茅野カエデという人間はわりと勘が鈍い方だと思う。
その日の校外学習は、拍子抜けするくらい普通に始まった。
「防災館?」
ホームルームでそう聞き返したのは、前原君だった。
「はい。地域連携の一環で、明日は防災体験学習に参加してもらいます」
教壇に立った名雪先生は、いつものふわっとした笑顔のままプリントを配っていた。『防災意識向上プログラム』だの『初期消火体験』だの『避難誘導シミュレーション』だの、いかにもそれっぽい言葉が並んでいる。
「えー、なんか地味じゃない?」
「お前、災害なめんなよ」
「いやそういう意味じゃなくてさー」
教室のあちこちからいつものように軽口が飛ぶ。
その中で、私はちらっと渚の方を見た。
渚はプリントを見下ろしたまま、何も言わなかった。
別に、それ自体は珍しくない。渚はもともと騒ぐタイプじゃないし、こういう時に黙っていることだって普通にある。
でも最近は何となく、その「普通」が少しだけ引っかかる。
静か、というより、反応が薄い。そこにいるのに、少しだけ遠い。
——婚活女子は殺し屋だ。スマホで監視している。
渚がそう書いてある紙を見せてきたのは、つい最近のことだ。
カルマくんと三人でいた時に、渚は名雪先生のことを「殺し屋だ」と教えてくれた。油断させるためにまだ隠しておいてほしいと。
正直、信じたわけじゃなかった。でも完全に信じなかったわけでもない。渚があんな顔で嘘をつくとは思えなかったし、カルマくんも「ふーん」と言いながら、どこか目が笑ってなかった。
だから気をつけなきゃとは思ってた。思ってたはずだった。
なのに今、目の前でプリントを配る名雪先生を見ていると、そんな話がどうしても現実に重ならない。
ふんわり笑って、ちょっと頼りなさそうで、生徒の質問にあたふたするあの人が——殺し屋?
頭ではわかっている。でも肌が、空気が、この教室の日常が、その言葉を跳ね返してしまう。
「殺せんせーは同行しないんですか?」
誰かがそう聞くと、名雪先生が「あっ」と少し間の抜けた声を出した。
「殺せんせーは、有給を取ってサッカー観戦に行っていて……現地での途中合流になるそうです。ですので、最初の引率は私が」
「へえ。珍しいね」
カルマくんが言った。声は軽かったけど、私にはその一言がわざと軽く聞こえた。
目が合う。ほんの一瞬だけ。
カルマくんの視線は、「聞いただろ」と言っていた。
わかってる。わかってるよ。
——でも、どうしたらいいの。
目の前の先生が殺し屋だって、どうやって警戒すればいいの。だって今も先生は、少し困ったように笑っているだけなのに。
茅野カエデだったら、先生を疑うだろうか。
*
防災館に着いた時、最初に思ったのは——静かすぎる、ということだった。
建物は新しくて、白くて、妙にきれいだった。大きなガラス扉の向こうには明るいロビーが見えているのに、人の気配がまるでない。
「なんか……思ったよりちゃんとしてるね」
倉橋さんが私の隣で小さく言った。
「もっと古い施設かと思ってた」
「防災館に何期待してたの」
そう返しながらも、私も少しだけ同じことを思っていた。きれいすぎるというか、整いすぎているというか。公共施設特有の生活感のなさが、逆に作り物みたいで落ち着かない。
前の方で、名雪先生が振り返る。珍しく白衣を着ている。
「はい、じゃあみなさん。中に入りますよ。今日は館内が無人運用だそうなので、はぐれないようにしてくださいね」
「無人?」
岡島くんが素っ頓狂な声を上げた。
「え、職員さんとかいないの?」
「予約された学校向けプログラムは、自動音声と施設側のシステムで進行するそうです。最近はそういう施設も多いみたいですよ」
名雪先生は、いつものふんわりした調子でそう言った。
その声を聞いて、少しだけ肩の力が抜ける。殺せんせーも烏間先生もいない今日、頼れる大人は名雪先生しかいない。だから穏やかな声を聞くだけで、こっちは勝手に安心してしまう。
——安心してしまう。
渚の言葉を思い出すべきなのに。
そう思った瞬間、自分の中で何かが小さく軋んだ。聞いていたのに。警告されていたのに。それでもこの人の声ひとつで緊張が解けてしまう自分が、少しだけ怖かった。
でも同時に、私は小さく胸の奥が引っかかってもいた。
今日の名雪先生は、妙に落ち着いている。もちろん引率なんだから落ち着いていて当然だ。当然なんだけど、それにしても、という感じがした。無人の施設にクラスを連れてくることに、もう少し頼りなさが出てもよさそうなのに。
違和感。
渚が好きなのに、信じているのに、目の前の先生を疑えない自分が怖い。
