ソードアートオンライン《仮面の行商人》   作:Gissele

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 最初に感じたのは、瞼越しの光だった。

 

 光を受け、目を開けようとするが、上手くいかない。今まで感じたことのないこの感覚は、眠りから醒める時特有の気だるさからくるものなのか、それとも別の要因があるのか。どちらにしても、体が脳の指令を実行できていないことだけは確かだ。

 

 やっとの思いで目を開くと、光が眼球に飛び込んでくる。と言っても比較的穏やかな光で、不快な感覚は一切ない。そしてその光は映像となり、目の前の光景を映し出す。目の前にある白い壁を認識することに多くの時間を要しながら、意識は覚醒していく。はっきりと意識が覚醒した途端、脳が刺激を知覚していく。

 

 体が感じているのは、冷たさと湿り気だった。体温より少し低めの、不快に感じない程度の温度は、むしろ心地よさすら感じる。ただ、それと同時に濡れた感触が伝わってきたのには驚いた。一瞬、第22層にある湖に浮かんでいるのかと思ったが、その可能性はすぐに消えた。そうならとっくに溺死してるし。しっとりとしたこの感触は、ジェルのような何かだと思う。

 

 そういえば、こんな話を聞いたことがある。要介護者のために、皮膚の炎症を防いだり、老廃物を分解したりできるジェル素材のベッドが開発されたって、確かどこかのニュース番組でやってた。当時は「そのままスライムとのプレイをする薄い本が」などと変な想像をしていたものだが、この様子から自分の考えがいかに愚かだったかを――――――

 

 

 いや、待て。それってつまり。

 

 反射的に体を起こせなかった。体に力が入らない。拘束されたような不自由さではなく、フルマラソン走った後の無気力感というか脱力感のようなもので、体中の力が抜けている感じだ。脚ないから走れないけど。よく見ると腕もほっそりしていて、3歳の時に病気になった祖母を思い出した。つまりは骨と皮。筋肉ナッシング。なるほど、道理で力が出ないわけだ。

 

 肉が落ちた腕には、管のようなものが繋がっていた。その管を辿っていくと、透明なパックが銀色の支柱に吊るされていた。中にはオレンジの液体が入っていて、ぽたぽたと滴が落下している。点滴。これで間違いないだろう。

 

 そして、最初に壁だと思っていたものは天井だった。自分が横たわっているのを知っていたから天井だと認識できたが、そうでなければ分からなかったと思う。微睡みの中にいるような浮遊間がそうさせているのか。

 

 予測したところ、ここは病院。空間の色合い、設備共に条件を満たしている。いや、それ以外の用途で使われていると考えたくもない。人体実験くらいしか、他に候補はないだろうし。そしてその事実が、今自分が置かれている状況を導き出した。

 

 なけなしの力を振り絞り、上半身を起こす。すると世界は90度回転し、それに伴い重力が重くのし掛かる。力なき体に纏わりつくそれは、意外にも頭部から感じられた。触れてみると、ヘルメットのような形状をしたものを被っていることが分かる。

 

 ナーヴギア。プレイヤーをSAOに閉じ込めた檻を、一番に想像した。

 

 外したものの、重さに耐えきれず落とした。ガシャ、と音を立てて床を転がるそれは間違いなくナーヴギア。買った当時は家宝のように扱っていたが、すでにそれはガラクタと同じくらいの認識だった。

 

 そして、理解した。全て、理解してしまった。

 

 右手の人差し指と中指を揃えて縦に振る。アイテムウィンドウを開く動作であるそれは、何も反映しない。ただ、指が空を切っただけ。それだけで確信してしまう。

 

 

「なんで、いきてるんだよ」

 

 ナーヴギアに手を伸ばそうとすると、そのままベッドから落ちてしまう。衝撃は軽かった。足が無いことをすっかり忘れていた。何やら耳障りな音がするが気にしない。地べたに倒れ込みながらも、少しずつ距離を近づける。這いずる姿はどれだけ無様なことだろうと、自分を嘲笑する。

 

