幻想世界をバック・ドロップ!   作:セミドレス

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第十二話 方舟 Ⅰ

 

 1

 

 周囲がガヤガヤとした騒々しさに満たされている。

 ミドルティーンの若者達が作り出す、エネルギッシュで明るい喧騒だ。

 和泉玲奈は、その賑やかさの中に、ぽつんと取り残されるようにして座っていた。

 月曜日。

 荒沢蛮と川神舞が、柔術ファントム・ムエタイファントムと戦った翌日の放課後である。

 週明けの連絡会を終えた直後の脳機能エラー対策室(クラブ)の部室では、所属する生徒達がチームごとに、あるいは仲の良い友人同士で集まって歓談に興じている。

 そんな空間で、玲奈は椅子に座ってぼんやりとしていた。

 常ならば、玲奈が実の姉のように慕っている舞が話相手になってくれるのだが、あいにくと今日はアルバイトのためにクラブへ顔を出していない。

 それで玲奈は、何をするでもなく、ちょこんと椅子に腰掛けているのだ。

 玲奈の目の前では、同期生の一条晴彦がスケッチブックに鉛筆走らせている。

 その様子を、一つ上の学年の先輩である荒沢と、荒沢の右肩に胡座をかいている妖精ファントムのルルが、じっと見つめている。

 

「よし。できましたよ、蛮先輩」

 

 ほどなくして、晴彦が鉛筆を置いた。

 完成した絵を荒沢に向けながら尋ねる。

 

「先輩、これで大丈夫ですか?」

「おう、完璧だぜ! いやぁ、助かる」

 

 荒沢がその陽に焼けた顔に、満足げな笑みを浮かべた。

 晴彦が描いた絵――それは、黒衣に身を包んだ美しい女性の絵だった。

 この女性は、以前、荒沢と晴彦が荒耶識社の研究施設で遭遇したファントムだという。

 荒沢はこのファントムを探していて、その情報収集に利用するため、晴彦にこの絵を描くよう頼んだのだ。

 

「しかし、一条は凄いなぁ…… 頭も良ければ絵も上手い」

「ええと、ありがとうございます。まぁ、頭の方は、ちょっと残念って言われることありますし……」

 

 本気で関心しているらしい荒沢の言葉に、晴彦が頬を少し紅くしながら、言い訳をするような口調で応じた。

 荒沢のまっすぐな称賛に照れているらしい。

 荒沢と晴彦は、知り合って一ヶ月程度とは思えない程、良好な関係を築いている。

 フランクな性格の荒沢と受け身体質の晴彦は、先輩と後輩として上手く噛み合うらしい。

 それが玲奈には、少し羨ましかった。

 玲奈と、この場にいない舞の関係性は、まだどこか遠慮を含んだ物であり、荒沢と晴彦ほど親密なものではないからだ。

 いや、舞との関係だけではない。

 晴彦や荒沢に対しても、受け身の形でしか会話ができない。

 現に今も、二人の会話にただ耳を傾けることしかできないでいる。

 馴染みのメンバーの中で、自分だけが一歩も二歩も引いた位置にいるのだ。

 それが玲奈には寂しかった。

 二人に気づかれないよう、ふぅ、と小さくため息をつく。

 思えばクラブの中だけでなく、クラスメイトに対しても、そして家族に対してすら、距離を置いたつき合い方をしている。

 誰に対しても、自分の感情をもう少しだけストレートにぶつけたい。

 そんな欲求が玲奈の中にはある。

 しかしそれは、玲奈にとって難しいことだ。

 引っ込み思案な自分が恨めしかった。

 また、玲奈はため息をついていた。

 晴彦が描いた絵に目を向ける。

 鉛筆だけで緻密に描かれた、モノトーンの一枚だ。

 女性の妖艶な双眸が、玲奈を視ていた。

 荒沢がこのファントムを探しているのは、昨日、次のような事があったからだという。

 

 2

 

