また春がやって来た。
中学2年生のクラス分けは廊下に貼り出されていて、当然のようにぼくはA組に入っていた。
「なーぎさちゃん!」
目隠しをされ、ぼくは視界が遮られたことにちょっとびっくりした。というか僕の後ろを取れる人なんていたんだ。これでも環境変化には敏感な方だと思っていたんだけど。
「だぁーれだ?」
キツめの香水の香りが漂い、これはあの子しかいないなと確信した。
「じゅりあちゃん、かな?」
「うん!同じクラスなんだぁ、よろしくねぇ?」
そういえば姫希さんはじゅりあちゃんに成績で勝っていたらしい。姫希さんが優位に立てることで、じゅりあちゃんが浅野君に近づく機会が少なくなったことから浅野君も姫希さんもほっとしてるとか。
「そうだね。あれ、姫希さんは……?」
「わかんなぁい!ねぇ、渚ちゃんちょっとトイレ行かなぁい?」
「うん?いいよ」
妙に暗い顔をしているけど大丈夫かな?気のせいか意識の波長が怖い……?
違和感に首を傾げるが、女子のトイレ行こうという誘いは珍しくないため了承する。
女子トイレに入ったにも関わらず個室に入ろうとしないじゅりあちゃんに、ぼくはようやく違和感の理由が分かった。周りには彼女の取り巻きが4人はおり、全員が憤怒の形相でぼくを見下ろしていたからだ。ぼくの後ろからやって来た女子に押されぼくは床に打ち付けられた。上からバケツで水をかけられる。
「あんたさぁ、浅野君の何なの?」
「え……なに、じゅりあちゃんナンカ色々チガウ」
声とか話し方とか表情とか!
そうか、猫かぶり系女子なんだ、この子。
そうやって考えると、さっきの意識の波長で察して断ればよかったと思い直す。既にびしょ濡れのこの状態ではどうすることもできないけど。
「ちょっと成績良いからって浅野君にべったりくっ付きすぎ。天使とか呼ばれて調子に乗ってるんでしょ」
「そうよ。あの5英傑と勉強会を何度かしてるって話も聞いたわ。榊原君にも何度もアプローチしてるって!」
「いや、アプローチされてるのはわたしの方なんだけどなあ」
事実とは違う捻られた噂に変な汗をかく。さすが5英傑、ファンが多い。
「浅野君困ってるのわかんないの?このビッチが」
「自分が何ヶ国語も話せるアピールとか、かわい子ぶっててマジむかつくなって思ってたんだよね」
「とにかく!浅野君たちに近づかないで!」
「今度近づいたら虐めてあげるから。覚悟しといてよね」
「ねーねー、この髪邪魔だから今切っちゃおうよ!」
じゅりあちゃんがポケットからハサミを取り出し、ぼくの髪に当てようとした。さすがに無抵抗だったぼくもそんなことされたらお母さんになんて言われるか分からないので切られないように抵抗しようとする。そこに突然、トイレのドアが開くキィーという不愉快な音がしてぼくはそれが助けに思えた。
「そこまでだよ、じゅりあちゃん」
静かに告げたのは姫希さんだった。トイレのドアの前で仁王立ちして立っているのが様になっている。学年の女子を仕切る女王の登場に女子たちは口をぱくぱく魚のように開け黙り込んだ。じゅりあちゃんが思わぬ登場に顔を大きく歪めている。
「ひ、姫ちゃん!なんでここに……」
「伊織から渚ちゃんが女に連れ去られたって言うから、誰かと思ったらやっぱりあなただったんだ」
「え、これは何かの間違いだよぉ〜……渚ちゃんに脅されてぇ!」
白々しいことをいうじゅりあちゃんにぼくは声を出そうとしたが取り巻きに口を押さえられた。姫希さんは「ふうん」と悪戯っぽく笑い、スマホを弄り始める。
『あんたさぁ、浅野君の何なの?』
姫希さんの持つスマホから聞こえてきた音声に女子全員が青ざめた。ぼくはびしょ濡れのままぱちくりと目を瞬かせる。
姫希さん、一体何考えてるんだろう。
「残念だったね、私があなたたちが思ってたよりずっと早く来て。あ、こういう音声を放送部に届けるってどうかな?分かる人には分かっちゃうと思うよ、誰が何を言ったのか。浅野君どう思うかな〜」