 ガタガタ、とドアから何かがなだれ込んでくる。様々な音や声を発し、騒音が部屋を埋め尽くしていく。さっきの音のせいかな。倒れた拍子にケーブルが切れたのかな。今きたのは医者か看護婦か、分からないけど。結局は同じだ。

 

 アインクラッドは崩壊し、俺は再び地獄(げんじつ)へと落ちたのだから。

 

 

「ごめん、俺生き残っちゃった」

 

 その声は周囲の怒号にかき消され、意識も微睡みの中に溺れていった。

 

 

 

*

 

 

 

 それから起こったことを、簡単にまとめていこうか。リソースは変なスーツのおっさん。すとうとかくどうとかまあよく覚えていなかったけど、まあ問題ない。彼は〈総務省SAO事件対策本部〉というSAO事件を取り扱う組織の人間らしい。直接的な手出しはできなかったものの、彼らの力が無ければ俺たちが死んでいたのは間違いない。圧倒的感謝。そんな彼の話を、簡単にまとめていこう。

 

 SAOは無事攻略され、生存しているプレイヤーのほとんどは目を覚ましたこと。そこから弾き出された約300人が未だに目を覚ましていないこと。これから、状態を見ながら事情を聞いていくこと。うん、ツッコみたいことが山ほどある。まあ、だからといって解決できるかどうかは別だけど。俺自身もそんな余裕ないし。

 

 彼はある程度話した後に、「最期に」と一つ情報を教えてくれた。彼はばつが悪そうに、後ろめたさを残した顔で教えてくれた。たった一言だったけど、それは俺が欲しくてたまらなかったもの。それを聞いて、胸を裂くような悲壮感に襲われたと同時に、安堵が心を埋めた。笑みと涙。自分が自分でなくなりそう。でも、これでよかったんだと思う。

 

 

 

 

 朝比奈新菜の死が、無事確認されたようだ。

 

 

 

*

 

 

 

 その1か月後、俺は退院した。元々住んでいたアパートの契約やらサービス利用のあれこれや毎日のリハビリと、案外多忙な生活を送っていた。SAO被害者の学校なんかもあるらしいが、もうそんな年でもない。しかし高校を卒業できていないことも事実だし、どうしようかと悩んでいた頃。突如携帯が鳴りだした。誰だろうと思い、電話に出ると。

 

「ヤッホー!もっこりしてるかー?」

 

「…………何からツッコめばいいんすか」

 

 頭のおかしい人が奇声を発していた。まあ誰なのかは速攻で分かったんだけど。

 

「……久しぶりですね、ナタリアさん。どうして電話番号知ってるんだ?つか生きてるの知ってたのか?あとノリ軽くね?そんでもっこりしてるかって何だよ」

 

「久しぶりだね、ソラ。番号と生きてるのは親族の方から聞いたよ?名前忘れたけど。ノリはいつも通りだし、もっこりは当然ソラのフランクフr」

 

「息を吐くように下ネタを言うな」

 

 声の主はナタリアさんだった。無事生きていたことへの安堵と電話越しだけど話せている喜びは、彼女のぶっ飛んだ発言のせいで消滅した。

 

「まあソラの性事情はともかく、明日の13時に〇〇駅の南口に集合ねー」

 

 そんなのお構いなしに、ナタリアさんは自分の要件を一方的に伝えてきた。

 

「そんじゃ、グッバイ」

 

「おい待てやこの…………って切れてるし」

 

 好き放題やったのち、ナタリアさんは電話を切った。そんで残ったのは突然の約束事。

 

「こっちの予定も聞かずに、本当にあの人はどうしようもねえなマジで」

 

 本来、明日は予定があった。それこそ一日がかりの真面目な用事だったのだが、まあ仕方がないというか諦めよう。下手をしたら風呂場に突入しかねない人だ、下手に刺激しないようにしないと。しかし、不幸中の幸いとはよく言ったものだ。

 

「目的地は変わらないし、まあいいか」

 

 そんなことを考えながら、明日の支度を始めた。

 

 

*

 

 

