ニーナが大声で、それこそエンターテイナーを気取ったように声を張り上げると、突如ボス部屋の入り口に光の渦が現れた。まるで、彼女がそれを予期していたように。いや、むしろ彼女のタイミングに合わせて光の渦が出現したようにも思える。
光の渦の正体は、おそらく《回廊結晶》だろう。75層のボス部屋であるこの場所に向かう際にヒースクリフが使用した、登録した指定の地点への道を繋ぐアイテムだ。一度使用しており、しかも半日も経っていないことからその光を俺は鮮明に覚えている。しかし、今目に映っている光はあの時の物とは全くの別物だった。
恐ろしいほどに、紅い光だった。
記憶に間違いがなければ、広場でヒースクリフが使用した時には青い光だったはずだ。だが、目の前にあるのは赤。紅。朱。限りないアカだ。システムの異常かと思うまでもなく、あいつを連想してしまった。ニーナがあれほど歓喜させる存在といえば、彼以外にないだろう。きっと、その事実がそう思わせているに違いない。
そして、紅い光の中から一輪の花が飛び出してきた。小さなその花は、ふわりふわりと宙を舞う。揺れながら落下したその花は見覚えがある。ピナを蘇生するためにシリカと三人で探したあの花に違いない。淡く光るその花は、光がこぼれ落ちるようにも、雪の結晶が朝日に照らされて光り輝くようにも思える。花が落ちていく様子に、目を奪われた。
プネウマの花。使い魔蘇生用のアイテムだ。
花は、やがてアメジストに似た結晶、シーナの心アイテムの元へ舞い降りた。花と結晶が触れ合った瞬間、暖かな光に包まれる。命の光と呼ぶのが、この光景、この光に相応しい。その光が、死した心に命を吹き込む。
光が消えるとそこには、蘇生されたシーナがいた。
「シーナちゃんっ!!」
「………………」
アスナの呼びかけで目を覚ましたシーナは、何が起こったか分からない様子で、声を出そうと口を開けるも声が出ない。キョロキョロと辺りを見渡すその姿は、軽いパニックに陥っているようにも捉えらる。今ある状況を手探りで把握しようとしているのだろうか。
「…………!!」
だが、紅い光を見つけた瞬間、一目散にそちらへ走り出した。一心不乱に、ひたすら走る。前足と後足を使い、体をバネのように使い、ひたすら走る。シーナ自身の身体能力もあり、驚異的なスピードで光に向かって走っていく。
距離を詰めたかと思ったその瞬間、シーナが思い切り飛び跳ねた。飛び跳ねたかと思うと、自分を抱きしめるように空中で体を丸めた。言い方が悪いかもしれないが、例えるなら投身自殺。踏み出して、委ねるだけの行為。着地する場所も用意も全くない、自身を捨てるかのような行為だ。
しかし、シーナのこの行為は投げ出す意図はない。それは確信できる。
「ねえ、キリト君!」
「やっぱり、そうだったか」
アスナが興奮しているのも無理はない。まるでシーナを待っていた……いや、迎えに来たかのように、人の影が現れたからだ。突如現れたそれに、淡い希望を見るのは仕方がないと思う。なにせ、俺もその一人だからだ。
シーナが宙に体を委ねたのは確信があったからだ。自分を受け止めてくれる、自分を受け入れてくれる人が、目の前にいたから。その確証があったからこそ、捨て身とも思える行為に踏み込めたのだ。
その人物が現れても全く驚かなかった。こんな状況でも、目の前で殺されても、俺は信じていたからだろう。絶望的な状況を何度も覆してきた、大事な仲間のことを。
少し違うのは、涙が枯れていることくらいかな。
「随分と遅かったじゃないか、ソラ」
しょうがないだろ、と。あいつが言っているような気がした。
光の回廊を抜け出したと思ったら、いきなり黒い影がこちらに迫ってきた。
「ファッ!?」
突然の奇襲に驚きながらも、なんとか受け止めることができた。視線を落とすと、胸に抱かれていたものは、黒くて、柔らかい毛並みの黒猫。いつも俺の隣にいてくれた、頼れる相棒。優しく撫でると、こちらをおずおずと見つめる。まるで、死人を見るような眼で。
「………………ただいま、シーナ」
