雰囲気には慣れている。張り詰めているようで、どこか諦めに似た空気が漂っている場。ただ、いつもより人の数が少ないような気がする。ゼネストによって公共交通機関がストップしている影響だろう。本来なら、人数が減るなどという事はありえないはずなのだから。
顔写真の貼られた受験票を机の左隅に置き、ポケットから鉛筆と消しゴムを取り出す。手荷物は全て別室に置かなくてはならないのだ。腕を組み、目を閉じた。心を鎮め、集中力を高める。
外国人特別研修生日本語検定試験、受けるのは今年で五回目である。これに合格しなければ、正規の労働者として見なされない。特別研修生は、社会保障を受けられず、最低賃金よりも低い研修賃金で働くしかないのだ。病気にでもなれば、即座に生活に行き詰る。帰国のための費用すらなく、わざと犯罪を犯して強制送還される道を選ぶ者もいるという噂まである。
たいていの研修生は、普通の仕事だけでは家族への仕送りまで出来ないため、別の仕事を掛け持ちしている。しかし特別研修生は、入国時に申請した職場以外での労働を原則禁じられているのだ。そのため、掛け持ちの仕事はほとんどが不法労働であり、その賃金も極めて低いものとならざるを得ない。
だからここにいる人達は、誰もがマリアと同様に苦しい生活を送っている人達だ。それでも、苦しい生活費をも切り詰めて家族へ送金している。
「なぁ、試験はちゃんと実施されるんだろうな」
前の方の席で、そんな会話がなされていた。会場の時計は、試験実施時刻の十分前を指していた。マリアはもう一度目をつぶる。
代々木の会場に時間までに到着するように、朝早くに家を出た。早朝の街には、昨日の騒ぎの残滓が残っていた。そればかりか、その騒ぎを再び始めようと準備を行っていた。清掃車と配送の車が、ひっきりなしに道を行きかっていた。
それは、どこまでも自分とは無関係の光景である。その事がより一層、マリアの胸を締め付けるようだった。この街の人達は、自分達が今日、どんな気持ちでこの試験に臨んでいるのかを知らない。知ろうとしないのではない、ただ純粋に知らないのだ。
使えなくなれば強制送還させればいいだけの労働力。それを維持するための試験。この試験についてどんな噂が流れていようとも、それを受けるしかない自分。不安定な政情が一向に改善しない彼女の祖国には、家族を養う手段などどこにもない。
マリアは頭を振った。今は試験に集中すべき時だ。スピーカーからチャイムが流れるが、試験官の姿は見えなかった。会場がざわめきだした時、スピーカーからアナウンスが流れる。
「ゼネストの影響で、試験問題及び答案用紙の配送が遅延しております。そのため、九時より開始の試験は時間を変更して実施します」
午前の試験が丸々なくなり、午後の試験の後、夕方の五時から午前に予定されていた試験が行われると言う。会場のざわめきに、僅かな安堵が流れた。マリアもそっと息を吐く。
もしこの試験が中止になれば、どうなっていたか。それが心配でならなかったのだ。
院庭には既に近所の人が集まっていた。今日もここではバザーが開かれると言う。朝食を終えた子供達も、職員と一緒になってその準備をしていた。今日はお汁粉が振舞われるらしく、大きな鍋が用意されていた。
「サチくんですか? いや、見てないですけど」
ルーイはそう答え、辺りを見回す。尋ねた職員は頭を下げて、台所の方に向った。ルーイは昨日一晩、この孤児院に泊めてもらっていた。
本当であればアメリのそばに居たかった。だが試験直前の彼女の邪魔をする事は出来ず、食事の差し入れだけをして彼女の家を離れたのだ。孤児院に来たのは、その時彼女に頼まれたものを届けるためだった。彼女がもう着なくなったと言う服を何着か、バザーに出すために持って来たのだ。
日本人特別居留区への支援活動のために、職員の多くが出払っていたので、ルーイは夜の間だけでも留まって欲しいと頼まれ、ここで一晩を過ごしたのだ。ここにいる職員に比べたら、何とも頼りのない用心棒だったと思いながら、ルーイは孤児院を出ようとする。
先ほどの職員がウロウロとしていた。まだ子供を捜しているのだろう。
「僕も探しましょう」
