皆さん御機嫌如何でしょうか、クリード・ディスケンスです。
突然ですが僕は現在、まっくら森の中を走っています、割と全力疾走です。
…えっ? 何で走っているのかって? 決まっているじゃあないですか、変態に追われているんですよ。 変態です、大変です。大変態です。
もう本当、メッチャクチャ怖いんですってば。 さっきチラッと振り返ったら例のあの人、興奮しすぎてかどうかは知らないですけれども、作画崩壊しておりました。薄暗闇の中から顔面ヨダレべっちょべちょでハァハァ、フヒフヒ言いながら四つん這い気味に走って来る奴が居たら誰だって逃げる、僕だって逃げる。
楕円形に伸ばした【円】を後方に比重を置いて展開。逃げて逃げて、時折後方から飛んで来るトランプを撃ち落としながら只管に走り倒す事早三十分弱。
サキ君に【念】を使うなとあれ程言っておいて、舌の根も乾かぬ内に自分が使うのはどうかと思わないでもないが、今回ばかりは(今回もか?)命が掛かっているから許して頂きたい。
一つだけ、不幸中の幸いと言うべきか。 逃げながら密かに目指していた目的地が森を抜けてから然程しない内に見えて来ました。
意を決して前方へ思い切り跳ねる、と同時に身体を捻りながら抜刀の構えを取り、大変態と正面から対峙する態勢に入る。
…ああ、顔怖い。気持ち悪い。
【Ⅳ】
獣が二匹、月明かりの下を疾走していた。
一匹は耐えがたい血欲の飢えを満たす為に。もう一匹は執拗に追い縋って来る捕食者から命を守る為に、或いはこの島の何処かに居る自分の知り合いに凶刃の矛先が向かう事を恐れてか。
二匹は走る、何処へ向かうとも知らずに。されどその足取りに淀みは無い。真っすぐに一直線に、月明かりが朧気に照らす何処かへと向かって闇の中を走り続けていた。
丁度その時、二人の進行方向の先に人間が一人立っていた。
彼には何ら落ち度は無い。これから間を置かずやって来る長い夜に備えて野営の準備をしようとしていただけだ。 異常に気付き、振り返る。
その時点でもう、驚愕に目を見張る程度の僅かな時間しか残されていなかった。 そして、終わるのもほんの一瞬に満たない刹那の間だった。
一匹目の獣が疾風の如き速さで脇を通り過ぎて行く。 極東の極々一部で語り伝えられる合気の術か、それとも別の何かだろうか。80㎏を優に超す彼の身体が、風に弄ばれる木の葉の如く易々と宙へ吹き飛ばされる。
その真下では、二匹目の獣が唇から舌先をチロリと覗かせ、歪んだ三日月を描いて笑っていた。
錐揉みながら独楽の様にクルクルと舞う彼の耳に、風を切るひゅうひゅうという音がやけに鮮明に聞こえていた。
(死にたくない!)
急激に三半規管を揺さぶられた事に伴う激しい嘔吐感と全身を駆け抜ける耐え難い激痛の中で。 それでも何とか受け身を取ろうと彼は必死に足掻いて、足掻こうとして。
赤い飛沫が舞う視線の先。 見慣れた自身の体と真正面から対面していた。
———首は此処に。身体は彼方へ。
…果たして、彼は己の死を理解する事は出来たのだろうか? その答えは永遠に闇の中に在る。
激しく錐揉みながら、肉体は八つ裂きに切り裂かれていく。
血膿と身体の内に収まっている筈の臓腑が、さながら弾けた柘榴の果実の如くばらばらと森中に撒き散らされていった。
…繰り返すが、彼に落ち度は無い。 只、運悪く血に飢えた獣二匹に出会ってしまっただけなのだから。
獣は走る。まるで子蠅を払うかの如くあっさりと人命が散った事など、気にも留めずに走る。
疾走の途中、鬱蒼と生い茂る森林が不意に途切れ、終わりを迎えた。葦が生い茂る草原を駆け抜け、次いで小高い岩山を登りながら、尚も二匹は走る事を止めない。
「…いい加減にしてくれよ♠」
先を走っていた獣――クリードが僅かに膝を沈ませる。次の瞬間、前方へ向かって空高く跳躍した。 視線の先には断崖絶壁、その下方にはざぶざぶと波が打ち寄せ続けている。 終端が迫る中、跳躍と同時に身体を180度回転させると、その勢いを利用する様にして懐の剣を抜き放ち、縦横無尽に振るう。 柄だけしかない様に見えるその【剣】。
しかし、それは確かに鋭い風切り音を生じさせ、闇夜の隙間を縫って四方八方から飛来する幾枚ものトランプをすっぱりと両断していた。
「…むっ!?」
砂埃を盛大に巻き上げながらも、辛うじて断崖の端ギリギリで踏み止まったクリード。尚も執拗に追い縋るヒソカを迎撃しようと腰を落とした瞬間だった。クリードの身体が両手を腿の横で揃えた、所謂気を付けの姿勢で硬直した。 ―――否、させられていた。
