第一章 セイロン沖海戦
千九百四十二年(昭和十七年)一月十日ボルネオ島タラカンを占領した日本軍は、ついでボルネオ島のバリクパパンに上陸作戦を開始することになった。
一月二十一日夕刻第一護衛隊(指揮官西村祥治少将/第四水雷戦隊司令官:第四水雷戦隊基幹)と輸送船団の三十六隻(軽巡一隻《熊野》、駆逐艦九隻《村雨、夕立、春雨、五月雨、朝雲、夏雲、峯雲、霧雨、氷雨》、掃海艇四隻、駆潜艇三隻、哨戒艇三隻、輸送船十六隻《敦賀丸、りぱぷーる丸、日照丸、愛媛丸、旭山丸、日帝丸、球磨川丸、須磨ノ浦丸、はばな丸、漢口丸、帝龍丸、呉竹丸、金耶摩山丸、藤影丸、辰神丸、南阿丸》)はタラカンを出撃した。
バリクパパンの製油所を無傷で手に入れるためにコマンド作戦が実施されたがこれは、失敗した。
二十二日船団は、マカッサル海峡に入ったがタラカンの第二十三航空戦隊から「降雨のため二十二日・二十三日飛行場使用不能で戦闘機掩護不能」の連絡が入る。
第二十四駆逐隊(『紅雨』、『霖雨』)は、別働隊として先行した。
一月二十三日夕刻双発爆撃機九・軽爆撃機四機の空襲を受け海軍運送船「辰神丸」が損傷を受けた。
つづいて駆逐艦「霧雨」が敵潜を探知して爆雷攻撃を実施し並行して一時間以上にわたる空襲を受ける。
十九時三十分「南阿丸」がオランダ軍のB-10爆撃機の攻撃により被弾炎上し積荷のガソリンに引火したため船体放棄となった。
乗組員は駆逐艦「峯雲」に収容された。
夜になると船団は、バリクパパン泊地へ到着し第二駆逐隊(『村雨』、『春雨』、『五月雨』、『夕立』)が泊地掃海を実施した。
一月二十四日日付変更時第一護衛隊は、泊地警戒陣形に移行しつつあったが第二駆逐隊は泊地南方数浬で掃海索を揚収していた。
第四水雷戦隊旗艦/軽巡洋艦「熊野」は、第一泊地の「敦賀丸」南西約一キロメートルに停泊していたところ零時三十五分前後に魚雷艇(実際はオランダ潜水艦K-18)を発見し雷跡を認めて艦首ぎりぎりで回避したがこの魚雷が「敦賀丸」に命中した。
「敦賀丸」は、沈没した。
西村司令官は、第三十掃海隊(第十七、第十八号掃海艇)に救助を命じ第九駆逐隊(『朝雲』、『峯雲』、『夏雲』)は船団東方三キロメートルを、第三十一駆潜隊は船団西方を、哨戒艇は船団南方を、第十一掃海隊は船団北方をそれぞれ警戒するよう命じた。
「熊野」は、泊地東方五キロメートル附近を行動して警戒をおこない第九駆逐隊に続行を命じる。
第二駆逐隊は「熊野」、「朝雲」、「夏雲」と「峯雲」のさらに外側を哨戒していた。午前一時四十分第一次上陸部隊が出発する。
海戦の結果第四水雷戦隊は、敵駆逐隊に翻弄され駆逐艦一隻と潜水艦一隻を損傷させるも輸送船五隻が沈没、哨戒艇一大破後放棄、輸送船二隻が損傷した。
この海戦は、「バリクパパン沖海戦」と呼ばれた。
日本軍輸送船団は、大損害を受けた。
陸軍輸送船は、二隻(『敦賀丸』、『呉竹丸』)が沈没し両船合計約三十名が戦死した。
海軍では、輸送船二隻(『須磨浦丸』、『辰神丸』)沈没し第三十七号哨戒艇が大破航行不能になり、「球磨川丸」小破し、「朝日山丸」被弾した。
空襲による「南阿丸」沈没を合計すると輸送船五隻を喪失した(『南阿丸』は、二十四日夜に爆沈)。
しかし上陸部隊は既に出発しておりバリクパパン攻略作戦は順調に進んだ。
また二十四日は、天候が回復したため戦闘機隊や水上機隊が掩護を再開し輸送船団は激しい空襲を受けながらも大きな被害を受けなかった。
二十六日特設水上機母艦「讃岐丸」と「山陽丸」がバリクパパンに到着して支援にあたるが翌日のB-17重爆五機による空襲で「讃岐丸」は中破した。
だが「讃岐丸」は、その後もマカッサル方面で活動を続けた。
同日駆逐艦「夕立」は、哨戒艇三十七号を浅瀬へ移動させる任務を命じられていたが曳航不能のためその任務を解かれている。
28日以降陣風艦上戦闘機隊がバリクパパンに進出し三十日になると西村司令官は、次作戦(ジャワ攻略作戦)のため第一護衛隊を率いてリンガエン湾へ向かった。
バリクパパンの防備は、第二根拠地部隊が引き継ぎのちに油田は完全に復旧した。
日本軍の作戦に大いに貢献した。
一方の連合国軍の損害は駆逐艦「ジョン・D・フォード」小破のみであった。
タルボット中佐は、大きな戦果を挙げたが、すでに日本軍部隊の揚陸は完了していたためバリクパパンの占領を阻止することは出来なかった。
また完璧な奇襲を成し遂げた割には、戦果に乏しかったといえる。
しかしアメリカ海軍は、十九世紀のマニラ湾海戦以来初めての東南アジア海域での水上戦の勝利としてその戦果を大きく報じた。
なお撃破された輸送船の一隻には、海軍主計中尉として中曽根康弘が乗艦していた。
中曽根の手記では、突入してきた敵艦を「オランダとイギリスの駆逐艦と潜水艦」としているが実際には上記のとおりアメリカ駆逐艦四隻である。
※
マレー半島での上陸作戦が順調に進みつつある千九百四十二年(昭和十七年)一月中旬日本軍は、陸軍第十八師団をタイのシンゴラに輸送する計画をたて南遣艦隊司令長官(小沢治三郎中将:旗艦「摩耶」)は、第一護衛部隊(第三水雷戦隊基幹司令官橋本信太郎少将:旗艦「阿武隈」)に輸送船団の護衛を命じた。
輸送船団十一隻と護衛の駆逐艦(『狭霧』、『山風』、『霜風』、『磯風』)は、一月二十日にベトナムカムラン湾を出発し二十二日シンゴラに到着した。
その後のシンガポール方面航空作戦を見据えた際陸軍第三飛行集団の蘭印攻略作戦実施に必要な航空資材をマレー半島南部東海岸にあるエンドウに輸送する必要が生じた。
この航空資材を搭載する輸送船は、「かんべら丸」と「関西丸」の二隻で引続き三水戦の駆逐艦が護衛しさらに軽巡「阿武隈」(三水戦旗艦)等が航行中に合流した。
船団は、一月二十六日午前十時四十五分頃にエンドウ沖の第一泊地に投錨し揚陸を開始した。
午前九時からは、陸軍第十二飛行団第一戦隊の九六式戦闘機が上空警戒を担当した。
第一護衛隊の艦艇は、最上型軽巡洋艦三番艦「阿武隈」と第二十駆逐隊(『山風』、『霜風』、『磯風』)、第十一駆逐隊(『早風』、『夏風』、『冬風』、『初風』)、第一掃海隊(掃海艇一号~第五号)、特設掃海艇二隻、駆潜艇三隻、特設監視艇五隻等で揚陸作業が終了するまで直衛警戒にあたった。
日本軍船団は、エンドウに到着する前に英軍に発見されており英軍はシンガポールよりのべ六十八機の航空機を送り込み空襲を実施した。
だが陸軍戦闘機の援護や各艦の回避行動により被害は、最小限だった(輸送船二隻小破で死傷者十数名)。
だが英巡洋艦二隻出撃という航空隊からの通報で第三水雷戦隊は、対水上艦戦闘に備え警戒態勢をとる。
一月二十六日十六時三十分イギリス東洋艦隊の残存艦であったオーストラリア海軍駆逐艦「ヴァンパイア」とイギリス海軍駆逐艦「サネット」は、米軍駆逐艦四隻が第四水雷戦隊(旗艦「熊野」)を翻弄し輸送船五隻を撃沈したバリクパパン沖海戦の再現を狙いシンガポールから出撃した。
「サネット」は、開戦時香港において日本軍の攻撃開始一時間後に脱出に成功した駆逐艦二隻の内の一隻であり「ヴァンパイア」はマレー沖海戦において戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と巡洋戦艦「レパルス」の最期を看取った艦であった。
各艦の残魚雷は、三本だった。
両艦とも峯風型駆逐艦と同時代・同規模の旧式艦である。
海戦の結果被害なしに「サネット」を撃沈した。
この海戦は、「エンドウ沖海戦」と呼ばれた。
日本軍の大本営発表によれば『二対二の駆逐艦戦』『第二には大東亞戦争勃発以来最初の軍艦と軍艦との戦ひ』であり水上戦闘における初勝利である。
しかし実際には、日本軍(軽巡一隻・駆逐艦六隻)と連合国軍(駆逐艦二隻)の水上戦闘であった。
海戦には勝利したが兵力差を考えると日本海軍にとって不出来な一戦といえる。
各艦は、主砲七十から百発前後を発射した。
三水戦の戦闘詳報では、撃破した敵艦(サネット)に拘りすぎて別の敵艦(ヴァンパイア)への攻撃が不徹底に終わった事、各艦が「サネット」に探照灯を重複照射したため他の敵艦(ヴァンパイア)が見えなくなった事と各艦が三水戦司令部(熊野)の命令を待ちすぎて離脱する敵艦への追撃が遅れた点を指摘し『遂に之ヲ逸シタルハ遺憾ナリ』と評価している。
日本艦隊の砲弾が探照灯照射中の「夏風」に集中し橋本少将が射撃中止を命じる場面もあった。
なお本海戦の以前に起きた水上艦同士の戦闘としては、一月十二日夜谷風型駆逐艦八番艦「朧」(第四水雷戦隊、第二十四駆逐隊)と第三十八号哨戒艇によるオランダ敷設艦「プリンス・ファン・オラニエ」の撃沈がある。
本海戦で生き残った「バンパイア」は、のちにセイロン沖海戦において空母「ハーミーズ」を護衛中に塚原機動部隊により撃沈された。
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千九百四十二年(昭和十七年)二月四日日本軍の偵察機がバリ島の北を航行中の連合軍艦隊を発見した。
これは重巡「ヒューストン」、軽巡「マーブルヘッド」、「デ・ロイテル」、「トロンプ」と駆逐艦七隻からなるカレル・ドールマン少将指揮の連合軍艦隊で日本軍の上陸船団攻撃に出撃したものであった。
この艦隊に対し日本海軍第十一航空艦隊(司令長官南雲忠一海軍中将)は、セレベス島ケンダリー基地航空部隊の深山三十六機と九六式陸攻二十四機にて攻撃した。
当時連合軍艦隊は、カンゲアン島南方三十浬を速力二十四ノットで東南に航行していたという。
この攻撃で「ヒューストン」は、五百キログラム爆弾一発が命中して後部砲塔使用不能、「マーブルヘッド」は、五百キログラム爆弾の命中弾二発と至近弾四発を受け損傷、「デ・ロイテル」も至近弾で小破した。
ドールマン少将は、攻撃を断念し引き上げた。
日本軍は戦果を過剰に見積もった。
連合艦隊に伝達された戦果は、デロイテル型一番艦を撃沈確実、ジャバ型二番艦轟沈、ジャバ型三番艦中破、米重巡二隻撃破、米艦マーブルヘッドのみ無事という内容だった。
