って来いって、うちの提督に言われてたからな。今は大変な時期だからって」

 俺がさっきまで使っていた机に置いてある書類を手に持ち、一通り確認するとリュックサックへと入れていく。

 テーブルに置いてある料理、焼いたサンマを箸で素早く解体して骨を外すと、手でひょいっと持ち上げて1尾まるごとを口に入れていく。

 それをもぐもぐと口の中で噛みながら、監視所兼住居であるこの建物をじっくりと見てまわっている。

「摩耶さんはどうかしたのですか?」

「俺の書類が終わったから、帰るみたいだ。今すぐに」

「わたくしの艤装改修案だけでそんな忙しそうにするなんて。……戦争の足音が聞こえてきそうですわね」

 こんな辺鄙なところの場所でも、軍人として関わっているからずっと平和に過ごすなんことはできない。

 予想より早いとか遅いなんて感情はなく、ただ受け止めるだけだ。

 戦力として前線から外された熊野が、必要となる状況になりつつある。

 俺が空中聴音機に関する書類を頼んだときに、摩耶も一緒にやってきた時点で戦うことがある可能性は高まっていた。

 そして、今。

 書類が完成したら戻ってこい、と前もって指示されていたことは急いでいることがわかる。

 そんなに急ぐのは大規模攻勢をするか、または劣勢な状況のどちらかだ。

 俺のところへ戻ってきた摩耶は、口の中のサンマを食べ終えていて、自分の手を服で拭いてから俺に手を差し出してくる。

「世話になったな」

「来るときもいなくなるときも急だな」

 手を差し出すと、思っていた以上に強い力で手を握ってきて摩耶の目からは寂しさを感じる。

 続いて熊野にも同じように握手をし、何も言わずに外へ出ていく。

 俺は熊野を連れ、一緒に摩耶を見送る。

 暗くなった外は中からの明かりでテントが片付けられているのがわかり、テントと他の荷物はブルーシートをかぶせて固定されており、建物の壁に寄せられていた。

「すぐに戻ってくるから、荷物はそのままにしておいてくれよ。それじゃな!」

 摩耶は明るい言葉でそう言い、電灯片手に暗闇の中を歩いて去っていく。

 その後ろ姿に向けて、熊野は悲しげに手を振っている。

 摩耶といた時間は短いものだったが、2度と会えないわけではない。

 楽しく穏やかな日がずっと続けばいいと思う。

 でも変わらなければいけない時が、少しずつ音も出さずに俺たちに近寄ってくるのを感じた。


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