保健室のベッドで寝ていたらいつの間にか放課後になっていた。慌ててベッドから降りて保健室の先生に状況を聞くと随分前に俺を心配した担任の先生が様子を見に来たらしい。しかし、眠っていた俺の顔色があまりにも悪かったようで起きたら早退させた方がいいと2人で話し合ったそうだ。夢を見ないほど深い眠りで助かった。ここであの悪夢を見て吐いてしまったら病院に担ぎ込まれていたかもしれない。
「鞄は小泉さんと星空さんが持って来てくれたから今日は家で大人しく寝ててね」
『なんなら送ろうか?』と言ってくれたが丁寧に断って鞄を持って保健室を出る。
『これからどうするんですか、マスター』
(そうだなぁ……)
時計を見た限りでは放課後になってまださほど時間は経っていなかった。もし、音楽室でバイオリンを弾いて先生に見つかったら説教されるに違いない。保健室で鏡を見せて貰ったが、誰が見ても顔色が悪いと判断できるほど真っ青だった。先生でなくても怒られてしまいそうだ。
(まぁ、ばれても退学にはならないだろ)
『もう……適当なんですから。とりあえず、廊下で生徒や先生とすれ違わないようにルート選びますので』
(さんきゅ)
バイオリンは俺のロッカーに入っている。まずはそれを取りに行かなくては。それに小泉たちにもお礼を言わないと。
『残念ながら小泉さんと星空さんはすでに校内にいませんね』
俺の思考を呼んだのかルートを指示しながら桔梗がそう教えてくれた。
(もう気配覚えたのか?)
『はい。今のところ、クラスで唯一マスターと言葉を交わした2人だったので』
いつもながら俺の見た目のせいか積極的に話しかけて来る人はほとんどいない。それこそ入学式前に小泉が話しかけて来た時は俺が驚いてしまったほどだ。まぁ、まだ2日目なのでこれから話しかけて来る人は増えるだろうけど。
そんなことを考えている内に俺のロッカーに辿り着いて静かにバイオリンを取り出す。そして、桔梗の指示に従って廊下を歩き、音楽室に到着した。扉の小窓から中を覗くが誰もいない。扉を開けて中に入る。
「……うん、いい感じだな」
「そうですね」
誰もいないので音楽室の感想を言うと桔梗も同意してくれた。少しばかり埃っぽいので窓を開けて換気する。さて、何を弾こうか。バイオリンを取り出しながら俺は自分でもわかるほど口元を緩ませていた。父さんに教えて貰って始めたバイオリン。父さんが病死して触る機会はほとんどなくなってしまったが、吸血鬼の王女との共闘でこのバイオリンを使って以来、俺の趣味となっていた。あの頃はたった1曲しか弾けなかったが長年、続けていればおのずと弾ける曲数も増える。このバイオリンとも長い付き合いだ。自分で修理したり、翠炎で焼いて使える状態まで戻したりして来た。それだけ愛着があるのだ。父さんの形見だから。
だからこそ、この曲から始めよう。誰かに聞かせるわけでもない。弾くのも俺、聞くのも俺の演奏会。
「マスター、私のこと忘れないでください」
「悪い悪い」
白黒の腕輪から聞こえる桔梗の文句に対して軽く謝った後、目を閉じて構える。そして、弾く。父さんに教えて貰った最初で最後の曲を。
それから俺は夢中になってバイオリンを弾き続けた。バイオリンを弾いている時は何もかも忘れられる。自分でもわかっているのだ。ただ逃げているだけだと。あの現実を受け入れたくなくて、あの時の痛みや苦しみ、悔しさから目を逸らしているだけだと。だが、あの出来事は俺が生きて来た中で一番――。
「……入って来たらどうだ?」
弾くのを途中で止めて扉の方へ視線を向ける。すると、扉の外で『う゛ぇえ!?』という声が聞こえた。力を使わなくても近くに人がいることぐらいわかる。気付いた時には外で立ち聞きしていた。
「……」
観念したのか盗み聞きしていた人が入って来る。釣り目が特徴的な子だった。胸のリボンは青。クラスメイトか。1年生は1クラスしかないからわかりやすい。
「あ、あなた……」
向こうもクラスメイトだと気付いたようで目を見開いていた。しかも、俺は体調が悪くて保健室で寝ていたのだ。まさかこんなところでバイオリンを弾いているとは思わないだろう。
「盗み聞きは感心しないぞ」
「うっ……ごめん」
盗み聞きしていた自覚はあるのか彼女はビクッと肩を震わせた後、気まずげに謝った。
「……はぁ。まぁ、いいか」
そんな彼女の様子を見て許すことにする。バイオリンを弾くのに夢中になって彼女の接近に気付くのが遅れた俺も悪い。安心したのかホッとため息を吐く釣り目の子。
「それで……えっと、名前なんだっけ?」
「西木野 真姫よ。あなたは音無 響さん、だったわよね?」
「知ってたのか」
「あなた、すでにうちのクラスじゃ有名人だもの」