ルーイはそう声を掛けた。彼はそのまま院の外に出る。別にあてがあるわけではないが、おそらく外に出ているだろう。足を駅の方に向けた。
昨日、あれだけ騒いだというのに、今日も早くから屋台やステージでは準備が整えられていた。気の早い屋台からは、早くも食べ物の匂いが漂ってくる。都心部ほどではないが、ここも駅周辺はかなりの賑わいだったのだろう。
人の数が増えてくると、迷子を捜すのも大変になる。ルーイは足を速めた。屋台が立ち並ぶ通りを素通りして、駅構内に入る。切符売り場の前で立ち尽くす子供がいた。手には、何を買ったのか紙袋を一つ提げていた。
「電車は走ってないよ」
子供のそばでしゃがみこんだルーイはそう言う。どこか行きたいのかと聞くと、子供は小声で答える。
「ママのところ」
あの孤児院で唯一、院長の事をママと呼ぶのが彼だった。その子、サチが何故院長をそう呼ぶのか、詳しい事は知らない。院の子供の中では年長の方だが、他の子供たちと比べても幼い感じのする子だ。ルーイは、孤児院に戻ろうとサチに促す。
おとなしく言う事を聞いた彼の歩調に合わせて、ルーイも孤児院に向けて歩き出す。子供に対してどう接していいか分からず、ただ無言で歩くのだが、何となくそれも変な感じがした。ルーイが口を開く。
「院長先生はお仕事だろ、あんまり、邪魔したら・・・」
ルーイは言葉を切った。うつむき加減のサチの表情に、わがままな子供の様子を見て取る事が出来なかったのだ。彼はただお祭見物に出たかったわけでも、院長に構って欲しかったわけでもないのだろう。
だから、何も言わないのだ。ルーイには、その気持ちが分かるような気がしたから。
孤児院に戻った彼は、日よけのテントの設置を手伝う。
街行く人々の笑顔に、部下の頬も緩んでいるのが分かる。それを咎めだてしようとは思わないが、やはり緊張感に欠けると言わざるを得ない。現在の任務は、歩行者天国の交通整理でも、祭の揉め事処理でもないのだ。
シュウ・サクラは、しきりと酒を勧めてくる町内会長に対して慇懃な態度を取り続ける。既に赤い顔をしているこの手の酔っ払いに、怒鳴るだけ無駄なのだ。部下の報告を聞き、次の指示を出す。シュウは、一つの報告に眉を顰めた。
「・・・方向は間違いないか?」
「低空なんで、目撃情報は確かです」
ヨコハマ方面から飛来したヘリコプターが、渋谷の高層ビルに到着したという情報だった。日本自治区からの越境飛行は軍のスクランブル対象であるが、ヨコタに動きは無いようだ。低空で発見が遅れたためか、ヨコタの機能不全のためかは、この際関係なかった。
飛来した方向と到着した場所から、それが善隣幇の関係者である事は確実であった。この事態に対して、何らかの手を打ってくると言う事かもしれない。シュウは、警戒を強めるように指示を飛ばす。
このにこやかな街の姿の裏側に、激しく燃え盛る感情が存在している事は、シュウも感じていた。予定通りにゼネストが行われれば、人々のその感情は容易に暴力へと転化しただろう。そうなれば、シュウは苦しい立場に追い込まれる事になったはずだ。彼の仕事は、それを取り締まる事なのだから。
ゼネストから発展した市民暴動を取り締まるより、この祭に紛れて騒乱を画策する工作員を取り締まる方が、よほど警察官らしい仕事である。厄介なのは、その工作員とやらが東アジア軍の人間だけではないという事だ。
シュウの手元には、ヨコハマを拠点としてトウキョウでも大きな勢力を持つ華僑系マフィア・善隣幇と、日本最大の指定広域暴力団・菱丘組の手配者リストがあった。先日、東アジア軍警察とやりあったのも、この連中である。
ただ幸いな事に、現在行われているイベントの出店を仕切っているのが、菱丘組の構成組織である極星会であり、菱丘組の中に騒ぎを起こそうという目立った動きは無いようだ。問題は、善隣幇である。
渋谷のビルに入ったのが、その頭目と見なされる人物、リ・ウェンである事に間違いは無いだろう。だが、彼らの考えている事が不明確なのだ。暴力団対策課だけでなく、外事部、公安部なども独自に追っているらしいのだが、はっきりとした事が分からない。保安局の各セクションが、それぞれ東アジア中央政府に対して近い遠いなどの異なった立場を取っているため情報の共有もなく、縦割りの弊害が増幅して現れているのだ。
