ソードアートオンライン《仮面の行商人》   作:Gissele

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40 pillow talk

 視界に飛び込んできたのは、優しい赤だった。

 

 

 気がつくと、俺は世界の外側にいた。水晶の板のような足場の上に俺は立っていて、そこからは夕焼け空が見える。オレンジ色の空が境界なく続く、空の上の島にいるという表現が正しいだろう。理想郷とはこういう場所を指すんじゃないかとさえ考えた。そんな場所に、俺は突っ立っていた。

 

 しかし、ここはどこなのだろうか。俺はニーナを殺し、そして自身も死んだはず。そう仮定するとしたらここは死後の世界になる。地獄と呼ぶには美しすぎるし、天国と呼ぶにも閑散とした印象を受ける。なにより、自分の罪を閻魔とやらに裁かれてない。死後の世界なんて、まだ早いんじゃないか?なんて考えてみる。

 

 まあ、その答えはもう出ちゃってるんだけどさ。だって、目の前に崩壊中のアインクラッドがあるんだから。

 

 いくつもの円盤のような階層が積み重なったような構造で、層と層の間には山や森、湖や街など、見知った風景が見える。ミルフィーユみたいに幾重にも折り重なったそこに、自分は生きていたんだと実感させられる。

 

 そのアインクラッドが、崩れている。下のフロアから順番に、破片を撒き散らしながら剥がれ落ちていく。遠くで轟音が響き、それが風に乗って吹き抜ける。残骸は下へと落ちていき、底のないどこかに雪を降らしているようにも思えた。

 

 幻想的で、圧倒的なスケールで、哀愁すら漂わせるアインクラッドが、自分が望み、生きた世界が終わりを迎えようとしている。少し悲しく思うが、今はそんなこと考える時間すら惜しい。

 

 一体ここはどこなのだろうか。目の前の光景は本物なのだろうか。俺の命はどうなるのだろうか。ちゃんとニーナは殺せただろうか。キリトや皆は無事なのだろうか。考えるべきことが多すぎて、処理が追いつかない。思いのほか思考はクリアなんだけど、あまりにも情報が少なすぎる。とにかく、情報を集めなくては――――――

 

 

「その必要はないよ」

 

 不意に聞こえてきた声。その方向を向くと、一人の男が立っていた。姿は全くの別人だが、声と表情で誰だか理解した。

 

「茅場……晶彦」

 

「久しぶりだね、ホロウ君」

 

 神聖剣ことヒースクリフこと茅場晶彦は、崩れかけの浮遊城を見ながらそう言った。ヒースクリフとしてのイメージが定着しているから、聡明な青年の顔をした彼を最悪なラスボスだとすぐには認められなかった。

 

「……お前、本当に茅場か?」

 

「他に誰かいるのなら、是非とも教えてもらいたいね」

 

 夕日の赤に照らされた彼の表情は、何か憑き物が落ちたような清々しさを漂わせている。いや、これは清々しさではなく、魂が抜けているような感じだ。希薄になっていくような、そんな印象。実際、彼の体も透けている…………透けている?

 

「……お前透けてね?」

 

「……君もだよホロウ君」

 

 そう言われて自分の体を見てみると、半透明のガラスのように透き通っている。…………透き通っている?透き通っている!?

 

「おい茅場!!これどうなってるの!?なんか半透明でキモイんだけど!?」

 

「……………………」

 

「いやなんか答えろよ!?」

 

 先程まで自分は死んだと思っていたにも関わらず、リアクション芸人レベルの反応を見せる俺。それを憐れむ表情で見つめる茅場。何とも言い表せない状況は、カップラーメンが出来上がる程度の時間続いた。

 

 

*

 

 

 茅場からされた話を簡潔にまとめる。

 

 今目の前にある光景は、アインクラッドそのものらしい。現実世界ではSAOメインフレームの全記憶装置でデータの全消去作業が行われているらしく、文字通りこの世界は崩壊している。アインクラッドが崩れているのは、その比喩的表現らしい。

 

 そしてそこにいた人たち――――――生き残ったプレイヤーは全員ログアウトされ、デスゲームから解放された。その人数は6147人。二年間を生き延びた人間たちは、無事に現実世界へと戻れたようだ。リズや皆が解放されたことに、とりあえずホッとした。

 

