歩道に突っ込んで来た車を、大熊座の檄が身体で止めた。
聖衣をまとった大男に抱き止められた車の中で、運転手がなおもアクセルを踏み込んでいる。両眼は血走り、表情は狂気に歪み、もはや通行人を轢き殺す事しか頭にないように見える。
檄に助けられた通行人たちも、同じような状態に陥っていた。
普通のサラリーマン、にしか見えない男が、花屋の女性従業員に殴りかかっている。
「やめろ!」
一角獣座の邪武は割って入り、男の拳を顔面に受けた。もちろん一般人の繰り出すパンチなど効きはしない。
だが次の瞬間、後頭部に来た一撃は、いささか強烈だった。
女性従業員が、売り物である鉢植えを、邪武の頭に叩き付けたのだ。
「お、おい……」
邪武が頭を押さえ、呆気に取られている間。花屋の女性は、自分を殴ろうとした男の顔面にも、思いきり鉢植えをぶつけていた。
双方、運転席の男と同じような顔をしている。
東京の、街中である。
目を血走らせ、狂気に顔を歪めた人々が、あちこちで暴力沙汰を引き起こしていた。
通行人は殴り合い、車を運転している者は人を轢こうとしている。
檄が、それら暴走車をことごとく抱き止め、横転させた。
横転した車の中からドライバーたちが這い出し、獣じみた叫び声を張り上げ、殴り合う。
「お、おい! やめんか!」
檄が困惑しながら、仲裁を試みている。この男が本気で馬鹿力を振るったら、仲裁のつもりで殺してしまいかねない。
「フッ……駄目だぜ。素人が、本気の殴り合いなんてやっちゃあ」
声と同時に、疾風が吹いた。音速の疾風。
殴り合っていた男たちが気を失い、倒れ伏す。全員の首筋に打ち込まれた手刀の動きを、邪武は辛うじて視認した。
「……よし、パーフェクト」
そんな事を言いながら、疾風が立ち止まる。
狼座の那智だった。
この男よりもいささか不器用な手加減をしている者もいる。
「ライオネット・ボンバー!」
小獅子座の蛮。
その気合いに合わせて路面が砕け、アスファルトやコンクリートの破片が舞い上がる。
殴り合ったり、立て看板や窓ガラスを叩き割ったりしていた人々が、いくらか怯んで動きを止めた。
「こいつを喰らいたくなかったら大人しくしやがれよ、てめえら。いつまでもバカな事やってんじゃねえ!」
「そ、そうざんす。聖闘士を怒らせたら恐いざんすよ、だから痛っ、おバカな騒ぎはやめにして痛い痛い! かっ髪の毛を引っ張ったら駄目ざんすよぉおおお!」
海蛇座の市が、子供たちに袋叩きにされている。
子供、大人、男女の区別なく、ここにいる人々は皆、外的な何かによって正気を失っている。それは邪武にもわかる。
小宇宙、なのであろうか。
とにかく得体の知れぬ邪悪な力が、悪い空気のように漂って、人々の心を蝕んでいるのだ。
「くっ……こ、こいつは……」
鉢植えを顔面に食らいながら、邪武は歯を食いしばった。
悪しき何かが、聖闘士である自分の心にまで入り込もうとしているのが感じられる。
小宇宙の修練を積んでいない一般の人々であれば、ひとたまりもなく狂気に侵されてしまうのは当然であった。
狂気に侵された人々を懸命に止めながら、那智も檄も、蛮も市も、この得体の知れない侵蝕に抗っているのだろう。
鉢植えを振りかぶっていた女性従業員が突然、膝をついた。そのまま崩れるように、倒れてしまう。
邪武は、何もしていない。
那智も、檄も、蛮も市も、何もしていない。
狂気に駆られ暴れていた人々が、しかし全員、糸を切られた人形の如く倒れ、意識を失っていた。命に別条はないようだ。
虚無。
邪武がまず感じたのは、それである。
無、そのものが人の形を成し、そこに佇んでいる。
