幻想世界をバック・ドロップ!   作:セミドレス

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第十話 荒神 Ⅳ

 

 1

 

 頬が、熱い。

 朱く鋭い光が、真横から殴りつけてくるからだ。

 沈みかけの太陽が放つ光だ。

 時刻は午後五時三十分。

 川神舞は、交通規制のかかった橋の真ん中で、五メートル程の距離をあけてムエタイファントムと向き合っていた。

 じっと、ムエタイファントムの全身を見つめている。

 ムエタイファントムは相変わらずの軽装だ。

 舞もTシャツに短パン、スニーカーという身軽な格好をしているが、ムエタイファントムはそれ以上である。

 オレンジ色のトランクスとブラトップ、そして両腕の上腕に巻かれたピンク色の縄。

 ムエタイファントムが身につけているのはそれだけだ。靴すら履いていない。

 夕日に晒されるムエタイファントムの焼けた肌は、良く引き締まっていて緊張感がある。

 身長は百六十センチを少し超えるくらいだろうか。

 体格は舞よりも一回り小さいが、決して油断はできない。

 昨日、舞はムエタイファントムの攻撃にガードごと頭を打ち抜かれ、膝をつかされている。

 もし、あの後ムエタイファントムが攻撃を続けていたら、舞は十秒とかからず戦闘不能に追い込まれていただろう。

 強い相手だ。

 ムエタイファントムの両目を睨む。

 アメジスト(紫水晶)の瞳だ。

 舞の瞳と同じ色だ。

 腰まで伸びた銀色の長髪が、夕陽を受けてギラギラと光っている。

 ムエタイファントムもまた、静止したまま舞を見つめていた。

 その整った顔には、むすっとした無表情が浮かんでいる。

 

「川神……」

 

 舞の後方から、声がかけられた。

 荒沢蛮である。

 これから始まる戦いの立会人として、舞の後ろに控えているのだ。

 ムエタイファントムの後ろにも、柔術ファントムが同じように佇んでいる。

 

「危ないと思ったらすぐに止めるからな。場所が場所なら相手も相手だ。万が一ってことがあるからな」

 

 荒沢は真面目な口調で言った。

 硬いアスファルトの上で、実力を持った格闘技者同士が戦う――

 互いの意思を超えた()()が起きる可能性は、十分にある。

 そういう事態を防ぐための行動は、早い段階で躊躇うことなくとる。

 荒沢の言葉の意味はそういったところだ。

 舞も、その言葉に異論はない。

 自分はこれからムエタイファントムと戦うが、殺し合いをしようという意識はない。

 相手が参ったと言えば攻撃をやめるし、これは勝てないと思ったら降参するつもりだ。

 できれば、ムエタイファントムと柔術ファントムを封印せずに事を納めたいと思っている。

 もちろん、相手が同じ考えかはわからない。

 負けを認めるくらいなら死んだ方がましだとか、勝つということは相手を殺すことだとか考えている可能性もある。

 もしそうだとしたら、さすがの舞も付き合いきれないかもしれない。

 荒沢がここにいるのは、そのような場合に備えてのことでもある。

 

「行ってこい」

 

 荒沢がそう言いながら、ぽん、と舞の背中を叩いた。

 それで、舞の体はすぅっと前に出ていた。

 舞が意識して歩を進めたのではない。

 気づいたら体が勝手にうごいていたのだ。

 ムエタイファントムも、呼応するように前に出てくる。

 舞もムエタイファントムも、よく似た構えを取っていた。

 両の拳をこめかみの高さまで持ち上げた、アップライトな構えだ。

 上体が起き上がっている。

 完全な打撃の構えだ。

 お互い、タックルだとか寝技だとか、そういうことを一切考えていない。

 舞はまっすぐにムエタイファントムへ向かって進んだ。

 ムエタイファントムもまっすぐに舞へ向かって進んだ。

 そのまま、なんの駆け引きもなく、あっさりとムエタイファントムは舞の蹴りの間合いに侵入してきた。

 瞬間、舞は反射的に動いていた。

 ローキックを打ったのだ。

 右足の背足――足の甲で、ムエタイファントムの左膝の少し上のあたりを外側から狙った。

 ムエタイファントムは左脚を持ち上げ、脛でそれをカットする。

 バチッ、と肉体がぶつかる鋭い音が響いた。

 それまで無表情だったムエタイファントムが、ニヤリと笑っていた。

 なに!?

