カーテンの向こう側が少し明るくなっているのが分かる。視線だけをめぐらせると、時計はまだ起きるには早すぎる時間を指していた。今日のアポイントは午後からのものばかりであるので、早起きの必要も無い。
昨夜の愛の心地よいけだるさを味わいながら、腕の上で寝息を立てる柔らかなものを掻き抱く。妻の温もりと匂いの中でまどろむ事ができる、それだけで結婚のメリットの大半は占められてしまうだろう。彼女の形を確かめるように、その素肌をなぞっていく。足を絡み合わせ、そのまま眠りに沈む事にした。
『起きたら・・・もっぱつ・・・』
そんな淡い桃色の夢を無残に引き裂くように電話が鳴った。電話機ごと床に叩き付けたい衝動を抑え、腕を伸ばす。胸の上では、イヤイヤをするように妻が顔をこすり付けていた。
「もしもし・・・」
「おー、タルハ。元気にやってるか」
「社長・・・こっちの時間、分かってます?」
電話の主は、アジズ・ハミード。彼ら夫婦の勤めるシュバルベ工業の、創業者にして社長だ。電話口の不機嫌な声などお構いなしに、彼は話を続けた。大口の受注を取り付けたことに関する労いの言葉のようだ。
タルハは興奮気味のアジズの言葉に疑問を投げかける。確かに、こちらで営業活動も行っているが、受注などは今のところ受けていない。今回の長期出張はあくまでも、市場の調査と挨拶回りが主目的だ。一体どこからの受注がどこにあったのかを聞いてみた。アジズが不思議そうに答える。
「ワルシャワの支社にだが・・・コウベの会社って言ってたぞ。日本自治区だよな」
「俺らがいるのはトウキョウです。コウベなら自治政府を担当してる人の案件でしょう」
悪びれた様子もなく謝るアジズの言葉を聞き流す。とんだ間違い電話に、幸せな夫婦生活の邪魔をされてしまった。ユンディは既にベッドから降りてシャワーを浴びている。その大口の受注がどんなものか聞いておいた。
受話器を置いたタルハは、ユンディと入れ違いにシャワーを浴びる。だが、シャワールームを出ても部屋の中は薄暗いままだった。ユンディは何も着ずにベッドの中にいるようだ。
「今日はゆっくり寝られるはずでしょ・・・」
ベッドに潜り込んだタルハに抱きつくようにしてユンディが言う。そうもいかないかもしれないと、彼は電話の内容を伝えた。
シュバルベ工業の開発した多脚多腕型汎用作業機械を、一度に三十台も発注した会社があったのだ。ユーラシアにある支社の在庫だけでは足りず、資源衛星・カレーニナにある本社から足りない台数を送る事になったそうだ。営業用のサンプルとして送られた物を含めると、日本自治区に四十台強の機械が存在する事になる。
自社製品が売れている事についてとやかく言いたくはないが、少しおかしいと感じるべきであろう。それだけの重機需要がどこに存在するというのか。あるとすれば、それは壁の向こうであるが、瓦礫に覆われた日本人特別居留区で誰が何を建設するというのか。
調べた方がいいわね、ユンディはそう言って起き上がろうとする。そんな彼女の腰を掴んで抱き寄せた。まだ、起きるには早い時間だ。
低層の住宅が立ち並ぶ町。比較的新しい家が多いのは、ここがテロの標的となっていた時期があったからだ。日本軍が結成された当初、隅田川を越えての迫撃砲やロケット弾による攻撃が頻発し、対岸に当たる浅草から上野辺りまでがその着弾点となっていたのだ。
技術的には、行政府のある新宿や渋谷にまで砲弾を飛ばすことは容易なのだが、皇居の上空を飛び越えての攻撃は行われなかった。それを日本軍のアナクロニズムと解する者もいれば、行政府との裏取引があったと見る者もいる。真相を知る者はおらず、真相が知れたところで何も変わりはしない。
