公民館の貸会議室。長机とパイプ椅子が並べられたそこに、人が集まり始めていた。ドアの前には、模造紙にマジックで書いただけの案内が張られている。経営研修会と書かれているが、中に集まっている人は普通のサラリーマンにしか見えなかった。
入り口で出席の確認をしていた男性が、中の人に合図を出す。そろそろ時間であった。男性の胸に付けてある小さなバッチは、特別行政府の職員である事を示している。司会者がマイクの調整をし、声を出す。
「お忙しい中お集まりいただき、ご苦労様です。早速ではございますが、活動報告からお願いします」
参加者が手元のレジュメに目を落とす。そこに書かれた順番に沿って、報告が行われるのだ。彼らは府内各企業の労働組合の職員であった。これは、それら組合の集まりである労働組合連合会の会合である。
もともとこの国の労働組合は形骸であり、東アジアによる直接統治が始まると、それらは中央政府の肝入りで一本化がなされ、単なる政府の一部局へと成り下がった。そんな中で、東アジアの中央政府に擦り寄ってのし上がる者もいれば、逆に本来の組合活動を模索する者も出始めた。
だが労働者の権利を擁護するための活動は、当然行政府から有形無形の圧力を受ける。その結果、労働組合活動は行政府への抵抗を主目的とし始めた。それが合法非合法を問わず、反東アジア活動家や日本独立派を引き寄せるのは当然の帰結である。当面の敵は同じなのだから。
労働者を死ぬまで働かせる事のみが経営であったこの国で、労働組合が形骸であったのはある種の矛盾である。だがその矛盾を招いたのは、当の労働組合が過激な反体制活動にのめりこんだという歴史があった。組合を追い詰める行政側も、追い詰められる組合側も、その歴史を全く学んではいない。
「ありがとうございました。では最後に、トウキョウ行政職員組合のハタナカさん」
「ご紹介にあがりましたハタナカです。勤務先は行政府の都市整備部です。まずは組合員の勧誘活動についてですが・・・」
法的には、こういった組合活動は合法である。しかしそういった活動を行う者には、昇進や給与の面で報復が行われるのは旧世紀から変わっておらず、活動内容を隠さなければ公民館すら借りられないのが実態なのだ。それでも、ここにいる者達は地道な活動を続けている。
表では、不当な解雇や昇進面の差別的運用などの訴訟を支援したり、ベースアップを始めとする賃金確保のための交渉を会社側と行ったりしている。そこまでは旧世紀の組合活動と同じだ。だがトウキョウ特別行政区という特殊な政治状況が生じている現在では、活動はそれに留まらない。
「旧世界への隅田川渡河による物資搬送実績は前年比で若干下回りました。しかしその分は荒川渡河によるもので埋め合わせています。また海外の慈善団体との提携で、より円滑な物資搬送も可能となっています」
彼らは、日本人特別居留区への物資供給や、日本軍工作員の受け入れ・逃走の幇助といった非合法活動まで行っていた。もちろん、当局に発覚すれば逮捕は免れない活動であるが、取締まる側の行政府内部にも組合があり、取締りスケジュールその他の情報も各組合が共有している。
しかし東アジア軍が直接動いているという情報があり、今後は活動を縮小し様子を見るべきだという意見が出るようになっている。会合ではその意見が採用され、非合法活動への関与を少なくする事が取り決められた。
また各組合に対して個別に接触を図っている団体がいるため、その団体との窓口を組合連合会に一本化する事も決まった。ハタナカが組合連合会の代表として、その団体のトップと面会する事となる。ヨコハマまでの旅費を組合連合会の経費として出す事も決められた。
久々に隊員総出の仕事であった。グレートバリアリーフ号にいるザフトの隊員は、全員が制服を取り出して準備をしている。目的はトウキョウで緊急特別ライブを行う事に決まったアイドルの受け入れだ。
