九八式戦闘機
用途:戦闘機
分類:軽戦
設計者:小山悌
製造者:中島飛行機 立川飛行機 立川陸軍航空工廠
運用者 大日本帝国(日本陸軍)
満州国(満州国軍飛行隊)
タイ(タイ空軍)
フランス(フランス空軍)
インドネシア(インドネシア空軍)
中国(中国人民解放軍空軍)など数カ国
初飛行:1937年12月12日
生産開始:1938年4月
運用開始:1938年6月
運用状況:退役
概要
1936年(昭和11年)に制式採用された中島製の全金属製低翼単葉機九六式戦闘機(キ27)は、主脚に固定脚を採用した保守的な格闘戦向けの戦闘機だった。
登場当初の九六戦は、速度・上昇力・旋回性に優れた優秀機であったが当時の欧州では引込脚のBf 109(ドイツ)とスピットファイア(イギリス)が出現しており設計面で将来性が乏しい九六戦自体に限界を感じていた陸軍は新型戦闘機の開発を模索するようになった。
そのため九六戦採用と同月である12月陸軍航空本部は、中島に対し一社特命でキ43の試作内示を行い1938年(昭和13年)末の完成を目指して開発が始まった。
主な要求仕様は以下の通りとされている。
最大速度-500km/h
上昇力-高度5000mまで5分以内
行動半径-800km以上
運動性-九六戦と同等以上
武装-固定機関銃2挺
引込脚を採用
中島では設計主務者たる小山悌課長を筆頭とする設計課が開発に取り組み担任技師(設計主任)は機体班長たる太田稔技師、構造設計担当青木邦弘技師、翼担当一丸哲雄技師、ほかに空担当として糸川英夫技師らが設計に協力し群馬県の太田製作所で開発が始まった。
なお九六戦開発中に考案された航本の昭和12年度『陸軍航空兵器研究方針』において単座戦闘機は、「機関銃搭載型」と「機関砲搭載型」の2種が定義されておりこれに則って開発が始められた機体がキ43(前者)とキ44(後者)である(のちに二式戦闘機「鍾馗」となるキ44は1938年(昭和13年)に同じく中島に対して研究内示が行われた)。
昭和13年度『陸軍航空兵器研究方針』では、新たに「軽単座戦闘機」と「重単座戦闘機」の区分が登場した。
「軽戦(軽単座戦闘機)」は、格闘戦性能を重視し機関銃を装備し「重戦(重単座戦闘機)」は速度を重視し機関砲を装備するものと定義され当時開発中であったキ43は「軽戦」でキ44は「重戦」となっている。
キ43は、キ44と比べて格闘戦を重視というものであった。
青木技師は、陸軍の要求は「九六戦に対し運動性で勝ること」で「近接格闘性」という表現を排除していることに着目しキ43は重戦指向であったと述べている。
引込脚以外の機体基本構造は、前作の九六戦を踏襲したことから開発は順調に進み(反対に日本機にとって革新的なキ44には新技術や新構想が盛り込まれた)供試体である試作0号機を経て1936年12月に試作1号機(機体番号4301)が完成し同月12日に利根川河畔中島社有の尾島飛行場にて初飛行している(操縦はテスト・パイロット四宮清)。
エンジンは、中島で開発されたハ25で翼型はNN-2・翼端部はNN-21を採用(上半角6度・取付角2度・翼端部2度捩下)しまたアルミニウム製燃料タンクが出来た時点で陸軍から防火タンク化の指示がなされている。
試作1号機の胴体形状は、増加試作機以降とは大きく異なり引込脚化された九六戦を引き伸ばした感じであり風防は枠の無い曲面1枚物といった特徴がある(初飛行後に景色の歪みが問題とされ平面主用の3枚物に換装)。
1937年(昭和11年)1月立川陸軍飛行場に空輸されたキ43試作1号機は陸軍航空技術研所による審査に移行し同年2月に試作2号機、3月に3号機が完成し合流している。
航技研や明野陸軍飛行学校での審査の結果キ43は、九六戦に比べ航続距離は長いものの旋回性に劣り最大速度の向上は30km/h程度ということが判明した。