そのテロ攻撃に対して、東アジア軍は当然報復を行い。それによって隅田川を越えてのロケット弾攻撃はなくなったと言われている。だが実際は、日本人特別居留区への物資輸送の見返りに一般住宅街に対する無差別攻撃の停止を呼びかけた者がいるのだ。
「先生には、こちらから出向くべきところを申し訳ありません」
「いやいや、うちに閉じこもっていてもいい事はありませんからな」
上機嫌のブンジ・タチバナが、手土産を差し出す。周りにいた黒スーツの男達が、彼を丁重に迎え入れ、同行していた家政婦の女性を別室に通す。広い邸宅の一番奥まった客間にブンジは通される。男が改まって頭を下げた。
男は菱丘組の組長である、ユウゾウ・カトウ。トウキョウのマフィアのトップにいる男だ。自ら銚子をとって、ブンジに酒を注ぐ。
がっしりした体つきは年齢を若く見せるが、既に老境に入っている年である。それでも組の実権を掌握し続けているのは、その経歴から来るカリスマであった。
発足時の特別行政府は、潜在的な反体制分子であるマフィアに対して陽に陰に弾圧を行っていた。それに対してユウゾウは、徹底的な反抗を見せた。それもただ対立するのではない、テロ被害者や軍による報復行動の巻き添えになった市民への援助を行ったり、日本軍へ住宅地を標的としたテロの停止を呼びかけたりと、市民の支持を取り付ける形での抵抗を行ったのだ。
東アジアの中央政府が直接統治するという形のトウキョウ特別行政区の中で、菱丘組の活動が市民の隠れた喝采を受けるのは当然の成り行きであった。この国は、昔からそういった『理想のアウトロー』像を持つ国なのだ。
「やっている事は、お天道様に顔向け出来ない事ばかりですのにな」
だが所詮はマフィアであり、活動実態は非合法な資金獲得でしかない。何の遠慮もなくそう言うブンジに、ユウゾウが苦笑いをする。それが出来るのも、ブンジには返しきれないほどの貸しがあるからだ。
今回も貸しの一つについて礼を述べるためにブンジを招いていた。善隣幇との提携についてである。ユウゾウが改まって言った。
「先生の言う通り、私らはヤクザです。ですがね先生、ヤクザだって日本人だ。私自身東京で生まれ育った人間だ。トウキョウなんざ、糞食らえだ」
「リ先生もそう言っておられたでしょう」
「ええ。横浜の華僑の御仁ですら、この日本に涙していたんです。どうして日本人が黙っていられます」
興奮気味のユウゾウに、ブンジが酒を勧めた。トウキョウがざわめいている事を感じる。
当初は日本武道館の使用を打診してきたという相手に、東京武道館の使用許可を出すというのは、ある種の嫌がらせであろう。確かに都心のど真ん中で、プラントの歌手のコンサートを行うのは、警備その他の問題が多数生じるだろう。だからといって、もともと音楽と関係のない施設の使用許可を出すのは別の問題だ。
多くの機材が運び込まれようとしている会場の前で、シュウ・サクラは煙草をもみ消す。保安局も警備担当の人員を派遣しているのだ。表向きは会場を標的としたテロへの警戒であるが、実際はその逆にここの機材や人員の中にテロリストが紛れ込んでいないかの監視である。
「それだけじゃ、ないよな」
わざわざ彼の乗る指揮車両に横付けされた黒塗りの車。おそらく、保安局のどの車よりも頑丈な作りの車だろう。スモークガラスの向こう側にいるのは、コウキ・ヨシオカだ。この手の興行に一枚噛むのが、この国のマフィアの商売だった。
シュウが車を降りると、黒塗りの車もドアが開いた。どんなブランド物を着ても柄が悪く見えるのは、ある種の才能だろうと彼は思う。護衛の男に囲まれるようにして、コウキがシュウに近づいてきた。
定型句で挨拶をしておいたが、コウキの方は口も開かない。煙草を吸いたくなる相手だ。
「忙しそうだね。副会頭ってのは、こうして現場の見回りもするのかい?」
「軍の動きはどうなってる」