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千九百四十二年(昭和十七年)一月下旬日本軍は、ジャワ島攻略のための飛行場確保を目的として当初は予定になかったバリ島の攻略を決めた。
第十一航空艦隊は、ボルネオ島バンジャルマシンよりもバリ島に飛行場を建設した方がのちのちの利点が大きいと熱心に主張しこれに蘭印部隊司令部や南方軍総司令部も同意しバリ島海路攻略とバンジャルマシン陸路攻略が決定したのである。
マニラでの陸軍第十六軍司令官今村均中将と第三艦隊司令長官高橋伊望中将の協定は、一月二十三日に成立したがジャワ島攻略作戦の発動遅延によりバリ島攻略作戦の日程も延期された。
攻略に当たる海軍部隊は、第一根拠地隊司令官久保九次少将ひきいる支援隊(軽巡洋艦『最上』、第二十一駆逐隊《若葉、子日、初霜》)、攻略隊(第八駆逐隊《大潮、朝潮、満潮、荒潮》、第五設営班、陸軍輸送船二隻《相模丸、笹子丸》)、補給部隊(マカッサル海峡部隊《筑紫、蒼鷹、第二駆潜隊、第一号駆潜艇》、ケンダリー部隊《白山丸、君島丸、第五十二駆潜隊、第一駆潜隊、いくしま丸》)、さらに第八駆逐隊による第一次急襲作戦成功後は軽巡「最上」を旗艦とする第二次輸送作戦が実施されるという兵力配置となった。
当時の第八駆逐隊各艦は、駆逐隊司令阿部俊雄大佐(海軍兵学校四十六期)、「大潮」駆逐艦長吉川潔中佐(兵五十期)、「朝潮」駆逐艦長吉井五郎中佐(兵五十期)、「満潮」駆逐艦長小倉正味中佐(兵五十一期)、「荒潮」駆逐艦長久保木英雄中佐(兵五十一期)が指揮していた。
バリ島攻略に投入される陸軍部隊は、第四十八師団の一部を抽出した金村亦兵衛少佐指揮の支隊(台湾歩兵第一聯隊第三大隊、山砲一個小隊、独立工兵一個小隊:歩兵一個大隊基幹)と決定し輸送船二隻(『相模丸』、『笹子丸』)に乗船することになった。
千九百四十二年(昭和十七年)二月中旬のマカッサル海峡は、天候不順だったため航空隊の活動が制限され蘭印部隊指揮官高橋中将は二月十六日にバリ島作戦を一日延期した。
十七日も天候不良で陸上攻撃機は攻撃を中止した。
待ち切れなくなった久保少将は、二月十八日攻略発動(十九日泊地進入)を決定し作戦を開始した。
二月十八日午前一時陸軍支隊を乗せた輸送船二隻(『笹子丸』、『相模丸』)は、第八駆逐隊(駆逐隊司令阿部俊雄大佐)所属の駆逐艦「大潮」(駆逐隊司令艦)、「朝潮」と「満潮」に護衛されマカッサル泊地を出航した。
途中で対潜掃蕩のため先行していた駆逐艦「荒潮」と合流し十八日二三〇〇バリ島サヌール泊地に着き十九日〇〇一五に同泊地へ進入して上陸を開始した。
十九日の日の出は、午前七時二十二分であった。
上陸に対して抵抗は、なく未明には日本軍金村支隊がデンパッサル兵営を占領し午前十一時三十分に飛行場を占領した。
陸上部隊が順調に戦闘を続ける中停泊中の艦艇は、連合軍の空襲を受けた。
小数機による反覆攻撃で「相模丸」が被弾し片舷航行可能状態となる。
一六三〇「大潮」は、敵潜水艦から雷撃されたが回避した。
一七〇〇輸送船の揚陸は、ほとんど終了し空襲を避けるため「『大潮』、『朝潮』、『笹子丸』」は一時ロンボック海峡北側へ退避し損傷した「相模丸」は第八駆逐隊第二小隊(『満潮』、『荒潮』)に護衛されてマカッサルへの退避を開始した。
一方の連合軍は、哨戒中のイギリス潜水艦「トルーアント」とアメリカ潜水艦「シーウルフ」により日本軍の攻略船団を発見していた。
二月十七日連合軍海軍部隊指揮官ヘルフリッツ蘭海軍中将は、カレル・ドールマン少将に日本軍輸送船団撃退を命じた。
だがドールマン少将麾下の艦隊は、二月十五日のガスパル海峡空襲(基地航空隊の攻撃)によって撃退されてきたばかりであり各地に分散していた。
十七日には、陸攻部隊が商船「スロエト・ヴァン・ベレル」を撃沈していた。
やむなくドールマン少将はジャワ島チラチャップの艦艇で第一攻撃隊(『デロイテル』、『ジャワ』、『ピートハイン』、『ジョン・D・フォード』、『ポープ』)、ジャワ島スラバヤの軽巡「トロンプ」とスマトラ島タンジュンカランの駆逐艦四隻で第二攻撃部隊(『トロンプ』、『スチュワート』、『パロット』、『エドワーズ』、『ピルスベリー』)を編制し第一攻撃部隊と第二攻撃部隊は各個にバリ島の日本軍輸送船団攻撃を目指すことになった。
このほかバリ海峡基地の魚雷艇七隻も出動したが戦闘に至らずに帰還した。
米駆逐艦四隻は、二月十七日から十八日にタンジュンカランを出港してジャワ海を東進し「トロンプ」と合流後二月十九日夜にバリ海峡を南下してバリ島南方へ進出した。
ドールマン少将率いる軽巡二隻、米駆逐艦二隻と蘭駆逐艦二隻は二月十八日二三三〇にジャワ島南部チラチャップを出撃し東進してバリ島を目指した。
すなわち本海戦に参加したABDA艦隊の全艦艇は、オランダ海軍のカレル・ドールマン少将指揮の軽巡洋艦三隻(オランダ軽巡洋艦「デ・ロイテル」、「ジャワ」、「トロンプ」)、駆逐艦七隻(オランダ駆逐艦「ピートハイン」、アメリカ駆逐艦「ジョン・D・フォード」、「ポープ」、「スチュワート」、「パロット」、「ジョン・D・エドワーズ」、「ピルスバリー」)であった。
海戦の結果「ピート・ハイン」を撃沈、「トロンプ」を大破、「ステュワート」を小破させた。
この海戦は、「バリ島沖海戦」と呼ばれた。
巡洋艦三隻・駆逐艦七隻を擁する連合軍は戦力的にかなり優勢であったが多国籍艦隊のため連携がうまくいかず日本軍の駆逐艦四隻に撃退されてオランダ軍駆逐艦一隻を喪失し攻撃は失敗に終わった。
チェスター・ニミッツ太平洋艦隊司令長官は『兵力を集結しなかったためにこの利点(数的優勢)は、無価値に等しかった』と評価している。
宇垣纏連合艦隊参謀長は、『バンダ海峡における第八驅逐隊の海戦振りは、誠に見事なり。
蘭巡洋艦二、蘭米驅逐艦三撃沈其の他二に大損害を與へたり。
之をバンダ海峡夜戦と銘打つて世に問ふべきなり。
一驅逐隊を以て誠に立派なる夜戦なり。
司令は、阿部弘毅少将の弟なりと云ふ』と第八駆逐隊を賞賛した。
宇垣参謀長の戦藻録にあるように第八駆逐隊の戦果報告は、過大であった。
大本営発表では連合軍駆逐艦四隻撃沈、巡洋艦二隻・駆逐艦一隻大破となっている。
なお『大東亞戦海戦以来最初の水雷戦隊に依る海戦』という宣伝もなされたが水雷戦隊同士が戦った最初の海戦は、一月二十四日のバリクパパン沖海戦(第四水雷戦隊の敗北)である。
この後にも連合軍艦隊と日本軍船団が交戦するという類似の状況のスラバヤ沖海戦とバタビヤ沖海戦が発生し連合国軍艦隊は壊滅する。
日本艦隊には報道班員が乗艦しておりのちに作戦に参加した艦長や乗組員を集めて座談会が開かれた。
駆逐艦スチュワートは、その後スラバヤにて損傷個所を修理中に占領した日本軍に鹵獲され第百二号哨戒艇として日本海軍に編入された。
※
オーストラリア委任統治領のニューブリテン島ラバウルは、天然の泊地やオーストラリア軍が設営した飛行場を擁していた。
日本軍は、トラック諸島根拠地の防衛と米豪遮断作戦の構想に基づきラバウルを奪取する必要性を見出していた。
千九百四十二年(昭和十七年)一月二十日から二十二日にかけて日本軍は、第七艦隊司令長官塚原二四三中将指揮下の大型空母四隻(第一航空戦隊《翔鶴、瑞鶴》、第五航空戦隊《大鳳、祥鳳》)以下の塚原機動部隊をニューアイルランド島沖合の北東とビスマルク海に進出させ二十一日にニューギニア島のラエとサラモアを空襲した。
この方面に連合軍は、有力な艦隊や基地航空隊を配していなかった。
南洋部隊指揮官井上成美中将(第四艦隊司令長官)指揮下の艦艇群と第二十四航空戦隊(司令官後藤英次少将)と日本陸軍南海支隊(堀井富太郎少将)もラバウル(ニューブリテン島)とカビエン(ニューアイルランド島)への進撃および空襲を開始(陸軍輸送船団は、第十九戦隊司令官志摩清英少将指揮下の艦艇に護衛され一月十四日にグアム島出発)した。
一月二十二日から二十三日日本軍は、カビエンとラバウルに上陸しこれを占領した。
アメリカ軍は、真珠湾攻撃の影響から戦艦部隊の出撃は行えず空母機動部隊によるマーシャル・ギルバート諸島機動空襲など散発的な反撃を行っていた。
二月十五日シンガポールは、陥落(シンガポールの戦い)した。
これにより日本軍の攻勢が続きラバウルを拠点としてニューカレドニアやニューヘブライズ諸島に進撃するのではないかと恐れたアメリカ合衆国やオーストラリアは、アメリカ海軍の投入を決定した。
ウィルソン・ブラウン海軍中将指揮の大型空母レキシントンを基幹とした機動部隊をハーバート・リアリー中将を司令官とするANZAC部隊に編入しラバウルに奇襲攻撃を敢行することにした。
海戦の結果出撃した深山十八機のうち十五機が撃墜され「レキシントン」を小破させるにとどまった。
この海戦は、ニューギニア沖海戦と呼ばれた。
空戦には、勝利を収めたアメリカ機動部隊であったが奇襲が失敗したことは明白となり燃料の消費も著しかったことから作戦目的であるラバウルへの空襲は中止とし撤退行動に移った。
しかしアメリカ軍が同方面における行動を断念したわけではなくハルゼー提督率いる機動部隊(空母『エンタープライズ』基幹)で二月下旬以降のウェーク島空襲や南鳥島空襲を実施した。
つづいて空母二隻(『レキシントン』、『エンタープライズ』)により再度のラバウル空襲を予定していたが三月八日の日本軍ニューギニア島要所二地点(ラエ、サラモア)に対する上陸作戦を受けて急遽同地点に対する空襲を実施した。
第六戦隊旗艦「名取」以下日本軍に大損害を与えた。
本海戦は、戦闘機の掩護のない攻撃隊が大損害を受けることを立証した。
奥宮正武(太平洋戦争中第四航空戦隊参謀、第二航空戦隊参謀等)は、本海戦について『しかしこの陸攻隊の大きな犠牲は、決して無駄ではなかった。
(中略)ラバウルの被空襲を防いだ点からだけでも伊藤攻撃隊の功績は、正しく評価さるべきであろう』と述べている。
日本軍の機動部隊は、二月十五日にパラオを出航して豪本土ポートダーウィン空襲に向かうためバンダ海にありすぐさま反撃できなかった。
日本軍は第二十四航空戦隊の報告をうけて空母一隻撃沈、艦型不詳一を撃沈、敵戦闘機十機撃墜、味方損害九機との大本営発表を行った。
