幻想世界をバック・ドロップ!   作:セミドレス

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第十一話 荒神 Ⅴ

 

 1

 

 バシッ、と鋭い水音を立てて、川神舞の右足が川底を踏み抜いた。

 そのすぐ左に、意識を失ったムエタイファントムの頭部が転がっている。

 戦いの勝敗を示す一枚の絵だ。

 その絵を橋の上から見つめながら、荒沢蛮は深く深く息を吐いた。

 荒沢の体は微かに震えていた。

 陽に焼けた顔が、紅潮しているように見える。

 興奮しているのだ。

 今しがた繰り広げられた、舞とムエタイファントムの壮絶な戦いが、荒沢の肉を滾らせている。

 その温度を、荒沢の巨体は持て余しているのだ。

 低い太陽が放つ朱い光、撫でるように吹き続ける生暖かい風、じゃばじゃばと中途半端な大きさで響く川音。

 そういった周囲にある全てが、熱を帯びているような気がしていた。

 

「おい姉ちゃん、決まっちまったな」

 

 堪えきれなくなったように、荒沢は隣に立つ柔術ファントムに声をかけた。

 柔術ファントムは橋の下に向けていた視線をすっと動かし、荒沢の顔を見上げた。

 そして、一呼吸の間を置いてから、

 

「ええ、そうですね」

 

 と、短く答えた。

 ひどく平坦な声だった。

 荒沢はその冷たさに驚いた。

 今の戦いを見て、こうも醒めた状態でいられるのか。

 まじまじと柔術ファントムの顔を見つめた。

 少しだけツリ目気味の、知性的な瞳が見つめ返してきた。

 むっつりとした、中途半端な表情を浮かべている。

 怒っているように見えなくもないが、そうだという確信は持てない。そんな表情だ。

 その白い肌には、無数の青あざが浮いている。

 全てが、昨日、舞に殴られた痕跡だ。

 綺麗な顔なのにもったいねぇな――荒沢は脈絡もなくそんなことを思った。

 見つめ合ったまま、数秒間の沈黙があった。

 ショートカットの黒髪が、さわりさわりと風に揺れている。

 荒沢は、橋の下へと視線を戻しながら言った。

 

「ルールのある戦いなら、あんたの相方が勝っていただろうな」

 

 先ほどに比べると、いくらか落ち着いた調子だった。

 荒沢の言葉に、柔術ファントムが答える。

 

「確かに、リングの上なら川神舞は勝利を得ることはできなかったでしょう」 

 

 自分に有利な足場の悪い場所へ戦いの場を移す。拾いあげた石ころで相手を殴りつける。

 そういった行為を封じられる、まっとうな格闘技の試合なら、舞は負けていただろう。

 二人はそういったことを言っているのだ。

 しかし、柔術ファントムはそこへ、

 

「しかしそれは、なんの意味もないことです」

 

 と、付け加えた。

 

「なに?」

「無意味な考えだと言ったのです」

 

 首をかしげる荒沢に、柔術ファントムは険のある態度で繰り返した。

 

「互いに納得して始めた戦いの結果に対し、()()の話をしてどうなるというのですか? いえ、納得などというものも関係ありません。どのような形であろうと、終わった戦いに文句を言うような者は、武の道を歩むべきではありません」

 

 柔術ファントムは少し速い口調でそう言った。表情も硬いように見える。

 まるで自分に言い聞かせているようだと荒沢は感じた。

 あの時あんなことをしなければ、あれをやれていたら――

 おそらく柔術ファントムは、昨日舞に負けた後、後から後から浮かんでくるそんな想いを必死に飲み込んだのだろう。

 いや、もしかしたら、今も自分の感情を律し続けているのかもしれない。

 そう考えれば、先ほどからのぶっきらぼうな態度も理解できる。

 随分と変わった、古い武人風の感性の持ち主であるらしい。

 荒沢はそのように納得すると、横目でチラリと橋の下を見た。

 舞がムエタイファントムを浅瀬から河原に引き上げ、破いたTシャツで脛の傷の止血を始めていた。

 あの様子だと、しばらくは戻ってこないだろう。

 ちょうどいい。

 そう、荒沢は思った。

 もう少し、柔術ファントムと話を続けたくなっていた。

 

