殺し屋が、テスト問題を作っている。
しかも真面目に。
自分で作りながら笑いそうになった。
三限の英語の授業が終わって、四限が始まるまでの十分間。職員室の自分の席で、私は来週の小テスト用の問題をにらんでいた。
大問三のリスニング。ネイティブの発音で出題するのはいいとして、スピードをどこまで落とすか迷う。E組の子たちは飲み込みが早いほうだけど、前回、寺坂あたりが露骨に顔をしかめていたから、設問の最初だけ少しゆっくりにして——
……何をやっているのよ。
ふと我に返る。
本来の仕事は暗殺だ。
あの黄色いタコを殺すために、ここに来た。
なのに今、私の頭の中にあるのは関係代名詞の出題範囲と、リスニングの読み上げ速度。
殺し屋としての勘が鈍るとか、そういう話じゃない。もっと根本的に、順番がおかしいのだ。
気づけば授業準備が生活の中心になっている。暗殺計画のほうが"ついで"みたいに後回しになっている。
いつからこうなった?
たぶん、きっかけはあの日だ。
赴任してすぐの頃、私は正直、授業なんかどうでもよかった。色仕掛けも通じない、毒も効かない。ターゲットの殺し方だけ考えていればよかった。
英語の授業は、ただの隠れ蓑。
そう割り切っていた。
でも、あの授業で——私が本気でやった"落とし方"の実演を見て、E組のガキどもが目を丸くした時。
渚が小さなノートを開いて、私の話術のパターンを一語一句メモしていた時。
ああ、こいつら聞いてるんだ、と思ったのだ。
聞いてるどころじゃない。吸収しようとしている。
殺し屋の技術を、自分たちの武器にしようとしている。
大石渚。
見た目はおとなしくて、教室の隅で静かにしているタイプの女の子。
でもあの子の観察力は異常だった。人の癖、視線の動き、声のトーンの変化。プロの殺し屋でも見落とすようなものを、あの子は当たり前のように拾う。
しかも本人はそれを"特技"だとも思っていない。
ただ、ずっとそうやって生きてきただけ、という顔をしている。
教えがいがある、と思ってしまったのよね。
それが間違いだった。いや、間違いというか——。
「ビッチ先生ー、宿題何でしたっけ」
思考を遮ったのは、廊下から飛んできた前原の声だった。
ビッチ先生。もうこの呼び方にいちいち怒る気力もない。
「外国人に声をかけてお茶に誘って、SNSを交換すること。言ったわよね?」
「あ、そうだっけ。サンキュー」
ひらひら手を振って走っていく背中を見送る。
……サンキューじゃないのよ。Thank you でしょ。発音。
なんて、心の中で添削している自分に気づいて、また笑いそうになった。
三時間目の授業を思い出す。
今日のテーマは、状況に応じた言い回しの使い分け。
教科書通りにやるなら「道案内の英語」とか、そういう退屈なやつになる。でも私は教科書なんか最初から使っていない。
交渉術としての英語。
相手の警戒を解く言い方。本音を引き出す質問の仕方。嘘をつく時に選ぶべき単語と、選んではいけない単語。
殺し屋が現場で使う言語技術を、教室用にパッケージし直しただけ。
邪道だって分かってる。英語教育としては完全に逸脱している。
でも、あの子たちの目が変わるのよ。
普段はぼんやりしている男子がナンパの仕方を聞いて急に姿勢を正す。カルマが例文を聞いて、にやっと笑う。茅野が隣の渚と顔を見合わせて、何かメモを取り合う。
今日の授業中、私はひとつ実演をやった。
カラスマに内線で電話をかけさせてもらって——もちろん事前の許可なんか取ってない——「至急、E組の備品予算について確認したいんですが」と、わざと困った声で切り出した。
カラスマは案の定「何のことだ」と怪訝な声を出したけれど、私は三十秒で"この人は今忙しいけど断れない状況にある"という空気を声だけで作り上げた。
生徒たちの前で、スピーカーモードで。
結果、カラスマは忙しい合間にわざわざ備品リストを確認してくれた。存在しない用件のために。
電話を切った瞬間、教室は静まり返って、それから爆笑が起きた。
「今の嘘じゃん!」
「烏間先生かわいそう!」
「ビッチ先生えぐい!」
私は得意になって髪をかき上げた。
「ほらね。言葉は武器よ。正しい英語を話せるだけじゃ意味がない。"どう言うか"で、人は動くの」
