夢を見るのは、眠りの浅い時である。それは人も神も同様だ。
神の眠りが、ほんの少しずつではあるが深まってゆく。夢が、弱まってゆく。
それを、ダゴンは感じていた。
「アテナの聖闘士が……畏れ知らずにも、我らが神を眠らせようと?」
ルルイエ内部に、いくらか慌ただしく足音を響かせながら、ダゴンは地上へと向かっていた。いや、海上と言うべきか。
南太平洋上に浮かび上がったルルイエ表層部では現在、ゾス・オムモグがアテナの聖闘士たちを迎え撃っているはずであった。
その戦いの最中、得体の知れぬ技を放って、神を眠らせにかかる。
そんな芸当が、青銅聖闘士に可能なのか。
現に、神の夢の出力が、ゆっくりとではあるが確実に弱まりつつあるのをダゴンは感じていた。
このまま何も手を打たずにいれば、大いに時間はかかるにせよ神は再び、夢も見ないほどの深き眠りに陥ってしまうだろう。
無論、そうなる前にゾス・オムモグが聖闘士たちを葬り去ってくれれば良い。
だが相手は、ムナガラーを倒した者たちなのだ。
最下級の青銅聖闘士が4名。そう聞いていた。
いくらか甘く見ていた事を、ダゴンとしては認めざるを得ない。
「良かろう、アテナの聖闘士よ。私が直々に、お前たちを……我らが神への、供物にしてやる」
語りかけながら、ダゴンは立ち止まった。
不穏な小宇宙が、渦巻いている。
何者かが、不意打ちを狙っている。
「……何にしても、お前たちは死ぬのだ。せめて正々堂々と戦って見せてはどうか?」
「正々堂々が出来るのは、黄金の人たち……あとまあ、白銀の上の方の人たち」
潮の匂いに満ちた闇の中から、細い人影が2つ現れ、ダゴンの行く手を阻んで立つ。
聖衣をまとった、少年と少女。言葉を発しているのは、少女の方だ。
「あたしらは青銅の下っ端……手段を選ばず、なりふり構わず、いかしてもらうわよ。ほら海斗、しゃんとしなさい! こんな戦い、さっさと終わらせなきゃいけないんだからね!」
水着のような青銅聖衣をまとう少女の細身が、小宇宙を立ち昇らせ揺らめかせる。
「さっさと終わらせて、カミュ様に会いに行くのよ!」
「何という……邪念妄念に満ちた、おぞましい小宇宙である事か」
ダゴンは呆れた。
「暗黒聖闘士、あるいはハーデスの冥闘士でさえ、これほど邪悪な小宇宙を持ってはいないだろう。我らが神のもたらす夢の中で、せめて心地良く狂い果てるが良い」
「夢……そうだよな。あんなものは、ただの夢だ。悪趣味な幻覚だ」
少年の方が、まるで己に言い聞かせるかのように呻く。
「おかしな夢で、人を狂わせる神様なんてもの……放っておくわけには、いかないんだよ」
聖闘士で言うところの、聖衣と同じようなものであろう。
禍々しく輝く鎧に身を包んだ、若い男である。ノコギリの如く鋭利な金属の鰭が、その全身あちこちで広がっている。
金属の半魚人、とでも表現すべき装いをした男が、ちらりと周囲を見回した。
「……君たち2人しか、いないようだな? 4人いる、と聞いていたのだが」
「4人もいるんだから、効率良く分業をしないとね」
青銅聖闘士・帆座のナギが言った。
「上では勇魚と漁牙が、まあ柄にもなく頑張っちゃってるから。あたしらも負けてらんないわけで」
「なるほど……このダゴンを、青銅聖闘士2名で倒せると。君たちは愚かしくも思ってしまったわけだな」
ダゴン、と名乗った男の体内で、とてつもなく強大な小宇宙がうねり渦巻くのを、海斗は感じ取った。
「恐れ知らずな事よ。我らを相手に、人数を分けるとは」
「ちんたらやってられないからね。ほら、やるわよ海斗!」
「あ……ああ」
こんな事をしている場合では、ないのではないか。
青銅聖闘士・羅針盤座の海斗は、そんな事を思った。
こんな所で、こんな手強そうな敵と戦うよりも、ギリシア・聖域に一刻も早く戻るべきではないのか。
先程の幻覚。あれは本当に、幻覚なのか。
聖域で今、現実に起こっている事ではないのか。
グラード財団が、本格的に戦いを挑んできたのだとしたら。星矢たちが城戸沙織に率いられ、聖域に攻め入ったのだとしたら。
海斗も、ナギも漁牙も勇魚も、教皇のもとで戦うべきではないのか。
聖域を、守るために。アテナを、教皇を、守るために。
もちろん星矢たちが、十二宮を突破など出来るわけがない。
