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何時か見た夢、今日に見た未来。
四角い箱の中に、真っ黒い猫を入れて蓋を閉じました。
「さあ、箱の中身はどうなっているでしょう?」
【Ⅴ】
S.Aコーポレーション内、第一研究室
「…結論から言いますね。 イヴちゃん、貴女は私のクローン体です。 DNA配置、その他諸々の全てがこれだけ一致しているのはそれ以外に有り得ません」
ぎしり、と椅子を軋ませてパソコンから此方へ向き直ったティアーユ博士はそう断言した。
「クローン体…」
ぽつりと零した俺の言葉に反応してかは知らないが、イヴがYシャツの袖をギュッと摘まむ。少しでも安心させようと、俺は頭の上にぽんと手を置いて。博士に先を話す様にと視線を送った。
クローン体。 博士の説明によれば、イヴは一人の人間(この場合はティアーユ博士)の遺伝子を元に造りだされたコピー、生き写しらしい。
この場に至るまで、そんな夢物語なんぞSFの世界の出来事でしか有り得ない事だと半信半疑だった俺も、やはり間近で見てしまえばそれを肯定せざるを得なかった。
顔の作りや、髪の毛の色といった単純な話じゃない。
一度も有った事が無い筈の二人の発する雰囲気、仕草、何気ない癖までもが恐ろしく似通っている。 兄弟以上、双子以上の存在。 どちらもティアーユであり、イヴである。それがクローン体。
「それとですね…どうやら、イヴちゃんの身体にはナノマシンが多数存在している様ですね。 それも、常に一定の数を保つ様に生成、破棄をプログラミングされた、恐ろしく高度な物です」
「…ん? ちょっと待てよ博士、少し前に医者に診て貰ったけど、その時はそんな物が有るなんて何も言われなかったぞ? なあ姫っち?」
ぷいっという擬音が付く位の勢いでイヴは露骨にトレインから顔を逸らす。俺の時とのあからさまな態度の違いにショックを受けるトレイン。真っ白になった黒猫を置きざりにして、尚も博士の話は続く。
「ええと...話を続けても? このナノマシン…普段は血液中を赤血球に擬態して回遊しているようですね。 恐らく、通常の血液検査だけでこれを見破るのは不可能といっていいでしょう」
「…なあ、さっきから疑問に思っていたんだが、イヴを作ったのは一体誰なんだ? 俺はてっきり博士かと思っていたが、その口ぶりからすると違うのか?」
「それは...正直に言うと、分かりません。 只、それが出来る人物に一人だけ心当たりが有ります。 数年前、定期検査という名目で私のDNAマップを採取して行った人がいます。 私のクローンを作る事が出来るとしたら、その時の事位しか...」
ドクター...か。
すぐ後ろに立っている俺とイヴが辛うじて聞き取れた程の小さな声。 呟いた主、トレインを博士は酷く驚いた顔で見た。
「数年前から私はある男に脅されていました。 名前も知らないその人が、一度だけ自分の事をそう呼んでいたのを覚えています。 …トレインさん、貴方と彼は知り合いなのですか?」
「ん? …ああ、検査って言ったら医者だろ? てきとーに言ってみただけだ。 知り合いでもなんでもねえよ。 んな事はいいからよ、博士、続きを頼むわ」
余りにも唐突で不自然なトレインの態度。 だが、俺がそれに対して口を挟む前に、トレインに急かされたティアーユ博士が話を再開してしまった為、開きかけた口を閉ざさざるを得なかった。
「は、はい。 彼は当時、しがない一研究者の一人に過ぎなかった私の前にいきなり現れ、莫大な資金提供と引き換えに、有る分野の研究をして欲しい。そう言ったのです」
「それがナノマシンやらクローンやらの研究だって言うのか?」
「ええ、そうです。彼は定期的に私の研究の成果を確認しにこの場所を訪れ、決まって幾つかのデータをコピーして行きました。 …といっても、そのデータで自分が学会に躍り出るとか、誰かに発表させるといった事は一切行わず、只、研究の進展を確かめに訪れるだけだったのですが…」
デスクの上から冷めかけた紅茶のカップを取り、一口含んで。
ティアーユ博士は憂いに満ちた表情で話を紡いでいく。
「…それから数年が過ぎた頃、彼はいきなり態度を一変させました。 その時点で既に八割方完成していたナノマシン理論とクローン技術を応用しての臓器移植。或いは腫瘍、及び未だに治療法が確立されていない数多くの難病の臨床実験。その研究費の継続を盾に私に強要したのは、それまでの純粋に医学に帰依する研究では無く。 ナノマシンによる人体の強制的な変異、細胞レベルの再生。 …そして、絶対的な不死性の確立でした。
恥ずかしい事ですが、その時になって私は漸く気付いたのです、彼がそれまでに私にしてくれた事の全ては、人類の発展や、医学の進歩を願っての無償の行動では無かった事に。 私にナノマシンの予備知識を植え付け、恩を売って逃げ場を無くした上で、あの悪魔の研究を行わせる為の布石だったのだと…!」