 だが、それは残りの約4000人の命は帰ってこないことを意味していた。あの世界で絶望しながら死んでいった奴らは現実世界で死んでいる。ゲームの中と現実の死が本物だと知り、ふと「俺はどれだけの人を殺してきたんだろう」と考えてみる。殺した人数が50を超えたあたりから数えるのはやめたけど、ざっと数百人といったところか。まあ、自分と関係のない人間が生きようが死のうが、どうでもいいんだけど。それでも、死ぬ必要のない人が死ぬのは望ましくないけどね。

 

 

 そうしてゲームはクリアされたのだが、これはラスボスであるヒースクリフがプレイヤーによって殺されたことを意味する。どのように殺され、どのように死んでいったのか。これも、茅場の口から語られた。

 

 魔王(ヒースクリフ)英雄(キリト)によって殺され、また英雄(キリト)魔王(ヒースクリフ)によって殺された。

 

 キリトがやられそうになった時、アスナが命と引き換えに守ったこと。絶望の中でヒースクリフの剣がキリトを貫いたこと。それでも、アスナが残した想いを繋ごうと、彼女の細剣を手に抗ったこと。そして、英雄と魔王は死を迎えたこと。断片的な説明ではあったが、あの場所で何があったのかは容易に想像できた。

 

 アスナは愛するキリトを守り、キリトは愛するアスナの想いを手に責務を果たした。バッドエンドのような結末だが、それでも俺は二人が羨ましかった。

 

 互いの命を奪い合うことでしか愛せなかった俺たちには、互いの命を守ることで愛していた二人が眩しくてしょうがなかった。

 

 

「……リア充爆発しろ」

 

 「ありがとう」と伝えたいが、「どうして死んだんだよ」って不満もある。「ごめん」とも言いそびれたし。俺が言える立場にいないことは理解しているけど、この結末を受け入れることはできなかった。だから、ふざけているようでも色々堪えているんだよ。だから、こういう言葉しか選べなかった。

 

「……君は、責めないのか」

 

 ふと、茅場が声を漏らす。

 

「彼らを手にかけたのは私だ。キリト君もアスナ君も、君にとっては大事な仲間のはずだ。その二人を殺した私を責めないのか?私が……憎くないのか?」

 

 表情を全く変えず、茅場は崩壊していくアインクラッドを見つめていた。夕日が顔を照らし、物憂げな雰囲気を纏わせる。罪悪感はないはず。そんなものがあったらこんなデスゲームなんて考えはしない。なら、どうして、そんなことを聞くのか。今の俺なら、容易に想像できた。

 

 きっと命を奪うことに後悔はしていないのだろう。彼はただ、プレイヤーとして、同じ世界に生きた存在として、俺に答えを求めているんだろう。「君にとってこの世界はどう見えたか」「この世界を憎んでいるのか」って。自分の思い描いた世界は、プレイヤーにどう見えたのか。それが知りたいんだと思う。

 

「まあ、そうだな」

 

 輪郭のはっきりしない景色を眺めながら、茅場に答える。

 

「別にいいや。ムカつくけど、お前のやったことは否定しないよ」

 

 返答に、茅場は呆気にとられた顔をしてこっちを見た。

 

「……詳しく聞かせてくれないか」

 

 頷き、彼の求める答えを返した。

 

「確かに、お前のしてきたことは裁かれるべきことだと思う。望んでもいないのにデスゲームに巻き込まれたんだからな。それに、キリト達を殺したなんて、許せないさ」

 

「なら、どうして」

 

「だとしても、キリトはお前を殺そうとしたんだ。自分が殺される覚悟くらいするべきだ。それができないなら、人を殺すべきじゃない。自分の都合がいいように持っていこうとする奴に、命は扱えない」

 

 せき止められていた水流が勢いよく流れるように、言葉が止まらない。

 

「小さい頃学校で『自分がされて嫌なことは人にやるな』って言われたろ?逆に言えば『自分が傷つく覚悟がないなら、他人を傷つけるな』って言ってるようなもんだ。相手に何かしらの行動をするなら、自分に降りかかるリスクを受け入れなければならないって、俺たちは子供の時から教えられていたんだ。

 

 言い換えれば、これは契約なんだ。互いにリスクを容認し、合意の上で殺しあう。それこそが本来あるべき人の道なんだよ。まあ、人殺しなんて人道から逸れまくってるっけどさ。