 舞がそう思ったのと同時に、ムエタイファントムは浅く踏み込み、ローキックを打ってきた。

 先ほど舞が打ったのと同じ、右のローだ。

 最初に畳んだ膝を持ち上げ、そこから振り下ろすように放つ、ムエタイ式のローキック。

 それが、舞の左膝を狙ってきた。

 ムエタイファントムがやったように、脚を持ち上げて脛でカットする。

 ゴツンという、肉と肉、骨と骨がぶつかる音がした。

 私の蹴りよりも、重く、鋭い。

 舞はそう思った。

 蹴りに関しては、舞よりもムエタイファントムの方が一段上の技術を持っているのは間違いない。

 ならば拳の間合いで戦おうと、舞は冷静に判断した。

 もともと、ムエタイファントムに蹴りの技術で敵わない可能性は想定していた。

 ムエタイが、蹴りを重視した競技だからだ。

 ムエタイの試合は三分五ラウンドで行われる。

 それで決着がつかなければ判定で勝敗が決められるのだが、この判定方法が、ムエタイは他の格闘技とは少し違う。

 試合の勝敗が判定にもつれ込んだ場合、多くの格闘技は、試合の主導権を握っていた選手や、受けたダメージが少なく見える選手を勝たせる。

 ジャッジの主観で勝敗が決められる部分が、間違いなくあるのだ。

 対して、ムエタイの判定は機械的だ。

 どの高さに何回キックを当てたか。相手に膝蹴りを何回入れたか。相手を何回地面に倒したか。

 そういった『数えられること』だけで勝敗が決められる。

 例えば相手の鼻っ面を叩き潰すようなパンチを打ったとしても、それでノックアウトできなければ、ガードの上から軽く叩いたのと同じポイントしかもらえない。

 与えたダメージを考慮しないポイント制。

 八百長を防止するための制度だ。

 そしてこの制度の中では、パンチは非常にポイントが低く、高い蹴りや膝蹴りのポイントが高い。

 顔面に拳を入れるより、防御のために構えられた腕を蹴る方が勝利に繋がる可能性が高いのだ。

 故に、ムエタイ選手は他の格闘技選手に比べ、蹴りは得意だがパンチは苦手な場合が多い。

 舞は、その弱点を突こうと考えているのだ。

 ただ、拳の間合いで戦う場合は、首相撲に持ち込まれる危険性がある。

 首相撲はムエタイの象徴とも言える技術だ。

 相手の後頭部に両手を回し、相手の頭を両腕で挟んでコントロールするのだ。

 そのまま投げ飛ばしたり、相手の頭を引き寄せて顔面に膝をぶち込んだりする。

 非常に攻撃的で強力な技なのだが、舞はそれほど恐れてはいなかった。

 頭突きでカウンターを取ることができるからだ。

 ムエタイやキックボクシングの試合では頭突きは禁止されているが、この戦いにそんなルールはない。

 無警戒な状態で仕掛けられるならともかく、相手がムエタイをやっているとわかっているなら、まず確実にカウンターを決められる。

 そのため舞は、むしろ首相撲を狙って組みにきて欲しいとすら思っていた。

 もちろん、ムエタイファントムはそこまで都合良く動いてくれる相手ではないだろうが。

 

「いくわよ」

 