「――――――――――――――ッ!!!」
その言葉で、シーナの何かが破裂した。
気が狂ったように、頭を擦りつけてきた。抱かれた胸の中で、暴れていると錯覚させるほどの勢いで頭を押し付けてくる。何度も、何度も、何度も。執拗に繰り返すシーナを見ていると、その感情が嫌でも見えてくる。絶対に離すものかとしがみつき、自分を刻み付けるように額を押し付けるその姿。そして何より、青い瞳に浮かぶ雨粒がそれを物語っていた。
「…………ごめん」
ふと、そんな言葉がこぼれ落ちた。
俺が離脱しようとした時、シーナがこうなるのは分かっていた。
ニーナと戦っていた時に自分の死を偽装しようとした際に、その後のことを考えてないわけではなかった。そういう意味では分かっていたんだ。俺が死んだら、怒り狂ったシーナがニーナを殺そうとすることも。その末に、シーナが殺されることも。
普段は悪態ばかりついているけど、こう見えていいやつなんだ。シリカの一件でも、ピナを失って落ち込んでいたシリカに寄り添っていたしな。そう考えると、ピナと仲良くしていたのも、俺とシリカが打ち解けやすくするためだったのかもしれない。サーシャさんとこのガキ共とも毎回遊んでくれていたし、ラフコフ戦など大事な場面ではずっと支えてくれた。クラディールを殺したあの時も、こちらを気遣う目で見てたし。俺はシーナを信頼していたし、シーナが俺を信頼してくれてることもちゃんと理解していた。
だから、こうなるのは必然だった。俺を目の前で殺されて、シーナが黙っているわけがない。シーナは優しいから、きっと怒る。その怒りを、自分の主を殺したニーナに向けて、復讐のために殺す。それが俺のためなのか、それともシーナの自己満足に過ぎなかったのかは今でも分からない。それでも、シーナが怒ってくれることだけは確信していたし、結果的にもそうなった。
そう確信していたからこそ、俺は辿り着く前に《プネウマの花》を用意していた。回廊の中からうっすらとシーナの心アイテムらしき結晶が見えたので、花をそれに放り投げた。そうしてシーナは蘇生されたのだろう。花が消えていることから、そう推測できる。
要するに、俺はシーナの死を受け入れ、黙認していたのだ。自らの目的のために、相棒を切り捨てた。蘇生が可能だとしても、シーナを殺した事実は変わらない。多くのプレイヤーを、ニーナを殺した俺は、命を奪うということの重さを誰よりも理解していた。理解していながらシーナを見捨てた。道具のように、手放した。
「…………ごめん」
シーナへ向けた謝罪の言葉。しかしそれは意味のないものだった。自らの意志で殺しておきながら、何食わぬ顔で謝ることができる俺の言葉に、もはや何の価値もなかった。
「~~~~~~ッ!!」
それでもシーナは、首を横に振って俺の謝罪を否定した。「見殺しにして、見捨てて、使い捨てた。ごめん」と告げても「そんなことはない」と否定した。言語を発せないから、それを精一杯の行動で示そうとする。必死に首を横に振って、憎しみの感じられない瞳で訴えかけてくる。しがみつく強さから、流れる涙から、嫌でも伝わってしまう。その温かさが、今は苦しい。
「……シーナ、ごめん」
もう一度、シーナにそう言った。先程とは別の意味で、そう言った。
そして、シーナの耳元で囁く。
「ここで、お別れだ」
その言葉に、シーナの体がビクンと反応した。
「やらなきゃいけないことがある」
フルフルと、腕の中で震えている。
「一人で、終わらせたいから」
それでも、シーナは俺の言葉を受け止めている。
「お前は、キリト達を頼む」
否定もせず、ただ聞き入れている。
「…………シーナ」
シーナの頭を撫でる。その手は、何の抵抗もなく受け入れられた。感触と温度が伝わってくる。柔らかく、温かい。
「俺を助けてくれて、ありがとう」
ニーナを失って、絶望の底にいた俺を助けてくれた。孤独と痛みを癒してくれた。共に、命を懸けて戦ってくれた。俺とみんなを、繋いでくれた。シーナという存在は、俺にとって救いだった。だからありがとう、シーナ。