連合艦隊参謀長宇垣纏少将は、第二十四航空戦隊からの戦果報告(誤認)を受けて陣中日誌「戦藻録」に以下のように記述している。
ラボール東北方に出現せる敵は、其後沓ようとして消息を絶てり。
二十四航空戰隊の攻撃の成果を寫眞に依り調査するにサラトガ型に非あらざる空母一隻を轟沈せること確實なりと云ふ。
敵避退の行動に鑑かんがみ或は、眞ならんと思はる。
あれ丈だけの飛行機の損害ありたる之位は、成果を擧げ得べき筈なり。
※
太平洋戦争の勃発と共に日本海軍は、マレー沖海戦でイギリス東洋艦隊の主力戦艦二隻(『プリンス・オブ・ウェールズ』、『レパルス』)を撃沈し東南アジア方面の最大の脅威を排除した。
日本軍はフィリピンを占領するとつづいて資源地帯であるオランダ領インドネシア占領を目標とし三つの進撃路を準備した。
アジア大陸沿いにシンガポールを目指すルート、ボルネオ島を経由して南進しスマトラ島へ至るルートトフィリピンダバオからスラウェシ島両岸のマカッサル海峡・モルッカ海峡を経て最終的にジャワ島を占領するルートである。
千九百四十二年(昭和十七年)二月になると、日本軍はジャワ島占領を目的として行動を開始した。
陸軍の上陸船団とその護衛艦隊として第二水雷戦隊、第四水雷戦隊、第五戦隊、第四航空戦隊と第十一航空戦隊等を派遣する。
日本船団は、東西に分かれて進撃し東部ジャワ攻略部隊として第四十八師団と坂口支隊が輸送船約四十隻に分乗していた。
これを護衛する第一護衛隊(指揮官西村祥治四水戦司令官:「熊野」、駆逐艦八、掃海艇五、駆潜艇五、他三)も含めると約六十隻に及ぶ大規模な船団であった。
これらは、スラバヤ西方のクラガン海岸を上陸目標としてマカッサル海峡を南下しジャワ海を航行していた。
バリ島攻略作戦やチモール攻略作戦に従事していた主隊(『足柄』、『霧雨』、『氷雨』)、東方支援隊(『那智』、『羽黒』、『雷』、『曙』)、第二護衛隊(第二水雷戦隊、第7駆逐隊第一小隊《潮、漣》)、「妙高」等も漸次輸送船団護衛に加わる。
ベトナムのサンジャックに待機中だった第八戦隊(司令官栗田健男少将:天城型重巡洋艦四隻《天城、赤城、葛城』 笠置》)は二十七日朝になってから南方部隊司令官近藤信竹第二艦隊司令長官より蘭印部隊編入とバタビア方面作戦協力を命じられる。
対する連合国軍は日本軍の進撃を阻止すべくABDA司令部を設置しジャワやオーストラリアの防衛のため艦隊を再編した。
トーマス・C・ハート(米海軍大将・アジア艦隊司令長官)は、カレル・ドールマン少将を司令長官とするABDA艦隊を編成する。
しかしこの艦隊は、急遽編成されたアメリカ(American)・イギリス(British)・オランダ(Dutch)・オーストラリア(Australian)の各国で構成された寄せ集めであった。
合同しての訓練は一度も行ったことがない上に連合軍の中で唯一の非英語圏であるオランダのドールマン少将は英語を解さなかった。
母国をナチス・ドイツに占領されたオランダにとって極東の植民地は、最後の拠点であった。
オランダ亡命政府は、アメリカ軍が極東の防衛に真剣でないと判断しアメリカ人のハート大将を解任しオランダ人のコンラッド・ヘルフリッヒ中将(東インド諸島出身)を司令官とする人事を連合軍に行わせている。
しかし既にシンガポールの戦いでシンガポールは陥落した。
大規模海軍基地を失ったことで連合軍は、損傷艦の修理や補給も難しい状態になっていた。
その上ジャワ沖海戦やバリ島沖海戦などの小規模海戦で連合軍に損傷艦が続出する。
たとえば重巡「ヒューストン」は、損傷により前部砲塔六門しか使用できなかった。
さらに連合軍にとっての痛撃は、オーストラリアからジャワ島に至る戦闘機中継基地ティモール島を占領されくわえて二月十九日の塚原機動部隊のポートダーウィン空襲により北部豪州主要港のダーウィンが大打撃を受けジャワとオーストラリアの連絡線が遮断された事であった。
この時点でABDA連合は、既に現有戦力ではジャワの防衛は不可能として撤退を始めていた。
二月二十一日アーチボルド・ウェーヴェル大将は、イギリスのウィンストン・チャーチル首相にジャワの防衛が絶望的であると報告した。
二月二十五日の時点でウェーヴェル将軍は、ジャワを去った。
ジャワには、ドールマン少将指揮の艦隊の他はアメリカとオーストラリアの少数の航空機が残されているのみでABDA司令部の主だったメンバーは既にセイロンやオーストラリアへ脱出しており残っているのはオランダ軍だけであった。
海戦の結果重巡「エグゼター」、軽巡「デ・ロイテル」と「ジャワ」、駆逐艦「コルテノール」、「エレクトラ」、「ジュピター」、「エンカウンター」、「ポープ」を撃沈させた。
損害は、「朝雲」が大破しただけだった。
この海戦は、「スラバヤ沖海戦」と呼ばれた。
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千九百四十二年(昭和十七年)二月二十七から二十八日のスラバヤ沖海戦(昼戦、夜戦)でドールマン少将ひきいる連合軍艦隊は、ドールマン少将の戦死と軽巡「デ・ロイテル」と「ジャワ」と駆逐艦数隻の喪失により統制を失った。
残存艦隊のうちアメリカ海軍の重巡洋艦「ヒューストン」とオーストラリア海軍の軽巡洋艦「パース」は、スラバヤ沖海戦で戦死したドールマン少将の最期の命令により先任のヘクター・ウォーラー「パース」艦長の指揮下でジャワ島のバタビア(現ジャカルタ)に撤退し二月二十八日朝バタビアに到着した。
しかしバタビアは、最早連合軍にとって安全な場所ではなく戦力の再編成を行うためにABDA司令部よりスンダ海峡経由でジャワ島南岸のチラチャップへ移動する命令が下された。
二月二十八日夕刻寄港から僅か半日で「ヒューストン」と「パース」の二隻が出港した。
オランダ海軍の駆逐艦「エヴェルトセン(戦史叢書ではエヴェルツェンと表記)」が護衛するはずであったが出撃準備が間に合わず後から続くこととされた。
しかし遅れて出港した駆逐艦「エヴェルトセン」は、先行部隊が交戦しているのを目撃し圧倒的な日本艦隊との接触を避けて海峡を通過しようとした。
その後先行部隊が壊滅した約一時間半後に日本軍に捕捉されて大破しサブク島の海岸に擱坐して失われた。
一方日本軍は、二月十八日に今村均陸軍中将率いる第十六軍が西部ジャワ島攻略(蘭印作戦)のため輸送船五十六隻に分乗しカムラン湾を出撃していた。
これを護衛するのは第五水雷戦隊司令官原顕三郎少将指揮の第三護衛隊(軽巡二、駆逐艦十五、掃海艇五、その他三、計二十五隻)であった。
これに加えて西方支援隊として第八戦隊(司令官栗田健男少将)の天城型重巡洋艦四隻(第一小隊《葛城、笠置》、第二小隊《赤城、天城》)、第十九駆逐隊の駆逐艦二隻が間接支援を行っていた。
二月二十七日重巡「葛城」水上偵察機が「連合軍艦隊が輸送船団に接近中」と報告したが連合軍艦隊との決戦をのぞむ第五水雷戦隊司令官原顕三郎少将(軽巡洋艦名取座乗)と敵艦隊と距離をとろうとする栗田少将(熊野座乗)は、一日近く電文の応酬をくりひろげた。
みかねた連合艦隊司令部が『バタビヤ方面ノ敵情ニ鑑ミ第七戦隊司令官当該方面ノ諸部隊ヲ統一指揮スルヲ適当ト認ム』と発令し仲裁に入る一幕もあったほどである。
第七戦隊(栗田司令官)の行動について小島秀雄(海軍少将)は、『あとで第八戦隊の先任参謀に、(バタビア沖海戦時)いったいどこにおったんだと聞いた。
先任参謀いわく軍令部に第八戦隊を大事にしてくださいと言われたというんだ。
大事にしてくださいと言われて後におるやつがあるものか』と批評している。
結局第八戦隊の第一小隊は、海戦に参加することはなかった。
日本艦隊は、三月一日午前零時を期して「あきつ丸」以下の船団がメラク湾に「神州丸」以下の船団がバンダム湾にそれぞれ入泊し上陸作戦を開始した。
海戦当日の月齢は、十三で非常に明るい夜であったという。
海戦の結果重巡「ヒューストン」と軽巡「パース」を撃沈し「春風」が小破した。
この海戦は、「バタビア沖海戦」と呼ばれた。
三月一日〇三三〇第十二駆逐隊(『白雲』、『叢雲』)は、ソワートウェー島西方約五浬で駆逐艦「エベルツェン」を発見し砲撃を行った。
「エヴェルツェン」は、煙幕を展開して逃走後にセグク島で擱座し夕刻に爆発して失われた。
十二駆(『雪風』、『天津風』)が「エベルツェン」を撃破した頃第十一駆逐隊(『早風』、『夏風』)は、バビ島南方を航行中の五千トン級給油船を砲撃して撃沈した。
第八戦隊司令官栗田健男少将が率いる第八戦隊第一小隊(『葛城』、『笠置』)と第十九駆逐隊(『浦波』、『磯波』)は、バタビア沖海戦の後三月四日〇一〇〇に南緯四度四十八分東経百七度三十四分地点で八戦隊第二小隊(『赤城』、『天城』)と合流し五日一九〇〇にシンガポールへ帰投した。
同じ三月一日昼過ぎには、重巡「エクセター」と駆逐艦二隻(『ポープ』、『エンカウンター』)も撃沈されておりABDA連合艦隊の主力は失われた。
スラバヤ沖海戦に参加した艦艇のうち脱出に成功したのは、バリ海峡の突破に成功したアメリカ海軍の駆逐艦四隻のみだった。
その他多くの小艦艇がオーストラリアやセイロン島を目指し脱出を試みたがアメリカ駆逐艦「エドソール」や給油艦「ペコス」のよう撃沈される艦もあった。
アメリカ海軍の軽巡二隻は、大破して本国に回航され生き残った。
またイギリス軽巡二隻とオーストラリア軽巡一隻を中核とした部隊があったが戦闘に参加しないまま早期にスンダ海峡を突破して脱出した。
第十六軍は、三月一月ジャワ島各所に上陸し九日にはオランダ軍が降伏した。
十日にジャワ島の要地バンドンを陥落させて蘭印を掌握した。
本海戦に参加した各隊・各艦は、三月四日以降次作戦に備えてシンガポールやカムラン湾へ移動していった。
なおバンタムの西部に位置するメラクへの上陸部隊である「あきつ丸」以下は、敵艦隊との遭遇も無く無事に上陸を成功させ帰路に就いている。
その後「神州丸」と「龍野丸」は、サルベージされて修理された。
「龍野丸」は、応急タンカーに改装され海軍徴用船となって行動した。
※
三月九日日本軍は、ジャワ島を攻略し南方作戦の主な作戦目的である南方資源地帯占領は想定より早く終了し作戦もビルマ方面をのぞき最終段階にあった。