「なぁ、姉ちゃん」

 

 荒沢は柔術ファントムに体を向けながら尋ねた。

 

「あんたら、なんで俺や川神を狙ったんだ?」

「貴方を……?」

 

 柔術ファントムは荒沢の質問に対して首を傾げた。

 そして一呼吸の間を置いてから、驚いたように声をあげた。

 

「まさか、貴方は荒沢蛮!?」

「ああ、そうだぜ」

「なんと……」

 

 柔術ファントムは呆けたような表情で、荒沢の全身を爪先から頭のてっぺんまで、余すところなくジロジロと見回した。

 そして関心したように、ポツリと呟いた。

 

「大きくなりましたね」

 

 その言葉に、荒沢は頬を掻きながら質問を返す。

 

「どこかで会っていたか? 俺の記憶にはないんだが……」

「そうですか。私達のことは、覚えていませんか」

「ああ、すまないな」

 

 バツの悪そうな顔をする荒沢に対し、柔術ファントムは寂しそうな表情を見せた。

 

「仕方のないことかもしれませんね。私達が出会ったのは、もう十年も前のことですから」

「十年?」

 

 柔術ファントムが口にした十年という数字に、荒沢は驚いた。

 

「ええ。ちょうど十年前です。せっかくですし、忘れているというなら、見てもらいましょうか」

 

 柔術ファントムはそう言うと、ふわりと右腕を振るった。

 それにあわせて、青い道着の袖から、ひらひらと桜色の花弁が十数枚、宙に舞い散った。

 

「これは?」

 

 夕陽に美しく照らされる花弁に目を細める荒沢。

 その額に、花弁の一枚が触れた。

 その瞬間、少しだけ色の褪せた映像(イメージ)が、荒沢の脳に流れこんできた。

 

 2

 

 それは、異様な光景だった。

 陽光が真上から降り注ぐ河原で、子供が子供を、蹴っている。

 暴力の現場だ。

 しかし、喧嘩や苛めには見えなかった。

 それは戦いだった。

 二人の子供は、年齢を考えれば到底持ちうるはずのない、技術に裏打ちされた動きをしていた。

 蹴っている子供は、左右の脚で、ミドルキックとローキックを次々と打ち込んでいる。

 その動きが、異様なほど様になっていた。

 しなやかな脚を鞭のような速さで振るっているのに、少しもバランスを崩さない。

 なにかしらの格闘技をやっていることは明らかだった。

 蹴られている子供も同じだ。

 相手の蹴りに対して、的確な防御を行っている。

 低い蹴りは脚を持ち上げて脛で受け、高い蹴りは腕でしっかりと弾き返す。

 手慣れた動きだった。

 蹴っている子供は、天然のブロンドヘアーを輝かせる女の子だった。

 蹴られている子供は、髪の短い、陽に焼けた肌を持つ男の子だった。

 十年前――小学一年生の頃の川神舞と荒沢蛮だった。

 二人とも身長は百二十センチを超えるくらいだろうか。

 同年代の平均より、五センチほど背が高い。

 学校指定の体操着を着用している。

 この河原には、遠足か何かで来ているらしい。

 バシリ、バシリと、二人の攻防が打撃音を周囲に響かせる。

 体重が三十キロもないような子供がその発生源とは、にわかには信じられない音だった。

 荒沢が攻撃され続けている状況だが、一方的にやられているというわけではなかった。

 荒沢の双眸には、何かを狙っているような、油断ならない光があるのだ。

 その狙いが明らかになるのに、それほど時間はかからなかった。

 動きがあったのは、何発目かの舞のミドルキックを、荒沢が肘で弾いた時だ。

 蹴りを弾いたのと同時に、荒沢の体がふっと沈みこんだ。

 そして、蹴り足が戻るのに合わせるようにして、荒沢は勢いよく前に出た。

 次の瞬間には、荒沢の両腕が舞の下半身を抱えこんでいた。

 鮮やかな両脚タックルだった。

 舞の体が、真後ろに向かって奇麗に倒れていく。

 

「くうぅぅぅ!?」

 