全員分かっていた。姫希さんならやりかねないことぐらい。姫希さんには校内に多大なコネがあり、今の放送部部長も姫希さんと仲が良い。じゅりあちゃんはお金持ちのお嬢様で、マスコミのコネだって持っているだろう。でもこれは学校内の問題。出どころを知られないように噂を流すのだって、彼女にかかってしまえば荒木君の情報操作がしょぼく見えてしまうほどだ。
「ごめんなさい!悪気はなかったんです。だから止めて!」
「お願い!そんなことしないで!うちら友達でしょ?」
「ふふっ、悪気はなかった?友達でしょ?ふざけんな。どの口がそんなこと言ってるわけ」
姫希さんは笑っていたのに、怒っていることがすぐに見て取れた。その様子に恐れる女子もいる。
「ひぃっ!」
「ねえ、一つ良いこと教えてあげるからよく聞いて?……今度渚ちゃんにちょっかい出したらあんたらの悪事を浅野君だけじゃなくて校内中に広めてあげる。っていうか、渚ちゃんより成績の低いあんたらが集団リンチなんて寒いことどうしてしようと思ったのかほんと疑問。そんなことしてる暇あったら勉強しようね?」
この中の全員、今年はA組に入ることを果たしたものの、姫希さんの成績は圧倒的であり、女子の中ではぼくの次に優秀なのが彼女だ。そして女子社会の裏ボスをしているような怖い人物なため、必然的に誰も彼女には逆らえないのだ。だからこの集団リンチは姫希さんがいない時を狙ったものと思われる……が。果たして本当にそうなのだろうか。ぼくには一つ大きな疑問があった。
「「「「「ごめんなさいっ!」」」」」
「謝るなら、渚に謝って」
「ごめんなさい。じゅりあに言われて仕方なくやったの!」
取り巻きの1人が濡れたぼくに何度も頭を下げる。他のみんなも同じく頭を垂れていた。
「じゅりあのせいにしないでよぉ!みんなだって渚ちゃんむかつくって言ってたじゃん!」
「はあ……もう出て行ってくれない?おつむが弱い子たちの仲間割れとか心底どうでもいい」
「放送部には届けないでくださいね?絶対ですよ!」
彼女たちはぷりぷりしながらトイレを出て行った。彼女たちが出て行ったことでしゃがみ込んでいるぼくの姿がようやく姫希さんに露見され、彼女はあちゃーという顔でわたわたしていた。
「わあ……派手に水ぶちまけられたね。今日体操着持ってきてる?」
「さすがに始業式だから持ってきてないや」
「女子バスケ部は今日活動ないからね〜私も持ってないんだ。運動部の男子に聞くしかないか」
実はぼくは結局姫希さんと一緒の部活に入りたくて女子バスケ部に所属していた。とはいえ小柄なのもあり、2年生になってレギュラー入りした姫希さんとは違って2軍だ。それでいてすばしっこさだけは1番と言わしめるほどだったり、身長が伸びたらかなり使えるんだけどな〜と姫希さんに言われるけど、ぼくはバスケの選手を目指しているわけじゃないのでそれは放っておく。身長は伸びてほしいけどね。
「始業式どうしよう……」
「先生に言っとくから保健室で休んで。後のことは私に任せてよ」
「姫希さん、頼りになるね」
「大したことじゃないって」
謙遜する彼女にぼくは感謝の笑みを顔に貼り付けたまま、彼女の嘘を見破った。
「でもね、姫希さん」
「なあに?」
「来るのが早すぎるんだよ」
録音されていたのは、リンチの内容全てだった。でもそれはおかしい。それに姫希さんが彼女たちを止めたのはじゅりあちゃんがぼくに危害を加えようとした瞬間。あの時あのタイミングで姫希さんが出てくる。その時点でぼくはある可能性を考えた。全て彼女の手の上だったんじゃないかって。
「……さすが渚ちゃんだね〜。何で分かったの?」
「毛利君から聞いて来たんなら、あんな最初の会話から録音されてるなんておかしい。だから姫希さんは……」
最初から録音して弱みを握るためにわざとぼくから離れて集団リンチを狙ったんだよね。
そこまで姫希さんは言わせてくれなかった。ぼくの口を塞ぎ、艶やかに笑ってスマホを仕舞う。
「利用されて嫌だった?」
「そりゃあね。でも、姫希さんの考えたシナリオはすごいよ。来るタイミングもばっちりだったし!」
だから怒ってはいない。これで彼女たちが逆らえなくなるのなら願ったり叶ったりだ。
