幻想世界をバック・ドロップ!   作:セミドレス

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第十四話 方舟 Ⅲ

 

 1

 

 分厚い雲に、朝の陽射しがすっかり遮られてしまっている。

 先ほどまで霧のような降り方をしていた雨が、いつの間にか勢いを増していた。

 窓の外からガラス越しに、ひたひたと、水が地面を打つ音がしている。

 その音を聞きながら、荒沢蛮は、一コマ目の授業が始まる前の教室で、川神舞に頭を下げていた。

 和泉玲奈に取り憑いていたファントムが自分に移った事を説明し、それを祓うための助力を請うているのだ。

 舞が持つ五行の気を操る能力が、今回の敵であるバス型のファントムに対し、有効であろうと考えてのことだった。

 気の力は、使い方次第で精神干渉を防ぐことも、実体を持たないファントムに攻撃を加えることもできるからだ。

 

「厄介なのに引っかかかったみたいね。わかったわ、手を貸したげる」

「すまん、川神。恩に着る」

 

 協力を約束する舞の言葉に、荒沢は、ほっとしたように息を吐いた。

 

「それにしても、憑くタイプのファントムが、急に宿主を変えるなんて…… 妙なこともあるもんね」

 

 舞が、眉をひそめながら呟いた。

 それに対し、荒沢がため息をつきながら答える。

 

「ああ、俺も聞いたことがない。取り憑く対象を増やすだとか、祓われて逃げだしたファントムが他の人間に憑く、ってことならあるんだろうが。今回は、何をしたわけでもないのに、和泉を捨てて俺に憑いたらしいからな」

 

 荒沢は、悩ましげな表情を見せた。

 肉体の物理的強化以外の能力を使えない荒沢は、バスファントムのような敵と非常に相性が悪い。

 さらに、敵が珍しい動きをするということは、これまで培ってきた経験則が通用しないということでもある。

 こういった理由から、荒沢はいつになく頼りない様子を見せているのだ。

 そんな荒沢に、舞が思いついたように尋ねた。

 

「水無瀬小糸さんが間違えてるって可能性はないのかしら?」

「それはないと思うぜ。あいつ、人間性に問題はあれど、能力は確かだからな。少なくとも、俺はあいつより優秀な特異能力者を見たことがない」

「本当にそんな凄い子なの? アンタが買い被りすぎてるってことは?」

「あいつ、中坊の頃からファントム対策局から頼られ続けてるんだぜ? こういう重要なことで、ミスを犯すとは思えねぇ」

「そう…… ま、放課後になったら調べてあげるわ。感謝しなさい!」

 

 暗い空気を振り払うように、舞がたわわな胸を張った。

 

「ああ、今回ばかりは、頼りにさせてもらう」

 

 荒沢は、ふるりと揺れた膨らみを凝視しながら答えた。

 

 2

 

 放課後――

 和泉玲奈は、学園前のバス停に立っていた。

 隣には、舞と荒沢の姿もある。

 三人で、荒沢に取り憑いたというバスファントムが現れるのを待っているのだ。

 玲奈は、荒沢と舞に無理を言って、この場にいる。

 最初、バスファントムの調査は、舞が一人で行う予定だったのだ。

 憑かれたことのある玲奈や、化かされたことのある晴彦を、再びバスファントムに接触させるのは、危険が伴うからだ。

 しかし、玲奈は、この件に関する事を他人に投げ出したくなかった。

 元を辿れば、自分のせいで起きた騒動からだ。

 荒沢は玲奈を助けようと動いて、バスファントムに憑かれてしまった。

 過程はどうあれ、発端が玲奈であることは間違いない。

 それなのに、全てを舞に任せてしまうのは、無責任な気がするのだ。

 それに、自分の能力への自負もある。

 ファントム・イーター。

 玲奈は、ファントムを喰らうことで封印することができる、非常に珍しい特異能力者だ。

 基本的に活発なファントムには使えない能力だが、無茶をすれば、大抵のファントムを問答無用で封印できる。

 舞や荒沢が危機に陥った時、自分がいれば、強引に事態を収拾することができるかもしれないのだ。

 とにかく、今回は、自分も前に出て戦う。

 そんな決意を固めながら、玲奈は、バスファントムが現れるであろう道路の先に視線を向けた。

 まだファントムが現れる気配はない。

 ただ、雨が降っている。

 静かな雨だ。

 

「ねぇ……」

 

 不意に、それまで無言だった舞が、口を開いた。

 