 倒された舞が、くぐもった声をあげた。

 いつの間にか、荒沢が舞の左脚を抱えこんでいた。

 アキレス腱固めを仕掛けているのだ。

 アキレス腱固め――相手のアキレス腱に手首の骨を当てて締めつける技だ。

 一般的な関節技と違い、関節を本来曲がらない方向へ曲げるような技ではないが、それでも極まれば激痛を与えることができる。

 その痛みに、舞は悲鳴を発したのだ。

 ただ、悲鳴をあげはしたが、舞の闘志は萎えなかった。

 右足を持ち上げると、荒沢の腕や肩に向かって振り下ろしたのだ。

 運動靴の踵が、荒沢を打つ。

 しかし荒沢は、逃がすものかと舞のアキレス腱をさらに引き絞る。

 また、舞が悲鳴をあげた。

 しかし、降参する気配はない。

 代わりに、ガツガツと繰り返し踵を荒沢に見舞う。

 六発目の踵が、荒沢の鎖骨に良い角度で入った。

 舞の脚を拘束する力が緩んだ。

 舞は全力を込めた右足で、荒沢を思い切り蹴飛ばした。

 分かれた。

 互いに距離を取った荒沢と舞は、同時に立ち上がった。

 

「そこまでにしておきなさい」

 

 向かい合う二人に、声をかける者がいた。

 荒沢と舞が声のした方に視線を向けると、そこには和風の装束を纏った二人の少女が立っていた。

 双子のように似通った顔立ちをしていた。

 荒沢たちと同年代に見える。

 身長は、荒沢や舞より一回り小さい。

 この二人の少女こそ、幼き日の柔術ファントムとムエタイファントムだった。

 

「喧嘩のような、危険な組み手をしてはいけません」

 

 ムエタイファントムが、諫めるように言った。

 その言葉に、荒沢と舞は顔を見合わせた。

 そして、一拍の間の後、舞が目つきを鋭くしながら言い返した。

 

「なんでアンタにそんなこと言われなきゃいけないのよ?」

「貴方達のことを思って言っているのです。同じ道を歩む者として」

「はぁ?」

 

 眉をひそめながら、舞は荒沢に尋ねる。

 

「ねぇ蛮、この子なに言ってんの?」

「さぁ? おれ、ファントムのことよく知らないし」

「え、この子たちファントムなの?」

「今どき、こんな妙ちくりんなかっこうするの、ファントムくらいだろ」

「へぇ……」

 

 舞は二人のファントムに、値踏みするような視線を向けた。

 ムエタイファントムが、不躾な視線に、やや苛立った表情を見せた。

 その苛立ちには、荒沢に格好を貶されたことも関係しているかもしれない。

 どこか剣吞な空気が漂う中、舞がファントム達に、びしりと人差し指を向けながら言った。

 

「アンタたち、私たちと勝負しなさい!」

「ええ!? 舞、本気かよ?」

「あたりまえでしょ。なに怖がってるのよ。私やアンタが、こんな()()に負けるわけないじゃない」

 

 突然のことに驚く荒沢に対して、余裕のある態度を見せる舞。

 その様子に、ムエタイファントムが、すぅっと目を細めた。

 

「その驕り、正してさし上げましょうか?」

 

 そういいながら、一歩前に出るムエタイファントム。

 舞もそれに応じて歩を進める。

 

「ふふん、今から負けた時の言い訳を考えておいた方がいいわよ?」

 

 ゆっくりと距離を詰める二人。

 その後方では、荒沢と柔術ファントムが、それぞれ困ったような顔をしていた。

 こちらの二人は、舞とムエタイファントムほど好戦的な性分ではないらしい。

 舞とムエタイファントムが、少し遠い間合いで、ローキックのやり取りを始めた。

 それを見た荒沢は、闘い始めた二人を大きく迂回して柔術ファントムの近くへ走った。

 

「どうしようか?」

 

 困った表情のまま、荒沢は柔術ファントムに声をかけた。

 

「まぁ、止める必要もないでしょう」

 

 柔術ファントムは、淡白な調子で答えた。

 それを聞いた荒沢は、視線を舞とムエタイファントムに向ける。

 激しい打撃の応酬が行われていた。

 どちらかといえば、舞が押しているように見える。

 荒沢はその光景に対し、確認するように小さく頷いてから、再び柔術ファントムに視線を戻した。

 

