「司令官、プールに行きませんか?」
吹雪が問いかけてきたのは、午後五時頃、リビングでの事だった。
座椅子に座ってテレビを眺めていた俺の真横に膝を折って座り、俺の腕に手を添えてのお伺いである。
俺はテレビを見た。ニュースキャスターが『今日はこの一週間で最も寒い日になるでしょう』と伝え、厚着を促している。吹雪に顔を向ける。
「プールに行きませんか?」
……そっとその前髪を持ち上げ、額に手を当ててみる。柔らかな温もりがじんわりと手に染み込んできた。……熱はないな。
「あ、あの、司令官……?」
おっと、吹雪が怪訝な顔をしている。
手を離してやれば、俺の手が止めていた訳ではないだろうが、吹雪はちょこんと頭を傾けた。さらりと揺れた黒髪が二の腕に触れてこそばゆい。
「すまんすまん。急に変な事を言い出すから熱がないかと思ってな」
「変な事って……あ、プールって、普通のじゃなくて温水の方です!」
「ははぁ、温水プールね。でも、急にまたなんでプールなんだ?」
温水と言えばもっぱら室内だから、冬場に行ってもおかしくはないだろうけど……学校で何かあったのだろうか。友達に誘われたなら、俺まで連れて行こうとはしないよな。
「見せたいものがあるんです。……ふ、二つ」
「構わないけど……じゃあ、準備してくるよ」
なぜかどもったり赤面したりしている吹雪を訝しみつつ、水着やらを引っ張り出すために自室に向かった。
◆
で、やってきました佐野邸。
家の前に黒塗りの高そうな車が停まっていた時からわかっていたが、やはり吹雪を誘ったのは朝姫ちゃんだったようだ。が、彼女の家に連れてこられるとは思わなかった。
敷地内に車で入り、ずっと見えていた大きな家とは離れた場所へ向かう。また別の建物。体育館に似た外観だ。車が止まれば、一緒に乗っていた初老の男が先に降り、ドアを大きく開けて俺達に降りるように促した。
「大きいな……」
先程窓の外から見えた邸宅も大きかったが、この建物も十分に大きい。同じように建物を見上げる吹雪は、しかしまるで見慣れているみたいに無反応だった。
いや、実際見慣れているのだろう。吹雪と朝姫ちゃんって仲良しだし、何度か遊びに行っているのは知っていた。今回は初めて俺も『遊び』に誘われたという訳だ。
「さ、行きましょう」
吹雪に手を引かれ、建物内へ入っていく。最初に感じたのは塩素の匂いだった。
中は広々としていて、青い床がずっと広がっていた。各所に25メートルプールや曲がりくねった道のプールなどがある。……個人用なのか、これ。
「吹雪ー、こっちこっち!」
辺りを見回す俺に律儀に寄り添ってくれていた吹雪が声のした方に顔を向けるので、俺もそちらを見れば、プールサイドに置かれたビーチチェアに寝転がっている朝姫ちゃんがゆらゆらと腕を揺らめかせていた。
「朝姫ちゃん、お待たせ!」
「いや、案外早かったね。おにーさん聞き分けいいんだ?」
隣のチェアにも誰か女の子が寝そべっていて、その傍らにもまた女の子が立っていた。きっと両方とも吹雪の友達だろう。
というか、なんだその俺がごねるだろうって予測は。失礼な奴だ。吹雪の頼みは断らないよ。
「必要ないかもだけど、いちおーおにーさんに紹介しとくね。この子は友達の吹雪」
「知ってる」
「あの、よろしくお願いします」
なんのつもりか朝姫ちゃんが吹雪を俺に紹介すると、彼女はおずおずと頭を下げた。いや、吹雪もノらなくていいから。素か? 素なのか?