「渚ちゃん、今日来てないんだ」
前原君が誰にともなく言った。何人かがうなずく。
そう。渚は今日いない。朝の時点で、体調不良で欠席だと聞かされていた。
「珍しいよねー、渚が休むの」
「熱でも出たのかね」
「大丈夫かな」
軽い会話が交わされる。
昨日その話を聞いた時に少しだけ変だと思った。最近の渚はずっとどこか様子がおかしかったし、だからこそ体調を崩したと聞くと妙に納得してしまう部分もあった。
でも胸の奥に沈んだ違和感は、納得しても消えなかった。
名雪先生のことを教えてくれたのは、その渚だ。そしてその渚が、よりによって今日いない。
この二つが繋がるのかどうか、私にはわからなかった。
「茅野さん?」
はっとして顔を上げると、名雪先生がこっちを見ていた。
「どうしました? 顔色があまりよくないような」
「え、あ……」
急に声をかけられて、変にどきっとする。名雪先生が私の首元にそっと触れた。ひんやりした指先なのに、なぜか気持ちが穏やかになる。
「だ、大丈夫です。ちょっとぼーっとしてただけで」
「そうですか。無理はしないでくださいね」
やわらかい笑み。優しい声。
そのはずなのに、先生の目がほんの一瞬だけ笑っていないように見えて、私は思わず視線を逸らした。
優しい先生、だよね。
館内に入ると、ひんやりした空気が頬を撫でた。
ロビーには大型モニターと避難経路図、そして受付らしいカウンターがある。でも本当に誰もいない。管理室のガラス窓の向こうも暗いままだ。
『ようこそ、防災体験棟へ。本日のプログラムを開始します』
突然、天井のスピーカーから女性の機械音声が流れた。
「うわ、びっくりした」
「本当に自動なんだ」
みんながざわつく。そのざわめきにかぶせるように、名雪先生がプリントを軽く持ち上げた。
「最初は避難誘導シミュレーション、その後に煙体験と応急手当講習だそうです。順路に沿って移動しますので、列を崩さないでくださいね」
「はーい」
返事はまばらだったけど、皆大人しく従っている。
私たちは名雪先生のあとについて、白い通路へ入っていく。
廊下には非常灯と、赤い矢印のついた誘導表示。壁はつるつるしていて、靴音がやけに響いた。
少し歩いたところで、不破さんが私の肩をつついた。
「ねえ」
「ん?」
「なゆせんせー、変じゃない?」
私は首を傾げる。
「変って何が?」
「いや、ほら。さっきから全然迷ってないじゃん」
そう言われて、前を歩く名雪先生を見る。
たしかに、先生はほとんど立ち止まらない。案内板を確認する素振りもなく、当然みたいに角を曲がって進んでいる。
「事前に資料見たとかじゃない?」
「それにしても、って感じしない?」
不破さんはひそひそ声なのに、妙に断定的だった。
「だって先生、さっき『次は少し暗くなります』って言ってたけど、まだ音声そこまで案内してなかったよ?」
その瞬間、胸の奥が冷たくなる。
言われてみればそうだった。館内に入ってから流れた音声は、プログラム開始の挨拶だけ。照明についてはまだ何も言っていない。
不破さんは、知らないはずだ。渚が言ったことを。名雪先生が何者なのかを。
何も知らない不破さんが、ただの勘だけで気づいている。
なのに、聞いていた私は何もしていない。
「……考えすぎじゃない?」
そう返した自分の声が、思ったより弱かった。
「うーん。でもなんかさ」
不破さんはちらっと名雪先生を見る。
「先生だけ、"全部知ってる"みたいなんだよね」
ぞくり、と鳥肌が立った。
全部知ってる。
——そうだよ。この施設を知ってるんだ。最初から。
渚が言った通り殺し屋なら、全部辻褄が合う。殺せんせーがいない日。烏間先生もいない日。無人の施設。自動運用。全部、最初からこの人が選んだんだ。
そのタイミングを見計らったみたいに、照明が一段落ちた。白かった通路が薄暗くなり、赤い非常灯だけが壁をぼんやり照らす。
「おっ、始まった?」
「訓練っぽくなってきた」
男子たちが少しだけ楽しそうに言う。
でも私は笑えなかった。前を歩く名雪先生は、振り返りもしない。照明が落ちたことにも、全然驚いていない。
『避難誘導シミュレーションを開始します』
機械音声が響く。
そのすぐあとに、前方でガコン、と重い音がした。通路の先にある防火シャッターが、半分ほどまで下りてくる。
「うわ、本格的」
「こういう演出なんだろ」
まだ、みんなは訓練だと思っていた。そう思いたかったのかもしれない。
でも不破さんは、そこで急に声を張った。
「ねえ、なゆせんせー!」
通路の空気がぴたりと止まる。
名雪先生がゆっくり振り返った。
「はい?」
