私には気になる女性がいた。映画館へ足繁く通う彼女はいつもスーツ姿なのだ。

 そして彼女は上映が終わると決まって、映画のパンフレットを買い求め、その足でフードコーナーへ行きホットドッグを買い。
 それを頬張りながら、喜色満面とパンフレットに視線を落とすのである。

 彼女と話しがしてみたい。私の願望を私以外の誰が叶えてたまるものか。

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月が兎に恋をして

私は映画をこよなく愛している。そして足繁く通うシネマ。南海スカラ座をもこよなく愛しているのである。映画とは大衆娯楽にしておくには勿体ない世界であろうと思う。高々、数時間の物語であろうとも、そこには多くの汗と涙が礎となってこそ、私がその世界を楽しむ事ができるのだ。ゆえに私は映画を見に行く時はドレスシャツにジャケットを着て行く。これは決して、この映画館で素敵な女性との出会いがあるかもしれない。そんな邪な淡い期待をいだいているからではない。映画への!ひいては、この素晴らしく幻想の世界への敬意を服装でもって表しているのである。

 映画とは長い年月をかけて練り固められた創作品であるからして、それ相応の覚悟と期待と浪漫を持ってじっくり見なければならない。決してボーリングやカラオケなど単純な娯楽と一緒くたにしてはいけないのである。

 だからこそ、スクリーンが開くその時、また一つ新しい世界がはじまるような、そんな興奮と、ときめきをおぼえるのあろう。

 最近気が付いたのだが、私と同じ映画を見る人がいた。それは女性であった。女性であるから特別に何を思うこともない。ただそれが女性であっただけ、ただそれだけである。

 その女性は、いつも私と同じスクリーンの前に座り、瞳を輝かせながら映画に見入っているのである。瞳を輝かせているかどうかは私の着色であるが、私同様に足繁く映画館へ通っているのであるからして、映画を愛していることは実であろうと思いたい。

 ただ、そんな彼女はいつも紺色のスーツを身に纏って映画を鑑賞していた。

 純然たる映画ファンであると思いたいところだが……実のところ彼女は観客になりすまして、映画の盗撮など違法行為を取り締まっている従業員なのではあるまいか……と一片だけでも疑心がふよふよしているのがもどかしい。

 後者であった場合は、至極残念だ。映画ファンと従業員とでは映画に対する思いも万別と言ってしかるべきであろう。

 いち映画ファンにとってすれば、彼女には前者であってほしいと願うばかりである。

 

 

  ◇

 

 

 私が一人で南海スカラ座へ足繁く通うようになったのは2年ほど前からでした。消して他に行くところも行く人もいないからではありません。一人で映画館へ行くことに眉を顰める方もおられますけれど、映画を一人で観賞してはいけないと決めたのは誰でもありません。第一、そんなことは決まっていないのです。

 私は映画を一人で見るべきだとも思うのです。

 映画に関わる全ての人たちの汗と涙の結晶をいちゃいちゃとしながら見たり、喋りながら見たりするのは、それらの人達への侮辱なのですから。

 胸を張って堂々ともう一度言いましょう。映画は一人で見るものなのです!!

 胸を張って堂々と言った私ですけれど、最近気になる方がいるのです。それは男性です。ただ男性であったと言うだけで、特別な理由はありません。ただ、男性であったと言うだけなのです。

 その方は、決まってお洒落なシャツとジャケットを着て映画を観賞しています。どこからどう見ても正装なのです。

映画とは本来娯楽であるべきですから、もう少し楽な格好でも良いのでは?と思ったりしたところから気になってしまったのです。

 そう言う私もスーツ姿で映画館へ行きます。それには特に理由はありません……ただ、帰りに映画館へ立ち寄るから。ただそれだけなのです。

 ひょっとしたら、あの方も帰りの道すがら立ち寄られているのかもしれません。私と同じ映画好きでしたら良いのですけれど……そう思う一方で、ひょっとしたら、盗撮などの違法行為を監視している従業員の方かもしれませんと疑う気持ちも傍にあります。もしも従業員の方でしたら、毎度、私とスクリーンを同じくして映画を見ているのも納得がいきます。ですが、それでは映画を嫌々見ているのかもしれません。

 それでは、真っ向から映画に対する思いが歪んでしまいますから、誠に残念です。ですから、映画好きである私からすれば、同じ映画好きであってほしいですね。と少し思ってみたりしました。

 

 

  ◇

 

 

 彼女は決まって、映画のパンフレットを購入しては、フードスペースでホットドックを頬張りながら、これに視線を落としている。

 前回は、あまりにも一口に頬張り過ぎて、溢れたケチャップがパンフレットの上に落ちてしまった。彼女は慌てて、紙ナフキンを取りに走ると、その帰りに椅子に躓いて転んでいた。

 その一部始終を見ていた私はなぜだか、嬉しい気持ちになってしまっていた。もちろん、彼女の彼女自身が招いた災いが愉快であったわけではない。言うなれば…………そうだ。子犬が自分の尻尾を追いかけてクルクルと回っている姿を見た時の面持ちに似ていると思う。とにかく微笑ましかった。

 席に戻った彼女は徐に顔を上げると、私と眼があった途端に急いで視線をパンフレットに落としてしまった。

 私の胸の辺りは温かくなる一方、けれど、彼女を観察しているがために毎度と冷めてしまう珈琲を口に運ぶのは何とも不快であり、知らずの間に私の眉間には縦皺ができる、端から見ればそれは、ただ不機嫌な男としてだけ写ることだろう。

  

 

 ◇

 

 

 その人は決まって珈琲を飲んでいます。私を見ているようにも思うのですが、この広いフードスペースでただ私だけを見ていると言うのは、とんだ誤解と勘違いと言わざる得ません。

 ですが、前回いつものとおり、パンフレットを読みながら、映画を回想していた時です。少しばかし頬張り過ぎたホットドックからケチャップがパンフレットの上に落ちてしまいました。それも格好が良いですね。と恍惚となった俳優の顔の上なのです。

 私は血相を変えて紙ナフキンを取りに行きました。紙ナフキンを5枚程度を手に取り、席に戻る途中、椅子の脚にけつまずいて転んでしまったのです。

 こんな風に転んだのは小学校のリレー以来でした。恥ずかしいやら、膝小僧がいたいやらで、席に戻って恐る恐る、回りを見回してみますと。

 あの方が、眉間に皺を寄せて明確に私の方を見ていたのです。

 きっと、映画の余韻を台無しにした私の騒がしい所行を不快に思われたに違いありません。ですから、私は急いで視線をパンフレットに落とします。

 パンフレットにはすっかりふやけてしまった俳優の顔がありました。これではハンサムも台無しです。仕方がありませんから、私はもう一冊パンフレットを買うことにしたのでした。

 この映画も含めまして、私の部屋の本棚には何冊も感動が並んでおります。パンフレットは何冊あって良いのです。何せ、私は漫画本を小説を読み返すように、パンフレットを何度も読み返すものですから、特にお気に入り映画『月が兎に恋をして』のパンフレットなどは、端っこの部分が擦れてしまっているくらいです。

 映画を愛する私です。ですから、映画を観賞してから興奮冷めやらぬままにフードコーナーでパンフレットを見て映画の興奮を彷彿とさせます。ホットドックと相俟って、眼にお腹にと満足の趣があるのです。

 そして、家に帰ってからベットに寝転がりながら、再びパンフレットを見返してはにやにやとしながら「それでも!それでもこの花を貴女にこそ差し上げたい」と名台詞を弁舌します。このように、映画を見るだけでは止まらず、パンフレットを見返してはその感慨を醍醐味を反芻できる私は生粋の映画通だと思います。胸を張って言いましょうとも!私は映画通なのです!