シュウはたまらずに煙草を取り出した。焦りを表に出すようになれば、この男も後がない。コウキとてただのチンピラではないが、いかんせん今の状況は彼にとって有利とは言えないようだ。平時に有能な人間が、有事も有能であるとは限らない。
東アジア軍や、その下部組織が活発に動き出したのは確かである。圏央道で起こった戦闘が軍を刺激したのだろう。だが、その動きは浮き足立っており空回りしているという印象だ。
それはシュウ自身が感じる事でもあった。トウキョウを巡る情勢は、見えないところで動いている。しかし、軍も保安局も「動いている」という感覚は持っていながら、何が何処で如何に動いているかは捉えられていない。
「うちも、上が揉めててね。よそ様の事に構ってる暇はないんだわ」
お互いそうだろうと言うと、コウキの不機嫌さが加速するのが見えた。どうやら、菱丘組の反東アジア闘争路線は確定のようだ。コウキのいる凌雲会のような、特別行政府との強い繋がりを持つ一部組織は、色々とやりにくくなっているのだろう。
しかも傘下の組織に対して軍の特殊部隊を投入されたりもしている。コウキにしてみれば、両者から切り捨てられたという疑念を拭うことが出来ないのであろう。だから大局を見失うのだ、とは言わなかった。
今のトウキョウの動きは、そういった今までの感覚では捉えられないものなのだ。
『ハーモナイズコミュニケーション! 心を繋げて銀河をつかめ!!』
そんな下手なキャッチコピーの書かれた看板が運び込まれていく。シュウはそれを指差した。あれはきっと、今のトウキョウと無関係の事象ではない。テロとか軍とか反東アジア活動とか、そういった概念で捉えられない何かが、動いているのだ。
シュウは、当日の人出予想をコウキに聞いた。吐き捨てるようなコウキの答えに、うんざりとため息をついた。余分な事を考えられるほど、暇ではなさそうだ。
まるでハイスクルールの学生のようだ、彼はそんな事を思った。いやハイスクールの学生の時ですら、こんな感覚を味わった事はなかっただろう。整えたばかりの髪を気にするように、軽く手を添えた。
休日という事もあり、道行く人達にスーツ姿の人は少ない。代わりにカップルや家族連れが目立つようだ。駅の警備員の制服を着た人間が、定期的にゴミ箱を調べて回っているのが無粋だが、それを除けばどこにでもある都会の風景が広がっている。待ち合わせによく使われる場所らしく、人は多かった。
腕時計と周囲を交互に見比べる。少し早くに来てしまった自分が悪いのだが、この待ち遠しさはどうにもしようがなかった。だから、はるか遠くにいる彼女の姿に、ずっと手を振り続けてしまう。コーディネーターである事も、たまには役に立つ。
「ごめんなさい、待たせてしまいました?」
「僕が早く来ただけだから」
ルーイは、少し肩で息をしているアメリを可愛らしく思う。ちょっと一服しようと、近くのコーヒースタンドに入った。泡立てられた牛乳が鼻の頭に付き、アメリは笑ってそれを指摘する。ルーイも笑った。
トウキョウで彼女に出会ってから、幾度かこうしたデートめいた事をしている。彼女は忙しい合間をぬって、時間を作ってくれていた。病院での勤務が無い日は、アルバイトもしているのだそうだ。夜間のバイトなので時給がいいなどと笑っていたが、きっと大変なのだろう。
それでもお金に関する話題など、彼女は決して自分から口にはしなかった。だから彼も、困った事があれば相談するようにとは言えるが、生活費を世話しようなどという話は出来なかった。
むしろ、カードでたいていの支払いが出来る自分の事を恥ずかしく感じる。朝も夜も必死に働いている彼女と比べて、自分はどうなのだろうかと。
「そろそろ、行こうか」