そんな感じに、その少女はいつの間にか姿を現していた。
「御苦労だったね、お前たち……聖闘士を叩きのめすようなわけにはいかなくて、さぞかし大変だったろう」
今ここにいる青銅聖闘士5名よりも、いくつか年上と思われる少女。美しい容姿を想像させる声ではあるが、その顔は仮面に覆われている。女性聖闘士の、証である。
美しくしなやかに鍛え込まれた身体には、まるで水着のような白銀聖衣が貼り付いている。
「……確かにね。こいつらが瞬とか星矢の野郎だったら、遠慮なくぶちのめしてたとこですけど」
拳を握りながら邪武は言い、そして倒れた人々を見回した。
「それにしても……一体、何やったんですか。魔鈴さん」
「心を、無にしたのさ」
白銀聖闘士、鷲座の魔鈴は答えた。
「全員、しばらくすれば目を覚ます。その時には……正気に戻ってくれていれば、良いけれど」
「心を、無に……」
自分の心を、無にする。それを、他人の心にまで影響させる。
一般人とは言え、これだけ大勢の人間を、心の虚無で支配する。
(これが……白銀聖闘士……)
自分が最底辺の青銅聖闘士である事を、邪武は改めて認識せざるを得なかった。
これほど化け物じみた力を持つ白銀聖闘士を複数、撃破して、星矢たちはギリシア聖域へ向かったのだと言う。
わからず屋の星矢たちも、ようやく気付いたという事だ。本物の、アテナの存在に。
(お嬢様……)
右の拳を、邪武は左手で握り込んだ。
認めなければならない。今の自分に、城戸沙織の傍で戦う資格などないのだ。
いくら修行をやり直しても、もはや星矢たちとの実力差は埋まらない。
沙織のために出来る事など、何もないのか。
そう思っていたところへ、ギリシア聖域から、この魔鈴という少女がやって来たのだ。
「……ねえ魔鈴さん。一体、何が起こってるんざんすか」
檄に助け起こされながら、市が問いかける。
「まさか、聖域の偽教皇が何か」
「言葉に気をつけなよ。あの教皇が偽物だと、まだ確証を掴めたわけじゃないんだからね」
魔鈴が、仮面の唇の前で人差し指を立てる。
「それに、これは……恐らく、教皇の仕業じゃあない。どうやら今、世界じゅうで同じような事が起こっているらしい。普通の人間が突然、おかしくなって暴れ出す。人死にも出ている」
「くそ……こいつはどうも、アレに似てるぜ」
軽く頭を押さえながら、那智が言った。
「俺が、一輝の野郎に喰らわされたヤツ……あれほど強烈じゃあないが、感じは似てる。こんなもの普通の人間の脳みそに流し込まれたら、そりゃおかしくなるぜ」
「聖域や教皇とは無関係の何者かが、悪しき力を全世界に垂れ流してる。今わかってるのは、その程度さ」
魔鈴が言うと、蛮が激昂した。
「どこのどいつか知らねえが、普通の人間を巻き込むなんざぁ許せねえ! おい邪武、てめえをブチのめすのは後回しだ。まずはそいつらを、俺のライオネットボンバーで!」
「落ち着けよ。そいつらを許せねえのは、俺も同じだ」
この蛮という男、格段に腕を上げた。もう1度戦って、邪武が勝てるかどうかはわからない。
だが仮に自分と蛮が2人がかりで挑んだとしても、もはや星矢にも瞬にも勝てないだろう。
そんな事をどうしても考えてしまう邪武に、星矢の師匠であるという女聖闘士が言葉をかける。
「お前たちには使命がある……アテナを守る、使命がね」
仮面の下で、魔鈴は微笑んだようだ。
「銀河戦争に臨んだ、運命の聖闘士10人……うち1人が欠けても、アテナを守る事は出来ない。そこに星矢とお前の違いなんてものは存在しないのさ。行くよ、聖域へ」
「……俺たちも、行くんですか?」
人々の倒れる様を見回しながら、檄が言う。