「なぁ、あのさ……」

「なんでしょうかっ!?」

 

 再び荒沢に話しかけられ、それに応じようとした柔術ファントムが、驚きの声をあげた。

 荒沢が突然、タックルを仕掛けたのだ。

 完全な不意打ちだった。

 なすすべもなく仰向けに倒れる柔術ファントム。

 ジャッ、と音を立てて、石ばかりが転がる地面に背中を打ちつけた。

 受け身を取り損ねていた。

 その衝撃に柔術ファントムが一瞬だけ動きを止める。

 そこへ荒沢が、凄い速さで覆い被さった。

 気づいた時には、柔術ファントムの右手首は、荒沢の両手に握られていた。

 柔術ファントムの上腕は、荒沢の股に挟まれていた。

 柔術ファントムの胸は、荒沢の膝の裏によって地面に押し付けられていた。

 腕ひしぎ十字固め。

 肘の関節を極める、最もポピュラーな関節技だ。

 柔術ファントムの肘から、ぶちぶちという、靭帯の細胞が少しずつちぎれていく音がしていた。

 

「くうぅぅ……な、何を……」

 

 痛みに呻きながら、柔術ファントムが問うた。

 

「舞が勝ちそうになった時、あんたが急に助けに入ったら困るからさ」

「だからといって、こんな卑怯な……!」

「こういうのは油断した方が悪いんだぜ。お父さんが言ってた」

「ぐぅぅ……」

 

 不意打ちは防げなかった方が悪い。

 平然とそういったことを言い放つ荒沢に、柔術ファントムは悔しげな呻きを返すことしかできない。

 そのまま数秒が過ぎた時、ジャッという音が荒沢の耳に飛び込んできた。

 先ほど、柔術ファントムが倒れた時に鳴ったのと同じ音だ。

 音のした方を見ると、ムエタイファントムが地面に倒れ、両手で腹を押さえながら悶え苦しんでいた。

 舞の強力な前蹴りが、綺麗に鳩尾へ入ってしまったのだ。

 それを見た荒沢は、

 

「よし」

 

 と言って、柔術ファントムにかけていた腕ひしぎを解いた。

 途端に、ゴロゴロと地面を転がって逃げる柔術ファントム。

 痛めつけられた肘を抑えながら、涙の滲む目で荒沢を睨んでいる。

 だが、荒沢は一切悪びれた様子を見せず、舞に声をかけた。

 

「舞、どうだった?」

「なかなか強かったけど、私ほどじゃないわ。そっちは?」

「楽勝」

「そう」

 

 まだまだ余裕のある態度で言葉をかわす荒沢と舞。

 さらに舞は、柔術ファントムとムエタイファントムに言った。

 

「これからは弱っちいくせに偉そうなこと言うんじゃないわよ。言いたいことがあるならもっと強くなってから来なさい!」

 

 さらにそこへ、便乗するように荒沢が付け加えた。

 

「ちゃんとした修行してこいよ。弱いやつの相手するの、面倒なだけだから」

 

 3

 

 そういえば、こんなこともあったな――

 柔術ファントムの能力によって過去の映像を見せられた荒沢は、曖昧ながらその時の事を思い出していた。

 額に汗が浮かび、目が宙を泳いでいる。

 一呼吸の間の後、荒沢は心底申し訳なさそうな表情で口を開いた。

 

「……なんというか、すまん」

 

 そう言って、荒沢は頭を下げた。

 びっくりするぐらい生意気な糞餓鬼。

 それが荒沢が過去の自分を見て抱いた感想だった。

 柔術ファントムやムエタイファントムが雪辱を果たそうとするのも頷ける。

 不意打ちで倒した相手を弱いと煽るのは、いくらなんでも性格が悪すぎる。

 恥ずかしさに気を落とす荒沢に、柔術ファントムは可笑しそうに笑った。

 

「気にしないでください。貴方たちに負けたことは、私たちの修行の励みになりました」

「そうか……」

 

 柔術ファントムの言葉に、少しだけ安堵した様子を見せる荒沢。

 そして、何かに気づいたように表情を変える。

 

「なぁ、あんたの道着、アメリカかブラジルにあるジムのものだよな。いったい何年間、柔術の修行をしていたんだ? 前に俺たちと戦ったのは十年前みたいだが」

「十年ですよ」

 