船にザフトがいる事は秘密であるため、彼らは密かに船を離れ東アジア軍の識別圏外の海上まで移動、そこでカーペンタリアから回されてきた飛行機に乗り込んでナリタに降りる事になっていた。グレートバリアリーフ号が試乗会を開催するのに合わせて、彼らも動く事になっていた。キリルが制服に腕を通す。
「やべ、首周り太ったかも」
エリックの緊張感の無い言葉に、キリルは鋭い視線を向ける。前回のような楽な仕事ではないのだ。
東アジアの中央政府が直接統治するトウキョウ特別行政区。そこでプラントの歌手がライブを開くなど、並みの政治力ではないはずだ。プラントとの緊張緩和を模索する東アジア内部の勢力とコンタクトを取っているのだろうが、それはプラント外務省に匹敵するコネクションと交渉力を持っているということをも示している。
ハーモナイズコミュニティは、ただの民間団体では無いということであろう。プラント当局も十分に正体を掴みきれていないのは、その拠点が地球圏の各地に分散しているからであった。
「東アジアにも拠点を作ったのかもな・・・」
首周りを気にしながらエリックが言った。彼はサブカルチャーコミュニティが本来の形である以上、アキハバラのどこかにその拠点があると思っていた。だがジュンコ・ヤオイはそれを完全に否定している。彼女はイケブクロなど複数の候補地を絞っているようだが、いまだ確証のようなものは無いらしい。
エリック自身も、サブカルチャー関連の複数のサイトに接触してはいるのだが、コミュニティの主要メンバーとの接触は出来ないままであった。それなりに常連なったサイトもあるんだけどさ、などとぼやいているが、キリルが見る限り日がな一日パソコン相手に遊んでいるようにしか見えない。
キリルにとっては、そんないかがわしい集団がプラントを拠点に活動している事自体を信じたくない気分なのだ。融和と共存という理念自体、彼には疑わしく感じるものなのだが、それ以上に、そんな理念を掲げながら軽薄な歌しか歌えないアイドルを熱狂的に支持するだけなど、とてもコーディネーターとは思えない行動だった。
そんな集団がザフトを上回る政治力で東アジアと接触しているなど、もはや理解の範疇を超えるものであった。
「そうか? ラクス・クラインしかり、ミーア・キャンベルしかりさ」
エリックがキリルの憤りをいなすように言う。彼はもう一度エリックにきつい視線を送った。彼らは、そのどちらもよく知らない世代であり、当時の熱狂がどういったものかも、伝え聞く事しかない。
だが彼女らが、当時のプラント政府を超える政治力を有していたのは紛れも無い事実である。しかしキリルが、もしかしたらそれこそがプラントの実態なのではないかというエリックの意見に与する事は絶対にない。
コーディネーターの理念を忘れたかのような先人の愚かな行いこそが、長きに渡る地球圏の混乱を生み出したのだ。その愚かさを正し、コーディネーターの理念を実現するのが今の自分達の世代に課せられた使命であるはずだ。
連絡場所はタマユラ地区の出版社である。ルーイは週に一度ここに来て、本社からの連絡を受ける事になっていた。トウキョウの通信は全てが傍受されている可能性もある。タマユラ地区にはオーブから直接伸びている海底ケーブルがあり、ここなら通信内容が外部に漏れる可能性は無いのだ。
最近になって、行政府がトウキョウの警戒を強めているらしく、ヨシトがヨコハマの通信社からこちらに来る回数も減っていた。そのため、取材活動はルーイ一人で行う事が多くなっている。
一週間分のレポートを本社に送信すると、彼は出版社の建物を出て駅に向う。まっすぐホテルには戻らず、遠回りをして帰るつもりだった。足を向ける先は、あの孤児院である。
地下鉄で荒川、中川、江戸川を渡り、電車を乗り換える。再び江戸川と中川を渡ってようやく目的地に着く。トウキョウの路線も、よく使う線であればだいたい頭に入ってきていた。
「どうも、キリロフさん」
宅配業者の応対をしていた職員が、頭を下げる。スーツにエプロンという姿も、いい加減見慣れてきた。子供達が静かになっているので、多分歌の時間だろうと言ってくれた。ルーイは院庭に向わず、建屋の方に足を向ける。