そこまで一息に話すと、とうとう博士の中で堰が切れてしまったのか、顔を抑えてしゃくり上げ、とうとう泣き出し始めてしまった。
「す、すいませんっ…。 私っ…、ずっと、誰かにこの事を話したくてっ! ……でも、言えなかったんですっ…! 他言したら、私だけじゃない、この研究に関わっている皆に、迷惑が掛かると思って、言えなかった……うぐっ、うぇっ….!」
「悪りぃ、二人共。 ちっと外の空気吸って来るわ」
博士の事、頼んだ。
そう言い捨てて、俺達の返事を待たずに出て行くトレイン。
「畜生、やっぱ【GOD】かよ…!」
研究室の扉を閉める間際、トレインがぼそりとそう呟いたのを、俺は聞き逃してはいなかった。
【Ⅵ】
「トレインさん、スヴェンさん。イヴちゃんの事、どうか宜しくお願いします…!」
俺の手を痛い程に握りしめながら懇願する博士。その姿を見て、此処を訪れるまでの間にほんの僅かでも罠かもしれないと思っていた自分を恥じる。
せめてものお詫びに何か気の利いた事でも言ってやろうかと頭を捻るが、それよりも先に復活したトレインが茶化しに入りやがった。
「おう、大風呂に乗った気になって任せとけって。 そのドクターだか毒団子だかいう奴をぱぱっとシバいてデータをぶち壊す、楽勝楽勝!」
「トレイン、それを言うなら大船だよ?」
「ん? そうか? まあ細かい事は気にすんなって姫っち、そんなにケチケチしてるとでっかくならないぞ~?」
何がでっかくならないんだ? と律儀に俺が突っ込む前に、鈍い音を立ててハンマーがつい一瞬前までトレインの立っていた地面に減り込んでいた。
天井を見上げると、部屋の角を利用して器用に張り付いるトレインの姿。 …お前、そうしていると猫ってよりクモかコウモリみたいだぞ? 拗ねるから言わないけれどな。
それよりイヴだ。 以前より、【変化】の速度が格段に上がっている。最近、イヴが俺(ついでにトレイン)の役に立ちたいと口癖の様に言っていて、密かに練習をしているのは知っていたが、まさかこの短期間で此処まで使いこなせる様になっているとは。俺は内心で驚愕していた。
「おお、姫っち怖ぇ~。 これも思春期パワーって奴かね、スヴェン?」
「知らん」
「ふんっ! トレイン…次は本当に潰すから」
鼻息を荒くして、研究室の出口に向かって早足でずんずん歩くイヴの背を慌てて追い掛けて歩く。 数歩進んで気付く。トレインが付いて来ていない。
疑問を覚えて後ろを振り返ると、何時になく真剣な表情をしたトレインが、胸ポケットから皺くちゃの紙を取り出してティアーユ博士に握らせているのが見えた。
「わりぃわりぃ。 ちょっと好みだったモンでな、メアド渡して来た~」
「お前…。それはつまり、イヴの事をそんな目で見ているって事か?」
俺が白い目で睨むと、慌てて弁解にもならないしどろもどろの良い訳を始めるトレイン。
「げっ!? って違う違う、そうじゃねえよ!! ええと……っあ~、何つ~か、ほら、あれだよあれ…」
本当は分かってる。 コイツがこうやって下手糞な嘘を吐く時は、大体が碌な事にならない前兆だって事はな。
「..なあトレイン、今じゃなくて良い。 だけどな、何時かは話せよ? 相棒だろ?」
「わ~ってるって。 そんなカリカリすんなよ
俺の言葉を何故か目を丸くして聞いていたトレインは、一瞬の硬直の後、からからと笑いながら俺の背中を力一杯叩き始めた。 その姿は小憎たらしい位にいつも通りで。
…いつも通り、か。
「ったく、何年立っても変わらねえなあお前は。 ああ、後でちゃんとイヴに謝っておけよ? じゃないと今晩のおかずは鰹節とライスだけだ」
「げっ、マジかよ!? うぇ~い….」
スヴェン、姫っち許してくれっかなぁ…。
知らん、お前の自業自得だ。
■ ■
あなたは箱の傍に置いてあったハンマーを振り下ろして、私にこう言いました。
「どうなっているか何て分からないから、箱じゃない様にしてみたよ?」
【Ⅶ】
「トレイン、スヴェン。 …これ以上、駄目だよ、この先に行っちゃ、行けない気がする…」
腕時計を見る。現在の時刻は…朝の十時を少しばかり過ぎた所か。
今、俺達三人の目の前には冷たく光る分厚い鋼鉄の扉が有った。不本意にも特技と化してしまった扉開けのスキルを使おうとして気付く。
とっくに鍵は外れていた。
「ん? 何でぇ、ビビったのか姫っち。 …って言いたい所だが、流石にここは茶化す場面でもねーか。 ティアーユ博士に貰った、変態から俺達に宛てて送られた手紙、どうやらビンゴみたいだな。 …おいスヴェン」
トレインに言われずとも、俺は左目に掛かった眼帯を外していた。部屋の中から感じる異様な気配。 …どうやら、【未来眼】を使わずに済む様な生易しい相手じゃなさそうだ。