ルーイは立ち上がった。アメリの足音を後に感じながら店を出る。これから二人はコンサートに行くのだ。オオサカで初めて出会った時に来ていたプラントの歌手、その人がトウキョウで緊急公演を行う。これも何かの運命なのかもしれない。
自然と手を組んでいる彼女に、ルーイは微笑を向けた。彼女の楽しそうな声を聞いていると、余計な事を考える必要を感じない。こうして、二人で一緒に歩いているだけで、幸福だと思えるのだから。
今日は都電の日暮里舎人線で川を渡れるようなので、そちらを使う。この路線は、日本人特別居留区との境になっている路線なので、しばしば止まるのだ。同じ目的地に向かうらしい人達で、駅のホームは一杯だった。
ルーイは、アメリとはぐれないようにその手をしっかりと握った。
東武大師線は延伸され、日暮里舎人線の江北駅に繋がっている。そこから東武伊勢崎線の小菅駅まで行く。この駅は元の位置から北に100mほど移動し、国鉄常磐線、営団地下鉄千代田線、筑波急行線と連絡している。どちらも、日本人特別居留区の発足に伴って、分断された鉄道路線をつなげるための措置であった。
綾瀬駅で降りて北に少し歩くと、今回の会場である東京武道館に到着する。付近は既に集まった人で一杯であった。予想外の人出である。
主にインターネットを利用した配信で活動しているプラントの歌手であり、それほどの知名度を持っているわけではない。オオサカでのイベントのように、他に様々な団体を交えてのイベントでもない。
だが、今目の前に集まっている人だかりは、そういう説明が無意味なほどの数だった。会場に入りきれるのかどうか心配になるほどだ。そもそも、この場所自体が人を集めて音楽をやるための場所ではない。
「すごいね・・・」
アメリの感嘆の声にルーイも同意する。そろいのシャツを着たスタッフが駆けずり回って客を捌こうとしている。
客層は自分達のような若い者ばかりではなく、子供を連れた夫婦や年配の人の姿もちらほら見えた。並んで待ちながらその人達の話を聞くとはなしに聞いていたが、どの人も、よく知っているふうだった。
「政治性のなさか・・・規制されなかったのは」
トウキョウにおいて、インターネットも規制対象であるのは公然の秘密であり国外の情報は当局によって厳しく制限されている。プラントの歌手の活動をこれだけ多くの人が知っているという事は、当局が規制の必要が無い活動だと判断したからだろう。
逆を言えば、他の情報が規制や制限を受けているため、この歌手の活動に人々のアクセスが集中していたと見る事も出来る。
東アジア国内にも普通にポップカルチャーは存在するし、それらの質がプラントのそれと比べて別段劣っているわけでは無いだろう。当局による規制を免れたという「付加価値」が、この人気を支えているのかもしれない。
のろのろとした列の動きに揺られて、ようやく二人は会場に入った。判然としないざわめきが会場を満たし、熱気は既にはちきれそうであった。一応座席は設置されているのだが、座っている人など誰一人いない。場内アナウンスはほとんど聞き取れず、隣にいるアメリの声さえ耳を近づけなければ聞こえない。
だが、この大勢の人の中で、互いの顔を寄せ合って言葉を交わしあう事も、また楽しかった。彼女の吐息にすらうっとりとしてしまいそうだ。
「大変長らくお待たせいたしました。まもなく・・・」
それより後のアナウンスは聞こえない。会場のライトが一段落とされ、曲の前奏部分が流れる。会場全体が息を飲み、そして弾けた。
花火とともに飛び出した歌手がカクテル光線の中に浮かび上がる。同時に投影されるホログラフィーは天井にまで届いた。激しいロック調のナンバーは、否応無しに体を揺さぶる。フィニッシュのジャンプは、会場全体に地響きを響かせた。