遊戯室では、子供たちがピアノを囲んで歌を歌っていた。そして、その歌詞は日本語ではなかった。きっと聞いたままを覚えて声にしているのだろう。ピアノを弾くアメリがいつも歌っている歌なのだ。
「どの子も、歌の時間だけはおとなしくなるんです」
遠くからその様子を眺めていたルーイに、孤児院の院長がそう言った。児童教育については専門家では無いので良く分からないが、子供達の情操教育という面では効果があるのだろうと言う。精神的に不安定な子供も少なくないのだが、そういった子を落ち着かせるのにも効果があるようだ。
ルーイはその歌に耳を傾ける。子供達の声の中に、彼女の声を見つけ耳を澄ませる。そんな彼を見つけたのか、彼女は視線を合わせると微笑んだ。
「さぁ、お昼寝の時間ですよ」
歌が終わったタイミングを見計らって院長が言う。スーツにエプロンをつけた男達が毛布を配り、子供達は素直にそれに包まっていく。アメリがいない時は、寝かしつけるのも大変なのだそうだ。
子供達を起こさないようにそっとその場を離れるアメリが、丁寧な挨拶をする。ルーイは、彼女のその態度を好ましく思うのと同時に、もっとフランクに接して欲しいとも思う。
子供達が寝ている間、院長らスタッフには事務仕事があるがボランティアで来ているアメリは手が空く。気を利かせた院長は、二人にお茶を勧めてくれた。紅茶の香りが満ちる小さな応接室に、二人だけが残される。
まだ宵も口だが、人通りは少ない。飲食店の赤提灯が、歩道を寂しく照らしている。ゲートチェックが厳しくなった影響は、こういったところに如実に現れるのだ。ガラガラと入り口を開けると、店主の疲れたような顔が覗く。カウンターにテーブルが二つほどの小さなおでん屋。男が名前を告げると、女将が奥の座敷に通してくれた。
一見冴えない見た目だが、渋い趣味を持っているのが分かる気もする。シュウ・サクラは上着を丸めて座敷の隅に転がし、座敷で待っていた男を見た。運ばれてきたビールを手酌で飲み、相手が口を開くのを待つ。ジャーナリストとの接触など、彼も初めての体験だ。カズヤ・イシがシュウの箸先を見て言う。
「ご出身も、こちらですか」
「どうして?」
「いえ、ちくわぶを食べていらっしゃるので。私はどうもね・・・」
関西出身だと名乗ったカズヤが笑う。シュウも口の端を緩める。しばらくは二人でおでん談義に花を咲かせた。一本目のビールが空になり、熱燗と焼酎の湯割が運ばれてきた頃、ようやくカズヤが本題に入る。
タマユラ地区を中心に活動しているフリーランスのライターだというが、こうして都心に信頼の置ける飲食店を確保しているのだ、やり手の記者だろう。彼はタマユラ地区におけるオーブ関連の動きについて、捜査当局がどの程度を把握しているかを知りたがっているようだ。
オーブ政府が一歩も二歩も引いたスタンスであるのは知っているが、それが一枚岩でないのも事実だ。モルゲンレーテを始めとしてタマユラ地区に利権を持っている企業もあれば、オーブ国内に亡命日本人組織があったりもする。それらが何を画策しているか、シュウの知るところではなかった。
分離壁の下をくぐる地下トンネルを使って日本軍を支援する組織や、特別居留区へ物資を密輸しているグループが存在すると言う話は聞いている。だがオーブの租借地であるタマユラ地区の扱いは、大西洋の基地になっている三浦半島などと同じく東アジアの中央政府が管轄しているのだ。建前上は保安局に警察権があるのだが、実際には何も出来ていない。
「あそこは治外法権がありますから」
保安局の仕事はせいぜい、川を渡って不法に入区しようとする人間を取り締まるくらいだ。タマユラ地区の内部の情報なら、こちらが聞きたいと言っておいた。カズヤは肩をすくめるが、記者の勘と断りを入れてから言った。
「呼応してますよ・・・トウキョウの内部と。つないでいるのは、おそらくジャンク屋」
ただ、ジャンク屋も最近は色々と保険を掛け出しているようだとも言う。シュウは気になる話題を思い出した。最近、菱丘組のトップと善隣幇のトップが会談を行ったという話だ。