 そして、このような特技を持ち合わせているのも私だけでしょうと少しばかし自信があるのでした。

 

 

  ◇

 

 

 私の部屋にもいくらか映画のパンフレットが本棚に収められてある。ここ最近の20作品に冠してはとんと購入をしていない。それと言うのも、どこか後ろ髪を引かれる思いが残渣として蓄積されるようで、心苦しくなってしまったからなのだ。

 主演女優の美貌と脚本の技巧に、感動しうんうんと呻らされ、自室でパンフレットを読んではそれを思い出して、今一度恍惚となる。私はこれを映画通たる私だからこその楽しみだろう。そうだとも、一度で二度美味く舌の上で転がせるのは私だからこそなせる技であるとも言いたい。

「それでも、それでもこの花を貴女にこそ差し上げたい」私はマグカップを片手に、そっと呟くようにぽつりと言ってみた。私からすれば、とても感動的な場面の名台詞なのであるが、やはり私が言ったのでは品が無い。台詞負けの大根役者ほど情けないものはない。

 パンフレットと言えば、フードスペースの彼女は果たして映画館の従業員なのだろうか。それとも、私同様の映画好きなだけなのだろうか……後者であれば話しの一つもしてみたい。前者であってもかまうまい。何せ私は彼女と話しがしてみたいだけなのである。その後に続く『従業員』や『映画好き』などと言うレッテルには微塵も興味がないのだ。

 いつものように電車の天井からぶら下げられた広告に視線をやると、偶然にもそれは映画の広告であり『月が兎に恋をした』の続編が公開されるらしいのであった。今回のタイトルは『月が兎に恋をした~風味絶佳~』とサブタイトルがつくらしい。なんとも情緒ある文句がひっついたものだ。そう思いながら、私はジャケットのポケットから黄色いパッケージのキャラメルの箱を取り出してこれに視線を移した。滋養豊富と並んでごく最近見つけた『風味絶佳』の熟語が印字されてある。

 前作からすれ、続編に期待こそしていなかった。だが、風味絶佳。この偶然は大切にしたい。

 偶然を偶然として決して奇跡と思わないのが私の信条である。奇跡とは起こすものであり、偶然とは出会うべくするものであるからだ。

 なんでも、前売り券を買うと特製クリアファイル封入パンフレットがついてくるらしい。そこにこそ浪漫は感じなかったが、ワンコイン割引特典は実に神々しかった。広告がここで私の眼に止まったのも何かの縁なのだろう。

 作品に期待こそできなかったが、腐れ縁のようなものを感じた私は、今晩にでも前売り券を買いに南海スカラ座へ赴くことになるだろう。

 そう言えば、パンフレットでふっと彼女のことを思い出した。確か彼女も、前作を映画館で見ていたはずだ。何とも歯切れの悪い終幕を迎えてなお、目頭を押さえながら私の前をフードスペースへ向いて通り過ぎて行ったのを未だ刻銘に覚えている……彼女を彼女として認識したのは、あの時が最初であっただろうか……

 半券の枚数からすれ、今までにすでに12本を同じスクリーンを前に見てきた。

 奇跡が起こすものであるならば、次ぎに映画館へ行った時も彼女は私と同じスクリーンの前で目頭を熱くさせるだろう。

 そして、フードスペースにてパンフレットを広げて、ホットドッグを頬張るのである。

「次ぎに映画館で見かけたら、声をかけてみよう」

 私は広告を見上げてそう呟いた。

 早朝時分から今夜の予定が決まってしまうとは、我ながら忙しい男だ。そう思うとなにやらこそばゆくも面白愉快な面持ちとなってしまったのだった。 

 

 

     ◇

 

 

 一本電車を乗り過ごしてしまった私は、本当ならば今頃は温々の椅子に腰掛けて、目的駅までの玉響を微睡んでいたはずでした。ですが、一本乗り過ごしてしまいましたので、それは叶わず。つり革で眠た眼をやっと押し上げては揺られておりました。

 朝の苦手な私です。けれど、今朝は少し違ったのです。首を起上り小法師のようにしておりますと、不意に天井からぶら下げられた広告が眼に入ったのです。

 「まあ」私は思わず、小さな声を出してしまいました。

 それは大凡二年前に上映された映画の続編公開の広告です。タイトルは『月が兎に恋をして~風味絶佳~』私はそれを知っただけで恍惚となってしまいました。前作は、とても気になるところで終わってしまっていましたから、余計に感慨深いものがあったのでした。

 『月が兎に恋をして』は、一匹の兎が満月がずっと自分を見下ろしていることから、自分に月が恋をしてしまったのだと勘違いをするところから始まります。

 何も言わずにただ、見下ろしている月を見上げていた兎ですが、いつしか月とお話をしてみたい。月と話しをしてみたいと思うようになるのです。兎は満月の夜に声を上げます。でも月は何も答えてくれません。兎は花を差し出したりするのですが、月は何一つ答えてくれず、思い余った兎はついに湖に映った満月に向かって崖の上から身を踊らせるのでした。

 そこで、終わってしまったのです。

 私は思わず、人魚姫の物語を思い出して目頭を熱くさせてしまいました。深く深く想っているのに……その想いは伝わらない。こんなに残酷で悲しい悲劇はありません。

 ですから、私は切実に続編ではハッピーエンドになってほしいと思うのでした。

 広告には、今なら前売り券を買うと特製クリアファイル封入パンフレットが貰えると書いてあるではありませんか!これは是非とも買いに行かなければなりません。今晩、帰りにでも買いに行きましょう。私は早朝からワクワクして仕方ありませんでした。なにせ、早朝から今晩の予定が出来てしまったのですから、これはとても素敵なことなのです。

 私は前作の物語を思い出していました。すると、ふっと脳裏にあの男の人が過ぎったのでした。そう言えばあの人も、同じスクリーンで前作を見ておられました。

「ふむ」 

 指を口に元に当ててさらに思い出してみますと、私の御財布の中に入っている映画の半券の数だけあの方とスクリーンを同じくしているではありませんか……それは回数にして12回……だったと思います。映画の後、決まってフードスペースで珈琲を片手に眉間に皺を寄せているのです。

 でも、そんなに足繁く映画館へ通うのですから、私と同じ映画好きな方なのかもしれません。身なりからして従業員の方なのかも知れませんけれど……それも含めて今度、お話をしてみましょうか……

「次ぎに映画館でお見かけしましたら、お話をしてみましょう」そう頭の中で呟くと胸の内でぐっと拳を握りました。

 普段は内気な私でした。けれど、続編公開で興奮していたのでしょう。きっとそうに違いありません。

 ですが、これは私の私による私のための大きな大きな第一歩となることでしょう!そんな風に思ってしまったのでした。

 そう考えると、次に映画館へ出掛けるのが、わくわくどきどきしてきてしまいました。まだ前売り券も買いに行っていないと言うのに……まずは、特製クリアファイル封入パンフレットをもらわなければなりませんね。

 

 ◇

 

 一日中ディスプレイと睨めっこをしていると無性に眼を閉じたくなる。目に見えない電磁波あたりに私の貴重な網膜を焼かれているようで嫌な気分になるからだ。そうなると目薬を注すわけだが、はたしてこの目薬にどれほどの効力があるのかは私にはわからない。きっと気のものなのだろうと思いつつも、その効能に密かな期待を抱いている程度なのだ。

 例えて言うならば、とある婦女が遠くから私を見ている。そして、それに気が付いた私は、彼女はきっと私に恋心を抱いているに違いない。と思い込むのである。

 真実とは本来は知らない方が良い事の方が多いものだ。それを知っていて、好奇心やら願望やらで人間はとかくなんでもかんでも知りたがる。今日の繁栄こそ、その賜であると言うはのは容易い。だが、逆説からすればそれがなければパンドラがこの世に厄難を蔓延らせることもなかったのである。

 何事も無い平穏と、何かと崖っぷちの栄光。いずれを選ぶのかと問われれば、私は真っ先に崖っぷちを選ぶだろう。どうせなら勢い余って飛び降りてもかまうまい。

 どうせ、華もなければ香りもない。ただ、だだ黒い男臭にのみ覆われ、平日週末に関わらず映画館へ出掛けるだけが唯一の楽しみであり、まるで夜明けのない世界に閉じこめられているような私が、臆病にも無病息災の平穏を懇願するだけで天人からすれ業腹であろう。