 

 そして、お前はキリトに契約として決闘を提案した。『お前が勝ったらゲームクリア。負けたら死ね』ってな。お前自身も死のリスクを容認していたし、キリトだってその条件を受け入れた。なら、第三者が介入する余地なんて残されていないだろ?」

 

 まじまじと俺を見つめながら、茅場は聞き入っていた。そして、不意に口を開く。

 

「なら、ニーナ君のことは」

 

「あいつとだって利害関係の一致した協力関係なんだろ?なら問題はないさ。あいつが望んでそうしたのなら、俺は受け入れる」

 

「この世界で、多くの命が奪われたことは」

 

「ぶっちゃけどうでもいい。確かに問題だし、お前は裁かれるべきだ。でも、少なくとも俺には関係ない。どうせ、俺は『自分にとって大事な人』のことしか興味がない。その人たちが生きているなら問題ないさ。聖職者じゃあるまいし、全ての人間を助けたいだなんて思わないよ。まあ、そうできるのが理想だけど」

 

「君こそ多くの人を殺してきたのだから、裁かれるべきではないか?」

 

「そこは『おまいう』って言っとけばいいんだよ」

 

 言葉を交わしていくうちに、茅場の口からも想いが漏れ出す。

 

「私はね、遥か昔からあの城を、現実世界のあらゆる枠や法則を超えた世界を創り出したかったんだ」

 

 思い出を詰め込んだ宝箱のようなものなのだろうか、大事そうに、噛みしめながら言葉が発せられる。

 

「私があの空に浮かぶ鉄の城に取り憑かれたのが何歳の頃なのかは覚えていない。しかし、時間が経つ程にそれは鮮明になり、より大きくなった。あの城に行きたいと、どれだけ長い間願ったかな……。ずっと、それだけを願っていたんだ」

 

「なるほど、そういうことか」

 

 茅場はデスゲームの開始直前、「この状況こそが、私にとっての最終目的だ」と言っていたことを思い出した。今になって、その意味がようやく分かった。

 

「ああ。このゲームを、この世界を創り出し、鑑賞する。長い間夢見ていた光景は、私の願いはあの瞬間には叶えられていたんだ」

 

 自分の夢見た世界に恋い焦がれ、その夢はこうして叶えられた。彼にとって、それはこの上ない幸福だろう。

 

「けどさ、それなら殺さなくてもよかったんじゃないか?」

 

 しかし、それが免罪符にはならない。

 

「お前が描いた世界は、確かに現実世界の法則やらを超えたものだ。でも、だからってお前に人の生死を決定する権利なんてない。……どうして、あれだけの人が死ななきゃいけなかったんだよ」

 

 この世界を創造したかったというのは、まあ理解できる。そこに生きるプレイヤーが必要だとしたら、まあ分かる。でも、そこに死を組み込む必要があるのかは理解できなかった。死ぬ理由も意味もない人たちは、どうして死ななければいけなかったのか。

 

「ホロウ君」

 

 冷たい視線を俺に投げかける。

 

「命は、そんなに軽々しく扱うべきものではないよ」

 

 きっと、彼の信念がそう言わせたのだろう。それは理解できる。だけど、その言葉は、俺への糾弾なのではないかと思わざるをえなかった。

 

「死者が消え去るのは、どの世界でも一緒さ。君とは、少し話をしたくて、この時間を作らせてもらった」

 

 そう言う茅場は、笑ってない。無表情で、無反応で、どこまでも無機質。だが、今の俺には閻魔か阿修羅か、それほどに恐ろしく思えた。

 

「……そうか。そうだな、そうだったな」

 

 茅場の言葉が、全てだった。命を軽々しく扱うべきではない。だからこそ、あいつはデスゲームにしたんだ。この世界でも、現実世界と命の重さを同じにしたんだ。その思惑には、もっと明確な理由があるのだろうが、今はどうでもいい。もうどうでもよくなった。

 

 今の言葉は、俺へ向けられた答えだ。質問に対してではなく、俺自身に対して。きっと、茅場はこう言いたかったのだろう。

 

 

「自分の罪から、逃げるな」と。

 

 殺してきた命を無かったことにするな。自分が犯してきた罪から逃げるな。この世界は、確かに俺たちにとっての現実だ。だからこそ、したことは消えてなくならない。なかったことにしてはいけない。命を、そんなに都合よく、軽々しく扱ってはいけない。これからも、死んだ後も、裁かれ続ける。そう、彼は言ったんだ。