「―――――――――」
それでも、ここから先は俺だけで進む。この道は一人で進まなければいけないし、そこまでシーナを巻き込むわけにはいかない。シーナを捨てることになるとしても、裏切ることになっても、ここから先はいけない。これ以上、君を傷つけたくない。
だから。
「さよな…………」
言葉を紡ぎ終える寸前、口に猫の手が当てられた。「これ以上は言わないで」と言うように、唇に肉球を押し付ける。柔らかい感触と生温かさが、唇から伝わってきた。
「シー、ナ」
口を押えていた手を引っ込めて、シーナはこちらを見つめてきた。目を細めて、慈しむように見つめてくる。涙は流れていなかったが、寂しさみたいな感情は嫌なほど伝わってくる。そんな、全て諦めたような表情が心臓を締め付けてくる。
「ヴニャッ」
「あだっ!」
突然、シーナがしがみついていた足で顔を引っ叩いてきた。俺の左の頬を強打したそれは、間違いなくシーナが全力で放ってきた一撃。結構痛い。地味に痛い一撃を喰らわせた本人、もとい本猫は舌をペロッと出してきた。こやつめ、煽りやがったな。
「…………」
そして、シーナは俺の腕からするりと脱出し、俺の目の前から遠ざかっていく。そしてキリトの側に着くと、こたつの中でするように丸くなった。
「最後の最後まで、お前は……」
シーナのおかげか、こんな状況でも笑みがこぼれた。
最後のねこパンチも煽りではなく、気を紛らわす行為だったのだろう。この空気に耐えられそうにないからと、自分の気持ちを悟らせないためにそうしたはずだ。俺の覚悟を邪魔せず、自分が壊れないようにするための必死の抵抗。そうさせるのはなんか罪悪感みたいなのがあるけど、そう思ってくれていると思うと嬉しかった。
シーナの方を見ると、丸まりながら片目を開けてこちらを覗いてきた。
「やってみろ。死体は拾ってやる」
とでも言ってるのだろうか。でもこのゲームは死んでも死体残りませんからー!残念っ!!といつもの調子で妄想を楽しんでいた。
「で、何のこのこ帰ってきたんだよ」
聞こえてきた声に、背筋が凍るような感覚を覚えた。
「てかどうして死んでないんだ?さっさとくたばれよ。あれだけ言われたってのによく帰ってこられたな、ソラ」
不機嫌そうな声で、ニーナが言った。不機嫌を通り越して憎悪や殺意すら感じさせるその声は、その場の空気をいとも簡単に制圧した。
だから?
「待たされたからって怒るなって。ストレスで白髪増えるぞ?」
「随分と余裕そうじゃねえか。『殺してやるー』ってキャンキャン吠えてたのにさ。あたしに大嫌いって言われたこと、忘れたわけじゃないだろ?」
軽く冗談を言ってみたものの、ニーナの口調は変わらない。むしろ、表情が阿修羅みたいになってきている。怒りがに滲み出ている顔を例えるなら、それが一番適当だろう。
言ってることからは何も感じない。
「いや、別に。その程度のことで取り乱すと思うか?」
「その程度?」
言葉を発する度に、ニーナの怒りのボルテージは上昇していく。その様子はまるで高速増殖炉のようだ。このままいけばメルトダウンしてしまいそうだ。
「ああ、その程度。違うか?」
「………………ふざけるなよ」
ニーナがあの時言い放った「大嫌い」という言葉は、確かに俺を殺しうる威力はある。実際、その言葉が俺の全てを奪い去った。ヒースクリフが言ってた「ホロウに対しての脅威」という役割をしっかり果たしていた。
でも、それは条件つきでの話だ。
「あたしとお前の関係が、あの時誓った約束が、殺し殺されたあの瞬間が、その程度だって……?」
ニーナは震えていた。自分の中から怒りが溢れないように必死に堪えている。他の奴らはニーナを見て怯えたりしているが、本来恐怖の対象になるそれを、俺は笑顔で見ていた。
「え、だってそんなもんだろ俺とお前なんて。少なくとも、俺にとってはどうでもいいことだったな」
「…………はっ、お前も落ちぶれたな。自分が嫌いって言われたから、どうでもいいってことにして自分を納得させようとしてるのか?自己防衛のために都合のいい言葉並べてんじゃねーよ!!」