「だけど普通の人々が、こうして邪悪な力に脅かされている。それを何とかしなければ」
「それは聖域の方で手を打っているはずさ。あの教皇も、アテナと敵対する道を選んだとは言え……地上の平和を守る義務まで捨て去ったわけじゃないようだからね。今のところは、だけど」
教皇の命を受けて聖域の聖闘士が動き、この狂気の根源である何者かを討伐する。
そう、聖闘士は星矢たちだけでも自分たちだけでもないのだ、と邪武は改めて思った。
「……そう言えばね、ちらりと耳に挟んだお話があるざんすよ」
市が言った。
「何とびっくり、あの漁牙と勇魚が聖闘士になったそうで」
「漁牙のバカが? まあ確かに、身体だけは頑丈な奴だったからなあ」
蛮が、懐かしそうな声を出す。
「勇魚もなあ。俺、ずいぶん苛めてたからなあ。生きてるんなら、謝らねえと」
「あと海斗も」
市が、人差し指を立てた。
「あの要領良しの海斗が、やっぱり要領良く立ち回って、上手いこと聖衣を手に入れたみたいざんすねえ」
「海斗かあ。俺も何度、あいつをぶちのめそうかと思った事か」
檄が、苦笑している。
「因縁をつけても、さらりとかわされる。喧嘩を避けるのが、とんでもなく上手い奴だった」
「……気に入らねえな」
邪武は呻いた。
「あいつら本当に聖闘士になったんなら、何で日本へ帰って来ねえ……何で、お嬢様のために戦おうとしねえ……!」
さらさらと美しい金髪が、風もないのに揺らめいているように見えた。
長い髪である。女性か、と海斗は思った。
女性の聖闘士にしては、しかし仮面を着けていない。神々しくさえある美貌が、露わである。
両目を、閉ざしている。伏せられた長い睫毛が、何かとてつもないものを覆い隠しているように海斗は感じた。
眠っている、わけではないようだ。訓練場を見下ろす石段の上で座禅を組み、ぴんと背筋を伸ばしている。
体格は細いが、よく見ると肩幅の広い、明らかな男の体型である。アルデバランのように目立つ筋肉ではないが、しっかりと無駄なく鍛え込まれている事はわかる。
その身体に、粗末な白い衣服をまとっている。聖域で下働きをしている人々のように。
聖衣でも着用してくれていれば、せめて階級くらいは判明するのだが。
青銅聖闘士・羅針盤座の海斗は、そう思いつつ一応、頭を下げた。相手が何者なのかは不明だが、高位の白銀聖闘士かも知れないからだ。
長い金髪の男が、目を閉じたまま軽く睫毛を動かした。
目礼を返してくれたのだ、と判断しつつ、海斗は声をかけた。
「あの……これから訓練場、使ったりしますか? 俺たち今から戦闘訓練しようと思ってるんですけど」
「それは良い事だ。励みたまえ、私に構わず」
やはり目を閉じたまま、金髪の男は言った。
「私は、空気のようなものだ。気にせず鍛錬を積むと良い」
「何か、技の余波みたいなものが飛んで来るかも知れません。ちゃんと避けて下さいよ」
言い残し、海斗は訓練場の方へと降りて行った。3人の仲間と共にだ。
計4人の少年……いや、1人は少女だ。
青銅聖闘士、帆座のナギ。ほぼ同い年の城戸沙織と比べて若干凹凸に乏しいか、と思える細身に、今は聖衣をまとっていない。だが当然、仮面は着けている。
その仮面の下で、ナギは声を潜めた。
「……誰? あの人」
「何か偉そうにしてやがるよな。どうせ白銀の誰かだろ」
言ったのは、竜骨座の漁牙である。
大柄でたくましい身体は、4人の中では最も強そうに見える。今は粗末な雑兵の装いだが、厳つい竜骨座の聖衣を装着すれば、さらに強そうに見えるだろう。実際、弱いわけではないのだが。
「……何と言うか、得体の知れない小宇宙を感じる」
艫座の勇魚が言った。
