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公安局ビルの隔離区画内にある、執行官宿舎。
その出入り口は、重厚なシャッターで廊下と仕切られ、警備ドローン2体が監視用に配置されている。
芹香はその前に立ち、短い廊下の先にあるエレベーターホールを、ぼんやり見つめていた。
腕に埋め込まれたデータチップを取り出すことを決めた時、これでもう後戻りは出来ないと思った。
不安が無いといえば嘘になる。
けれど、平穏に暮らしていた岩谷を死に追いやった犯人達に、ドミネーターを向けないまま終われない。
その思いだけが、今の芹香を突き動かしていた。
途中の階で止まっていたエレベーターケージが、移動していることを示すランプが点滅し始めた。
やがて停止したエレベーターのドアが、静かに開く。
「お待たせ、北条君。場所移動しよう」
エレベーターの中から顔を出した瀬川が手招きし、芹香は急ぎ足でエレベーターに乗り込んだ。
「すみません、瀬川さん。突然無理言って」
「いや、かまわないよ。むしろ嬉しいくらいだ。僕だけに聞いてもらいたい話があるって事は、それだけ僕を信頼してくれてるのかなって、思えるからね」
瀬川はそう言うと、B3Fと書かれたボタンを押した。
「三波さんを信頼していない訳じゃないんですけど、なんとなく話難くて」
「まあね。三波監視官は僕と違って、潜在犯とは、しっかり距離を置きたいっていう主義の人だから」
「瀬川さんは、どう思ってるんですか? 私達潜在犯の事」
エレベーターケージの壁に寄りかかっている瀬川に視線を向けて、芹香が訊ねた。
「監視官という立場で言えば、高い犯罪係数を持つ潜在犯は、将来犯罪を犯す可能性の高い危険な存在である、という認識はあるよ。でも僕個人としては、潜在犯かどうかという事よりも、一人の人間として信頼に値するかどうかを判断基準にしてる。たとえ犯罪係数が低くても、人として最低な奴っていうのを、僕は、何人も見てきたからね」
そう言うと瀬川は、複雑な表情を浮かべた。
「そういう点から言うと、一係はいい人材が揃っている。まぁ片山君や牧野君のように、ちょっとやんちゃが過ぎる子達もいるけどね。もちろん北条君、君のことも信頼に値する人間だと、僕は思ってる」
「ありがとうございます、瀬川さん」
電子音が鳴り、エレベーターのドアが開いた。
瀬川の後に続いて、芹香が歩き出したその場所は、職員専用地下駐車場だった。
「北条君からメールもらって、人に話を聞かれない場所っていうと、ここぐらいしか思いつかなかったんだよね」
広い駐車場の中を、慣れた様子で歩きながら瀬川が言った。
エレベーターホールから2ブロックほど離れたところに駐車されていた、ワインレッドのスポーツセダンの前たどり着くと、瀬川はリモコンキーでドアロックを解除する。
「さあ、どうぞ」
瀬川は助手席のドアを開け、芹香を促した。
芹香が助手席に乗るとドアを閉め、瀬川は運転席側に乗り込む。
「録音とかはしてないから、安心していいよ。で、何かな、僕に話をしたい事って?」
運転席で身をよじり、芹香の方を向きながら瀬川が問いかけた。
「その前に、1つ謝らないといけません。午前中に、会議室で話した犯人についての心当たりの件、あれ全部嘘です」
「だよね、判ってたよ」
瀬川は当然というような顔で、芹香に言う。
「えっ? 瀬川さん気づいていたんですか?」
「もちろん。まぁ三波監視官もいたしね、言いたくないことがあるので言えませんなんて言ったら、あの人怒るだろうし。 彼は素直に信じていたから、あれはあれでよかったんじゃないの?」
瀬川の言葉に、芹香は肩を落とす。
「なんだ、てっきり瀬川さんも、本気で信じているものだとばかり思ってました。でも、どうして判ったんですか?」
「そうだな、瞬きの回数、話すスピード、声の高さなんかが、あの話をしている時だけ違っていたからかな。僕、こういうの感覚的に判っちゃうんだよね」
そう言って笑う瀬川を見て、芹香もつい笑みを返した。
「やっぱり瀬川さん、すごいです。普通ならそんなことまで気づきませんよ」
芹香はそう言うと、スーツのポケットから黒いメモリースティックを取り出した。
「私も、瀬川さんの事は監視官としても、人としても信頼しています。だから瀬川さんに、これを託すことにしました」
「それは?」
芹香が手にしているメモリースティックに、視線を向けて瀬川が訊ねた。
「この中には、かつて公安局運用開発部の責任者だった岩谷宗一郎から預かったデータが入っています。このデータを東京の公安局局長に渡してもらいたいんです」
「データを渡すだけでいいのかな?」
芹香が差し出したメモリースティックを受け取りながら、瀬川が言う。
「いえ、それを渡した上で、私が局長と話をしたいと言ってる、と伝えて頂きたいんです」
芹香の言葉を聞いて、瀬川は表情を厳しくした。
「通常であれば、潜在犯である執行官が局長に会うことは出来ない。けれどこのデータを渡せば、話を聞くという勝算があるんだね?」
「はい、絶対とは言い切れないんですけど」
手にしたメモリースティックを、瀬川はしばらく見つめていたが、何かを決意したかのように頷いた。
「判った、やってみよう」
「ありがとうございます、瀬川さん」
そう言って頭を下げた芹香を見て、瀬川は苦笑いを浮かべた。
「まあ僕としては、建造物爆破の犯人の事とか、何故犯人が君の身柄を引き渡せと言っているのか、本当は聞きたい事、山ほどあるんだけど、まずはこっちのほうが重要そうだね」
「あ……すみません、信頼してると言っておきながら、肝心なこと話さなくて」
申し訳なさそうに目を伏せる芹香に、瀬川はやさしそうな笑顔を見せた。
「いいさ。君は、今話すべきではないと思っているんだろう? 僕は、君のその判断を信じるよ。じゃあさっそく行動開始だ」
瀬川はそう言うと、運転席のドアを開け外に出た。
芹香もその後に続く。
「ねぇ北条君、これは僕の勘だけど、君、相当危ない事しようとしてない?」
駐車場の通路をエレベーターホールに向かって歩きながら、瀬川が言う。
芹香は、少し驚いたように瀬川の横顔を見た。
「なんだか、瀬川さんには心の中を読まれちゃってるような気がします」
芹香はそう言った後、しばらく黙り込んでいたが、エレベーターホールにたどり着いたところで、ようやく口を開いた。
「確かに、私がしようとしている事は、相当危ない事かもしれません。それでも何もせずに後悔はしたくないんです」
芹香の言葉を、真剣な表情で聞いていた瀬川が、小さくため息をついた。
「危ない事しちゃダメだよって言おうと思ったんだけど、北条君の顔見てたら、言えなくなっちゃったなあ」
そう言うと瀬川は苦笑いしながら、ドアの開いたエレベーターに乗り込んだ。
「北条君、今の僕が言えるのはこれだけだ」
瀬川の手が、芹香の肩に乗せられた。
いつになく真剣な眼差しで、瀬川はまっすぐに芹香を見つめた。
「もうだめかもしれないと思う時が来ても、絶対にあきらめるな。必ず勝機はある、それを信じろ」
瀬川の言葉を聞いて、芹香は本当に自分の心が読まれているのではと感じざるを得なかった。
けれど、瀬川は本当に何も知らないはずだ。
そして、社会から排除された潜在犯である自分の為に、瀬川がこんな言葉をかけてくれたことが、芹香はとても嬉しかった。