ドロップアウトしたい女の子が
自分のことについて話す物語。
※小説家になろう・Pixivとのマルチ投稿です。初回投稿日:2013/09/09
男は、眼前に聳え立つ高層マンションを仰ぎ見る。階数七、総戸数四十程の、いわゆるファミリータイプと呼ばれる集合住宅だ。然して高級ということもないが、準新築といえる物件で、時代の流れに乗ってバリアフリーを売りにしているようだ。
共同玄関はオートロックにより施錠されているが、裏手のフェンスは簡単に乗り越えることができ、監視カメラ等もないため、殆ど防犯の意味を成していない。
そんな無防備な敷地の中に、男は立っている。
滑り止めのゴムで覆われた手袋ごしに、壁に取り付けられた排水管の建て付けを確認する。そして、本来内側に水を通すだけのプラスチック製の筒に、男は手を掛け、足を掛け、地面から空へと吸い上げられるようにスルスルと壁を伝っていく。
三階にある目的の部屋のベランダまで辿り着くと、素早く柵の内側に潜り込み、ここでようやく一息つく。
既に表の電気メーターの動きは確認済みだし、家主の行動パターンについては念入りに調査してある。この部屋の住人は、老夫婦と中学生の孫娘と思われる三人のみ。火曜日の午前中、旦那は仕事へ、娘は学校へ、そして、奥方はカルチャーセンターに習い事に出ており、昼過ぎまで帰ってこない。
エントランス前で三人目にして本日最後の外出者たる奥方の姿を確認した後、用意を整え、男はこうして再びこのマンションに戻ってきたのだ。
戸締りが無用心なら手間もないのだが、と願ったが、生憎窓ガラスの錠はしっかりと回されていた。
本当は使いたくないのだがな、と溜息をつきながら、男は腰の鞄からガスバーナーと柄の長いドライバーを取り出す。
これら仕事道具を見ながら、男は自分の会社を思い出す。職と共に日常の全てを失い、再就職先も見つからないまま彷徨っていた自分に、温情の手を差し伸べてくれた社長には、語り尽くせぬほどの恩は感じている。罪悪感を麻痺させるくらいには。
研修と称して初めてこれを手渡された時は、まさかこのようなことに使うとは思ってもいなかった。難しいことは考えず、ただ、働きを以って組織に報いるために、言われた事をコツコツと身につけていっただけだった。
ガラスを火で炙り、強度が衰えてきたところでドライバーを当て、柄をゴッ、ゴッ、と叩くと、大した音もなく、透明の板は簡単に金属の杭を突き通す。
その先には安易なクレセント錠。こうなってしまうと、錠も押せば開く無防備なハンドルだ。カチャン、と小さな音を立てて上から下へと向きを変えた錠前は、その役目を終えた。
準新築らしく、錆ひとつないサッシは音もなく開き、男は足跡を残さぬよう無断で靴を脱いで室内へと上がりこむ。家の中には想定通り人の気配はなく静まり返っている。
奥方が普段どおりであれば、時間にはかなり余裕がある。今回は簡単な仕事になるだろう。しかし、万が一のリスクを思うと、気を緩めることは許されない。ノルマを満たせそうな納品物を揃えなくてはならないし、退去中にトラブルに遭うかもしれない。今の自分が如何に危険な状況にあるか、男は社会的によく理解している。
男はリビングを見回す。目立った貴金属が飾られている様子はない。引き戸を開いて隣の部屋へ。
ここにも表立って金銭的価値の高そうなものはない。ただ、カーテンレールに首に縄を巻き付けた女の子がぶら下がっているのみだ。人の命はどんなに尊くとも換金することはできない。
「……って、何やってんだ、お譲ちゃん!!」
ぶら下がる女の子の顔は重病人のように青白く、手足は細く痩せこけている。生きていると呼ぶには儚く、既に手遅れかもしれない。
それでも男は、さっき窓を破るために使ったガスバーナーを、女の子の頭の上に向け、点火する。彼女の首筋からカーテンレールに向かって伸びていた荒縄は簡単に焼き切れ、支えを失った女の子の身体は力なく畳へと転がった。
彼女の手首に親指を当て、脈を確認する。手応えはある。続いて胸に耳を当てる。心拍も呼吸音もある。安心して顔を上げたところで、女の子は目を覚ます。ケホケホと咽た自分の咳によって。
これは、咄嗟の行動だった。考えるより先に、身体が動いてしまった。故に、男が自らを窮地に追い込む墓穴を掘った事に気づいたのは、事態が飲み込めずに呆けた眼で部屋を見回している女の子の様子に安堵したところだった。
このコが薄らぼんやりしている今なら、一先ず人相くらいはごまかせるかもしれない。そう考えた男は、顔を覚えられぬよう女の子に背を向け、速やかに部屋から逃げ出すことにした。