「ヨシオカを絞めとくんだったか・・・」
ゼネストは三日間の予定であり、このイベントもそれに合わせたものだろう。あと二日を無事に乗り切る事、それが第一の仕事であった。
ジュースの空き缶に煙草の吸殻を捨てたシュウは、近くの女性に分別が出来なくなると怒られる。彼は丁寧に謝って、空き缶を洗って捨てた。この分なら、ゴミ捨て場に爆弾を設置する類の事は不可能だろう。彼は防犯のイロハを改めて思い知らされた。
船内は賑わっていた。グレートバリアリーフ号は、船の一般公開を行っているのだ。埠頭にも出店が立ち並び、仮設のステージ前ではマーチングバンドのパフォーマンスが行われている。
船の食堂はレストランとして開放され、特別価格のランチコースが人気を博していた。小さな子供が、神妙な顔つきでナイフとフォークを動かしている。ホールではお抱えの楽団がクラシック音楽を奏で、カップルが静かに耳を傾けている。
ザフトの調査員が寝泊りしている場所は、関係者以外立ち入り禁止の区域であるが、流石にこの雰囲気の中で仕事をしようとも思えなかった。メールの送信を終えたエリックが、背筋を伸ばしながら言う。
「ま、仕事もないしな・・・」
不測の事態に備え区内での活動は禁じられている上、このお祭り騒ぎの何を調査分析すればいいかも分からない。ジュンコ・ヤオイからは、この騒ぎを仕掛けたであろう人物の名前は教えてもらっている。だが、その人物に接触するにしても、ある程度時間を置いてからでないと内容のある話は聞けそうにない。
椅子を回転させたエリックは、キリルが睨んでいるノートパソコンの画面を覗き込んだ。アンノウンとの交戦データの一部である。キリルが視線をそのままに、厳しい声で聞いた。
「何か、対策は無いのか?」
「ねぇよ、そんなオカルト対策」
謎の力を発生させるMS、エリックもその力については噂程度には知っている。SEEDコンバーターと呼ばれる謎の装置によって発生する力場。前大戦時に、条約違反のMSとともに極秘運用がなされていたという話だ。
だが、それは真面目に話せば一笑に付される程度の話であり、エリックも週刊誌の都市伝説だと思っていた。いや、その実物らしき姿を見せられたところで、容易に信じられるものではない。
金属を切り裂き引き千切り、ビームの軌道を捻じ曲げビームサーベルを折り曲げる。連合の対ビーム防御兵器に関する技術が極めて高いのは事実であるが、あのような性能を見せるバリアの存在は、エリックも知らなかった。だからといって、オカルトめいた話をそのまま信じる事もできなかった。
「この祭典に免じて、出てきくれないことを願う方が建設的だぜ」
「そうだな・・・」
キリルは短くそう言って、もう一度映像は最初から見直す。そんな願いを聞き届けてくれる相手ではない、キリルはそう確信している。
何故彼女が狙われたのかは分からない。だがそれは、気まぐれや悪戯の類ではないはずだ。何らかの意味があって、彼女を狙った。ならばもう一度、彼女を狙って現れるはずだ。
だから彼は、対策を練る。マリアを守るために。
被写体には困るわけがない。機嫌のいい人々は、快く質問に答えてくれる。だが、これは一体何の取材だというのだろう。トウキョウの街で何が起こっているのか、現場を歩けば歩くほどそれが分からなくなってくる。
カズヤ・イシは質問に答えてくれた男性に礼を言いながら、胸に内で毒づく。それが顔に表れたのだろうか、ヨシト・モリが怪訝な顔をした。
「気持ち悪いとは思わんか?」
「旧世界への攻撃があったばかりで、このバカ騒ぎという事ですか?」
それもある、そう言ってカズヤはカメラを構える素振りを見せた。
トウキョウ特別行政区で爆弾テロというのは珍しい事ではなかった。それにもかかわらず都市活動に大きな支障はなく、市民生活に大きな影響が現れる事はなかった。日本人特別居留区への攻撃であっても、それは変わらないはずだ。これまでのように、翌日から当たり前の生活が続くはずだった。
それがどうだろう。地下鉄の駅が爆発して死傷者を出しても何も変わらなかったトウキョウは、日本人特別居留区への東アジア軍の攻撃とそれに反撃する日本軍の映像が流れただけで、ここまで変わってしまったのだ。それは、とても気持ちの悪い事である。
