執行官用入院施設で1週間過ごし、芹香は退院を許された。
とはいえ、損傷の激しかった右足は医療用マイクロマシンでの治療が終わったばかりで、修復された組織が定着するまでには、もう少し時間がかかると医師に言われた。回復したばかりの左肩は、動きに慣れさせるためのリハビリを始めたところだ。
医師に退院を懇願し、結局あと1週間は宿舎に戻って療養するという条件で、芹香はやっと自室に戻ることができたのだ。
さすがに最初の1日目は、自室で大人しくしていた芹香だったが、2日目ともなると暇をもてあまし、執行官宿舎フロア内にある共有スペースにやってきた。
自動販売機と、テーブルや椅子が並ぶフロアを抜け、芹香は、ラウンジに隣接したは展望スペースに出る。
一人で自由に外に出られない執行官が、唯一外の空気が吸えるその場所は、かなり広めにスペースを取ってあり、手すりの側にはいくつかベンチも置いてある。冬になると誰が作ったのか判らない雪だるまがいくつも並ぶ、執行官達の憩いの場所だった。
とはいうものの、3年もここにいて、芹香は一度も展望スペースに出た事がなかった。非番の日でも、執行官用のトレーニング施設に入り浸っていたり、岩谷博士の事件に繋がる資料はないかとデーターベースを漁っていたせいだ。
今にして思えば、かなり余裕の無い状態だったのかもしれない。展望スペースに行ってみようと思ったのは、気持ちに余裕が出てきた証拠なのだろう。
「さすがに、ちょっと風が冷たいな」
左手の杖を支えにして歩きながら、芹香は一人つぶやいた。左足はもうすっかりよくなっているが、右足は筋肉がうごくと痛みが走り、まだあまり力が入れられない。
左肩は、もう力を入れても痛みはないので、落ちてしまった筋力を鍛えるのに、左手の杖を使っての歩行は、いいトレーニングになりそうだった。
傍らに杖を立てかけ、展望スペースの手すりに寄りかかった芹香は、高層ビル群の上に広がる空を見上げた。
青い空に、白い雲が浮かぶその光景は、竹下達の船がやってくるのを待っていた、あの場所で見た風景を思い出させる。
「芹香!」
背後から真里亜の声がした。振り返ると白衣の上にベビーピンクのショールを巻き付けて、真里亜が駆け寄ってくるところだった。
「部屋にいないと思ったら、こんな所にいた。自室療養許可出たからって、好き勝手にあちこち動き回って良いって、言われたわけじゃないんだからね」
不満そうに言う真里亜に、芹香は肩をすくめてみせた。
「これもリハビリのうち。早く動けるようになって、仕事に戻りたいもの」
「でも、まだ右足は治療が完全に終わっていないんだし、無理しちゃだめよ」
体重がかからないよう、地面から浮かせたままにしている芹香の右足を、心配そうに見つめて真里亜が言う。
「判ってる、判ってる」
「もう……ほんとに判ってるのかな」
気のない返事をする芹香にため息をつきながら、真里亜も展望スペースの手すりに寄りかかる。
「そういえば瀬川さんに聞いたんだけど、7本あったケーブル回線のうち、ダミーとして使っていた3本分は正式に破棄が決定したそうよ。通信衛星による非常用回線も、メインのケーブル回線が3本復旧したところで運用終了。また休眠モードに戻しておくんですって」
「通信衛星がちゃんと使えるなら、地上回線使わなくてもいいんじゃないのかな?」
「それがね、通信衛星経由だと通常より出力を上げて運用しないといけないらしくて、ノナタワーの送信システムの負荷が大きいらしいの。電力消費も相当跳ね上がるから、厚生省としては、予算的にも早く地上回線に戻したいみたいよ」
真里亜の説明を聞いて、芹香はようやく納得する。システムは魔法で動いているわけではない。運用するにはお金がかかるということだ。