立て続けの二曲目、客席のあちこちに分散して配置されていたファンクラブのメンバーらしき集団が、合いの手の掛け声とそのタイミングを教えてくれた。ラストのサビ部分で、完璧な合いの手が入れられる。凝縮された一体感が、割れんばかりの歓声と拍手の嵐を生む。
「みんな~! ありがとぅ~!」
観客を煽るような独特の声で挨拶が響き、息と楽器を調えるように軽いしゃべりが入る。
「こっちは万端、準備OK! みんなの準備は!?」
「オッケー!!!!」
ステージの中央で歌手が一回転する。着ていた衣装が広がってそのまま周囲に飛び散る。次の衣装に早変わりし、観客の感嘆の声とともに次の曲に突入する。突き上げられる拳の群れ、振り上げられるマイクに観客が競い合うように声を入れる。
ライトが会場を舞い踊り、花火がステージを照らし出す。興奮の坩堝となったようなその場が、不意に水を打った様に静かになる。
『静かな夜に』のカバーソングが会場に染み渡っていく。サイリュームが闇の中で揺らめき、曲の心が会場内をたゆたう。静かな感動がうねるような拍手に変わる。
「カバー連発、ゴメンね! でもこれだけは歌わせて! 『静かな夜に&Quiet Night C.E.73』!」
会場がアップテンポなリズムに一転する。観客もそれに負けじとリズムに乗る。ステージを駆け回る歌手の動きに合わせて、会場のボルテージも左右に動く。ヒートアップした会場の視線は、その中心に向けられた。
深くお辞儀をしていた歌手が、勢い良く顔を上げる。
「小さい時、お父さんが持っていたこの曲を聴いて、私はアイドルを目指しました。いつか、こんな歌を歌う人になりたいと、思ってきました。今、その夢が叶っています! だから・・・『夢はまだまだ終わらない』よ!!」
彼女のデビュー曲のコールとともに、会場は再びうねり始める。ポップな曲調に合わせた、パステルカラーの衣装。着替えるのではなく、立体映像を体の動きに合わせる最新の装置だ。動きと曲に合わせて七色に変化するドレスが、ステージの中央で揺らめいている。
息つく暇もないほどに曲が続く。だが興奮に満たされた体は、疲労どころが時間すら感じない。最後の曲が終わってもなお、その感覚を認識できない。
会場の熱気がゆっくりと冷めていくのが分かる。同時に体の中から湧き上がってくるものがあった。それはアンコールの呼びかけとして結実し、やがて会場がその声で一杯になる。
どよめきのような歓声ととともに、再びステージに立った歌手が感謝の声を発した。そしてリリース直前の新曲を披露する。会場は再度、興奮の渦に巻き込まれた。その渦の中心が舞台から下がり、会場は心地良い虚脱感に満たされた。
全体の照明が戻り、上気した顔の観客たちは安堵と満足の笑みを浮かべる。館内にアナウンスが流れた。三日公演の予定を延長するとのアナウンスである。観客が足を止めたのは、アナウンスをしているのがその本人だったからだ。
「延長公演は当日券のみです。でもゴメンなさい、少しでもたくさんの人に私の歌を聞いて欲しいから、今日までの三日間来てくれた人は、どうか明日からは他の人に譲ってあげて下さい。たくさんの人に歌を聴いてもらえるチャンスを私に下さい」
観客は自然と拍手していた。それは、この興奮と感動を多くの人と共有したいという想いだろう。ルーイとアメリも手を叩いている。
会場を出ると、外は暗くなりはじめていた。駅に向って歩く人達が皆早足なのは、身分証確認ゲートの時間を気にしているのだろう。せっかくの感動に水を差されるような気分だった。
「・・・楽しかった、ですね」
「うん、こういうの初めてだったけど・・・良かった」
ルーイはそう答えて腕時計を見る。時間さえ良ければ、食事をしていかないかと誘った。アメリは一瞬、逡巡するかに見えたが、家の近くであれば構わないと答える。そして彼の腕を取り自分の腕と絡める。