確かに、この街に通底していた不満のようなものは存在した。タマユラ地区を拠点に、区内への潜入取材を繰り返すうちに、それははっきりした形ではないが見えるようになっていた。
「それが・・・こんな形になるか」
入り口を開放してあるビルに上がって、窓からカメラを出す。人の海の上を、神輿が船のように渡っていた。威勢のいい掛け声が、ここにまで聞こえてくる。写真に写るのは、活気溢れる祭の様子だ。
だが本来このカメラに写るはずのものは、こんな様子ではないはずだ。彼らはもともとゼネストの取材をするつもりだったのだから。
今のトウキョウは、本来取るべきであった姿を何者かによって意図的に変えられたのだ。それが良い事なのか、悪い事なのか、それを判断する事は不可能だ。だが、今の状態が「不安定」である事に変わりは無い。それが「安定」目掛けて動き出せば・・・
「何が、起こる?」
つぶやくように、カズヤは言った。少なくともそれは、ゼネストという言葉で表現できるものでは無いだろう。
すなわち、ゼネストという姿すらトウキョウが本来取るべき姿ではなかったという事なのだ。首を傾げただけのヨシトの表情に、カズヤは苦笑いを返す元気も無かった。
ジャーナリストとしての経験がヨシトよりもはるかに長いカズヤは、もっと明確な不安を抱えている。何かが起こる前の嫌な予感。だが、取材機会が訪れないことの方が良い事とは、ジャーナリストとして取材しなければならない事なのだ。
「充電とフィルムの補充はしておこう」
彼らのカメラは、被写体にポーズを要求する事ができない。出来るのは、その姿を全て逃さずにフィルムに焼き付ける事だけだ。そのための準備だけは、しておかなくてはならない。
誰一人いない、正確には生きている人間が誰一人いない場所。これだけの焼け野原と瓦礫の山である、死体ならいくらでも出てきそうだ。焼け焦げたトラックが横転したまま放置され、破れたドアのガラス部分に人型の炭が引っかかっていた。
ただ音響探査では、周囲で車両が走り回っているのを捉えている。生存者の捜索かもしれないが、見つかるのは死体ばかりだろう。ハニス・アマカシの目は、空しか映していないモニターを見つめている。
エヴィデンスを搭載したアッザムは現在、日本人特別居留区のほぼ中心に潜んでいた。仕掛け爆弾と地雷によって大きく陥没した道路に、ミラージュコロイドによって時折歪む透明な巨体がすっぽりと収まっている。軍が早期に動くかと思ったのだが、まだ様子を見ているようだ。
しかしどの道、ツクバに生きる道は無い。自分達を切り捨てにくる日本自治区軍を相手に立ち回りをしたところで、彼にメリットなどないのだ。彼にとって必要だったのは、自らのSEED現象発現条件の確定と、それを任意に発現させるための訓練。そしてSEED現象によって膨大なエネルギーを生み出すSEEDコンバーターの現物である。
その双方を手にした以上、テロリストの真似事も終わりであった。あとは、あの「歌声」を手に入れるだけでいい。
「人の遺伝子をも震わせる、あの声・・・」
ハニスの瞳は深く深く透き通っていた。
仲間達はトウキョウでまた何事か行っているようだが、彼にしてみればそれはヌルいやり方でしかない。文化の発信によって、既存の体制、秩序に対してカウンターを打つ。それがやがて既存のものを変革させる力となる。その事自体に異論は無い。
だがそれで変わるのは社会だけである。人間そのものは変わらない。人の瞳は曇り濁ったままだ。人間の自由とは、変化への進化への可能性の事なのだ。SEEDとは、その一つの形だ。
幼い頃に聞いたラクス・クラインの歌、それは彼にとっての啓示であった。彼女が政治化したとき、彼は知った。その啓示は人によって為されたものではなく、あの歌声によって為されたものなのだと。
ハーモナイズコミュニティに参加しながら、彼は常に主流派とは異なる行動を取ってきた。SEED研究の被験者としてオーブに降りたのも、彼の独断である。故に、彼がこれからしようとしている事もまた、独断であった。
「あとはただ、巡り合う時を待つだけだ」
彼はモニターに写真を映し出す。彼の探す人物の写真、そして彼女に関する様々なデータ。そこから推定される、彼女の現在位置。彼は時計を見た。