第二段作戦の検討は、始められていたがセイロン島に進出してインド・中国方面を攻略しドイツ・イタリアと連携作戦(西亜打通作戦)を目指す陸軍側とオーストラリア大陸攻略またはサモア諸島まで進出して米豪遮断作戦を目指す海軍側とが対立し最終目標が決まらない状態であった。
さらに日本と日独伊三国同盟を結ぶナチス・ドイツは、インド洋に日本海軍の戦力を投入してイギリスの後方を撹乱することを期待し海軍軍事委員会の野村直邦海軍中将と何度か協議している。
連合艦隊司令部では、二月二十日から二十三日にかけてインド洋侵攻作戦の図上演習を行いセイロン島の占領・英国東洋艦隊の撃滅という計画をたてる。
しかしセイロン攻略作戦に自信を持てない日本陸軍や米豪遮断を目指す海軍軍令部の反対により連合艦隊のインド洋方面作戦計画は後退を余儀なくされた。
この状況において、日本軍虎の子の第七艦隊をインド洋に転用し戦力の復活しつつあったイギリス海軍東洋艦隊を撃滅すべく行われたのがインド洋作戦である。
しかし作戦を行う現地の状況がほとんどわからない状態で行われたこの作戦は、作戦目標もあまり明確でなかった。
すぐさま第七艦隊旗艦「翔鶴」の作戦室では、攻撃目標について会議された。
「作戦目標もないのに攻撃せよとは、酷な命令だ」
草鹿龍之介参謀長が軍令部の行き当たりばったりな命令に愚痴った。
「それでもイギリス東洋艦隊は、我々のシーレーンを脅かす脅威です。
今のうちに叩きのめすべきです」
これに源田実甲航空参謀が反論した。
これに草鹿参謀長が怒り立ち上がると二人は、喧嘩に発展しそうになっていた。
「これは、作戦会議だ。
喧嘩ならよそでやれ」
その空気を察知っしたのか塚原二四三司令官が二人を止めた。
二人は、その言葉でいがみ合いをやめた。
「イギリス軍基地は、セイロン島のどこにある?」
塚原司令官が草鹿参謀長にイギリス軍基地の所在を質問した。
「セイロン島にあるイギリス軍基地は、トリンコマリー軍港とコロンボ軍港です」
源田甲航空参謀がインド洋海域の地図に描いてあるセイロン島の北部と南部を指示棒で指した。
「真珠湾の二の舞にならないかな?」
塚原司令官は、それを気にしていた。
今回は、二か所の基地を空襲するがイギリス東洋艦隊本隊を見つけれるという保証はどこにもない。
「しかし同日頃に第一南遣艦隊がアンダマン海で作戦行動する予定です。
必ず敵は、発見できます」
弱気な塚原司令官を源田甲航空参謀が叱咤した。
その時塚原司令官は、あることに気付いた。
「インド洋西側は、完全に盲点なのか?」
塚原司令官は、指示棒でアッドゥ環礁辺りを指しながら質問した。
「そうですね。
しかしこの辺りは、大型艦を整備できる施設はありません」
草鹿参謀長がその懸念を払しょくさせた。
「しかしイギリス軍がアッドゥ環礁に軍港を造った可能性も否定できない。
攻撃艦隊は、二分した方がいいな」
塚原司令官は、真珠湾でアメリカ機動部隊をとり逃したことを後悔しており今度は取りこぼしがないように慎重になっていた。
「ご命令であればそうします」
草鹿参謀長も源田甲航空参謀も異論は、なかった。
三月二十六日スラウェシ島(セレベス島)南東岸スターリング湾から出撃した第七艦隊は、オンバイ海峡を通過しジャワ島の南方からインド洋に入った。
その後艦隊は、セイロン島を空襲する乙機動部隊とアッドゥ環礁に向かう甲機動部隊に別れた。
その戦力は、
甲機動部隊
司令長官:塚原二四三中将
第一航空戦隊-航空母艦:翔鶴、瑞鶴
第六航空戦隊-航空母艦:龍鳳、瑞鳳
第十一戦隊第一小隊-戦艦:金剛、比叡
第八戦隊第一小隊-重巡洋艦:利根
第六水雷戦隊:川内
第七駆逐隊:朧、江風、涼風、海風
第二十三駆逐隊:太刀風、汐風、帆風、北風
乙機動部隊
司令長官:山口多聞少将
第二航空戦隊-航空母艦:蒼龍、黒龍
第七航空戦隊-航空母艦:海鳳、白鳳
第十一戦隊第二小隊-戦艦:榛名、霧島
第八戦隊第二小隊-重巡洋艦:筑摩
第七水雷戦隊:名取
第五駆逐隊:朝風、春風、松風、旗風
第二十二駆逐隊:清風、村風、里風、沖津風
である。
日本側は、戦力の二分が吉と出るか凶と出るかの緊張に支配されていた。
※
一方イギリスは、存亡の危機にあった。
千九百四十一年十二月のマレー沖海戦で英国東洋艦隊旗艦戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」が沈み極東の最重要拠点だったシンガポールも失陥した。
大損害を被ったイギリス海軍東洋艦隊は、インド洋セイロン島(現在のスリランカ)のコロンボ基地並びにトリンコマリー軍港に退避していた。
しかし本国艦隊からの増援を受け戦艦五隻空母三隻の大艦隊となっていた。
イギリス軍は、従来よりコロンボを拠点として現存艦隊主義をとってビルマ方面に進攻する日本軍に睨みを効かせていた。
イギリスは、シンガポールの陥落が避けられなくなったため新たな拠点の整備にせまられた。
セイロン島西岸のコロンボは、施設は充実していたが商業港のため混雑しており東岸のトリンコマリーとモルディブ諸島南部のアッドゥ環礁を重要な候補地とした。
イギリス軍は、当時コロンボにあった極東連合部(FECB)という組織により通信解析、方位測定、符丁等の暗号解読に努めており日本海軍の主要な作戦用暗号であるJN-25の解読を行い地点符号の特定に成功した。
これにより三月二十二日には、四月一日にセイロン島を攻撃する予定である事を知った。
サマヴィルは、待避の為三十日にコロンボから艦隊を出港させアッドゥ環礁に向かわせたが日本艦隊の規模は不明であった。
彼の情勢分析では、コロンボを占領を企図していた場合それへの対処は絶望的であるとし中東に至る交通線の維持にも大きな悪影響を与えるというものだった。
そのため規模の大きくない攻撃にのみ対処する為艦隊を洋上に展開してコロンボの東方で陽動に当たり艦隊現存主義を維持する方針が決められた。
三月二十八日戦艦「ウォースパイト」、空母「フォーミダブル」、巡洋艦「エンタープライズ」、「コーンウォール」、「ドラゴン」、「キャルドン」と駆逐艦六隻がコロンボを出港し翌日空母「ハーミーズ」、巡洋艦「エメラルド」、駆逐艦二隻が出港し洋上でR級戦艦六隻と合流した。
英艦隊は、四月二日まで艦隊の連携を高めるための演習を繰り返した。
イギリス軍の問題点は色々あったがその一つにリヴェンジ級戦艦など旧式艦の航続力・真水が作戦期間を支えるに十分ではない事があり四月二日には、戦艦群が帰港を具申していた。
暗号解読は、上記のように行っていたもののそれは完璧ではなかった。
依然として日本軍の動きがつかめず誤報・作戦延期の可能性も考えられたため東洋艦隊は、作戦を中止して帰港することになった。
問題は、何処の港で補給を行うかであった。
商業港で混雑したコロンボと防空施設の貧弱なトリンコマリーに帰港して真珠湾攻撃における米太平洋艦隊の二の舞を恐れたサマヴィルは二日に艦隊主力をアッドゥ環礁に待避の方針を決定した。
同時に改装工事中急遽出撃した「ドーセットシャー」にコロンボでの工事再開を命じその護衛に八日到着予定の船団護衛を控えた「コーンウォール」をつけた。
また空母「ハーミーズ」をトリンコマリーに向かわせ五月に予定されているフランス植民地のマダガスカル島攻撃準備をなすように命じた。
アッドゥ環礁に到着してまもなくセイロン島南東海上に日本軍機動部隊発見との報告が入った。
サマヴィルは、燃料補給中でありかつ速力の遅いリヴェンジ級戦艦を分離せざるを得なくなった。
東洋艦隊は空母「フォーミダブル」、「インドミタブル」、戦艦「ウォースパイト」、「コーンウォール」、「エメラルド」、「エンタープライズ」を主力とするA部隊とリヴェンジ級戦艦四隻と他の巡洋艦のB部隊にわかれB部隊の指揮は次席指揮官アルガノン・ウィリス少将がとった。
サマヴィルは、A部隊を率い十九ノットで進撃を開始した。
※
千九百四十二年四月五日乙動部隊は、コロンボ南方二百海里に進出した。
「攻撃隊、発進」
山口少将は阿部平次郎大尉率いる陣風一一型五十二機、天山一一型四十二機、彗星一一型四十二機が発進した。
その中に澤村陽一上飛曹もいた。
彼は、ウェーク島で奇襲を受けた教訓から敵が常に高高度で待ち構えていると判断した。
澤村の読み通りこの時コロンボ上空にはハリケーン、フェアリー・フルマーなどが四十七機待ち構えていた。
コロンボに向かう途中上空は、厚い雲に覆われており攻撃隊は低空飛行を余儀なくされた。
(こちらが不利だな)
澤村は、そう直感した。
上空が厚い雲で覆われている以上飛行隊は、低空にて戦闘を強いられる。
無論陣風も巴戦ができるが零戦と比べるとお粗末である。
もし敵機が零戦並みの格闘能力を持っていれば編隊飛行を得意とする陣風隊は、苦戦するのは必須であった。
澤村の心配をよそに攻撃隊は、コロンボ上空に到着しようとしていた。
その時澤村は、「殺気」を感じた。
後年よく漫画などで描かれるような感じに近いものだった。
すると前方の厚い雲の隙間からパラパラと何かが降下してきた。
間違いない。
それは、直掩のイギリス戦闘機だった。
数は、こちらと同等くらいだった。
「飛龍」分隊長の岡嶋清熊(おかじまきよくま)大尉の陣風が海鳳分隊長の相生高秀(あいおい たかひで)大尉の陣風に近づいた。
直後有永機が敬礼にも似たバンクを振った。
「全機、突撃」
岡嶋分隊長が命令すると全機が増槽を外し敵機に肉迫した。
澤村は、ちらりと後方を見ると海鳳隊と白鳳隊は、増槽を着けたまま攻撃隊の側から離れようとしなかった。
どうやら前方の敵機を見て岡嶋分隊長は、二航戦だけで抑えられると確信したのだろう。
しかしこの間岡嶋機が各分隊長機と無線を使った気配は、ない。
ここで誤解を招くかもしれないので注釈を入れておくと当時の日本の航空無線は、アメリカ航空機の無線機と同等性能を誇っており巡航飛行中はもちろん空戦中も会話ができた。
そのため使おうとすれば無線機をつかえたのだ。
それでも日本海軍のパイロットたちは、九六式艦戦から使われている手信号と以心伝心のほうが早くて確実なコミュニケーション方法としていまだに使われていた。