九六戦が旋回性能を武器に活躍したこともキ43採用に対して逆風となっていた。
同年11月審査の結果を受け胴体以下各部を改め全体のスタイルがのちの制式機相当となった増加試作1号機(通算試作4号機)が完成した。
参謀本部は、遠隔地まで爆撃機護衛および制空することが出来る航続距離の長い遠距離戦闘機(遠戦)を要求した。
飛行実験部実験隊(航技研審査部門の後身)のトップである今川一策中佐の進言もあり一定の改修を施した機体を制式採用することが決定した。
主に以下を内容とする『キ43遠戦仕様書』が中島に示され翌1938年(昭和13年)3月に改修機が飛行実験部実験隊戦闘班に引き渡され再度試験が進められた。
蝶型戦闘フラップの装備
定回転プロペラの装備
爆弾型落下タンクの装備
行動半径の1,000km以上化
エンジンはハ25を使用
かつて問題となっていた九六戦との運動性の比較については、戦闘フラップを使用しなくとも水平方向でなく上昇力と速度を生かした「垂直方向」の格闘戦に持ち込むことで不利な低位戦であっても圧倒可能と判断されている。
これは、飛行実験部テスパイ岩橋譲三大尉の研究結果であった。
これらの結果を受けて1938年5月キ43は、陸軍軍需審議会幹事会において九八式戦闘機として仮制式制定(制式採用)された。
制式名称 九八式戦闘機二型
試作名称 キ43-II
全幅 10.837m
全長 8.92m
全高 3.085m
翼面積 22m²
翼面荷重 117.7 kg/m²
自重 1975kg
正規全備重量 2590kg
発動機 ハ115「一〇〇式一一五〇馬力発動機」(離昇1150馬力)
プロペラ 住友ハミルトン可変ピッチ3翅 直径2.80m
最大速度
前期型:515km/h/6000m
中期型:536km/h/6000m
後期型:548km/h/6000m
巡航速度 355km/h/4000m
上昇力 高度5000mまで4分48秒
実用上昇限度 10500mないし11215m
降下制限速度 600km/h
航続距離 3000km(落下タンク有)/1620km(正規)
武装 機首12.7mm機関銃2門(携行弾数各270発)
爆装 翼下30kg~250kg爆弾2発ないしタ弾2発
一式戦闘機
用途:戦闘機
設計者:土井武夫
製造者:川崎航空機
運用者:大日本帝国(日本陸軍)
初飛行:1939年12月
生産開始:1939年
退役:1948年
運用状況:退役
概要
1938年2月陸軍は、川崎に対し本格遠距離戦闘機キ61の試作を指示した。
キ61は、1938年12月から設計が開始された。
1939年(昭和14年)12月に初飛行したキ61試作機は、最高速度560km/hを発揮し総合評価で優秀と判定されて直ちに制式採用が決定された。
この数値は、設計主務者の土井の観点から見ても全くの予想外と評された。
全幅 12.00m
全長 8.9245m(渡辺) / 8.818m(学研)
全高 3.75m
翼面積 20m²
翼面荷重 174.8 kg/m²(全備状態)
自重 2425kg
全備重量 3395kg
燃料 595リットル(機内)、増槽として400リットル×1
エンジン ハ102型(離昇出力1300馬力)
最大速度 560km/h(高度6000m)
巡航速度 400km/h(高度4000m)
航続距離 機内燃料1200km、増槽装備時/2000km
上昇力 5000mまで7分、8000mまで11分30秒
実用上昇限度 11000m
武装 機首20mm機関砲2門、翼内12.7mm機関砲2門
爆装 250kg爆弾 2個
偵察機
九八式司令部偵察機
用途:偵察機
分類:司令部偵察機(戦略偵察機)
設計者:久保富夫
製造者:三菱重工業
運用者:日本(陸軍・海軍)
初飛行:1936年11月
生産開始:1938年
運用状況:退役
概要