「そっちの暗いのは
朝姫ちゃんが指し示したのは、チェアーの傍らに佇んでいる少女だ。黒髪は編み込まれて背中側に垂れ、前髪は長めで目にかかっている。目元に影ができていて、黒縁に楕円形の眼鏡もあるから、なるほど確かに暗い雰囲気だ。紺色のスクール水着の上から薄黄色のパーカーを羽織り、片手に小さな本を持って読んでいる。名前が呼ばれると顔を上げ、じっと俺を見上げてきた。ダークブラウンの瞳に何が浮かんでいるのかは、レンズ越しではわからなかった。
「ご紹介に預かりました、手塚真夕美です。吹雪ちゃんとは良くさせていただいてます」
本にしおりを挟みながら閉じ、丁寧な口調で言って会釈する。委員長っぽい見た目通り声は落ち着いていて……落ち着きすぎている。大人びたと言い表せば可愛げもあるだろうが、なんか違うな。
っと、挨拶を返さねば。ぼうっとその様子を見ていた俺は、慌てて同じように会釈をした。
へぇー、礼儀正しい子だな。どこかのお金持ちとは大違いだ。ちらりと朝姫ちゃんを見れば、彼女は星形に縁どられたサングラスを額へ押し上げると、『言いたい事はわかってるぜ』みたいにウインクをかましてきた。ちなみに朝姫ちゃんは大人びたビキニなんかを着ている。いや、着られている。彼女は容姿が整っているから似合わない事はないのだが……うーん、その奔放な性格とサバサバした話し方が色気を感じさせず……まあまだ中学生だし、仕方ないね。
「そっちの芋虫は小野妹子」
おのの……? 今芋虫っつったか、この子。
朝姫ちゃんが指さす先には、チェアーに寝そべる女の子がいる。癖っ毛の茶髪に前髪に紫のメッシュ、小柄な体躯に……死んでる瞳。
あれ、この子前に公園かどこかで会った子だよな……。
「この子の名前は浅倉
「今は死んでるね。ここ来た時は結構元気だったんだけど」
記憶を探っていると、手塚さんがまともな紹介をしてくれた。
その浅倉さんは、片手はお腹に、もう片方はぶらんと垂らし、完全に脱力している。一見すると眠っているように見えるが、目はしっかり開いている。どこを見ているかはわからないが……。
大丈夫かな、と吹雪が呟く。彼女もこの様子を見て心配しているみたいだ。
「さあ吹雪、あれ見せてよ」
俺達の心配を
そういや吹雪も俺に見せたいものがあると言っていた。それも二つ。
それが何かはすぐわかった。
「お待たせしました!」
ギ、ギ、と鉄を軋ませ、艦橋を模した艤装を背負った吹雪が重い足取りでやって来た。
「吹雪、お前それ……」
「つい先日私の艤装を手に入れまして、せっかくだから司令官にお見せしようと思った時に、朝姫ちゃんが場所を提供してくれたんです」
どうしたという言葉に先んじて吹雪から説明が入る。『手に入れた』ってどこからだ?
いや、疑問は今は置いておこう。俺の前までやって来た吹雪の隣に朝姫ちゃんが立ち、何やらドヤ顔をしている。事情は呑み込めないが……。というか、誰も驚いてないって事は、この三人には、吹雪は秘密を打ち明けたって事か。
「見せたいものってのはそれか」
「はい。司令官には、私達艦娘がどのように海上を移動するかをお見せしたいと思います!」
言い終ると同時に吹雪がびっしと敬礼をとると、揃えられた足同士がぶつかって鈍い音をたてた。彼女の足は鉄のブーツに覆われている。ごてごてしていて、彼女の足を二回り以上は覆っていそうだった。
「それから、その、指定の水着も、見ていただこうかと……」
「指定……学校指定のをか?」
確かに今、吹雪は吹雪型の制服でも、桜ヶ丘中学の制服でもなく、手塚さんと同じスクール水着を着用している。胸部のネームには右から左に読む形で『フブキ』と書かれていた。
上気した頬に、俄かに期待の潜む瞳。後ろに手を回し、もう片方の肘付近を掴んで体の前面を見せつける姿は、控え目に言って魅力的だった。見慣れた姿に見慣れぬ装い。それが新鮮だったのだ。
「似合ってるな……素敵だよ、吹雪」
「ありがとうございますっ、司令官」
はきはきと言った彼女は、体から力を抜くとすぐに笑顔になった。心底嬉しいといった表情だ。
ひゅー、と朝姫ちゃんがからかうように口笛を吹いた。よせ、恥ずかしくなってくるだろうが。
「それでは……見ていてください」
「……吹雪」
仕切り直して、吹雪が真剣な顔で言うのに、俺も表情を取り繕って頷いてみせる。