 じっとりと熱を帯びた橙色の空の下。

 荒沢は、どこか残念そうな表情を浮かべながら、橋の真ん中に佇んでいた。

 その正面には、青い道着姿の少女が背筋を伸ばして正座している。

 柔術ファントムだ。

 柔術ファントムの顔は少し紅くなっていた。

 今しがた、荒沢の裸締めによってギブアップを奪われたばかりだからだ。

 

「本当にいいんだな?」

「はい、お願いします」

 

 確認するような荒沢の問いに、柔術ファントムが頷いた。

 敗北した柔術ファントムは、荒沢に己を封印するよう頼んだのだ。

 柔術ファントムが持つ、独特の哲学からくる願いだった。

 荒沢はそれを聞き入れたのだ。

 

「……dieno-loading.corps lily」

 

 荒沢が低い声で、自身の封印能力を発動するパロールを唱えた。

 そしてその場に膝を着き、柔術ファントムの顎を右手で引いて上を向かせる。

 緊張した面持ちの柔術ファントムに顔を寄せ、そっと、唇と唇とを触れさせた。

 身体能力の強化。そして、口づけによる封印。

 この二つが、荒沢の特異能力なのだ。

 すぐに荒沢は触れあっていた唇を離し、柔術ファントムと見つめ合った。

 柔術ファントムの肉体は、すぐに光の粒子へと分解され封印されるはずだ。

 柔術ファントムは顔を紅潮させながら荒沢を見上げている。

 突然キスに驚いているらしい。

 見開かれた瑠璃色の瞳が、動揺のままに震えている。

 形のよい唇は少々間の抜けた半開きだ。声を発しようとする途中に固まってしまったらしい。

 驚愕と羞恥で一杯といった様子で、先ほどまでの武道家然とした様子が嘘のようだ。

 しかし荒沢には、こちらの柔術ファントムの方が好ましく思えた。

 死に場所を探す古風な武道家よりも、キスひとつでおろおろと戸惑う()()()丸出しの姿の方が、ナチュラルに見える。

 数秒の間にここまで思考を走らせたところで、荒沢は、

 

「あれ?」 

 

 と、首を傾げた。

 柔術ファントムが封印される予兆が、一向に現れないのだ。

 こんなことは初めてだった。

 不思議に思う荒沢の前で、柔術ファントムが、わぁっ、と声をあげた。

 

「あ、あ、荒沢蛮! いったい、いったい何をするのですか!? 何をしたのですか!?」

 

 柔術ファントムは正座した状態から後ろに飛び退くように尻餅をつき、ひどく上ずった声でそう叫んだ。

 空の端で、沈む寸前の太陽が、ひときわ赤みを増していた。

 

「ああ、すまん」

 

 荒沢はそう謝ると、もう一度パロールを唱え、柔術ファントムに覆いかぶさった。

 そして、右手を柔術ファントムの後頭部に回し、再び唇を奪う。

 

「んっ……むぅ……!?」

 

 柔術ファントムが体を強張らせながら、くぐもった声を漏らした。

 荒沢の舌が、口腔に挿し込まれたからだ。

 荒沢の舌が、ゆっくりと柔術ファントムの舌に絡みついた。

 舌先が舌先を、くすぐるように撫でる。

 優しい触れ方だった。

 しかし、それが次第に、激しく貪るような動きに変わっていく。

 柔術ファントムの口内は、荒沢の舌先によって、好き勝手に犯され始めた。

 歯茎をなぞられていたかと思えば、歯の裏側へ強引に潜り込まれている。

 舌をこね回されていたかと思えば、その舌がいつの間にか荒沢の口へと引き込まれていた。

 唾液を流しこまれ、こくこくと嚥下させられる。

 逆に、荒沢から受け取ったものと自分のものとが混ざり合った液体を、無理やり吸い上げられる。

 ふー、ふー、と荒い呼吸音が周囲に響く。

 そこに時折、くちゃり、くちゃり、と湿った音が混じった。

 翻弄され、陵辱を受けるばかりの柔術ファントムだが、それでも荒沢に抱きすくめられたまま、一切抵抗をしなかった。

 一分以上が過ぎてから、ようやく荒沢は柔術ファントムを解放した。

 異様なほど長く、執拗なディープキスだった。

 