 

「私も、この罪は受け入れよう。命を奪ったことには変わりないからね。だから」

 

「俺こそ、逃げないさ。してきたことは無くさない。何からも逃げやしない。それは生きてようが死んでようが変わらない。だから」

 

 

――――共に、地獄へ落ちよう。

 

 咎人の辿る道は、結局は一つだけなんだ。

 

 

「さて、私はそろそろ行こう。だが、その前に」

 

 茅場は、俺の方を振り向く。そして、最後にこう問いかけた。

 

 

 

 この世界は、私の理想郷(アインクラッド)はどうだった?

 

 

 

 そんなの、決まっている。

 

「間違いなく神ゲーだったよ。2周目は絶対にやりたくないけどな」

 

 笑いながらそう返すと、茅場は満足そうな笑みを見せる。

 

 すると、俺に背を向け、彼はこう言った。

 

「キリト君がラスボスを倒したとしたら、君は裏ボスを倒したということになる。なら、何も報酬がないのも味気ないだろう?」

 

 風が吹く。茅場の体はそれにかき消されていく。

 

「最後くらい、ほんのわずかな時間でも、愛する人といたいだろう?」

 

 その言葉に、鼓動が跳ね上がる。

 

「受け取るといい。ささやかだが、裏ボスを倒した報酬だ」

 

 瞬間、何か温かい物体が背中に触れる。ずっと望んでいた温もりは、絞め殺す程の強さで抱きしめてくる。待ち望んでいたものが、すぐそこにある。

 

「さようなら、ホロウ君。君たちに出会えて、よかったと思う」

 

 その言葉が耳に届く瞬間には、既に茅場の姿はなかった。きっと、この世界と共に崩壊していったのだろう。しかし、彼の表情からは悲壮感を感じなかった。自分の描いた世界と共に逝けるのなら、まあ幸せだろうしな。

 

「……邪魔者もいなくなったし」

 

 胴に巻き付いている腕を剥がし、後ろを振り向く。大好きな人が、涙を浮かべて笑っていた。それだけの光景で、胸が満たされていった。

 

「おいで、ニーナ」

 

 そう言い終わる前に、ニーナは正面からタックルをかましてきた。実際はただ抱きついてきただけなんだけど。予想以上に強かったから、思わず相撲の稽古をしていたのかと思ってしまった。

 そんなタックルをしっかりと受け止め、ニーナを強く抱きしめる。優しく、それでいてきつく抱きしめる。二度と手放さない。そう思っていたためか、思った以上に力が出てしまっていたようだ。それでも、胸の中にいる彼女は一切嫌がらない。それどころか、頭を胸板に押し付けてくる。その頭に触れると、ビクンと体が跳ね上がった。

 

「ソラァ………………」

 

 言葉なんていらない。この温もりさえあれば、それでいい。それさえあれば、他には何もいらない。そう思えてくるくらいに満たされていた。実際、この世界には俺たち以外に誰もいない。誰もいない、滅びゆく世界で、たった二人。互いの感触を確かめあいながら、ゆっくりと時が過ぎていった。

 

 

 

「ねえ、ソラ」

 

 抱擁が終わると、不意にニーナが口を開く。

 

「あたしは、あんたを殺そうとした。ソラが頼んだわけでもなく、ただ自分のために殺そうとした。ソラがずっと苦しんで、あたしのことを想ってしてきた償いを、あんなひどい言い方で否定した。そして、ソラを殺した」

 

 後悔か、それとも罪悪感か、ニーナの声は震えていた。感じる必要のない感情で、正論を言っていた彼女が泣いている。おかしな話だと思うと同時に、罪悪感がこみ上げてくる。

 

「なのに、ソラはあたしを殺してくれた」

 

 ただの狂人の戯言と、きっと思われるだろう。それでも、俺たちには大事な、大切なことだ。

 

「あたしは、ソラに『大嫌い』って言った。それは、愛されるために愛してきたソラの今までしてきたことを全て否定することと同じで、ソラにとっては地獄だったはずだよ。そして、ソラの中にあったあたしへの贖罪の理由も、固執する理由も、愛する理由も、あたしに関わる理由だってなくなったのに」