漁牙とは対照的に、小柄な体格をしている。海斗よりも、いくらか細い。顔つきもたおやかで、昔は瞬と一緒によくいじめられていたものだ。
「強いて言うなら、デスマスク様に似ているかも。あの邪悪な小宇宙と、同じような感じがする」
「え……じゃあ、もしかして黄金聖闘士?」
石段の上で座禅を組む男を、ナギがちらりと盗み見る。
「あたしたちが知らない黄金聖闘士って言うと……天秤座とか双子座とか、その辺りの人?」
「例の、ムウって人かも知れないぞ。女みたいに綺麗な人だって話だからな」
海斗は言った。
牡羊座のムウが聖域に帰って来たのなら、海斗としては、長らく白羊宮を空けていた理由と事情を訊いてみたいところではある。
代わりに白羊宮を守った、とまでは言えないものの、十二宮最初の砦を蹂躙せんとする敵を相手に、いささか痛い思いをしたのは事実なのだ。
勇魚が、小さな声を出した。
「いろいろ噂を聞く、乙女座の黄金聖闘士っていうのが、あの人じゃないのかな」
「んなワケねえよ。乙女座だぜ? ナギなんざぁ問題にならねえくらい可愛い女の子に決まってんだろうが」
漁牙が、いくらか大きな声を出した。
「あんな胡散臭い兄ちゃんじゃねえ、キラキラするような美少女聖闘士」
その口を、海斗は左手で塞いだ。
石段の上の男が、目だけではなく耳も閉ざしてくれている事を祈るしかないまま、海斗は漁牙の大きな身体を引きずった。
「バカな事言ってないで、始めるぞ」
青銅聖闘士4名、聖衣なしでの実戦訓練である。
「勇魚と俺、ナギと漁牙でコンビを組んで2対2だ。ただし、裏切りも有りという事で」
「じゃあ早速いかせてもらうわ」
ナギの蹴りが、漁牙に叩き込まれていた。
蹴り飛ばされた少年の大きな身体が、訓練場の石畳に激突する。
地響きが起こった。地面が揺れた。訓練場全体が、揺れていた。
漁牙の落下によって、ではない。
「な……何だ、地震か!?」
転倒しかけた身体を、どうにか踏みとどまらせながら、海斗は見回した。
石畳が、石柱や石段が、あちこちで砕け崩れている。
訓練場が、崩壊しつつあった。
「訓練場だけじゃない……聖域、全体が揺れている……?」
「これは……聖域近辺の、町や村も……!」
揺れて砕ける石畳の上で、勇魚が走り出す。
それを阻む形に、何かが姿を現した。砕けた石畳を飛び散らせ、地中から出現していた。
「うわ……わわわわ、なな何だコイツらあ!」
起き上がろうとしながら悲鳴を上げる漁牙の周囲でも、それらは石畳の破片を押しのけ立ち上がっていた。
地中より現れた異形の群れが、青銅聖闘士4名を取り囲んでいる。
人間の体型をした、だが明らかに人間ではない生き物たち。
直立した両生類、あるいは四肢を生やした怪魚。
そんな姿をした怪物たちが、一斉に襲いかかって来る。鋭利な牙で、海斗と勇魚を食いちぎろうとする。水掻きと鉤爪を備えた手で、ナギと漁牙を掴み裂こうとする。
「ちょっと何よ、またハーデスの手先!?」
ナギの綺麗な両手が鋭い手刀となり、超高速で閃いて怪物たちの首を刎ねてゆく。
その近くでは勇魚が両手で竪琴を抱えたまま跳躍し、空中を舞うような蹴りで怪物たちを薙ぎ払い粉砕する。
「もしかして……また、グラード財団が……?」
「今度は、こんな連中を送り込んで来たって言うのか!」
食らいついてくる怪物たちの顔面に、海斗は次々と拳を打ち込んだ。
ぐちゃっ、ビチャッ! と生々しい粉砕の手応えが返って来る。蛙のような魚のような顔面が複数、ことごとく砕け飛び散った。
群れを成す怪物たちの数は、しかし一向に減ったように見えない。訓練場のあちこちで石畳を粉砕し、地中から現れ出ては襲いかかって来る。