 平穏とは、幸せな一時を黒髪の乙女と一緒に過ごせる男にのみ願うことを許された希望なのである。

 私は自虐的に悲観的のみに思考を同道巡りさせながら、最寄り駅から南海スカラ座へと歩いた。寒い色のコンクリート建築の摩天楼の中、ぽつりと赤く煉瓦作りのその外観は私の疲れた眼を休め、場外発券所前から続く白いタイルは、さながら白亜の園への通じているのかもしれないと、ファンタジックかノスタルジックな気分にさせてくれる。

 日毎に変わるファンタジックとノスタルジックの感覚は私の気分にのみ左右されることは言うまでもない。前売り券を買いに来た今日の気分はすばり、ノスタルジックであった。

ノスタルジックな面持ちでありながら、私はファンタステックな光景を目の当たりにした。

 いつも混み合うはずのない発券所に、今日ばかりは前売り券を求めて人の列が出来ていたのである。私もこのスカラ座に通って1年ほどになるが、人が列をつくっているところをはじめて眼にした。

 何でもかんでも並ぶのは私の美学ではない。別段、この発券所でチケットを購入せずとも良いのであって、しからばこだわる必要も皆無なのである。

 私は踵を返すと夕暮れでも、真昼と明るい商店街の中へと足を踊らせたのであった。

 

  ◇

 

 私が向かったのはチケット屋であった。この界隈には少しの距離を置いて数件のチケット屋が点在しており、私も出張の時などは新幹線のチケットなどを1割ほど安くで購入している。

 この『まねき屋』はそのうちの一件である。10円だけ、他の店よりもさらに安くで販売されているため、私御用の一件としている。

 閉店前のまねき屋は閑散としており、硝子張りのショーケースの奥では春を待つウジ虫のように店主が着ぶくれて蠢いていた。

「閉店前に、来んじゃねえ」

 半纏を着込んで着ぶくれた、ぬらりひょんが客である私を恨めしげに見上げると、聞こえるように一人小言を呟いた。

 10円だけお買い得なまねき屋なのだが、その10円分はこの亭主の悪態にマイナスと相俟って、客足はご想像通りである。と言いたい。店名を『まねき屋』と称しながらも、その内情たるや何人も招き入れる気などさらさらないのである。

「この、『月が兎に恋をして』のチケットを一枚」

「めんどくせえな」

 そう言いながら店主は孫の手で、棚を叩くようにして乱暴に白い封筒を絨毯の上に落とすと。手をやっと伸ばして、

手中に収め、中身の確認もせずに、ショーケースの上に滑らせるように置いた。

「金はそこにおいといてくれや」

「万札しかないだが……」 

 私は財布を開くと、そこには福沢諭吉しかおらず、したがって彼としか眼が合わなかった。

「あんだと」

心の底から面倒くさいとその意を眉間に三本の縦皺で表し、まるで私を犯罪者のような眼差しでなめ回した後で、渋々、工具箱ぐらいの金庫を引っ張り出し、中に納められてあった珠盤にてぱちぱちと計算すると、マジックハンドの手の平に釣り銭が乗せられ、そのまま白い封筒の上に乱暴にまき散らかされた。一方、万札は器用にも指先にひっつけてものの見事にさらわれてしまった。糊でもつけているのだろう。

 このような気分の悪い悪態など日常茶飯事であるからして、気に止める労力すら勿体ない。第一に世の中の接客とは時に過ぎているのである。だから、このような悪辣な接客に慣れておけば、手を添えて釣り銭を渡してくれるレジ係の女子大生などは観音菩薩にも見えてしまうのも仕方がないと言うお話であろう。

 私が店を出ると、背中を撫でるように微風が舞いシャッターが勢いよく降ろされた。

 

  ◇

 

 私は走っておりました。実際には電車に乗っておりましたので、走ることはできません。けれど気持ちだけは息急き切って駆けているつもりでした。

 けれど、ただつり革に捕まって立っているだけですので、その心中はもどかしくてしかたりません。

 本来でしたら、今頃はスカラ座に到着して場外発券所にて『月が兎に恋をした~風味絶佳~』の前売りチケットと特典の特製クリアファイル封入パンフレットを抱えてスキップなどをしている最中でしたのに、意地悪なお局さんが、私が陳列しましたウインドーディスプレーにねちゃねちゃと、事細かく文句をつけるので、随分と残業になってしまいました。

 エンゲージリングに左手のトルソーを使って何が悪いのですか!

 本日は増して長時間強い照明用ライトに照らされておりましたので、眼が象の肌ようになってませんでしょうかとふっと心配になって、バッグから目薬を取り出して、揺れる車内にて一駅分孤軍奮闘をしてからなんとか瞳を潤すことができたのでした。

 私は目薬を注してから窓に映る自分の顔を潤った瞳で見つめながら頬を膨らませてみました。それはもう河豚のように膨らませました。私のディスプレーはお客様にも好評ですし、お取引先にも喜んで頂いております。なのに……なのに……あんなにやいのやいのと言われてしまいますと……私だって自信を無くしてしまうではないですか。

 ですから、余計に早く特製クリアファイル封入パンフレットが手元に欲しかったのです。帰りの電車の中で読み耽り、ベットの上で読み返して……気分転換をしたい……そう思っていたからなのでした。

 災いを世にばらまいてしまい、辛うじて希望だけを箱に残すことができたパンドラのように、今の私は災いに涙して、前売りチケットの特典にのみ希望を託していたのです。

 

  ◇

 

 私は時間と幾ばくかの労力と、そして散財をしてなお、スカラ座の発券所の列に並んでいた。

 並んでいるご苦労な男女をほくそ笑むかのように、封筒の封を切ってチケットの有無を確認した私は、忽ちに戦慄してしまった。確か私の所望する映画の前売り券に印字されているべきタイトルは『月が兎に恋をして~風味絶佳~』である。そうでなければないらない。

 だが、その複数枚のチケットには鮮血を思わせる赤と刃物を思わせる鉄(くろがね)色でのみ構成されており、大凡、恐怖こそ助長させるものの、風味絶佳の趣は皆無であった。そもそも、タイトルがアルファベットなのである。これをどのように前向きに考えても導き出される結論はただの一つだけであろう。

 あの亭主からすれ、シャッターを閉ざすあの動作は電光石火と評すに違いなく、そして、振り返った私の眼に焼き付いた『しばらく休業』の6文字はすでに意図したとしか考えられない。これで、1枚しか入っていなかった場合は今すぐにとって返してシャッターが壊れるまで足蹴りを敢行してみせよう。

 シャッターの前に私の貧弱な足がどうにかなってしまいそうだが……興味のないホラー映画の観賞券を2枚も持っていてもしかたがあるまい。気が向けば1枚は自分のために使い、もう1枚は他のチケット屋に売れば幾らかは小銭が返ってくるだろう。

 喜怒哀楽を表すでもなくそんな風に呑気に構えつつ、私は列の最後尾に並んだ。私の順番が近づくに連れて、私の背後には母親と思しき女性とその子供だろう女の子の声が聞こえるようになり、話しの内容からして、その女の子がこの続編を楽しみに、取り分け、クリアファイルを楽しみにしている様子が理解できた。

 決して盗み聞きをしていたわけではない。聞こえてしまうのであるからして、仕方があるまい。

「『月が兎に恋をして』一枚下さい」

 私がそう言うと、チケットと共に、広告に書いてあったとおり特製クリアファイルを挟み込んだパンフレットが私の前に差し出された。

「お客さんラッキーですね。これが最後の特典なんですよ」と妙齢な販売員の女性が微笑みをくれたので「今日はついてなかったので、思わぬ幸運です」と私も微笑み返しをしながら、精算を済ませる。

 私のことなど微塵も興味が無かろうかと思うが、私はスプラッター映画やホラー映画を趣向とせず、恋愛映画に関していえばもっとも恐れ戦いていた。血を快楽に恐怖を趣味とする映画になんの浪漫を見出せと言うのだ。蛙の解剖には眼を背け吐き気をもよおすと言うのに、映画であれば、フィクションであれば気色も悪くなければわざわざ金銭を支払ってまでスクリーンを凝視すると言うのは、矛盾と言う以外になんと言えば良いか私にはわからない。

 恋愛映画においては、衝撃は超弩級のメテオストライクであると言いたい。男女の交わりは恋愛百景と繊細微妙であり、それを映画とするなど笑止千万である。仮にである。例えばの話しであるが、恋愛の経験の少ない寂しい男が恋愛映画を恋のマニュアルとしたならなんとする!奇跡的且つ偶然な出会いと二人を取り巻くエキセントリックな登場人物との一悶着を経て成就する恋など現実にどれだけ漂っていると言うのだ。浪漫はある。浪漫はあるが、現実味の無いマニュアルを追いかけた挙げ句に、派手にすっ転んで立ち上がれなくなった時、どうして責任を取ってくれる言うのだ!