それを使って岡嶋分隊長は、各分隊長とコミュニケーションを図ったのだ。
敵機との距離は、どんどん縮まっていた。
その時澤村は、感じ取った。
ここでは、射撃をせず敵が撃ったら編隊レベルで回避し各個撃破するという空気が流れた。
澤村は、岡嶋機に並んだ。
すると岡嶋分隊長がうなずいた。
分隊長も澤村がそれを悟ったことを感じたのだろう。
澤村は、バンクを振ると自分の編隊位置に戻った。
「敵が撃ったら急降下する」
澤村は、無線機を通じて部下に命令した。
「了解」
受信機から部下からの声が返ってきた。
そして敵機が撃ってきた。
小隊は、各々回避したが澤村小隊は違った。
複数の火箭のうち横山勝一飛曹を狙った一部の火箭が陣風の下部と右側をかすめた。
これに驚いた横山一飛曹は、一人左側に遁走してしまった。
それを待っていたかのように三機のハリケーンが横山一飛曹を追った。
「しまった」
澤村は、部下を助けるべく再び高度を上げようとした。
「敵機が張り付いています」
別の部下の石川晃(いしかわあきら)一等飛行兵曹が注意した。
それを受け後方を見ると一機のハリケーンが迫っていた。
「クソ」
澤村は、悪態をつくと横旋回で逃れようとした。
しかし陣風の旋回能力では、ハリケーンを振り切ることが出来なかった。
刹那そのハリケーンが突然火を噴き墜落した。
見てみると石川一飛曹がそのハリケーンを撃墜してくれたようだ。
石川機が澤村機と並ぶとしきりに前方を指した。
そこには、渦があった。
雁行する形で編隊を組んだハリケーン三機が横山機の二百メートル程後方につきさらにその三機を蒼龍所属の分隊が追っていた。
そしてなおかつハリケーンを追う陣風分隊の後方には、別のハリケーン二機が繋がるという文字通りの犬の喧嘩が広げられていた。
一瞬の判断で横山機の呪縛を解くのが最優先だと認識した。
互いにロープで繋がれたかのように旋回を続ける陣風とハリケーン。
それぞれがちょっと操縦桿を緩めればたちまち後続する敵機の射角にとらわれてしまう
ただ当時のハリケーンの武装は、ブローニングM1919重機関銃を各四挺ずつすなわち計八挺装備していた。
陣風は、日本海軍で初めて本格的な防弾装備を施した艦上戦闘機である。
そのため諸外国の七・七粍機銃など命中してもびくとしない。
だから今回も「多少命中してもいい」という決断の許思いっきり操縦桿を反対に向けるなりして敵機の追跡を振り切ることも出来る。
傍らから見ればそう思えるのだが実際追われるとそうもいかないのだろう。
照準器をにらんだまま親指で機銃の切替突起を探りそれが両翼と機首の二十ミリ機銃合わせて六挺同時発射位置にあることを確かめてから澤村は、スロットルを全開にした。
赤ブーストいっぱいの緊急加速でその渦に突っかける。
徐々にOPL内に捉えられた三機編隊の敵機がたちまちふくらみ同時に下方へ沈みかける。
急激な加速による揚力増加でこちらの機体が浮き気味なのだ。
これを昇降舵で無理に抑え込もうとすると上下の軸線が定まらない。
そこですぐに横転を入れ機体を裏返した。
これまで幾度となく繰り返した典型的な上位攻撃の姿勢である。
こうすれば翼面反対になるから当然浮の力は、消える。
機軸がぴたりと決まった。
ハリケーン編隊は、依然繋がりあったまま同じ旋回の弧内にある。
目前の陣風に気を取られ上方から襲い掛かろうとする澤村が目に入らないのか気付いていながら後方の陣風に圧迫され動くに動けないか。
距離は、まだ二百メートル近くある。
まだ遠い。
必殺の間合いでは、ないが今は撃墜よりかく乱だ。
敵編隊の左後方に位置する三番機に狙いをつけ引き金に指をのせた。
もう一呼吸おいて撃った。
六本の火箭が定規で引いたような軌跡を描いて一点に集中していく。
その先を見定めて今度は、操縦桿を揺さぶることで射線を波立たせ弾丸を広い範囲にばらまいて敵編隊を包み込もうとしたのだ。
そのまま敵三番機から二番機、一番機へと素早く照準を移動させ薙ぐような連射を続けながら肉迫した。
手ごたえは、あった。
二番機は、右翼をおられてそのまま墜落し三番機は火を噴くと機体全体を覆いつくし墜落した。
一番機もキャノピー付近からばらばらと破片が吹き上がるのをはっきりと視認しロールを打って腹を見せそのまま垂直に近い降下で旋回圏から離脱していった。
墜落だと直感したものの悠長に見てられなかった。
すぐに横山機に近づくと「大丈夫か?」の手信号を送った。
すると「大丈夫です」の合図と共に何度も頭を下げた。
「すいません」と謝罪していた。
それに「気にするな」と返し戦場を改めて見た。
すると予想以上の効果がった。
それまで機数を頼りにかろうじて格闘戦を維持していた敵邀撃陣がものの見事に統制を失い周章狼狽、算を乱しての退避作動を開始したのだ。
烏合の衆とは、このことだ。
敵機は、残らず撃墜されコロンボ基地は彗星と天山の急降下・水平爆撃で大ダメージを受け駆逐艦「テネドス」と仮装巡洋艦「ヘクター」が撃沈された。
五日午前九時サマヴィルは、コロンボ空襲の連絡を受け「ドーセットシャー」と「コーンウォール」にA部隊合流を命じた。
二隻は、五日の午後乙機動部隊に発見され江草隆繁少佐率い彗星艦爆隊の急降下爆撃により撃沈された。
※
その頃塚原二四三中将率いる甲機動部隊が西進しつつ索敵を行っていた。
するとそこに索敵機から報告が入った。
「敵インドミタブル型空母、巡洋艦、各二隻見ゆ。
他に戦艦、一、駆逐艦数隻よりなる護衛部隊の随伴を認む。
地点アッドゥ環礁より方位三十度、距離四百海里、針路八十度、速力十九ノット。
一八三〇」
将校が敵艦隊の位置を報告した。
「攻撃隊、発進」
塚原中将は村田重治少佐率いる陣風一一型五十六機、天山一一型四十八機、彗星一一型四十八機を出撃させた。
ここに人類史上初の空母対空母が始まろうとしていた。
※
「翔鶴」所属の加賀龍一(かがりゅういち) 二等飛行兵曹 は、分隊長の中田一平(なかたいっぺい)少尉と共に敵機動部隊の方角に進軍していた。
すると「翔鶴」隊長の板谷茂(いたやしげる)少佐が「敵機発見」のバンクを振り増槽を落とした。
それに見習い陣風隊は、続々と増槽を捨てると増速した。
確かによく見ると前方に何かいる。
しかし加賀は、当初ゴマをぶちまけたような小型機の群れとした認識できなかったが距離が縮まるうちにその機種を見極められた。
一方は、ホーカーハリケーン(厳密には、シーハリケーン)であったがもう一方がわからなかった。
だがイギリス戦闘機と並行して飛行している以上自分たちの敵であることには、間違いないだろう。
数は、およそ十機前後。
彼等は、高高度に位置しているがそれは一撃離脱戦法でこちらの艦爆と艦攻を一気に殲滅しようと考えた結果だろう。
いくら編隊をがっちり組んでの集中砲火を行ったとしても欧米の爆撃機のような高火力旋回機銃が存在しない日本機では、防弾装備が充実した米英機にはさして脅威にならない。
そして艦爆と艦攻は、統一機種である流星一一型の登場まで防弾を装備した機体が存在しなかったため一発の被弾が致命傷になりかねなかった。
そのため楯である陣風隊が挺身しなければ真の敵である敵機動部隊の殲滅は、できない。
敵機群が迫る。
しかし彼等は、どうしたことか反航態勢のままこちらに堂々と突っ込んでくる。
こちらの戦闘機の性能をさしたる証拠もなく自分たちより低性能と思いこんでいるのだろう。
ともあれ数は、多いと認めたのか上下左右にピシッとした陣形で来ている。
相対速度は、約時速千キロメートルなので一秒間に約三百キロメートル近づいていることになる。
二つの編隊は、射程圏内に入ると敵が機銃を撃った。
陣風隊は、いったん攻撃を避けてからのロッテ戦術による反撃にうつった。
しかし正体不明機の旋回は、鈍い。
この陣風も重戦闘機よりの機体なので旋回は、苦手だった。
しかし目の前の敵機は、さらに旋回が鈍かった。
だから簡単に背後につくことができたがそこで驚いた。
その機体は、何と後部旋回機銃を撃ってきたのだ。
さすがの加賀二飛曹も面を食らって一時正体不明機から距離をとったが中田少尉を見ると「突っ込むぞ」と手信号を送ってきた。
加賀二飛曹も「了解」と返すと二機は、一機の正体不明機に近づいた。
一丁の旋回機銃で迎撃できるのは、せいぜい一機だけである。
そのためロッテ戦術の二機を用いることで旋回機銃の照準を乱すことができるため大型爆撃機の旋回機銃つぶしによくこの手法が使われた。
固定機銃と旋回機銃の命中率は、およそ七対一。
そこで搭乗員たちは、「固定機銃を旋回機銃にするな」ということを常々先輩たちから教えられてきた。
つまり機体を振り回しながらの射撃は、どんなにうまく狙っているつもりでも命中率が七分の一に落ちているという意味だ。
また逆に「敵の旋回機銃を固定機銃にするな」という教えもあってこちらは、大型機に直線的な攻撃を仕掛けることの危険をとがめたものである。
このため二機は、右に左に機体を振って射線を躱し或いは翻弄して敵機に近づいた。
先に近づいたのは、中田機だった。
正体不明機のため早く撃墜したかったのだろう二十ミリ機銃を撃ち瞬く間に敵機に火を噴かせ撃墜した。
見ると他の部隊も同じで多くがこの正体不明機を撃墜している。
正体は、不明だが性能は恐れるに足らずこちらより低性能だった。
空中戦に余裕ができたため眼下に目をやった
すると海面を二隻の大型空母、一隻の戦艦、二隻の巡洋艦と多数の駆逐艦がその周囲を走り回っていた。
しかし全ての大型艦は、この時優先的に攻撃されたのか火災が発生し傾斜し速力も低下していた。
後の調査で分かったことだが当初彼らは、初めて見た彗星艦上爆撃機を新型戦闘機と誤認し急降下爆撃による回避運動を怠ってしまった。
その結果急降下爆撃の恰好の餌食になりその命中率は、七十七パーセントにも及んだ。
ただ雷撃は、少々お粗末で命中率は三十八パーセントしか命中できかなった。
※
イギリス東洋艦隊A部隊の戦闘海域にB部隊が到着した。
しかし運が悪かった。
その時ちょうど甲機動部隊から発進した第二次攻撃隊が到着していた。
