熊野と世界の果てで   作:あーふぁ

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世界の果てから熊野がいなくなった日

 摩耶がいなくなって1週間と2日が経った。

 賑やかな人がいなくなると、以前と同じように俺と熊野はふたりで静かに雨の日を過ごしている。

 昼前にぱらぱらと降り始めた雨は、午後2時である今では半分ほど開けた窓から雨音が歌声のように建物の屋根や地面をリズムよく叩きつけている。

 雨のおかげで気温は下がり、湿度があがって少し空気がべたつく感じがするも制服を着ていても過ごしやすくなっている。

 俺と熊野は特にやることもなく、外に出ることも書類を書くのも筋トレをする用事もなくて暇な日だ。

 こういう日には掃除や片付けをする気もなく、ソファーに座っている熊野に膝枕をしてもらいつつ頭を撫でてもらう無為な時間を過ごしているだけ。

 制服を着ている熊野だけど、スカートで隠し切れてない太ももが柔らかく暖かい。その上で膝枕をしてもらっていると幸せな気分が心を満たしてくれる。

 意識が睡魔に負けて目を閉じてしまいそうに。

 そんなときに熊野が撫でる手を止め、顔を窓へと向けた。

「……どうした?」

「車のエンジン音が聞こえます。軍のトラックがここに来るようですわ」

 熊野の手を優しく除け、体を起こして外へと耳を傾ける。

 雨音に混じり、エンジン音と水たまりを跳ねる音が段々と近づいてくるのが聞こえてくる。

 今日はいつもの補給に来るトラックの予定はなく、摩耶が帰ってきたかもしれない。

 嬉しくなる気持ちと共に俺が立ちあがると熊野も杖を持って立ちあがり、一緒に外へ行く。

 軒下から道路の奥を見ると、車のヘッドライトが先に見えて次にオリーブ色の小型トラックが見えてくる。

 その車は俺たちのすぐ前へとゆっくり減速しながらやってきて止まった。

 車の中から勢いよく出てきたのは摩耶だ。

「しばらくぶりだな、ふたりとも! だから抱きついてもいいか、熊野?」

「ええと、優しくしてくだ―――」

「うりゃ!」

 摩耶は熊野の返事も聞かず、両手を熊野の背中に回して抱きしめた。

 熊野と摩耶の嬉しそうな俺はそれを見て、またうるさい日々がやってきたと実感した。

 車から扉が開く音がし、目を向けるといつも来ているおっちゃんが小型トラックの後ろからリュックサックを持ってきた。

 手を上げ、軽い挨拶をすると向こうも同じように手をあげて返事をしてくれる。

 摩耶は10秒ぐらい熊野に抱きついたあと、おっちゃんからリュックサックを受け取ると俺たちより先に部屋へ入っていった。

 かなり元気がいい摩耶に苦笑し、おっちゃんと会話しようとしたが、ブルーシートがかけられた摩耶の荷物を車へと積み込んでいる。

 なんで積むのか、ということを聞こうと口を開くと、中から摩耶の呼ぶ声がしたので俺は摩耶に事情を聞くことにして熊野を連れて中へと入っていった。

 中に入った摩耶はソファーに座ると、テーブルの上にリュックサックを置いて次々にお菓子と缶コーヒー3本を出してくる。

 リュックサックの半分ほどお菓子が出てきたことに呆れながらソファーに座ると、すぐ隣を熊野が俺に体をくっつけるようにして座ってくる。

