狂気の夢は、消えて失せた。
ルルイエの神が、夢も見ないほどの深き眠りに落ちたのだ。
「ば、馬鹿な……これは、このような事が……!」
ゾス・オムモグが狼狽している。
「我らの神に……貴様! アテナの聖闘士ごときが不遜にも何を仕掛けた!」
『お前たちの神には……永遠に、安らかに、眠っていてもらう……』
青銅聖闘士・艫座の勇魚が、己の思いを念じている。もはや五感が死に、目も耳も鼻もそれに口も機能を失い、舌を動かして発声する事が出来ない状態である。
『……お前もだよ、ゾス・オムモグ……子守唄を、奏でてやろうか?』
出来るわけがない。青銅聖闘士・竜骨座の漁牙は、そう思った。
竪琴を抱える、勇魚の両手は血まみれである。指先の感覚など、すでに失われているだろう。
この少年は今、己の五感を、生命を、小宇宙を燃やし尽くし、子守唄を奏でたのだ。神をも眠らせる、子守唄を。
ゾス・オムモグと戦う力など、残っているはずはない。
それは自分の役目だ、と思い定めながら、漁牙は立った。勇魚を背後に庇い、ゾス・オムモグと対峙した。
『てめえの相手は俺だ……子守唄なんかじゃ眠らせねえ、ぶちのめして永遠にお寝んねさせてやんからよ』
「小僧どもが!」
ゾス・オムモグの全身で、憤怒の小宇宙が燃え上がる。
次の攻撃を喰らえば、自分は死ぬ。それが漁牙にはわかった。
何も出来ない。自分に残っているのは、この尽きかけた命だけだ。
五感も第六感も、死んでいる。
それらに続く七番目の何かが目覚めかけている、ような気もする。死に際の錯覚であろうか。
『漁牙は昔……蛮あたりと一緒になって、僕を……よく、いじめてくれたよね……』
勇魚が、漁牙の背中にもたれてくる。もはや立っている事も出来ないようだ。
『こんなふうに、庇ってくれる真似事をしたって……僕は、許さないよ……』
『リベンジマッチなら、いつでも受けてやる。今は、まあやめとけ』
『まったく……君なんかに、託さなきゃ……いけない、なんてね……』
熱い、と漁牙は感じた。とてつもない熱さが、背中から伝わって来る。
勇魚の細い身体の中で、何かが燃え盛っているのだ。
漁牙と同じく……7番目の、何かが。
『僕の……小宇宙を、君に……』
悲しくなるほど少量の小宇宙が、しかし熱く燃え滾りながら、漁牙の体内に背中から流れ込んで来る。
『……海斗とナギは、上手くやってくれたみたいだ……あとは、僕たちが……1人でも、多くの敵を……』
『……そうだな』
漁牙と勇魚、2人分でもゾス・オムモグ1人分には遠く及ばぬ微量の小宇宙が、激しく燃え上がった。
漁牙の大柄な全身から、巨大な竜の姿が立ちのぼる。生きた竜ではなく、骨格である。
もはや博物館にでも展示するしか使い道のない、竜の白骨死体……否、まだ屍ではなかった。
巨大な骸骨に、肉が、臓物が、まとわりついてゆく。
竜は、蘇りつつあった。
「死に損ないの虫ケラどもが……!」
ゾス・オムモグの小宇宙が、光となって押し寄せて来る。
「いい加減に死と敗北を受け入れよ、そして我らが神への供物となれ! ディープシー・スターライトバァーストッ!」
ここまでだ、と漁牙は思った。
ルルイエの奥底に眠る狂気の神を、討ち滅ぼすところまでは出来そうにない。海斗とナギも今頃、生きているかどうか。
狂気の悪夢を世界中に垂れ流していた神を、しかし一時的にせよ活動停止させる事には成功した。
後は託すしかない。
聖域にはまだ黄金聖闘士たちがいる。いくらか頼りないにせよ白銀聖闘士たちもいる。
いや、序列を考えれば次は星矢たちの出番であろう。紫龍もいる。氷河もいる。一輝と瞬の兄弟もいる。それに。
『後は、頼むぜ……檄、蛮……那智に、邪武……あとは、市か……大丈夫かなあ、おめえらで』
若干の危惧を感じつつ漁牙は、屍の竜を一気に蘇らせた。