エヴィデンスを動かすのは、夕方以降となる。流石に、真昼のトウキョウをMSが飛び回るわけにも行かないだろう。彼は目を閉じて、音楽のボリュームだけを上げた。非可聴領域まで再現できるスピーカーから流れるその歌は、彼の心の琴線をかき鳴らし続ける。
ビルの最上階から、地上の様子を窺う事は難しい。だが、今そこで何が行われているかは、部屋に設置された複数のモニターによって確認する事ができる。都心部だけではなく、郊外にもこの騒ぎは波及しているようだ。
この祭典は、トウキョウを一気に非日常の空間にした。一時を非日常で過ごした人々は、そのまま日常へと帰っていく。この祭典が終われば、トウキョウ特別行政区は再び何事もなかったように、市民生活を始動させるだろう。日本人特別居留区での東アジア軍の蛮行など、日々のテロ事件と同じ文脈でしか語られなくなる。
それは、リ・ウェンがもっとも恐れた事態であり、もっとも手を焼いた事である。人々に「日常」の異常さに気付かせ、それを打破するための行動に駆り立てる。そのために、あらゆる手段を講じてきた。
「どれほどの時間をかけただろうか・・・」
今回は、初めてそれが成果を生んだ。
日本軍に対して資金援助や傭兵の斡旋、各種装備の調達をバックアップし、東アジア軍の能力を大幅に損耗させる事に成功した。同時に、日本軍による都心部でのテロ活動能力も失わせ、情勢沈静化後の治安面での不安を解消させた。
そして、アングラ勢力の結集、市民レベルでの抗議活動、そして行政府一般職員を巻き込んだ形でのゼネラルストライキ。あと一押しでそれらは統一された反東アジア行動になるはずだった。現時点で大型兵器のほとんどを失った東アジア軍に、東京市民の行動を押さえ込む力は無い。
あとは東アジア軍の撤退を見届け、東京の独立を宣言すればいい。そうすれば、東アジア共和国を構成する各地域に、そのうねりが伝播する。ペキンによる強権的統治がもはや限界を迎えている事は、明白な事実なのだから。
そのビジョンが、今目の前で崩壊しようとしている。あの夜、自らが日本人である事を自覚したはずの人々は、今再びそれを忘れようとしている。
「戦う事を恐れるだけで、何が見えるというのか」
市民の流血を避ける、そのために日本人としての尊厳を手放させようというのだ。行動を規制され、発言の自由を制限され、入手できる情報すら操作される、そんな檻のような「日常」に再び戻そうというのだ。文化の発信、サブカルチャーによるカウンター、そんなもので政治は動かない。
今のトウキョウは、壮大な茶番劇を演じているに過ぎないのだ。部下からの報告を受けたウェンは、打開策の見えない状況に焦りを覚える。
保安局の各セクションが自分達を監視しているのは当然であり、菱丘組が動いていない以上、善隣幇が重点的に狙われている。下手にこちらから動けば、一斉摘発の可能性もあるだろう。
「奥の手も・・・間に合わんか・・・」
市ヶ谷がMSを動かしたり、ヨコタから都心へと部隊の移動があったりすれば、一気に状況は動く。しかし、東アジア軍に打撃を与えすぎた事が裏目に出ていた。彼らとすれば、このままお祭り騒ぎで終わってくれれば御の字なのだから。
握り締めた拳をぶつける先もなく、彼は窓から東京の街を見下ろす。
化粧をしたのが久しぶりのような気がする。スキンケアをサボり続けていたために、ファンデーションののりが悪いのだが、あまり時間も掛けられない。スーツのスカートがきつくなっており、この仕事が終わったらダイエットに取り組む事にする。そういえば、丸顔がさらに丸くなったようにも感じる。
「柔らかい方が、抱き心地はいいぜ」
などという夫の意見には決して耳を傾けず、ユンディは体重計の針を正しい位置に戻しておいた。ダイエットに取り組むためにも、この仕事は成功させなくてはならない。
タマユラ地区でも、特別行政区内と同様に、街中で様々なイベントが行われていた。電車も、両地区を繋ぐ区間だけが臨時運行されており、人の行きも頻繁に行われているようだ。主な大通りは軒並み歩行者天国と化しているため、タクシーを使えない。様々な食べ物の香りを突っ切って、二人は目的のビルへとたどり着く。