 そう呟いた舞は、一気に間合いを詰めた。

 そして、間髪入れずコンビネーションを打ち込む。

 ワン(左ジャブ)ツー(右ストレート)スリー(左フック)――

 避けられた。

 ムエタイファントムは舞のパンチをガードせずに、スウェーと体捌きで全て避けてしまったのだ。

 素晴らしいステップワークと上体の柔軟性だった。

 驚きながらも、舞は拳による攻撃を続けようとした。

 その時、左側からふっ飛んでくるものがあった。

 ムエタイファントムの右足だった。

 至近距離でのハイキック。

 上手いタイミングだ。

 しかも、パンチを出すような気軽さで出してきた。

 その妙技に舌を巻きながら、舞は左腕で蹴り足をブロックした。

 どん、と重い衝撃。

 一瞬、舞のバランスが崩れた。

 その隙にムエタイファントムは半歩後退した。

 蹴りの間合いだ。

 舞が態勢を立て直すのと同時に、左のミドルキックが飛んできた。

 レバーを狙った、痛烈な一撃。

 舞はそれを右肘でガードした。

 すると、即座に右のミドルが打ち込まれた。

 左肘で弾く。

 また左のミドルがきた。

 その次は右のロー。

 また左のミドル――

 ムエタイファントムの蹴りが、マシンガンのように次々と舞に襲いかかってくる。

 それも、ミドルキックとローキックを混ぜて、フェイントをかけながらたたみかけてくるのだ。

 たまらない勢いだ。

 舞はジリジリと後退しているのだが、同じ速度でムエタイファントムが前に出てくるため、結局互いの距離は変わらない。

 

「くぅ……」

 

 舞が呻いた。

 左脚を狙ったローキックを防ぎ損ねたのだ。

 思わず、動きを止めてしまう。

 マズイ。

 そう思った時には、舞の体は勝手に動いていた。

 強引に前蹴りを放っていた。

 舞の右足がムエタイファントムの鳩尾を押すのと、ムエタイファントムの左脛が舞の脇腹を打つのは同時だった。

 

「ぐぅっ」

 

 舞は声をあげながら、バックステップを踏んで距離をとった。

 どうにか仕切り直すことができたものの、ミドルキックをまともに受けてしまった。

 正直、かなり苦しい。

 レバーを正確に打ち抜かれたのだ。

 痛みと不快感が、舞の内臓を駆け巡っている。

 しかし舞は己の肉体に鞭を入れ、ムエタイファントムを見据える。

 真っ向勝負ではムエタイファントムに敵いそうにないと、舞は現状を分析した。

 だから、搦め手を使う。

 ふぅ、と息をはくと、舞はムエタイファントムと向きあっていた体を、九十度横に向けた。

 そして、駆け出す。

 

「むっ!?」

 

 ムエタイファントムが驚いたような声をあげた。

 一拍おいて、後ろから追ってくる気配。

 舞はそれを気にせず走り、橋の欄干を乗り越え、ひらりと橋の下を流れる川に着水した。

 川の端に近い場所であり、水深は浅い。十センチかそこらだろう。

 それでも、二秒と待たずスニーカーの中は水で満たされた。

 同時に、ばしゃりという音が響いた。

 ムエタイファントムが舞を追って川に降りてきたのだ。

 

「かかったわね」

 

 舞はムエタイファントムに向き直ると、獰猛な笑みを浮かべながら言った。

 

 2

 

「おい柔術の姉ちゃん、あんたの相方、やっちまったなぁ」

 

 欄干から身を乗り出して舞とムエタイファントムを見守りながら、荒沢は言った。

 

「そうですね」

 

 荒沢のすぐ隣に立つ柔術ファントムは、静かに答えた。

 

「川神舞……実に実戦的な思考を持った人間です」

 

 3

 

 優位を得た。

 浅瀬の流れに足元を洗われながら、舞はそう思った。

 平らなアスファルトの上から、ゴツゴツとした川底へとムエタイファントムを誘い込んだからだ。

 この不安定な足場では、蹴りを出しにくい。

 先ほどまでのように蹴りだけで戦うということは、さすがのムエタイファントムにもできないだろう。

 そしてもう一つ、ムエタイファントムが裸足であることも大きい。

 川底には何が落ちているかわからないからだ。

 鋭く尖った木材の欠片や割れたガラスが潜んでいるかもしれないのだ。

 もしそれを踏んで、足の裏を怪我すれば、まともに動けなくなる。

 そういう可能性があるというだけで、ムエタイファントムはただステップを踏むことにすらプレッシャーを感じるはずだ。

 この浅瀬は、靴を履いていて、拳の距離で戦いたい舞に有利なフィールドだ。

 

「考えましたね、川神舞」

 

 ムエタイファントムが、固い声で言った。

 舞が地の利を得たことに気づいているのだ。

 ここに来てしまったのは、ムエタイファントムが特別に()()()だったというわけではない。

 優位に立っている時に相手が逃げ出したら、後を追いかけてしまう。

 これはどうしようもない、打撃系格闘技者の本能である。

 リングの上なら、怯んだ相手にラッシュをかけてノックアウトを奪うのは、最も理想的な勝ち方だからだ。

 しかしこの戦いは、選手に対して平等なリング上で行われている試合ではない。

 制限時間も判定もない野試合だ。

 

