-1-
「北条、時間だぞ。そろそろ起きろ」
ぼんやりとした意識の向こうで男性の声が聞こえ、同時に大きな手が芹香の頭を軽く叩いた。
「んっ……ああ、高峰さん。おはようございます」
芹香はそう言うと、あまり寝心地が良いとは言えない合成レザー張りのソファから起き上がった。
「ちゃんと、休めたか?」
ソファの横にしゃがみ込んでいた、芹香の同僚執行官である高峰龍二が、あくびをかみ殺している芹香に苦笑しながら問いかけた。
色黒で少し癖のある髪を若干伸ばしっぱなしにしている風貌は、目つきの鋭さもあってワイルドという表現の似合う高峰だったが、その笑顔は何故かとても優しい。
監視官から犯罪係数の上昇によって執行官に降格させられた経歴の持ち主だったが、むしろ自分の正義を貫けると言って喜んでいるような人間だった。
判断力、行動力、捜査能力、すべてにおいて一係の中で一番の能力を持つ高峰の事を、芹香は一番信用している。
「まぁそれなりに。ここで寝るの慣れてますから」
そう言いながらも、芹香は大きく伸びをして、微かに痛む腰を叩いた。
オフィスの壁際にある空きスペースに置いた古いソファ周りを、オフィス用のパーティションで囲んだだけの仮眠スペース。
仮眠を取るためによく利用していて、寝慣れているとはいえ、狭いソファで不自由な体勢を続けていたせいで、身体のあちこちが痛かった。
「日勤の奴らが来る前に、顔洗ってこい。顔に痕ついてるぞ」
そう言うと高峰は立ち上がり、自分のデスクに戻っていく。
芹香はソファ横に脱ぎ捨ててあった靴を履くと、狭い仮眠スペースを出た。
「おはよう、北条くん。よく眠れたかい? 悪いね、仮眠室ずっと使わせてもらっちゃって」
2席ある監視官用執務席の1つに座っていた男性、瀬川真監視官が、芹香の姿を見て声をかけてきた。
「おはようございます、瀬川さん。私は大丈夫です。瀬川さんこそ、第一当直からそのまま日勤シフトなんですから、ちゃんと仮眠室で休んでもらわないと」
24時間体制で勤務している刑事課フロアには、簡易ベッドをそなえた正式な仮眠室もある。
けれど数が3室と少ないので、たいてい仮眠室は監視官に使わせるのが常だった。
「おかげさまでしっかり休めたよ。今夜は出動がゼロで、本当に良い夜だった」
瀬川はにこやかにそう言うと、机の上にある鏡を見ながら整髪料で整えた短い髪に櫛を入れはじめた。
「ほんと久しぶりですよね、夜間に出動ゼロなんて」
自分の机の引き出しから洗面道具の入ったポーチを取り出しながら、芹香が言う。
「昨日は暴風雨だったらしいからな。みんな家でおとなしくしてくれていたんだろうさ。反動でこれからが怖いがな」
自分のデスクでニュースサイトをブラウズしていた高峰は、そう言うと手にしていた缶コーヒーに口をつけた。
「ですね。じゃあ顔洗ってきます」
そう言うと、芹香はオフィスを出た。
朝6時前とはいえ、ちょうど今の時間帯は、刑事課全体がシフト交代の時間にあたり、フロアはそれなりに人がいた。
一係の隣に続いている、二係と三係のオフィスも慌ただしく人が出入りしている。
そんなガラス張りのオフィスを横目で見ながら廊下を歩いていると、後ろから誰かが駆け寄ってくる気配がした。
「おはようございまーす、北条先輩!」
駆け寄ってきたのは、芹香の後輩執行官である、牧野きららだった。
毛先を立たせたベリーショートの茶髪に、ピンク色のメッシュでアクセントをつけた頭をぺこりと下げると、顔を上げて牧野はにっこりと笑った。
「おはよう、牧野。ちょっと久しぶりに顔みるね」
「そうですよ。シフト違うとなかなか先輩の顔見られなくて、つまんなかったです」
そういうと牧野は少しふくれてみせる。
執行官としてもうすぐ1年になり、新人という表現がもう必要ない程度まで成長した牧野だったが、こういうところは、まだ17歳らしい。
「私がシフト明けで帰る前に出勤してくれたら会えたのに、牧野、いつも時間ぎりぎりでしょう?」
「あーそれは言えてます。ちゃんと時間前に着くように宿舎を出ようと思ってはいるんですけど、エレベーター乗ればすぐ来られると思うと、なんかついダラダラしちゃって……」
牧野は、そう言うと恥ずかしそうに肩をすくめる。
執行官といえども、本来であれば隔離施設に収容されるべき潜在犯であることに変わりはない。
監視官の同行がなければ、公安局内から出ることは許されない為、執行官の宿舎も公安局内に設けられた隔離区画フロアにある。
刑事課フロアとは、エレベータで繋がっており、自分の部屋から5分もあればオフィスにたどり着くことが出来た。
「牧野、私と話してると、また遅刻になるわよ。さっさとオフィスに行きなさい」
芹香は、執行官デバイスに表示されている時間を牧野に見せながら言った。
「わっやべー。んじゃまた後で」
そう言いながら牧野はオフィスに駆け込んでいく。
そんな牧野の背中を見送り、芹香は洗面所へと足を速めた。