「こっちは、俺の両親の部屋だ」
「……はい」
少し奥まった場所にある、今は亡き両親が使っていた部屋の扉の前へ移動し、手で指し示して紹介する。
吹雪は、やはりというか沈痛な面持ちで扉を見ていた。
自分の肉親が死んだ訳でもないのに、ここまで共感して心を動かしてくれるのは嬉しく思うが、いつもそんなでは疲れてしまうだろうと心配してしまう。
それに、せっかくかわいいのにそんな顔をしては台無しだ。
――泣き顔もかわいいだろうな、なんて邪な考えは胸の内にしまっておこう。
どう言えば彼女の表情を晴れさせる事ができるのかわからず、やむなく俺は案内を続行する事にした。
「そいで、こっちがトイレ」
くるっと体を回転させて、階段横のトイレへの扉をコンと叩く。『TOILET』の札が僅かに揺れた。
そういえば、艦娘って
食べたり飲んだりするのだから、体内構造が人間と同じならば排出の必要性が出てくるだろうが……もしそこら辺は超常的な力ですべてエネルギーに変換されるとかだったら、艦娘はまさに夢の女性だ、なんて阿呆な事を考えた。
『アイドルはトイレ行かない』と同レベルの思考だ。
「は、はぃ……」
吹雪は顔を赤らめて俯きがちに頷いた。
……気付いたよ、今の俺の言動が少女に対してするようなもんでないって事にな。
いや、待てよ?
別に、そう
俺はただ単にここはトイレだと紹介しただけだ。どこに顔を赤らめる要素があるというのだろう。
これが、俺が『君っておしっことかするわけ?』なんて聞いていた日には、彼女の反応も仕方ないだろうが……ただ名称を口にしただけで、どうしてそんな顔をするのだろうか。
……言い方、か?
『トイレ』って言い方じゃ、恥ずかしいって言うのか?
わからん……繊細すぎるぞ、乙女心!
「えー……ここは、お手洗いだ」
「は、はい」
取り敢えず言い直してみる。
彼女は、顔を上げて大袈裟に頷いた。熱を残した顔は、本当に彼女が俺の言葉に対して羞恥か何かを感じているのだと確信させるのには十分だった。
……いけない妄想でもしたのか、と親父臭い事を考えてみたが、まさかこの純真な少女がそんな想像など、一片たりとも……。
ああしかし、女の子って成長が早いって言うし。
ああでも。
ああもう。
「下に
「わかりました」
少々悶々としながら、階段の前に移動する。変な妄想をするのは吹雪ではなく俺だろう。馬鹿な奴である。勝手に妄想して勝手に悶々としているのだから。
階段には踊り場が無く、正面に小さな曇りガラスの窓があり、左へ曲がるようにして半螺旋を描くように段差が設置されている。大きなスペースではないため、一段一段の高さは結構ある。俺は足がでかいから何度か滑り落ちた事もあるが、もう慣れたもので安定して
数段下りたところで『大丈夫かな』と確認しようと、背後を振り返ろうとした、その時。
「きゃっ」
「お?」
小さな声と共に吹雪が背中にぶつかってきた。
「あっ、あわっ、す、すみませ……!」
「あー、いや、大丈夫だから、落ち着いてな?」
案の定足を滑らせてしまったのだろうが、倒れたのが前方向で良かった。俺の背中に両腕を当てて寄りかかるようにした吹雪からは慌ただしい気配が伝わってくる。触れ合っているから、ダイレクトに、だ。
人間らしい重みが背にかかるのは、なんというか、よくわからない嬉しさがこみあげてくる。
俺でも彼女を……艦娘である吹雪を受け止める事ができるのだと実感できたからだ。
彼女に押されようが、俺は、多少体が前に倒れようとするものの、手すりを掴まずとも踏ん張れる。それが無性に嬉しい。
はっはっは、軽い軽い。たぶん、彼女くらいなら抱き上げてぐるぐる振り回す事もできるだろう。やったら怒られそうだし、そもそもそんな勇気はないが。
「遠慮しないで、俺の背中を押して体を戻せば良いんだぞ」
「え、でも……」
「ほら。ちゃんと壁と手すりで体を支えておくからさ」
遠慮しているのか、俺の背に寄りかかったまま動けないでいる吹雪に声をかける。擦りガラスの窓を眺めながら、今、彼女がどんな表情をしているのだろうかという想像に花を咲かせた。透明な窓なら、彼女の顔が映ったりしていただろうか。……俺の体しか映らないか。
つらつらと考え事をして背にかかる柔らかな刺激をやり過ごす。彼女が纏う厚手の制服には冷えた空気しかないというのに、俺にははっきりとその先に隠された人肌の温もりが感じられてしまったし、白い肌の、ふわふわとした感触までもが押し付けられている気がして気が気でなかった。
軽々しくここに住んで良いと言ったけど、俺、こんな調子でこの先大丈夫なんだろうか?