渚がまた、あの静かな目でノートに書き込んでいた。
あの子だけは笑っていなかった。
笑う代わりに、学んでいた。
……こういうのが、楽しいと思ってしまっている。
殺し屋の私が、"教える"ということに手応えを感じている。
おかしいでしょう。
だって私の人生に"教える"なんて動詞は存在しなかった。
覚えたのは殺し方。
男の扱い方。
生き延び方。
そのどれも、誰かに教わったわけじゃなく、現場で血と一緒に身につけたものだった。
教室なんて知らない。まともに学校に通ったこともない。
なのに今、教壇に立っている。
しかもそれが——悔しいけど——嫌じゃない。
昼休みも、思い返せばそうだった。
購買のパンを買いに行った帰り、廊下で倉橋と岡野に捕まった。
「ビッチ先生、ネイルかわいい。何色ですかそれ?」
「モーヴピンク。大人の色よ」
「えー私もやりたい。塗ってくれません?」
「だめよ、校則違反でしょ。放課後にしなさい」
校則。
校則を理由に断る殺し屋。
自分で言っておいて、頭がくらくらした。
そのあと、渡り廊下のベンチで渚と矢田に会った。矢田が英語の宿題で詰まっていて、渚が横から覗き込んでいた。
「あ、ビッチ先生。この前置詞のニュアンスって——」
矢田が聞いてきたのは、ほんの些細な質問だった。"at"と"in"の感覚の違い。
教科書的にはどっちでも通じる。でも現場では——たとえば誰かの居場所を探る時、"at"で聞くのと"in"で聞くのでは、返ってくる情報の精度が変わる。
私はベンチの端に腰を下ろして、五分くらい話した。
矢田は「なるほど!」と膝を打って、渚は静かにうなずいていた。
その五分間、私は一度もターゲットのことを考えなかった。
それが怖い。
気を抜いているわけじゃない。
でも、この教室の日常に、少しずつ足を取られている感覚がある。
殺し屋は日常を持ってはいけない。
情が移れば刃が鈍る。師匠にそう叩き込まれた。
なのに私は今、来週のテストの採点基準で悩んでいる。リスニングの配点を部分点にするか、一問一点にするか。
馬鹿みたい。
馬鹿みたいだけど、手は止まらなかった。
チャイムが鳴る。
私は問題用紙を裏返して机に置き、立ち上がった。
廊下で、すれ違ったタコ教師がぬるぬる笑っていた。
「イリーナ先生、今日も授業準備熱心ですねぇ。生徒想いの良い先生だ」
「うっさい。アンタを殺すための布石よ」
「にゅるふふ、そういうことにしておきましょう」
あの顔。
全部見透かしたような、あの顔が一番腹立つ。
私は殺し屋で、こいつはターゲットで、この関係は最初から決まっている。
それなのに、こいつは私が"楽しんでいる"ことを当然のように受け入れている。
否定も肯定もしない。ただ、そこにいることを許すみたいに笑っている。
——殺してやる。
いつか絶対、殺してやる。
でもその"いつか"が、少しずつ遠くなっている気がした。
五限の体育はカラスマの担当で、私は職員室で採点をしていた。
六限はあのタコの数学。また職員室でテスト問題の続き。
そうやって、一日が過ぎる。
殺し屋の一日じゃない。教師の一日だ。
それがどうしようもなく自然で、どうしようもなく居心地がよくて。
だからこそ、放課後の職員室が嫌いなのかもしれない。
授業が終わって、生徒がいなくなって、教師の顔を脱いだ時に残るもの。
それを直視するのが怖い。
昼はまだ人の出入りがあって、多少うるさくて、誰が何をしててもそこまで目につかない。
でも夕方になると、残ってる人間の空気ばっかり濃くなるのよね。
紙をめくる音。ペン先が机を叩く音。コピー機の低い駆動音。
そういうのがやけに耳につく。
その日、職員室に残っていたのは私とカラスマと、それからシズクだった。あのタコはヨーロッパのどっかに飛んでいった。
机の上には、カラスマが考えた新しい体育着の案。
丈夫で、動きやすくて、いかにも“使えます”って顔をした無骨なデザイン。相変わらず色気も何もない。体育着っていうより、軍事訓練用の装備品に近い。
「せっかく新しくするなら」
私はペンを指の間で回しながら言った。
「もう少し見た目なんとかしてもよくない? どうせなら、着るほうがちょっとでも気分上がるほうがいいじゃない」