唯一自由に動かせる首を左右に振って原因を探る。 両目に集めた【念】が、切り捨てたトランプから半透明に伸びるオーラを見つけ出す。
異常な事態の原因は直ぐに分かった。伸び縮みする奇妙なオーラが、周囲に散らばったトランプから伸びて、クリードの身体をぐるぐると縛る様に纏わり付いていたのだ。
視線を前に向ける。 細い紐はやがて縒り合わさって身体の自由を奪う一本のロープと化し、束ねられてヒソカの右手に握られていた。
(成程、ワザと僕にトランプを斬らせたな。 道理で、やけに斬り易い位置にばかり飛んで来ると思っていたが、こういう仕掛けだった訳か。 ご丁寧に【隠】まで施す念の入れ様、そしてこの薄闇も絶好の隠れ蓑となる…)
「いい加減に…か。 それはお前では無く、僕の台詞だと思うのだが?」
首から上を除いて、完全に四肢を拘束されているこの状況。正しく絶体絶命の窮地で有る事を理解出来ていない訳では無いだろうが、この場に於いても尚、クリードの瞳に動揺の色は微塵も浮かんでいなかった。
他愛も無い世間話でもしているかの様に愚痴りつつ、僅かに自由の利く右足の指先で紙切れの一つを器用に摘まみ上げ、ヒソカに投げつける。 苦も無く二本の指で挟み、胸元で受けとめるヒソカ。
突き返された二つに裂けたハートのエースからは、自らが籠めた【情念】の残滓がぷうんと香っていた。
「ボクには分からないな。 一次試験の時もそうだったけれど…。 何でキミは、そんな良いモノを持っていながら戦いを楽しまないんだい?」
それは煽りでも何でもなく、奇術師ヒソカの純粋な疑問だった。
何故にクリードは此処まで頑なに戦おうとしないのか。 何故、強者との邂逅を避ける様に動き、避けられないと分かるとこうして逃げの一手ばかりを打つのか。
ヒソカには本当に理解出来ないのだ。…分からないのを分からないと言うべきだろうか。
他人の命を自分の手前勝手な都合で摘み取る瞬間の、何物にも勝る優越感。 至近距離で標的の首筋を掻っ切った際の、避けられない死を理解して絶望に染まり切った表情の美しさ、一拍置いて紅く噴き出す血潮の暖かさ。 背筋がひり付く様な修羅場と戦闘の最中にのみ感じる、あの得も言われぬ恍惚感を、彼も味わっている筈なのに。
「生憎だが、僕にとって戦いとは楽しむ物では無い。 精々が…そうだな、五体満足で生き残る為の手段に過ぎないよ。 …そう、昔からそうだった。 そして、それは今も、これから先においても何ら変わる事は無いね」
そんな事はどうでも良いと言わんばかりに、ぽつりと零した言葉の終わり際。 ―――唐突に、何かが擦れる音が響いた。
ギィ…ギィ……。
依然としてクリードは自分の能力――バンジーガムによって全身を拘束されたままだ。動ける筈は無い。 現に、右手に握りしめられた虎徹の柄は一切のオーラを発さずに地面を向いている。
しかし、この場には二人しか居ない。 …つまり、この出所不明の異音を奏でている下手人は、ヒソカかクリードのどちらかしか居ない。
即座にヒソカは【凝】を使い、クリードとその周囲を注視する。
…無い。何も異常は見つからない。眼前の美青年の全身を薄く覆うオーラは、淀みなく一定の厚さを保ちながら循環し続けている。
「…何をしているのかな?」
異常は無いのに、明らかに異常だ。
奇術師が奇術のタネを見破れない。それはヒソカにとって、最大級の屈辱だった。
堪らず問うが、クリードは答えない。
返答の代わりとでも言いたいのだろうか、微笑を湛えた薄い唇の端が極々僅かに吊り上がる。
それと同時に何かが擦れる音がまた、何処かで響いた。 それは僅かにだが先程より大きく、微かに振動を伴っていた。
「別に、何もしていないよ。 何かをするのは
紡がれた言葉の終わりと共に、右手に携えた幻想虎徹が無の状態から以前対峙した際に見せた異形の剣――LV2へと瞬時にその姿を変化させ、クリードとヒソカを繋いでいるオーラの紐を喰い千切ろうと身体を伸ばし、大きくその顎開く。
当然、ヒソカがそれを黙って見逃す筈は無く、瞬時にバンジーガムを収縮させてクリードを自らの元へ引き寄せた。
それが今回、ヒソカが犯した最大級の悪手で、クリードの狙いだった。
「―――ぐぅッ!?」
ヒソカの視界が無色の光で白く染めあげられる。聴覚が至近距離で炸裂した轟音によって麻痺させられる。 次の瞬間、右手に握った拘束帯から一切の重量が消え失せた。
(バンジーガムから逃げられた!? どうやって? …決まっている、あの奇妙な剣、それ以外に有り得ない! 他人のオーラを喰う? 特質系!? …それよりもこの状況はマズイ、見えないし聞こえない!)