だが海斗の脳裏からは、あの光景が消えてはくれなかった。
崩壊した十二宮。瓦礫の中に倒れ伏す黄金聖闘士たち。跪きながら絶命する教皇。
幻覚でしかないはずの、そんな光景に、海斗が囚われている間。ナギは、すでに戦いを始めていた。
「セーリング・ウェイブ・ソルト!」
水着にも似た青銅聖衣をまとう少女の細身が、舞うように跳躍しながら柔らかく反り返る。
すらりと形良い脚が、真下から真上へと一閃し弧を描く。
その蹴りに合わせて、高波が生じた。迸る、小宇宙の高波。
それをダゴンは、
「フッ……子供のお遊戯にしては、なかなかだ」
左手の人差し指1本で、粉砕した。
深き者どもを数体まとめて粉砕する高波が、ダゴンの人差し指に触れられただけで弱々しい水飛沫と化し、散りながら消滅したのだ。
間髪入れず、今度は自分が攻撃を仕掛けるべきなのだろうと海斗は思う。頭では、わかっている。
ダゴンという、この強大な敵に、いくらかでも隙を見出す事が出来るとすれば。それはナギの攻撃に対処し終えたばかりの、今しかない。
だが海斗は、やはり思ってしまう。
こんな所で戦っている場合ではない。早急にギリシアへ……否、自分1人は日本へ向かうべきではないのかと。
日本では、白銀聖闘士・蜥蜴座のミスティが今頃、星矢たちと戦っているはずだ。
加勢しなければならない、と海斗は思う。
加勢はおこがましいにせよ、師匠の楯になるくらいの事は出来る。
自分が楯にならなければ、あの幻覚が現実のものとなる、のではないか。
海斗の脳裏で、胸中で、ミスティは微笑みながら血を流している。
そして浅瀬の中に倒れ、動かなくなる。
(ミスティ先生……!)
この場にいない師匠に、海斗が心の中で呼びかけている間。
ダゴンが、拳を振るっていた。
その拳圧と、小宇宙の奔流とが一緒くたになってナギを直撃する。
少女の細身が、風に舞う木の葉のように吹っ飛んで天井に激突し、石畳に落下した。
「ナギ……!」
息を呑む海斗に、ダゴンが微笑みかける。優しく、冷たく。
「我らの神が、君に……随分と、怖い夢を見せてしまったようだな」
「…………!」
海斗は後退りをした。
強大極まる小宇宙が、禍々しく渦巻きながら押し寄せて来る。
違う、と海斗は感じた。
このダゴンという男、ムナガラーやゾス・オムモグと比べても格が違う。
仮に勇魚と漁牙がここにいて4人がかりで戦ったとしても、歯が立たないのではないか。
そんな相手をナギ1人に押し付けて自分は一体、何をやっているのか。
「安心したまえ、もう怖い思いはさせない。その幻覚から、君を解放してあげよう……あるいは現実なのかもしれない、その幻覚から」
「ナギ……」
呆然と、海斗は呼びかけた。
ナギは応えない。倒れたまま動かない。
生死を確認している暇すら、今はない。
ダゴンが、金属の鰭を装着した腕で、激しく空間を薙いだからだ。
「この海で、我らが神に抱かれ眠るが良い……レイジング・オーシャン!」
巨大な怪魚が、力強く鰭を羽ばたかせて海中を猛進する。
その様を、海斗は確かに見た。
島と見紛うばかりの怪魚。ダゴンの小宇宙によって形作られた、その巨大な牙が、眼前に迫る。
海斗は動けなかった。身体も、闘志も、萎縮しきっている。
動けぬ海斗の代わりに、動けなかったナギが動いていた。
潮臭い石畳に倒れ伏していた細身が、跳ね起きると同時に跳躍し、海斗の面前に着地する。
「……セーリング・カウンターッ!」
ナギの小宇宙が、羽衣の如く揺らめきながら少女の全身にまとわりつく。
敵の攻撃を受け止めて己の推進力に変える、小宇宙の帆。
それが、しかし怪魚の牙に食いちぎられた。
ダゴンの巨大な小宇宙が、ナギを直撃していた。
水着のような帆座の聖衣が、痛々しくひび割れ、その亀裂から鮮血がしぶく様を、海斗はただ呆然と見つめるしかなかった。
「ナギ……」
名を呼び、腕を広げる、くらいの事は出来る。
倒れ込んで来る少女の細身を、海斗は抱き止めていた。
「おい、ナギ……ナギってば、おい! しっかり、しろよ……」
「…………かい……と……?」
ひび割れた仮面の下でナギが、辛うじて聞き取れる声を発した。
「ちょっと……どこに、いるのよ……声、ずいぶん……遠いんだけど……」
「何、言ってんだよ……」