その群れの真っ只中に、漁牙の大きな身体が突っ込んで行く。
「俺に任せな! スカルドラゴン・クラッシャー!」
漁牙の小宇宙が、巨大な竜の骨格を形成した。
荒れ狂う骸骨竜が、群れる怪物たちを踏み潰し、尻尾で叩き潰し、牙で食いちぎる。
20体近くが、漁牙によって粉砕されていた。
30体以上の怪物たちが、補充されるかの如く即座に地中から現れ、凶暴に群がって来る。
「くっ……これは、他の聖闘士と合流した方が……」
襲いかかって来た怪物数匹を殴り潰しながら、海斗は逃げ道を探した。見回し、そして気付いた。
自分たちのいる場所が、石造りの訓練場ではなくなっていた。
ひび割れた荒野である。両生類のような怪魚のような生き物たちで満たされた、荒野。
無数の怪物たちが、あらゆる方向から群がり押し寄せて来る。
逃げ道など、どこにもなかった。
「逃げ道が欲しいのかね? ならば用意してあげよう」
声が聞こえた。
怪物たちが人語を発している、わけではない。
何者かが、姿を現さずに喋っている。とてつもなく強大な小宇宙を有する、何者かが。
その小宇宙だけを、海斗は感じていた。
「だ……誰だ?」
「私は空気のようなもの。そう言ったであろう。さあ、選びたまえ」
巨大な扉が4つ、海斗たちを取り囲む形に浮かんでいる。
東西南北に各1つずつ、重厚な石の扉だけが浮かんでいるのだ。
それらがしかし、この荒野以外のどこかへと通じる扉である事が、海斗にはわかった。
「東の老門、南の病門、西の死門、北の生門……選ぶが良い。逃げ道は、ただ1つ。いや、全て滅びへと通ずる道かも知れぬがな。選ばず、そこで怪物たちに殺されるのも君たちの自由だ」
喋っている何者かは、自分たちを罠にはめようとしている。海斗は、そう思った。
ならば、東西南北どの扉を選んだとしても、罠に陥るだけではないのか。
「これは……仏陀の、四門」
勇魚が呻いた。
「オルフェ先生から、聞いた事がある。仏陀は『老』『病』『死』の三苦を東南西の門で悟った後、北の生門から出家したという。だ、だけど僕たちは……」
訓練場で、青銅聖闘士4人が右往左往してる。まるで見えない敵とでも戦っているかのようだ。
その様子を、石段の上から見下ろしている男に、山羊座のシュラは言葉を投げた。
「何をしている」
「見たまえ彼らを。まるで釈尊の掌を走り回る、孫悟空のようではないか」
目を閉じたまま、その男は見ているのだ。己の掌の上で逃げ惑う、青銅聖闘士たちの有り様を。
「あるいは餓鬼界・修羅界の亡者たちかな。フッ、可愛いものよ」
「……青銅聖闘士で遊ぶな」
シュラは左の手刀をかざした。聖剣で幻覚を切り裂き、4人を救い出してやらねばならない。
「まあ待ちたまえ。彼らが四門のいずれを選ぶか、それを見届けようではないか」
「黄金聖闘士随一の暇人が……」
シュラは舌打ちをした。
「そろそろ忙しくなるかも知れんのだぞ。心構えくらいはしておけ」
「何か、由々しき事態でも?」
「貴様も、噂くらいは聞いていようが……」
そこでシュラは、話を中断した。
青銅聖闘士4名が、こちらに歩み寄って来たからだ。
この男の作り出した幻覚から、ひとまずは脱出したようである。
「あんた……あんたの仕業ですか。今の、わけわかんない幻覚は」
羅針盤座の海斗が、不機嫌そのものの声を発する。
「まあ戦闘訓練の一環って事にしときますけどね」
「躊躇いもなく生門を選ぶのだな、君たちは」
結跏趺坐を組んだ男が、目を開く事なく微笑んだ。
「遥か昔……目的を達せず生きながらえる事よりも、死をもって先へ進む事を選んだ男がいた。彼は戦士として、迷う事なく死門を選んだという。見習おう、という気持ちはあるのかね?」