コウキ・ヨシオカがいきり立っていたため詳しい話まで聞けなかったが、どうやら彼の嫌う政治の話のようだった。
華僑系のマフィアも傘下に持つ善隣幇と菱丘組の関係はもともと良好ではなかった。ただ、特別行政区が発足し東アジア系企業が大挙して進出してくるようになると同時にやって来た東アジア系のマフィア組織が共通の敵であったため、深刻な対立には至っていなかっただけだ。
それこそ旧世紀からアングラの縄張りを争ってきた二つのマフィアがいきなりのトップ会談である。嫌な感じを受けざるを得ない。東アジア軍の特殊部隊がマフィアの事務所を襲撃していた事件といい、確かにトウキョウは動いている。タマユラ地区における策動もその一つであろう。
しかし、それらが共通の思惑を有していないであろう事も確実だ。それがどこにどのような形で収斂するのか。シュウは刑事の勘だと断って言った。
「戦争・・・ですね」
マフィアの抗争の事をそう呼んだりもする。だが彼は、本当に戦争が起こるのではないかと感じていた。
「途中で圏央道に流れるかもな・・・手前の鶴ヶ島で張るか」
「いいんですか、高速道の破壊はダメって言われてんでしょ」
「アッザムを使わなければいい」
拡大や縮小を繰り返しながら、地図が画面に映し出される。先日新潟に上陸した東アジア軍部隊の一陣が、イルマとヨコタに向けて移動を開始するとの情報が入ったのだ。ハニス・アマカシは、それを受けて襲撃計画を立てている。
今彼らがいる施設を貸している組織は、あくまでも東アジア軍に対する揺さぶりだけを求めているのだが、彼はそんな生易しい戦闘に飽きてきたところだ。せっかくの力を持ち腐れさせても意味は無い。エヴィデンスによる攻撃に、パオペイレンによる襲撃を組み合わせ、部隊を殲滅する計画だ。
パオペイレンの連中にしても、ちんけな爆破テロばかりでは不満もあろう。この間の東アジアの特殊部隊を全滅させた戦闘からかえって来た時は、本当に生き生きとした顔をしていたものだ。
「ミラコロの時間ギリギリまで使えば、ジャンクションの内側で待てるだろ」
関越道と圏央道が交差する地点が襲撃場所であった。航空写真を使いながら襲撃の時間や手順が決められていく。その計画の立案に積極的に関わるパオペイレンの姿は、もはや生体CPUなどと呼ばれていた強化兵士とは一線を画するものだ。その技術は、強化兵士の製造技術ではなく、兵士の強化施術というレベルにまで高められている。
技術責任者としてオブザーバー参加していたチン・ヤンチャンは、その場を離れた。自分が座っている必要はどこにも無い。
初めてコーディネーターを作った科学者は、ジョージ・グレンを見て何を思ったのだろう。自らの居場所が無くなった事を悟り、名前すら残さず歴史の闇に消えたのだろうか。それとも墓石の下で、自らの成果を今も誇っているのだろうか。自分のように所詮は人しか作れなかった人間と違い、彼らは間違いなく人間では無いものを作り出したのだから。
「博士、論文に目を通してもらえますか」
「私は物理畑ではない」
廊下の窓から特徴的なフェイスデザインのMSを眺めていたヤンチャンは、ミツネ・ササが差し出した紙の束をそう言ってつき返す。彼が研究しているのは、未だその現象が観測されるだけのものであり、理論は一から仮説を組んでいる状態だ。門外漢が首を突っ込めるレベルではなかった。
不満そうな彼にせめてもの微笑みを向けて、ヤンチャンはその場を立ち去る。自分にも彼のような時代があったのが嘘のように、全身がけだるい。
カフェテリアから流れてきたのは、いつもかかっているラクス・クラインの曲ではなかった。よくは分からないがチープな曲調と声、プラントで流行っている曲だとハニスが言っていたような気がする。不意に、どうして彼がそんな曲を知っているのだろうという疑問と、どのように彼が東アジア軍の動向を掴んだのだろうという疑問が繋がる。彼はこの曲を、とある音楽サイトから引っ張ってきたと言っていたのだ。