「待って」
男は体力には自信はあった。とはいえ、さすがに女子中学生を腰にぶら下げて自由に身動きは取れない。女の子の声は弱々しく抑揚はないが、無理に剥がせば彼女の関節を折ってしまうのではないか、と思えるほどに強く男の身体を捉えている。
このまま強引に逃走しても、彼女に通報されておしまいだろう。男は自分の腹部を掴む女の子の手を、軽く掌で二度ほど叩く。逃げる意思がないことが少女にも伝わり、彼女は大人しく腕の力を緩める。
目撃者たる女の子と対面しながら、男は次善の策を模索する。窃盗には身を染めたが、人の命を奪うようなことはしたくなかった。それも、たった今、救ったばかりの命を。
最悪、誘拐しなくてはならないな、と、そんな恐ろしいことを平然と考えている自分に恐ろしくなる。今の会社はそこまで『面倒』を見てくれるだろうか。正直なところ、この組織の闇を、男は理解できていない。できていないが故に、その後の少女の行く末を本気で案ずる。
これからしなければならないことに我が身を振るわせる男に対して、女の子はこれから我が身に迫る絶望に恐怖している様子はない。かといって、怒っているようにも、悲しんでいるようにも見えない。確かにこちらを見据えてはいるが、そこから感情を読み取ることが出来ない。
「どうして……死なせてくれなかったんですか」
自殺を邪魔されたことを非難しているようだ。男も、これについて弁解するつもりはない。本人が本人の意思で命を断とうとしているところに横槍を入れたことは自覚しているので、延命させたことを感謝される筋合いはないことも理解している。とはいえ、そのまま死なせてやらなかった理由を考える気にもなれなかった。人として当然の行動のはずだからだ。
「その様子を見ると、いわゆる空き巣、というやつでしょうか」
少女は、男が自分の死に綱を切るのに使用したガスバーナーを指して、物怖じすることなく言い放つ。一度死を見た人間は、怖いもの知らずになるらしい。
「悪い人ですよね。改めて、私を殺してくれませんか?」
「断る」
器物破損を経た不法侵入の実行犯だ。“悪い人”と断じられてもしかたがないところはある。が、そう呼ばれることに未だ慣れておらず、男には甚だ不愉快だった。自分の意志でこのような稼業に手を染めているわけではなく、会社に命令されるがままに業務を遂行しているだけだ、と自分に言い聞かせることで、辛うじて良心を保っていたからだ。
いや、本当は全て解っている。金属加工業だと聞かされてはいたが、実際のところ、金属加工業とは程遠い組織だということも。それでも、これも建築のための研修の一環だ、と自分を誤魔化そうとしているのだ。
今の自分には、これしか生きる道がない。他に選択肢がない。ならば、この道をできうる限り拡大解釈し、正当化するしかないではないか!
そんな苦労も、都合も知らずに、こんな小娘から一方的に悪人呼ばわりされて、気分が良いはずがない。
男は、大人ながら、子供相手に苛立った口調で大人げない脅しをかける。
「俺をあまりナメない方がいい。こう見えて前科持ちなんだぜ」
かつて、カタギとして生活していた頃、学生時代の悪自慢をしていた上司たちを冷めた目つきで男は聞き流していた。自分でその時の自分の顔を見たことはなかったが、きっと今の少女のような表情をしているのだろう。
「それは凄いですね」
返し文句さえも同じだ。
「で、何をしてお捕まりになったのですか?」
「人殺し」
ほんの数年前まで、男は本当に、ごくごく一般的な企業に勤めていた。結婚して、一子も授かり、勤務先では苦々しい想いをしながらも、それなりに幸福に暮らしていた。日の当たる時間に堂々と出社し、同僚と上司や客先の愚痴を交えながら談笑し、得意先には頭を下げ、書類の山に目を通し、終電で灯りの消えた自宅に戻り、妻と娘の寝顔を見ながら呑気なものだ、と溜息をつきながらレンジで残り物を温める。思い出してみれば、今からは考えられない程の幸福な日常だ。
それが一転したのは、会社帰りにふらりと寄った飲み屋で、とある男と相席してからだ。
「もう、今の仕事は本当に辛いんです。やり甲斐も感じられません」
頬と目尻を赤くしたこの同席者は、普段男が同僚と笑い飛ばし、励まし合っていたような不平不満を、とても深刻そうに、さも自分こそが世界で一番不幸であるかのようにボソボソと喚くのであった。
「こんな仕事があと何十年も続くと思うと、生きる希望も湧きません。もう本当に、死んでしまいたいです」