「その人はその人で凄いんでしょうけど、俺たち死にたくありませんから」
海斗が至極もっともな事を言う。
「女神のため、地上の平和を守るため、聖域を、教皇をお守りするため、命を捨てなきゃいけない時はあるでしょう。あんなワケわかんない所で死を選んでなんかいられないですよ」
「フッ……それも、そうかな」
「あの、シュラ様……誰なんですか? この人」
「黄金聖闘士の中で、最もたちの悪い男だ。関わり合いにならん方がいい……それよりもだ」
シュラは1度、咳払いをした。
「教皇から、お前たち4人に命令が下った。心して聞け」
「は、はい」
4名の青銅聖闘士が、姿勢を正した。
「邪悪なるものが、蘇ろうとしている……世界各地で起こる異変、お前たちも聞いてはいるだろう」
「あの……街中とかで人が、いきなりおかしくなって暴れ出したりするっていう」
人死にも出ているらしい、という噂は海斗も耳にしている。
「その狂気の根源たるものが、復活しつつあるのだ。とある場所……南緯47度9分、西経126度43分の海において!」
シュラは、右の手刀を一閃させた。
聖剣。小宇宙の斬撃。
シュラの傍で、空間がざっくりと裂けた。
そこから、瘴気にも似た、目に見えぬ禍々しい何かが溢れ出す。
「うわ……な、何だこりゃああああ!」
漁牙が、まずは悲鳴を上げた。
「こ、これって小宇宙? なのか?」
「デスマスク様の小宇宙とも違う……この、禍々しさ……」
勇魚が呻く。ナギも、息を呑んでいる。
「これが……こんなのが、世界じゅうに拡散してるって事ですか?」
「こんなの……普通の人が浴びちゃったら、そりゃおかしくなる。一応は聖闘士の端くれである俺たちだって……ちょっと、キツいもんな」
歯を食いしばり、拳を握る海斗の傍に、いつの間にか巨大な箱が出現していた。
漁牙、ナギ、勇魚の傍にも。
羅針盤座、竜骨座、艫座、帆座。4つの青銅聖衣を内包する、聖衣櫃。
「俺たち死にたくありませんから……なんて、言ってる場合じゃないみたいですね」
海斗の言葉に合わせるかの如く、羅針盤座の聖衣櫃が開いた。
光が、飛び出した。
その光を身にまといながら、海斗が言う。
「行きます。その空間の裂け目を通って、行けるって事ですよね?」
「そうだ。この狂気の根源たるものが居る場所へと、繋がっている」
シュラは答え、4人の青銅聖闘士をちらりと見渡した。
全員、各々の聖衣を装着し終えている。
南天のアルゴ号を成す、4つの星座。
これらが1つに集い、英雄の戦船が完成した時、黄金聖闘士にも等しい小宇宙が発現するという。
「馬鹿げた言い伝えを、俺は信じているわけではない。だが……お前たちは、まがりなりにも1度は死線をくぐり抜けた。その経験を活かして見せろ。そして狂気の根源を討ち滅ぼすのだ」
「あの……」
おずおずと空間の裂け目を指差しながら、漁牙がいささか弱気な声を発する。
「これ、行って……帰って来れる、んスよね?」
「この裂け目は、我が聖剣の斬撃がもたらしたもの。俺が生きている限り消える事はない。お前たち程度の小宇宙を持つ者であれば、自由に通り抜ける事が出来る。何度でもな」
答えつつ、シュラは睨み据えた。
「だからと言って、何もせず逃げ帰って来てみろ。その首を刎ね、聖域の入り口に晒してくれるぞ」
「うへえ……い、行って参ります」
漁牙が、まずは空間の裂け目に飛び込んだ。
それに続こうとしながら、ナギが振り向いた。
「あのう、シュラ様……上手いこと敵をやっつけて帰って来たら、何か御褒美とか出ますか?」
見返りを求めず、地上の愛と平和のために戦うのが聖闘士の務めであろうが。