「先生、ここ初めて来たんですよね?」
不破さんの声は明るい。なのに、その明るさがひどく場違いに聞こえた。
「そうですよ?」
「じゃあなんで、シャッターが閉まるって分かってたの?」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
その瞬間だった。
ガコン、とさらに大きな音がして、背後のシャッターが一気に最後まで落ちた。
「っ!」
悲鳴が上がる。もう誰も訓練だなんて思っていなかった。
名雪先生は数秒、何も言わなかった。
やがて、少しだけ目を細める。
「……不破さんは、勘がいいですね」
その声音は穏やかだった。
でも、今まで教室で聞いていた穏やかさとは、どこか決定的に違った。やさしさじゃない。薄い膜みたいなものの向こうから聞こえてくる、温度のない声だった。
「どこで気づいたんですか?」
名雪先生がそう訊いた時、私はぞっとした。
本当に興味があるみたいな、柔らかい声だった。まるで教室で生徒の発表を聞く時みたいに。
不破さんは、一瞬だけ唇を引き結んだ。でも、視線は逸らさなかった。
「——先生の名前」
「名前?」
「名雪雫。漫画に出てきたら絶対犯人の名前だなって、ずっと思ってた」
名雪先生が、わずかに目を細める。
「名雪の『名』は、name。雪は、snow。雫は、drop」
不破さんは指折り数えるみたいに言った。檻の中にいるのに、その声は震えていなかった。
「繋げると、"The name is Snowdrop"。スノードロップの花言葉は——"あなたの死を望みます"」
通路が、しん、と静まり返る。
名雪先生は数秒、何も言わなかった。
それから、ほんの少しだけ口の端を持ち上げた。
「そこまで気づいてくれて、とても嬉しいです。漫画脳の不破さんなら絶対に気づいてくれるって思ってました」
名雪先生の優しい表情のまま目の前の相手は不破さんを褒めた。いつもの名雪先生だった。
「本当は、もう少し後で気づかれる予定だったんですが」
「え……?」
誰かが呟く。それが誰の声だったのか分からないくらい、頭の中が真っ白になった。
「先生、何言って——」
磯貝くんが言いかけた、その時。
『緊急閉鎖モードを開始します』
スピーカーから流れた声は、さっきまでの案内音声とは違っていた。低くて、平坦で、人間味がない。
「律?」
イトナ君が呟いて、それが律の声だと気づいた。
次の瞬間、床が震えた。
「きゃっ!」
床の細い継ぎ目から、透明な板が一斉にせり上がる。一本、二本、三本。通路を断ち切るように、私たちの間に壁が立った。
「なにこれ……!?」
誰かが叫ぶ。板の表面はガラスみたいに見えるのに、色が鈍く濁っていて、嫌な光沢を返していた。
前と後ろ、右と左。あっという間に細かい区画に分断される。
「ふざけんなよ!」
前原君が隔壁を叩く。岡島君も怒鳴っている。磯貝君が落ち着けと声を張る。
でも、その騒がしさの中で、名雪先生だけが静かだった。名雪先生だけいつの間にかガラスのような壁の外側に立っていた。
「大丈夫ですよ」
スピーカー越しに聞こえたその言葉で、逆に全身が冷たくなる。
「みなさんは、少しここにいてもらうだけですから」
「……それは、誰のために?」
カルマ君の声だった。壁の中に閉じ込められているのに、その声だけは全然揺れていない。
名雪先生が、笑った。
私は息を止めた。
今まで見てきた笑顔と、形は同じはずなのに、まるで別物だった。頼りなさそうで、少し困ったようで、いつも教室で見ていたあの顔なのに——別人みたいだった。
顔が同じだからこそ、余計に怖い。知っている人の顔をした、知らない何かがそこにいる。
不破さんが、はっきりと吐き捨てた。
「……誰なの、あなた」
通路が静まり返る。
名雪先生は、その問いを否定しなかった。むしろ待っていたみたいに、ゆっくりと白衣の襟元に指をかける。
「名雪先生、という役は結構気に入っていたんですけどね。みなさんも素敵なあだ名で呼んでくれましたし」
役。
その一言で、ぞわっと総毛立つ。全部、演技だったと、本人がそう言っている。
「役……?」
倉橋さんの声が震える。
名雪先生は、白衣を静かに脱いだ。下に着ていた服は変わらないはずなのに、その仕草ひとつで別人みたいに見えた。
背筋が伸びる。立ち方が変わる。視線が変わる。
それだけで、教室で見ていた「少し頼りない先生」の面影が、音もなく剥がれ落ちていく。
——ああ、これだ。
渚が見ていたのは、これだったんだ。
この人の奥にある、こっちの顔。私たちが信じていた先生の下に、最初からずっとあったもの。渚にはそれが見えていて、私には見えなかった。聞いていたのに。