烏間は書類から目も上げない。
「見た目より機能性だ」
「それは分かってるわよ。でも両立できるでしょ」
私は紙の端を引き寄せて、ざっと線を引いた。
「たとえば女子はこのへん、もう少し丈を短くして。ラインも少し出したほうが軽く見えるし、動きやすいし。男子ももっとすっきりさせたほうが絶対いいわ」
削っていくと女子のデザインは水着に近くなっていく。
我ながら、まあ悪くない案だった。
少なくとも今のクソ真面目な叩き台よりは、ずっと“着る気になる”デザイン。
なのに。
「却下だ」
カラスマが即答した。
私は思わず顔を上げた。
「何がだめなのよ?」
「学校に通す前提が抜けている。訓練用であっても教育現場で使用する以上、説明のつく形でなければならん」
「説明ならつくわよ。“動きやすさ重視”って言えばいいじゃない」
「重視しすぎだ」
「堅っ」
ほんっとにこの男、こういう時だけ反応が早い。
私はわざとらしくため息をついて、そこでシズクのほうを見た。
「シズクはどう思う? さすがに今の案、ちょっと野暮ったいでしょ」
シズクは机の上の紙を覗き込んだ。
すぐに答えない。こういう時、さっと同意するでもなく、露骨に否定するでもなく、一回ちゃんと見るのよね。この人。
「そうですね」
穏やかな声で彼女は言う。
「軽く見せたい、という方向性自体は分かります」
ほらね、と思った。
少し気分がよくなる。
「でしょ?」
私がそう返した時だった。
「ただ」
来た。
シズクの“ただ”は、たいてい正論だ。
「露出を増やすと、学校側には通しにくいでしょうし、訓練時の安全面でも問題が出るかもしれません」
私は黙ったまま、シズクを見る。
別に否定はしていない。
でも、ちゃんと私の案の“通らなさ”だけは先に整理してくる。
「裾の幅と素材を調整して、シルエットを少し細くしたほうが、見た目も軽くなりますし、実用的かと」
そう言って、シズクは別紙を一枚引き寄せた。
さらさらと迷いのない線で描かれた案は、びっくりするくらい普通だった。
今のカラスマの叩き台よりは少しすっきりしている。丈もほんの少し短い。野暮ったさも少し減っている。
カラスマと私の意見を上手く取り入れた折衷案だ。
「それでいこう」
烏間が言った。
しかも一瞬も迷わない。
私は思わず笑った。
「……即決?」
「防衛省側への説明も可能だ。学校側の反発も少ない。現実的だ」
現実的。
そう、そういうことなのよ。
私の案は目を引く。たぶん生徒も見ればちょっと面白がる。
でも“通る”のはこっちじゃない。
シズクが出す、こういう地味で、無難で、ちょうどいい案。
分かってる。分かってるけど、腹が立つ。
シズクは別に勝ち誇ったりしない。そこがまた嫌なのよね。
「あら、採用されちゃいました」みたいな顔すらしない。最初からその案が妥当だと思ってました、みたいな自然さで紙をまとめていく。
「じゃあ、修正版を作って先方に戻しますね」
「ああ」
短いやりとり。
それだけなのに、妙に馴染んでる。
甘い空気とか、そういうのじゃないの。
でも、こういう場で必要な呼吸が、この二人は最初から合ってる感じがする。
私は自分の描いた案と、シズクの案を見比べた。
こっちのほうがかわいい。
こっちのほうが絶対、見てて楽しい。
でもカラスマが選ぶのはそういうものじゃない。
この人が必要とするのは、いつだって“通る案”を出せる人間。
余計な熱も、遊びも、華もなくていい。
ちゃんと仕事として前に進む案を出せる人間。
そしてシズクは、そういう面白くないことがすごく上手い。
カラスマはもう次の書類に目を落としていた。
「修正版がまとまったら見せろ」
「はい」
またそれ。
また、当然みたいに受け取る。
シズクは立ち上がって、カラスマの方を心配そうに見て言った。
「あの、無理はなさらないでください。ここ数日、少しお疲れに見えます」
「……そう見えるか」
「ええ。少しだけ」
シズクはそれだけ言って、今度こそ一歩引く。
“心配している”というより、事実を告げるだけの声音で。
烏間は短く息をついた。
「問題ない」
たったそれだけのやりとり。
けれど私には決定的に見えた。