 言っておくが、決してこれは私のお話ではない。私のお話ではないが、特定の誰かのお話でもない。つまりは、私の妄言なのである。

「映画館の中で売ってるかもしれないから、我慢しなさいね」 

 私が妄言に熱弁を振るっている最中、そんな囁くような女性の声が聞こえた。

 傍らを見れば、私の後ろで喜色満面としていた、親子ではあるまいか。さらに言えば女の子が泣きじゃくっており、それを母親が困った顔で言い聞かせている。

 私は自分の手の中にある物を見て、ふっと思った。彼女は果たしてこの前売り券を買ったのだろうか。加えるならば、特典を手にしただろうか。上映が終わると必ずやパンフレットを買い求める彼女であるからして、きっと限定特典ともなれば垂涎であろうことは何ともなく窺い知ることができる。

 もしも、もしも……彼女がこの特典を手に入れ損ねているのであったならば、私の手の中にあるこれを、差し上げたならばなんと言って喜ぶだろう。

 感謝の言葉の有無などは捨て置いても、立派な会話の種にはなるはずである。

 彼女はすでに前売り券を買ったのだろうか…………

 

  ◇

 

 私は駅舎から出ると、早足で歩き出しました。映画館の閉館時間までは十分に時間がありますし、前売り券が売り切れたなど、聞いたこともありませんでしたから、焦りこそ全くありませんでした。ただ、早くクリアファイルをパンフレットを手に入れたかったのです。クリアファイルなどには頬擦りをして愛情を擦り込みたいと思っているくらいなのですもの。

 そんな風に悠長に構えていた私です。ですから、発券所の前に数名の方が並んでいるのを見た時は驚いてしまいました。私も何度となく前売り券を買いに行っておりますけれど、今まで一度として誰かが並んでいるところを見たことが無かったからなのです。

 驚いていても仕方がありませんので、私はそっと最後尾に並びました。もう数分でトキメキの瞬間です。特製クリアファイルとパンフレットを抱き締めることができるのですから!

「このトキメキをなんとせう」

 私は口許を両手で隠しながら小さく言いました。この台詞は前作の終盤。まさに、崖から身を躍らせんとする兎が涙を流しながら満月に向かって叫んだ名台詞なのです。

 胸の内では蒸気機関車のようにもくもくと煙を上げております、私は早く順番が回って来ないでしょうかときょろきょろとしておりました。すると、発券所の真横、映画館への入り口付近に、あの方の姿を見つけたのです。一足違いで

前売り券を買われたのでしょう、手には前売り券の特典が見て取れましたから……

 ですが、なんとその方は今まさにその特典を差し出しているではありませんか、膝曲げて屈んだ先には眼を赤くした女の子と困った表情をしたお母さんの姿がありました。

 ですが、クリアファイルとパンフレットをその方から受け取ると女の子は、まず莞爾としてにかっと笑ったかと思うと、次にクリアファイルをぎこちない動作で取り出すと「うさぎさん!」と声を上げて頬擦りをしたのです。その微笑ましい情景と言ったら!

 私もついつい、見入って胸のあたりをほっこりと温かくしてしまいました。

「お次の方どうぞ」

 ついに私の番です。

「『月が兎に恋をして』を一枚下さい」

 私のわくわくは鼓動と相俟って高鳴る一方です。さあ、トキメキの瞬間です。私は目を団栗のように丸くしてそれのお出ましを待ちました。

 けれど、

「どうぞ」と販売員さんが差し出してくれたのいつまで経っても映画のチケットだけだったのです。

「あの、この前売り券には特典があると聞いたのですけれど……」

 首を傾げながら私がそう聞きますと、

「限定特典は数人前のお客さんでなくなってしまいました。もし、特典をご所望でしたら、他の取扱店に在庫の有無を確認してみますが、いかがなされますか?」ご丁寧にも若い販売員さんは、私にそう言って下さったのでした。

 本当はお願いしたい気持ちが熱烈にあったのですが、そこまでして特典に執着するのもどこか、羞恥心が先立ちます。

ですから、「いいえ。特典がなくてもかまいません」そう言うしか出来なかったのでした……

 

   ◇

 

 クリアファイルには、兎が満月を見上げている様が描かれてあり、可愛らしさと言うよりは情緒に訴えかける、趣ある画風であると私は思った。はたして、これを女の子が手にしたところで喜ぶのだろうかと半信半疑であったのだが、

渡した途端に「うさぎさん!」と満面の笑みでクリアファイルに頬擦りをする女の子を見ると、なぜか私まで嬉しくなってきてしまったのであった。面白いことにその後にはなぜかほっとしたのである。

 別段、パンフレットもクリアファイルも欲しかったわけではない。求めていないかぎり、私の手元にあったところで、その価値を見出すことなど叶わないだろう。それならば、泣きじゃくって『欲しい』と母親に訴える女の子の腕の中にあった方がどれだけ輝くことができることだろう。

 私は微塵も後悔することなく、手を繋いで歩く女の子とその母親の背中を見ながら、一人で木っ端恥ずかしくなって、頭をかいていた。

 朝令暮改のようで心苦しいのだが、実を言えば真を言えば、私は大いに後ろ髪を引っ張られていたのである。後悔ではないにせよ、それに準ずる、もしくは近しい感情は根絶やしには出来なかったわけだ。

 やはり、彼女との会話の切っ掛けを手放した事実はなんとも言い表しがたい。今後も彼女が映画館へ、私がこの南海スカラ座へ足繁く通い続けるかぎり、彼女と会話をする機会は何度も巡ってくるのである。

 だが、明瞭たるチャンスを逃してしまったと思うと、どうしても千載一遇の機会を逃してしまったかのような念が込み上げて仕方がない。

 特典を手に入れられず、項垂れる彼女にそっと「よろしければこれをどうぞ」と私の特典付きパンフレットを差し出せたなら、どんなに格好が良いだろう……なんと紳士らしい男性と彼女の透き通る曇無き瞳に写ることだろう……それはもう高感度は鯉の滝上りであったことだろう!

 項垂れてみるも……泣き顔から笑顔となった女の子の顔を思い出すと、私の願望と妄想などは至極ちっぽけに見えて仕方がない。我ながら情けないお話であろう。

 そうだ!男に生まれたならば、男子として育ったからには、小道具などは用いずに威風堂々、正々堂々とフードコーナーで佇む彼女に話しかければ良いのである!

 私はバネ仕掛けのからくり人形のように、級に首をもたげて拳を固く握った。

 万事は前向きに考えずしてどうしますか!根拠のない自信を取り戻した私は、封切りと共に続編をみてやろうと目論んで、そして歩き出した。歩き出したのだが…………

「お優しいのですね」

 急にそんな声が私の横顔に投げ掛けられたので、危うく転びそうになってしまった。

 見れば、それは紛う事なき彼女ではないか。毎度上映が終わればパンフレットを購入し、フードコーナーにてホットドッグに舌鼓をうちながら、微笑んでいる彼女その人であったのだ。

「え」

 誠に『え』と言うしか出来ず、足首を捻りながらもなんとか上体を持ち直して事なきを得た。そんな私を見慣れた微笑みを浮かべる彼女は、無様に狼狽する私をまるで珍しいものでも見るかのように首を傾げて見ていたのであった。

 

  ◇

 

 きっと最後の特典はあの方が手にしたのでしょう。根拠などありません。ですが、私はそのように思ったのでした。

 あの方が最後の特典を手にされて本当に良かったですね。そうも思いました。もしも最後の特典を手に入れたのが私であったのならば、あまりの幸運に小躍りなどして、例え傍らで女の子が泣いていたとしても気が付かなかったでしょうし、気が付いたところで、あの方のように海容と女の子あげるような行為は到底出来そうにありません。

 私はなんと大人げないオトナなのでしょうか。映画を愛する心に大人も子供もありませんから、限定の特典を手に入れれば一様に嬉しいのです……なのに……それなのに!その特典を子供に譲ってあげるなんて!