「変なの。ほんとは渚ちゃんが「わたしに逆らったら浅野君に言うよ?」って脅すぐらいがいいんだけどね〜」
姫希さんが2年A組の教室のドアを開ける。姫希さんはぼくを庇うようにして立った。何人かがこちらを振り返るのに合わせ、彼女は声を張り上げた。
「誰か〜、体操着持ってきてる人いない?」
始業式早々に活動を行う部活が少数であるため、頷く人はほとんどいなかった。ドアの手前側にいた浅野君がこちらへやってきて体操着袋を掲げる。
「僕は持っているが何のために……渚、どうしたんだその格好は」
ぼくの姿を発見した浅野君が戸惑ったように呟いた。
「トイレでバケツの水かけられたんだよ。くしゅっ……だめだ寒い」
「なるほどな。体操着だ。ついでにタオルも持っていけ。予備ならある」
「ありがと、浅野君」
「伊藤さん、誰かな。この酷く程度の低いいじめをしたのは」
彼がA組の教室内を見渡すと、じゅりあちゃんたち女子グループの肩がぴくりと上がる。その反応で丸わかりだ。浅野君は珍しく怒っていた。いつもは穏やかな意識の波長が少し揺れる。
「さあね〜。浅野君がそんなことされるの嫌いって分かってるのに何でやるんだろうね。みんなMなのかな?」
空気が徐々に圧力で凍ってくる。ぼくはどうして良いか分からず戸惑ってしまった。というか浅野君はE組いじめはするのにクラスメイトが虐められた時は怒るんだね。反応が違いすぎて色んな意味でショックだ。
「2人とも、くしゅっ、べつに大丈夫だから!」
「渚ちゃん、はやく保健室行かなきゃね。あ、伊織。先生に私が始業式少し遅れるって伝えといて。渚ちゃんは保健室」
「おう、分かった」
放送がかかり、荒木君の落ち着いた声が生徒全員を体育館へと向かわせる。ぼくと姫希さんはその反対を行くようにして歩いた。
去年は見なかった懐かしい黒髪の女の人が通りかかり、ぼくはあっと声を漏らし立ち止まってしまう。
「どうかしたの?」
「ううん、何でも」
口ではそう言いながらも内心は穏やかではなかった。
そうだった。彼女が来るのは今年だったんだ。
保健室に着いたとき、先生は中に居なかった。始業式なので保健室の先生も他の先生たちと同じく体育館にいるのだろう。姫希さんはぼくに体操着を渡してあとは自分でやるように言うと駆け足で始業式に向かった。優等生は大変である。
貸してもらったタオルで髪と身体に付いた水滴を取った。何故かあったドライヤーで髪を乾かし、それが済むとそそくさと制服から体操着に着替えてしまう。下着も濡れているがそれはまあ何とかなるだろう。
そんなことよりも、問題はさっき見た新任の先生。きっとE組の担任になるだろう、雪村あぐり先生が今年来ることにぼくは気づかなかった。そうだ、彼女はぼくたちの前の世代のE組担任も受け持っていて、この時期にとある研究施設で殺せんせーと会っている。彼女が死ぬことがなければ、全ては始まらなかった。
ぼくが今考えたことは大きな自惚れだ。ひょっとしたら雪村先生も助けることができるかもしれない、なんて。
「あれ?この時間なら絶対誰も居ないと思ったのに」
「久しぶりだね、カルマ君」
「あー天使ちゃんか」
何だか分からないけどカルマ君にこの呼び方をされるとイラッとする。
「……普通に渚って呼んでくれない?」
「あーごめん。渚ちゃんも始業式ふけたの?」
「色々あって_______くしゅっ、保健室で休んでるように言われてるんだ」
「ふうん……何で体操着?」
「トイレでバケツに入った水かけられて制服が今びしょ濡れだから。制服、ドライヤーで乾くといいんだけど」
明確な虐められてます発言はしなかったものの、カルマ君は多少察したようだった。ベッドの上で寝ようとするカルマ君だったが、ふと気付いたように起き上がる。
「保健室って確か制服の予備あったよ」
「そうなの?」
「うん。この引き出し……ほら。借りパクしちゃいなよ」
カルマ君が開けた引き出しの中には制服が男女両方入っていた。
っていうか何故こんなことをカルマ君が知ってるんだろう。保健室の常連生徒だから?もしかしたら喧嘩でよく制服借りてたりするのかもなあ。