1935年(昭和10年)航研機操縦者として公式世界記録を樹立したことでも有名なテスト・パイロットで陸軍航空技術研究所の藤田雄蔵中佐らの提案により速度だけを重視した新コンセプトの偵察機の開発を狙った陸海軍は、設計を三菱に特命した。
設計者・久保富夫の「飛行機の姿を見て、ああ奇麗だな、と思うようなものでなければその飛行機は良くならない」の言葉に示されるように本機は特に三型(キ46-III)に代表される高速性を追求したゆえの細身で流線型の胴体と空気力学に基づいた新設計のエンジンカウル(ナセル)、特徴的な尾翼といった従来の日本機とは異なるスマートな外見的特長を持ち性能面でも連合軍の邀撃戦闘機を振り切る高速性、優秀な高空性および上昇限度、長大な航続距離を有していた。
太平洋戦争開戦前から終戦に至るまで常に第一線で活躍し続けた開発思想・機体設計・性能・外観・戦歴ともに旧日本陸海軍を代表する傑作機である。
また性能向上を狙った改良(機体及び各型の特徴)も重ねられ大戦末期には機首に機関砲や機体上部に「上向き砲」といった重武装を施した対大型爆撃機邀撃戦闘機型も生産された。
全長:11.00m
全幅:14.70m
全高:3.88m
翼面積:32.0m²
自重:3263kg/3831kg
全備重量:5050kg/5720kg
最高速度:604km/h(5800m)/630km/h(6000m)
航続距離:2474km/4000km(落下タンク装備)
上昇限度:10720m/10500m
上昇力:11分58秒(8000m)/20分15秒(8000m)
発動機:ハ102/ハ112-II
武装:7.9mm旋回機関銃
防空戦闘機型:20mm固定機関砲×2 37mm固定機関砲(ホ204)×1 攻撃機型:タ弾
無線機:九六式飛二号無線機(中距離用)/九六式飛一号無線機(長距離用)
乗員:3名(操縦者1名・偵察者2名)
爆撃機
九八式双発軽爆撃機
用途:爆撃機
分類:軽爆撃機
設計者:土井武夫
製造者:川崎航空機
運用者:大日本帝国(日本陸軍)
初飛行:1936年(昭和12年)
退役:1945年(昭和20年)
運用状況:退役
概要
帝国陸軍がSB軽爆を元に開発した機体である。
爆弾搭載量や航続距離よりも戦闘機並みの速度と運動性能が重視され主として敵飛行場において在地敵機を撃滅することを目的とし敵地上部隊に対しては、反復攻撃でこれを撃破するという重爆撃機(九七式重爆撃機)と同じく陸軍独自の戦術思想の元に設計された。
日中戦争と太平洋戦争(大東亜戦争)全期間を通して主力軽爆撃機として使用された。
乗員:4名
全長:12.88m
全幅:17.47m
全高:4.32m
翼面積:40.0m²
総重量:6,750kg
自重:4550kg
最高速度:505km/h(高度5600m)
上昇時間:5000mまで8分30秒
実用上昇限度:10100m
航続距離:2400km
発動機:中島ハ-115・1150HP ×2
武装:九五式旋回機関銃×3(前方旋回・後部上方旋回・後部下方旋回)・爆弾300~500kg
重爆撃機
一式重爆撃機
用途:爆撃機
分類:重爆撃機・雷撃機
設計者:小沢久之丞
製造者:三菱重工業
運用者:大日本帝国(陸軍)
初飛行:1941年(昭和17年)12月27日
生産開始:1942年(昭和18年)
退役:1945年(昭和20年)9月
運用状況:退役
概要
九七式重爆撃機の後継にあたる本機は、戦闘機の護衛を必要としない高速性能と重武装を併せ持った重爆撃機として設計された。
しかし実戦においては、常に味方戦闘機の護衛を必要とした。
1938年(昭和13年)に帝国陸軍は、三菱重工業に対して新型重爆撃機キ49の開発を命じた。
陸軍からの指示は、
戦闘機の擁護を必要としないため500km/h超の最高速度を有すること。