気晴らしに飲みに来たのに、何でこんな不愉快な話を聞かされているんだ。男は心底胸糞が悪くなり、初対面にも関わらず、つい辛辣な言葉を吐いてしまった。
「じゃあ死ねよ」
えっ!? と目を丸くする同席者に、男は追い打ちをかける。
「死ねよ、今すぐ」
その程度で人が死ぬなら、世の中死体で溢れかえっている。甘えたことを吐かして死にたがるようなら勝手に死んでしまえ。酔いが回っていたこともあり、そんな冷徹なことを考えてしまった。
同席者のこめかみがピクピクと動く。その顔の紅潮はアルコールではなく、怒りからくるものだろう。男は、こんな甘ちゃんに負けるはずがない、と高を括った。酔っ払い同士の喧嘩なら、そこまで大事には扱われないだろう、という社会に対する甘えもあった。
殴りかかってくるようなら応戦してやろう、と席を立って構えたが、同席者はまるで、酔いから一気に覚めたように、顔色を赤から青へとさーっと変えた。
「……そんな風に言われたのは初めてです」
同席者は、本当に無表情に、まるで操り人形のように、男に告げた。
「しかし……ありがとうございます」
言葉上の感謝の意に反して、同席者は眉を吊り上げたままだ。
「自分の人生で、初めて命を掛けても良いと思えることに出会えました」
そう言って、同席者は腰を上げ、おぼつかない足取りで店を後にしていった。
いい機会なので、日頃の様々な鬱憤を、喧嘩にかこつけてあの同席者に叩きつけてやろうかと思っていたところだったのに拍子抜けしてしまった。が、あの人にも何やら光明が見えたようだし、何よりこれ以上不愉快な話を聞かされずに済むことに安堵し、男はそれ以上考えずに、終電まで独りで飲み明かしたのだった。
しかし、この後我が身に降りかかる災難を、この時男は知る由もなかったのである。
それから一週間ほど経った平日の昼休み明け、午前中に仕掛けた仕事を渋々再開しようとデスクに戻った時、男は上司から別室へと呼び出された。またどこぞの客がクレームを言いに押しかけてきたのかと思ったが、別室で待っていたのは、詰襟の警察だった。
二人の警官は、丁寧に身分証を提示した後、短く要件を突きつけた。
「貴方には殺人幇助の疑いがあります。任意同行をお願いできますでしょうか」
一時間足らず不快感を交わしたあの同席者が自分に甘い人間だということには気づいていた。しかし、彼はその甘えを人生唯一の糧にして生きていたことまでは気が付かなかった。
普段、キャバクラで嬢に甘え、慰めてもらい、それを支えに生きていた彼は、給料日前の財布の薄さから、大衆居酒屋に入ってしまった。そして、偶然男と同席した。
最初は、同性に甘えるつもりなどなかった。しかし、酒が入ってついいつもの癖が出てしまった。男に対して、うっかりキャバ嬢にするように寄りかかってしまったのだ。
そして、それは無慈悲に突っぱねられた。キャバ嬢ではないのだから当然だ。しかし、甘えて、慰めてもらうことしか知らなかった彼には、天と地がひっくり返るほど、それこそ、今までの人生を全て崩されるほどの衝撃を受けた。甘えに応じてもらえなかったことで、自分のプライドが粉微塵に粉砕された、そう感じたのだ。
ゆえに、男と同席した彼は、本当に自らの命を断った。しかし、ただでは死ななかった。
「酒場で同席したこの被害者から人生相談を受けて、その後もメールでやりとりして、もう死ぬしかないと追い詰め、毒物を送りつけた。そうだな?」
「濡れ衣だ! 彼とは居酒屋で少しの間同席しただけだし、メールアドレスなんて知りもしない!」
「嘘を吐くな!! 被害者の携帯に通信記録も残っているし、お前が送った毒物の伝票だって押さえてあるんだぞ!」
バンッ!と机を警官に、男は思わず身を竦ませる。
「何より、お前の家のゴミから毒物を購入した領収書が出てきたんだ! まさか、自分の罪を家族になすりつけるつもりか!?」
「そんなものが出てくるはずはない! 何かの間違いだ!」
そう、実際、間違いだった。
全ては、自殺した彼が周到に仕組んだものだったのだ。居酒屋で自尊心を傷つけたこの男を、命をかけて陥れるための。
「人が死んでるんだぞ! 申し訳ないと思わないのか!?」
「初犯だし、素直に認めれば執行猶予は付くかもしれんぞ?」
「本当のことを言わないと、お前の女房も逮捕することになるぞ!」
「家族もきっと帰りを待っている。早く正直に話して楽になれよ、な?」
「罪を認めない限り、何年でも、何十年でもここから出られないと思え!」
やってもいないことを認めるわけにはいかない。だが、何を話しても聞いてもらえず、検察が作成した調書にサインを迫られ、怒鳴られるばかりだ。