とっとっとっ、やはり重い足取りで一つのプールへ近づいていった吹雪は、支えていた紐から手を離すと、艤装についている小さな三角形に指を引っ掛けた。ぐい、と引くとドルルゥンと響く重い音。エンジンか? ……アニメとは艤装の仕組みが違うのだろうか。
追加で二度糸のついた三角が引っ張られれば、脈打つように震え始めた。吹雪の小さな体も少し揺らされている。
吹雪は、躊躇う事なく水面へ踏み出した。よくみればこのプールには波がある。海ほど高くはないだろうが、それでも十分な再現になるのか。吹雪の足のすぐ下が激しく泡立つ。ブーツは一瞬深く沈んで、浮き上がった。底面の一、二センチ程が沈んだまま震えている。
すぐ後に吹雪は滑り出した。まるでローラースケートでもしているかのような動きであっという間に十何メートルも向こうへ行くと、ゆっくり旋回して戻って来た。
そのまま上がって来るかと思ったが、もう少し航行するのを見せてくれるらしい。吹雪は何度もプールの向こうとこっちを行ったり来たりして、時には俺に手を振ってみせた。
最後に軽く飛んでプールサイドへ戻ってくる。
「はっ、は、ふ……いかがでした?」
「見事だった。凄いな……ああやって海の上を移動するんだな」
息を乱す吹雪に、感じた事を率直に伝えれば、えへ、と嬉しそうに笑った。彼女のお腹から下はプールの水でびっしょりと濡れていた。
「ねー、言った通りっしょ? 絶対喜んでくれるって」
「うん!」
ひらひらと手を振って歩いてくる朝姫ちゃんに大きく頷いた吹雪は、艤装の駆動を止めると、じゃあ、置いてきますね、と再び通路の向こうへ引っ込んで行った。
それをぼーっと眺めていれば、朝姫ちゃんに思い切り背中を叩かれ、「何呆けてんの。おにーさんもさっさと着替えてきたら?」と促された。
俺も更衣室に向かい(きっちり男女にわかれていた)、トランクスに似た海パンを着用する。吹雪と同じタイミングでプールへ戻ってきたら、さっそく水遊びの開始だ。
プールで遊ぶなど何年振りだろうか。最近は日に焼ける事を厭って海になども行ってなかったから、久し振りで楽しかった。
途中、元気になった浅倉さんが「前の礼だ、遊んでやる」なんて口走りながらビーチボールを投げつけてきて、突発的に水中ビーチバレーが始まった。背の高い俺が有利かと思われたが、そう上手く事は運ばない。ここにいる女の子達、朝姫ちゃんを除いてみんな運動神経が良かったのだ。いかにもインドア派そうな手塚さんまでイルカみたいに飛び出してボールを叩き返してきたりした。俺に勝負を挑んできた浅倉さんはといえば、ボールを叩くより俺を叩くのが目的かってくらい近い位置で腕を振り回してきた。たびたびそれを手塚さんが止め、引き戻して行く。本当に元気な時とそうでない時の差が激しい。観察していてわかったが、手塚さんはどうやら浅倉さんのストッパー兼保護者的な立ち位置にいるらしい。ずっとべったりくっついていて離れる気配がない。お互いそれを邪魔に思っていないだろう事はすぐにわかった。仲良しさんだ。
やがて浅倉さんの電池が切れて無気力状態になってしまうと、彼女を運んでプールサイドに戻って雑談した。話の内容は、主に吹雪の学校生活についてだった。
吹雪はどうやら保健委員をやっているらしく、怪我した子は必ずと言って良いほど吹雪を頼るらしいのだ。
ほほー、こいつは良い話を聞いた。俺も今度怪我をしたら吹雪に手当てを頼もうかな?
楽しい時間はあっという間に過ぎ、外も暗くなり始める頃に解散と相成った。
三人とはまた遊ぶ約束をし、朝姫ちゃんとこの車で送られつつ、充実した気持ちに笑みを浮かべた。
最近は楽しい事ばかりで参ってしまう。こう幸せ続きだと交代で不幸がやってきそうだ。
……なんてな。
「……? どうしました、司令官」
「いや、なんでもないさ」
隣に座る吹雪は、暖かな体温を惜しみなく俺へくっつけてきてくれている。
この子がいる限り不幸だと思う事は早々なさそうだ。とかキザな事を考えてみたり。
少しすると、吹雪は疲れてしまったのか、俺に頭を預けて寝息をたてはじめた。
窓から差し込む夕日に照らされた吹雪の寝顔は、それは穏やかだった。
後日ふと気づいたのだが、吹雪のお友達三人組の苗字って、すっごい不吉だ……いやいや、みんな仲良し、まさかいきなり殺し合いバトルを始めるなどあるまい。
……ないよな?
……ないだろう。うん。