「あ、荒沢蛮、何を考えているのですか……?」

 

 柔術ファントムが涙の滲む瞳で荒沢を見上げながら、蚊の鳴くような声で問いただした。

 

「いや、ひょっとしたら情熱が足りなかったのかと思って試したら、止められなくなって……」

 

 荒沢は立ち上がりながら、不明瞭な口調でそんなことを答えた。

 日焼けした顔が紅みを帯びていた。

 呼吸のリズムも早くなっている。

 ズボンの股間部分が、大きく盛り上がっていた。

 男性器が急角度に勃起していることが丸わかりだ。

 獣染みた情欲をあからさまに見せつけられた柔術ファントムは、あうぅ、と細く鳴いた。

 そして、膨張した荒沢の股間から視線を引き剥がすと、強い態度で荒沢を詰問した。

 

「こ、こんな場所で、本当に何を考えているのですか貴方は!? わかりません、きちんと説明してください!」

「いや、そのな、俺の能力ってげぇぇっ!?」

 

 言い訳がましい口調で応じようとした荒沢が、いきなり悲鳴をあげた。

 そのまま、白目を剥いてゆっくりと横に倒れ始める。

 

「荒沢蛮!?」

 

 突然の事態に驚く柔術ファントム。

 どすんと音を立てて荒沢がアスファルトに倒れた。

 その巨体の背後に隠れていたのは――

 

「川神舞!?」

 

 いつの間にか、ムエタイファントムを背負った舞が仁王立ちしていた。

 舞は、どういうわけか憤怒の表情を浮かべていた。

 何がどうなっているのかと、柔術ファントムは混乱しながら荒沢に視線を向ける。

 荒沢は股間を押さえながら悶え苦しんでいた。

 舞に背後から睾丸を蹴り上げられたらしい。

 そのことに柔術ファントムが気付くと同時に、舞が動いた。

 

「この不埒者! 破廉恥! 色情魔!」

 

 舞は怒りの声をあげながら、仰向けに転がる荒沢の胸にストンピングを加え始めたのだ。

 

「やめなさい、川神舞!」

「へ?」

 

 柔術ファントムが慌てて荒沢と舞との間に割り込むと、舞はポカンと口をあけて動きを止めた。

 

「川神舞! いったい何をするのです!?」

「ええと、とち狂ったこの変態が、アンタをレイプしにかかってると思ったんだけど……」

「そんなことがあるわけないでしょう!?」

「え、嘘、違ったの? ごめんなさいね、荒沢」

 

 頭を下げる舞をよそに、柔術ファントムは心配そうに荒沢の顔を覗き込んだ。

 

「荒沢蛮、大丈夫ですか!? しっかりしてください!」

「ぐぅ、おう……」

 

 荒沢は額に汗を浮かべながらも、のっそりと上体を起き上がらせ、申し訳なさそうに柔術ファントムと目を合わせた。

 痛みで己を取り戻したのか、その双眸から、先ほどまでの獣性が消えていた。

 まっすぐで真摯な視線が、柔術ファントムの瞳を射抜く。

 柔術ファントムの心臓が、ドクンと鼓動を速くした。

 

「すまん、姉ちゃん。封印はまた今度でいいか」

「え、ええ、構いません。問題ありません。その、多少、先になっても……」

 

 柔術ファントムは早口で返事をしながら、先ほどまでとは違う意味で頬を染めた。

 荒沢を見る目が、蜜を含んだように潤んでいた。

 その様子に対して、荒沢は複雑な表情を浮かべ、困ったように頭を掻いた。

 

「荒沢、アンタなにしたのよ?」

 

 舞が唖然としながら荒沢に尋ねた。

 背に抱えているムエタイファントムともども、信じられないものを見たような顔をしていた。

 

「俺はいい男なんだよ」

 