面会の相手は、タマユラ地区の警備保障会社で顧問を務めている男性であるが、指定された場所は、地区の中心部から離れた海沿いの倉庫街であった。流石に、ここまでくると人もいない。
「これ・・・本物ですか?」
タルハが当然の疑問を口にした。倉庫の奥に無造作に置かれている機械は、特殊な電子兵器であった。量子通信の原理を応用し、対象となる電子部品に直接プログラムを送り込む事ができる兵器、俗に量子ウィルスなどと呼ばれているものだ。
ドラグーンシステムがデバイス側の自律プログラムと量子通信を併用しているのは、量子通信が未だに十分な情報量を伝達できないからである。そのためこの量子ウィルスを送り込む装置も、その信頼性は驚くほど低く、兵器としての実用化を各国とも断念しているのが実情だ。
テストのために作られたものや、極秘で実戦投入されたという噂も聞くが、どれも都市伝説の域を出ないものであった。それが今、目の前にある。何でも、かねてより善隣幇から注文を受けていたアキハバラのジャンク屋組合が入手したものらしいのだが、それを何故かこの倉庫に放置していたそうだ。日本人特別居留区攻撃の翌日、匿名でリークがあり警備保障会社が差し押さえたのだと言う。
「確かにこれが動けば、確実にうちの機械を止められますが」
「止めてもらわねば困ります」
警備保障会社のハルサ・ニビは言った。一部過激派が、タマユラ地区での騒乱を画策しているのだ。
その計画とは、日本人特別居留区とタマユラ地区を分断する分離壁を破壊し、特別居留区の人間を大量に難民としてタマユラ地区に流入させるというものだった。それをもって「人道上重大な懸念を生じる事態」とし、オーブ本国による軍事介入を招こうというものだった。
タマユラ地区租借期限の延長交渉をしないという本国の方針に対して、既得権益を有する側が巻き返しを図っているのだ。それも最悪の形で。
「そんなことしたら・・・戦争ですよ」
「ですから、止めて頂きたい」
計画の発動時期は不明確だが、おそらくはトウキョウ側で何らかの混乱が起これば、それのどさくさに紛れて過激派も動くだろうとの事だった。いつまでこの祭が続くかは、誰にも分からない。
ユンディとタルハは、機械とコンピューターに強いスタッフの手配を頼むと、目の前の機械に取り付いた。
駅前の騒ぎとは異なるが、孤児院で行われているバザーも盛況であった。近所の人が持ち寄ったものを、再び近所の人が買っていく。子供達が焼いたクッキーやケーキも、よく売れていた。神妙な顔でお釣りを数えている子供の表情を、ルーイは小さなカメラに収める。
院の前に車が止まった。院長が姿を現すと、職員達は整列して彼女を出迎える。彼女の表情を見ると、そのような対応に辟易しているようだが、彼らはそれを改めようとは思っていないのだろう。
バザーの手伝いをしてくれている近所の人達に挨拶をして回り、彼女は建物の中に消える。ルーイは街の様子を聞いておこうと思った。
「救護所からの報告は?」
「こちらです、お嬢」
受け取った書類に目を通しながら、ナタリアは上着を着替える。ゼネストでどの企業も動いていない事や、祭でほとんどの人が出払っている事から、寄付の要請は一時休止する事にした。その間、日本人特別居留区で陣頭指揮を取る事にしている。
生存者の捜索はすでに打ち切られているが、これからは被災者の生活支援が必要となる。物資等の集まりはいいのだが、それを適切に配分するために、人手が必要とされるのだ。
ドアの向こうから聞こえるのは、電話口で何事かを激しい口調で訴えている彼女の声だ。ルーイはその場を離れようとする。この状況では流石に邪魔が出来ない。園庭に戻ろうとした彼は、廊下を歩いてくる子供を見つけた。
その子は、お盆を手に慎重な足取りで進んでいる。お茶と、きっと駅前の屋台で買ったのであろうタイ焼きが載せられていた。真剣なその表情に、ルーイはそっと道を譲った。その子は片手を離し、危なっかしい手付きでドアをノックする。
「サチ? どうしたの?」
「ママ・・・これ」
ドアを開けたのは、出かける準備を整えたナタリアだった。既にダルは表の自動車で待っている。作業服にヘルメットを抱えた姿の彼女は、しゃがみこんでサチの顔を見つめる。