そう怒鳴ろうとして、シュラは思いとどまった。自分に、そんな立派な事を口走る資格はない。
「……何が欲しい。黄金聖闘士の裁量で叶う限りの事は、してやろう」
「水瓶座のカミュ様に、会わせて欲しいんです!」
帆座の聖衣のチェスト部分で、ナギは両手を握り合わせた。
「デートのセッティング……なんて、黄金聖闘士の方に期待は出来ませんから。弟子入りの口利きとか、して下さると嬉しいかなぁーなんて。1対1の模擬戦の最中で、つい偶然に仮面が外れちゃうような立ち回り、あたしやって見せますからっ」
「…………善処はしてやる。さっさと行け」
「青銅聖闘士、帆座のナギ! これより戦地に赴きますッ」
嬉しそうに敬礼をしてから、ナギは空間の裂け目に飛び込んだ。
「シュラ様、僕も1つ……望む事が……」
勇魚が言いかけ、竪琴を抱き締めた。
「……いえ、何でもありません。行きます」
空間の裂け目に身を滑り込ませる勇魚を、シュラはじっと見送った。
勇魚が何を望んでいたのか、それはわかる。
しかしそれは、黄金聖闘士の裁量で決められる事ではなかった。
琴座のオルフェが、ハーデス軍の一員として聖域に戦いを挑んできたら。
シュラ個人にオルフェを見逃す意思があったとしても、結局は他の聖闘士が彼と戦う事になるのだ。
海斗が、仲間3人の後をなかなか追おうとせず、こちらを見上げている。
シュラではなく、結跏趺坐の男を見据えている。
「行く前に1つだけ聞かせて下さい。その死門を選んだっていう人……結局、どうなったんですか?」
「死門に入ったからには生きておれぬ。戦いの中で、命を落とした」
両目を閉ざしたまま、男は答えた。
「彼の戦いが何であったのか、何のために彼は戦っていたのか、彼の戦いと死が何をもたらしたのか。それは残念ながら、この時代には伝わっていない……一方、君たちは生門を選んでしまった。死よりも過酷な、果てなき苦行の道を歩む事になるぞ」
「金持ちに犬みたく飼われて、高慢ちきなお嬢様に馬みたく扱われる生活……よりは、マシじゃないかなって思いますよ」
海斗は、不敵に微笑んだ。
「……行きます、シュラ様。それと誰だかわかんない人。帰って来たら、あんたが何者なのかも教えて下さいよ」
空間の裂け目に飛び込みながら、海斗はもう一言だけ残した。
「もしも、あんたが牡羊座のムウ様なら……いなくなってた理由、ちゃんと聞かせてもらいますからね」
青銅聖闘士4名が、裂け目の中へと姿を消した。
両目を閉じた男が、結跏趺坐を組んだまま微笑する。
「彼がジャミールから帰って来ない理由……むしろ我々の方が、知りたいのだがな」
シュラは知っている。牡羊座のムウが、ここ聖域に戻って来ない理由。
あの男は、知ってはならない事を知ってしまったのだ。
いずれ、お前にジャミールまで行ってもらわねばならなくなるかも知れん。教皇はシュラに、そう言った。
(ムウよ、俺は貴様を殺さねばならなくなる……あの男のように)
「それにしても、相変わらず見事なものだな。君の聖剣」
結跏趺坐の男が、褒めてくれた。
「空間を切り裂き、任意の場所に繋げるとは」
「この程度、お前にとっても容易い事だろう」
「フッ……どうかな。私では、南緯47度9分の地点に送るつもりが、うっかり六道のどこかへ飛ばしてしまいかねん」
南緯47度9分、西経126度43分。
そこが、いかなる場所であるのか。この男も、知ってはいるはずだ。
「……浮上したようだな、かの悪しき神殿が」
「まだ完全ではあるまい。あれが完全に蘇ったとしたら……この程度では済まん」
自身が宙に残した空間の裂け目を見据え、シュラは言った。