 そして翌日。指定された時間に指定された駅の南口。アパートから数十分の場所に一人立っていた。訂正、座っていた。車椅子だし、表現めんどい。

 

 しばらく待っていると、一台の車が目の前に止まった。サングラスをかけた女性が、車の中からこちらを覗き、やがて笑った。

 

「突然で悪かったね、空」

 

「ナタ……早苗さん」

 

 ナタリアこと朝比奈早苗は、俺を見つけると真っ白な歯を見せつけるように笑った。

 

「さすが、マナーは徹底してるじゃないかリアルでナタリアなんて呼ばれたら面倒だしね」

 

「自分で言ってんじゃねーか」

 

「まあまあ、とりあえず乗りなよ。どうすればいいんだっけ?」

 

「降りるのは多分大丈夫なので、車椅子は折りたたんで後ろにでも…………」

 

 初めてであろう車椅子に戸惑ってはいるが、早苗さんは上手いことやってくれた。車高の低い車で、バンに入りきるか心配だったが、まあなんとかなった。俺が助手席で待っていると、車椅子を積み終えた早苗さんが運転席に座った。

 

「昨日は言ってなかったけど、どこに行くか分かる?」

 

「○×県△△市の墓地。新菜の墓」

 

「なぜ分かったし」

 

 表情を何一つ変えぬまま、早苗さんはハンドルを切る。

 

「あなたが俺を誘うなら、それ以外の理由はあり得ない」

 

「……根拠は?」

 

「別に。あえて言うなら新菜を溺愛してるから」

 

「あー、なんか納得」

 

 そして車は高速道路へ入る。ひたすら直線の道路が続く道を、制限速度ギリギリで突っ走る。変わらない景色に、確実に近付いている距離。目的地まで、それほど時間はかからないだろう。

 

「つーかさ、空は用事とか無かったわけ?急な誘いだったし、正直断られると思ってたのに」

 

「新菜のことってんなら、それ以外はどうでもいいですよ。今回の場合は、まあ場所と時間が被ってましたし」

 

「…………誰かの墓参り?」

 

「まあ、そんなもんです」

 

 こんな感じで話をしていると、時間が短く感じる。高速から市街地、そして人気の少ない住宅地に移動するまで時間はかからなかった。知らない景色が、次第に見覚えのある景色に変化していく。その変化を、早苗さんは既に理解しているようだ。

 

「大変だね、生きてると」

 

「まあ、そんなもんじゃないですかね」

 

 生きる手間をひしひしと感じながら、目的地へと車を走らせていく。気が付くと、空が真っ赤に染めている。日も暮れそうだ。

 

「ふぃー、着いたぜー」

 

 車が停止した。早苗さんの助けを借りて車を降りると、木々が周囲を囲んでいた。ざわざわ、と風が葉を鳴らしている様が、体感温度を低下させる。いかにもという雰囲気、夏だったら丁度よかっただろうに。師走の風には似合わない。

 

「さ、先にそっちの用事を済ませるか」

 

「そっすね、それほど時間はかからないですし」

 

 車椅子の車輪を回しながら、一つ目の目的地へと進んでいく。太腿の上に置いたビニール袋には、線香、蝋燭、マッチ棒が入っている。墓参りということで準備していたが、早苗さんが準備していたから無駄になったけど。花まで準備してるし。

 

「ここです」

 

「えっと……『芦原』?柊じゃなくて?」

 

 そう、今日墓参りしにきたのは俺の家族の墓じゃない。両親と妹が殺された後、俺を引き取ってくれたおばさんの墓だ。本名は「芦原祥子」(あしはらしょうこ)。俺の母の妹らしい。名前以外知らなかったからしょうがない。別居してたしね。

 

 

 俺がこの事実を知ったのは、現実世界に戻ってから気絶し、一週間後に起きてSAO事件対策本部のむとう……っぽい名前の人の話が終わった後だった。法律事務所の人が来て、簡単に状況を説明してくれた。

 

