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ソファがあるにもかかわらず板張りの床にべたりと座って、ふたりの女性がテレビを観ている。窓は閉め切っているのだが、どうにもこの季節にはつきものの蝉の声が止まない。とはいえそれはテレビの音を邪魔するほどのものでもない。だからふたりはそんなことには気を回さない。ソファの前に置かれた長方形の背の低いテーブルには袋詰めのクッキーやらなにやらが入った器と、用意されてそれなりに時間が経ったのだろう、汗をかいたグラスが置かれている。ときおりグラスやクッキーに手が伸びるがあくまでその頻度は上品な範囲に収められており、その一事だけでも彼女たちの普段の振る舞いが見て取れそうだった。
画面には制服を着た少女たちが牌を握っている様子が映されている。自分たちにもあんな時期があったな、などと思うがそれは結局どこにも行けない考えであることは知っているから小さな息といっしょにさっさと追い出す。薄いカーテンに漉された光が板張りの床に奇妙な模様を作っているその部屋に、小さな息は消えていった。
「おお、ホンマに出とる」
「ん、なんだ、知り合いでも出てんのか」
テレビが麻雀の中継を始めてからある程度の時間が経過していた。具体的に言えば画面の向こうの少女たちがちょうど三回入れ替わったところだ。このふたりは麻雀に対して興味が強いのか、テレビを観ているあいだにも少女たちの打ち回しに対してそれぞれの意見を述べたり、たまに思い出話をはさんだりしていた。ふたりのやり取りは実に自然なもので、彼女たちの付き合いの長さを感じさせる。
「教え子ってやつやな。麻雀教室の」
「あー、大学んときにバイトでやってたって言ってたな」
視線はテレビにやったまま、こくん、と頷く。ついでなぜか少し眉根を寄せた。
「小学生んときと顔立ち変わってへんやないか」
「教え子どれ? どいつも見た目はきちんと高校生してると思うけど」
南家の子、とまるで視力検査の穴の空いている向きを答えるようにそっけなく答える。視線はまだテレビから動かしていない。その南家のプレイヤーの実力はわからないが、団体戦として見るとその少女の学校は得点的にいくぶん不利な立場にあるようだった。もちろんひっくり返せない差ではないが、簡単とは言えない。もっとしっかりと卓を囲む学校の調査をしていれば言えることも変わってくるのかもしれないが、高校生ではない彼女たちにそんなことを言ってもどうしようもないだろう。
浩子の教え子であると知って南家の少女に対する意識レベルを一段階上げた麗人と呼ぶにふさわしい女性、井上純は少女を見ているうちにちょっとした違和感に気が付いた。
「なあ浩子、あの樽本って子の打牌のタイミング、いくらなんでも一定すぎやしないか?」
「そらそういうふうに仕込んだからなぁ」
「仕込んだっつってもあれ思考時間とれてんのか? ほとんど手拍子に見えるぜ」
テレビ含め観戦している人のうちでどれだけの人数が気付いているかはわからないが、純が指摘したように彼女、樽本小春の打牌のリズムは常に牌を手に収めてから一秒半に決められていた。たとえば他家がリーチをかけたときなど普通なら一考するような場面でも彼女のリズムは変わらなかった。それだけ徹底するのであればそこに何らかの得るものがあるはずだが、それが見えない純はひとつの結論に流れ着いた。
「ひょっとしてあの子、異能でも持ってんの?」
「いや、知る限りは持ってないな」
グラスの氷がからん、と音を立てる。
インターハイ団体戦、一回戦第一試合の副将戦が始まってからずっと視線をテレビから外さない浩子が、やはり前を向いたままぼんやりとした口調で呟いた。
「アレたぶんまだ勘違いしっぱなしやなあ……」
「は?」
テレビの向こうの彼女は、見る限り未だ明らかな悪手を打ってはいない。ひとりだけやけに短い思考時間のなかでミスをしていないことも驚嘆に値することだが、浩子からすればどうやら彼女のプレイングは勘違いでしかないらしい。自分で仕込んでおいて勘違いとは穏やかでない表現だが、発言しているのが他でもないあの船久保浩子だ、おそらく手加減も容赦もなく、また冗談でもないのだろう。