 柔術ファントムは答えた。

 

「貴方たちに負けてから、すぐに私たちは海を渡りました。立ち技と寝技、それぞれの分野で最強とされる格闘技を学ぼうと決めて。私はアメリカのジムで十年間、柔術を学びました」

「十年か、すごいな……」

 

 柔術ファントムの言葉に荒沢は、ほう、と息をはいた。

 十年――言葉にするのは簡単だが、一つのことに打ち込む時間として考えれば、気の遠くなるような長さだ。

 それだけの月日を鍛錬に費やすことができる柔術ファントムに、荒沢は畏敬の眼差しを向けた。

 しかし、柔術ファントムは、

 

「まぁ、負けてしまいましたがね」

 

 と素っ気なく言って、悲しそうな、そして寂しそうな笑みを見せた。

 しかし、その表情はすぐに引き締められた。

 

「荒沢蛮」

 

 改まった真剣な態度で、柔術ファントムは荒沢をまっすぐに見据えた。

 

「私を封印してください。貴方が優秀な特異能力者であることは、風の噂に伝え聞いています」

「なに?」

 

 柔術ファントムの突然の言葉に、荒沢は動揺を隠せなかった。

 

「封印だと? 急にどうしたってんだ?」

()()()ですよ」

 

 柔術ファントムは、言った。

 

「私は柔術を学んだ武道家です。そして、武道家が真剣勝負に負けるということは、()()()()()()でしょう」

 

 柔術ファントムが口にする、()()()()()()――この言葉が示すのは、死、ということだろう。

 負ければ、次はない。

 武道家は常に命をかけて戦う。

 なるほど、そういう考えは確かにあるだろう。

 だが、荒沢にとっては少し古すぎる考え方でもあった。

 

「待て待て、急過ぎるだろう」

「申し訳ありません。しかし私は、封印されるなら貴方が良いのです。私たちは死なぬ存在ですから、せめて一度封印されることで心にけじめをつけたい」

「ちょっと待て、ファントムって不死身なのか? 初耳だぜ。いや、まぁ今それはいいか……なぁ姉ちゃん、負けたと言っても半分だろう?」

「半分?」

「そう、半分だ。あんたらの狙いは俺と川神の二人。川神の分は負けで決着がついたが、俺の分はまだだ。戦おうぜ? 本場で十年間鍛えた柔術、興味があるんだ」

 

 そう言うと、荒沢は着ていたTシャツを脱ぎ捨てて半裸となった。

 

 4

 

 なんと、凄い肉体か――

 目の前で上半身を露わにした荒沢を見て、柔術ファントムは驚嘆した。

 みっしりと詰まった、高密度筋繊維の塊。

 それが荒沢の肉体だった。

 服の上からでもその肉の大きさは見て取れたが、直に見ると想像していた以上の雄大さがあった。

 ガッシリとした巨大な骨格の正面を、馬鹿みたいに厚い胸板と、ボコボコとした腹筋が覆っている。

 腕や脚も、呆れるほど太い。

 そして、さらに太いのが首だ。

 他の部位と比べても、一段上のボリューム感がある。

 頭部を真横から金属バットで思い切り殴っても、ビクともしないのではなかろうか。

 数値としては、身長百八十八センチ、体重百二十キロといったところだろう。

 アメリカでも、このクラスの巨体は珍しい。

 そして、巨体でありながら、無駄な肉がほとんどついていない。

 食事を計画的に管理しながら、厳しい筋力トレーニングを怠けることなく何年間も続けて、やっと手に入る体だ。

 

「結構なものだろ?」

 

 柔術ファントムの驚きに気づいた荒沢が、得意気に笑った。

 その日焼けした顔の造りは、線の濃い大雑把なものだ。

 世間一般で美形と言われる要素をあまり含まない、野性的な顔だ。

 しかし、その太い唇に浮かぶ自信に溢れた笑みには、力強い魅力があった。

 惚れ惚れとするような男だった。

 と、その時、柔術ファントムはあることに気がついた。

 荒沢の体に、真新しい傷痕があるのだ。

 右の脇腹と、左手の小指から中指の付け根の部分だ。

 肉と皮が引き攣れ盛り上がっている様は、縫い合わせていた傷が、ようやく塞がったもののように見える。

 ()()()だけがおかしく、皮膚表面の色は周囲とほとんど変わらないのが生々しい。

 