「来る途中にそこらの店で買ったやつだ。適当に食ってくれ」

「名産品じゃなく、そこらで買ったものか」

 気遣いはできるけど見栄を気にしない摩耶らしいお土産に、摩耶らしさを感じて1週間やそこらで摩耶が変わってないことに安心する。

 無糖とラベルに書かれた冷たい缶コーヒーをひとつ手に取ってプルタブを開け、熊野の手を取って握らせる。

「ブラックな缶コーヒーだ。たまにはこういうものもいいもんだぞ?」

「そうですね。味わって飲むことにしますわ」

 熊野が缶コーヒーを飲み始めるのを見たあと、俺も缶コーヒーをひとつ手に取って飲み始める。

 久々に飲んだ缶コーヒーの味は懐かしく、そこそこおいしく感じる。

 飲んでいると摩耶が俺たちふたりを見て、微笑ましげに見てきた。

「おまえら、ほんと仲がいいな」

「提督はわたくしがいないと何もできないので、いつでもそばにいないといけませんの」

「ひとりで生活はできるって」

「良質の睡眠、健康的な食生活、部屋の掃除に洗濯。どれも毎日ちゃんとできますか?」

 男の独り暮らしと言えば、夜中まで起きてジャンクフードを食べたり、掃除や洗濯は週に1回が当たり前だ。

 そんな生活を考えていた俺は、熊野のなんでもおみとおしという勝ち誇った笑顔に何も言うことができず、缶コーヒーを静かに飲む。

「さて、落ち着いたところで今回の用事だ」

 テーブルにあるお菓子の山をどけ、そこにリュックサックから文字と点字の書類がそれぞれ出される。

 摩耶は枚数を確認したあと、俺に両方の書類を手渡してくる。

 それらを渡され、すぐに熊野に点字の紙を渡す。

「熊野、点字の書類が来たぞ。雑っぽい摩耶が細かいとこまで気が利くのに驚いたよ」

「本当ですわね」

「あたしの評価はそんなんだったのかっ!?」

 小さく笑う俺らに摩耶は天井に向けて両手を突き上げて、威嚇してくる。

 その姿に笑みが浮かび、俺は渡された書類を読んでいく。

 内容は俺が送った書類の返事だ。

 艤装関連はすべて許可を出され、無事に熊野用の艤装改修案が通ったことに安堵する。砲撃を捨て、空中聴音機と水上機のみという

 あとは視覚障害者と暮らしてわかったことや、艦娘運用についてのこともおおむね好評価だ。

 機嫌良く書類を読み進めていくと、一気に気分が悪くなり見なかったことにしたくなるものと出会ってしまった。

 それは熊野の異動指示。

 戦力として使えるようになった熊野を戦闘に出すというものだ。

 じっくりと読み進めていくと、この書類を持ってきた者とすぐに移動をしろと書いてある。

「摩耶」

「なんだ?」

 声が低く、固くなってしまった俺の声に摩耶も低い声で返事をしてくれた。

 その表情は感情を失ったように無表情で、いつもバカ話をしていた摩耶とは違う。

 そのまま摩耶とにらみあい、熊野が読み終わるのを待つ。

 ちょっとの時間が数分にも感じ、熊野が書類を読み終わったときには一層空気が重くなった気がした。

「読んだな? 熊野はあたしんとこの提督の指揮下に入って新しい艤装の調整と訓練に入る。なに、前線から1歩後ろのところだからそれほど危険はないぞ?