 祥子さんは、俺がSAO事件に囚われてから約1年後、交通事故によって亡くなったらしい。目撃者の証言によると、自ら飛び込んでいった様子もあり、自殺という可能性も疑われていた。担当者の話ではその程度だったが、俺は確信をもって自殺だったと断定できる。

 

「その遺書が、根拠ってわけだ」

 

 早苗さんは、俺の手にある封筒を見つめる。

 

「はい」

 

 封筒を開き、中にある紙を取り出す。しかし、遺産の相続とか面倒な書類は置いてきたし、既に必要のないものだ。この中にあるのは。

 

「俺に宛てたメッセージとは思わなかったな」

 

 祥子さんが想いを綴った、俺宛の手紙だった。

 

 

 

「空君へ

 

 この手紙を読んでいるとき、きっと私は死んでいると思う。どのような理由かは書いてる時点では分からないけど、そんなことはどうでもいい。他殺でも自殺でも病死でも、あなたに伝えることは決まっているから。

 

 ただ、謝りたいの。

 

 私が空君と初めて会ったのは、姉さん……柊里見と、真さんと、茜ちゃんの葬式だったね。三人の死に、当時の私はかなりのショックを受けた。悲しみと絶望と犯人への憎悪が混ざった、混沌の中に溺れていた。それがどれほどのものかなんて、他人のそれと比べるものじゃないけど。

 

 でも、きっと空君は、私以上に苦しかったよね。家族がみんな、あんな残酷な殺し方されて、しかもその場に居合わせて。挙句の果てには空君も傷つけられて、目を覚ましたら全て消えていた。そんなの、きっと耐えられない。葬式で見た空君は泣いてなかったけど、涙が枯れるほど泣いたか、泣けないほど辛いかのどちらかだったと思う。きっと、私の想像なんて平和に思えてくるほどに。

 

 そして、親族の間で柊家の遺産の話になった。確かに姉さんも真さんも働いていて、遺産は予想以上に多かった。でも、誰も遺産を欲しがらなかった。それは綺麗な理由なんかじゃなく、空君が怖かったからだと思う。この場での遺産は柊家としてではなく、空君が持つ遺産を誰が管理するかという問題だったから、遺産を引き継ぐと同時に、空君を引き取って面倒を見なければならない。それが、皆を躊躇わせたんだと思う。空君の焼けただれた顔を気味悪がったからか、死んだ目をしてる空君を不気味に思ったからか、私には分からなかったけど。

 

 実際、私も空君が得体のしれない何かとして見ていた。涙も、弱さも見せないで、何も見ていなくて、ひたすた暗い闇の中にいる空君が、正直怖かった。姉さんに会いに行った時に、屈託のない笑顔を見せてくれた空君はもうここにはいないんじゃないかって。今ここにいるのは、空君の皮を被った怪物なんじゃないかって、本気で考えてしまってた。空君には、本当に酷いことをしたんだ。そのことも、謝らせて。

 

 

 でも、その時横目に見た空君は、今にも消えてしまいそうだった。

 

 そして、私は空君を引き取ることにした。遺産なんかどうでもいい。空君が怖いのは今も変わらない。それでも、どうにかしたかった。空君に、昔のように笑ってほしくて。空君のことを拒絶したことを償いたくて。空君に、これ以上辛い思いをしてほしくなくて。本当にその程度の理由で空君を引き取ろうって決めたんだ。自分勝手な決断だったけど、空君は受け入れてくれた。判断できなかったこともあるだろうけど、それでも、嬉しかったんだよ?

 

 ただ、私の心はそれに耐えられなかった。私の家で一緒に暮らすようになってからも、空君の目は死んだままだった。どうにかしようとはした。色々試した。でも、空君の絶望は、そんなことじゃ変えられなかった。あの日の誓いが、どれだけ愚かだったか。自分が、どれだけ弱い存在だったかを思い知らされたよ。

 

『あなたといるのが辛いから、わたしから離れて』

 

 どうにかしたかった。でもどうにもできなかった。私の心は既に劣悪な何かに変わり、それでも状況は好転しなかった。その結果、私は逃げた。自分がこれ以上傷つくのが怖かったから、空君から逃げたんだ。最後まで責任を果たそうとせず、空君に何もしてあげられなかった自分を、どうにかして否定したかったんだ。でも、そんなことはできなかったよ。空君が離れてからも、後悔と罪悪感しか残らなかった。