「でも、そろそろ終わりにしましょう」
声も同じはずなのに、もう違って聞こえる。それなのに、私は彼女のことを敵と認識できない。それがとても怖い。
「私は『死神』と呼ばれる殺し屋です」
あまりにも自然に告げられた。
教壇に立って出席をとるのと同じ声で、宿題の範囲を読み上げるのと同じ調子で、この人は自分が殺し屋だと言った。
驚きの声が上がる。
「うそ……」
かすれた声が漏れた。たぶん、私だった。
あの名雪先生が。いつもふわっと笑って、ちょっと頼りなくて、でも優しくて——
でも目の前にいるその人は、もう何も隠していなかった。
隠す必要がなくなったのだ。私たちはもう、逃げられないのだから。
「最初から……?」
気づけば、そう呟いていた。
「最初から、先生なんかじゃ……」
死神は、静かに私を見た。
その目には、教室で見ていた人間らしい揺れがひとつもない。さっき私の首元に触れた、あのひんやりした指を思い出して、吐き気がした。あの瞬間も、この目で私を見ていたのだろうか。
「先生を殺すのに、とても良い特等席でした」
その言い方が、あまりにも冷たくて、胸の奥が崩れた。
今までかけられた言葉。心配してくれたように見えた視線。頼りないようで、でもちゃんと引率してくれていた姿。その全部が、最初から仮面だった。
渚は知っていた。教えてくれた。なのに私は警戒できなかった。
この人の笑顔が優しかったから。
「教師という立場は便利でした。疑われにくい。近づきやすい。生徒を誘導しやすい」
その一つ一つが、刃みたいに胸に刺さる。
「今日だってそうです。先生も烏間先生もいない。無人施設。自動進行の訓練プログラム。君たちを効率よく確保するには、最適な条件でした」
確保。その単語で、背筋がまた冷える。
「つまり、最初から私たちを……」
「ええ」
死神はあっさりとうなずいた。
「ここへ閉じ込めるために連れてきました」
ガシャン、と頭上で重い音がした。見上げると、区画の上部にも格子が下りてきて、完全な檻になる。前後左右だけじゃない。上まで塞がれた。
逃げ道が、本当に一つもない。
「っ……!」
私は思わず一歩下がった。倉橋さんの手がまだ私の袖を掴んでいる。震えているのが分かる。たぶん私も同じだった。
「で?」
そんな中で、カルマくんだけが薄く笑った。
「そこまで正体明かして、何するわけ?」
その目はまったく笑っていない。
——カルマくんも、知っていた。私と同じように、渚から聞いていた。なのにこの人は、怯えるどころか睨み返している。
同じことを聞いていたのに、この差はなんだろう。私はただ怯えて、何もできないままここにいる。
死神は少しだけ顔を傾けた。
「簡単ですよ」
その視線が、檻に閉じ込められた私たちを一人ずつなぞる。品定めするように。値踏みするように。教室であんなに優しく見ていた目が、今は冷たい計算しか映していない。
「君たちには、ここで先生を呼ぶための花になってもらいます」
花。
その言い方に、胃の奥がぎゅっと縮む。
「……人質ってこと?」
不破さんが言った。
「理解が早いですね」
死神は、ほんのわずかに笑った。褒めるような声だった。教室で生徒の回答を褒める時と、まったく同じトーンで。
その一言で、もう言い逃れなんて何ひとつなくなった。
私たちは閉じ込められている。最初からそのために連れてこられた。
そして今、目の前にいるのは名雪先生じゃない。
最初からずっと、死神だった。
私は格子を握りしめたまま、うまく息ができなかった。
教室で笑っていた先生の顔が、頭の中で何度もちらつく。あの笑顔が消えたんじゃない。最初から、あんな先生はどこにもいなかったんだ。
渚は見抜いていた。教えてくれた。カルマ君にも、私にも。
なのに私は、あの優しい笑顔に安心して、何もしなかった。
その事実が、恐怖よりもずっと遅れて、鈍い痛みになって胸の奥に沈んでいく。
茅野カエデという人間はわりと勘が鈍い方だと思う。役に入り込んでいる間だから、気づけなかったのかもしれない。
原作からの変更点
・突然始まる防災訓練
・死神の潜入方法の変化(花屋→教師)
・副担任ならビッチ先生を人質にとる必要がない
・名探偵不破
・茅野とカルマは気づいていたのに対応できず
死神回です。原作改変しまくっています。
気づいたら連載開始から約10年。作者も高校生から社会人になってしまいました。長い間更新が止まっていたのに待っていてくださりありがとうございます。感想大変ありがたく読んでいます。まだちょっと続きます。