 私は自分の幼稚さをハズカチイと思う一方で、あの方はなんとお優しい方なのでしょう。と私までも胸のあたりがほっこりと温かくなってしまいました。

 誰かが憤っている姿や悪口を吹聴して回る姿を見かけますと、なんだか私までも嫌な気持ちになって、胸が締め付けられ、ずんと沈むように蝕まれてゆくような……そんな不快な心中となってしまいます。けれど、誰かが誰かを笑顔にしている姿や。紛うことなき感謝の気持ちを伝えている姿などには、不思議と私までも嬉しくなってしまって、まるで温々とお布団の中で微睡んでいる気分になってしまうのです。もちろん、私は見ているだけですから、私には一切関係がありません。ですが……真心とは……笑顔にも感謝にも真心がなければなりません、きっと真心とは風にのって見ている周りの人間にも伝染してしまうものなのでしょうね。

 ほら、そのように考えてしまいました私だってすっかり、微笑んでしまっておりますもの。

 私は映画のチラシをひょいと摘んでから、その方のもとへそっと近づいて、 

「お優しいのですね」希望を見出したメロスのように首をもたげられました、男の方に声を掛けてしまいました。躊躇する間もなく、どうしても、この感動を少しでもお伝えしたくなってしまったのです。

「え」 

 私の言葉は丁度、その方の横顔にぶつかりましたので、その方は映画のシーンのように『え』とだけ、本当に『え』とだけ言われますと、突然、糸が切れてしまったマリオネットのように、変な動きをされたのでした。ですから私も首をかしげて『はてな?』と思って居たのですけれど、

「あの子です」

 その方が、上手く立ち直られましたタイミングを見計らって、お母さんと手を繋いで遠のいて行く女の子の後ろ姿ににそっと指を指したのでした。

  

「ああ、私は別にチケットだけでよかったので」

 謙遜されるのです。みなまで言わずともわかりますよ。わかりますとも!身を切る思いで、泣いて馬謖を斬ってまで、ご自身の真心にのみ従って特製クリアファイル封入パンフレットを譲ってあげたのですよね。

 私は一人で何度も頷きました。聞かずとも理解できますオトナゆえの痛みを分かち合っていたのです。

「そう言えば、前作もご覧になられてましたよね?」 

「はい。まさか続編が作られるとは思いもしませんでした」

私は嘘をつきました。本当は、あのように気になる終わり方をしたのですから、続編はありますね。と確信をしてからフードコーナに意気揚々と歩いて行ったのを今でも鮮明に覚えているのですから。

『続編はあると思ってました!』と言っても良かったのですけれど、それを口に出してしまいますと品がありませんから、あえて嘘をついたのでした。

 

  ◇

 

 私は棚からぼた餅を手に入れた金魚鉢の金魚の面持ちとなっていた。なにせ、ぼた餅であろう彼女から私に声を掛けて来てくれたからである。

 間抜けにも『え』とだけ答え、立ち直ってから少しだけ私よりも頭一つ分背の低い彼女の顔を見た。彼女は私よりも背が低い。ゆえに少々の上目遣いにて私の顔見てるように思えて、内心どうしてもこそばゆかった。

「あの子です」 

 彼女は私が立ち直ったタイミングでそう言って、母親と手を繋いで帰路を歩く女の子の背中を上品に指をさして微笑んだ。 

 声を掛けてもらえたことは至極嬉しかった、だが、私は別に特典のクリアファイルが欲しかったわけでもパンフレットが欲しかったわけでもない。ただ唯一と言えば浪漫を明後日の方向へ投擲して、前売り割引価格にだけ興味を示していただけなのである。

 だから、

「ああ、私は別にチケットだけでよかったので」と心中をそのまま口に出した。特典にはなんの興味なかったと付け足してもよかったのだが、それを口に出してしまうと、まるで「本当は名残惜しかったです」と言い訳をするようでよろしくない。私は最低限の言葉にてそう返事をしたのだった。

 彼女は何を思ったのだろうか、そんな私の言葉を耳にするや、何度も小さく頷いていたかと思うと次の瞬間には首を左右に振っているのである。何かのおまじないだろうかと思いつつも、この状況からすれ端から見れば私が暴漢のようで心苦しい。これで彼女の体に触れていようものならば、勘違いをした正義漢によって後頭部に飛び蹴りなど頂戴しているかもしれない。

 想像しただけでも恐ろしや、あな恐ろしや。

「前作もご覧になられてましたよね」

阿呆な想像はほったらかして、私は彼女と会話をしようと思った。

「はい。まさか続編が作られるとは思いもしませんでした」

 そうだろう。彼女の意見に賛同すること大であった私は深く頷いた。

 前作の内容は、要約してしまえば一匹の兎が一方的に勘違いしたあげく、嘆き悲しみ煩悶として叫び散らしてから湖へ身を投げただけなのであるからして、誰がその続編を期待するだろうか……しいて言うなれば作品全体を通して織り交ぜられる壮大で情緒ある風光明媚のみであろう。

 どちらともが言い出すでもなく、歩き出した私と彼女の目的地は大凡、最寄りの駅だろうと察しがついた。宵の口を過ぎた時分であったがゆえに、駅前の地下街へお食事にでも……と何度かお誘いをしてみようかと画策してみたものの、想定の範囲外の事象を経てそれに早速順応できるだけの器用さを生憎私は持ち合わせておらず、このまま想定やら予定やらを無視して駆けだした挙げ句に、石ころに躓いて自ら仕掛けた地雷に覆い被さっても、泣くに泣けず笑うに笑えない。  

 情けない男と笑うが良い!意気地のない男と蔑むが良い!

 だが、これだけは言っておく、私は軽佻浮薄(けいちょうふはく)と婦女を誘うほど軟派な男ではないのだ。

 「今宵、私めとお食事など御一緒にいかがでしょうか」と思い浮かんだ一言が、映画を山ほど見てきたにもかかわらず、気の利いた台詞の一つも言えない自分の情けなさを欺瞞するために、己が錦の御旗と正義を無駄に振りかざして、決して表面に出さぬようにこれをうやむやにした。

 実を言うと私の隣に、彼女が私と肩を並べて歩いているのが信じられなかったのだろうと思う……

 

  ◇

 

 どちらが言い出すでもなく、歩き始めた私たちは映画のお話にこだわりませんで、取るに足らない世間話をしておりました。

 夜の帳が下りて来た頃合いです。私のお腹も丁度良い具合に空っぽになっておりました。ですから、駅前の地下街へ下りて行くカップルや家族連れを見ますと、今宵はどんな美味しい物を頂くのでしょうか。とついつい鼻をひくひくさせてしまいそうになります。もちろん、私は一人で歩いているわけではありませんから、鼻をひくひくさせるわけにはいきません。

 男性の前でお行儀の悪いことは憚らなければなりませんものね。

それに、もしも、お食事にお誘いされたとしても、お断りする心積もりでおりました。お誘いを無碍にお断りするのも心苦しくあります。ですが、例えお食事のお誘いであって、本日はじめて言葉を交わしたばかりの男性に、ほいほいとついて行ってしまっては、あまりにも慎みに欠けるではありませんか。

 この方は私同様に映画を沢山、鑑賞されておられますから、女性をお誘いする素敵な台詞をご存じだろうと思います。『今宵、私めとお食事など御一緒にいかがでしょう』女性であるなら、一度はそのように紳士のお誘いをされてみたいものです。そして、お姫様抱っこもして頂きたいものです。

 けれど、私はすでに決めておりました。どんな素敵なお誘い文句を囁いて下さったとしても、今夜は「さようなら」と一人むんと胸を張って電車に駆け込みましょう。と!  

