「いい香り」
芹香は湯船の湯を両手にすくい、深呼吸をした。
バスルームの中は、やわらかなラベンダーの香りで満たされている。
ここ数日は忙しさにかまけてシャワーですませていたので、久しぶりのゆったり過ごせるバスタイムは至福の時だった。
芹香は湯船の中で足を伸ばし、天井を見上げた。
(あれから、もう3年になるのか)
街頭スキャナに引っかかり、執行官に身柄を拘束され、潜在犯として更正施設に送致処分となった3年前。
何も出来ないまま、一生ここから逃げられないのかと絶望の底にいた芹香にとって、執行官適性が出たのは本当に幸運だった。
施設にいたのは、2ヶ月ほどだったが、それでもあの日々は本当につらかったと、今でも思う。
執行官になる事をすぐに承諾したのは、あの場所から抜け出したいという思いも確かにあった。
けれどそれ以上に、芹香を突き動かしたものがある。
(執行官になれば、先生を殺した奴を捕まえることができるかもしれない……そう思っていたのにな)
芹香はのばしていた足を引き寄せ、両腕で抱きかかえた。
芹香の家から、200メートルほど離れたところに住んでいた岩谷宗一郎の事を、芹香は先生と呼んでいた。
非正規居住区で小さな診療所を開いていた父は、芹香の出生届を政府に登録していなかった。
学齢期になっても学校には通わず、学習の全てを両親に教わっていた芹香に、理数系の知識や、PCやネットワークに関する知識を教えてくれたのは岩谷だ。
そんな肉親同様に大切な存在だった岩谷は、燃えさかる家の中で一人死んでいた。
岩谷が亡くなった日、自宅から彼の家に向かっていた芹香とすれ違った、2台の車。
その車にのっていた黒ずくめの男達の中で、ひときわ目立つ、目つきの鋭い色黒の男の顔は、いまでもはっきり覚えている。
(先生を殺したのは、あいつらだって判ってるのに。3年たっても、なんの手がかりもみつけられてない……)
けれどおそらくあの男達は、反政府活動をしている者達だ。
そんな活動をしているのなら、犯罪係数も相当高いに違いない。
執行官を続けていれば、いつかきっとあの男達にドミネーターを向けることが出来る。
今の芹香は、それを信じて執行官を続けるしかなかった。
(そういえば、あんまり思い詰めるなって、真里亜に言われたんだっけ……)
思い悩んでいても、早く解決するわけではない。
ましてや、刑事という肩書きはあっても、執行官は自分勝手に事件の捜査をすることもできない。
(焦ってもしかたがないか……)
芹香は心の中でそうつぶやくと、もう一度湯船の中で足を伸ばした。
右手でお湯をすくい、少し冷えはじめた左腕にかける。
その左腕には、3センチほどの傷跡があった。
芹香はその傷をしばらく見つめた後、そっと右手の平で覆った。
(でも、いつかかならずたどり着いてみせる。あの男たちに……)
- To be continued -