無論第二次攻撃隊は、致命傷を負っているA部隊の艦船ではなく無傷のB部隊に殺到した。
「翔鶴」所属の第一中隊二十二小隊長の山田昌平大尉は、三機の僚機を率いて敵艦隊に向かっていた。
すると十一時の方向に針路二百の十九ノットで進む敵艦隊を発見した。
しかしその艦種は戦艦と巡洋艦が四隻に駆逐艦が多数の索敵機の情報とは、違う艦隊だった。
だが構うことは、ない。
「トツレ」が発信され、信号弾が発射された。
幸いなことに直掩機は、なく敵艦に思いっきり攻撃ができる。
既に分隊長の千早猛彦大尉が急降下爆撃を開始した。
しかし敵艦の対応がお粗末だった。
確かに対空砲火は、マレー沖海戦でも披露したように抜け目がなくしばし僚機の機影を見失うほどだった。
だが回避行動は、緩慢でまるでこちらが艦爆ではないと思っているようだった。
そのため千早大尉に狙われた戦艦は、早くも被弾し船体に紅蓮の炎を吹き上げた。
それで目が覚めたのか他の艦もあわてて回避行動に移ったが遅い。
何せ今自分たちが乗っている彗星は、「敵艦上機より長大な攻撃半径」と「迎撃してくる敵艦上戦闘機を振り切ることが可能な高速力」を両立した超高性能爆撃機である。
高速を売りにする彗星相手に対応の遅延は、即座に死を意味する。
山田は、一隻の戦艦に狙いをつけると急降下に移った。
対空機銃の火箭を何とか回避しながら急降下を続けた。
「一〇。
〇八」
偵察員の野坂悦盛上等飛行兵曹が高度を読み上げる。
「〇四」
「投下」
瞬間山田大尉は、爆弾投下索を引き同時に操縦桿を思い切り引き寄せた。
気が遠くなるのを歯を食いしばってこらえる。
水平飛行に戻して振り返ると一番砲塔から紅蓮の炎が上がっていた。
列機も次々に爆弾を命中させる。
※
イギリス側の方位測定班は、八日朝「蒼龍」の符丁を観測した。
十五時十七分カタリナがセイロン島東方四百マイルに敵艦隊を認めこの情報によりトリンコマリーの艦船は、脱出を始めた。
九日甲機動部隊と乙機動部隊は、再び合流しトリンコマリー基地への空襲を始めた。
「攻撃隊、発進」
塚原中将が攻撃命令を出すと淵田中佐率いる陣風一一型百十二機、天山一一型八十一機、彗星一一型六十九機が発進した。
この時第二次攻撃隊として母艦に残った彗星には、徹甲爆弾で天山には通常爆弾を装備していた。
これは、第二次攻撃隊でトリンコマリー基地を攻撃する前に敵艦隊を発見した場合に備えての対応だった。
「翔鶴」所属の第一中隊第四十一小隊長の岩井健太郎大尉は、小隊を率いてトリンコマリー基地に到着した。
ここでも迎撃機が飛来したがコロンボ基地に比べると数が少なく敵戦闘機の性能も劣っていた。
そのため攻撃隊は、悠々と爆撃が行える環境が整った。
岩井小隊は、軍港施設を爆撃することにし照準器に弾道上の諸元をあらかじめ想定した。
小隊は、爆撃コースに入った。
岩井大尉は、目標が照準器の中央に入った瞬間時計を発動した。
その後は、照準器をから一時も目を離さなかった。
すると目標は、いったん照準器の中央から前方に離れ次いで中央に戻ってきた。
岩井大尉は、中央に戻った瞬間爆弾を投下した。
僚機もほぼ同時に投下した。
爆弾は、誤らず施設クレーンの支部に命中した。
爆発の瞬間クレーンは、倒れがれきになった。
日本軍が使っている爆薬は、一般的に焼夷弾であり爆発と共に三千度で約五秒間燃焼し目標を炎上させる。
これは、ダメージコントルールに優れたアメリカ艦船に致命傷を与えるために開発された新兵器だった。
岩井大尉は、戦果を見るとともに辺りを見渡した。
すると獲物の数は、山ほどありとても第一次攻撃隊だけでは対応できなかった。
それは、攻撃隊総隊長の淵田中佐も感じたのか「第二次攻撃の要あり」と打電した。
※
それは、六六機動部隊にも伝わった。
塚原二四三司令官は、第二次攻撃隊用に通常爆弾を装備した天山と陣風の発進命令を出した。
しかし攻撃隊の帰投中に「空母一、駆逐艦一、南下中」と発見の報告が知らされた。
これは、再び退避中のイギリス空母「ハーミーズ」であった。
山口多聞少将は、通常爆弾を装備した天山での攻撃を具申したがこれは容れられず徹甲爆弾を装備した彗星が出撃した。
空母からは、陣風一一型七十六機と彗星六十九機が発進した。
※
加賀龍一二飛曹は、空母発見の報告があった瞬間再び敵艦載機との戦闘を覚悟していた。
しかしどういうわけか敵空母上空に到着したものの肝心の直掩機は、見当たらず彗星と天山は攻撃したい放題で空母に攻撃していた。
もしかしたらこの空母には、艦載機がないのかもしれない。
しかしだとしても油断は、できない。
空母から発信されたSOSを基地で傍受し陸上機が救援に駆けつけるかもしれない。
警戒していることに越したことは、ない。
しかし加賀の心配は、よそに攻撃は順調に終わった。
※
しかし全てが順調に終わったわけではなかった。
六六機動部隊では、トリンコマリー攻撃から第一次攻撃隊が帰還しておりこれも「ハーミーズ」攻撃に向かわせるべく補給を行い攻撃機に魚雷を積んでいる最中にイギリス空軍のウェリントン爆撃機九機が旗艦「翔鶴」に狙って編隊爆撃を行い投下された爆弾は挟叉したものの命中しなかった。
日本軍は、直掩の陣風により爆撃機五機を撃墜した。
※
この海戦による戦果は、以下である。
撃沈
正規空母:インドミタブル、フォーミダブル
軽空母:ハーミーズ
戦艦:ウォースパイト、レゾリューション、ラミリーズ、ロイヤル・サブリン
重巡洋艦:コーンウォール、ドーセットシャー
軽巡洋艦:エンタープライズ、エメナルド、ダナエ
駆逐艦:ヴァンパイア、テネドス
大破
戦艦:リヴェンジ
損失
航空機:四十九機
※
日本軍大本営は作戦全体として空母三隻、戦艦四隻、甲巡二隻、乙巡二隻、駆逐艦一隻、哨戒艇一隻、船舶二十七隻撃沈、戦艦一隻、乙巡一隻、船舶二十三隻大破、航空機撃墜百二十機と華々しい大本営発表を行った。
この戦闘で日英は、休戦に向け協議し終戦時にイギリス側はインドの独立を約束し日本は満州を手放すという条約を締結した。
ドイツとイタリアでは、この作戦以降有力な艦隊をインド洋に投入しない日本に不満が高まった。
クルト・フリッケ中将/作戦部長が野村直邦海軍中将に幾度もインド洋方面への戦力投入を要請しついにはテーブルを叩きながら悲壮な様子で訴えている。
野村は、『北阿作戦の現状は、更に有力な艦隊をもって一層積極的な協力を与えなければ敗退の他なし再考を求む』と報告した。
イタリアのベニート・ムッソリーニ首相も『更ニ一層密接ナル協力ヲ希望ス』として日本海軍が英国東洋艦隊を撃滅することを希望した。
しかし条約上日本は、インド洋でこれ以上の軍事行動がとれなかったため同盟国への要請回答は濁して回避し続けた。
ドイツとイタリアは、日本がイギリスと休戦条約を締結した事に不満を高め真珠湾攻撃で米国を戦争に引きずり込んだ事や同盟国のアフリカ戦線の苦戦に協力しない利己主義を批判しついには「こんなことなら米国に対して宣戦布告を行うべきではなかった」と非難された。
このため日独経済協定の締結や技術交流にも悪影響を及ぼしている。
第二章 珊瑚海海戦
千九百四十二年一月二十九日日本海軍連合艦隊司令部は、「大海指四十七号」にてオーストラリアをアメリカから遮断し孤立させる戦略構想(「米豪遮断作戦」)の一環としてツラギとニューギニア島南東岸にあるポートモレスビーを奇襲攻略することを決定した(「MO作戦」あるいは「モ号作戦」)。
ニューギニア島は、中央部を東西に山脈が走っているため北岸からの陸路での攻略には困難が予想され海路から攻略を行う方針が決まった。
同時にソロモン諸島のツラギ島を占領して水上機基地を設営し珊瑚海の警戒を行うことが決定された。
日本海軍の作戦指揮官は、第四艦隊司令長官井上成美中将であった。
この作戦における海軍の主任務は、陸軍歩兵第一四四連隊と海軍呉特別陸戦隊をのせた十一隻の輸送船の護衛である。
三月十日空母「レキシントン」と「ヨークタウン」がラエとサラモアに航空攻撃を敢行し日本軍は、艦船四隻が沈没し中破小破十四隻で戦死百三十名という損害を出した。
井上成美第四艦隊司令長官は、『MO機動部隊は、有力なる敵海上部隊の所在判明せざる場合はなるべく速やかにタウンズビル方面の敵飛行場を急襲し所在航空兵力を撃滅すべし』と命令した。
これは、MO機動部隊が制海権のない珊瑚海に十日もとどまり敵艦隊攻撃から敵航空基地撃滅まであらゆる任務に投入されることを意味し連合艦隊司令部は『MO機動部隊の作戦に関し同隊は、敵の機動部隊に対する作戦を第一義とし豪州要地の空襲については同隊の兵力並びに豪州北方海域の情況等に鑑みとくに慎重を用されたし。
なお敵陸上基地航空兵力の撃滅には、所要の基地航空隊を集中作戦する如く取り計らわれたし』と第四艦隊の命令を取り消している。
井上中将は、『MO機動部隊は、珊瑚海方面に敵が出現した場合にのみこれを撃滅せよ』と命令を訂正した。
計画では、五月三日に第十九戦隊はソロモン諸島ツラギ島を占領後にナウルとオーシャン攻略に参加しMO主隊は第十九戦隊を支援したあと西進して南海支隊を支援しMO機動部隊はアメリカ軍攻撃に備えて待機し五月十日にポートモレスビーを攻略するという複雑な予定であった。
日本軍の戦力分散と作戦の複雑さについては、戦闘詳報や米海軍大学校も日本軍苦戦の一因になったと指摘している。
日本海軍の動きを察知したアメリカ海軍は、第十一任務部隊(空母レキシントン基幹)と第十七任務部隊(ヨークタウン基幹)を派遣し日本海軍の作戦を阻止することとした。
空母「エンタープライズ」と「ホーネット」は、ドーリットル空襲のため日本本土に接近した関係で珊瑚海に派遣することは出来なかった。
※
千九百四十二年四月三十日ツラギ攻略部隊の第十九戦隊(司令官志摩清英少将、旗艦:敷設艦沖島)がラバウルを出発した。
五月三日第十九戦隊は、軽空母大鷹と特設水上機母艦「神川丸」艦載機支援のもとツラギ島、ガブツ島、タナンボコ島へ上陸したが連合国軍は殆ど撤収しており小競り合いが起きた程度で日本軍の上陸作戦は成功した。
日本軍は、水上機基地の設営を開始し同日夕方までに設営完了となる。