 

 一つ一つ、壊れないように言葉を紡いでいく。

 

「なのに、ソラはあたしを殺してくれた。一度は逃れて、そこからあたしを捨てることだってできた。自分を守るために、あたしを忘れて生きていくことだってできたはずだよ。そうやって守ってきた、一番大事な自分の尊厳を投げ捨てて……自分の命すら簡単に捨ててまであたしを殺した。その理由はソラに殺されてから理解したけど、それだと矛盾するんだ」

 

 必死に、懸命に声を絞り出す。

 

「ソラは、別に善人なんかじゃない。自分の関心のあるもの、興味のあるもの、大事なもの以外はどうだっていい。じゃなきゃ誰かを愛しながら、誰かを殺すだなんてできやしないよ。それにただの人殺しでもない。自分が嫌悪する相手や、自分が愛する人のような、自分に意味のある人間しか殺さない。ある意味理性的でもあるね。

 

 だから、矛盾してるんだ。ソラはあたしを『大嫌い』だと言った。だけど、ソラはあたしを殺してくれた。あたしはソラを拒絶したのに、あたしを殺す理由も無くしてしまったのに、自分の全てを捨ててまで殺してくれた。それは、裏返せば『ニーナを愛していなければできないこと』なんだよ」

 

 その言葉は、限りなく正しい。何一つ間違いなどなかった。

 

「ねえ、ソラ」

 

 不安を滲ませながら、ニーナが言う。

 

「あたしのことが大嫌いなのに、どうしてあたしを殺してくれたの?」

 

 その言葉に、胸が熱くなる。自分の中にあるものを、あんな状況でも彼女は理解してくれていた。その事実が、どれだけ嬉しいかは俺にしか分からないだろう。

 

「……ニーナ、俺はさ」

 

 だから、俺も自分の口から言おうと思った。そして、言った。

 

「お前のことが大嫌いだよ」

 

 ニーナの反応を待たず、続けざまに言葉を並べる。

 

「それで、お前が大好きだ」

 

 大嫌いと言われ、一瞬表情が曇ったが、続けられた言葉がその憂いを忘れさせる。「大嫌い」と「大好き」。二つの相反する言葉を並べられて、ニーナはよく分からない顔をしていた。

 

「ソラ、それってどういう……」

 

「そのままの意味だよ。お前が大嫌いで大好きってな。何かおかしなこと言ったか?」

 

 ニーナの表情は、更に困惑へと。

 

「大嫌いで、大好き……。どういうこと?だって、こんなの矛盾して――――」

 

 何が何だか分からないニーナに、動揺する以外の選択肢はなかった。まあ、それは仕方がないことなのかもしれない。

 

 何しろ、彼女と俺は、互いに愛することに条件を設けていた。「愛してるから殺す」っていう理由があるから、俺たちは互いを殺せた。そうでもなければ、自分のしている行為に押しつぶされてしまうから。

 

 だからニーナはあの時「大嫌い」と言われ、あれだけ戸惑った。それほどに、俺たちにとって「好き」か「嫌い」かは重大な問題だった。だからこそ分からなくなってしまうのだろう。本当は、些細な問題なのに。

 

「別に、矛盾なんかしていないんだよ」

 

 ニーナのおかげで、俺は知ることができた。

 

「感情は常に一つじゃない。様々な想いが内包された存在こそ、人間と呼べるからな」

 

 その意味を、ニーナが理解するのは難しいようだ。半分ぽかんと、半分「何言ってるんだこいつ」と言わんばかりの表情をしている。

 

「少し難しかったか。じゃあ、一から説明するか」

 

 この世界が崩壊する前に、さくっと説明しようか。

 

 

 好きの反対は無関心、という言葉を聞いたことがあるだろうか。今から話すことは、大体そんな感じだ。

 

 お前は、「人が一度に抱ける感情は一つだけ」と思っている。「嬉しい」「悲しい」「憎い」という感情が心に一つあると、その間は他の感情を持ち合わせることができない。一つの感情に縛られた存在が人間だと、お前は思っているはずだ。だから、「好き」と「嫌い」という感情が同時に存在するのはおかしいと思うんだ。

 