そんな折れそうな心にトドメを刺したのは、愛娘からの直筆の手紙だった。
『ごめんなさいして、はやくかえってきてください』
愛して止まない娘からも、罪を認めるように言われては、誰が自分の無実を信じてくれるものか。
男にはもう、自分を支えるものがなかった。立ち上がる理由もなかった。それ以上抵抗することなく、言われるがままに絵空事が事実である、と認めてしまった。
そして、裁判はつつがなく終了し、検察の言うとおり、有罪ではあったが、執行猶予は設けられた。
これでようやく日常に帰れる。心配を掛けてしまった家族や、仕事を休んでしまった会社に何と謝れば良いものか。
そんなことを考えながら自宅に帰ってきたが、待っていたのは離婚届だった。ごめんなさいして早く帰ってきて下さい、と記した娘も、父親を待ってなどいなかったのだ。
そして、会社にも彼の居場所はなかった。
「社則にもあるように、反社会的な者はこの会社には置けないのだよ」
「違うんです! 自分は何もしていないんです!」
「しかし、罪を認めて有罪判決を受けたのだろう?」
返す言葉もなく、男は愕然として膝を折った。そうだ。認めてしまったのだ。偽りの真実を。誰も殺していないのに、自分は人殺しになってしまったのだ。
そこからは、惨憺たるものだった。自分の知らないうちに実名で報道されていたようだが、間の悪いことに、最近大きな事件もなかったようで、ワイドショー等でも驚くほど大きく取り上げられてしまった。ネットを用いた陰湿な遠隔殺人鬼として。
「まさか、夫にあんな裏の顔があったなんて、本当に騙されました。この子は父のようにならないよう愛情を持って育てたいと思います」
顔にはモザイク、声にはノイズがかかっているが、元妻の証言に間違いないだろう。元夫のことを微塵も信じていない、台本がかった淡々とした回答だ。
悪事千里を走る。こうなっては、誰も止められない。
再就職しようにも履歴書を提出した時点で拒まれる。斡旋所からも就職ではなく職業訓練所を勧められる始末だ。
他にやることもないので訓練所で、職歴のない自分より一回り年配の方々と並んで今更感溢れるパソコン操作について復習ことになった。慣れない手つきでマウス片手に悪戦苦闘していたお爺さんを手伝ってあげたことが切っ掛けで、少し雑談をするような仲になった。ようやく日常に帰れた気がして、少し涙した。
「儂もアンタくらい若けりゃ、知り合いの会社に勤めるんだがねぇ……」
話を聞くところによると、溶接などを扱う金属加工業で、どんな人でも受け入れる器の大きい社長、とのことだ。
冷静に考えれば、とても胡散臭い。どんな人でも受け入れ、求人を必要としているということは、最近流行りの事情で人の出入りが激しい、ということなのだろう。
しかし、当時の自分は、藁にもすがる思いで、お爺さんを通じてこの社長に話をつけてもらった。一発採用だった。あとは……お察しのとおりだ。
こうして男は、この組織の外での居場所を失い、転げ落ちるようにこのような稼業に手を染めている。もう、まともな生き方はできないだろうな、と諦観せざるを得ない。
故に思う。こんな子供が何故自ら命を断たねばならぬのか、と。いかなる理由があろうとも、まだやり直せるはずだ。自分と違って。
だから、話した。自分の身の上を話せば、誰もが『自分の方がまだマシだ』と見下すであろうから。それが何らかの希望、生きる糧になってくれれば、ようやく建設的なことができた、といえよう。
しかし、男の話を一頻り聞き終えた少女の反応は、
「その話、見たことあります」
憐れんだり見下したりする素振りすら見せず、淡々と語る。
「ネットで、ですけど。いわれてみれば、テレビで流れていた顔とも似てますね」
男は恐怖した。検察によって偽りを真実とさせられただけでなく、ネットによって真実すらゴシップネタに貶められた。最早、我が身に降りかかった事故のような不幸は『ああ、あの話ね』と聞き流される程度のモノに成り果てたのだ。
「信じて……もらえないか? ネットで話題のネタを真似ているだけ……と?」
「私には、何が本当のことなのかよく分かりませんけど……」
少女は、自分の首から下げられた禍々しいネクタイの、焼き焦げた先端を手に取る。煤が彼女の白い指の先をを軽く汚す。切り離すことによって繋がれた現し世の証を眺めながら、少女は思ったことを口にする。
「少なくとも、おじさんは私を見殺しにすることはしませんでした」
だから、少女は世界から流れてくるノイズではなく、自分の目で見た事実だけで判断する。無表情な少女の目尻に、少しだけ笑みが差したように、男には見えた。