「って、急かすまでもねーか、流石だな相棒。 準備は万全ってか? …うし、そんなら行くぜ」
ぱしりと拳を突き合わせ、無警戒に先へ進んで行くトレインを慌てて追おうとして。何時に無い程に委縮しているイヴに気が付いた。
「そんなに怯えるなイヴ。大丈夫、大丈夫だ、心配ないさ。 なんせ俺達が一緒だからな。 …それに、何か有ったらお前が助けてくれるんだろう?」
優しく言い聞かせる様に頭を撫でると、漸くイヴも安心した様だった。
「うん、私がスヴェンを助ける、スヴェンが私を助ける。 ベストパートナーだね」
「そうだ。 但し、次からはトレインも入れてやれ。 あんまり冷たくしていて泣かれても困るからな」
「…善処しとく」
少しも善処する気の無いふくれっ面を見て安心する。全く、言い聞かせたのはどっちなのか、これでは分からないじゃないか。
深呼吸を一つして、意を決して扉を潜る。
きっと、此処が
「ようこそ、といっておこうか。 遠路遥々こんな辺鄙な所まで良く来たね、待っていたよ」
此処までの道中の経緯から、罠がそこかしこに張り巡らされていると予想していた俺の事前の予想とは違い、本当に何もない、全てが真っ白い部屋の中央。
さも愉快そうにずれた眼鏡の位置を直しながら、白髪が混じり始めた白衣の男が立っていた。
「てめえ…誰だ?」
僅かに埃っぽい部屋に、トレインの押し殺した声が反響する。
「くくく…下手な三文芝居は止めなよ。 スヴェン君とそこの女の子—――イヴちゃんだっけ? は兎も角、君は覚えているだろう? …そういう風に
にやにやと唇を歪ませて笑うこの男。こいつは一体、何を言っているんだ? トレインは覚えている? 俺とイヴは覚えていない?
「何を言ってやがる、俺達はお前と会うのは初めての筈だ。 …トレイン? おい、どうした?」
絶句した。何時如何なる時も小憎たらしい程に飄々とした態度を崩さないあのトレイン・ハートネットが、俯いてぶるぶると拳を震わせている。そんな姿を俺は今までに一度も見た事が無かったから。
「…すまねえ、二人共。 俺は、こいつを知っている。 … いや、知っていた。 多分、初めから…」
「トレイン…。お前、何でそんな大事な事を黙ってやがったんだ!?」
「だってよ、気持ち悪いだろ!? 会った事も話した事も無い筈なのに、頭の中にそんなおかしな記憶が有るなんて話。 お前らに喋っちまったら、何だかよ、今までの全部が纏めてブチ壊れちまいそうな気がしてさ。 言えなかったんだ、済まねぇ…」
「トレイン…お前…」
能天気な態度の裏でそんな事を考えていたのか、こいつは。 …そして腑に落ちた。ここ最近の妙な態度の元はこれだったのか。
俺が何か勿体も無い事を言おうと口を開きかけた時、ぱかん! と間の抜けた音が鳴った。何事かと見れば、腕をフライパン状に【変化】させたイヴがトレインの頭を叩いていた。 …それはもう、上から下へ思いっきり振りぬいていた。
「痛ってぇ!? いきなり何すんだ姫っち!!」
「何って、この間の仕返しだよ。 …良かったねトレイン、これ位で済んで」
「ああ!?」
イヴが【変化】させた腕を元に戻し、俺の方を指さしてニヤリと笑う。
「私達はチームで、パートナーでしょ? だったら隠し事は無し。 出発前に三人で約束したの、忘れたの? アホのトレイン」
暫し考える素振りをみせて、トレインが漸く思い出す。
「ああっ! そうだ、ついうっかり忘れてたぜ、言った言った! もし誰かが足を引っ張ったり、隠し事してたりしたら、きっつい罰ゲームを残りの二人から…って事は何? 俺、三食飯抜き!?」
「まあ、そういう事だ。 今更妙な記憶がどうとか、その程度の事でどうにかなっちまうやわな付き合いでもねえだろうが。 水臭い事を抜かしてんじゃねえよ、このアホたれが」
「スヴェン...姫っち...! …おい、アホは余計だっつーの」
ぱちぱちぱち。 気だるげに叩かれた掌の音で俺達は臨戦態勢に戻る。
「うんうん。 素晴らしいねえ、実に感動的な演劇だったよ。 此処が舞台ならおひねりの一つでも投げてあげる所だ。 …で、もう気が済んだかな?」
「ああ、お陰様でな。 後はお前を取っ捕まえてこの話は終いだよ」
完全に自分を取り戻したトレインが腰に提げた銃を抜き、構える。 釣られる様にして、俺とイヴも臨戦態勢に入った。
「ああ…もういいや。茶番劇に付き合うのも、もう飽きた。 こんな
口角が釣り上がる。赤い舌が厭らしく動いて。
「そうだ、駄賃代わりと言っては何だが、折角だから一つ教えてあげようか。 ―——――どうして僕は、君達が此処に来る事を知っていたんだろうねえ? 予め、手紙まで渡してさあ?」
何だ? こいつは一体何を言ってやがるんだ!?
