「ふぅ……疲れたぁ……」
「お疲れ様です、一崎さん」
事務所の脇にある休憩室のソファにもたれかかっていると、事務室からメガネをかけた少女がコーヒー二つとファイルを持ってきてくれた。
もう一つは、更衣室でまだ着替えているであろう矢矧のものだ。
ほかの部署も追々夜勤の人と交代するために、続々と戻ってくるだろう。
「浜風、ありがとう」
熱々のコーヒーを受け取って一口飲み、ほぅっと一息。
「予約来た?」
そう尋ねると、浜風はこくりと頷いた。
「はい。ですが、予約がゴールデンウィークに集中しているのでここ数週間は暇になりそうですけど」
「それは仕方ないよ。というより、この時期に宿泊しに来てくれる方が珍しいだろうし」
客の入りが悪いこんな四月の中盤に開いたのはひとえに、海道大将の予定に合わせるためである。それなのに半分の部屋が埋まったのは驚きだった。艦娘が始める宿屋というのは世間の注目を集めたのだろう。
ちなみに、一番が大好きな白露は用事があって来ることができなかったらしい。代わりに、彼女から送られてきた一番大きな献花がエントランスに燦然と輝いていることだろう。
「そうですね」
「ほかの部署からは何か問題の報告は?」
「いくらかありますが、各々がうまく対応してくれたようです」
「それはよかった」
今すぐ自分が出なきゃいけない案件がでなくてよかった。後で確認しないといけないのは変わらないけど。
「ここに今話したことに関するリスト、置いておきますね」
そう言って浜風は、事務室へと戻っていった。
もう一度コーヒーをすすり、リストを手に取る。
開いてみると、そこには見知った名前がちらほらあった。
そのどれもが過去に大和と肩を並べた戦友たちの名前だ。彼女に教えたらきっと喜ぶだろう。
その姿を想像して、ふっと笑みを浮かべる。
「ふわぁ……」
かと思えば、大きなあくびが口から飛び出した。笑って気が緩んだのだろうか。
そういえば僕、寝不足だったっけ……。
今更ながらにそんなことを思いながら、再びファイルに目を通していく。
だが、眠気を意識したためか、全く内容が頭に入ってこなくなった。
目をこすってみても、コーヒーを飲んでも変わらない。
そんなことをしているうちに、僕の中の睡眠欲はどんどん大きくなる。
「ふわぁあぁ……」
もう一度あくびをしたら、もう限界。
気がつけば、僕の意識は眠気の海に沈んでいった。
●●●
――ねんねんころりよおころりよ。
――坊やはいいこじゃねんねしな。
――ねんねんころりよおころりよ。
子守歌は嫌いだ。
歌う彼女の顔が泣いているから。
戦艦として生まれて、洒落た歌の一つも知らないと口にしていた大和。
子守歌は、そんな彼女が知る数少ない鎮魂歌だった。
だから仲間が沈んだ夜は、桟橋の上に立って歌っていたのをよく覚えている。
その後ろ姿は悲しげで、どうにもできない自分が情けなくて、自分も涙を流す。
そんな日々が嫌だった。
あぁ、思い出しただけで今も涙が浮かんでくる。
と。
「ぁ……」
俺の目尻に浮かんだはずの涙を、誰かの柔らかい手がぬぐってくれた。
ゆっくりとまぶたを開く。
「起こしちゃった?」
そこには、優しい笑顔を浮かべる愛しいヒトがいた。
とたんにふわりと、覚えのある香りが鼻孔と心を満たしてゆく。
同時に、後頭部に柔らかい感触。
膝枕されていることに気づくのに、そう時間はかからなかった。
「さっきのは、大和が?」
まだはっきりとしない頭のまま、そう問いかける。
すると、大和はふっと柔らかい笑みを浮かべた。
「子守歌のこと? それならわたしよ」
「……もう平気なんだ」
胸に浮かんだのは嬉しさと一抹の悔しさだった。
自分と同じものが苦手だった自分の好きな人が、先にそれを克服してしまう。そこに悔しさを感じてしまうのはちっぽけな男の意地なんだろう。
「ええ。いつまでも逃げてばかりじゃいられないしね。それに……」
「それに?」
聞き返すと、大和は急にもじもじとしだした。
寝転がっているせいで、胸の前で組まれた手のせいで顔は見えない。
「わ、わたしたちにだって、ここ、こ、子どもができると思うし……」
……子どもに子守歌を歌ってあげられない母親になりたくないもの。
「……っ!」
尻すぼみになってゆく言葉。だが、僕にショックを与えるのには十分すぎた。
生暖かい沈黙が僕らを包む。
きっと僕の顔は、トマトよりも赤くなっていることだろう。大和の顔も十分赤いが、僕の方が赤いに違いない。って、何変な意地張ってるんだろ。
早くここから脱出したいけど、何を言えばいいかわからない。
それは大和も同じらしく、「ぁ……」とか「ぅ……」とか、さっきから言葉にならない言葉しか発してない。
よ、よし、ここは僕が仕切り直しを……
「「あ、あの」」
再び沈黙。視線が絡まり、さらに僕の顔の温度が上昇していく。心臓がどくどくと脈打ち、身体全体が規則的に振動しているような感覚が僕を襲う。
そして次第に、目は桜色のくちびるへと。そらすことなんて、できやしなかった。
「晴彦くん……」
「大和……」
少しずつ、少しずつ近づいていく互いの距離。
そうして、二つのくちびるが重なろうとした時――
「大和さん、一崎さん?」
「「っ!」」
聞こえてきた声に反応して、一気に距離を離す。
声の主は、いかにもおしゃれな私服に身を包んだ鳳翔さんだった。旅館の料理長を担当してくれている彼女の背中には、なぜだか修羅が顕現していた。
スゴイナー、ツヨソウダナー。
「ここは共有スペースです。他の子たちを待たせていますよ?」
言葉だけ聞けばただの注意だけだが、その端々にはたっぷりと怒気が含まれていた。
鳳翔さんの背後には、こちらを伺う従業員の姿が。
羞恥で頬が赤い人、今にも身を乗り出しそうな野次馬、何もわかってない純粋な瞳の雪風。うん、うちの職員は今日も個性豊かです。
「大和さん、一崎さん?」
「「す、すみませんでしたぁ!」」
旅館経営一日目の最後は、二人そろっての謝罪で幕を下ろしたのだった。
リアルが忙しいのとモチベーションの問題で、誠に勝手ながらこの作品は一旦ここで打ち切らせていただきます。
こんな稚拙をお気に入り登録してくださった七人の方々、本当にありがとうございました。
784UA、ありがとうございました。
では。