そこまで思考した瞬間、今までで最大級の轟音――いや、地響きが鳴り響いた。 直後、急激に辺り一帯に立ち込め始めた砂埃の匂いと、遥か下方の海面から響く轟音。
此処で漸くヒソカは先程から鳴っていた異音の正体に気付くに至る。
(クリードの剣、あれは何も発していないんじゃない、何も感じない“あの状態”で既にLv1――抜刀状態だったのか。 やられた、勘違いしていたな。てっきりボクは必要な時だけあの柄にオーラを籠めて刀身を造り出すのが能力だと、勝手に思い込んでいた…!)
それとは別に、クリードの取った行動がヒソカの頭を沸騰させていた。
先の一瞬。拘束に抗えず、無防備に此方へ引き寄せられたクリード。その喉笛を左手に持ったスペードのエースで掻き切ろうとした瞬間、左手の袖口から何か丸い物が転がり出て来るのを、ヒソカは興奮の余りに紅く滲んだ視界の端で捉えていた。
直後に受けた衝撃から推定して、手榴弾の類だろうか。 それも殺傷力の無い逃走、鎮圧用の物だ。
…何処までも自分をコケにしてくれるじゃないか、クリード君。
沸々と湧き上がる怒りと至近距離で浴びた衝撃でふらつく脳味噌を無理矢理に奮い立たせ、崩落中の崖端へと駆け寄る。
まるでヒソカが覗き込むのを持っていたかの様なタイミングで、海面へ向けて絶賛落下中のクリードと目が合った。
「―――おや、これはどうも。先程ぶりですねヒソカさん。 そうだ、散々に追い掛け回された迷惑料と言っては何ですが、折角なので『これ』は有り難く頂いておきます」
—――――それでは、“生きて居れば”ですが、七日後まで御機嫌よう。
「うがああああ!! クリードおおおォォオオッッ!!」
ガムの拘束から解放されたクリードがにこやかに手を振りながら大量の岩と土砂を盾にして、崩れた崖の断面からヒソカが放つバンジーガムを避けつつ落下して行く。
轟音と共に盛大な波柱が上がる。仄暗い海面が常の静けさを取り戻した時には、クリード・ディスケンスの姿は影も形も見えなくなっていた。
呆然自失の面持ちのまま、ヒソカは左胸に手を当てる。 プレートは何時の間にやら掠め取られていた。 …先程の裂けたトランプを投げ返された時か、それとも、今の一瞬に満たない交錯の間にだろうか。
一時的に姿を喪失した事実を踏まえると、後者の可能性が高い。
目的を喪失し、冷静に思考する脳内とは裏腹に、ヒソカの内側からは怒りの感情が抑えきれない程に、喉元まで膨れ上がって来ていた。
掠め取られた? 奇術師であるボクの眼を欺いて? 逃げた? ボクをここまで昂らせておいて…!?