いや、完全には蘇らない。中途半端に肉体を再生させ、全身あちこちで骨や臓物を露出させた、まるで腐乱死体のような竜が出現していた。
蘇りかけの竜、死にかけの竜。
まさしく今の自分と勇魚だ、と思いつつ漁牙は、
『まあいい、とっとと聖域に帰って来やがれよ……敵は、1匹でも多く! 減らしといてやっからよ!』
死にかけた竜を、咆哮させた。襲い来るゾス・オムモグの小宇宙に向かってだ。
『喰らいやがれ必殺! ドラゴンゾンビ・フルバァアアアアアストッ!』
竜の大口から、だけではない。腐乱死体のような全身あちこちの欠損箇所から、炎が溢れ出した。
その炎が、竜自身の巨体を焼き尽くしながらも迸り、渦を巻きながらゾス・オムモグを襲う。
ディープシー・スターライトバーストが砕け散った。
光の破片をキラキラと蹴散らしながら炎の嵐は吹き荒れ、ゾス・オムモグを灼き砕く。
断末魔の絶叫が、一瞬だけ響き渡った。
つい今までゾス・オムモグであった大量の遺灰が、潮風に舞う。
勇魚と背中を合わせたまま、漁牙は尻餅をついていた。もはや立ち上がる力もない。
『……勇魚……おい……』
呼びかけてみる。返事はない。
もう1度、呼びかけてみるだけの力も、漁牙には残っていなかった。
羅針盤座の海斗、帆座のナギ。
2人の青銅聖闘士が、目の前で倒れている。
ダゴンが倒した、わけではない。この両名は、力尽きたのだ。
己の力を、命を、小宇宙を燃やし尽くし、やり遂げたのである。
神を眠らせる、などという神話的な事をだ。
「やってくれた……な。この私の目の前で」
ダゴンは言った。海斗もナギも、応えない。
もはや口をきく事も、何かを念ずる事も出来ない有り様である。
辛うじてまだ生きてはいる。とどめを刺すのは、容易い事だ。
それをしたところで、しかしダゴンの勝利であると言えるのか。
「……負けた、のだな私は。お前たちに……」
神が再び、眠りについてしまった。これはダゴンの、ごまかしようもない失態である。
死にかけた青銅聖闘士の少年少女に、腹いせの如くとどめを刺したところで、その大失態が帳消しになるわけではないのだ。
笑い声が、聞こえた。
「クヒヒヒヒヒ……一体ダゴン様ともあろう御方が、何をしておられますやら」
不快な小宇宙を、ダゴンは先程から感じてはいたのだ。
「我らの神が眠りについてしまわれましたぞクヒヒヒヒ。何が起こったのでありましょうなぁダゴン様」
「……私の失態だ。裁きも罰も受けよう。私を罵倒したければ、するがいい」
潮の匂いに満ちた迷宮内の闇が、人型に実態化を遂げたかの如く佇む細身の影を、ダゴンは睨み据えた。
ひょろ長い長身を覆う鎧は、全体にびっしりと吸盤を備えている。
「ここぞとばかりに私を攻撃したいのであろう? ユトグサよ」
「クッヒヒヒヒ……そのようなつもりは毛頭ございませんよダゴン様。私はただ、貴方様が苦戦をしておられるようですのでね」
死にかけた青銅聖闘士2名に、ユトグサのどろりとした眼差しが向けられる。
「余計な事とは知りつつもクヒヒヒヒ、こうして出しゃばって参りました次第で」
「戦いはすでに終わっている。貴様に手伝ってもらう事など何もない。立ち去れ」
「クヒ……気付かぬふりをしておられるのでしょうかな、ダゴン様は」
汚水の如く濁りきったユトグサの目は、海斗とナギに向けられたままだ。
「その2匹、まだ生きておりますぞ。何故とどめをお刺しにならないのです」
「放っておいても死ぬ。数分後には屍だ。死体を、わざわざ破壊する事もあるまい」
「その数分の間に、何が起こるかわからぬのですぞ」
ユトグサの、言葉そのものは間違っていない。
「我らの神が再び眠りに落ちてしまわれた、この事態……恐れながらダゴン様の御油断が招いたものと愚考いたしますがクヒヒ、如何に?」
「…………」
何も答えられずにいるダゴンの傍を、ユトグサが通り過ぎて行く。折り重なって倒れる青銅聖闘士2名に、歩み寄って行く。