 荒沢は微妙に恥ずかしそうな態度で返した。

 その言葉を聞いて、()()をつくるようにして荒沢の体に寄り添っていた柔術ファントムが、羞恥の呻きをあげた。

 荒沢の顔が、再び興奮の色に染まろうとした。

 しかし、その表情は何かを思い出したように引っ込み、真剣なものに変わった。

 

「AJ-loading. The phenomenal one.」

 

 荒沢は確かめるように小さくパロールを呟くと、右手の人差し指でアスファルトを突いた。

 コッ、という音を立てて、アスファルトに亀裂が入る。

 それを確認した荒沢は、安心したように息をついた。

 そして、舞に呼びかける。

 

「なぁ、川神」

「なによ?」

 

 苦虫をかみつぶしたような顔をする舞に、荒沢は眉をハの字にしながら言った。

 

「なんか俺、封印能力を使えなくなったっぽいんだが」

 

 3

 

 このようなことがあって、荒沢は黒衣の女ファントムを探すことを決めたと、玲奈は聞いている。

 なんでも柔術ファントムと戦う十日ほど前に、荒沢は女ファントムから接吻を受けており、その際に奇妙な感覚があったらしい。

 ファントム側から不意打ちで能動的な口づけがなされたため、封印能力が誤作動を起こし、うまく使えない状態になってしまったのではないか――

 荒沢はそのような仮説を立てた。

 この真偽を検証し、さらには封印能力を取り戻すために、荒沢は女ファントムと接触しようとしているのだ。

 

「ねぇ、蛮」

 

 玲奈がもの思いに耽っていると、荒沢の右肩に座るルルが声を発した。

 

「ホントにコイツ探すの?」

 

 そう荒沢に問うルルは、普段の天真爛漫なものとは違う、何かを憂慮しているような空気を纏っていた。

 

「ええ、どうもこの姉ちゃんが怪しいもんで」

「そっか…… でも気を付けてね。コイツ、危ないから」

「心配してくれてありがとうございます。でも大丈夫ですよ。俺、強いですから」

 

 ルルに対し、自信に満ちた表情で返す荒沢。

 しかしそこへ、晴彦も懸念を表明した。

 

「でも蛮先輩、まだ左手の指は動かないんでしょう? 少し待ってからの方が良いんじゃないですか?」

「おいおい、お前もかよ。大丈夫だって。別に、見つけ次第に喧嘩を吹っかけようってわけじゃねぇんだしよ」

 

 荒沢は肩をすくめながらそう言った。

 しかし、晴彦は不安そうな表情のままだ。

 玲奈も、口に出してはいないが、晴彦やルルに近いことを考えていた。

 件の女ファントムは、前回交戦した際に荒沢の指の腱を切り、脇腹を裂き、肋をへし折ったというではないか。

 それほど凶悪なファントムと接触を図ろうとしているのに、なぜ荒沢はこうも気楽に構えていられるのか。

 少々、己の戦闘力を過信しているのではないか。

 玲奈が黙ってそんなことを考えていると、

 

「心配性だな、一条は。なあ和泉、お前もそう思わないか?」

 

 と、荒沢が話を振ってきた。

 

「え、はい」

 

 急に声をかけられた玲奈は、慌てて頷いた。

 それを見た荒沢が苦笑した。

 玲奈の驚く様子がおかしかったのだろう。

 それから荒沢は、ふと思いついたように玲奈と晴彦に問いかけた。

 

「和泉、一条、暇だったら飯でも行かないか? 寿司でもフグでもステーキでも、好きなもの奢るぜ? こないだの依頼、荒耶識社からびっくりする額の報酬が出たんでな」

「え、いいんですか? 行きます行きます!」

 