「おじさんは、殺人鬼ではありませんよ」
この言葉は、男の喉を詰まらせた。この嬉しさを言葉にすることはできない。ただ、子供の前で無様な泣きっ面を見せまいと、頬を強張らせるばかりだった。
ここに、この場にだけは真実がある。少しでも長くこの場に在りたかった。どんな形であっても、この少女の中には本当の自分がいるのだから。
感傷的になりながらも、男は冷静に判断する。室内に掛けられた丸時計の短針は、未だ頂点には届いていない。奥方が帰ってくるまで時間はまだまだある。
「で、何故君は自殺なんてバカな真似を?」
身の上の全てを話した男にとっては、振って然るべき話題として、然程深く考えずに少女に尋ねた。しかし、少女にとってはこれほど話しづらいことはなかった。男の身を案じる意味で。
とはいえ、自分の命を救ったこの男に対して、自分の秘密を伏せるのも悪い気がした。何より、話そうが話すまいが、未来は変わらないのだ。
「お話しても構いませんが、おじさんにとって辛いことになりますよ?」
男はこれを、警察が来て捕まる危険性を示唆していると捉えた。ゆえに、さして問題にしなかった。
「大丈夫だ、時間はある」
あまり時間はないのだけど、と少女は思う。が、心残りのないよう、全てを伝えておくことにした。
少女の自殺未遂は、今に始まったことではない。
最初は、クラスの輪から外れたことへの絶望だった。
仕切り屋のコが率いる女の子集団と遊ぶ約束を、直前になって反故にしなくてはならなくなってしまった。一週間前から決まっていたのに、その日の朝になって、親と出掛ける用事が入ってしまったのだ。
本当にごめんなさい、と彼女は真摯に謝った。しかし、子供ながらの我儘か、その従順さが加虐心に火をつけたのか、仕切り屋のコは少女を許すことなく、グループから除け者にして楽しむことにした。
『アイツは友達との約束を平気で破る信用ならないコだ』
事実の一部を切り取ったこの言葉に誰も反論はなく、少女にそれを覆すほどの人望もなかった。
小学生にとって学級は社会の全てといえる。
それまで仲良くしていた友達が、表では「今日は用事があるから遊べないんだ」と少女からの申し出を断りつつ、少女の知らない裏で仕切り屋を中心に集まって遊んでいたことに気づいた時、少女は世界の中でたった一人孤立したかのような恐怖を感じた。グループからはみ出して、生きていける自信がなかった。
散々悩んだ末、学校に行きたくない、と両親に相談した。娘想いの両親は、我が子の訴えを全面的に信じて、すぐさま教師に訴えた。
学校側もこの訴えに速やかに応じた。下手にいじめを否定して、拗らせることは得策ではない、との判断だった。
対外的にも対策を講じたことを明確にするため、臨時全校集会を開き、関係者を壇上に上げ、いじめたとされる子たちを全校生徒の前で被害者たる少女に謝罪させた。
この瞬間、子どもたちの間で被害者と加害者が逆転した。
仕切り屋のコは転校していき、その取り巻きは不登校となったため、少女は彼女らと二度と顔を合わせることはなかった。
残されたクラスメイトたちも、少女と口を利かなくなってしまった。嫌悪ではなく、畏怖の意味で。それまでは中立を保っていた生徒たちも少女と関わることを恐れ、以降、引きつった笑顔で距離を置くようになったのだ。
『口論になった相手を親や学校を巻き込んだ公開処刑の末、転校に追い込んだ』
子どもたちの間で慎ましやかに飛び交っていた噂は、卒業してクラスメイトが散り散りになると、当事者による口伝となり、真実味を帯びた。
両親は、こちらに非はないのだから、堂々と胸を張って登校するように娘を励ました。しかし、それは娘にとって何の解決にもならなかった。
もう誰にも相談できなかった。しかし、登校しないわけにもいかなかった。学校をサボっていることが親の耳に入れば、また自分の立場が追い詰められる。親も教師も、少女にとって悩みの種でしかなかった。
もう、どうにもならなかった。少女は、初めての自殺を決意する。
近所のマンションの最上階のフェンスをよじ登り、地上を臨む。気の遠くなるような距離に本能が恐れ、足も竦む。
ここで少女は、恐怖と絶望を天秤に掛ける。このまま生きて帰って、自分はどうなるのだろう? 今一度の勇気で全てから開放され、楽になれる……。
体重を前方に傾け、指の力を緩める。あっ! と身体に危機を感じた瞬間、少女は気を失った。
気づいた時には、病院のベッドだった。
どうやら、傍に生えていた街路樹が緩衝材となって、運良く、というべきか、運悪く、というべきか、少女は生き永らえてしまったのだ。