それはあまりにも自然な流れだと思う。彼女の部屋に通された時、いやそれよりずっと前から、こうなる事はきっと決まっていたのだ。絡み合っていた唇が離れる。灯りの落とされた室内で、薄闇を通すように彼女を見つめた。ルーイは再び、アメリの唇を求める。
窓の外から聞こえてくる電車の音。あれがおそらく最終の電車だ。そんな事はどうでも良いと感じるほどに、彼の肌は彼女の肌を感じていた。そこには一切の拒絶を感じず、愛撫する手が逆に包み込まれていくようだ。ベッドのスプリングが微かに軋んだ。
口の数が足りないと思う。キスをしたい場所が多すぎる。触れていた唇をほんの少し離すだけで切なくなる。
そのまま唇で彼女の体をなぞっていく。その形を忘れないように、一所も余す事無くなぞっていく。温もりと匂いに包まれた陶然とした頭が、彼女の胸の谷間を彷徨っていく。
アメリの褐色の肌が喉の奥の声とともに震える。彼女の胸の二つの頂きは、ルーイの唾液を十分に含み、湿った光を帯びていた。彼の息も荒くなっている。
「・・・初めてだ、こんなの」
それは男が口にすることでは無いかもしれない。だが彼はそう言わずにいられなかった。今までと何が違うのか分からない、だがこれが「初めて」だという事は分かる。今まで知っていたものは、きっとまがい物か何かだったのだ。
張り詰めたような美しさを見せる褐色の肌に包まれた、肉感的な肢体。だがそれが刺激するものは「男」ではない。もっと遠くにある「何か」だ。
そこに純粋なものなど何も無く、興奮も快感も喜びも不安も恐怖も安らぎも喪失感も、何もかもが同時にあった。怯えるように彼女に魅せられ、期待に震えながら彼女に迫った。
彼自身の事が強く意識される。その頂点が暖かな湿り気に触れると、ささやか抵抗を宥めるように、彼は愛をささやいた。彼女が柔らかく微笑む。
許しを得たように抱き締められる彼自身を感じ、彼は思考を失った。今、自分と溶け合うように抱き合っている女への感情だけが、頭の中を満たしていた。思考の無いそれは純粋な感情であり、その表現は言葉ではなされない。
「ぁぁっ・・・ルーイ・・・」
愛しい声が、彼の心を打つ。彼の想いは激しさを増し、こみ上げてくるものは押さえようがない。彼は低く呻いた。
吐き出したものは、快感でも欲情でもない。それは紛れも無い愛だと思った。
それを肯定してくれるように、アメリがルーイの頭を掻き抱く。繋がったままの二人が、再び愛を営むまでの僅かな時間。互いの荒い吐息だけが愛をささやきあっていた。
個室が割り当てられているのは、ヒューのようなパイロットがそれなりの待遇を持って迎え入れられているという事だろう。MSの運用ノウハウというのは、一朝一夕に獲得できるものではなく、経験者が一つ一つ積み重ねて形成していくものなのだ。
まして東アジアは、前大戦で前線に立っていた大西洋やユーラシアとは違い、軍としてのMS実戦経験が乏しい。その遅れを挽回するためにも、ベテランパイロットは重要なのだ。
部屋のテレビの芸能ニュースで、プラントから来た歌手の追加公演決定が報じられていた。もともとの計画を伏せ、先にあえて三日間と公表した上でのサプライズ演出とも考えられるが、手の込んだやり方だと思った。そもそも、よくトウキョウでライブなど可能になったものだ。
「どうやら、シャンハイとのコネクションを持っているようだ」
ノックもせずに部屋に入ってきたスーツの男が言う。そしてハーモナイズコミュニティという団体に各国が興味を示し始めた、と付け加えた。ヒューはナースコールを押そうとする。
男は慌てて名乗る。ヨコスカから派遣された連絡員であった。ヒューの怪我の状態と部隊への復帰の目途を聞く。だが、わざわざそんな事を聞くために人をよこしたのでは無いだろう。ヒュー本題に入るように促した。