入学式の次の日から保健室のお世話になれば有名にもなるか。深手を負ったとは言え、俺も随分、弱体化したものだ。
「へぇ……なかなかいいバイオリン使ってるのね」
自虐的な思考を巡らせているといつの間に西木野はバイオリンを覗き込んでいた。
「わかるのか?」
「ええ……少し古ぼけてるけどしっかり手入れされてるわ。大切に使ってるのね」
「まぁな」
感心したように呟く西木野。こいつも音楽をやっているのだろうか。そうじゃなければこのボロボロなバイオリンは褒められない。ちらちらピアノ見ているし。
「ピアノ、やるのか?」
「う゛ぇえ!?」
唐突な質問に声を上げて西木野が驚く。髪を弄りながら視線を泳がせているが何度もピアノを見ているので図星なのだろう。
「弾かないのか?」
「……あなたには関係ないでしょ」
あまり人に聞かせたくないのか彼女はプイッとそっぽを向く。何というか、典型的なツンデレ、と言うべきか。
「俺のは聞いたくせに」
「……」
「盗み聞きしたくせに」
「ああ、もう! わかったわよ! 弾けばいいんでしょ!」
ムキになって叫んだ西木野は準備を始めた。その姿を見て微笑ましく思いながらバイオリンをケースに仕舞い、そのまま近くの机に座る。
「お行儀悪いわよ」
「今更だろ。帰って寝ろって言われたのにここで油売ってるんだから」
「随分……ぶっきらぼうな話し方ね」
意外そうな表情を浮かべた西木野だったが、ピアノを弾く準備ができたようで椅子に腰を下ろした。しかし、何故かこちらを見て弾こうとしない。
「ん? どうした?」
「何弾こうかって……何かリクエストある?」
「適当でいいだろ」
「……じゃあ」
少し悩んだ後、弾く曲を決めたようで一度、俺に目配せした彼女が演奏を始める。それは俺が一番最初に弾いた曲だった。どうやら、ほぼ初めから盗み聞きしていたらしい。弾き始めた時は緊張していたのか顔が強張っていたが、だんだん気持ちが乗って来たらしく楽しそうに弾いている。それだけで彼女がどれほどピアノが好きなのかわかった。
「……ふぅ」
鍵盤から指を、ペダルから足を離した彼女は満足そうに息を吐く。そして、俺の存在を思い出したのかすごい勢いでこちらを見た。
「な、何よ」
「何も言ってないだろ……上手いな」
「あなたほどじゃないわ」
西木野の年齢でここまで弾けるようになるには血の滲むような努力が必要になる。それほどこいつは本気なのだろう。それに比べて俺はただ長い時間、バイオリンを弾き続けただけだ。努力などしていないし、そもそも高みを目指そうと思ったことすらない。だからこそ、西木野のピアノには俺のバイオリンにはない迫力があった。もっと聞いていたいと、ずっと聞いていたいと思った。この世界に来て初めてかもしれない欲求。
「もっと聞かせてくれよ」
だからだろうか。俺はおかわりを要求していた。
「私だってあなたのバイオリン聞きたいわ」
しかし、それは西木野も同じようで不満げに呟く。どうやら、俺たちはお互いの演奏をもう一度聞きたいと思っているらしい。
「……」
「……」
数秒ほど見つめ合った俺たちはほぼ同時に同じ答えを導き出し、提案する。
「「一緒に、弾く?」」
すっかり茜色に染まった空を見上げる。思う存分、バイオリンを弾いたからかあのドロドロとした負の感情は薄まっていた。やはり、悪夢を見た時はバイオリンを弾くに限る。
「お待たせ」
そう思っていると後ろから西木野が現れた。あれから俺たちは指が攣りそうになるまで一緒に演奏したのだが長い間、整備していなかったからか演奏している途中でバイオリンの弦が切れてしまったのだ。もっと詳しく状態を確かめないと直せるかわからないが、それに必要な道具はスキホに入っているので西木野の前では取り出せない。なので、家で修理すると言って今日のところはお開きとなった。だが、先ほどまで一緒に演奏していたのに『はい、じゃあさようなら』と言うわけにも、言うつもりもなかったので一緒に帰ることになったのだ。
「それにしても……あなたって結構、とっつきやすいのね」
玄関を出て校門を目指して歩いている途中で不意に彼女がそう言った。
「そうか?」
「あなたは綺麗すぎるから話しかけ辛いのよ。一度、話せばそんなことないってわかるんだけど」
そう言えば、そんなことを言われた覚えがある。あれは一体、どこの世界だったか。吸血鬼たちがいれば記憶を整理して教えてくれるだろう。だが、今、吸血鬼たちとは会話出来ないのでその答えを教えてくれる人はいなかった。
「でも、その口調と一人称は本当に素なの? 男っぽいっていうか」
「昔からこうだったんだ。仕方ないだろ?」
「べ、別に駄目って言ってるわけじゃないわ……ただものすごく違和感があって」