今度は嘲笑。哀れな、惨めなものを見る目で笑い、一人納得したように笑う。俺が自分を保つための狂言として、この言葉を捉えられたらしい。無理に笑った表情から、それでも笑ってない眼球から、彼女の考えてることはある程度理解した。
若干違和感はあったが、それでもぴったりと当てはまった。
「ニーナ」
穏やかに名前を呼んだつもりだったが、本人は気が穏やかじゃないようだ。ビクッと、反射的に反応する。いつの間にか笑顔が消えて、不安そうな表情でこちらを見つめてくる。先程の感情は何処へ行ってしまったのだろうか。
そんな彼女へと、こう言ってやる。
俺も、お前と同じ気持ちだ。
「……………………は?」
理解できない、と言わんばかりの顔でこちらを見てくるニーナ。言葉の意味が分からないと、表情で訴えかけてくる。そう見えるが。
違う。これは「理解できない」じゃなくて「信じられない」だ。言葉の真意をニーナは瞬時に理解していた。しかし、その意味を受け入れることができていないだけ。納得できていないけど、頭では理解している。そういう状況だ。
「お前、どうして」
「どうしてって?ニーナ、お前が言ったんだからな?それは俺の台詞だ」
そして、嫌でも彼女は俺の心を理解する。しかし、それは彼女にとっても、俺にとっても絶望だった。
だからこそ。
ニーナに向かって、ただ一言言い放った。
「お前のことが大嫌いだよ、ニーナ」
瞬間、彼女の眼が絶望に染まる。
「嘘」
「嘘じゃないさ。元カノとヤッてた所を彼女に知られた男じゃないんだから、そんな嘘を吐く理由なんてないだろ?」
自分でもこの言い方はないだろと思っていたが、それでも効果は抜群。ニーナの顔はみるみる内に青ざめるようだった。アバターにそう出力されているかは知らない。でも今のニーナはそんな顔をしていた。
「じょ、冗談だろ?だって、お前がこんな…………こんな………………!!」
困惑。混乱。悲壮。絶望。様々な感情が混ざり合ったそれを、ニーナは理解できていない。認めたくない。俯き、頭を押さえ、視線は地面へ。蹲りそうになるもなんとか堪えていろような、そんな弱弱しい格好になったニーナ。俺はそれを気にも留めず言葉を発する。
「お前とてそうなった。俺に嫌いって言ったろ?その点では同じだ。でも俺のはお前のそれとは根本的に違う。お前だって、理解してるだろ?」
「どうして、お前が……こんな………………!!」
動揺を隠しきれないニーナは、呼吸も乱れ、肩を上下させ呼吸の真似をする。酸素の存在しないこの世界で呼吸という行為に意味は存在しないが、今のニーナは400m走を全力で走り終えた時のように空気を求めている。どれだけ彼女が動揺しているのかが、見ただけで把握できてしまった。
そんな状況の中でも、必死に俺を睨んで、ニーナは叫んだ。
「どうして、お前にそんな選択ができるんだよっ!!」
やっぱり。
「やっぱり、分かってるじゃないか」
掠れるような呟きは、ニーナの叫びの残響にかき消された。だが、彼女に伝わらなくても、既に彼女は理解している。ならば、伝わらないことはさほど問題ではない。
「さっきは、随分と好き勝手言ってくれたなぁ、ニーナ?」
ふと、左手で顔に触れる。火傷と共に刻まれた地獄を、この顔に触れるたびに鮮明に思い出す。燃え上がる炎が、体に埋まった刃が、奪われたモノが鮮明に思い出される。でも、今はそれも愛しく思える。今の俺があるのは、それのおかげでもあるから。
そして、これからは俺が紡ぐ。ニーナに向けて、思いを伝える。俺が、次に繋ぐ番だ。
「なら、俺も言いたいこと言わせてもらおうか」
そこからは、壊れた蛇口のように言葉が溢れ出した。
とりあえず、お互いの認識を共有しておこうか。
お前がここにいる理由は、もちろん俺を殺すためだ。そのためにヒースクリフと取引をして、自らの死を回避、そしてモンスター……あるいはエネミーとしての立場を手に入れた。お前は俺を殺すため、ヒースクリフはゲーム内の不確定要素を排除するために互いに互いを利用したわけだ。まあ、利害関係の一致した者同士の協力関係としては完璧だ。