アングラと一括りに出来るほど、その世界は狭くない。マフィアにはマフィアの、テロリストにはテロリストの、スパイにはスパイの世界があって、その境目を越える事は容易な事ではないのだ。下手にそこを越えようとすれば、手痛いしっぺ返しを食うのが世の常だ。
マフィアの事務所を襲撃したのは東アジア軍の特殊部隊だが、それはユ・ケディンの頭越しに行われたものであった。彼の所属する諜報機関とは別ルートでマフィアの動向を察知して動いたのであろうが、あのような事態を招くとは予想外だったはずだ。
それ以上に痛手を受けたのはケディンの方である。彼はマフィアの一部と手を組んで、反東アジア活動の摘発を行おうと交渉していた。東アジア系のマフィアが持っているマーケットの割譲を条件とすれば、交渉自体は難しいものではないと考えていた。その努力を、特殊部隊による強攻策がふいにしたのだ。
「身から出た錆ってやつだよ、ミスター.ユ」
目の前の男がぞんざいな口調で言う。ブランド物のスーツに身を固めているが、趣味の悪さを隠しようの無い男だ。それでも、利に敏く目端が利き、相手の力量に対する本能的な嗅覚のような物を持っているその男は、容易に隙を見せない。コウキ・ヨシオカの暗い視線をいなすように、ケディンはメガネを拭いた。
トウキョウ最大のマフィア組織である菱丘組の中でも最大の勢力を持つ凌雲会の実質的なトップである彼が、ケディンの交渉相手であった。ビジネスとして話ができる最適の相手だと踏んだからだ。
実際、特殊部隊が動くまで交渉はスムーズに進んでいた。彼としてもメリットの多い話だったはずなのだ。コウキは足を組み替え、ソファに深く身を沈めた。メガネを掛け直したケディンに、条件の上積みを要求する。
「こっちは一方的な被害者だ」
特別居留区との資金のやり取りを行っていた地下銀行を管轄する組を潰され、凌雲会は大きな痛手を負っていた。特に薬物の流通量が減った事により、従来のマーケットを東アジア系マフィアに侵食されているのだ。
それに加え、いくつかの組が襲撃されたことに危機感を覚えた菱丘組は、ヨコハマを拠点とする華僑マフィアの善隣幇との提携に乗り出した。それもビジネスの面ではなく、反行政府活動の面で一致した行動を取る事が決定したのだ。
もともと菱丘組は本拠地である関西から進出するに当たって、トウキョウのマフィアを吸収合併しながら大きくなっていった。それも従来のマフィアとは一線を画していた民族系・右翼系の団体を積極的に併呑して規模を拡大していったのだ。そのため、菱丘組の内部における東アジアへの反発は、単に縄張り争いの相手というだけではないものを抱えていた。
これらが日本軍と連携すれば、軍の想像をはるかに超える事態となるだろう事は明白だ。それを阻止するためであれば、多少の条件上積みくらいは飲めるはずだとコウキは迫る。
「そういったイデオロギー集団を組から排除できれば、凌雲会の立場はより一層強まりますしね」
ケディンは核心だけを言った。この男にはトウキョウの明日も、東アジアの政治も無関係だ。ただ自分の利益を最大化することだけが目的のシンプルな相手なのだ。それでも、彼の言った事は間違いでは無い。
今までのようなテロリスト封じ込めを目指す方法で、この事態を乗り切る事は不可能だろう。下手をすれば、トウキョウそのものが敵に回る。そんな事態を、目の前の男が何とかできるはずも無かった。ケディンはため息だけを残して立ち上がる。
埠頭に浮かべば、その姿は摩天楼にも匹敵する巨体だ。だがこうして大海原に出てしまえば、豪華客船といえども木の葉のような頼りなさにしか見えない。グレートバリアリーフ号は、一泊二日の体験遊覧航海として外洋に出ている。キリル達は、日本へと戻っていくその姿を小型艇の上から眺めていた。
洋上で小型艇に乗り換えた彼らは、ここでカーペンタリアからの潜水空母と合流し次の任務に備える。青空の一角で白い煙が弾けた。信号弾が打ち上げられた方向に、小型艇が向っていく。
「困難な任務に良く耐えてくれた。今後とも、君達の活躍に期待したい」