「いくわよ」

 

 ばしゃばしゃと音を立てながら、舞はムエタイファントムに向かって距離を詰めた。

 それに対し、ムエタイファントムは追い払うような前蹴りを出してきた。

 下段受けで切り払うようにその蹴りを弾くと、舞はムエタイファントムの懐へと一気に踏み込んだ。

 そして、勢いのままボディブローを一発。

 いい拳を、ムエタイファントムの腹のど真ん中に入れてやった。

 ムエタイファントムの呼吸と動きが、一瞬だけ止まった。

 そこへ、ラッシュをたたみかける。

 ワン(左ジャブ)ツー(右ストレート)スリー(左フック)

 ワン(左ジャブ)ツー(右ストレート)スリー(左フック)

 ワン(左ジャブ)ツー(右ストレート)スリー(左アッパー)

 同じコンビネーションを二度繰り返してから、三度目に変化を加える。

 当たった。

 ムエタイファントムは舞の連撃をよく防いだが、最後のアッパーには対応できなかった。

 ガクリとムエタイファントムの膝が崩れ、体が前に傾く。

 一瞬、意識を失ったようにも見えた。

 しかし、そうではなかった。

 ムエタイファントムは舞の腰にしがみついて、倒れることを防いだ。

 もっとも、ただ倒れなかったという、それだけだ。

 舞はムエタイファントムの艶やかな褐色の背中を押さえ込むと、ガラ空きのボディへ膝を打ちつけた。

 一つ、二つ、三つ。

 舞が膝を跳ね上げるたびに、ムエタイファントムは声をあげた。

 かわいい声だ。

 そう思いながら、舞が四つ目の膝を出そうとした瞬間、どこにそんな力が残っていたのか、ムエタイファントムは勢い良く上体を起こし舞の拘束を振り切った。

 同時に、舞の頭の後ろに両手を回す。

 首相撲だ。

 舞の反応は早かった。

 追い詰めれば、どこかで狙ってくるだろうと予想していたからだ。

 ムエタイファントムの顔面に向けて、舞は額を振り落とした。

 ぐちゃりと、ムエタイファントムの顔が潰れる音が――

 ガツン。

 予測していたよりも早いタイミングで、額に重い衝撃があった。

 分厚い骨と骨とがぶつかった時の、鈍い音がした。

 ムエタイファントムが、舞の頭突きに合わせて額を突き出したのだ。

 舞が首相撲に対してカウンターを狙っていることを、ムエタイファントムは知っていたのだ。

 舞にとっては、予想外のことだった。

 思わずよろめき、一歩下がった。

 下がりながら、舞は思った。

 いいぞ。こうでないと、面白くない。

 舞は、キッとムエタイファントムを睨んだ。

 その瞬間、鋭い痛みが走った。

 ムエタイファントムの脛が、舞の右腿を内側から強く打っていた。

 痛烈なローキックだった。

 その一撃に舞は耐えられず、ガクリと膝をついた。

 一拍の後、舞の頭部に向けて、ムエタイファントムの左ミドルが、ごう、と音を立てて放たれた。

 必殺の意志と威力を持った蹴りが、舞の意識を奪おうと襲いかかった。

 

 4

 

「くあぁぁっ!?」

 