「ママのために買ってきてくれたの?」
頷いた彼の顔がパッと明るくなる。ナタリアはタイ焼きを手にし、湯飲みのお茶を飲み干した。彼女はタイ焼きを半分に割って、大きい方を彼に差し出す。
「ゴメンね、サチ。一緒にお祭行けなくて」
彼女はそう言うと、彼の頬に優しくキスをして立ち上がる。ちゃんとみんなのお手伝いをするのよと言い残し、彼女は遠ざかっていった。
残されたサチの表情にさす陰、ルーイには分かるような気がした。
彼は何も一緒に祭見物に行きたかったわけでも、タイ焼きが食べたかったわけでもないのだ。母に、ただ一時の休息を取って欲しかっただけなのだ。何かに駆り立てられるように活動する母の姿に、言いようのない不安を覚えるのだ。
まるで自分自身を削るように、他人の事しか語らない母の姿に、無自覚の不幸を感じるのだ。子はただ、そんな母に幸福であって欲しいと思うだけなのだ。
しょんぼりとたたずむサチの姿を、ルーイは掛ける言葉も見つけられず自分の事のように見つめていた。そう言えばこの子は、アメリの弾くピアノをいつも一番近くに座って聴いている子だった。
十二時を回ったところで、再度試験時間の変更が伝えられた。二度に渡る急遽の時間変更に対して、忍耐を見せていた者達もその一時間後に伝えられた試験中止の連絡には、怒りをあらわにした。事務局が詰めている部屋には何人もの人が押し掛け、怒鳴り声だけが廊下に響き渡っている。だが事務局の人間も、ほとんどがストライキでここには来ていない。
彼らの不安を掻き立てるのは、再試験の日程が不明である事だ。年に一度しか行われない試験が開催者側の都合で中止となれば、何らかの措置がとられてしかるべきである。そうでなければ、ここに集まっている人達はもう一年、研修生という立場で劣悪な労働条件に耐えなくてはならないのだ。
例え、この試験の合格率が宝くじを当てるのと同じくらいの低確率であったとしても、そこに賭ける以外道は無いのだから。アメリは筆記用具を持って立ち上がった。机の左隅に置かれた受験票に手を伸ばそうとするが、それを止める。
「・・・必要、ないものね」
再試験は行われないだろう。彼女と同じように考えている者も多いようで、彼らは一斉に帰り支度を始めていた。幾度かこの試験を受けていれば、自然と分かってしまう事もある。ここは、低賃金労働者以外は不必要な都市なのだ。
荷物を置いてある部屋に出入りする人達に、不満の顔は無かった。この試験を受けたところで、合格できるとも思っていなかったのだから。結果だけ考えれば同じ事なのだ。アメリが、窓際に置いてある鞄に手をかける。
テキストの表紙が、微かに開いた口から見える。『外国人特別研修生日本語検定試験・最新予測問題集』二年前に買った物で、内容を丸暗記するくらいに使い込んでいる。端がすれ切れた表紙が、それを物語っていた。アメリの目から涙が溢れた。
諦めてなど、いるわけがないのだ。何としてでも試験に合格し、きちんと働く場を確保する。例え一縷であっても、望みを持ってこのテキストを繰っていたのだ。
医療従事者としての資格を祖国で取得し、その専門技術を持って働けるという触れ込みで、この国にやって来た。祖国よりも進んだ医療環境の中で、更なるスキルアップも可能という話だった。その話がどうしようもない誇大広告だったという事はすぐに分かったが、逃げ出す事など出来なかった。
父は戦争で死に、一人残った母を養っていくためには、政情不安と経済混乱によって働く場のない祖国ではなく、ここで働くしか方法がないのだ。窓際に置かれた鞄を掴もうとした彼女の目に、外の様子が飛び込んでくる。
色とりどりの屋台が道の両脇に並び、その間の道をたくさんの人が楽しげに歩いている。交差点に設けられたステージでは、バンドによる演奏が行われていた。晴れ渡る空の日差しは、それを見守るかのよう穏やかだった。
アメリは手にした鞄を再び棚へと置いた。
そしてそのまま、部屋を後にする。事務局の前は、まだ人がごった返しており、当分の間騒ぎは収まりそうになかった。彼女は試験会場となっているビルを後にする。
やがて彼女は、背中に大音響を聞き、激しい爆風が通り過ぎるのを感じた。
次回は、月曜日に投稿します。