潜水空母にはザフトの将官が直接乗り込んでおり、キリル達に激励の声を掛けてくれる。見えないように肩をすくめるエリックを睨み、キリルは次の任務の概要に耳を傾けた。
グレートバリアリーフ号に戻り従来任務を続ける班、カーペンタリアに向いアイドルの関係者としてトウキョウに乗り込む班、カーペンタリアに留まり情報の分析を行う班など、いくつかのグループに分けられる事となった。しかし、キリルとエリックはどの班にも属さず、別任務が与えられる。
別室に呼ばれた二人は、少し緊張した面持ちで話を待った。将官が示した資料は、幽霊MSの噂が書かれている。
「君達の調査報告書にも時折出てきた話だ。ローレンス少尉は目撃情報も収集していたな」
「はい。堀切で東アジア軍のMSと交戦したMSについて、いくつか話を聞きました」
キリルが足しげく通っていた南千住は謎のMSが出現した堀切にも近く、特別居留区に出入りしている人間も多いため、その手の噂はよく流れていたのだ。軍関係の者には緘口令が敷かれているようだが、それでも酔客の話として漏れ伝わる話は多かった。
二人には、このMSについての情報を収集するよう命じられた。その件に関しては、ザフトも複数の情報筋から話を集めているようだ。エリックが真剣な顔つきで、その理由を質問した。確かに情報としては集めたが、確定的な情報は少なく信憑性に欠ける物も少なくないと思わせる内容が多い。
音も無く空を飛び、ビームを捻じ曲げ、触れる事無くMSを破壊する。そんな都市伝説めいた話ばかりなのだ。ザフトが仮にも食いつく話だとは思えない。
「君らはメサイアを知らんからな・・・無理も無い」
将官はそう言って遠い目をした。そんな都市伝説めいた事が実際に戦場で起こっていた、彼はその現場を見ているのだ。
超人的な、そんな言葉が無意味に思えるような出来事が繰り広げられていた。だが、それが実際に起こっていた以上、そこにあるのはオカルトや超常現象の類ではなく、確固とした技術的な裏付けのある何かだったのだ。
実際にそれを目の当たりにした者のトラウマとして、その恩恵を受けた者のタブーとして、その何かは長らく存在自体をなかった事にされていた。それが不意にトウキョウに現れた。トラウマを払拭し、タブーを乗り越えるためにも、それが何なのかを調べてみる価値はある、そう判断されたのだ。
二人は日本自治区の地方空港から、陸路でトウキョウに戻る事となった。
開放感は空の青さまで変えるのだろうか。タマユラ地区ではそんな事さえ感じてしまう。ブレイク・ザ・ワールドによって被害を受けた旧江東区は、オーブの重点的な復興支援とともにタマユラ地区という租借地となった。そのため都市計画も、都心部の計画とは一線を画したものとなっている。
広がりようの無い狭い空間から押し出されるよう、上へ上へと無計画に伸びていく都心の摩天楼を尻目に、タマユラ地区は景観にも配慮した都市計画となっていた。見上げる空は、ビルとビルとに区切られた狭いものではなく、本来の広い青空である。
身分証を確認される事も無く、自由に歩きまわれる街。そんな普通の事に喜びを感じてしまうほどに、トウキョウは息苦しい街になっているのだ。
「確認終わりました。ナット一つ間違いなく、納品書通り」
アキバのジャンク屋はレベルが違うと笑いながら、男は受領書にサインをする。ジュンコ・ヤオイは、それを確認して請求書を手渡した。商品は、MSの操縦サポート用AIと各種付属部品。モルゲンレーテの純正ではないが、それに限りなく近いと言われているコピー品であった。
ビルの外に止めてある引越し会社のロゴが入ったトラックに、商品は積みかえられている。今朝、港に届いたものを納品に来たのだ。額が大きいので、彼女自ら動いていた。半金として用意されたトランクを開け、中の金塊を確認する。
この部品はこれから分離壁の地下に掘られたトンネルを通って、日本人特別居留区へと送られる。持って来たAIと同じ数のMSを日本軍は用意していると言う事だろう。目の前の金塊といい、たいした資金力である。
「よいパトロンをお持ちのようですね」