20mm機関砲(ホ1)の搭載と尾部銃座の設置。
航続距離3000km以上。
爆弾搭載量は、1000kg。
でいずれも九七式重爆を上回る性能を要求されることとなった。
三菱では、この過酷な要求に各種の工夫をもって取り組み1939年(昭和14年)8月に試作第1号機を完成させた。
翌月から審査が開始されたがその後エンジンの強化を含む各種の改修を施した試作機2機と増加試作機7機が完成した。
そして1941年(昭和16年)12月に一式重爆撃機(キ49)として制式採用された。
乗員:8名
全幅:22.5m
全長:18.7m
全高:5.6 m
主翼面積:65.0m²
発動機: ハ104空冷複列星型14気筒 1850hp×2
全備重量:13,765kg
自重:8649kg
最大速度:547km/h(6090m)
巡航速度:400km/h
上昇時間:6000mまで14分30秒
実用上昇限度:9470m
航続距離:3800km
武装:20mm機関砲×1(胴体上部)・7.9mm機関砲×4(機首、胴体左右、尾部)
爆装:50kg爆弾×15、250kg爆弾×3、500kg爆弾×1、800kg爆弾×1、魚雷×1のいずれか
襲撃機
九八式襲撃機
用途:攻撃機/偵察機
分類:襲撃機/軍偵察機
設計者:大木喬之助
製造者:三菱重工業
運用者:大日本帝国(日本陸軍)
初飛行:1937年6月
生産開始:1937年6月
運用状況:退役
襲撃機
「襲撃機」とは、1936年(昭和11年)1月に参謀本部から陸軍省に提出された「次期飛行機ノ性能等ニ関スル作戦上ノ要望」の中ではじめて明文化された日本陸軍の軍用機の新カテゴリである。
1935年(昭和10年)前後にソビエト労農赤軍の赤色空軍で生まれた高度100m程度を超低空飛行し森などの陰に隠れ敵地上部隊を急襲する戦法を取る「シュトゥルモヴィーク(直訳は襲撃者)」を日本陸軍でも機体のコンセプトを含めて採用したものである。
その用途は、「主として敵飛行場に在る飛行機並びに地上軍隊の襲撃」とされ「超低空並びに降下爆撃に適し努めて行動を軽快ならしむ」ために要求すべき性能が定められている。他方既存のカテゴリである「軽爆撃機」は、「水平爆撃を主とし降下爆撃をも実施し」と用法に差別化が図られていた。
また「襲撃機」は、軽快な低空運動性のかわりに常用高度は低く爆弾の搭載量は抑えられるものの固定機関銃または機関砲を装備し要部の装甲など防弾装備が「軽爆撃機」との違いであった。
敵地上部隊を襲撃するこの「襲撃機」は、いわゆる近接航空支援に比重が置かれた「地上攻撃機」に相当するものでもある。
概要
1935年(昭和12年)陸軍は、三菱重工業に対し軍偵察機としてキ51の開発を内示し1936年(昭和11年)1月末に試作を命じた。
ところが7月試作研究の途中で「陸軍航空本部兵器研究方針」の改正があり軍偵察機と襲撃機を同一機種とすることが明示されたためキ51は襲撃機を主用途とした。
大木喬之助技師を設計主務者とする開発陣は指示書に従いエンジンに中島製ハ25を採用した単発複座単葉低翼固定脚の機体を設計した。
固定武装は、両翼内に12.7 mm機関砲(ホ103 九七式十二・七粍固定機関砲)を2挺と後部座席に旋回式7.9 mm 機関銃(九四式旋回機銃)を1挺装備した。
爆弾は、当初200 kg(12 kg×12または50 kg×4)まで搭載可能であった。
また低空飛行で地上を攻撃する任務の性格上敵地上部隊からの反撃を受ける可能性が高いことや陸軍の防弾装備への深い理解から防弾についても考慮されており11号機(増加試作機)からはエンジン下面、操縦席下面、背面、胴体下面、中央翼下面を6 mm 厚の防弾鋼板で保護しまた燃料タンクはゴム張りセルフシーリング式の自動防漏タンク(防火タンク・防弾タンク)とされていた。