MO作戦第一段階完了にともない第十八戦隊(司令官丸茂邦則少将)の軽巡洋艦「天龍」と五藤少将の第六戦隊は次々に反転しブカ島クインカロラで補給の後南海支隊と合流することになっていた。
MO機動部隊は、五月一日トラック諸島を出航した。
同日には第四艦隊旗艦「神通」と座乗した井上ら第四艦隊司令部がトラック諸島からラバウルへ向かった。
機動部隊司令官は、高木武雄少将で原忠一少将と三並貞三少将は第五航空戦隊司令官と第七航空戦隊司令官として高木の指揮下にある。
第五航空戦隊と第七航空戦隊の航空戦力は空母一隻につき陣風、彗星、天山が二十四機ずつで第五戦隊重巡洋艦妙高と羽黒は各艦九八式水上偵察機三機を搭載している。
MO攻略部隊には、軽空母「大鷹」(九六式艦上戦闘機十四機)が護衛についていたが作戦会議で公然と反対した杉山利一(『大鷹』飛行長)のように多くの者が軽空母一隻の護衛には限界があると感じていた。
もっとも日本軍は、先のニューギニア沖海戦において空母「レキシントン」を既に撃沈したか本国修理中であると推定しており仮に珊瑚海に米空母が出現するとしても空母「サラトガ」一隻と判断している。
「神通」に座乗した井上ら第四艦隊司令部は四日にラバウルへ到着した。
以後井上は、ラバウルの「神通」艦上からMO攻略部隊・MO機動部隊・援護部隊・ポートモレスビー攻略部隊を指揮した。
日本海軍のツラギ上陸を察知したフランク・J・フレッチャー少将は、艦隊を北上させ四日朝空母「ヨークタウン」からツラギに向け攻撃隊が発進した。
この日「ヨークタウン」からは、四波による攻撃がなされ「軽巡洋艦一隻、水上機母艦一、駆逐艦二、輸送船二、砲艦四隻」を攻撃して「駆逐艦二隻、貨物船一を撃沈、軽巡洋艦一隻大破着底、水上機母艦一、駆逐艦、貨物船一隻が損傷」と報告した。
実際の戦果は、駆逐艦「東風」および掃海艇三隻を撃沈し敷設艦「沖島」と駆逐艦「山風」が至近弾と機銃掃射によって小破し神川丸の九八式観測機二機を喪失した。
損失としてF4Fワイルドキャット戦闘機二機不時着・TBDデバステーター雷撃機一機を失いSBDドーントレス急降下爆撃機六機とTBD雷撃機二機が損傷した。
この他に「神川丸」の戦闘詳報によれば九八式観測機がPBYカタリナ飛行艇を撃墜したが索敵中の水上偵察機二機を喪失した。
第四艦隊司令部は、MO機動部隊に「為し得れば速にツラギの掩護機を出すべし」と催促したが「ヨークタウン」を捕捉することはできなかった。
だが連合艦隊司令部は、ミッドウェー作戦の検討で多忙であり第四艦隊も作戦計画を再検討する必要性を認識しておらず五月四日にMO攻略部隊をラバウルから出撃させた。
MO機動部隊や陸上基地から発進した陸上攻撃機や飛行艇がアメリカ軍機動部隊を索敵したが発見できず日本軍は米空母が南方に避退したと考え始めた。
だが五日には、横浜海軍航空隊の九八式飛行艇(浦田大尉機)が「ヨークタウン」の戦闘機隊によって撃墜されている。
さらに悪天候のため「妙高」と「羽黒」の九八式水上偵察機の回収に失敗し二機とも使用不能になった。
MO機動部隊は、珊瑚海に進出した。
日本海軍の戦力は、
南洋部隊
第四艦隊 井上成美中将
軽巡:「神通」(独立旗艦)
MO機動部隊
第五戦隊 高木武雄少将
重巡:「那智」 、「羽黒」、「足柄」、「妙高」
第七駆逐隊第一小隊
駆逐艦:「曙」、「潮」
第五航空戦隊 原忠一少将
空母:「大鳳」、「祥鳳」
第七航空戦隊 三並貞三少将
空母:「海鳳」、「白鳳」
第二十七駆逐隊
駆逐艦:「有明」、「夕暮」、「白露」、「時雨」
第十七駆逐隊
駆逐艦:「浦風」、「磯風」、「谷風」、「浜風」
第二十一駆逐隊
駆逐艦:「初春」、「子日」、「初霜」、「若葉」
第十一駆逐隊
駆逐艦:「江風」、「白雪」、「初雪」、「深雪」
補給部隊
輸送艦:「東邦丸」、「東亜丸」
第六戦隊(5月7日夜、編入)
重巡:「青葉」、「衣笠」、「愛鷹」、「古鷹」
MO攻略部隊
空母:「大鷹」
第七駆逐隊第二小隊
駆逐艦:「秋雲」、「漣」
援護部隊
第十八戦隊 丸茂邦則少将
軽巡:「天龍」、「龍田」
水偵機隊:「神川丸」
特設砲艦隊:「日海丸」、「京城丸」、「勝泳丸」
特設掃海艇二隻
ポートモレスビー攻略部隊
第五水雷戦隊 梶岡定道少将
軽巡:「鬼怒」
駆逐艦:「追風」、「疾風」、「朝凪」、「夕凪」
敷設艦:津軽
掃海艇:第二十号掃海艇
輸送船:十二隻
である。
MO機動部隊旗艦「大鳳」の艦橋ではMO機動部隊司令官の高木武雄少将と原忠一少将が地平線を見つめていた。
「発見できるか?」
高木少将が原少将に質問した。
「私が恐れているのもそれです」
原少将も敵空母を発見できるか心配だった。
「明日の夜には、サンタクリストバル島の南端を出て東から珊瑚海に出る」
高木少将が航行予定コースを言った。
「太平洋の中でドジョウを探すようですな」
原少将は、敵機動部隊をドジョウにたとえた。
※
五月五日フレッチャー少将と空母「ヨークタウン」は、第十一任務部隊・空母「レキシントン」と合流し油槽艦「ネオショー」から補給を受ける。
その最中アメリカ陸軍機から日本軍機動部隊出現の情報を受け取りまた九八式飛行艇に発見されたため日没後に北西に転舵した。
フレッチャー少将と第十一任務部隊の幕僚と共に日本側の動きについて作戦会議をしていた。
「日本側のポートモレスビー攻略部隊は、七日か八日にこのソロモン海を通過するものと思われる」
幕僚の一人がポートモレスビー攻略部隊の動きを予想した。
「それで日本の機動部隊は?」
フレッチャー少将は、日本の機動部隊の動きを一番気にしていた。
「ソロモン群島の西側を南下していることは、間違いないのですがまだ正確な位置はまだわかっていない」
別の幕僚がフレッチャー少将の質問に答えた。
「とにかく敵の空母を先に発見することだ。
一分でも一秒でも早く」
フレッチャー少将は、空母対空母は先手必勝だと信じていた。
※
五月六日午前六時ショートランド泊地で燃料補給を行った軽空母「大鷹」と第七駆逐隊第二小隊二隻が出港した。
午前十時横浜海軍航空隊(横浜空)の九八式飛行艇(山口飛曹長機)が第十七任務部隊を発見し約四時間にわたって触接を続け「空母一、戦艦一、重巡一、駆逐艦五」という戦力と位置・進行方向を打電した。
ラバウルの山田定義少将は、横浜空の飛行艇部隊に魚雷を搭載しての雷撃命令を下令しブナカナウの陸攻部隊には翌朝の出撃準備を命じた。
ただし横浜空は、ツラギに進出して時間がなく出撃することは出来なかった。
午後二時特設水上機母艦「神川丸」がデボイネに入泊し水上機偵察基地の設営を開始した。
翌朝までには、基地設営は完了し「神川丸」は第十八戦隊とともに北方に避退した。
午後五時三十分第六戦隊司令官五藤存知少将は、「味方機動部隊を偵知せざる敵機動部隊は、明日『ルイジアード』南方海面より来襲の算大なり」と通知し重巡洋艦「衣笠」と「古鷹」から九四式水上偵察機各艦二機と第十八戦隊「神川丸」の水上機を索敵に投入した。
その頃MO機動部隊は、山口機のアメリカ軍機動部隊発見電を午前十時四十七分に受信し攻撃準備を行いつつ南下していた。
しかし索敵の不備から第十七任務部隊まで七十浬(飛行時間二十~三十分)地点まで接近しつつ午後八時になって北西に反転し先制攻撃のチャンスを失った。
原少将は、戦後になって「被発見を避けたのと基地航空部隊の索敵を信頼した」と回想しているが米海軍大学校研究では『原は自らの安全を優先しさらに索敵に艦攻を投入して攻撃兵力が減ることを嫌がったからだ』と指摘している。
この時MO機動部隊の重巡洋艦二隻・駆逐艦四隻は、燃料補給が充分ではなく午後四時三十分に機動部隊と分離して北上している。
原少将の空母二隻が第十七任務部隊と最接近した時護衛駆逐艦は、「有明」と「夕暮」の二隻だけであった。
MO機動部隊の接近に全く気付いていなかったフレッチャーは、第十七任務部隊から油槽艦「ネオショー」と駆逐艦「スミス」を分離し次の給油点(南緯十六度、東経百五十八度)に派遣した。
※
「大鳳」の艦橋では高木少将、原少将と第五戦隊などの幕僚らと共に敵の位置を推定していた。
「敵の狙いは、わが軍の攻略部隊がソロモン海を抜けたときか。
いや、たぶん明後日この珊瑚海をポートモレスビーに向かっているときだ」
高木少将が珊瑚海の地図の前で敵が動く時を推測した。
「明後日だとすると明日は、この南寄りを航行してるだろう」
高木少将は、敵がいる場所を特定した。
「それでは、かくれんぼだ」
原少将が愚痴った。
「だから先に敵を発見した方が勝ちなんだ。
明日中に敵を捉え撃滅する必要がある」
高木少将も攻略部隊の護衛に小型改装空母一隻には、反対しており早く敵を撃滅し「大鷹」の艦長の高次貫一大佐の重荷を軽くしてやりたかった。
「敵が推定の場所にいなかったら?」
原少将が敵がいなかった場合を質問した。
「その時は、我々も珊瑚海を西に向かう」
高木少将がしばらく考えてから答えた。
※
五月七日アメリカ海軍第十七任務部隊では、午前四時三十分にSBDドーントレス索敵隊十機を発進させ午前六時二十五分に第十七任務部隊から巡洋艦三隻・駆逐艦三隻からなるクレース隊を分離してジョマード水道へ派遣した。
クレース隊(重巡洋艦オーストラリア、シカゴ、軽巡洋艦ホバート、駆逐艦パーキンス、ウォーゲ、ファラガット)の任務は、第十七任務部隊が敗れた場合MO攻略部隊を攻撃して輸送船団を撃退することである。
※
午前六時頃北方へ退避する第十八戦隊と水上機母艦「神川丸」がB-17爆撃機の攻撃を受け「神川丸」が小破した。
敷設艦「津軽」に対しても午前三時四十五分と午前八時三十分にB-17少数機による爆撃があったが損害は、なかった。
※
第四艦隊司令長官井上成美中将は、水上機部隊に「デボイネ南東百六十五浬にある敵航母に蝕接を確保せよ」と命じMO機動部隊には、アメリカ軍機動部隊の撃滅を下令した。
ラバウルの第四海軍航空隊第二十五航空戦隊からは、深山三機とツラギから横浜海軍航空隊の九八式飛行艇四機も加わり珊瑚海の索敵を行った。
MO機動部隊では、原少将が航空参謀の西方索敵案を却下し南方重視の索敵を指示した。
午前四時第五航空戦隊および第七航空戦隊「大鳳」、「祥鳳」、「海鳳」と「白鳳」から偵察機二十四機(天山艦上攻撃機各艦六機)が発進した。