「ふざけるな…! ふざけるなよクリードォォォ…!!」
歯軋りの音が岸壁に打ち寄せる波の音を憎悪で上書きして行く。やがて、悪鬼羅刹の形相と化したヒソカがゆらりと立ち上がった。その両手からはボタボタと鮮血が滴っている。 余りにも強く握りしめた所為で皮膚が破れたのだ。
「絶対に、必ず! キミを見つけて、食べてやるからねぇ…♡」
頭を低く、低く。 自らの足を舐める程に、夕立でぬかるんだ地面を舐める程に低く。 四足獣の如く異様に低い姿勢で走る影が一つ。 血に濡れた両の指にしかとトランプを挟んで闇夜を狂奔するは人に非ず、されども獣と呼称するには、眼に宿した狂気の色が濃厚に過ぎる。
落とした御馳走を求めて迸る禍々しいオーラを、半分に欠けた月と戦慄に慄く青年だけが見ていた。
【Ⅴ】
島の中央を分断する様に流れる川。その畔に広がる見晴らしの良い草原にて。細長く伸びた影が二つ、踊る様に揺れていた。
「…ねえ、さっきから待ってあげてるんだけど、何時使うの? というか、何で使わないわけ?」
心底どうでも良さそうに呟きながら。 影の片方、全身に余す事無く針を差し込んだ異形の男―—ギタラクルが左足を一歩分後ろへ引く。
そうする事で生まれた隙間の中を、もう一つの影が放った拳が通り抜けて行った。
勢いを殺さない様に素早く腕の関節と拳を掴む。それと同時に彼女の足を払い、突進して来た勢いを利用して空中へと力のベクトルを転換して投げ飛ばす。
「おっととと…! 何でって、それはまあ、使わない様に、言われてますからっ、ねっ!」
さりとて、投げ飛ばされた彼女も戦闘に関しては丸きりの素人という訳では無い。投げられた勢いに逆らわずに、空中で体を丸めて回る。
数瞬の間を置いて。 ふわり、と軽い動作で地面に降り立ったもう一つの影―—サキを見て、実家で昔飼っていた、あのやたら元気な黒猫の様だな――とギタラクルの脳内を凡人の様な感想がぽつんと浮かんで消えた。
無論、ギタラクルからすればこれは只の暇つぶし、余興でしか無い。
彼がその気なら既に決着は着いている。 本職――暗殺業にそぐわない、至近距離で隙を見せた相手を態々投げ飛ばす、追撃を行わずぼうっと突っ立っているだけ――等といった無意味な行動を取らずに、身体の至る所に装備している針で一刺しすればそれで終わる話である。
「ふうん、使わない様に…ねえ。 それ、クリードに言われたんだよね? 理由は?」
「…貴方に教える必要は有りません!!」
んべっと舌を出したサキ。無感情に見つめるギタラクルからは一切の感情が読み取れない。
それを彼に言わせれば、感情何てモノは仕事に於いて邪魔でしか無い。そう、にべも無く言い放つだろう。
怒りは標的に対する目を濁らせ、悲しみは仕事に対する自分の身を危うくさせる。その一文を生まれた瞬間から徹底的に教育された。
その結果として、暗殺業という因果な職業に就きながら此処まで生きて居る事。揺るぎの無いその事実が、考えの正しさを証明している。
ずっとそういう風に生きて来て、これからもきっと、そういう風に生きて行くからだ。そこに疑問を挟む余地は微塵も無い。
「まあ聞いといて何だけれど、どうでも良いんだけどね。 ―――そろそろ飽きたし、殺しちゃうよ?」
直後、ギタラクルの気配が明確に変化した。無軌道に垂れ流されていた戦意と殺意が一ヶ所に押し固まり、眼前の相手――サキに向けて指向性を以て放たれる。辺り一帯の空気がビリビリと震え、生有る者は皆、その場を去るか、もしくは耐えきれずに気絶するかの二択を迫られる事になる。
「しまった、地雷踏んじゃった!?」
「…あっ、そうだった。これを言い忘れてたな。 大人しくそのプレート置いて行くなら(一応は)殺さないけど、どうする?」
「折角ですけれども、お断りします!!」
考える素振りも見せず、ノータイムで言い放つと同時に懐から何かを取り出して勢い良く地面に叩き付ける。 直後、もうもうと立ち込める白煙。 煙に紛れ、踵を返して逃げ出すサキの背が見る見るうちに小さくなって行く。
(この月明かりと障害物の無いだだっ広い平原での煙幕、ねえ…。 まあ、この状況下では悪くは無い選択肢では有るか。 勝ち目が無い事を理解して、瞬時に保身に思考を切り替える。 捨て身で掛かって来るよりは断然、利口な選択だ。 ―――まあ、百歩譲ってそれは是としてあげても良いけれどもさ。 ……消し忘れているんだよねー、気配)
クリードやヒソカには悪いけれど、別に見逃す義理も無いし、逝ってみようか。
ギタラクル、では無くイルミ・ゾルディック。 自他共に認める超一流の暗殺者である彼にとって、この程度の煙幕や暗闇程度は障害になり得ない。
躊躇い無く、瞬時に針を抜き取ると白く細い彼女の首筋に狙いを定めて投擲した。