「ファントムが出てきたら、速攻で玲奈に食べてもらったら? バスなら属性は金でしょうし、火の気を打ち込めば、動きくらいは止められるはずよ」

 

 そんなことを言った。

 これに荒沢が、焦ったような声をあげた。

 

「おい待て、乱暴はやめろ。ファントムは俺の精神に喰いついてるんだぜ? 殴ったり食ったりして、反動が俺に来たらどうするんだよ」

「アンタなら大丈夫でしょ。毛むくじゃらの心臓を持ってるんだし」

「んなわけあるか!」

「はいはい、わかったわよ。まったく、図体の割に神経質なんだから」

「神経質って、おまえなぁ……」

 

 いつものように、軽口を叩く舞と荒沢。

 ただ、ファントムに憑かれて気が気でないのか、荒沢の語勢が弱い。

 舞が、つまらなさそうな顔をした。

 それから、気を取りなおすように、今度は玲奈に話しかけてきた。

 

「ねえ、玲奈」

「なんでしょうか、舞お姉さま」

「昨日、荒沢と晴彦がアンタの家から帰った後、何か変わったことはなかった?」

「変わったことですか?」

 

 玲奈は、舞の質問の意図をすぐに察した。

 ファントムが外れた原因を探ろうと考えているのだ。

 少し考えてから、玲奈は答えた。

 

「荒沢さんたちが帰った後、お父様と、少し喧嘩しました」

「え、玲奈のお父さんって、すごい厳しい人なんじゃなかったっけ?」

 

 舞が、驚いた顔をした。

 

「ええと、喧嘩というより、私が一方的に怒ってしまったというか…… お父様、普段は厳めしい人なんですけど、昨日は荒沢さんとお酒を飲んでるうちにちょっとおかしくなっちゃって……」

「ちょっと荒沢、アンタ、なに余所の家の家庭事情に亀裂いれてんのよ?」

 

 玲奈の言葉を受けて、舞が呆れ混じりに荒沢を睨みつけた。

 その視線に、バツが悪そうに言い訳を始める荒沢。

 

「いや、でも、誘ってきたの、和泉の親父さんからだったし……」

「言い訳しない!」

「はい、すいません」

 

 舞に一喝され、荒沢がその巨体を縮めこませる。

 普段の荒沢なら、舞に睨まれた時点で、皮肉の一つくらいは返す場面である。

 ファントムに憑かれているからなのか、協力を要請している立場だからなのかはわからないが、荒沢の態度にいつもの()()()()()()がない。

 大男は気が弱いともことが多いとも言うし、もしや、これが生来的な性質なのだろうか――

 玲奈がそんなことを考えていると、辺りに低いエンジン音が響いた。

 慌てて道路に目を向ける。

 来た。

 運転席の下からボンネットが突き出たクラシカルな大型車両――バスファントムが、雨の向こうから、こちらへ走ってきていた。

 ギィ、という錆びついたブレーキ音を立てて、バスファントムは玲奈たちの前に停車した。

 

「これが……」

 

 玲奈の隣で、舞が呟いたのと同時に、荒沢がふらりと前に出た。

 そして、おぼつかない足取りで、バスファントムへと乗り込んでいく。

 

「いくわよ、玲奈。離しちゃダメよ?」

 

 舞がそう言って、玲奈の手を握った。

 その手から、(ぬく)い、むず痒くなるような感覚が、玲奈の体に流れ込んで来た。

 舞が、玲奈の体に気を流し込んでいるのだ。

 手を繋いだまま、玲奈は舞と共に、バスファントムへと乗り込んだ。

 荒沢が、バスの最後尾にある、五人がけの席の端に座っていた。

 魂の脱けたような、虚ろな表情をしていた。

 玲奈と舞は、荒沢の隣に腰を下ろした。

 バスファントムの外見同様、座席の座り心地も古びていた。

 座面はすり切れかけており、内部のクッションは潰れきっている。

 

「コイツ、完全に取り込まれてるわね」

 

 荒沢の顔の前でプラプラと手を振りながら、舞が言った。

 バスファントムがガタガタと振動しながら走り出した。

 それからすぐに、玲奈と舞は、

 

「きゃ!?」

「むぅ……」

 