 ですから、お食事へのお誘いをされずに地下街への一入り口を通りすぎた時は、少し安心したのでした。その方も私と同じ下り方面にお住まいのようで、お話をしながら下りのホームで電車を待っておりました。

「コンタクトが乾くのですか」

 ホームに到着してからもう3度も目薬を注してらっしゃいましたので、私はそうお聞きしてみました。

「ディスプレイばかり一日中見つめていると、眼が焼けるようで」

「そうですよね。ライトが強過ぎますから、眼を焼かれているように思いますよね」

 私も目薬はかかせません。私はそう続けて言いました。

「それは調節できますから、照度を落としたらましになりますよ」

 そう優しくおっしゃって下さいました。けれど、一人でも多くのお客様に見て頂きたいですから、照度を落とす訳にはいかないのです。

「はい。そうなのですけれど、メインディスプレーともなりますと、映画のスクリーンくらい大きくなりますし、それに何体もマネキンが入りますから、隅々まで見せるためには照度を下げるわけにはいかないのです」

 もちろん、マネキンなどを搬入する際は照度を落としておりますけれど、仕上げの段階ともなりますと、四方八方からライトを浴びながら作業をしなければなりませんから、冬場でも額に汗をしなければならないのです。

「マネキン……ですか……そんなに画面が大きいと、マウスでは操作できませんね」 

 電車に乗り込む際に、少し言葉に詰まられました。けれど、座席に腰を落ち着けるとすぐさまそのようにおっしゃいました。

  「マウス……マウスは使いませんよ、手の届かないところなどはレーザーポインターを使いますもの」

 お恥ずかしながら、私は身長が高くありませんから、手の届かない場所への指示はレーザーポインターにお世話になりっぱなしなのです。

「しかし、最近のディスプレイは大きくなったものですよね。17型なんて当たり前なんですから、物によっては32型くらいの物まで。そんなに大きくければ随分離れたところから操作しないとすぐに頭が痛くなってしまいますね」

 私の傍らでそのように笑われるのです。ですが、私には何が面白いのかわからず、愛想笑いを浮かべるの精一杯です。

17型ですと、トルソーしか入りませんから、貴金属店向きです。32型……中途半端な大きさですね。食品のサンプルが関の山でしょう。

 私は普段、映画のスクリーンの半分ほどの空間をディスプレーしておりますから、17や32型くらいどうと言うことはありません。

 けれど、おっしゃられる通り。最近では照明を遠隔操作できますから、いちいち外に出て照明の具合を確認しては調整のために戻るをしなくても済むようになりましたので、これは大変便利になりました。

「そうですね。出たり入ったりをしなくて済むようになりましたから、とても便利になりました」

「出たり入ったりを…………ほう……」 

 どうしてでしょうか、首を傾げられました。私の言っていることは間違っておりません。何せ私の実体験に基づく体験談なのですもの……私の表現の仕方が悪かったのでしょう……『出たり入ったり』だなんて、入ったり出たりと言えば良かったですね。いいえ。それでは何も変わりません。

 普段から言葉遣いを疎かにしているから、このような時にも装い切れなかった私が顔を出してしまうのです。私は明確に肩を落とすと、天井を見上げて小さく溜息をつきました。

 

 

  ◇ 

 

 

 彼女は微笑みのまま、地下街への入り口を通りすぎた。面白いことに、その瞬間に彼女の顔が一層綻んだように思えたのは私の勘違いに相異あるまい。

 彼女も私と同じ下り方面に住まいがあるらしく、改札を通って下りのホームへもついに私と肩を並べたままであった。 疲れ目でもなければドライアイでもない私であったが、想定外の緊急事態に緊張したのか眼が乾いて仕方がなかった。

口の中が乾くと言うのは聞いたことがあったが、緊張が及ぼすは眼もまたしかり。だから私は目薬を取り出すと、短い間隔で何度も滴を瞳に落としたのである。

 すると、それを見ていた彼女が「コンタクトが乾くのですか?」と聞いたので「ディスプレイばかりを見ていると眼が焼けてしまうようで」と的確では無いにせよ当たらずも遠からず、実体験で誤魔化した。

 『緊張して眼が乾くのです』などと、口が裂けても言えるか。ただでさえ、彼女をお食事にもお誘いできなかった情けない私なのだ。その上、口を滑らせてそんな事を言ってしまった暁には、大阪城のお堀に飛び込んで恥をしのがなければならなくなる。

「そうですよね。ライトが強すぎますから、眼が焼かれているように思いますよね」

 彼女はまず、そう言ってから、「私も目薬はかかせません」と続けた。

 なるほど、彼女もデスクワークなのだろう。しからば、私もその辛さは理解できる。彼女の物言いからするに、どうやらディスプレイの照度設定の変更方法を知らない様子である。ディスプレイと言っても色々なタイプがあるため、設定ボタンがどこにあるのかわからなくても仕方あるまい。

 私は「それは調節できますから、照度を落としたらましになりますよ」と微笑み混じりにアドバイスをして差し上げた。ほわほわとしている彼女のことである。きっと機械音痴なのだ。決めつけるのはなんとも失礼であるのだが、そうであって欲しいと言う私の希望も相俟って、やはり優しくそう言ったのであった。

「はい。そうなのですけれど、メインディスプレーともなりますと、映画のスクリーンくらい大きくなりますし、それに何体もマネキンが入りますから、隅々まで見せるためには照度を下げるわけにはいかないのです」

 私の期待に反して彼女はどうやら設定の仕方うんぬんは知っている様子であった。だが、映画のスクリーンほどのディスプレイにマネキン…………私は束の間、思考回路をフル回転させて、この意味を考えた。映画のスクリーンほどのディスプレイなど電光掲示板くらいでしか見たことがない。それはディスプレイと表さないだろう。多分……スクリーンなのだ。プレゼンテーション用のスクリーンのことを言っているのだろう。そうに違いない。そして、マネキンとは隠語だと思いたい。スーパーなどでは販売促進の派遣員をマネキンと呼ぶらしい。ゆえに彼女なりの隠語なのである。

  少しの間を消費して、半ば強引に納得した私は、なんとか会話を繋ごうと、専門的ではない一般的なレベルの話題を彼女に投げ返した。

「マネキン……ですか……そんなに画面が大きいと、マウスでは操作できませんね」 

「マウス……マウスは使いませんよ、手の届かないところなどはレーザーポインターを使いますもの」

 ディスプレイに触れて操作するタッチパネルは知り置いていたが、今やレーザーポインターで操作できるディスプレイまで出ているとは知らなかった。それをさも当然のように話す彼女はもしかしたら。私よりもずっと専門知識が豊富なのかもしれない。

「しかし、最近のディスプレイは大きくなったものですよね。17型なんて当たり前なんですから、物によっては32型くらいの物まで。そんなに大きければ随分離れたところから操作しないとすぐに頭が痛くなってしまいますね」

 ヘタに知識をひけらかして、返り討ちにあっても切ない。やむなくも簡単な話題に振り直した私であったが…… 

「そうですね。出たり入ったりをしなくて済むようになりましたから、とても便利になりました」

 彼女は、明瞭な愛想笑いの後に、そう言ったのであった。

「出たり入ったりを…………ほう……」 

 もはや私には理解できなかった……どうして、パソコンを操作するのに出たり入ったりをしなければならないのだろうか。彼女に聞いてみても良い。だが、それでは私の知識度合いが計り知られてしまうではないか。見栄こそ張るつもりはない。ないのだが、やはり自信を無くすのは避けたい。一度は自分で自分の首を真綿で締めた私であったが、ここまで来て再び真綿で首を絞めるようなことをしてどうする。

 そもそも、会話が成り立っているのかどうか。そんな根本的な部分からアプローチしたかったのだが……試みてもよかった……だが、結局知ったかぶりに徹するしかできなかった。

 すると、彼女はわかりやすく肩を落とすとに天井を仰ぎ見て『つまらない』とでも言わんばかりに、小さく溜息をもらしたのであった。

「続編では兎と月は結ばれるのでしょうかね」 

私は即座に切り札を使用した。躊躇無く使ってやったのである。切り札は最後の最後まで取っておくべき物であるが、このままでは使う前に手遅れになってしまいかねない。伝家の宝刀と大切に大切にしていて、使う時に使えず、使わざるにこれを用い。使い処を見誤ってしまっては本末転倒以外のなにものでもない。