 この傾向は、お前の「条件付け」によるものだ。好きだから殺すといった、自分の心を守るために行った処理による弊害が、複数の感情を抱けない原因だ。自分が壊れないようにと自分を守った結果、限定した感情しか受け付けなくなっていた。仕方がないことで、感情の限定化自体は害のないものだからな。今の今まで問題にならなかったんだろうな。

 

 けど、感情っていうのはそんな簡単なものじゃないんだよ。

 

 最初に言った「好きの反対は無関心」こそ、それだ。この言葉は、「好き」の反対は「嫌い」という一般的な考えを否定した。好きという言葉の反対が、何も感情を抱いていない「無関心」という言葉であることが、感情の限定化を否定している。

 

 つまり、感情は対になっているものではなく、「ある」か「ない」かに区別されるものなんだ。だから、複数の感情を抱くのは何もおかしくない。「好き」でいながら「嫌い」でいられる。一つの心に、いくつもの感情を内包できる。それこそ、人間が進化の過程で獲得してきたものだろう。

 

 

 まあ、俺自身知らなかったんだけどさ。

 

 初めは、俺だって同じだった。「人殺しを殺す」「愛してるから、愛する人だって殺せる」って括りつけて、拒絶反応を起こす心を無理やり封じ込めて、そしてようやくお前を殺せたんだ。それこそ、そこまで考えられなかったけどさ。要は、お前と対して変わらなかったってこと。

 

 そんな俺が、感情の併存を理解できたのは、お前のおかげだよ二―ナ。あの一言が、俺を変えたんだ。

 

 

 その一言は、あの時の「大嫌い」って言葉だ。

 

 言われた瞬間は、本当に絶望的だったよ。今まで自分が守ってきたもの、失くしたくなかったものをこうも簡単に壊されるだなんて思ってもいなかったし、自分の全てを否定、拒絶されたことが、俺から全てを奪った。だから、小さな違和感にも気がつけたんだ。

 

 大嫌いって言われたのに、こうもニーナを殺したくて仕方がないって。

 

 俺がお前を殺せたのは「俺がお前を愛していて」「お前が俺を愛している」からで、それが無ければ俺はお前を殺せないはずなんだ。なのに、お前に拒絶された後も、お前への殺意は溢れ出して止まらない。どうしてかって、あの場を離れて思ったよ。

 

 でも、考えてみれば簡単だった。人間って、そんなに単純なものじゃないんだよ。一つの感情に囚われた単調なものじゃない、もっと複雑なもの。いくつもの感情が交わり、ぶつかり、時に矛盾し、それでも自分がある。それが人間なんだよ。全てを好きになれるわけでもなく、全てを嫌いになれるわけでもない。きっと、そうなんだろう。

 

 そのことに、お前がくれた言葉と、そこから生まれた矛盾のおかげで気が付けた。「大嫌い」と言われたから、それでも愛することを止められなかった自分に気が付けた。自分の中にこれだけの感情が渦巻いていることを知ることができた。だから、お前のおかげなんだよ。

 

 

「ということだ。理解できたか?」

 

 長ったらしい説明が終わると、ニーナは憑き物が落ちたような顔をしていた。ぽかんとしているけど、迷いとか、そういう感情は彼女の中から消えているようにも思える。

 

「…………そっか。あの時のは、そういう意味だったんだ」

 

 一人納得したように頷くニーナ。きっと、「一番守ろうとしていた自分を殺せた」理由に対する回答のことだろう。ニーナのおかげって返事に戸惑っていたニーナだが、今になってその答えを知り、ジグソーパズルの最後のピースがはまったように理解できただろう。

 

「ん、そっか。そういうことだったんだね」

 

 何度も、ゆっくりと確かめるようにそう繰り返す。

 

「そんな、簡単なことだったんだね」

 

 ニーナの瞳に涙が滲む。溢れこそしないものの、眼球を照らすほどに涙で濡れている。激しいものではなく、優しくて、温かいもの。

 

「本当に、こんなに簡単なことだったんだね」

 

「そうだな。こんなに簡単なことなんだよ」

 

 こんな簡単なことなのに、そこに辿り着くまで遠回りをしすぎてしまった。おかげでこんな死の間際になって気が付いて、どうして気が付かなかったのだろうって後悔して。もっと早く気が付いていたら、違う未来もあったんじゃないかって考えて。でも、もう遅すぎて。どこにこの気持ちを吐き出せばいいのか、二人とも分からなくなってしまっていた。