 真面目な話でこれからの予定を言ったあと、空気を軽くしようと笑い声をあげる。

 軍が決めたのだから俺はその指示に従うしかない。

 艦娘は戦うことが当然だ。

 熊野が俺の手から離れることが寂しいとか、戦わせるのが嫌だとか言うのは間違っている。

 戦うことで誰かを守ることができる。

 このことをいらだった意識にねじ込み、深く深呼吸して気を落ち着ける。

「内容は大規模攻勢を近々するから、そのときの戦線後方を安定させる役割だ。熊野たち障害持ちの艦娘を健常者な艦娘が指揮するって聞いたぞ」

 隣の熊野の顔を見るとおだやかに摩耶の話を聞いているが、俺の手を強く握ってくる。

 熊野も俺と同じように素直に受け入れられないことを知ると安心し、冷静な思考が戻ってくる。

 そして摩耶に言われたことを考えると、単に戦力が足りないから手当たり次第に突っ込むわけじゃないらしい。

 きちんと戦力として扱い、捨て駒にはならないと聞いて安心する。

 軍上層部が艦娘たちを安心させるための嘘とも思ったが、上の人間がまともな頭を持っているなら現実的な案だから信用しても大丈夫なはずだ。

「提督、わたくしは行きますわ」

「そうか」

 他に言葉はなく、誰も何も言わない時間が過ぎて行く。

 俺と熊野の様子を摩耶は交互に見たあと、目をつぶりしばらくしてひとりうなずいたあと、リュックサックから新しい書類を1枚出して俺に渡してくる。

 その内容は今までのとは違い、摩耶の提督からの個人的なものだった。

 前線に戻りたいのなら、熊野を指揮下に置けるようにしてもいいと書いてある。

 1度も会ったこともなく、俺との関係性なんて摩耶を通じてだ。俺は無力な存在であり、辺鄙な場所にいる出世の見込みもない提督だ。

 俺に対してここまでよくしてくれるのはよっぽどのお人よしだ。 摩耶がこんないい子なのも納得できる。

 そんなありがたい申し出だけれど、俺は書類をそのまま摩耶へと返す。

「……いいのかよ、お前」

「もう艦娘たちを沈めたくはないんだ。それじゃあなんで提督を続けているんだって言われるだろうけど」

 ここで言葉を区切り、熊野の顔を見る。

 熊野の顔は俺を見ていて、さっきまで強く握ってきた手は柔らかさだけを感じる。

「俺はここで熊野と暮らせれば、それで幸せなんだ」

 自分でも驚くほどの優しい声で摩耶にそう言った。

 物凄く個人的なことで、すぐに提督という地位を外されるほどに今の俺はなっている。

 もう言ってしまったから発言は戻せない。

 言わなかったほうが戦場から帰ってきた熊野と暮らせる可能性もあった。

 でももう遅い。

 摩耶がこのことを伝えれば、俺の人生は大きく変わってしまう。

 予想通り、摩耶は目を見開いて驚きのあまりに言葉を失っている。

「熊野、荷造りしようか」

「わかりましたわ、私の提督」

 固まった摩耶を放置し、熊野を連れて2階へと行く。

 ―――熊野と暮らして2カ月と1週間。

 もう何年も一緒に暮らしていた気がしたけれど、実際には短い時間だった。

 2階の部屋はふたりで半分にして使うスペースを決めた。

 家具もカーテンも熊野の意見をよく聞いて買った。

 快適な生活を送るために。

 電灯のスイッチのすぐ下に点字でわかるように加工もしたし、歩きやすいように頻繁に掃除をして物の位置を変えるときには熊野に必ず相談をした。

 なにかをするにも熊野と一緒。

 それは息苦しいとはじめのうちは思った。

 こんな生活はすぐに嫌になって、俺か熊野のどちらかが文句を言って終わるだろうって。

 でもそうはならずに今まで続いていた。

 この2階は俺達の信頼関係を形として表現しているんじゃないかって、おおげさなことを思ってしまう。

 過去の記憶を楽しみながら、熊野の荷物を整理していく。

 服に靴、化粧品や点字本。

 ここにいるあいだにずいぶんと荷物が増えたから、熊野が持ってきたバッグだけでは足りなくなった。

 俺が持ってきたバッグにも荷物を入れることでようやく準備が整った。

 俺は両手にバッグを持ち、後ろに杖をついた熊野を連れて1階に戻ってくると摩耶はリュックサックを背負って待っていた。

 さっきまでの固まった様子はなく、俺の顔を見てはため息をつき、疲れた様子になっている。

「お前っていう男は変わってるな」

「成長したんだよ」

 ここに来てから考え方が柔軟になり、心に余裕を持てるようになった。

 それを俺は成長と呼ぶ。