男は名簿と地図を差し出す。トウキョウ在住の大西洋邦人のリストとその住所が示されているという。ヒューの視線に、男は話を続けた。
「トウキョウで非常事態が発生した場合、ヨコスカは邦人救出のための部隊を派遣する」
その時、ヒューが現場の指揮を取る事に決定したのだ。流石のヒューも目を丸くした。
大西洋としても、東アジアと事を構えるつもりはさらさら無く、目立つ事は避けたいのが本音だ。だが有事にヨコスカが何も動かなければ、国内政策重視の今の政治状況では間違いなく海外基地維持の必要性が問われるだろう。大西洋連邦の極東における拠点であるヨコスカ基地を確保するためには、それが役に立つ存在である事を大西洋国内に向けてアピールしなくてはならない。
そのための邦人救出だと男は言う。東アジアを刺激しないよう、MSの使用は可能な限り控え、最小の人員で作戦を行わなくてはならない。現在、ヒューの他にもトウキョウで活動しているエージェントは数名おり、彼らにも同様の指令が下されていると言う。
ヒューは重要な疑問を一つ尋ねた。
「非常事態は、いつ発生する?」
「それは我々が関与できる事ではない」
決定的な証拠に基づく確信ではなく、状況証拠の積み重ねによる非常に高い可能性への備えだというが、邦人救出作戦が必要な事態が発生するという事をヨコスカは読んでいるのだ。しかし、いつどのような形でそれが起こるかは分かっていないのだろう。現場としてはきつい条件だ。
何かあれば追って連絡すると言って、男は病室を立ち去る。入れ違いに入ってきた看護婦が、面会時間はまだなのにと文句を言っていた。ヒューは仕方なく笑っておく。
作戦中は無線が封鎖されるため、状況確認は時折指揮車両にやってくる伝令の兵士が伝える物だけが頼りである。運送用トラックに擬装した車は既に配置についており、突入の合図を待っているはずだ。
指揮車両がヘッドライトを二度パッシングする。撤収の合図であった。車内の重苦しい沈黙の中、舌打ちが響く。ユ・ケディンは、唇を噛んだ。
今回の作戦のターゲットは、ブンジ・タチバナ。目黒の私邸を急襲する計画であった。撤収したのは、周囲に保安局の特殊部隊の姿を確認したからだ。軍から兵士を借り受けての作戦であったが、都心で軍と保安局との衝突など起こすわけにはいかない。
「次は、無いというのに・・・」
呻くようにつぶやくケディンは、情報がどこから流出したかを考える。
特別行政区駐留の東アジア軍は、日本人特別居留区攻撃のために準備を整えてはいる。ただ、関係各所との調整が難航しているらしく、計画は遅れ気味であった。東アジア共和国全体に与える影響も大きく、連合各国からの反応にも対応しなくてはならないため、致し方ない面もあるが、計画の遅れはそのまま情報管理の困難さを増加させる。
車が大通りに出た。深夜の時間帯であるため車は少ないが、灯りの点いている建物も多かった。それは大都市の普通の光景である。完全武装の兵士を満載したトラックが走るには似つかわしくない光景だ。
ケディンにはそれが解せなかった。
軍は特別居留区とそこを拠点にテロを行う日本軍を掃討する事が、トウキョウの治安情勢を解決させる唯一の道だと信じているようだ。だが彼には、そこに齟齬を感じる。
確かに日本軍のテロはトウキョウの治安に悪影響を与えている。だがこの街の情景からは、それが読み取れない。道行く人の表情に、悪化する治安に対する懸念を読み取れないのだ。
情報統制によってテロの情報は制限され、身分証確認ゲートによって人々はテロの現場から隔離される。被害者の話題は雑踏の中に消え、遺族の声は噂の中に溶け込んでいく。
「・・・治安の悪化など、目には映らない街だ」