いろいろな方面に思考を飛ばしていた純は、あるタイミングでまたも違和感に気付いた。今度は画面に映る手筋のこととは関係がない。対象はどちらかといえば隣に座る眼鏡の彼女だ。おおまかに言って船久保浩子という女性は異常であって、まともという領域にいないことを純は重々承知している。それは別に常識がないとかそういうことではなく、彼女自身のスペックの問題や理解を示す範囲が広すぎることを指している。たしかに判断基準が一般的なものとは多少ズレているというのも認めざるを得ないが。
「なあ、あのやり方仕込んだときってよ、あの子何歳だった?」
「小六」
「フツー小学生相手にあんなの仕込むか?」
「行ける思たら行くやろ、別に人格に影響及ぼすわけでもなし」
さらっと言ってのける辺り浩子の言っていることに間違いはないのだろうが、純が問題にしたのは決してそこではない。小学生の思考時間を一秒半で固定させることを可能にする指導について、だ。対局相手のレベルという観点ももちろんあるにせよ、プロであっても思考時間をあれほどまでに削るのは非常に難しい。ましてや指導したのが浩子であるならば中途半端な判断はまず許さないだろう。つまりすくなくとも船久保浩子が及第点を出す練度での思考判断を樽本小春という少女はこなすということであり、そして浩子はその指導を小学生相手に実行し達成したということだ。
しかしそうなってくると気になる点が出てくるのも事実だった。勘違いしているということはその技術が完成していないということであり、浩子がそれを放置すると考えるのは自然なことではないだろう。あるいはその辺りが小学生を相手にしていた彼女のあまり見られない甘さのような部分だったのだろうか。そこを疑問に思った純はせっかくだということで尋ねてみることにした。
「でもよ、完成してないんだろ? 浩子にしちゃ詰めが甘いというか、珍しいよな」
「教室に来られんようなったからな。引っ越しや、引っ越し」
「なあ、アレって完成したらどうなるんだ?」
「んー……、簡単に言えば高三の時の私にプラスアルファって感じやな」
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始まりはいつも夏だった。
五年生のときに船久保先生に出会ったのも、家の都合で引っ越したのも、インターハイの初戦で回れ右と言われてその大会に対してもう一度リベンジをしに来てやると心に誓ったのも。
そして私の運命が廻り始めたのも。
ちちち、と名前も知らない鳥が跳ねるように地面を移動している。樽本小春はこれまでの人生で一度も鳥に興味を持ったことがなかったから、雀と鳩の見分けがつくかさえ怪しい。鳥は飛ぶものだと固く信じてやまなかった小春は、公園の芝生の上を移動するさまを驚いたように眺めていた。木陰の下のベンチから見渡せる景色は、様々な要素が夏を主張して止まない。空の高さ、日の光、浅いものから深いものまで実に多様な緑。やけに立体感のある白い雲に、降り注ぐ蝉の声。何から何までいやになるくらい世界はそのまま夏で、誰かが夏であることを強要しているのではないかと思えるほどに夏一色だった。
小春が事前に想像していたほど東京は緑がないわけではなく、それどころか最近はむしろいかに緑化を進めるかに力点が置かれてさえいる。今いる公園だけではなくてその辺の歩道の脇にも細いとはいえ等間隔に木が植えられていたことを思い出し、なるほどこれは近所のジジイどもに一杯喰わされたなと小春は空を仰ぎ見る。
見上げた空の色は、たしかに地元の京都のものとは違うような気もするが、だからといって何がどう違うとかを断言できる自信など小春にはない。そもそも空の色や風の匂いに違いを感じるような立派な感受性を持ち合わせてはいないのだ。
( ……間違ったのはどこ? 絶対に攻めるべきポイントがあったはず )
小春がベンチで空を見ながらひたすら行っているのは反省だった。彼女が託されている副将戦に回ってきた段階で順位は四位、ただそれでも小春は勝てると考えていた。結果として順位をひとつ上げることができたが、しかしそれでは足りなかった。出場校数の関係上、団体の一回戦は一位にならないと二回戦へと進めない。彼女のチームの大将は一位まで上り詰めることができなかった。