しかし、緩衝材は木々だけではなかったという噂を、近い将来、少女は耳にすることになる。
『先月、この交差点でトラックによる死亡事故がありました。
住民の皆さん、安全運転をお願いします。
警察署』
しかし、そのトラックは常識の範囲で安全運転を心がけていたという。だが、突如屋根の上に何か大きなものが落ちてきた衝撃に驚きハンドル操作を誤り、それが事故に繋がったのだとか。
運転手は死亡し、真実は闇の中に葬られた。しかし、少女の怪我の原因が、自殺ではなく、交通事故として扱われていたことが、彼女にとってただの噂話で済ませることができなくなった。
少女には、言えなかった。自分が身を投げたことで、人が一人亡くなったのかもしれないのだ。周囲の大人たちに言われるがまま『道を歩いていたらトラックがぶつかってきたのでしょう? そうでしょう?』という嘘に押し切られる形で、つい首を縦に振ってしまった。
この嘘は、少女の良心に重くのしかかる。もしかしたら、自分は人殺しなのかもしれない。他人を殺してまで生きている価値が、自分にはあるのだろうか。
少女は毎晩のように悪夢にうなされる。見ず知らずのトラックドライバーが鬼の形相で自分に悪意をぶちまけてくる。お前のせいでこうなった、お前も死ね、と。
不眠と、ストレスに、少女は気がおかしくなりそうだった。先のことなど考えられない。とにかく、今すぐ楽になりたかった。
その想いが、駅のホームに立つ少女を線路側へと引き寄せる。二度目ともなると、かつて程の恐怖は襲ってこない。
自分はこうなる運命だったのだろう、こうすべきなのだろう。
フワリと体側に風を受けた後、脇腹に太い鉄柱がのめり込む。
これでいい。これでいいんだ。
「危ない!」
すぐさま少女の身体は太い腕に担ぎ上げられ、砂利と鉄ではなく、コンクリートの上に寝かされる。そして、次の瞬間、目前まで迫った警笛音と、それすらも掻き消す程の悲鳴に駅のホームは包まれた。
今度ばかりは、少女自身も目視した。無事に済むはずのない血溜まりを。担架によって搬送されるのは自分一人。ああ、自分は今度こそ人を殺してしまったのだ。
しかし、またしても少女は罪に問われることはなかった。今度こそはっきりと言ったのに。『自分からホームに飛び込んで、助けに来た人を死なせてしまった』と。
それでも、周囲の大人たちは、少女が事故後の混乱と罪悪感から口走った妄言で、実際のところはフラついてバランスを崩したところを助けてもらった、ということで解決させた。そんな偽りだけが、真実として残された。
何故自分は死ねないのだろう。何故自分に関わると、皆不幸になっていくのだろう。
少女は、自分が怖くなった。これ以上誰かを死なせないためにも、自分はこれ以上生きていてはならない、と強く感じた。
それで、少女は自室に閉じ篭もり、火を放った。誰にも助けられぬよう、扉には鍵をかけ、窓は衣装棚で塞いだ。自ら灯油をかぶる勇気はなかったので、火に囲まれながら、部屋の真ん中で、膝を抱えて、ただ死を待っていた。
煙と炎が立ち込め、喉を通じて死が肺いっぱいに広がっていくのが自分でも分かった。目の前は明るく、暗く、身を焦がすような熱を全身に受けながら、意識が遠のいていくのが判った。今度こそ楽になれる。少女に恐怖はなかった。
次、目を覚ます時は、間違いなく地獄の底だろう。そう信じていたのに、ふと気づけば、少女の目の前には見覚えのある天井が広がっていた。この病院のお世話になるのは、もう三度目だ。また生き延びてしまったことで、少女の中にある種の諦観が芽生えつつあった。今まで死なせてしまった二人の怨念を背負いながら、自分は生き続けなければならないのかもしれない、と。
そして、今回の自殺未遂で、怨念がまた増えた。
少女が目を覚ますと看護師は、訊いてもいないのに少女の両親のことを話し始めた。二人とも軽症で、もうすぐ元気になるだろうから、そうしたら会えるだろう、と。
少女は、子供ながらに理解していた。この病院に来る度に、少女の身は嘘で固められる。案の定、少女が退院する段になると、両親の症状が芳しくないので、別の病院に移った、面会できるようになったらすぐに連絡する、と伝えられ、少女は母方の祖父母に引き取られた。
誰の口からも語られないが、少女には、現実で何が起きていたのか想像できた。おそらく、両親は燃え盛る火災の中、自分を助けようとして、命を落としたのだろう。そして、警察から何のお咎めもない、ということは、不始末か、外部からの放火の線でこの件は片付けられたに違いない。自分が火を付けた、と告白しても、大人たちは聞き入れてくれはすまい。