「借りていくけどもちろん後で返すからね?」
ぼくはカルマ君の借りパク発言を訂正し、貸し出し名簿のところにしっかり名前を記入する。返す予定の欄には明日の日にちを書いており、もちろん明日には返す予定だ。
「さすが優等生」
「くしゅっ……優等生じゃなくてもみんなそうするよ。優等生嫌いって顔だね」
「だってさあ、勉強ばっかして授業も真面目に受けて先生に気に入られているって生徒、テストで点数が良くてもぶっちゃけ当たり前だよね」
ぼくが着替え始めたのでカルマ君はベッドに突っ伏した。Tシャツを脱いでシャツを着、上からスカートを先にはいてしまう。カルマ君は尚も話し続けた。
「通常運転でさらりと勝ってこその完全勝利。これが本当の勝ち方だよ」
「そんなんじゃ永遠に勝てないよ」
ぼくは完全に着替え終わると静かに告げる。サイズが少し大きいが、ぼくはまだ中学2年生で小柄なので仕方ない。女子だからか分からないけど、1周目の時より身長が伸びていない気がする。
「は?俺のこと何にも知らないくせに口出ししないでくんないかな」
「じゃあ一つ予言をしてあげる。カルマ君は来年E組に落ちるよ」
「そんなの素行不良だから落ちるって思っただけじゃん」
カルマ君をビビらせるために言った未来予言は大して効果が無かった。カルマ君もそうなる可能性があることは承知だからだ。
「じゃあ二つ目。君が停学中に月が破壊される」
「……それはSFの見過ぎじゃない?」
気が抜けたような顔をするカルマ君を見て、ぼくが冗談を言ってるのだと考えてることが手に取るように分かった。
「何なら賭けよっか?」
「そこまでしなくていいよ、くだらね」
イヤホンを装着して眠りにつく。これはぼくとは話したくないっていう意思表示みたいだ。
保健室のドアが開けられ、おばちゃん先生が顔を出す。ぼくが居たことに少し面食らったようだが、営業スマイルで保健室に来た生徒リストに名前を書き込んでいく。手慣れた様子だ。
「あら、渚さんが来てたなんて思わなかったわ。また怪我?」
「いえ、今回は制服濡れちゃって。制服借りてます」
制服を借りることを伝えて先生と軽く雑談をした後教室へと戻った。そういえば先生はぼくの名前を覚えていた。確かにあれだけ体術の練習でかすり傷を作って怪我をしていたら忘れるはずもないか。びしょ濡れだったこと勘違いしていないといいけど。
教室に戻ると姫希さんは去年違うクラスだった女子たちと会話をしていて、ぼくに気がつくと手招きした。
「渚ちゃん大丈夫だった?」
「うん、平気。制服も借りれたし。浅野君、タオルと体操着ありがとう」
タオルはドライヤーで乾かしたけど大丈夫だろうか。浅野君なら理不尽に怒ったりしないか少し心配になって俯く。しかし、彼は別に怒るわけでもなく無言でそれを受け取った。
「えっと、席は何順なの?」
「学年末テストの順位順」
ぼくは苦笑いをした。A組担任はまた宍戸先生みたいだ。
「うわあ、宍戸先生好きだね」
「ほんっと、性格悪いよ。しかも渚ちゃんがいなかったから今年は私が学級委員になった〜」
落ち込んでいるのか喜んでいるのか分からない微妙な表情で姫希さんが言った。いや、これは微かに喜んでるな。意識の波長は嘘を吐かない。姫希さんはお母さんの次に分かりやすいこともあって、彼女の顔色を伺うのは造作もないことだった。
「でも浅野君が推薦するとは思わなかった。いきなりびっくりするから止めてよね」
「……ああ、悪かったな」
浅野君はぶっきらぼうにそう言った。いつもの爽やか優等生とは違う。少し冷たい。
『渚、今度から絶対伊藤さんから離れるな。伊藤さんがいない時は5英傑の4人、もしくは毛利か僕と居ろ。それ以外は誰も信用するな』
フランス語で話す浅野君に慣れたような視線を向ける元A組のメンバーと、これが噂の外国語会話かと好奇心の表情を見せる新A組のメンバー。だが、ぼくには言っている言語は理解できても内容を完璧に把握することができなかった。
今の話からするにぼくの行動を縛るってことだ。それはつまり、危険だから?