「まあ何ですな。ダゴン様は武人であらせられるから、死にかけた女子供に拳を振るう事などお出来にならぬでしょう。汚れ役はクヒヒヒ、このユトグサめにお任せを……女子供とは言え敵です。よもやお止めにはなりませんでしょうな?」
敵にとどめを刺すな、などと言う事は出来ない。
ダゴンが何も言えずにいる間ユトグサは、ナギの髪を掴んでいた。
「ほぉう、美しい身体をした娘ではないですかクッヒヒヒ。まあ顔はわかりませんが……ちょっと仮面を取ってみましょうかねええ」
『…………やめろ……』
海斗が倒れたまま、ユトグサの足首を掴んでいた。
『やめ……ろぉ……』
「あァん? 何ですかぁこの生ゴミはっ!」
海斗の頭を、ユトグサは思いきり踏みつけた。
羅針盤座のマスクに亀裂が走り、鮮血の飛沫が散った。
「いけませんねぇークッヒヒヒヒ、ルルイエの内部は綺麗にしておかなければ。このようなゴミを散らかしておいてはいけませんよォーダゴン様!」
笑い喚きながらユトグサが、ナギの髪を掴み、海斗をガスガスと踏みにじり蹴り転がす。
ダゴンは舌打ちをしつつ、拳を握った。
このままユトグサなどに嬲り殺されるよりは、やはり自分がとどめを刺してやるべきなのだ。
「この私に……失敗を強いてくれた者たちなのだから、な」
ユトグサによる暴虐に遭っている青銅聖闘士の少年少女に、ダゴンが拳の狙いを定めた、その時。
とてつもなく攻撃的な小宇宙が、迷宮内の闇を切り裂いた。
何者かが、ダゴンよりも早く、拳を振るったのだ。
闇を切り裂く、その一撃を、ダゴンは辛うじてかわした。
かわす事の出来なかったユトグサが、ナギの髪を手放しながら悲鳴を上げ、吹っ飛んで行く。
「ぎゃ……ぴぃぃ……」
吸盤だらけの鎧をまとう長身が、へし曲がりながら石畳に激突した。
足音が聞こえて来る。声と、共にだ。
「ポセイドン様の聖域たる、この海を……ただ居るだけで穢してゆく者どもよな、貴様たちは本当に」
何者だ、などとダゴンは訊かない。
この少年とは先頃、ルルイエのもう少し奥深い場所で、命のやり取りを繰りひろげたものだ。
あの時は辛うじてダゴンが勝ち、この少年を捕える事が出来たのだが。
「貴様を、いつまでも捕えておけるはずもなし……殺しておくべきであった、とは言うまい」
ダゴンは言った。
「カリュブディスのガニメデよ。貴様とはもう1度、戦ってみたいと思っていたところだ」
「無理をするなよダゴン。殺しておけば良かったと、無様に後悔して見せろ」
海斗とほぼ同年齢と思われる若き海闘士が、牙を剥くように微笑んだ。
「俺を生かしておいたのは、貴様ではなくハイドラあたりが何やら企んでの事であろうが知らん。知った事か。俺はただ奴を倒し、貴様を倒し、貴様たちの神をも倒して、ポセイドン様の聖域より穢れを取り除くのみ」
ガニメデの視線が、ちらりと動いた。
「あとは、まあ……ついでだ。貴様も、倒しておくとしようか」
「クヒ……こっ、小僧ぉ……」
ユトグサが、ふらりと立ち上がったところである。
「な、なめた事してくれおってクヒッ……クッヒヒヒヒ、このユトグサを怒らせた以上、死ぬ覚悟は出来ておるのだろうが楽には死なせん。お願いです殺して下さいと泣き喚きながら、ゆっくりと死んでゆくのだ貴様は」
「安心しろ、俺は貴様を楽に死なせてやる。まあ無駄な抵抗をしてみるがいい。おいダゴンよ、構わんから加勢をしてやれ」
「……だ、そうだ。どうするユトグサよ、手を貸してやろうか?」
「要りませんよクヒヒヒヒ。もはやダゴン様お1人に大きな顔はさせません。このユトグサの力、貴方様にも1度お見せしておかねばなりますまい」
ひょろ長い長身から、禍々しい小宇宙を立ちのぼらせながら、ユトグサがダゴンの横を通り過ぎてガニメデと対峙する。
海斗とナギは、倒れたままだ。
今のうちに逃げてくれれば良いのだが、とダゴンは一瞬だけ思った。