「でも瀬川さん、そんな話まで真里亜にしちゃって大丈夫なのかな」
芹香の言葉に、真里亜が小さく笑う。
「まあ瀬川さんが特務課の人間だって知ってるのは、私達だけだし。この程度の話は、いまさら私達に隠す必要もないんじゃない」
「それもそうだね」
そう言うと芹香は、手すりの縁に頬杖をついた。
「瀬川さん、あれで判ってくれたかな」
つぶやくように言った芹香の横顔を、真里亜が見つめている。
「芹香が潜在犯として捕まって執行官になったのが、自分のせいだって瀬川さんが思い込んでいたとしたら、芹香の言った言葉の意味は、伝わってると思うけどな。でも岩谷博士が瀬川さんを知っていたとはね」
真里亜はそう言うと、視線を空に向けた。
「うん、先生が残していた古い暗号化メールの中に、瀬川さんとのやりとりを見つけた時は、私もさすがに驚いた」
入院中、自室から真里亜に持ってきてもらったノートパソコンで、岩谷が残したデータを見直していたとき、古い暗号化メールのデータの中に、瀬川の名前を見つけた。
解除コードの件で交渉させて欲しいという依頼を、岩谷が受諾している内容で、その日付は、襲撃の5日前だった。
「もともと執行官とあまり距離をおこうとしない人だったけど、どうしてこんなに私の事を心配してくれるんだろうって、ずっと思ってた。でも先生と私の関連を知っているなら、私が潜在犯として捕まったことや執行官になったことを、自分のせいだって思い込んでるのかもしれない。自分がもっと早く先生に会っていれば、私を執行官にしなくて済んだって」
「優等生気質で生真面目な瀬川さんなら、いかにもそう思い込んでいそうよね。これまでの行動が、瀬川さんにとっても罪滅ぼしの意味があるなら、いろいろ納得もいくし」
芹香の言葉に、真里亜が頷いた。
「もっとも、これは私の想像。実際に話を聞いたわけじゃないから、本当はどうなのか判らない。本気で、ただの部下思いな上司ってだけだったのかもしれないしね」
そう言うと芹香は、なにげなく執行官デバイスに表示されている時間を見た。
「それより真里亜、今仕事中じゃないの?」
今日は日勤ということで、真里亜は朝9時には出勤して行った。デバイスに表示されている時間は、まだ11時にもなっていない。
「そうだ、肝心な用件忘れるところだった」
そう言うと真里亜は、白衣のポケットに手を入れて小さな箱を取り出した。
「これ早く見せたかったから、抜け出してきたの」
真里亜は小さな箱から、さらに小さなケースを取り出した。サファイヤブルーのケースの中には、透明な青紫色の石がついたスタッドピアスが入っている。
「すごく綺麗な石。どうしたの、これ?」
芹香の問いかけに、真里亜はにっこりと笑うと芹香の耳を指さした。
「ピアス無くなっちゃったでしょう。ホール塞いじゃうのも、もったいないなと思ったから、お揃いで買ったの」
髪をかき上げた真里亜の耳に、同じ石のついたピアスが光っていた。
「もっとも石はイミテーションだけど。今つけてあげるね」
手すりに掴まり、真里亜のほうへ向き直った芹香の右手にケースを預け、真里亜は芹香の両耳にピアスをつけた。
「うん、その色やっぱり似合う。私の目に狂いはなかったわ。」
芹香の耳に飾られたピアスを見て、真里亜は満足そうに言うと、突然両腕で芹香を抱きしめた。
「もうどこにもいかないでね、芹香」
耳元でそうつぶやく真里亜の言葉に芹香は頷き、両腕を真里亜の背中に回す。
「うん。真里亜には辛い思いさせたのに、私はまだ何もしてあげられなくて、ごめんね」
「ばかね……ちゃんと私のところに戻って来てくれたんだもの。それだけで十分よ」
真里亜の言葉と、腕のぬくもりに、芹香は少し泣きそうになる。
もう2度とこのぬくもりを手放したくない、そう芹香は思った。