 

 無力感の中にいた私は、何もできなかった。仕事は辞めた。家の中のものはほとんど売った。何もない中で、ずっと考えてた。あの時、どうしたらよかったのか。そんなことを考えても答えは見つからなかったけど。せめて、謝ろうと思った。許されなくても、認められなくても、君のことを想っていたことだけは伝えたかった。言葉を選ぶのに数年かかったけど、どうにか伝えようとしたんだ。

 

 でも、君はもういなかった。SAOという檻の中にいた君に、私が伝える術など持ち合わせていなかった。愚かな私には謝罪をすることすら許されないのか、って考えたりしたけど、結局その通りだった。君を捨てた私に、そんな資格なんて無いから。

 

 それでも、伝えたい。謝りたい。君がこの世界に戻ってきたら。そこに私がいないとしても。それに、この心はもう耐えられないみたい。だから、こんな形だけど、言わせてください。

 

 

 ごめんなさい。ありがとう。……さよなら」

 

 

 

 

 最初にこの手紙を読んだとき、何も言葉がでなかった。祥子さんの苦悩はある程度想像していたが、彼女を追い詰めるほどだとは思ってもいなかった。だから、彼女を責める気持ちは無いし、罪悪感すら覚える。

 

 こちらの返事を待たず、彼女は逝ってしまった。返答の機会を、俺は永遠に失ってしまった。

 

「だから、なんだね」

 

「はい。だからここに」

 

 せめて、墓に。その想いが、俺をここに連れてきた。

 

「…………祥子さん。あなたのおかげで、俺はここまで育つことができました。皆が俺を気味悪がっていた中、あなたが差し伸べてくれた手が、俺にとって救いでした」

 

 上手に言葉を選べないけど。

 

「だから、あなたには感謝してるんです。だから、あなたが謝る必要はないんです。そんなに辛い思いをさせてしまった俺が悪いんです。ごめんなさい」

 

 せめて、応えなきゃ。

 

「すいません、上手く言えなくて。何を言っていいか分からなくて。でも、どうしても伝えたいことがあります。それだけ言わせてください」

 

 

 

 お世話に、なりました。

 

 

 

 

 

「言いたいことは言えた?」

 

「まあ、とりあえずは」

 

 祥子さんの墓参りを終え、次の目的を果たすため進む。早苗さんが車椅子を押してくれた。楽すぎてやべえ。

 

「それじゃ、次は」

 

 少しだけ進んだ先にあるのは、比較的新しい墓だった。

 

「家族会議といきますか。題材は空の部屋からエロ本が見つかった件について」

 

「ねーよ、さっきまでのシリアスさを返せ」

 

 この墓の下に、朝比奈新菜は眠っている。

 

 

 蝋燭に火をつける。風が弱いため、時間はかからなかった。その蝋燭を立て、花を供える。その花に、どこか見覚えがあるのは気のせいではないだろう。

 

「供える花に勿忘草を準備したあたしのセンスどうよ!?」

 

「発想はいいですけど時期が悪かったですね。それ、造花でしょう?」

 

「ちぇー、バレたか。ま、造花があっただけ奇跡だけどね」

 

 勿忘草のシーズンは春から夏手前まで。12月の寒さに耐えられるはずもなく、止む無く、といったところだ。でも、この場面にこの選択をするところ、流石はあいつの母親だ。

 

「春には、本物を用意できたらいいけど」

 

 線香を蝋燭に近づける。先端が赤くなったタイミングで遠ざけると、燃えた部分から煙が立ち上る。それを横に寝せるように置く。そして、手を合わせる。しばし無言の時間が続く。その静寂に身を任せ、目を閉じる。

 

「……………………」

 

 でも、何も感じない。声も、温もりも、笑顔も優しさも弱さも、あの瞬間感じた唇の感触も、今はない。この世界には、ニーナも新菜もいない。そのことを思い知らされた。

 