この時点で、さすがに悟った。どうやら、自分が死のうとすると、自分を生かそうとする人が代わりに命を落としてしまうらしい。
だからといって、それを理由に生きていくこと、死を諦めることもできなかった。見ず知らずの二人だけでも苦しいのに、さらに両親の死まで背負うことになってしまったのだから。
彼女の祖父母は、良い意味で少女を甘やかした。辛い事故の直後ということで、まるで腫れ物を看るように、求めるものは何でも与え、拒むことには一切触れなかった。
一方、少女も祖父母に何も望まなかった。誰にも迷惑をかけぬようただ静かに、生命を維持することだけに注力した。
彼女の死を纏った風貌は、転校先の同級生を怯えさせた。孤立する少女に担当教員も心を砕いた。が、孫娘からの『お願いですから、何もしないで下さい』という嘆願を聞き入れ、祖父母も、担任も、彼女を特別視することをしなかった。
こうして、少女は束の間の平穏を手に入れた。しかし、瞼を閉じれば、彼女が死なせた人々の恨み辛みが脳裏を突き刺す。
「……昨日は、久々に両親の夢を見ました」
夢の中で、両親は少女を罵倒する。あんなに愛情を注いできたのに、まさか自分で火を放つような馬鹿娘に育つとは、何と親不孝なことだろう。我々は天国にいるが、お前は死んでもこちらには来れない。独りで地獄に堕ちろ。死して地獄で侘び続けることが、今のお前にできる唯一の罪滅ぼしだ。今すぐ死ね、死ね、と。
さすがにたまらず、久々に悪い癖が出た。その日、昼間の家が留守になるのも間が悪かった。普段通り登校するフリをして、祖母が出掛けたのを見計らってこっそり帰宅し、己の首を吊るした。
「私は死んではいけない。それは解っているんです。でも、生きていくのも辛すぎます……」
彼女にとって、自分の生そのものが、恐怖の対象だった。自殺しなければ良いとは限らない。人は何が原因で死に至るか判らない。それこそ、小石に躓いたり、喉を詰まらせたりしただけで、他の誰かを死なせてしまうかもしれないのだ。自分が生き続ける限り、周囲に死を振り撒き続ける。それが怖かった。
震えながら涙を流す小さな女の子を、男は黙って抱き締める。
皮肉なものだ、と男は思う。自分は偽りの罪のために裏世界に叩き落とされ、少女は偽りの現実に固められて表世界で悶え苦しみ続けている。
死者は何も言わない。許しもしないし、憎みもしない。ゆえに、少女が自己の呪いから解き放たれるには、自分で自分を許すしかない。何より、社会から許されず、闇に隠れて生きることを強いられている男からすれば、偽りでも許され、そこで生きていくチャンスを与えられていること、彼女が内包する広大な未来と、それに至る可能性はあまりに眩く、失わせるにはあまりに心が傷んだ。
「よく聞くんだ、お嬢ちゃん」
男は力強く、少女のあまりに華奢で砕けそうな両肩を掴んで、少女の目をじっと見る。赤くなった瞳は血の色であり、未だ生きている証だ。
「キミの言うとおりなら、俺は死ぬ」
男が少女の自殺を止め、生き長らえさせてしまった以上、少女の話が真実であるならば、男の死は絶対だ。
避けられない近未来の死。少女にとって、この男は恐るべき不法侵入者である。だからといって、死ぬべきほどの罪ではない。交わった時間もごく僅かだが、それでも、自分のせいで誰かが死ぬことは少女にとっては自分が死ぬよりも辛く、血を吐きそうなほどに胸を痛めつける。
新たな死の予感に感情が甦り、怯えきった少女を、男は無責任な言葉で励ます。
「だが、俺は死なない。死ぬつもりはない」
「私の話、信じてくれないんですか!?」
にわかに信じられる話ではなかった。しかし、男は信じていた。自分の真実を信じてくれた少女の話を、自分が疑ってしまったら、一体彼女の真実を誰が信じるというのだろうか。我々の真実は、我々の中にだけある。男は、そう信じていた。
但し、信じるのは今までのことだけだ。
「キミの身に起きたことは信じている。が、それはもう終わったことだ」
確信も、根拠もない。だからこそ、新たな確信と根拠を、少女に見せたかった。
「今までお嬢ちゃんの身近で立て続けに死が続いたことは事実だ。しかし、それは偶然だ。お嬢ちゃんに何の非もありはしない」
「何を根拠にそんな酷いことを!」
それを証明する方法は、簡単だ。
「俺が、死ななければいい」
昨夜は悪夢にうなされて一睡もできず、隈を湛えた瞳を目一杯に見開く。
「無理です! 貴方は死ぬんです!」