「その傷は?」

 

 柔術ファントムは、思わず尋ねた。

 荒沢は、脇腹の傷をつるりと撫でながら答えた。

 

「この間、ちょいとヤバい奴と戦ってな。まぁ、傷口はもうくっついてるから気にするな。体重差分のハンデにちょうどいい」

 

 あっけらかんとした口調でそれだけ言うと、荒沢は数歩下がって柔術ファントムとの間に距離を置いた。

 そして、その巨大な上半身をぐぅと前傾させ、両手を前方に突き出す。

 レスリング式のクラウチングスタイルだ。

 

「せっかくだからよ、技の比べっこをしようぜ。お互い得意な組み技でよ。俺は打撃も、特異能力も使わねぇ」

 

 そう言って、ニッと獰猛に笑う荒沢。

 その肉体からは、圧力を持った熱がジリジリと放射されている。

 その熱に当てられて、昨日、舞に負けてからずっと沈み込んでいた柔術ファントムの精神が、高揚していた。

 柔術ファントムが構えた。

 ベタ足の直立姿勢で、柔らかく握った拳を胸の前に――

 古典的なブラジリアン柔術のバーリトゥード(なんでもあり)スタイルだ。

 柔術ファントムは荒沢の言葉を信じていなかった。

 組み技で勝負しようと言っておきながら、隙を見せれば躊躇なく顔面に拳を打ち込んでくるかもしれない。

 そういう相手だと思っていた。

 

「へっ……」

 

 柔術ファントムの構えを見て、荒沢が白い歯を見せた。

 次の瞬間、とん、と軽やかに荒沢が踏み込んできた。

 疾い。

 タックル!?

 違った。

 荒沢は柔術ファントムの右脇を通り抜け、後ろに回り込んだのだ。

 水中の魚のように滑らかな動きだった。

 背後(バック)の取り合いはレスリングの基本なのだ。

 ガシリと、荒沢の太い両腕が柔術ファントムの胴体を抱えた。

 スープレックス!?

 この状態から、荒沢が体を後ろに反らせるようにして投げれば、柔術ファントムは後頭部からアスファルトに叩きつけられることになる。

 それは、不味い。

 戦いが終わってしまう。

 柔術ファントムは重心を落として、投げられるのを一瞬だけ遅らせた。

 そして、その一瞬で、自分の腹の正面でクラッチされている荒沢の両手を外して脱出した。

 転がるようにして間合いを離す。

 結果、四メートル程の距離をあけて、柔術ファントムは荒沢と向かい合うことになった。

 

「やっぱ、スープレックスはまだ駄目だな」

 

 荒沢が悔しそうに呟いた。

 今、柔術ファントムが荒沢のクラッチを外すことができたのは、荒沢が左手の指を怪我しているせいだったからだ。

 柔術ファントムは、荒沢の言葉に反応を返さなかった。

 

「では、次はこちらから行きます」

 