 そんな中でも、頭には彼女しかなかった。感じられなくても、その表情、感情、声音、温もり、思い出、想いは確かにここにある。それさえあれば、十分だ。まあ、「目の前に納められてる新菜の灰」に何を求めてるんだってね。その灰でさえ愛せる自信はあるけどさ。

 

 それに、話したいことは既に話した。最期の瞬間まで、世界の終りまで共に在ったし。未練はないかと言われたらそりゃあるけど、それでも後悔はしていない。満ち足りている。確かに、俺たちは心の底から愛し合えた。本当の意味での愛を知った。

 

 勿忘草のもう一つの花言葉。その意味が、この瞬間になって胸に沁みる。

 

「『真実の愛』だなんて、出来すぎじゃないか」

 

 瞳を開けると、視界がクリアになったように感じる。

 

「悪いな、ニーナ」

 

 共に逝けなかったことは、俺も彼女も不本意だった、と思う。そのことに対しての謝罪に続けて、もう一つ。

 

「迎えに行くの、しばらくは無理そうだ」

 

 口づけの前の約束を果たすには、ちゃんと死ななければならない。自分で殺すことも、他の誰かに殺されることもダメだ。俺を殺していいのは、ニーナだけなんだから。だから、迎えに行くのは先のことになりそうだ。

 

「そうだよ、空。生きてるのなら、生きてるなりにやらなきゃいけないことがあるんだよ」

 

 早苗さんが話しかけてくる。新菜に伝えたいことは伝えられただろうか。

 

「いいんですか?伝え残したことは?」

 

「まあ、言いたいことは言ったよ。『今のところ浮気してないから大丈夫』って」

 

「あんたって人は…………、いや妥当か」

 

「空、あたしのことキチガイの変態と思ってるよね?」

 

 え、今更?

 

「思ってたら、今頃一緒に来てないですよ」

 

「だよね、ちょっと焦った」

 

 本音は押入れの中に仕舞っておこう。

 

「そういう空はどうなんだよ、言いたいこととか結構あるだろ?」

 

「そりゃあ、ありますよ。いや、あったにはあったんですけど、ここで伝えるのも、蛇足のような気がして」

 

 あれ、蛇足の使い方合ってたっけ。

 

「もしかして、最後の最後でヤッちゃった?」

 

「何を?」

 

「ナニを」

 

「…………話はしましたよ。それと、キスも」

 

「おっほ」

 

 おい、その声アウトだろ。

 

「あの子も大人になったねえ…………」

 

「それ、娘の墓の前で言います?」

 

「……………………」

 

 すると、急に黙りだす。何か琴線に触れることを喋ってしまっただろうか。

 

「ねえ、空」

 

 湿った声が、早苗さんの口から漏れた。

 

「本当にいないんだね、新菜」

 

「……殺しましたからね、俺が」

 

「ああ、別にそのことを言ってるんじゃないんだけどさ」

 

 無理して作ったであろう笑顔に、涙が浮かぶ。急にどうしたのだろうか。

 

「なんかさ、新菜がいなくなっただなんて、信じられなくてさ」

 

「…………」

 

 防波堤が決壊し、涙が溢れ出す。

 

「ずっと前に、新菜は死んでた。それは理解していたけど、実感がなかったんだ。だって、ゲームの中で死んだとしても、何も残らないだろ?」

 

「残らないって」

 

「死体だよ。死体が無ければ『死んだ』って分からないじゃないか。千切られた腕じゃ不十分だし、消えただけなら失踪だ。死体が灰になって、初めて死んだって分かるんだと思う」

 

 涙が彼女から溢れてくる。拭っても止まらない。

 

「だからかな、SAOの中にいたときは新菜の死を実感できなかった。どこかで『これは夢だった』って、悪ふざけだったって、思ってたんだ」

 

 涙で顔がくしゃくしゃになっている。40代らしからぬ容姿で、子どものように泣きじゃくっている早苗さん。その様子を見ていると、罪悪感が湧いてきた。自分が加害者というのも背中を押していると思う。