 と、声をあげた。

 十メートルも走らないうちに、窓の外が真っ白な光に包まれたからだ。

 そして数秒後、光が消えた時、窓から見える風景が、一変していた。

 海沿いの幹線道路らしき空間が、バスファントムの周囲に広がっていた。

 四車線の、広い道路だ。

 にもかかわらず、辺りにバスファントム以外の車両の影はない。

 どうやらこの光景は、バスファントムが作り出した幻であるらしい。

 幻影の海には、埋め立て工事で作られた埠頭がたくさん見えた。

 よほど大きな港があるということだろうか。

 この海にモデルがあるとすれば、東京湾か、大阪湾か、伊勢湾か――

 と、その時、バスファントムがゆっくりと減速を始め、軋むような音を立てて停車した。

 さらに、荒沢が虚ろな顔のまま立ち上がり、玲奈たちを押しのけ、フラフラと降車口へと向かい始めた。

 

「舞お姉さま」

「ええ」

 

 玲奈と舞も立ち上がり、荒沢の後を追った。

 

「ここは……」

 

 バスファントムから降りると、舞が何かに気づいたように息をのんだ。

 その表情が、ひどく強張っていた。

 

「舞お姉さま……?」

 

 玲奈は思わず、舞の顔を覗き込んだ。

 唇を噛む舞の額に、じっとりと汗が滲んでいた。

 

「ごめんなさい、玲奈。アイツを追うわよ」

 

 舞はそう言って表情を引き締めると、玲奈の手を引いて歩き出した。

 荒沢を探すと、海沿いに建つ、外壁がクリーム色に塗られた大きな建物に入っていくところだった。

 建物には『ルタ 鶴見』という看板が出ている。

 近づいてみると、イベントホールか何かであるらしかった。

 

「こっちよ」

 

 舞が、正面玄関とは別にある、関係者用らしき出入り口へ向かい始めた。

 迷いの無い足取りだ。

 

「舞お姉さまは、この場所を知っているのですか?」

 

 玲奈が尋ねると、

 

「ええ、それなりにね」

 

 と、舞は返した。

 その声音は、どこか硬いものがあった。

 建物の中へ入った玲奈は、舞に連れられて奥へ進む。

 しばらく歩くと、奇妙な音が聞こえてきた。

 ダン、ダン、という、何かを叩くような鈍い音と、かけ声とも怒声ともつかない野太い男の声だ。

 ほどなくして、玲奈はその発生源を見つけることになった。

 

『アークプロレスリング 道場』

 

 そう書かれたプレートが貼ってある扉――磨りガラスの大きな窓がついた引き戸だ。

 舞が、その扉の前で立ち止まった。

 なにか、ひどく緊張しているように見えたため、玲奈は声をかけられなかった。

 アークプロレスリング――

 荒沢が以前、話していた、荒沢の父が所属するプロレス団体なのだろうか?

 なぜ、その道場に、バスファントムは荒沢を連れてきたのだろうか?

 玲奈の胸に、そんな疑問が浮かんだ。

 

「玲奈、中を見るわよ」

 

 ひとつ大きな深呼吸をした舞が、意を決したようにそう言って、引き戸を一センチほど開け、中を覗き始めた。

 それに習い、玲奈も扉の隙間へ目をやった。

 扉の向こうには、むっとするような光景が広がっていた。

 

 3

 