言葉の意味を理解できず。只、背筋に今までで最大級の悪寒が走り抜けていく。
「どうして僕は、君達三人相手に丸腰で囲まれてこ~んなに余裕たっぷりなんだろうねえ?」
「テメエ、さっきから黙って聞いてりゃ訳分かんねえ事ばっか言いやがって。 俺達を舐めるのもいい加減にしやが…」
トレインの言葉が最後まで紡がれる事は無かった。
ヤツのささくれた親指と人差し指がすうっと胸元へと伸びて行く。それが合わさり、擦れ、弾かれて。 ぱちりと乾いた音が鳴った。
真っ白い部屋に妙に空々しく響いたその音は、これから永劫に続く地獄の始まりを告げる音であり、俺達が築いて来た平凡で幸せな日々の終わりを告げる音でもあった。
「まあ、種を明かしちゃえば何て事は無いんだけれどね。 …とどのつまり、こういう事さ」
実はこの時、数秒後の未来を映し出す俺の切り札―――——未来眼は発動していた。
発動していて、俺は何も行動出来なかったんだ。見えた光景が余りに信じ難くて。信じたくなくて。
俺は只、馬鹿みたいに呆けて突っ立っている事しか出来なかった。
音。 …そう、音だ。
その時、確かに聞こえたんだ、何時かの雨の日に聞いた、二度と聞きたくないと思っていた音が。ぞぶりだとかずぶりだとか、そんな感じの間の抜けた音だ。
そして同時に感じる、異物が俺の身体を抉っていくこの得も言われぬ不快感。そんな事をしなくてもどうなっているか何て分かっているのに、どうしてもこの目で確かめたい欲求に負けて視線を下げる。
―—―——ああ、駄目だ。見えた、見てしまった。
刃状に【変化】した腕が俺とトレインの身体のど真ん中をぶち抜いていた。
そう、俺達三人の他には誰も居なくて、今貫かれているのは俺とトレインの二人で。 …詰まる所は、そういう事だった。
…なあ、何で、どうして
疑問は言葉にならず、代わりに口から溢れ出たのは生臭くて赤黒い噴水。
急激に視界が赤く染まり、間を置かずにそれは黒へと移り変わって行く。
…暗い。あっという間も無く全てが暗くなる。 …これが全部黒に変わったら死ぬのだろうか。死ぬんだろうなあ。
そんな勿体も無い考えが頭の中で浮かんでは消えて行く。
(私は一緒に居たい。 二人と、トレインとスヴェンと一緒に居たいよっ…!)
…そうだ、思い出した。 あの日、俺達がイヴを博士に預けて去ろうとした時の事を。 あの、消え入りそうに儚い声。
…俺は気付いていなかったのか。
……いや、違うな。 思い出していた。きっと、認めたくなくて目を逸らしていただけなのだろう。
幸せな日々が、有限で或る事に。
蝋燭の火が消える瞬間。 ほんの一瞬、最後に見えたのは、紅く染まった眼をしばたかせてじぃっと俺を見つめるイヴの姿だった。
…おい、おい、泣くなよイヴ。 まるで、これで全部、終わり、みたいじゃねえ…か。
愉快だと、愉快で堪らないと。 酷く耳に触る笑い声が、部屋の中をわんわんと反響していた。
■ ■ ■
あなたが本当に潰したかったのは箱なの? 猫なの?
それは本当に
あなたは、誰なの?
―—―—―——ぐしゃり。
次回、トレイン視点で補完して黒猫sideは終了です。 次から何事も無かったかの様に本編に戻ります