 

「SAOから解放されてから、あたしはずっと夢見心地だった。新菜が目を覚まさなくても、新菜の遺体を見ても、新菜の体が焼かれても、墓の中に入れられても、もしかしたらってずっと思ってた」

 

 その言葉が、会話の中で感じていた違和感を説明してくれた。

 

「早苗さん、あなたは」

 

 言い終わる前に、早苗さんは頷いた。

 

「うん、そうだよ。たった今、『新菜が死んだ』って実感を知った」

 

 膝から崩れ落ち、彼女は泣き叫んだ。喉を裂こうとするくらい強く叫ぶ。その声が空気を揺らし、異形の咆哮のように蠢く。彼女の内側にいた何かが這い上がってくる。不気味な何かは、ナタリアさん、早苗さんとは言い難い。別の存在の仕業にも思えてくる。

 

 でも、これは確かに早苗さんだ。そして、あの世界のナタリアさんでもあった。それは、彼女の今までから容易に推測できる。

 

「そりゃあ、そうだよな」

 

 「今の彼女は異常か?」と聞かれるのなら、俺は「正しく彼女だ」と答える。今の彼女は別におかしくなったとか、ショックで弱弱しくなったとか、そういう変化を起こしているのではない。初めから、彼女はこういう人だったんだ。常に被害者で、夫の暴力に怯えて、その屑の罪の火の粉を被って、娘の傷を見て罪悪感に苛まれて、挙句の果てには救いを求めた仮想空間に娘を奪われた、完全なる被害者であり、奪われる側の存在。人間の言葉では、これを「弱者」という。早苗さんは、ずっと弱者だった。

 

 SAOという場所は、それを隠してきた。スタートは皆同じ状況から始まる、ある意味平等な世界が、同じ恐怖と目的を持つプレイヤー同士の繋がりが、弱者である自分を曖昧なものにする。その夢が醒めて、弱者である自分を思い出した。虐げられる立場の自分を。

 

 この涙には、新菜を失った悲しみも含まれているだろう。でも、この場で初めて認識したのは新菜の死ではない。「新菜に依存している自分の弱さ」だ。ずっと奪われてきて、傷つけられてきて、希望だった娘すらいなくなった彼女には、ああやって泣き喚くことしかできないのだった。

 

「ごめんなさい……弱くてごめんなさい…………」

 

 彼女は優しい。傷つけたのは彼女の夫なのに、奪ったのは俺なのに、それを自分の弱さのせいにしている。あらぬ誤解や偏見もあっただろうに、それすら自分を責めるナイフに変えてしまう。そうやって傷つけたのは、社会だというのに。

 

「…………早苗さん」

 

 彼女の頭にそっと手を置く。ただそれだけのことなのに、早苗さんはより一層泣きじゃくった。親に抱き着き泣く子供を思わせるほど、彼女の存在が小さく感じた。背中に回された両腕、腹部に押し付けられた早苗さんの顔。涙が、服を濡らしていった。

 

 彼女の頭を両手で包み、優しく抱きかかえる。感じたのは温もりではなく震え。湧き上がるのは絶望。彼女を見て、俺自身気が付いてしまったんだ。

 

 ここは、俺たち弱者に冷たく、残酷な世界。そんな地獄に俺たちは戻ってきてしまったこと。そして、希望(ニーナ)はもういないことに。

 

 

 結局、弱者はこうやって、何かに縋って生きていくしかない。誰かに傷つけられても、奪われても、弱者の声を誰も聞きやしない。それが、正しいことなのか?弱いことは、罪なのか?