「いや、お宅と同じですよ」
皮肉のつもりで彼女は言ったのだが、相手は理解しなかったようである。だがその答えから、彼らに資金提供を行っているのが善隣幇だという事は分かった。ジャンク屋組合は、善隣幇から資金を得ているわけではないが、大型部品の輸送などはヨコハマに拠点を持つ善隣幇の協力なしには難しくなるだろう。
ジュンコを通してザフトと接触を図ろうとしていた事や、最近聞いたマフィアとの提携、善隣幇の動きは目に見えて活発になっていた。特別行政府や東アジア軍も動いているらしいが、そういったアングラの動きは十分に把握できていないようだ。
おそらくはタマユラ地区の企業や、日本軍や特別居留区への支援を行っている団体にも善隣幇は手を伸ばしているだろう。オーブ政府がタマユラ地区の維持に乗り気でない以上、タマユラ地区の確保を目指す連中は、善隣幇との提携に傾く。じわじわと、特別行政区への包囲網は完成に近づいているのかもしれない。
「いや、そうでもないみたいですよ」
紅茶のおかわりを勧めながら目の前の男が言った。作業着姿の似合う普通の中年だが、職業柄情報には精通しているようだ。
そもそも特別居留区とタマユラ地区の関係はビジネスライクなものが大半で、日本軍のシンパは限られた者だけだという。日本軍とタマユラ地区の企業では、その目指す方向が全く違うのだ。
それは、今トウキョウに関わる全ての組織にも言える事だが、どこも完全に同床異夢なのだ。それ故に、互いの組織が牽制しあって表面的には動きが無いように見える。善隣幇は、それを巧みに渡り歩いているだけであった。
しかし、だからこそ何かを仕掛けるのは間違いなく善隣幇のリ・ウェンであろうと言う。
「こっちはプロが来たせいで、色々と動きにくいんですよ」
タマユラ地区の警備保障会社の顧問にオーブの公安OBが来て以来、権限の範囲内であるが過激派の取締りなどが行われ、日本軍との取引もやりにくくなっていると言う。ジュンコは、息を継ぐように窓の外を見た。状況の変化は激しく、理解どころか把握すら難しいと感じる。
特別行政府や軍の情報だけでは、今のトウキョウの状況は捉えられないのだ。情報網の再構築などしている時間があるのかどうか、彼女は窓の外の動くものに目をとめた。
再開発工事を行っている更地で、小型のロボットが作業を行っていたのだ。MSの半分以下の大きさで、複数の手足を持つ不恰好な機械が、基礎のコンクリートを打設する準備をしていた。その見かけによらない器用な動きに感心する。シュバルベ工業が売り込みを掛けている汎用作業機械であった。作業しているのは、プロモーション用に特別価格でリースされたものである。
都心部に直接乗り入れる電車はゲート管理が厳しくなり、特段の事情を認められでもしない限り一般人では多摩川を越えられなくなっていた。もっとも、日本自治区とトウキョウ特別行政区を行き来する人はそれほど多くなかったので、不便になったとの声はあまり聞かれない。
だがそれほど多くなかった内に入っている者としては、不便な事この上なかった。ヨシト・モリは電車に揺られている。横須賀線から南武線へと乗り換え、稲田堤で京王相模原線に乗り換えて特別行政区に入るのだ。二子玉川どころか和泉多摩川ですら、ヨシトの身分証では通過できなくなっている。
「ゲートレベルの上がった日を追っていけば見えてくる物も・・・」
民家と畑が混在する車窓からの眺めにも飽きて、ヨシトはメモに視線を落とした。不便な思いをしながら特別行政区に入るのは、ルーイの取材に進展らしきものが見えないからだ。ヨシトのいる通信社に加盟する報道各社は、トウキョウの動向に神経を尖らせ、特別行政区内のフリージャーナリストや情報提供者との接触を密にしていた。
それらの話を総合すると、トウキョウにおける反東アジア運動の気運は、水面下で形になりつつあるようだ。利根川を越境するロケット弾攻撃も増加傾向にあり、日本軍も活発に動いている。