悪しき狂気が、そこから溢れ出している。漏洩している。
ここ聖域には、アテナの聖なる小宇宙が満ちているのだ。これしきの狂気は問題にならない。聖域に出入りする人々が、狂気に侵される事はない。
今のところは、だ。
「青銅聖闘士では、荷が重すぎるのではないかね?」
目を閉じた男が、至極もっともな事を言う。
「先程、彼らに見せた幻覚……私は、あのような怪物たちを登場させるつもりはなかった」
「怪物だと?」
「あれは紛れもなく、深き者ども……私の作り出す幻影にまで影響を及ぼしてくるほどには、力を復活させているようだ」
「深き者どもの主が、か」
この男の小宇宙にまで影響をもたらすほどの何かが、南緯47度9分・西経126度43分の海において、復活を遂げようとしているのだ。
青銅聖闘士4名を無駄死にさせる事にしかならないのではないか、とはシュラも思う。
「我ら黄金聖闘士の誰かを向かわせるべきではないか、と私は思うのだが」
「聖域は今、厳戒態勢にある。黄金聖闘士を動かすわけにはいかん……お前も、噂は聞いているのだろう?」
「由々しき事態、なのだったな」
「日本へ向かった白銀聖闘士10名が、ことごとく倒されたらしい」
「例の、偽物の女神を擁立しているという青銅聖闘士たちか……なかなかやるではないか。窮鼠猫を噛む、というわけかな」
シュラは思う。
この男から見れば、白銀聖闘士と青銅聖闘士の力の差など、猫と鼠の違いでしかないのだろう。
南緯47度9分・西経126度43分。
ニュージーランド、南米大陸、南極大陸に囲まれた、南太平洋・到達困難点。
絶海とも言うべき海域に、その神殿は浮上していた。
「人は、浅い眠りの中で夢を見る……」
神殿最奥部。闇の中で、男は呟いた。
「我らが支配者も、夢を見ておられる……その眠りは、浅い。目覚めの時は近いぞ」
闇の中で、その身を包む鎧が、鈍く禍々しく光を発する。
男の両眼もまた、邪悪な光を孕んでいた。
「世の人間どもは、その大いなる夢を、我らが支配者と共有し……狂う者は狂い、死ぬ者は死ぬ。生き延びた者のみが、新しき世の民となるのだ」
「狂気に抗い、我らに戦いを挑んでくる者もおりましょう」
別の男が言った。
やはり、鈍く禍々しく輝く鎧を、身にまとっている。
「先日捕えた、あの少年のように……ダゴン様。あの者の処遇、いかがなさるおつもりか」
「人質として生かしておけ。何かの取引に、使えるかも知れん」
「人質で動く相手とも思えませんが……」
「人質に使えぬとしても、あれほどの戦士。ただ殺してしまうのは、力と命の無駄遣いというもの」
3人目の男が、優しげな声を発する。
「いずれ私が、操り人形として可愛がってあげましょう」
「それに、こやつらを率いる実戦指揮官が、この先いくらでも必要になる」
ダゴン様、と呼ばれた男が、この場に集って群れをなす者たちを睥睨する。
闇の中、聞きようによっては何かしらの言語と受け取れぬ事もない呻きを発する、奇怪な生き物たち。
一応は人間の体型をした、だが人間ではない者たちが、偉大なる旧き支配者の御名を唱和しているのだ。
直立した両生類、あるいは四肢を生やした怪魚。そんな生き物たちが。
「深き者ども……我らが支配者の忠実なる尖兵たちよ、時は来た!」
潮の匂いに満ちた闇の中、ダゴンの声が高らかに響き渡る。
「我らの望む新しき世は、しかし旧き世でもある。世の人々が、偉大なる支配者のもたらす、心地良き狂気に抱かれていた時代……旧き良き世の再来を、しかし拒む者どもがいる。その名はアテナの聖闘士! あやつらに対する、一切の暴虐を今お前たちに許可しよう。殺し、喰らい、その魂を我らが支配者に捧げるのだ!」