正直に言えば、俺は女性に弱い。それはたぶん、世の大多数の男が感じるものと同一だろう。
女性と話すのが苦手だとか、顔を合わせるのが苦手だとか、そういう類のものではない。
男ならば誰しもが持つ欲求の一つが、少しずつ俺の中に溜まり始めている。
俺は聖人君子でもなんでもない。だから、こんな風に吹雪に触れられていると、気が気でないのだ。
今は理性が大幅に
……信じてるぞ、俺の紳士性。俺という人間が子供に手を出すような愚か者でない、と、そう信じてる。
まあ、本当に危なくなったら一人の時に処理してしまえば良いだけの話だし、それでも駄目なら両親の事を持ち出せば良い。
俺を想って俺を育ててくれた二人を出せば、俺の欲望はみるみる萎んでいく事だろう。
吹雪の魅力がそれを越えていたなら、打つ手なしになるけどな。
そして俺は今、その可能性を感じている。
「ん、しょ……」
寝間着代わりの纏っている
背に届いている訳でもないのに、肌をくすぐるような微かな吐息。
どうしたって意識が背中に集中してしまうから、俺はひたすら何も映らない窓を見つめて、彼女の些細な声に耳を傾けていた。
「ありがとうございました、司令官。ちゃんと、戻れました」
やがて彼女は、手すりなどを駆使して体勢を戻したのだろう。俺に一声かけてきた。気付かれないようほっと息を吐く。ああ、今のは天国のような時間であったが、同時に地獄の責苦のようでもあった。先に行って遊んで来いとはこういう意味だったのか。いや、違う。
「ああ……それは、良かったな」
「はい!」
振り返らずともわかる、ほっとした声と、喜ぶ声。
きっと眩しい笑顔を浮かべているのだろう。見なくたって想像できてしまって、俺はそれ以上何も言わずに階段を下り始めた。
また彼女が足を滑らせても良いように背後に気を配りながら一階に移る。振り向けば、とんとんと音を鳴らし、スカートを揺らして吹雪も降りて来るところだった。最後の一段で、なぜか彼女が跳ねて下りる姿を幻視してしまったのだが、そんな素振りはなく、吹雪はしっかりと床に足をつけて、俺を見上げた。何が嬉しいのか、満面の笑みを浮かべている。
……この近さで見上げているのは首が疲れてしまいそうだな。膝を折って目線を合わせてやるべきか? いや、でも、それだと彼女に『身長が低い』と言っているようなものだし……いやいや、そこまで気にする必要はないか?