 テニスコートより、一回り広いくらいの部屋だった。

 部屋の中央に、緑色のキャンバスが張られたリングがある。

 四本の鉄柱と三本のロープに囲まれた、一辺が六メートルほどもある、正方形のリングだ。

 リングを囲うように、ウエイトトレーニングを行うための設備や、エアロバイクなどが設置されている。

 そんな部屋に、十数人の男がいた。

 男たちの服装は、半裸であったり、Tシャツ姿であったりとまちまちだ。

 そんな男たちに共通して言えることは、皆、一様に体が大きいということである。

 それも、筋骨隆々という表現が似合う、筋肉によって肥大化した体の持ち主ばかりである。

 何人かは、皮膚の下に分厚い脂肪を蓄えているような者もいるが、その数人も、脂肪のさらに下には、太い筋肉の束を持っていることが一目でわかる。

 部屋の中にいる全員が、体を鍛えていた。

 息を弾ませながら縄跳びをしている者もいれば、歯を食いしばってベンチプレスをしている者もいる。

 リングの上でスパーリング、つまりプロレスのルールに則った練習試合をやっている者もいる。

 皆、真剣な表情だ。

 手を抜いたトレーニングをしている者は、一人もいない。

 きつい汗の臭いが漂ってくるような光景だった。

 そんな道場の端の方に、荒沢がいた。

 いつの間に着替えたのか、灰色のトレーニングウェアに身を包んだ荒沢は、黙々とヒンズースクワットをしていた。

 立つ。

 しゃがむ。

 立つ。

 しゃがむ。

 百二十キロを誇る荒沢の体が、一定のペースで上下する。

 それほど速いペースではない。

 一度の上下に、一・五秒程度の時間をかけている。

 ただ、荒沢の動きは、止まらない。

 息を荒くしながらも、ペースを乱さない。

 百回を数え、二百回を過ぎ、三百回を越え……

 五百回目の上下を終えた時、ようやく荒沢はスクワットをやめた。

 下半身の筋肉をほぐすように屈伸する荒沢。

 次は、腕立て伏せだった。

 荒沢は近くに転がっていたプッシュアップバーを手元に置くと、しっ、しっ、という呼気と共に、腕立て伏せを始めた。

 休みを入れずに、百五十回。

 それだけの数をこなしてから、荒沢は立ち上がった。

 ぜいぜいという荒い呼吸にあわせて、筋肉でパンパンに膨らんだ肩が、大きく上下している。

 そんな荒沢に、近づく者がいた。

 黒いロングタイツだけを身につけた、四十代後半に見える半裸の男だ。

 道場にいる男たちの中で、一番歳を食っている。

 身長は、荒沢より少し低い。百八十五センチくらいだろうか。

 顔立ちは、ゴツイ。

 目や眉が太く、力強い印象を受ける。

 頭の上では、短めに切られた髪の毛が、金ダワシのようにクシャクシャと絡みあっている。

 相当クセの強い髪質のようだ。

 腹が、でっぷりと前に突き出している。

 緩んだ脂肪が、全身を覆っているのだ。

 しかし、脂肪の下に強固な筋肉を隠しているのは間違いなかった。

 肩のラインが、横にパンと張っているからだ。

 質に違いはあれど、男は、荒沢と同等の肉の厚みを持っている。

 

「蛮、少しスパーリングに付き合ってくれないか? 次のシリーズで、三十分のシングルをやることが決まってしまってなぁ」

 

 男は、荒沢の隣に立つと、そう言った。

 これに荒沢は、

 

「もちろんいいぜ、親父。てか三十分てマジか。いい歳なんだから、無茶しないでくれよ」

 

 と、明るい笑みと共に答えた。

 どうやら、この少し太った男こそが、荒沢の父親であるらしい。

 荒沢と、荒沢の父は、道場中央のリングへと向かった。

 すると、もともとリングにいたレスラー達が、自らリングを降りた。

 

「そういえば、蛮。舞ちゃんは最近どんな様子だ?」

「川神か? 相変わらず金に汚い上、喧しいばっかりだ」

「そうか、まだ困っているのか…… よし、蛮。おまえ、十八になったら舞ちゃんを口説いて嫁に来てもらえ!」

「親父、馬鹿な考えは捨てろ。親父が最後に川神と会ったの、中学に上がる前だろ? 言っとくけど、あいつ、とんでもない暴力女になっちまってるからな? 虐待されっぞ?」

「馬鹿なことを言っているのはおまえだ、蛮。どうせ、おまえがセクハラまがいのことをして嫌われただけなんだろう? あんな、天使のように可愛いかった舞ちゃんが、そんな風になるわけないからな」

「川神にセクハラとかしねーよ。せいぜい、尻を触ったり、脚を撫でたりするくらいだ」

「……父さん、蛮が警察に捕まることがあったら『いつかはやると思ってました』ってテレビ局のインタビューに答えることにするよ」

 

 リングに上り、軽いストレッチ動作を行いながら、荒沢と荒沢の父はそんな会話をしている。

 ほどなくして、二人のスパーリングが始まった。

 最初は、ロックアップからだった。

 互いに、右腕を相手の首の後ろに回し、ガッシリと組み合った。

 その状態で、押し合う。

 最初、二人はその場から動かなかった。

 力が拮抗しているのだ。

 ミシミシと、骨が軋む音が聞こえてくるような組み合いだった。

 そのまま、一秒、二秒と時間が経った。

 そして、三秒が過ぎようとした時、動きがあった。

 荒沢の父が、一歩、退いたのだ。

 そこからは早かった。

 一歩、また一歩と押し切られ、荒沢の父の背中が、あっという間にロープに触れた。

 荒沢の父が、荒沢と組み合っていた腕を解き、両手を上げた。

 ロープブレイク――組み合っていたり、関節技を仕掛けている時、相手がリングを囲むロープに触れた場合、直ちに離れなければいけないというルールが、プロレスにはあるのだ。