ここにいる、すぐ近くにいるじゃないか。
その言葉を海斗は、発する事が出来なかった。
ナギには今、海斗の顔が見えていない。海斗の声が、聞こえていない。
こうして抱き支えられている感触も、ないのではないか。
痛みすら感じていない、のかも知れない。
痛覚そのものが、ダゴンによって破壊された状態。
ナギは今、すべての感覚を失いつつあるのだ。
言っても仕方のない事を、海斗は口にしていた。
「ナギ……俺の、せいで……」
「……ちゃんと、見たわね? ……あいつの技……」
仮面の下でナギは微笑んだ、のであろうか。
「1度、見た技は……聖闘士には通用しない……それ、証明しなさいよね……」
「ナギ……おい!」
「……あたし……ちょっと、休んでるから……」
それきり、ナギは何も言わなくなった。
呼びかけても返事はない。揺さぶっても、反応してくれない。
「やめておけ。その少女は死んだ……受け入れろ。そっとしておいてやるが良い」
言いつつダゴンが、技の構えに入っている。
動かぬナギの身体を、海斗はそっと石畳に横たえた。
そして立ち上がり、ダゴンと対峙する。
(ミスティ先生……)
心の中で、海斗は問いかけた。
(大丈夫、ですよね……いりませんよね、俺の加勢なんて……俺、ここで戦わなきゃ……)
「そう、それで良い。戦え、アテナの聖闘士よ」
ダゴンが、獰猛に笑う。
「ここまで来たら、もはや戦って死ぬしかないのだ……レイジング・オーシャン!」
荒ぶる小宇宙が、巨大な怪魚を形作り、牙を剥く。
しっかりと見据えながら、海斗は踏み込んでいた。
凄まじい小宇宙の流れが、はっきりと見えた。
衝撃が、海斗の肩と背中をかすめて行く。
踏み込みながら、怪魚の牙をかわし、かわすと同時にダゴンの懐へと達する。
そこで海斗は、小宇宙を一気に燃焼させた。
ダゴンが、息を呑んでいる。
「何……」
「ナギの言葉が、聞こえてなかったみたいだな。聖闘士に、1度見た技は通用しない……マーブルトリパー!」
海斗の技が、ダゴンを粉砕した。
否、砕け散ったのは残像だった。ダゴンはすでに、海斗の背後にいる。
「仲間の死によって、強くなる……それが本当に出来る者、そうはいない。ほめてやるぞ少年!」
凄まじい風が、海斗の細い身体を揺らした。
ダゴンの拳、続いて蹴り。
暴風に舞う木の葉か羽毛のように頼りなくよろめきながら、しかし海斗はかわしていた。
かわしながら、拳を繰り出す。
聖闘士の闘技の基本、流星拳。2発、3発と立て続けに叩き込む。
命中した、ように見えた。しかし手応えがない。
海斗の流星拳は全て、ダゴンの身体を擦り抜けていた。
幽体のような残像を残す、高速の回避だった。
「攻撃が……今一つ、のようだな? 君は」
ダゴンの嘲笑、と同時に攻撃が来た。拳。海斗は、今度はかわせなかった。
「ぐっ……!」
吹っ飛び、石壁に激突し、ずり落ちる海斗に、ダゴンが言葉をかける。
「回避をしながら、私の死角を狙って来る……君のその動きには実に見るべきものがある。だが悲しいかな、決定力不足は如何ともしがたいようだ。攻撃は他の者に任せて自身は撹乱と牽制に徹するのが、君に最も適した戦い方と言える」
言葉と一緒に、ダゴンの小宇宙が渦巻き燃え上がる。
「やはり人数を分けるべきではなかったな。連携なくしては戦えない……1人では、何も出来ない。それが君たちだ」
「そんな事は……」
壁にすがりつくようにして、海斗はどうにか立ち上がった。
「この、羅針盤座なんていう……地味な聖衣をもらった時点で、わかってたよ……だけど今は! 1人で、戦わなきゃいけない! あんたを、それにここの神様を、とっとと倒して! 聖域の様子を見に帰らなきゃならないんだ!」
そして、日本へも行かなければならない。
そんな事を思いつつ海斗は踏み込み、流星拳を放った。
お前の流星は、まるで子供の投げる小石だな。師匠ミスティには、そんな事を言われたものだ。
その小石が、当たった。
「む……っ」
ダゴンの上体が、微かに揺らぐ。
命中の感触を握り締めながら、海斗はもう一撃、流星拳を繰り出した。
ダゴンの身体が高速で揺れ、残像を残す。
流星拳はしかし先程のように、残像を擦り抜ける事はなかった。
ダゴンの顔面から、微量の血飛沫が散った。