だがそれは、トウキョウが安定している事を意味しない。目に映らなくとも、この街の空気は明らかに不穏さを増している。日々街を出歩き、通信社の記事の一本も書いている彼は、その目に見えない不穏さを感じるのだ。このトウキョウという街に対する、人々の鬱屈。
それはきっと、日本軍などよりもずっと深刻な問題を引き起こす。だからこそ、対処すべきは目に見えるテロリストではなく、トウキョウの市民に潜み紛れている者達だとケディンは考えていた。
とりあえず今は、計画の練り直しをしなくてはならない。
家電量販店には、いつものように人だかりが出来ている。歩行者天国ではパフォーマーらしき一団が何かをしており、人々はそれを眺めるとも無しに歩いている。中国茶を飲ませるチェーン店の二階席から、彼女はそんな街の様子を見つめていた。
遠くから見れば、ありふれた東アジア的な街なのかもしれない。生活物資に困窮する人もおらず、市民生活は平穏さを保っているようにも見える。しばしば起こるテロ事件も、もはや日常の中に溶け込んでしまっているのかもしれない。トウキョウとはそんな街だった。
「お久しぶりです」
「時間通りですね、エリック・リブー」
ジュンコ・ヤオイが、サングラスのまま視線を向けた。愛想の良い顔をした男が、点心の載せられたトレイをテーブルに置く。彼女は、彼のトレイ載っている胡麻饅頭をつまむ手で、コンピューターのメモリーチップを載せた。紙おしぼりで手を拭く振りをしながら、彼がそれを袖口にしまいこんだ。
彼がトウキョウを離れている間の報告であり、同時に彼女の所属する組織からの調査依頼でもあった。店内のざわめきと、少し音量の大きいBGMは、二人の会話をかき消している。
ジュンコは、タマユラ地区の港に入港した貨物船の積荷を調べて欲しいと言う。アキハバラのジャンク屋組合もオーブ租借地にまでは手が伸びていない。取引先はいくつか有しているが、情報源の構築は出来ていなかった。
「あそこはオーブの企業が仕切ってるので、私達でも手が出しにくい」
「じゃ、俺らもですよ」
それは過大な期待だというエリックに、積荷はプラントも関係している可能性が高いという。エリックの視線がこちらを向いたのを確認するように、ジュンコは傭兵という単語を口にした。
ジャンク屋組合に対する部品の問い合わせも、その可能性を強く疑わせる内容のものがあると言う。エリックは頭を巡らせた。
CEの混乱を長期化させている大きな要因の一つである傭兵は、幾度かの取締り強化によって大半は姿を消し、一部は正規軍の一セクションへと姿を変えた。中でも地球を本拠とする傭兵は、軍の投入などもあってほぼ壊滅したといってよかった。
だが宇宙では、連合宇宙軍の極端な弱体化と復興を最優先とするプラント政府の政策で、そういった私設武装組織の残党が根強く残っていた。それらが、密かにトウキョウに来ているというのだろうか。
「雇い主は?」
「雇いたいところはたくさんありましてね・・・」
つまりは、ジュンコにも分からないという事だ。だが、宇宙を本拠とする傭兵であれば、パイプを持つところは限られてくるだろう、調べられない事では無いかもしれない。そこまで考えたところで、次の疑問が持ち上がる。
トウキョウの情勢はそこまで悪化しているのかと。彼女のじっと見つめるような視線は肯定なのだろう。エリックは窓の外を見つめた。家族連れが歩行者天国を行きかい、ハッピを着た店員が製品ののぼりを持って声を張り上げている。この光景のどこに、傭兵などが入り込む余地があるのだろうか。
ジュンコは親指で胸を指差す。特別行政府によって、情報を操作され行動を規制される生活。この光景の内側に、何が蠢いているのか。エリックはもう一度街を見つめなおした。
次回は日曜日に掲載できるかと思います。