『浅野君、一体どういうこと?』
『少し僕の思慮が足りなかったということさ』
『女子トイレでのことなら気にしないで?あれは姫希さんが__________』
「ちょっと渚ちゃん、それ以上は言わないで」
自分のことだと勘で判断した姫希さんがぼくに口止めをする。というかよく自分の名前だって分かるなあ。フランス語だと発音おかしくなるのに。
『姫希さんが守ってくれたから』
敢えて彼女がわざとそれを起こしたことは言わないでおいた。姫希さんは不安気に浅野君の顔色を伺っている。
『だからこそ、これで分かっただろう。伊藤さんがいない時を狙っているんだ。迂闊に1人で行動してたらいつ同じことが起きるか』
『……浅野君、ひょっとして心配してくれてるの?』
まさかあの浅野君に限ってそんなことはないだろうけど。
でも少し期待して見るぼくの目から浅野君はさっと目を逸らした。
『まさか』
うん、そうだよね。生徒会長候補の浅野学秀はそう簡単に人のこと心配する余裕ないだろうし。
「渚ちゃん、もう帰る?今日浅野君部活だよね」
終礼はもう終わっているようで支度を済ませた姫希さんがフランス語で会話するぼくらにひょいと顔を出した。ぼくらの会話を邪魔することをやってのけるのは彼女ぐらいだ。
「ああ。でもこんな状況だし休むべきか迷ってる」
「姫希さん、ごめん。今日ちょっと先生に用事があって一緒に帰れない」
姫希さんは「そうなの?」と少し残念そうにしゅんと項垂れていた。それに対して「俺のこと忘れるなよ」という毛利君。たしか彼は書道部に入っているようで始業式から部活はないのだ。姫希さんは一緒に帰ることを快く賛同し、2人はぼくらを置いて教室から出て行った。
教室にはもう数える程しか人がおらず、浅野君は部活のバッグをロッカーから引っ張り出しているところである。
『おい、今散々言ったのに1人で帰る気か?』
ぼくが一人で帰ると思ったのか、今度は中国語で浅野君は焦ったような口調で声をかけてくる。ぼくは少しため息混じりに「ちがうよ」と返事をした。今日の浅野君は少々過保護が過ぎるようだ。
『浅野君が部活終わるの待つよ。ちょっと相談したいこともあったんだ。女子トイレとはまた別の話で』
『分かった。終わったら連絡する』
ぼくと浅野君は教室で別れ、ぼくは職員室……には行かず、旧校舎のあるE組へと向かった。
懐かしい山への道程がぼくの色々な思い出を蘇らせる。烏間先生と殺せんせーが組んだドロケイ。超体育着で山を駆け回ったこと。文化祭では山の山菜をメインに料理を作ったこと。3月の最後に対殺せんせーのバリアが張られたこと……
そこでぼくは考えるのを止めた。この後何が頭に思い浮かぶのかは分かっている。思考を停止したかった。いつも考えるのはあの時どう行動していたら茅野が死ななかったかということだ。でもあの時ぼくが行動したとしても何も変化は生まれないわけで。殺せんせーが死んで仕舞えば茅野を救うことは絶対にできなくなる。
だけど、中学2年生のぼくは思う。
もしも、殺せんせーが研究施設にいる間に行動を移すことができるのだとしたら?