 悲鳴をあげたのは、ムエタイファントムだった。

 激痛があった。

 舞に、ざっくりと脛を割り裂かれたのだ。

 ムエタイファントムの左脛の皮膚が破け、どくどくと真っ赤な血があふれてきている。

 捲れあがった傷口から、ピンク色の肉が見えていた。

 ムエタイファントムはバシャバシャと音を立てて数歩退くと、額にじっとりと汗を滲ませながら唇を噛んだ。

 足場のおぼつかない浅瀬に誘い込まれ、不利な戦いを強いられたが、なんとか切り抜けて舞に膝をつかせた。

 あとは、低くなった頭部を思い切り蹴り飛ばせば、勝負が決まるはずだった。

 ミドルキックで頭を狙えるからだ。

 ムエタイをやっている者なら、一番得意な攻撃はミドルキックと決まっている。

 五歳か六歳くらいでジムに入れられると、いの一番にサンドバッグの前に立たされ、ミドルキックの練習をさせられるのだ。

 ムエタイファントムもまた、この十年間、一日としてミドルキックの練習を欠かした日はなかった。

 そのミドルに、渾身の力を込めて、頭を狙う。

 相手が両腕でブロックしようとも、それをブチ抜いて脳震盪をプレゼントすることができる。

 そんな防ぎようのない一撃のはずだった。

 だが――それを返された。

 浅瀬に膝をついていた舞は、ムエタイファントムのミドルキックに対して、川底から拾い上げた握り拳大の石を叩きつけてきたのだ。

 思い切り力を込めてだ。

 ムエタイファントムはその石と、石を握っていた掌ごと、舞の頭を蹴り飛ばした。

 それで、ムエタイファントムの脛は、ざっくりと裂けてしまったのだ。

 背筋が震えるような痛みに耐えながら、ムエタイファントムは舞を睨みつけた。

 浅瀬に横倒しになっていた舞が、ゆっくりと起き上がってきた。

 

チェエン(くそっ)!」

 

 ムエタイファントムはタイ語で毒づいた。

 舞に対して怒りを感じているのではない。

 自分の不甲斐なさに苛立っているのだ。

 舞が石で蹴りを受けようとしていることに気づいた瞬間、蹴り足に込める力をわずかに緩めてしまった。

 そのわずかな逡巡のせいで、舞を仕留め損ねた。

 もし、石を恐れずに全力で蹴り抜いていれば、舞が起き上がってくることはなかっただろう。

 ビビって、勝機を逃したのだ。

 それが、たまらなく悔しい。

 立ち上がった舞が、獣じみた笑みでこちらを見ている。

 凄い奴だと思う。

 頭を蹴られて脳が揺れているだろうに、戦意が衰えた様子は一切ない。

 だが、それはこちらも同じだ。

 脛の皮が破けたくらいで降参するつもりはない。

 左脚は、まだ動く。

 脛は、毎日毎日、サンドバッグや砂袋を蹴って鍛えてきた。

 この程度でダメになることはない。

 ムエタイファントムは両の拳を持ち上げ、構えた。

 舞と、視線を合わせる。

 

「いくわよ」

 

 ムエタイファントムが動く前に、舞が一気に踏み込んできた。

 距離を詰めると、ぶん、と力のこもった右のローキックを出してきた。

 左膝を真横から狙った、凶悪なローキックだ。

 何もせずにそのまま受ければ、膝関節に深刻なダメージを負うことになる。

 左脚を持ち上げ、傷ついた脛でカットする。

 

「くぅっ」

 

 呻きが、ムエタイファントムの口から漏れた。

 舞がローキックの軌道を途中で修正し、傷口を正確に蹴ってきたからだ。

 傷口を打たれる激痛に、ムエタイファントムはたまらず後ろに逃げていた。

 頭を蹴り飛ばされた直後に、こんな器用な真似ができるのか――

 ムエタイファントムは驚愕していた。

 舞が追ってくる。

 おぼつかないステップで退きながら、ムエタイファントムは牽制のジャブを振るった。

 舞はそれをパーリングで捌きながら踏み込んできた。

 低い前蹴りがきた。

 狙いはやはり、左脛の傷口だ。

 

「かぁ!?」

 

 舞に脛を蹴られた瞬間、ムエタイファントムの口から短い悲鳴が漏れた。

 スニーカーのゴム底で、思い切り肉を抉られたのだ。

 傷口を削ぎ落とすような当て方だった。

 びちりと音を立てて肉が裂け、血が飛び散る。

 小便を漏らしそうな激痛。

 内臓が拗くれて酷い吐き気がするような痛みの中で、ムエタイファントムは感動していた。

 舞に対してだ。

 なんと容赦なく、正確に傷口を狙うのか。

 一欠片の躊躇いもない。

 相手の弱点を狙う。

 勝負の鉄則だが、これがなかなか難しい。

 特に、この戦いのような、明確なルールがない場合はだ。

 なんでもあり。

 そういう共通認識があったとしても、本当に手段を選ばずに相手を攻撃できるものではない。

 これ以上やるのか?