 そう言うと、荒沢に向かってまっすぐに進んだ。

 体の正面を荒沢に向け、一定の速度で――

 この柔術ファントムの前進は、荒沢からは、タックルをしかければなんの抵抗も感じることなく簡単に押し倒すことができそうに見えていた。

 実際、その通りだった。

 無防備と言ってもよいほど素直な前進だ。

 そのまま、柔術ファントムはあっさりと荒沢の間合いに侵入した。

 この一瞬、荒沢は動かなかった。

 柔術ファントムを地に倒し、有利なポジションを奪うのに最も良いタイミングだったにもかかわらずだ。

 あまりに無警戒な柔術ファントムの姿が、荒沢に必要以上に警戒心を抱かせたのだ。

 この、何十分の一秒かの隙を、柔術ファントムは的確に突いた。

 身を沈め、荒沢の右足に向かって勢いよく突進する。

 片脚タックル。

 綺麗に入った。

 軸足を持ち上げられ、百二十キロを誇る荒沢の巨体が、仰向けに倒れていく。

 同時に、柔術ファントムは荒沢の右脚を抱え込もうとする動きを見せた。

 アキレス腱固めやアンクルホールドなどの、足首を極める関節技を狙っているような動きだ。

 荒沢の背中がアスファルトに着いた。

 その瞬間、柔術ファントムが抱え込もうとしていた荒沢の右脚が、凄い勢いで振られた。

 柔術ファントムを振りほどくための動きだ。

 柔術ファントムは、躊躇うことなく荒沢の脚を手放した。

 脚を狙いに行ったのは、フェイントだったのだ。

 本当の狙いは、荒沢の右腕だった。

 脚を振り回したせいでバランスを崩している荒沢の上半身に、柔術ファントムは素早く覆い被さった。

 荒沢の右手首を取り、右腕を股に挟む。

 荒沢の上半身を、両脚で押さえ込む。

 このまま一気に肘を引き伸ばせば、腕ひしぎ十字固めに――

 できなかった。

 荒沢は右手で自分の左手首を握ることで、腕を伸ばされることを防いだのだ。

 しかし、柔術ファントムの表情に焦りはなかった。

 荒沢の抵抗を、無駄な足掻きだと思っているからだ。

 腕ひしぎは、人体の中でも特に強力な背筋の力で、相手の肘関節を引き伸ばす技だ。

 いくら荒沢の腕力が強いといっても、特異能力を発動させていない状態では、柔術ファントムの背筋力には敵わない。

 ギリギリと歯を食いしばりながら、荒沢の腕を引き延ばそうとする柔術ファントム。

 荒沢の抵抗は、柔術ファントムからすれば、見苦しい時間稼ぎだった。

 しかし、柔術ファントムのこの思考は、荒沢を過小評価したものだった。

 柔術ファントムの体の中で、最初に異常を察知したのは、両脚だった。

 アスファルトに押し付けているはずの荒沢の上半身が、ゆっくりと浮き上がってきたのだ。

 反動をつけ、体を跳ねさせているのではない。

 もっと、じんわりとした駆動だった。

 柔術ファントムは、荒沢が何をしようとしているのか、すぐに気付いた。

 体を反らせ、三点ブリッジで柔術ファントムの体を持ち上げようとしているのだ。

 馬鹿な――

 そう思った時には、柔術ファントムの体は宙に浮いていた。

 荒沢の凄まじく太い首の力が、柔術ファントムの体重を持ち上げ、支えてしまったのだ。

 こうなってしまっては、腕ひしぎを極めることなどできない。

 柔術ファントムは荒沢の腕を離し、一旦逃げようとした。

 逃げられなかった。

 柔術ファントムが逃げるより早く、荒沢が横向きにローリングして、のしかかってきたのだ。

 百二十キロの体重に動きを封じられる柔術ファントム。

 柔術ファントムの道着の襟が、荒沢の両手に握られた。

 その襟で首を、頸動脈を締められた。

 裸締め――

 完全に極まっていた。

 視界の真ん中に、顔を真っ赤にしながら獣の笑みを浮かべる荒沢の顔があった。

 ああ、負けた。

 そんな思いが、徐々に薄れていく意識の中に、すとんと音を立てて現れた。

 驚くほどあっさりと、敗北を受け入れてしまったのだ。

 柔術ファントムは荒沢の右腕を、手のひらで何度か叩いた。

 タップアウト。

 降参の合図だ。

 首にかかっていた力が消える。

 荒沢が、柔術ファントムの体の上から立ち上がった。

 柔術ファントムは仰向けに寝転がった姿勢から、上体だけを起こした。

 柔術ファントムが荒沢の顔を見ると、荒沢も柔術ファントムの方を見ていた。

 視線が絡み合った。

 柔術ファントムも荒沢も動かなかった。

 沈黙があった。

 聞こえてくるのは、二つの荒い息づかいだけだ。

 そのまま一分が過ぎ、二分が過ぎて、ようやく柔術ファントムは口を開いた。

 

「貴方は、強い」

 

 そう、簡潔に荒沢を讃えたのだ。

 柔術ファントムは今にも泣き出しそうな、しかし微かに蜜を含んだような、覚束ない表情をしていた。

 




 長く続いた柔術ファントム・ムエタイファントムの話は今回で一応終わりです。
 次回投稿は今回のエピローグ的ものと新しい話の導入になる予定です。
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