まぁ、今の体は女なので男口調で話せば違和感もあるだろう。しかし、口調まで女にしてしまったら一生男に戻れないような気がするし、そもそも俺が女口調で話すなど想像もしたくない。
「まぁ、慣れてくれってしか言えないな。変える気はないし」
「……そうね。そっちの方があなたには似合ってるかも」
そう言いながら楽しげに笑う西木野。最初に比べてこいつも随分、表情が柔らかくなった。人見知りと言うか、慣れるまで時間がかかる子なのかもしれない。性格も素直じゃないからなかなか人と馴染めないだろう。人のことは言えないが。
「そう言えば、今日って何か言ってたか?」
「ん? ホームルームの話? 特に言ってなかったと思うけど……ああ、明日は身体測定があるからジャージ持って来てって。あと、席替えしたわ」
「それ結構大事だぞ……」
危うく制服で身体測定するところだった。それに俺の席がどこかわからず、誰かに教えて貰うまで立ち往生していただろう。
「明日から隣の席だからよろしくね」
今の席はどこなのだろうと考えているとそれを察したのか西木野が教えてくれた。どうやら、俺は西木野の隣の席になったらしい。それでも西木野の席も知らないので何の解決にもなっていない。
「あ、だから俺の名前、憶えてたのか」
「その前から知ってたわよ……言ったでしょ? あなたはもう有名人なんだって」
「別に何もしてないけどなぁ」
そう呟くと同時に校門を出た。すぐに西木野と視線を合わせ、無言のまま同じ方向を指さす。家の方向も同じようだ。何も言わずに並んで歩き始める。
「あれ、今思ったけど……音楽室って勝手に使っていいの?」
しばらく無言で歩いていたが西木野が突然、質問して来た。
「ああ、使ってなかったら使っていいらしい。よかったな、ピアノ弾き放題だぞ」
「っ……別に」
喜ぶと思ったが、何か事情でもあるのか西木野は目を伏せる。何かを我慢しているような表情。
「……また一緒に弾きたいな」
「……そうね」
俺の言葉に彼女は微笑んで頷いてくれた。西木野との演奏はとても楽しかった。最後の方は相手が知らない曲を弾き、それに土壇場で合わせるというよくわからないことまでし始める始末。でも、それも悪くなかった。翠炎なしであのバイオリンを直せるかわからないが出来るだけのことをしよう。
「家、こっちなんだけど……」
修理に足りない道具はないか頭の中で確認していると後ろから声が聞こえた。振り返ると少しだけ残念そうに右の道を指さす西木野の姿。ここでお別れのようだ。
「そっか。なら、ここで。西木野、また明日」
「ねぇ!」
歩き始めようと前を向く前に彼女に止められた。何事かと視線を西木野に戻すと髪の毛をクルクル弄りながら口をパクパクさせている。
「どうした?」
「な、名前! 真姫でいいわよ……響」
「……そっか」
「……」
「……」
名前を呼ばずにいると不服そうな顔で俺を睨んで来た。別に今すぐ呼ばなくてもいいとは思うのだが、西木野――真姫からしてみれば勇気を出して名前で呼んで欲しいとお願いしたのに生返事だけで済まされたのだ。機嫌が悪くなるのも無理はない。
「……お前の席、わかんない」
「え?」
「だから、明日、7時半ぐらいにここに集合な。真姫」
「ッ……わかったわ。それじゃ響。また明日」
「ああ、また明日」
満足そうに笑いながら去っていく真姫。せっかく音楽仲間が出来たのだ。わざわざ嫌われることもないだろう。
『……だからと言って仲良くする必要性もないと思いますけど』
(……そうか?)
『だいたい、マスターは無防備すぎます! 今日だって保健室で寝ていた時も何人もの生徒に覗かれていたのにも気付いていませんでした!』
待て、何のことだ。俺が寝ている間に何が起きた。
『あの西木野さん……いえ、真姫さんだってそうです。確かにマスターと趣味が合いますし、話しやすいかもしれませんがマスターは今、余裕がありません! そのあたり、ちゃんと理解しているんですか!?』
(してるしてる。バイオリンが直ったらたまに弾くぐらいだって)
『明日一緒に登校する約束したじゃないですかあああああああ!!』
そう言えばそうだった。この世界に来てから俺の言動が一致しないことが多い。突き放そうとしていたはずなのに仲良くしていたり。本当に、よくわからない。今の俺は一体、何がしたいのだろうか。
(まぁ……いいか)
『もっと緊張感持ってくださいよぉ! 心配する私の身にもなってくださーい!』
(久しぶりに一緒に遊ぶか)
『あ、ならこの前買ったゲームやりたいです! 一緒にやりましょう!』
(はいはい)
一瞬にして機嫌が治った桔梗を微笑ましく思いながら俺は家に向かって歩き始めた。
音楽という共通点で最初から好感度高めの真姫ちゃん。
きっと、真姫ちゃんならバイオリンのことも少しはわかるはずと言い聞かせながら書きました。