試作機における試験結果は、飛行性能および操縦性も良好であったが機体の振動や着陸時の失速特性の悪さといった問題も指摘され量産型では主翼前縁にスラットを設けることでその解決を図り1938年(昭和13年)5月に九八式襲撃機として制式制定された。
また本機は、生産過程で一部仕様(艤装)を変更するだけで軍偵察機にする事もできこの型は九八式軍偵察機として制式制定された。
この派生型では、後部座席の副操縦装置や防弾鋼板を取り外し胴体下・横に開けられた小窓から外部を空中撮影するための写真機が設置された。
この仕様変更に対応するため胴体内に爆弾を収納するスペースは無くなり爆弾は、両翼下に搭載された(軍偵察機は司令部偵察機のような偵察専用機ではなく時には爆装しての攻撃任務を行えることが求められている)。
また視界を広げるために機体に比して風防・天蓋が大きく設計されている。
ただし艤装以外は、元の九八式襲撃機とほとんど同じものである。
1941年(昭和16年)性能向上のためにエンジンをハ115に換装し固定脚を引込脚に変更したキ71が満州飛行機によって試作されたが期待した程の性能向上が見られなかったため実用化には至らずに終わった。
主要諸元
構造:単発、低翼単葉、全金属製応力外皮構造、固定脚
乗員:2名
全長:9.21m
全幅:12.10m
主翼面積:24.20㎡
自重:1873kg
全備重量:2798kg
エンジン:中島ハ25(栄) (空冷星型複列14シリンダー、離昇出力940hp)
プロペラ:住友ハミルトン 油圧式可変ピッチ3翅
最高速度:424 km/h (高度3000m)
実用上昇限度:8270 m
上昇率:5000mまで8'47"
航続距離:1060km (燃料608Lの場合)
武装:翼内12.7mm機関銃(九七式固定機関銃)×2、後方7.9mm旋回機関銃(九四式旋回機銃)×1
爆装:最大200kg
離陸滑走距離:165m
着陸滑走距離:276m
練習機
百式基本練習機
用途:練習機
分類:基本練習機
製造者:日本国際航空工業
運用者:日本(陸軍)
運用状況:退役
概要
陸軍は、1938年(昭和13年)に日本国際航空工業にドイツの傑作練習機であるBü 131をライセンス生産する事を指示した。
国際では、同年11月より国産化作業を開始し試作1号機が1939年(昭和14年)7月に完成し1940年(昭和15年)4月に四式基本練習機として制式化した。
なお海軍は、初歩練習は赤とんぼ(九四式中間練習機)で事足りるとライセンス生産はしなかった。
原型のBü 131とほぼ同じ構造の複葉複座小型機で取り扱いが簡単な事と燃費が良い上に燃料に70オクタンの低質ガソリンを使える事が利点だが点火栓が汚れやすい事によるエンジン不調と馬力不足により上昇力が不足している他脚部の強度不足などの短所もあった。
なお気筒が下向きである為飛行中にエンジン不調になった際は、背面飛行をすると復調する事もあった。
二人乗り時は、教官または助教が前方で訓練生が後方に座る配置で単独飛行する際はエンジンとのバランスを取る必要があり操縦者は後方席に搭乗した。
離着陸が容易で空中特性も良好で本機では平均で9時間半程度の訓練で単独飛行するだけの技量を習得でき従来の初等練習機に比べると5、6時間短く済んだという。
最短6時間半の同乗飛行で単独飛行を許可する事もあった。
物資不足により全木製化の百式基本練習機乙型(キ86乙)も試作されたが試作1機と増加試作機6機のみで制式化される事は、なかった。
性能諸元
全長:6.620m
全幅:7.347m
全高:2.25m
自重:401.3kg
正規重量:630.8 kg
エンジン:日立ハ47空冷式倒立型直列4気筒(公称100hp、離昇出力110hp)
最大速度:180 km/h
巡航速度:120 km/h
航続距離:470km(正規)/ 600km(過荷)
乗員:2名