 晴彦が嬉しそうに答えた。

 プライベートな時間を本を読むことに注いでいるため、贅沢な食事とは縁がないのだろう。

 そんな晴彦の笑顔を横目で見ながら、玲奈は表情を曇らせた。

 玲奈も荒沢や晴彦に同行したいと思っていた。

 食事に誘われた事は嬉しいし、なにより美味しいものを食べるのは大好きだ。

 しかし、行けない。

 両親にどう説明すればよいのか、わからないからだ。

 玲奈の両親、特に父は、非常に厳格な人物なのだ。

 男性二人と食事へ行くと言っても、絶対に許してくれないだろう。

 かといって、連絡もせず食事へ行き、遅い時間に帰るわけにもいかない。

 せめて舞がいれば、両親の許可を得られる可能性もあったのだが――

 

「和泉は、今度にしとくか?」

 

 消沈する玲奈の様子から事情を察したのか、荒沢がそう尋ねてきた。

 玲奈はため息をつきながら答えた。

 

「はい、すいません。せっかくお誘いいただいたのに」

「いいっていいって。急な話だからな。また機会があったら、今度は川神も一緒に誘わせてもらうぜ」

 

 荒沢は鷹揚に答えると、ガタリという音とともに立ち上がった。

 

「うっし、とりあえず今日は解散するか。一条、なんか食いたいものあるか?」

「いえ、蛮先輩におまかせします」

「そうか……じゃあ、かに道楽いこうぜ。ズワイガニは今が旬ってテレビで昨日やってたし」

「いいですね、蟹」

 

 このような会話をしながら、荒沢と晴彦は部室の出口に向かう。

 玲奈はその後ろに続いた。

 そして、廊下へ出るためにガラリと引き戸を開けた荒沢が、

 

「水無瀬?」

 

 と、呟いて動きを止めた。

 どうしたのかと思いながら玲奈が廊下を覗くと、そこには、一人の女子生徒が待ち構えていたかのように立っていた。

 人形のように美しい、しかし能面のように無機質な顔をした少女だ。

 玲奈の知らない生徒だった。

 女子生徒がここに居ることに対して、荒沢は戸惑い、晴彦は怯えているようだった。

 

「…………」

 

 女子生徒が、その視線を玲奈に向けた。

 一切の不純物を廃した水のような、感情の読めない透き通った瞳が玲奈を見据えた。

 

「その子、ファントムに憑かれてるわよ」

「え?」

「なんだと?」

 

 抑揚のない声で発せられた簡潔な言葉に、玲奈は首をかしげ、荒沢は眉をひそめた。

 しかし、女子生徒は玲奈たちの反応を認識できなかったかのように踵を返すと、一瞥もくれることなく足早に立ち去った。

 その背中が見えなくなったのと同時に、玲奈は、ふぅ、と息をはいた。

 女子生徒が放っていた圧力に、知らず知らずのうちに体が強張っていたのだ。

 

「チッ、あのコミュ障め……」

 

 荒沢が短い頭髪をボリボリと掻きながら毒づいた。

 不機嫌というほどではないが、苛立ちの混じった声だった。

 

「一条、飯はお預けだ。まずは和泉を家まで送るぞ」

「はい、蛮先輩」

 

 緊張した様子でやりとりをする荒沢と晴彦。

 玲奈は困惑しながら尋ねた。

 

「あの、どうしたんですか? それに、先ほどの方は……?」

「さっきのは水無瀬小糸だ。ほら、前に話したことあるだろ? 俺と同じ、防衛省お墨付きの強力な特異能力者だ」

「あの方が……」

「ああ。それでだ、和泉。これから俺と一条でおまえを家まで送る。水無瀬がわざわざ教えに来るぐらいだ。おまえがファントムに取り憑かれているのは間違いない。明日、川神も交えて対策を考えよう」

 

 珍しく硬い表情を見せる荒沢の言葉に、玲奈は自身の危機を認識した。

 

「……お願いします、荒沢さん、一条君」

 

 知らぬ間にファントムに取り憑かれる――

 玲奈がこれまで想像したことのない、不気味な心細さがあった。

 

 4

 