自分が欲しかったものを、シズクは欲しがる様子もなく受け取っている。
気安さじゃない。
色気でもない。
もっと厄介な、生活の中に入り込んだ信頼だ。
シズクが職員室を出ていき、扉が閉まった。
残された沈黙の中で、イリーナは自分の爪先を見た。
綺麗に塗ったネイルが、妙に浮いて見える。
「……ねえ」
カラスマに声をかける。
「アンタって、ああいう人が好きなわけ?」
「何の話だ」
「分かんないならいい」
「分からん」
烏間は本当に分かっていない顔をしていた。
それがいっそう、心に刺さった。
自分の気持ちは、届いてすらいない。
「もし」
机から少し身を離す。
「もし、私が……」
そこまで言って、やめた。
口にした瞬間、全部本物になる気がした。
そして本物になったものを、目の前の男はきっと職業人としてきれいに処理する。
そう思った。
「いや、いいわ」
「何だ」
「確認したかっただけ」
笑う。
うまく笑えているか自信はなかった。
「アンタってほんと、そういうの向いてないわよね」
「自覚はある」
「……そう」
その“自覚はある”が、思っていたより深く刺さった。
無神経だから気づかないんじゃない。
気づいた上で、選ばないのだ。
任務を。立場を。責任を。
そういう人なのだ。
それは誠実なのかもしれない。
でも、恋をしている側からしたら、ひどく残酷だった。
「じゃ、行くわ」
背中にカラスマの声が飛ぶ。
「イリーナ」
一瞬だけ、期待してしまう。
馬鹿みたいに。
「明日の配置だが、A案でいく。確認しておけ」
「……了解」
別に、二人がどうこうなるなんて思ってない。
そういう空気じゃないのは分かる。カラスマはそういう男じゃないし、シズクだって、婚活がどうとか言ってるけど、言っているだけであからさまに距離を詰めるタイプじゃない。
でも、シズクとカラスマは同じ世界の人だ。
この人たちはたぶん、同じ種類の世界で生きてきたに違いない。それを感じるたびに自分が血なまぐさいところにいたことを実感してしまうのだ。
職員室を出て、しばらく廊下を歩いた。
誰もいない角を二つ曲がって、非常階段の踊り場まで来て、ようやく足を止める。窓は少しだけ開いていて、夕方の冷たい空気が流れ込んでいた。
私はポケットから煙草を取り出した。
しばらく暗殺のためにやめていた。
でも今は、何か火をつけるものがないと、胸の奥のざらつきまでそのまま残りそうだった。
ライターを鳴らす。
火が揺れて、先端がじわりと赤くなる。
一口吸い込んで、ゆっくり吐いた煙が薄暗い踊り場に溶けていった。
「やめたんじゃなかったんですか」
声がして、反射で咳き込む。
顔を上げると、踊り場の下、階段の影のところに男が立っていた。
いつからいたのか分からない。気配が薄いくせに、目だけが妙に静かだった。
「……誰よ、アンタ」
男は数段下に立ったまま、やわらかく笑った。
「人には死神と呼ばれています」
私は煙草を持った手を止めた。
男を見ただけで、彼が殺し屋だと分かった。
「私に何の用?」
「実はスカウトに来ました。あなたほどの殺し屋があそこにいるのはもったいないと思いまして」
「ほっといてよ。あんたに何が分かるの」
「だってそうでしょう、世界が違う」
私は目を細めた。
「何よ、それ」
「僕はスラム街出身でしてね。テロが多くて毎日生きるのに必死でした。信頼できるのは金と」
死神は一度だけ間をおいた。
「殺せば人は死ぬ、ということだけでした」
私は小さく息を呑んだ。
まさにそれは私のいた世界の話だった。
「僕とあなたは同じです。だからきっと分かりあえる」
「一緒に協力してあの超生物を殺しませんか」
この手を拒めるはずがなかった。
原作からの変更点
・名雪先生が体育着の折衷案を提案
・死神によるマッチポンプ(ビッチ先生を曇らせてからの慰め)
久しぶりの投稿で立て続けに死神の勧誘回ですみません。死神のマッチポンプを楽しみながら書いてました。烏間先生に疑われない程度に「世界観が似ている2人」を演出しています。烏間先生には単なる仕事できる同僚だと思われてます。
勝手な偏見ですが、ビッチ先生は普段男を騙す側の割に騙されやすそうな気がします。そういう意味では渚も同類ですね。