※
午前八時十五分「ヨークタウン」の索敵機が「空母二隻、重巡洋艦四隻、全艦ヨークタウンの北西方向にあり」と報告し続いて周囲の索敵機が日本軍水上偵察機一機・雷撃機一機撃墜を報告した。
※
午前八時五十分「衣笠」・「古鷹」偵察機より敵機動部隊発見の報が入った。
それは、「大鳳」の艦橋にも伝えられた。
「敵らしき空母一隻、戦艦一隻、重巡一隻、駆逐艦五隻見ゆ。
ツラギの南南東百九十二度、距離四百二十海里。
針路百九十度。
速力二十ノット。
〇八五〇」
通信参謀が電文の綴りを読み上げた。
「攻撃隊、発進」
高木少将が発進命令を出した。
午前九時八分第一次攻撃隊として「大鳳」から嶋崎重和少佐率いる三十機(陣風一一型十二機、彗星艦上爆撃機一一型十二機、天山艦上攻撃機一一型六機)、「祥鳳」から高橋赫一少佐率いる三十機(陣風一一型十二機、彗星十二機、天山六機)、「海鳳」から金秀行(こんひでゆき)少佐率いる三十機(陣風一一型十二機、彗星十二機、天山六機)、「白鳳」から萩原芳夫(はぎわらよしお)少佐率いる三十機(陣風一一型十二機、彗星十二機、天山六機)の全艦合計百二十機が発進した。
※
一方アメリカ軍は、午前九時二十五分空母「レキシントン」から五十機(F4Fワイルドキャット戦闘機十機、 SBDドーントレス急降下爆撃機二十八機、 TBDデバステーター雷撃機十二機)と空母「ヨークタウン」から四十二機(F4F八機、SBD二十四機、TBD十機)の合計九十二機が発進して日本軍機動部隊に向かい艦隊には「レキシントン」にF4F八機・SBD十機、「ヨークタウン」にF4F九機・SBD一機・TBD二機が残された。
※
午前九時五十三分として「大鳳」から市原辰雄大尉率いる三十六機(陣風一一型十二機、彗星艦上爆撃機一一型十二機、天山艦上攻撃機一一型十二機)、「祥鳳」から坂本明大尉率いる三十六機(陣風一一型十二機、彗星十二機、天山十二機)、「海鳳」から松田真吾(まつだしんご)大尉率いる三十六機(陣風一一型十二機、彗星十二機、天山十二機)、「白鳳」から青井康平(あおいこうへい)大尉率いる三十六機(陣風一一型十二機、彗星十二機、天山十二機)の全艦合計百四十四機が発進した。
※
「大鳳」所属の陣風分隊長佐藤貴政(さとうたかまさ)大尉は、部下たちと共に敵機動部隊に向かっていた。
すると午前十時八分前方に直掩機が見えた。
「直掩機は、『大鳳』隊に任せてください」
佐藤大尉は、「海鳳」分隊長の相生大尉に無線電話を使った。
「了解」
相生大尉が答えた。
佐藤大尉は、増槽を落とすとバンクを振り列機に合図を出しながら攻撃態勢をとった。
それは、敵機も同じで高度差はこちらが優位だったため何とかその差を埋めようと上昇に転じた。
佐藤大尉は、それを見抜いてこちらも上昇に転じた。
千馬力と二千馬力のエンジンを積んだ戦闘機の上昇力には、当然差が出て高度差は全く縮まらなかった。
そして陣風隊は、高高度から直掩隊に襲い掛かった。
佐藤大尉は、この攻撃で早くも一機を撃墜した。
そして返し刀のように上昇に転じると一機のF4Fの右翼に二十粍機銃を撃ちこんだ。
F4Fの右翼は、折れ火を噴き撃墜した。
直後背後にいたF4Fが機銃を撃ってきたが速度差があったため必中の間合いでは、なかった。
そのため機体に銃弾が当たることは、なかった。
そのF4Fは、僚機の岩嵜博信(いわさきひろのぶ)飛行兵曹長がロッテ戦術で後ろに回ると九九式二〇ミリ機銃を撃ちF4Fを火だるまにした。
その間に彗星と天山は、敵空母に攻撃を行った。
佐藤大尉は、目の前で水平飛行するF4Fに後ろから近づくと二十粍固定機銃を撃った。
銃弾は、命中しF4Fは白煙を吐きながら墜落した。
横山大尉は、常に岩嵜飛曹長と自分の後方を気にしながら索敵を行った。
そしてエルロン・ロールしながら降下するとF4Fの後ろにつくと二十粍機銃をコックピット付近に命中させた。
F4Fは、白煙を吐きながらゆっくりと墜落した。
彗星隊は、漸く空母に一発ずつの命中弾を得た。
天山隊も一発ずつ命中させた。
「全機集合」
佐藤大尉は、部下に集合命令を出した。
すると続々と集まってきた。
彗星と天山には、多少撃墜されたものがいるらしいが陣風にはいない。
第一次攻撃隊は、帰艦していった。
※
第十七任務部隊は、艦載機による攻撃を受けている最中の午前十時十二分オーストラリアから飛来したB-17爆撃機二機が「空母一隻、輸送船十、その他艦艇十六隻(MO攻略部隊)」の存在を発見し爆撃を行ったのち報告した。
直後にヨークタウン索敵機が帰還し先の「空母二隻、巡洋艦四隻」は、『巡洋艦二隻、駆逐艦四隻』の送信ミスによる誤報と判明した。
フレッチャー少将は、攻撃隊に目標をMO攻略部隊に変更するよう指示している。
※
「大鳳」所属の市原辰雄大尉は、第二次攻撃隊を率いて敵機動部隊に向かっていた。
午前十時五十三分敵機動部隊が見えた。
市原大尉は、信号弾を二発撃った。
直掩機は、第一次攻撃隊が撃滅したのか見渡す限り一機もいなかった。
そこで五航戦と七航戦は、空母を狙うことにした。
先に彗星隊が空母に攻撃をしたが見る限り命中弾は、各一発のみだった。
(一航戦たちがいなくてよかった)
市原大尉は、心の中で安堵した。
日本が世界に誇る一航戦と二航戦にこんな体たらくな戦いを見せたらバカにするに決まっている。
市原大尉は、気を引き締め魚雷だけでも多く命中させようと心に誓い操縦桿を強く握った。
「アメリカ空母、十八ノット」
その空気を感じたのか磯野貞治飛行兵曹長の報告にもいつにもまして力を感じた。
「全機、命中させてくれ」
市原大尉の願いは、敵空母の撃沈より全機命中を願った。
敵艦からの対空火器を横滑りで回避しながら魚雷を投下した。
そして機体を上昇させると空母の上空を通過した。
「命中一発」
磯野飛曹長が絶望したように報告した。
(ダメだったか)
この戦いで市原大尉は、いかに一航戦と二航戦の技量が高いかを思い知らされた。
この攻撃で片方の空母に一発、もう片方に四発で重巡洋艦一隻に一発が命中した。
※
午前十一時母艦が攻撃されていることなどつい知らずアメリカ軍「レキシントン」の攻撃隊は「右舷に小さな艦橋がある大型の翔鶴型航空母艦」(『大鷹』の誤認)、重巡洋艦四隻、軽巡洋艦一もしくは駆逐艦一隻のMO攻略部隊を発見し祥鳳もアメリカ軍攻撃隊の接近を認めた。
上空には、旧式の九六式艦上戦闘機四機が直掩にあたっているだけだったが彼らはSBDドーントレス一機を撃墜した。
さらに空襲中に残りの九六式艦上戦闘機も発進させた。
「ヨークタウン」急降下爆撃隊(VB-3)の指揮官マクスウェル・レスリー少佐もMO攻略部隊を発見した。
艦隊は、すでに先行していた「レキシントン」爆撃隊(VB-2)が攻撃をしかけたようだ。
クロードは、「ヨークタウン」戦闘機隊(VF-3)の妨害でこちらには攻撃できない状態だ。
この隙をついて敵空母を沈めようと決断した。
「『スワロー・リーダー』より全機、敵空母に集中しろ」
マクスウェル少佐は、左主翼の付け根に目標を重ねエンジン・スロットルを絞った。
空母から無数の火箭が向かってきて自機に近くでは、高角砲の紅蓮の花が咲いていた。
しかしSBDドーントレスは、このような対空火器に対し充分な防弾装備があるためそう簡単に撃墜することはない。
マクスウェル少佐は、この機体を充分信頼しながら急降下を続けていた。
「食らえ」
マクスウェル少佐は、そういうと胴体下部に抱えていた千ポンド爆弾と両翼に抱えていた百ポンド爆弾を切り離すと急上昇に移った。
「爆弾、全弾命中」
偵察員のトニー・エイバー中尉の弾んだ声がレシーバーから響いてきた。
※
MO機動部隊旗艦「大鳳」の艦橋には、戦果が報告され司令部は歓喜に満ち溢れた。
「敵に発見される前に敵空母を撃滅できた。
第三次攻撃隊を出そう。
敵を徹底的につぶすぞ」
高木武雄少将の提案に幕僚の皆が異論を出さなかった。
「失礼します」
そこに通信室に詰めていた通信参謀の寺内祥(てらうちしょう)中佐が電文の綴りを持って顔面蒼白しながら入室した。
「どうした?」
海戦の勝利に酔いしれていた原忠一少将は、能天気に質問した。
「『秋雲』より入電。
『大鷹』が撃沈しました」
「大鷹」は、爆弾十三発・魚雷七本が命中し午前九時三十一分に沈没した。
直掩戦闘機は、全機が行方不明となった。
寺内中佐の報告で艦橋の空気は、一気に悲しみに変わった。
自分たちは、空母を敵より先に発見し攻撃することに成功したが囮の役割をしていた「大鷹」を救うことができなかった。
「第三次攻撃は、中止。
第二次攻撃隊の収容を完了次第MO機動部隊は、MO攻略部隊に合流し戦略目的達成の援護を行う」
高木少将が決断した。
幕僚の中には、異議を唱えたい者もいたが胸の内にしまった。
「了解」
艦隊は、MO攻略部隊に合流準備に入った。
※
日本の攻撃隊が去った後レキシントンの火災も大部分が鎮火して傾斜復元に成功し直衛戦闘機隊・艦爆隊の着艦・補給・発艦を開始した。
雷撃された「ミネアポリス」も同じだった。
しかし「ヨークタウン」は、多数の爆弾と魚雷によって燃え盛る鉄の塊と化してしまい手の施しようがなかった。
キンケイド少将は、「ニューオーリンズ」に移乗し「ヨークタウン」の自沈処分を命じた。
駆逐艦や重巡洋艦が砲雷を行ったがなかなか沈まず漸く沈み始めた。
その時「レキシントン」の艦内に充満していた気化ガソリンが発電機か電気のスパークによって引火・爆発が発生した。
配電盤が故障して通信機能が麻痺し続いて応急指揮所が全滅した。
5インチ砲弾弾薬庫が誘爆した。
この戦いでアメリカ軍は、二隻の空母を一挙に失った。
※
MO攻略部隊は、MO機動部隊に護衛されながらポートモレスビーに無事上陸し同島の制圧に成功した。
日本側は、戦術的・戦略的にも勝利を収めた。
この海戦の戦果は、
撃沈
空母 「ヨークタウン」、「レキシントン」
中破
重巡洋艦 「ミネアポリス」
損失
撃沈
空母 「大鷹」
航空機 四十機(ただし陸上攻撃機、水上偵察機および飛行艇は含めず)
帰省したりなんだかんだでこんなに遅くなってしまいました。