 何でも使える時に使っておくべきなのである。

「今度は是非ともハッピーエンドが良いと思います。悲しい終わりはやはり切ないですから」

 彼女は我に返ったように私の方に顔を向けると、はにかみながらそう答えたのであった。

 私も同感である。物語も事象も、全ては大団円!と円満に終わるが宜しいのである。

 ゆえに私も、

「そうですとも。ハッピーエンドの方が良いに決まってます」とはにかんだのであった。

 

 

  ◇

 

 

 満足にお話もできないなんて……私の表現の仕方のせいなのです。まるでお互いに別の話をしているように、歯車が噛み合っていないように感じてしまうのは…………

 溜息をついた後、視線の先に映画の広告が止まりました。それは血液を思わせる赤と刃物を連想させる、鈍い灰色だけで構成されているとても悪趣味な広告でした。

 ですが、その広告を私は知り置いていたのです。そうです、何を隠しましょう私のバッグの中に発券所でもらってきた小さなチラシが納めてあるのですから…………私は血の描写される映画は大の苦手でして、ですからアクション映画やホラー映画などは見たことがありません。お化け屋敷と同じで恐い物見たさで一度だけでも見てみたいとは思うのですけれど、一人ではなかなか行く気にはなれません。 

 ですから、まだ前売り券も買っていませんでした……

「続編では兎と月は結ばれるのでしょうかね」

  突然そうおっしゃるので、私は驚き急いで顔を向けてから、

「今度は是非ともハッピーエンドが良いと思います。悲しい終わりは、やはり切ないですから」と勢い余ったを誤魔化し笑いでほぐしながら、そう言いました。

「 そうですとも。ハッピーエンドの方が良いに決まってます」

 嬉しそうに、ですが照れ隠しとはにかんでそうおっしゃいました。どうしてでしょう、その微笑みがいたく、私にしっくりとはまり込んだように思えたのは……とても摩訶不思議な感覚でした。

 私の下車する駅が近づき、席を立とうとしますと、その方も席を立たれたではありませんか。口にこそだしませんでしたけれど、最寄り駅まで一緒だなんて。こんな偶然も映画以外で本当にあるのですね、私は引き続き映画のお話をしながらホームを歩き、登り線路を跨ぐ陸橋を登りそして下りして、改札まで……いいえ、改札を出た後もお話を続けるつもりで話しをしておりました。

 なのに、

「それでは、私はここで失礼させてもらいます。お気を付けてお帰り下さい。おやすみなさい」と急に立ち止まったかと思うと、そのようにおっしゃるので、先に改札を通ってしまった私は、無駄に辺りをきょろきょろとしてから「おやすみなさい」と言うしかできませんでした。

 わざわざ送って下さったのです。今頃になって気が付きました。気が付けなかった私は、映画のような偶然だと、間抜けにもはしゃいでいました。

 気配りと優しさに気が付けないばかりか、もしかしたら。お住まいは上り方向にあったのかもしれません。下り方向であったとしても、いくつも駅を通り過ぎておりますから、途中で下りなければならなかったのしれません。

 申し訳ない気持ちの方が強かったのですけれど、あの方は愛情細やかな紳士さんなのですね。と思っている不謹慎な私もいました。

 あの方とでしたら、あの方とでしたら映画のお誘いをしたらなら、快く引き受けて下さるかもしれません。いきなりホラー映画をお誘いしたならば、訝しまれるかもしれませんけれど……

 私は足を止めて、『次ぎに映画館でお会いしたならば話しかけてみましょう』そう思っていました今朝を思い出しました。けれど、本日は映画館の外でお会いしたにも関わらず、話しかけることができたのです。でしたら、今ならば「映画に御一緒しませんか」そう言えてしまうかもしれません。いいえ。今日でなければ一生言えないでしょう。

 そうです。勇気は振り絞る場所を選ばなければなりません!それは今です。今こそ一生に一度の勇気を振り絞る時なのです!

 私は踵を返しました。しかし、目の前には自動改札が立ちはだかったのです。とりあえず、駅員さんの詰め所へ向かいましたけれど……なんと言って通してもらいましょうか……お手洗いはホームにありませんし……

「お見送りならお急ぎ下さい。まもなく上り下り共にまいりますから」と初老の駅員さんがおろおろとする私にそう言うと、改札を開けて下さったのでした。

「ありがとうございます」

 私は好意に甘えるばかりか失礼にもしっかりと頭も下げきらずに走りました。ホームに出てみると、上り下り共に電車がホームへ滑り込んで来ています。手前の上りホームには、あの方の姿がありませんでした。私は陸橋を駆け上がります。窓から断片的に見える下り電車の背中を、憎らしく思いながらあの方がまだいらっしゃることを祈って走りました。

 陸橋の階段を段飛ばしで降りる途中で片方だけ靴が見えました。

 そして「あのっ」私は荒い呼吸の中からようやく大きな声を出せたのでした。

 

  ◇ 

 

 私と彼女の共通項はずばり映画であり、映画以外には杳としてしれない。しかし、一つだけでも共通の趣味があるだけで十分ではないか。

 やはり私は最後まで、満足に会話を楽しむ余裕を醸すことはできなかった。次があるとしたならば、今回の失敗を生かしてみせよう。もし次があるのならば…………

 彼女の最寄り駅は私の下車する駅の2つ前の駅であった。彼女と共に改札を出て歩いて帰れない距離ではなかったのだが、私はあえて見送りは改札までと決めて彼女を見送ったのである。物騒な昨今、婦女の一人歩きはさぞかし危なかろうと思うものの、家まで肩を並べたならば彼女は私は軽蔑するだろう。加えてストーカーと汚名の烙印をおされてしまうかもしれない。

 彼女とはもう少し、いいや、できることならばずっと話しをしていたかった。だが、欲を出せば限りはなく。物事とは始めれば願わぬも何時かは終わらねばならぬ定めなのである。

 別れ際に見た彼女は、狐につままれたような、そんな表情をしていた。まるで私が彼女と同じ最寄り駅であると思い込んでいたかのように。

 いつも通り過ぎるだけのこの駅に、下車する日が来ようとは思いもしなかった。切っ掛けとは案外そこら辺に落ちているのかもしれない。ようはそれに気が付けるかどうかと言う話しなのだろう。

 いつもと違う帰り道。こんなに華やいだ帰り道も始めてだった。

 何かが始まるかもしれないと思った次の瞬間には終わっていた。

 なんともどかしいのだろうか。見上げていた三日月がやけに暗くなったのはなぜだろう…………

 後悔先に立たず、今からでも彼女を追いかけたなら……追いついたならば、彼女はどんな顔をするだろうか……きっと驚いた顔ををするに決まっている。それは明白だ。

 哀愁の離別に憂鬱を抱き締めたジプシーのような面持ちとなって私は横顔を照らす電車のライトに眼を閉じ、滑り込む車体と共に私の身体を席巻する風に耐えた。

 明日からはいつも通り通り過ぎるだけのこの駅に名残を残すように、私は開いたドアの向こうに足を伸ばすことを幾ばくかの躊躇を伴いながらも、白昼夢は実に愉快であった……と諦めるように片足を車内に落ち着かせたのである。

 その刹那、

「あのっ」

 私が車内に身を置く前に婦女の声が聞こえた。声の方を見やると、先程見送ったばかりの女性が肩を上下に震わしながら。勢いよく階段を飛び降りたところだったのだ。

 ドアが閉まるアナウンスを片耳に、私は随分とゆっくり片足をホームへ戻した。彼女が呼吸を整えながら、歩み寄る間に電車は発車し、再び巻き起こる風が私の前髪と袖と裾を撫でていった。

「どうかされたましたか」

 まだ呼吸が苦しいのだろうか、俯いたままの彼女にそう声をかけると、両手を固く握り腕を振るわして「次は……次はこの映画をご覧になられますか……」と言いながらバックの中から1枚の広告を取り出して私に見せた。