「私に……攻撃を、当てた……だと?」
「俺は……羅針盤座の、聖闘士だぞ……」
直撃の手応えを感じながら、海斗は言った。
「自分の攻撃を、正しい方向へ導く……くらいの事は出来ないとなあ!」
連続で、海斗は流星拳を叩き込んだ。
全て、命中した。
ダゴンの身体が、微かな鮮血の飛沫を散らせて揺らぐ。だが倒れはしない。
「フッ……本当に悲しいかな。君の攻撃は、ただ当たるだけだ。この決定力の無さ……まるで子供の投げる小石よ!」
ミスティと同じような事を言いながらダゴンが、一気に小宇宙を燃焼させる。
「本当の攻撃というものを見せてやろう……レイジング・オーシャン!」
襲い来る怪魚の牙を、ダゴンの攻撃的小宇宙の流れを、今度は見切る事が出来ない。
苦し紛れに海斗は、両手を高速旋回させた。
空気の防護幕を作り出し、敵の攻撃を無効化する。師匠ミスティが得意とする防御手段。
だがミスティならばともかく海斗では、ナギのセーリング・カウンターをも打ち破る攻撃を、防御など出来るわけがなかった。
弱々しい空気の防護幕が、ちぎれて散って消え失せる。
レイジング・オーシャンの直撃。それだけを、海斗は感じた。
(何が……1度見た技は、聖闘士には通用しない……だよ……)
痛みはない。痛覚など、一瞬にして破壊されていた。
倒れたようだが、石畳の感触もない。手足を動かす事も出来ない。
「君たちは、よく戦った。その魂を我らが神への供物にする……のは、やめておいてあげよう。この海の底で、安らかに眠るがよい」
すぐ近くにいるはずのダゴンの声が、遠い。
耳も、聞こえなくなりつつある、目は、もう見えない。
ルルイエ内部に漂う潮の臭いも、感じられない。こみ上げる血の味も、わからない。
全ての感覚を、海斗は破壊されていた。ナギと同じ状態である。
そのナギが語りかけてきている、ような気がした。
『海斗……聞こえる?』
幻聴に違いなかった。ナギは言葉を話せる状態ではない。海斗の聴覚も、すでに死んでいる。
『聞こえてるんでしょ、海斗……空耳でも走馬灯でもないから、こっち見なさい』
『……ナギ……なのか……?』
こっちを見ろ、などと言われても見えはしない。
ただ、ナギがそこにいるのはわかる。
『あたしも声、出せないから……何だろ、第六感? みたいなので話しかけてるんだけど』
『俺も、耳は聞こえない……第六感で、ナギの声を聞いてる……だけど……』
その第六感も、急速に弱まりつつある。
脳機能そのものが、停止しかけているのだ。
つまり海斗は、そしてナギも、死にかけているという事である。
死にかかった身体の中で、心の奥底で、しかし何かが……目覚めかけている、ような気がする。
死に際の錯覚であろう、と海斗は思うのだが、ナギも同じものを感じているようであった。
『感覚が全部、死んじゃった……代わりに何か、動き始めてる……そんな感じ……ねえ、海斗もそうでしょ? 何なの、これ……』
『ああ……五感も、第六感も全部、死んだ……その代わりに、何か……』
視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚、第六感。それらが巨大な蓋を成し、封じ込めていたもの。
蓋が破壊された事によって、それが今、目覚めつつある。海斗はそう感じた。
錯覚、ではない。何かが覚醒し、燃え上がりつつあるのだ。
五感、それに第六感の、さらに先にある……七番目の、何かが。
動けぬはずのナギが、立ち上がっている。それが海斗にはわかった。
自分もまた、立ち上がっている。
身体を動かして立ち上がった、という気が海斗はしなかった。
目覚め、燃え盛っている七番目の何かが、自分を動かしている。
自分ではない、ようでいて自分というものの根幹を成す、何かが。
「不覚……! 我ながら、何と迂闊な……」
ダゴンが、何やら狼狽している。
「アテナの聖闘士を、その領域に追い込んではならないと……言い伝えられていた事を、私は何と愚かにも!」
小宇宙の激震を、海斗は感じた。目覚めつつある、七番目の感覚でだ。
ダゴンが、己の小宇宙を燃やしている。ルルイエ全体が激震するほどにだ。
「君たちを、それに目覚めさせるわけにはいかない……死んでもらうぞ。このダゴン最大の奥義をもって!」