運が良ければ雪村先生を助けられる可能性だってあるのだ。
旧校舎の中にはまだ生徒たちがいた。ぼくらの前の世代のE組だ。彼らは顔を俯けており、それは理事長がE組に求める敗者の顔だった。
「それじゃあ、みんな今日の授業はここまでです!日直さん、号令お願いしますね」
「起立!礼」
わわっ。
ぼくは銃の音が聞こえてくるんじゃないかと少し動揺してしまった。彼らはぼくらじゃないのに。
窓からそっと先生のことを探す。教壇に立つ先生は紛れもなく雪村先生だった。
まだ生きてる。当たり前だけど雪村先生が生きてる!
なんだか嬉しくなって微笑んでしまう。
「あれ……?天使ちゃん」
ぎくり。ぼくは窓際の生徒に気づかれていた。彼女が誰なのか全く覚えがないが、どうやら相手はぼくのことを知っているようだ。呼び方が天使ちゃんってところを見ると好かれてる?先輩だからここは敬語かな。
「えっと……雪村先生呼んでもらってもいいですか?」
「先生!天使ちゃんが呼んでます」
何で大声で言うかな……
一斉に生徒が声の主を振り返り、ざわめき立つ。5英傑の噂もそうだが、ぼくの噂は今や学校中に広まっており、
「天使ちゃんって学問の天使?」
「うそっ!何でE組に来てるの?」
「あの話本当なのかな?!天使と苦手な教科について話すと次の成績上がるってやつ!」
「ばか、俺は天使の笑顔を見るとって聞いたぞ」
だれがそんな噂流したの!
「デマかもしんないじゃん。どこ情報?」
そうそう。ぼくと話したら成績が上がるっていうんならみんなやってるって……確かに最近よく話しかけられるなあ。
「放送部が昼に流してた奴だから間違いないよ」
荒木君か!!
脳内にウィンクしてテヘペロのポーズをする荒木鉄平の姿が出てきた。昼の放送には毎日面白いトークがあり、荒木君もそれを担当する1人だ。
ぼくは昼休みは部活の練習に参加しているので知らないが、クラスメイトの女子がいつもその話をしていたっけ。でもまさかそこにぼくの話があるなんて。
「あの、どちら様ですか?」
雪村先生はぼくを知らないのではて?と首を傾げていた。生徒たちは新任の先生が知っているわけないかと苦笑気味だ。椚ヶ丘ではかなり出回っている話なのだが、新任の先生にまで届く情報ではない。
「はじめまして。大石渚です。あの、この後話せませんか?ここじゃあ何なので、校舎裏とかで」
「わかった!みんなー、早く下校下校!」
雪村先生が急かして生徒たちを帰した。ぶつぶつ文句を言う生徒も何人かいたが、やることもないので生徒たちは山を下っていった。最後の1人が帰ったころ、雪村先生はぼくを教室の中に招き入れる。
「大石さん?わたしに何か用があるのかな?」
「渚の方で呼んでください。用っていうか、お願いなんですけど」
「渚さんかー。わたしにできることだったら何でもするよ!」
ぼくは柔らかく笑みを浮かべた。ぼくが何を言うのか彼女には想像がつかないだろう。殺せんせーみたいに生徒が好きで、生徒のためならどんなことでもしようと思える精神の持ち主で、E組の生徒を元気にしたいと本気で考えている。だからぼくは救いたい。雪村先生を。殺せんせーと同じくらい良い先生だから。
「雪村先生、死神に会わせてください」
この日を境に2周目の運命が大きく変わることをぼくはまだ知らなかった。
「くしゅっ」
やっぱり風邪引いたかもしれない。
原作からの変更点
・新学期からいきなりの集団リンチ
・ブラック姫希さん
・本校舎時代のカルマがサボる時によく使う場所はたぶん保健室だと予想
・雪村先生に会いにいく渚ちゃん