でも、そこが欠陥でもあった。互いに利用しあっているだけで、ヒースクリフはお前を信用してなかったし、お前もヒースクリフを信じてなかった。だから、無駄に話すことも、互いを理解しようとすることもなかった。だから、ニーナが抱えていた
お前が唯一持っていた弱点。冷静に考えれば簡単に見つかる欠陥。小さな、かつ致命的な綻び。お前のおかげで、ようやく気が付いたよ。
お前は、「自分が愛されていないと、殺してはいけない」んだよ。
確か、お前は俺を殺す理由を「大好きだから」と言っていたな。俺がお前を殺したのが……いや、殺せたのが「愛していた」からって理由だった。それを、お前は愛の形として受け入れてしまったんだ。好きだから、辛くても相手が求めてきたら殺す。好きだから、愛する人の殺意を受け入れる。お前の中にある愛は、文字通り殺し殺されの関係の中にしかないんだ。
本来交わる事のない殺人と愛情は、ニーナの中で繋がってしまった。その原因が、あの日の出来事。そう、致死毒に蝕まれたお前を殺したあの瞬間に、お前の中で「殺すこと」と「愛すること」が結び付けられてしまったんだ。それが死に瀕したことで正常な判断ができないためか、それとも恐怖から身を守ろうとした結果なのかは知らないけど、結果的に殺しと愛がお前の中で関連付けられたのは確かだ。
そして、その結びつき方も単純なものではない。お前の「殺人と愛の結びつき」には、「互いに愛し合っている」という条件があった。いくら自分が相手を愛していようが、相手が自分を愛していないのなら、殺人は愛故の行為ではなくなってしまう。逆も然りだ。愛されていても、自分がそいつを愛していないならば、これも愛の行為とは言えない。
例えば、「アイドルが好きすぎるから、ファンがそのアイドルを殺した」といった行為は、ファンからアイドルへの一方通行だからNG。こんな感じで、互いに愛を共有していない場合、お前の中では愛と殺人は結び付かない。俺とお前が愛し合っていなかったら、お前の理論は成立しないんだよ。
だから、俺はお前に「大嫌い」と言ったんだ。
こうすることで、お前の「愛故の行為である殺人」は、ただの虐殺に成り果てる。自分が柊空を殺す大義名分を失ってしまったわけだ。一見、何が問題なのか分からないと思うだろ?でも、これはニーナにとって大事なことなんだよな。
ニーナは生まれてからずっと被害者だった。父親の虐待を受け続けて、その父親が殺人を犯したせいで周囲の人間から虐げられてきた。この世界で俺と出会った時もラフコフに襲われていたし、何より最後は俺に殺された。そう、ニーナは一度も人を殺したことが、傷つけたことがなかった。そんなお前が人を殺すには、理由が必要だったんだよ。
経験者だから理解できるけど、殺人を犯す瞬間、精神には莫大な負荷がかかる。生理的早産が原因で、他者との関係に依存しながら生きてきた人間にとって、「同じ動物である人間を殺す」という行為は、本来遺伝子にはないタブーなんだ。協力するからこそ、依存するからこそ互いの命を奪い合わない。…………とは言ってみたけど、これは本当かどうかは分からない。言ってみただけ。諸説ありってことで。
つまりは、だ。人間は本来人間を殺せないんだよ。だから殺人を犯す際にはそのブレーキを超えるだけの「何か」が必要なんだ。その「何か」が、傷つけたことのないお前にはなかった。俺の場合は、6歳の時にお前の父親を殺した時にそれを獲得してしまった。現実世界の自分が、この世界に反映された結果だな。
お前は、その「何か」を「理由」でごまかした。正当防衛が罪に問われないように、自分に「理由」をつけることで殺人に踏み込めたんだ。
だから、俺がそれを奪った。「愛し合っている」という条件を潰して、お前が俺を殺すための免罪符を剥ぎ取ったんだ。だから、お前はこうして俺を殺せない。お前は俺を殺してはいけないんだよ。だから、今もそうしてそこに突っ立っているんだ。違うか?