 つい3カ月前までは多くの艦娘たちを従えて、艦娘である彼女たちを気にせずに戦果ばかり気にしていた。

 今ではたった1人の艦娘である熊野のことだけを考えている。他のことは熊野の次だ。

「初めてお前と会った時から、提督と艦娘の関係はどうあるべきかって考えてたんだが……」

「参考になっただろ?」

「そんな考え方が参考になったら、すべての提督は艦娘と結婚しちまうよ」

 そう言われて俺は苦笑する。別に熊野と結婚する気もなく、ただ一緒に暮らしたいと言っただけなのに。結婚とは考えが早すぎる。

 摩耶は先に外へ出て行き、俺と熊野もあとをついていく。

 外に出ると雨音だけだった世界に、小型トラックのエンジン音がかかる。

「荷物はあたしが積むから」

 両手を伸ばした摩耶にバッグふたつを渡す。

 それから摩耶は俺の隣にいる熊野の前に近づき、耳元へ唇を近づけた。

「―――愛しい提督といちゃついておけよ」

「そんなのじゃありません!」

 俺にも聞こえる摩耶の言葉で俺と熊野は恥ずかしくなり、お互いに頬が赤くなる。

 摩耶は俺たちを無視し、あっはっはと大きな笑い声と共に、小走りで小型トラックに近づいて荷物を積み込むと、同じ場所に乗り込んでいった。

 どうやら助手席は熊野に譲ってくれるらしい。

「あの、提督?」

「俺はきちんと独り暮らしをするからな?」

「はい、その心配もしていますけど」

「ワンコにも伝えておくからな。あとは熊野と仲良かった八百屋のおばちゃんに、むさくるしい土建屋のおっさんたちと―――」

 その言葉をさえぎり、熊野は俺の胸の中に強く飛び込んできた。

 寂しげな顔の熊野の背中に手を回して抱きしめたくなるが、それは恋人関係のように思えてしまう。だからそこを我慢して頭を撫でることにした。

 俺と熊野は友達で兄と妹のような関係。恋人は俺と熊野の望むものではない。

 頭を今までで1番優しく撫で続け、数分ほど経ってから熊野は笑顔になって俺から1歩距離を取る。

「行ってきますわ」

「ああ」

 気の利いた言葉が頭に出てこず、普通の返事しか言うことができない。

 俺が思っている以上に、熊野がここからいなくなって戦場へ行くことにひどく動揺しているみたいだ。

 返事をしたあと、熊野はまっすぐに小型トラックに乗り込んでいって雨の中、出発していく。

 俺は映画のように手を振ることも大声をあげることもなく、静かに見送る。

 そしてこの場所には自分1人だけとなった。

 熊野が帰ってくる時期はわからず、もしかしたら帰ってこないかもしれない。

 嫌なことを考えてしまい、もっと明るいことを考えようとする。

 その時に映画のようなことをして帰りを待とうと思いつく。

 雨の中へと1歩踏みだし、雨にうたれながら考える。

 服に段々と雨が染み込んで体が冷え、意識が冷静になっていく。

 雨という今の天気を参考にして、映画『雨に唄えば』のように熊野が帰ってきたら踊って歌えばいいかと思うが、その時に雨が降っていないかもしれないのでこの考えはやめる。

 そもそも帰ってくるまで明るいことを考えようとしているのに、それだと帰ってきたときにしか明るくならない。

 さらに考え、"帰ってくるのを待つ"ということだから同じような映画を参考にすればいいと気付く。

 その映画は『幸福の黄色いハンカチ』だ。

 多くの黄色のハンカチを使うシーンを思い出し、それにならって同じようにハンカチをあちこちに飾りつけようと考える。

 映画では、服役中の主人公が刑務所の中で妻と会ったときに離婚する話になっていた。

 でも主人公は、自分の帰りを待ってくれるなら家の前に黄色いハンカチを掲げてくれ、というようなことを言う。

 そして出所したときに自宅へ戻ってみると多くの黄色いハンカチが家の前にあり、妻と再会するという話だ。

 映画のあとで黄色いハンカチは『愛する人をの帰りを待つシンボル』『夫婦愛の証』と言われることもある。

 熊野が映画や意味を知らなくてもいい。これは俺が安心するためだから。

 自分のために決意し、やることが決まってテンションが上がった俺は勢いよく監視所に走って戻り、ペンと紙を手に持って計画を考え始めた。

 熊野が帰ってきたときにその光景を見ることはできなくても、俺が熊野のことをどれだけ待ったか伝えた時に喜んでくれると信じている。

 だから熊野。

 無事に帰ってきてくれ、と俺は願う。




2話続けて投稿。
次回、最終話。

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