 

 そう問いかけても、ニーナから返事は返ってこなかった。

 

 

 

 

 それから、俺は早苗さんの家に泊まることになった。早苗さんの涙が枯れる頃には日が暮れて、完全に夜だった。ここから俺のアパートまでは遠いので、今夜は朝比奈家にお邪魔することにした。

 

 家に着くと、俺たちは新菜の痕跡を必死に辿った。案内された新菜の部屋は、彼女が生きていた頃の姿を保っていた。机を覆い隠している学校の課題、ぐちゃぐちゃなままのベッド、そして新菜と早苗さんが写った写真。彼女が生きているような錯覚が俺を襲った。

 

 そこで何をしたかって?まあ、二人で堪能したよ。ベッドにダイブして深呼吸したり、新菜の写真を嘗め回すように見たり、新菜の下着の評論会をしたり。ブラやパンツを頭に装着して、彼女のアルバムを鑑賞するなど、俺たちはどうかしていた。ただの変態。お巡りさんこちらです。

 

 晩御飯は早苗さんの料理だったが、かなり美味かった。長芋の煮物とか、おふくろの味を存分に楽しんだ。ま、激濃ハイボールをキメた早苗さんによる新菜の自慢話や愚痴や性的な趣味やらのマシンガントークで雰囲気はぶち壊しだったけど。それでも、家族というものを思い出せたような気がする。早苗さんはそのまま寝てしまったので、新菜の布団で寝た。早苗さんがドン引きしてた。

 

 そして次の日、昼食まで済ませた後、早苗さんに車で送ってもらった。しかし、高速道路で事故があったらしく、目的地に着いた頃には夕方だった。長すぎる移動に眠ってしまった俺は、早苗さんに寝顔を連写で撮られた。なんとなく負けた気がした。

 

 そして、昨日の集合場所だった駅に到着する頃には夕方になっていた。冬らしい、冷たい風を感じつつ、別れ際に握られた早苗さんの手の温もりを感じていた。「またね」と言いながら微笑むのはズルいと思う。おかげで涙が出てきたじゃないか。悔しさを視線に込めて、早苗さんの車を見送った。

 

 

 帰ろうか。と思ったら。

 

「ニャ」

 

 一匹の黒猫がいた。純粋で美しい毛並と青い目をした猫だ。首輪をしていないところから野良猫と推測できる。さらに青い目の黒猫という特徴から、捨て猫の疑いが出てきた。でも、それはどうでもよかった。この猫を見た瞬間、真っ先に思い浮かんだことがある。

 

「シー、ナ?」

 

 そう、シーナに限りなく似ていた。だから、思わずその名前を口にしたんだと思う。生まれ変わりって言われたら、信じてしまうほどに、その猫はシーナだった。

 

 その猫が、こちらに駆け寄ってきた。

 

「おわっ」

 

 その猫は膝の上に飛び上がり、こちらを見つめてくる。澄んだ海のような目に、思わず吸い込まれそうになる。しかも、シーナと似ているからか、余計目が離せない。

 

「………なあ、お前は」

 

 シーナなのか?と、口にしようとした瞬間。

 

「シッ!」

 

「あだっ!?」

 

 思い切り顔を叩かれた。思った以上に痛い。でも、その痛みは知っている。サヨナラを告げる俺に向けた、あいつなりのエール。

 

「お前、本当に」

 

 思わず手を伸ばそうとする。すると猫は飛び降り、路地裏へと駆けていった。振り返ることもなく、一目散に走り去る。顔に残る痛みを残して。

 

「…………」

 

 いくら外見が酷似しているからって、あれをシーナと決めることはさすがにしない。単なる偶然の積み重なりであり、それを都合よく解釈しているだけなのかもしれない。空想の物語と現実を重ねるのは、それこそ痛い子がすること。それは知ってる。

 

 でも、その世界とそこであった出来事、そこで出会った大切な人達は、間違いなく本物だ。それを、誰が否定できるというのだろうか。こうして繋がった縁は、未だに途切れていない。あの世界は、俺たちにとっての真実だった。

 

 だから、こうした偶然にも、意味があるんじゃないかって思ってしまう。背中を押されたように感じてしまう。大事なものが、こうも近くに感じてしまう。

 

 

 だから、進める。

 

「…………ありがとう」

 

 

 

 大丈夫。大事なものは、ここにある。




 書きたいことは活動報告にて書きますが、ここで簡単に挨拶させていただきます。

 ここまで読んでくださった皆様に、精一杯の感謝を。
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