 

「俺らってバカだよな。いつだって機会はあったのに、自分からその可能性を手放してたんだからな」

 

 すると、ニーナは笑う。

 

「お前はもっとバカだよ。だって、あたしのためにわざわざ修羅の道を選んだんだからさ」

 

 その言葉に、俺は首を傾げる。

 

「だってさ、あの時あたしを捨ててればさ、こんなことにならなくて済んだのに」

 

 努めて明るく、でも涙は止まらず。

 

「わざわざ自分を否定してまで、あたしを殺すなんてさ」

 

 そんな表情を見ると、やっぱり変わったんだと実感する。一つの感情に囚われていたあの頃のニーナは、もういない。

 

「ほんっとうに、ソラってバカだよな」

 

「お前が言えたことじゃないだろうが」

 

 こんな風に話ができるのも、互いに変われたからだと思う。それが、なんだか嬉しかった。

 

 

「……そろそろだね」

 

 ニーナの視線を追うと、そこには崩壊寸前のアインクラッドがあった。最上層にある宮殿が崩れ、その残骸がこぼれ落ちる。そうして、俺たちの生きた世界は消えてなくなった。鋼鉄の浮遊城は、こうして終わりを迎えた。きっと、「この時間はもうすぐ終わる」と、ニーナは言いたかったのだろう。

 

 でも、あの世界がなくなるのなら、おそらくシーナは。

 

「さよなら、シーナ」

 

 ずっと俺を支えてくれた相棒。助けてくれた仲間。笑い合った家族。完全な離別になることは理解できてるけど、不思議と悲しくはなかった。きっと、いつかまた会える。根拠なんて全くないけど、なぜかそう思えた。それに別れはもう済ませてある。振り向いたら、それこそあいつに怒られる。

 

 だから俺は、今すべきことを。

 

「ねえ、ソラ」

 

 ニーナの手が俺の頬に触れる。優しく包み込むように添えられた右手の温もりが心地よい。

 

「キス、しよ」

 

 その単語を、ニーナから聞くのは初めてだった。

 

「……そういや、したことなかったな」

 

「うん。憧れてたんだ、こういうの」

 

 キス。口づけ。接吻。互いの唇を重ね合う、愛の象徴とも言える儀式。ニーナだって女子だ。こういうものに憧れるのも自然なことか。

 

「あたし、したことないからリードしてよ」

 

「いや、俺も経験ないから」

 

 分かってるくせに、いつ世界が消えてもおかしくないのに、最後までニーナはニーナだった。

 

「……時間もないし、早速」

 

 ニーナの頬に右手を添えて、顔を近づける。最初はビクッと驚いていたものの、準備はできたと言うように笑って見せるニーナ。その笑顔が、輝いて見えた。

 

 と思っていたが、実際に光が視界を奪い始めていた。それも真っ白な。その光の発生源が何なのかは分からないけど、時間がないことだけは分かった。きっと、次に瞬きする瞬間にはこの世界は消えてなくなる。

 

「お願い」

 

 それをニーナも悟ったのか、瞳を閉じて顔を前に差し出した。何かを覚悟したような声音が、想いの強さを滲ませている。「一度だけでも、ちゃんと愛し、愛されよう」という覚悟が、見て取れた。

 

 俺も、覚悟を決めた。

 

 顔を近づけると、今にも唇が触れそうになる。胸が締め付けられる感覚とニーナの吐息が頭を支配する。紙一重で重ならない距離まで、近づいた。

 

 なかなか来ないことに痺れを切らしたのか、ニーナは瞼を開く。少し不安になったのかな。でも、互いに見つめ合えているのは好都合だ。

 

 

 

「忘れないよ、絶対に」

 

 大事なことを、誓うには。

 

「どうなろうとも、お前がどう思っても、俺はお前のことを忘れない」

 

 その一言に、笑顔を零すニーナ。

 

「あたしだって、忘れないよ。先なんてあるのか分からないけど、きっとね」

 

 互いの笑顔を光が飲み込み始めた。終わりが、近づいている。もう時間は残されていない。

 

 

 

 互いの唇が重なる――――――寸前。

 

「そうだ、最後に一つだけ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「必ず、迎えに行く」

 

「うん、待ってる」

 

 (おもい)が重なって、繋がった。そして真っ白な光の中に溶け合って、消えた。




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