 戦いの中で圧倒的な優位を得ると、そういう念が心の中によぎる。

 情けを捨てて残酷になるというのは、とても難しいことなのだ。

 これは、油断と言い換えてもいいものかもしれない。

 それが今の舞には、無い。

 凄いことだ。

 ムエタイファントムは嬉しかった。

 舞がそれだけ、自分に対して本気だということだからだ。

 他人が自分のために、本気になってぶつかってくるというのは、嬉しいし、楽しいことだ。

 

「ふふっ」

 

 肉を裂かれる激痛に身を竦めながらも、この時確かにムエタイファントムは笑っていた。

 そこへ、舞がパンチを打ち込んできた。

 左右の拳を、上下に散らしながらぶつけてくる。

 ムエタイファントムは、それらを必死に凌いだ。

 両腕でブロックした拳もあれば、体を傾けて()()()ことで威力をごまかした拳もあったし、有効な威力を持って顔面に入った拳もあった。

 それでも、ムエタイファントムは倒れずに凌いだ。

 凌ぐ。

 凌ぐ。

 一秒でも長く。

 一瞬でも長く、これを続けたい。

 ムエタイファントムがそう思ったとたん、また凄まじい痛みが神経をズタズタにしながら駆け抜けた。

 どさくさに紛れて、また舞がスニーカーの爪先で脛の傷口をほじくり返してきたのだ。

 ムエタイファントムの肉体が、意思とは関係なく硬直する。

 その正面を、するすると昇ってくるものがあった。

 舞の右足だ。

 腹の前を通り、両腕の間をくぐり抜けた舞の足は、とつ、と柔らかくムエタイファントムの顎先を打った。

 あれ!?

 ムエタイファントムは驚いた。

 舞を中心に捉えていたはずの視界が、突然、夕陽の赤い空に切り替わったからだ。

 前を向いていたムエタイファントムの顔は、優しげに見えた舞の蹴りによって、ぐるんと上にはじかれていた。

 ムエタイファントムの膝が崩れ、体が仰向けに倒れていく。

 霞んでいく意識の中でムエタイファントムが最後に見たのは、自分の顔面を勢いよく追いかけてくる、舞のスニーカーの靴底だった。

 

 5

 

「あら、気がついたかしら」

 

 ムエタイファントムが目を開けると、ほっとした顔で舞が微笑みかけてきた。

 

「川神舞……? ここは……?」

 

 鈍い頭痛とはっきりしない思考に顔をしかめながら、ムエタイファントムはぼんやりとした声で訪ねた。

 

「別に、さっきの場所から動いてないわよ」

「さっきの場所……? それはどういう……っ!?」

 

 どこかふわふわとした表情で舞を見上げていたムエタイファントムが、突然、ぱぁっと顔を赤らめた。

 自分が舞に膝枕されていることに気づいたのだ。

 慌てて上半身を起こし、あたりを見回す。

 オレンジ色の夕陽に照らされる河原だった。

 その光景を目にしたのと同時に、ムエタイファントムは自分が何をしていたのかを思い出した。

 

「そうですか、私は負けたのですね」

「ええ、私が勝ったわ」

 

 ムエタイファントムの確認するような言葉に、舞ははっきりと答えた。

 それを聞いた途端、ムエタイファントムの瞳から、ぽろぽろと涙が流れ落ちた。

 

「ちょ、どうしたのよ」

「い、いえ、気にしないでください」

 

 焦った声を上げる舞に、ムエタイファントムは涙を流し続けながら答えた。

 

「いや、気にするなと言われたって……」

 

 困ったように呟く舞。

 どうすれば良いものかと、困惑しながらすすり泣くムエタイファントムの肩を抱く。

 しばらく、あたりにはムエタイファントムの嗚咽だけが響いた。

 そして舞は、ムエタイファントムが落ち着いたのを見計らって再び声をかけた。

 

「ねぇ、アンタ達、なんで私を狙ってたのよ」

「……やはり私たちのことは、覚えていませんでしたか」

 

 舞の質問に対し、ムエタイファントムは少し落ち込んだ声で答えた。

 その言葉に、舞は気まずそうに頬を掻きながら問いを重ねる。

 

「私たち、どこかで会ったことがあるの?」

「ええ」

 

 ムエタイファントムが、その日に焼けた顔に微笑みを浮かべた。

 優しげな、しかしどこか陰のある、不思議な微笑みだった。

 その笑みに目を奪われた舞に、ムエタイファントムは柔らかな声で言った。

 

「ちょうど、十年前のことですよ」

 

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