 無言で廊下を歩きながら、後ろに付いてくる玲奈の様子を、荒沢はちらりと覗き見た。

 目尻の下がった優しげな顔に、濃い不安の色が乗っている。

 無理もないことだと、荒沢は思った。

 正体不明のファントムに取り憑かれているという現状は、当人にしてみれば、本当に恐ろしいことだろう。

 悪質なファントムといっても、大抵は悪戯、あるいは迷惑行為以上の被害は出さない。

 しかし、一握りとはいえ、人命を奪うようなファントムも確かに存在するのだ。

 そして、玲奈に取り憑いているファントムがそのようなファントムでないと言い切ることはできない。

 命を狙われているかもしれないし、嫌がらせを受けるだけかもしれない。

 そんなあやふやな危険に玲奈は曝されているのだ。

 これでは腹をくくって覚悟を決めることも、開き直って楽観的になることもできない。

 ここまで嫌な宙ぶらりんの状態も中々ないだろう。

 なんとかしてやらねば――

 荒沢はそう思っている。

 内気で、華奢で、長く伸ばした黒髪が美しい後輩。

 それほど深く関わったことはないが、それでも荒沢は玲奈に対して好意的な印象を持っていた。

 できることなら、自分の手で助けてやりたい。

 しかし、それは難しいことだろうと荒沢は予想している。

 小糸が玲奈の状況を、ファントムに()()()()()()()()と表現したからだ。

 ()()()()()()ではなく、()()()()()()()()

 おそらく、玲奈を害しようとしているのは、人間の精神に干渉する現象型のファントムだろう。

 依り代としてなんらかの実体があれば良いが、そうでない場合、物理的な攻撃手段しか持たない荒沢ではファントムと戦うことができないのだ。

 そんなことを考えている間に、荒沢は校舎を出ていた。

 厚い雲に覆われて薄ぼんやりとした夕刻の空の下、まっすぐに校門前のバス停に向かう。

 玲奈は通学にバスを利用しているのだ。

 バス停に三人で立っていると、五分も経たないうちに一台のバスが停車した。

 見慣れない、クラシカルなデザインのバスだ。

 一般的な直方体型の車体ではなく、運転席の下からボンネットが飛び出している。

 公共の路線バスには見えなかった。

 まさか、このバスがファントムか!?

 荒沢がそのような疑念を抱くと同時に、隣に立っていた玲奈が、ふらりと前に出た。

 

「和泉!?」

「玲奈ちゃん!?」

 

 荒沢と晴彦が焦った声をあげるが、玲奈は止まらず、おぼつかない足取りでバスに乗り込んでしまう。

 

「クソっ! 行くぞ、一条!」

「はい!」

 

 このまま行かせるわけにはいかない。

 荒沢は晴彦とともにバスに飛び乗った。

 そして、次の瞬間――

 

「なに……?」

 

 気づくと荒沢は、見知らぬ住宅地の歩道に立っていた。

 隣には晴彦と玲奈の姿もある。

 晴彦は荒沢と同じように困惑を浮かべており、玲奈はぼんやりとした、力の抜けた顔で佇んでいた。

 三人まとめて、あのバスのファントムに化かされた。

 荒沢はそう認識し、唇を噛んだ。

 してやられたという、忸怩たる思いがある。

 しかし、今はそんな感情に囚われている暇はない。

 この住宅地がどこなのかもわからないし、バスファントムがどこへ行ったのかもわからない。

 なにより、玲奈の様子がおかしいのだ。目を開けているのに、焦点がどこにも合っていない。

 

「おい、和泉!」

 

 若干の焦燥に駆られながら荒沢が声をかけると、玲奈はハッとしたように表情を取り戻し、辺りを見回し始めた。

 そして、荒沢たちが立つ場所から、車道を挟んだ反対側に建つ住宅に目をとめると、

 

「あれ? 私、いつの間にお家へ帰ってきたのでしょうか」

 

 と、キョトンとした顔で言ったのだった。

 その態度には、バスに乗る前に見せていた不安も焦りもない。

 まるで、自分がファントムに取り憑かれていることを、忘れてしまったかのようだった。

 

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