「なんだよ、それ……。訳が分からねえよっ!!」
否定してくるニーナに嘘はない。実際彼女はそこまで考えたことがないから、俺の言葉を飲み込めずにいる。自分の内面を、心を見ることができていないだけで、彼女に知らないような振る舞いをしようという姑息な考えはない。それこそ、無意識の問題だ。
「そんなことより、お前……!これが何を意味しているのか分かってるのか!?」
それよりも彼女は、俺がどうしてニーナを拒絶できたのか、「大嫌い」と言えたのかが理解できないらしい。そりゃあそうだ。俺のしたこの行為は、自分の首を絞めているようなことだからだ。
「……………ああ、理解している」
そう理解しているさ。自分のことは、醜いホロウのことは、自分が一番よく知っている。
ニーナが先程言ったように、俺がニーナを愛していたのは、ただ「無償の愛」が欲しかったからだ。もちろんニーナを愛しているのは嘘ではないが、一番の動機は「自分を愛してほしい」からであった。だから俺は、自分を愛してくれているニーナを愛した。ニーナを殺せたのも、「自分はニーナを愛しているから殺せる」といった歪んだ感情によるものだし。ニーナに償おうと自分を咎めていたのも、「そうすることで自分はニーナの愛を獲得できる」だった。あくまで深層心理のようなものだが、俺にとってにニーナを愛する大きな動機になっていたのは、こんな歪んだものなんだ。
自分は愛されている、と思い込むため、俺はニーナを免罪符として利用した。思考の中でニーナの声が聞こえていたのもそれだ。ニーナを理由に決断をして、自分の責任から目を背け、理由と責任をニーナに押し付けた。まあ、都合よく利用したってことだ。自分のことながら、本当に醜い。
しかし、俺はニーナに「大嫌い」と言った。
そうすることで、俺はニーナを都合よく利用してきたことを認めたことになる。行動の理由を失い、言い訳もできなくなり、自分の醜さを嫌でも認めなくてはならなくなる。愛されたいだけの自分を、愛された自分を守ろうとするがために愛する人を盾にしてきた自分を直視しなければならなかった。
文字通り、それは地獄だ。必死に保ってきた自分が崩れ落ちる。歪んだ感情に吐き気を覚え、醜い自分に眩暈がして、汚れた自分に殺意を覚えた。自分を殺したい欲求と、自分を守りたい欲求、そして殺したい自分の醜悪さが自分の中で混ざり合って、それが自分を業火で焼いていく。その名前がなんという名前かは分からないけど、言葉にするにはあまりにも悲惨なものだった。
俺がニーナを拒絶しようと決心した時も、そんな絶望のような何かの中にいた。自分で選んだのに、こうも苦しいのかと思った。今だって苦しい。逃げ出したい。投げ出したい。死にたい。嫌だって思ってるよ。
だから、ニーナは信じられなかったんだ。俺が、「一番守ろうとしていた自分を殺した」という事実を。
「だったら、どうして!!」
未だに信じられないニーナが、その答えを俺に要求してきた。
「どうしてかっていうと、まあ、うん」
若干口ごもったが、今更だ。素直に告白しよう。
「お前のおかげだよ、ニーナ」
「……………………は?」
呆気にとられたニーナからは、そんなバカみたいな音が漏れ出した。
「お前の言葉が、踏み出す勇気になったんだ。ありがとな、ニーナ」
「待てよ、意味が分からないって!ちゃんと説明しろ!!」
ニーナは未だに理解していないのか、俺に説明を要求してきた。知らないといけないわけではないのに、知らないと気が済まないようで、殺すことよりそっちを要求してきた。
でも。
「教えるわけねーだろバーカ」
「はぁ!?」
教えない。
「ふざけるな!何を隠そうとしてるんだ!!」
「別に?というか、それをお前に教える理由も意味も必要もないからな。どうだっていいだろ」