 それはテレビでも話題の極上ホラー映画の広告であった。私は普段ホラーは見ない。ゆえに、彼女には彼女の期待する答えとは逆の回答をしなければならない…………

 しかし、その鮮血の赤と鉄色にのみ構成される広告とアルファベットのタイトルには見覚えがあった。それはもう強烈に見覚えがあったのである。

 偶然とは無為自然と起きるものであり、奇跡とは起こすためにある。ならば、今私の内ポケットにある2枚のチケットはどちらの産物なのだろうか、偶然でもあれば奇跡でもある。これが笑わずにいられようか、私は意味不明な雄叫びを上げてその後に大笑いをしたくなった。

 この際、奇跡だろうが偶然だろうが些細なことでしかないだろう。今、大切にすべきは私の内ポケットの中にチケットが2枚収まっていると言う現実なのだから。

「この映画でしたら、丁度チケットが二枚あります。今週の日曜日ですけど、もしもお時間が許すようでしたら。ご一緒しませんか」

 この機会を逃すまいと私は言った。微塵も照れることなく言い切った。口を少し開け、私を見上げる彼女に私は出来るだけ優しくも丁寧に伝えた。

 本当に偶然、2枚チケットを持ち合わせていたのであるが、もちろん、彼女からすればそのようなことを知っているはずがない。ここで私が下心の塵一つでも醸そうものならば、下心にのみ従順に自分を誘っているのだと彼女に勘違いをされてしまう。それでは天人のさじ加減による奇跡と偶然が揃いも揃って頓挫してしまうだろう。

 ゆえに、私は真心を込めて且つ上品に紳士を装ってそれとなく、彼女をお誘いしたのであった。

「はい。今週の日曜日は空いておりますから…………大丈夫です」 

 と彼女は俯いてそう言うのであった。

 彼女はどのような顔をしているのだろうか。彼女の視線の先にあるホームが……いや、自身の靴が羨ましくも憎らしく思えてならない。気取ってみても、物言わぬホームや靴に嫉妬している私は、どう転んでも紳士とは呼べまい。差詰めただの阿呆漢であろう。

 私は彼女の黒髪のみを見つめると、そんな自分自身の阿呆さ加減についつい口許を綻ばせてしまったのであった。 

 

  ◇

 

 言えませんでした。

 折角、お呼び止めしたと言うのに手に平に、腕に、足にと力を入れて勇気を振り絞ろうとしました。けれど、『次はこの映画をご覧になられますか』と言葉を変えてしまったのです。

  私は何をしているのでしょう。決意を胸に駅員さんのご協力も得まして、ぎりぎりのところで間にあったと言うのに……間にあったと言うのに!そんな言葉を言うために走ったのではありません!駆け上がったのではありません!内心では意気地のない自分への激昂の念と情けない気持ちで今にも泣き出してしまいそうだったのです。

「この映画でしたら、丁度チケットが二枚あります。今週の日曜日ですけど、もしもお時間が許すようでしたら。ご一緒しませんか」

 私の虚を衝くように、内ポケットから封筒を取り出すと、なんと私がお渡ししましたホラー映画のチケットを私に渡して下さったのです。

 私は驚嘆のあまり声を出すことさえも忘れて、口をあんぐりと開けたまま、顔を見上げていただけでした。

「はい。今週の日曜日は空いておりますから…………大丈夫です」

 それはそれは優しくも上品に、且つ丁寧な声と口調でした。私はそう言う途中でついに堪えられなくなってしまい等々、ホームに視線を落としてしまいました。

 その衝撃で水ではない温かい滴が数滴ホームに私の靴の上にと落ちて行きます。悲しくもないのに、胸のつっかえが全て取り払われたと言うのに、やはり滴はホームの上へ、靴の上へ跳ねては各々色を濃くして行きます。

「そうですか。それは良かったです。待ち合わせは映画館で良いですか」

「はい」

 私は顔を上げられずに、俯いたままお答えします。

 それからしばらく沈黙がありました。これは私の生み出した沈黙なのです。気持ちを落ち着けて顔を上げた私は、すぐにバッグから目薬を取り出すと。滲んだ視界の上から目薬の粒を落としました。

 これで、少しの間はごまかせるかと思います。

「すみません。私のせいで、随分と電車を待たなければならなくなりました」

 私は考え至りませんね。上りも電車はひっきりなしに来るのですが。下りの電車は時刻が遅くなればなるほどに、本数が減って行きます。今の時間帯ですと、半時は待たなければならないのです…………

「いいえ。別に急ぎませんから……それに、次の電車が来るまで…………またお話も出来ますから……」

 私がはっとして顔を見上げますと、照れ隠しでしょうか、視線は高く遠く、満点の星空を統べる三日月へと向けられておりました。

「そうです。お話をしましょう」

 私も同じ三日月を見上げながらそう言ったのでした。

 

 

 ◇

 

 

 特製クリアファイル封入パンフレットのみが私の憂鬱を払拭できると思っておりましたから、特典を手にできなかった一時はどうしましょうかと思いました。ですが、人間の幸も不幸も本当にわからないものです。まさか、あの方とお話ができるなんて……それも流れのまにまに、私が一生の勇気を振り絞ってお誘いしようとしたホラー映画のお誘いを頂いてしまいました。

 こんなに物事が好転し続けるなんて……まるで映画を見ているようです。

 実を申しますと、家までの数分間。湯船につかっていた玉響など、これは白昼夢ではないでしょうかと、鏡台の前に立って頬を抓ってみたりもしました、それは痛かったですよ。それでも、俄に信じられなかったのです。不安になりますと私はその都度お財布の中を確認するのです。頂いたホラー映画のチケットが見当たるとお財布を閉じて胸を撫で下ろすのでした。

 白昼夢ではありませんでした。事実は小説よりも奇なりと言いますけれど、本当にこのようなこともあるのですね。

思い出すだけで、思わず頭を抱えてしまいそうなお局さんとの残業でしたけれど……あの時間がなければ、今、私のお財布の中にチケットは一枚しかなかったことでしょう。そして、私はお風呂にも入らず枕を抱き締めてベットの上で足をじたばたとさせているのです。特製クリアファイル封入パンフレットを手に出来なかった悲しさと、自信喪失の板挟みに八方を塞がれた憂鬱に押しつぶされそうになっていたことでしょう。

 そう考えると増して幸せです。胸の辺りがほっこりと温かく、思い返せば思い返すほどに陶酔境にひたる想いがほわほわと湧き出でるようでした。

 

 今度はお休みの日に映画に出掛けますからスーツではありません。そうです、先日買いました桃色のフレアスカートを履いて行きましょう。

 私はわくわくとして仕方がありませんでした。

「楽しみ」

 枕を抱き締めると、私はいつまでもベットの上をころころと左右に何度も転がって遊んでいたのでした。

 

 

  ◇

 

 人間万事塞翁が馬。唾を吐きかけてやりたかった、まねき屋の店主には今では全力でハグをして差し上げたいと思う。それはもう肋骨が金切り声をあげてもなお、締め付けてあげたいと本気と思ったくらいである。幸も不幸も所詮、誰にもわかるまい。だからこそこうも楽しくも踊躍したい気持ちになれるのだろう。

 私はいつもより燦然と輝く星空を見上げ、日曜日はもっとラフな格好をして行こうと決めた。

 そして、映画を見終わった後には私は珈琲を買い、彼女にはホットドッグを買って差し上げよう……いいや、私もホットドッグにしよう。それが良いそうに決まってる。

 そして、ホットドッグを思い切り頬張り、ケチャップをこぼすのである。私は紙ナフキンを取りに駆け、そしてその帰りに、椅子に足をひっかけて転ぶのである。

 彼女はそんな私を見て笑うだろうか……彼女のことである。きっと慌てて私に手を差し伸べてくれることだろう。

そうに違いない。

 彼女はそんな愛情細やかな女性なのだ。 

「このトキメキをなんとせう!」 

 私は三日月に向かってそう叫んだ。それはもう、拳を突き上げて叫んだ。

 

 これは私にとって、私が生きてきたこの暗黒の世界にとって、新しい夜明けが私のためにこそ新しい世界が産声を上げたと言っても過言ではない。

 

 さらば読者諸賢!

 

 私に私に栄光あれ!

 

 

                                      

 

                          『月が兎に恋をして~風味絶佳~』

                                   

                                    おわり  



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