当然、東アジアの中央政府は何らかのリアクションを取っているはずだ。再構築戦争によって生み出された歪な国家のあり方が問い直されつつある現在、東アジアとしてどう動くのかは、国際的な影響をも与えるだろう。身分証確認ゲートと統制された情報によって制御された、管理都市トウキョウ。その綻びが、そこかしこに見えるのだ。
だからそこ、ジャーナリストとして見るべきもの聞くべきものは多いはずだ。トウキョウで外国人ジャーナリストが長期滞在できるなど、奇跡的な幸運である。ならば、その奇跡は十二分に活用すべきであろう。
ルーイ・キリロフは、一体何をしているのであろうか。
「それじゃ、気をつけて」
ルーイは大げさなほどに手を振った。そんな彼の様子に、アメリが恥ずかしそうに手を振り返す。彼は軽くステップを踏むように地下鉄へと足を向けた。今日は彼女にトウキョウ案内をしてもらったのだ。
かつては観光名所だったという上野は、今では静かな森のたたずまいを見せるだけであった。特別行政区の発足で観光客が激減した事と、道路を隔てた東側一帯が浅草を中心としたマフィアの縄張りである事が原因だと言う。それでも、博物館や美術館が立ち並ぶそこは、格好のデートスポットであった。
地下鉄の窓に自分の顔が映る。ルーイはその微笑に微笑み返した。自分でも不思議なくらいに浮かれている。どれもこれも、初めての事ではないというのに。
穏やかで控えめで暖かな、そんな彼女の一挙手一投足が彼を捉えて離さない。そんな自分の気持ちが、嬉しくてたまらない。どれもこれも、初めての事であった。
彼はにやける頬を直すように、火照った顔に手を当てた。
窓から見えるのは朝日が空を照らし始める様子。部屋の中はまだ暗く、ドアを開けた一瞬だけ、部屋に太陽の光が差し込む。重いドアが疲れた音を立てて閉じた。上着を脱ぎ捨てて、シャワーに向う。
何かが張り付いたように重い体を引きずってベッドまでたどり着いた。気力を振り絞るように髪だけは乾かしておく。二日酔い予防の薬を飲み、買い置きのパンを口に詰め込んで仮眠を取る。動き出した電車の音は、彼女がまどろみよりも深い場所に行く事を許さない。
内容の思い出せない夢が途切れ、目覚まし時計が鳴っていることに気付く。頭を持ち上げて顔を洗いに行った。冷水程度では一向にスッキリしない頭を押さえ、部屋着に着替える。仕事先で洗濯が出来る事はありがたいが、掃除はここしばらくまともにやっていなかった。乱雑な部屋と、芳香剤の切れた台所が、とても寂しく虚しい。
「次の日本語を聞いて、以下の設問に答えなさい」
スイッチを入れたプレーヤーから、リスニングの問題文が聞こえてくる。問題集とノートを開いて耳を澄ませた。試験の時期が迫っているのだ。一時間といえどもおろそかにはできない。
日常生活においては何らの支障も感じないほどに、この国の言葉には慣れた。だがそれと試験とはまったく別なのだ。スピーカーから流れてくる発音を、漢字で書き取っていく。無数の同音異義語を暗記し、文脈の中から最も適切なものを選択して書き取る。ここまでは出来るのだ。だが、格助詞との組合せのみの場合は、それを判断する事が至難の技となる。
国語だけでは無い。数学も理科も社会も、全ての問題文は日本語であり、辞書等の持ち込みは禁止とされていた。電子音声の言葉は、まるで聞いている者をバカにしているかのように、淡々と明るい声を続けていた。
鉛筆を動かしながら、これは徒労なのではないかと思う。この国についてから毎年のように受けている試験。なかなか合格出来ない事で弱気になっているのでは無く、本当に徒労なのではないかと思うのだ。
だが、この国に留まり続けるためには、避けることのできない物であり、自分の仕送りだけが祖国にいる家族の生活を支えているのだ。たとえ徒労であろうとも、それを続ける以外の選択肢は存在しない。後はもう何も考えず、自動筆記機のように鉛筆だけを動かし続ける。
窓の外が暗くなり、彼女は手を止めた。部屋の明かりを付けて、再びノートに向う。だが自分の手元はもう見えなくなっていた。零れる涙がノートを濡らさないように、ただ上を向いてそれに耐える。
次回は、明日投稿します。