「ああもう、ねーわ」
周りに誰もいないこともあり、小春は自分の中に渦巻く不満を雑に言葉に変換して吐き出した。くるくる回って上空へ消えていったような気がした。しかし消えたそばから新しく不満が内側から湧いてくるのがわかって、それが余計に小春を苛立たせた。自分のせいで最後の夏が終わる先輩がいるというのが彼女の見たくない現実だった。団体として最後まで勝ち続けるのは一校だけだが、最後まで打てるのは四校。準決勝なら八校。せっかく府予選を抜けてきたのに初戦で負けるなんてあんまりだろう。そのうちきれいな水色をした空でさえ苛立つ対象になりそうだった。
こんな精神状態が続いていたからこそ、小春はチームメイトと一緒に観戦することを選ばなかった。試合が行われているホールに足を向けることもしなかった。もしシートに座れば前のシートを蹴ってしまうかもしれないし、そうする前に泣き出してしまうかもしれない。さすがにどちらとも褒められた行為ではない。だから口も態度もあまりよろしくないと自覚している小春は外の公園へひとりになりにきたのだ。
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最終的に小春は空がオレンジ色に染まるまでずっとそのベンチに座っていた。何度かポケットに入れっぱなしの携帯も震えた気がするが手に取ってはいない。座っているあいだ、そろそろ行こうかな、という気は一度も起こらなかった。そういえばおしりとももが少し痺れているような気もする。長い時間行われていた対局の反省と苛立ちとの往復で、小春の脳はすっかり疲れ切っていた。だから彼女が自分に近づく影に気付けなかったとしてもそれは決しておかしいことではない。
沈みつつある太陽のせいとはいえ明らかに大きく伸びた影がベンチの後ろをすい、と横切って、そうして空いた小春の隣に音もなく腰かけた。脚が長いのだろうか、座るとそれほど大きいようには感じられない。もうぼんやりとしてしまっている小春は隣に座った影に目もくれず、ただ前だけを見つめていた。するとふわふわとした声が耳に滑り込んできた。
「ひょっとして、京都の樽本さんかなー?」
呼ばれて振り向くと、そこには真夏だというのに全身黒尽くめで少なくとも晩秋にするような服装をした、肌の白い女性が座っていた。見たことがある、と小春はぼんやりした頭の中で思った。いやこの声も聞いたことがある。黒尽くめでつばの広い帽子に、語尾がすこし伸びるこの特徴的な話し方とふわっとした声。五秒だけ間を置いて、小春の脳が一気にトップギアに入った。
「あっ、姉帯プロ!?」
「知っててもらえてちょーうれしいよー、でも名前にプロがつくとちょっと恥ずかしいねー」
知らないわけがない、と小春は叫びそうになった。あの宮永世代と呼ばれるモンスターズの一翼を担っている一人だ。無論上の世代も怪物揃いと表現できるが、宮永世代はその数が違う。世代最強の名を冠することができるような逸材が何人もいるのだから特別なのだ。もちろんいま小春の目の前にいるプロらしく見えない振る舞いをしている女性もそれに数えられている。何度か対局映像を見たことがあるが、小春としてはただ口を開けて見ていることしかできなかった。
弱い風が小春の若い頬を撫でて、これは現実であると改めて意識をはっきりさせた。姉帯豊音の長い長い黒髪はゆっくりと揺れている。
「え、あのっ、姉帯プロはどうしてこちらに?」
「樽本さんの打ち方にね、ちょっと知ってる人と同じものを感じたんだー」
下睫毛がちいさく震えて、懐かしむような暖かい目がほんのわずかなあいだだけ姿を見せた。その言葉には、彼女の十五年と少しの人生のなかで初めて体験する奇妙な重みがあった。あるいは言葉に重みを持たせることができる人と初めて会ったと表現するべきかもしれない。
遠い福音のような声が、次に何を言い出すのか小春にはわかるような気がした。きっと出てくるのは名前だ。今の私を作り上げた恩師の名前だ。確率的に言えばあり得ない。あの人が姉帯プロと面識を持っているわけがない。そのはずなのに。
ごくり、と小春の喉が鳴る。
「ね、船久保浩子ちゃんって、知ってる?」
樽本小春の運命が、音を立てて廻り始める。
続かない (迫真)