「いい加減にしろ!!こっちにはその理由も意味も必要もあるんだよ!!」
「だからって、教えると思うか?わざわざ、大嫌いな女に、自分の心の内を曝け出さないといけないんだよ。お前に教えるくらいなら、その辺のドランクエイプにでも食わせてやるさ」
教えたくないわけではないけど、なんというか教えたくない。この答えは、この先の未来があるとしたら打ち明けるとしよう。
そんなことを考えている内に、状況は移り変わっていった。これ以上ない程盛大に煽る俺に苛立ちを見せるニーナ。どんどん上昇していくニーナの怒りのボルテージは、彼女の俺に対する憎しみと結びつき、一度は弱まった彼女の殺意に火を灯した。
「…………もういい、やっぱ殺す」
「なんだ、俺を殺す大義名分はもう無いはずだけど?」
「あたしはお前が憎い!自分の利益のためにあたしを利用したお前が、あたしを自分の汚点を隠すための盾にしたお前が、お前が………………殺したい程に憎いんだよっ!!!」
怒り狂ったニーナは、再び戦闘態勢に。巨剣を薙ぎ払い、怒りと憎しみで満ちた瞳で睨み付ける。その場の空気を、彼女の中の迷いを、俺の培ってきた全てを破壊する意思表明なのだろうか。
「まあ、そうだよな」
そう、結局俺たちは、殺し殺される中でしかその絆を確かめられなかった。だから今こうなるのは必然で、俺とニーナが出会った瞬間からこの未来は決定していたんだ。だから、きっと彼女も。
「仮面の行商人も、最期のご出勤ってか」
最初からこの運命が決定していたのなら、最初から後戻りなんてできないようだった。戻る道が存在していないのなら、愚直に前に進むしかない。少なくとも俺にはそれしかできなかったが、それで後悔はない。これは、自分で決めた未来なんだから。
「さようなら、みんな」
キリト、後は頼んだ。ヒースクリフをぶっ殺してこのゲームを終わらせろ。押し付けるようで悪いけど、よろしくな。
アスナ、キリトをよろしく。俺たちみたいにならないように愛してやってくれ。どうか、お幸せに。
クライン、短い間だったけど世話になった。暑苦しいとこ直せば多分モテる。だから元気だせって。
エギル、頼りになるやつだよお前は。できれば酒を酌み交わしたかったよ。ついでに奥さんも見たかったなぁ。
シリカ、ピナと仲良くな。あの時から君は成長したよ。大切なもの、もう手放すんじゃないぞ。
アルゴ、サンキュな。お前の協力があったから、俺も頑張れた。でも、あの時の金的とちょくちょくいじってきたは恨んでるからな。
サーシャさん、あなたは大丈夫。今まで頑張ってきたことも、これから報われる。子供たちも、きっとそう思ってるよ。
ナタリアさん、行ってきます。いつしか、本当の母親のように思ってたよ。あなたの優しさが、俺をここまで導いてくれた。
リズ、ごめん。お前には散々心配と迷惑をかけた。それでも俺を支えてくれてありがとう。だから、俺のことなんか忘れてほしい。君の未来に、俺は必要ない。
シーナ、お疲れさま。今日をもってお前の仕事は終わりだ。あとは、この世界の行く末を見守ってくれ。
さあ、別れは終わった。後悔もある。未練もある。それでも多くのものを手に入れたこの
掌の中にある、一輪の花。俺に力を与え、俺を蝕んできたその花は、手の中で真っ赤に輝いている。俺の想いに呼応して、脈を打つ。そこには、確かに「命の温もり」があった。
さあ、始めよう。泣いても笑ってもこれが最後だ。俺の全てで、目の前にいる想い人を殺す。ニーナの想いを受け止め、俺の想いをぶつける。最初で最後の大喧嘩。交わることのなかった二重螺旋の果てへ、俺とお前の歪んだ恋の終着点へ、ホロウの先にある、本物へと。そのための戦いが、今始まる。
きっと、この物語を、俺はいつまでも忘れない。
「
最期のMyosotisが、真っ赤な花弁が舞い上がった。
次回、決着。