中途半端な希望を見せようとするこの男に憤りつつも、その希望を渇望せずにはいられない。相反する二つの感情を同居させたまま、少女は大粒の涙を零す。
話は終わった。これより先は、行動を以て示すのみだ。男はこの場から立ち去るために少女の身体を解き放つ。
「これから……どうするんです?」
男の背中に問いかける少女に、男もまた、背を向けたまま答える。
「さぁ……どうしたものかな」
今の仕事に就いている限り、危険とは隣り合わせであることは自覚している。
男の曖昧な返事に、少女の心は少し軋む。
「絶対に、死んだら……ダメですからね」
「勿論だ」
こうして男は、再び少女と顔を合わせることなく彼女の家を後にした。
オートロックの自動扉を内側から開き、エントランスをくぐり抜けて空を見上げる。多少予定より長居になったが、太陽は未だ真南に到達していない。
さて、本当にどうしたものだろうか。事情を話しても、暇を貰えるような仕事ではない。社長に話しても無駄だろう。
だが……それとは別の理由が、男の足を会社と逆に向けさせる。
男も帰りたくなったのだ。陽の当たるこの世界に。彼女が自分の呪われた宿命と向き合い、光の中で前向きに生きようとするなら、その指針となる自分が下を向いていてどうする。
殺人教唆は濡れ衣だが、その後重ねた窃盗の罪は真実だ。
再犯の罪は軽くはない。それでも、今度こそやり直そう。どんな形でもいい。少なくとも、今この瞬間からは、堂々と胸を張れる生き様を送りたい。
そう決意して、交番への道へと歩み始める。自首しよう。最寄りの交番は小さなところで、警官が留守であることも多い。が、自社に戻るよりは安全だろう。
この曲がり角を過ぎれば目的地、というところで、男の意識は一瞬途切れる。全身に走る激痛で意識を取り戻した時、自分が車に撥ねられたことを理解した。
「おいテメェ! 事務所にも帰らねぇでどこに行く気だ!」
「社長から受けた恩を仇で返すつもりじゃねぇだろうな!?」
そうか。自分は監視されていたのか。男は自社に対する認識の甘さを悔やんだ。屈強な二人組の前に、自分に何ができるだろうか。このまま彼らに捕まれば、自分は確実に死ぬ。やはり、少女の死の宿命は正しかったのか……?
いや! 自分が変わらず、誰を変えられる? こんな簡単に諦めて何を変えられるというのだ!
「た……っ、助けてくれ! 誰か! 助けてくれ!!」
男は叫んだ。自らを捨て、迫害した社会に向かって。
「うるせぇよ! しばらく黙っとけ!」
鋭い爪先が、男の脇腹に突き刺さって声に詰まる。それでも、全ての力を振り絞って、男は叫び続ける。ただ、自分の生を願う少女のために。
「助けてくれ! お願いだ! 助けてくれ!」
あの少女を、悩み、悔やみ続ける彼女に、明るい未来を見せてやってくれ!
「クソッ! もう車に──」
無理やり男を詰め込もうとして、二人は動きを止めた。その原因たる耳鳴りとは違う警報が近づいてくるのを、混濁する男の頭の中にも響くのを確かに感じた。
「チッ! 誰かが通報しやがったな!?」
「にしても早すぎるだろ!」
男を囲んでいた会社からの使いは、抵抗する男を投げ捨て、慌てて退散する。ナンバーを偽装したこの車が見つかれば、いよいよ厄介なことになるからだ。
た……すか……った……。
男も男で、不審な工具を持つ不審者以外の何者でもない。が、命だけは助かったことに安堵した。
男を襲った二人組の運転する車両の走行音が聞こえなくなるのと入れ替わりで、警報音を交えた別の車両が到着する。警官は男を見つけると、すぐさま降車して駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか!? すぐに救急車も来ますので、もうしばらく頑張ってください!」
かつて自分に偽りの調書を突きつけて迫った連中と同じ制服が、今度は自分の身を案じている。立場が違えば対応も違う、か。不思議なものだ。
交番が近いとはいえ、あそこはパトカーなど常駐していない小さなところだ。つまり、この警官はそこからではなく、他所から来た、ということだ。それも、自分が助けを呼ぶのと同時に、こんなに手際よく。
朦朧とする意識の中で、これがあの少女自身が願う未来への希望だと信じたかった。男が殺人鬼ではないと信じ、罪を償うために交番に向かうと信じて、そこに救急車と、ついでにパトカーも手配してくれていた、と。
それを確かめるためにも、生きて再び少女と会わなくてはならないな。
先に到着したものとは異なる救命のためのサイレンがやってくるのを聞きながら、男の意識は白い靄の中へと吸い込まれていった。