いまいちどう吹雪と接すれば良いのかわからず困っていると、彼女が不思議そうな顔をしているのに気付いて、慌てて案内を再開した。何をじっと見つめてるんだ、俺は。彼女が物怖じしない性格だから良いものの、普通の女の子にじぃっと視線を向けたりしたら嫌がられて仕方ないぞ。
「こっちが玄関だ」
階段から狭い廊下へと下りて、壁を背にして左を指し示す。階段の前に立つ吹雪から見て右側。そこは玄関口となっており、左右に靴棚と黒い扉がある。ここの説明はいらないだろう。廊下を少し行って、階段側の壁際にトイレ……お手洗いがある事を告げる。その先が脱衣所だ。洗濯機や洗面台はそこにある。
俺が背を向けていた壁の方には、和室へ続く扉がある。
「ここは和室。さっき言った通り、物置として使ってる。……昔はここで寝泊まりしてたな」
「はい」
内開きの扉を開ければ、畳の匂いがした。
閉まり切った雨戸のために薄暗い部屋の中には、使わなくなったブラウン管のテレビ、置き場所の無い棚、ストーブや机が乱雑に置かれている。夏服などが押し入れに仕舞われていて、それから、ゴミの日に出す予定の燃えるゴミと燃えないゴミが、それぞれ一袋ずつ、入り口付近に置かれている。
燃えるゴミの日は明日だったな。忘れないようにしておこう。
「それじゃ、次は……脱衣所、かな」
ゴミ袋もあるのに、あまり長い事見せるもんでもないと判断し、扉を閉める。あんまり長居すると耳鳴りしてくるしな、ここ。
斜め向かいの脱衣所に入れば、三面鏡と洗面台に出迎えられる。横に置かれたタオルを入れるための木編みの棚と、洗濯器。ここもまたあまり語る事がない。せいぜい『吹雪用の生活用品を買いに行かないと』と思い至ったくらいだった。浴室も、あまり広くないとしか言いようがない。別に入る必要はなかったな。
早々に後にして、リビングへ出る。
キッチンと一体となったリビングはかなり広々としていて、食器棚、アンティーク類が置かれた棚、工具などが入った棚などが壁際に置かれていてもなお、歩き回れる。
正面の壁際に薄型テレビと机。ここから少し先の壁を左側に曲がって行くと、台所を前にしたスペースがある。でんと置かれた木製の机は、一人で使うには大きい。左側に五つの扉を持つ冷蔵庫が静かに唸っていた。
そういや、インスタント麺使い切ったんだっけ。後で買いに行こう。
「こっちは庭だ」
入り口から向かって右側には、庭に続く窓が二つある。その片方から外を覗けば、緑の雑草が生い茂り、色とりどりの花が無秩序に咲き乱れるのが見えた。
……もう何年も手入れしてないから伸び放題だ。
「なんか、このままじゃ恥ずかしいな。ここも昔遊んでたんだ」
こくりと、吹雪が深く頷ずいた。彼女もこの庭の状況をあんまりだと思ったのだろうか。それとも、ただの相槌か。にしては妙に……。
「……また遊びたくなってきたな。そんな年じゃないが……せっかく吹雪が来たんだ、庭を綺麗にして、記念に花でも植えるか」
そう言って吹雪を見れば、彼女は、涙を滲ませて再度頷いた。
……え? なんで泣く?
最初は気のせいかと思ったが、彼女は細い肩を震わせて、小さな声まで発し始めたから、これは間違いなく泣いているのだとわかった。
「ど、どうしたんだ? 何か気に障るような事を言ったか?」
「い、いえ……ぅく、そ、そういう訳では……」
目元に手を当て、
口にしてはいけないような事を言ってしまったのかもしれない。それは彼女が涙を見せるほどの事で……。
思いつくのは、彼女が以前に親しい人を亡くしていて、花という単語で思い出してしまったとかだ。
だが親しい人とは誰だ? 自慢ではないが、俺はゲームでは一人も轟沈させていない。だからといって、彼女が過ごしていた世界で犠牲が出ていないとは限らない。そもそも亡くなったのは艦娘ではないかもしれない。というか、吹雪は、なんだ? 吹雪は元から艦娘だったのか? それとも、元は人間だったのか?
聞いてない事だらけで、そんな状態ではいくら考えても、彼女が涙を浮かべる理由は思いつかなかった。
「違うんです……」
すん、と鼻を鳴らして、頭を振って髪を揺らした吹雪は、閉じていた目を開けて、そっと俺を見上げてきた。そこに暗い色はない。あるのはただ、純粋な光だけだった。
「こうして司令官とお話して、この後の事も一緒に決められて、嬉しいんです。本当にあなたの
俺を見上げる瞳は涙に濡れて、窓から差し込む月明かりに輝いていた。
寄せられた体が触れ合うくらい近くにある。
感極まったみたいに震える声と、溢れそうなくらい瞳に溜まっていく涙。
「もちろんだよ」
否とは言えない。言うつもりもない。
だから、躊躇いもなく即答した。
そこまで求めてくれるなら応えるさ。
一緒に過ごそう。俺は君を受け入れる。
絶対拒んだりしない。
「ありがとう、ございます」
吐く息と共に呟かれた言葉は、しっかりと耳に届いた。だけど俺は、ただ見ているだけでは彼女が消えてしまうような気がして、彼女の肩に手を置いた。
今度は驚かれたり身を引かれたりはしなかった。
横目で俺の手を見た吹雪は、再度俺を見上げて、それからゆっくりと目を伏せ、顔を伏せた。