 父に遅れて、荒沢も腕を解き、両手を上げた。

 そのまま、そろりと一歩、後ろに下がり――

 いきなり、父の腹に向かって前蹴りを放った。

 不意打ちだった。

 しかし荒沢の父は、その蹴りを読んでいたかのようにステップを踏んで受け流すと、荒沢の懐に踏み込み、横っ面にエルボーを打ち込んだ。

 ガツッ、という骨と骨とがぶつかり合う音。

 荒沢は、もんどり打って派手に倒れた。

 

「甘いなぁ、蛮」

「バレてたかよ……」

 

 ニヤリと不敵に笑う父と、悔しそうに唇を尖らせる荒沢。

 荒沢は立ち上がると、ティラノサウルスのような前傾姿勢を取った。

 レスリングの基本、クラウチングスタイルだ。

 荒沢の父も、同じ構えを見せる。

 何かを探るように荒沢が右手を前に出した。

 それに応じるように、父が左手を前に出す。

 二人の距離は、互いに両腕を伸ばせば、相手の手首を掴めるかといったところだ。

 ちらり、ちらりと指先同士が何度か触れ合った。

 不意に、荒沢が身を沈め、マットを蹴った。

 両脚タックルを仕掛けたのだ。

 しかし、荒沢の父は後方にステップを踏み、荒沢に脚を取らせなかった。

 さらに、荒沢の背中に覆い被さり、体重をかけて動きを制限する。

 

「むぅ」

 

 荒沢が父の下から逃げようと藻掻いた。

 その途端、荒沢の父は、身を翻した。

 荒沢が逃げようとしてできた隙をついて、フェイスロックをしかけたのだ。

 

「ぐうぅぅ……」

 

 父の太い腕に頭蓋骨を締め上げられ、荒沢が呻いた。

 呻きながら、父の腹にエルボーを打った。

 一つ、二つ、三つ――

 四つ目で、父が嫌がって身じろぎをした。

 それで、荒沢の頭を締め上げる力が弱まった。

 ずるりと、荒沢は父のフェイスロックから脱出した。

 痛みのためか、荒沢は顔をしかめながら、かぶりを振る。

 次の瞬間、その荒沢の胸に、弾けるような衝撃が走った。

 荒沢の父が、その場跳びのドロップキックを放ったのだ。

 その威力に、荒沢は一気にコーナーまで吹き飛ばされた。

 荒沢の父は、さらに追い打ちをかけようと、コーナーへ背中を預けるようにして立つ荒沢に向かって走る。

 ランニング・エルボーで、一気に荒沢をノックアウトしようとしたのだ。

 しかし、荒沢も、さすがにそのような大技を決めさせはしなかった。

 フロントハイキックで迎撃したのだ。

 カウンターで頭を打ち抜かれた荒沢の父は、たたらを踏んで後退した。

 そこへ今度は、荒沢が襲いかかった。

 距離を詰めると、父の首筋に、右のエルボーを打ち込んだのだ。

 負けじと、荒沢の父も、同じ右のエルボーを打ち返す。

 また、荒沢が右のエルボーを打った。

 父も、再び右のエルボーで応じる。

 二人は、獰猛に笑いながら、交互にエルボーを打ち合い始めた。

 二人とも、どのタイミングで、どの部分を狙われるかわかっているのに、避けない。

 ガードもしない。

 ただ、その部位の筋肉に力を入れる。

 それで、打たれる。

 そして、打つ。

 打たれる。

 打つ。

 打たれる。

 打つ。

 我慢比べ、あるいは、意地の張り合いのような状況が出来上がっていた。

 次第に、二人のエルボーのリズムが速くなってゆく。

 バチバチと、人体がぶつかり合う音が、凄いペースで鳴る。

 それが十秒近く続いた時、奇妙な事が起きた。

 打撃の音が消えたのだ。

 それだけではない。

 荒沢の父や、リングや、他のレスラー達や、バーベルやら何やらのトレーニング器具――

 道場の中にある、荒沢以外の全てのものが、ぶれるように、その輪郭を崩し始めたのだ。

 しかし、荒沢は、そのことに気づいた様子もなく、父親とエルボーを打ち合っている。

 さらに数秒後、荒沢の意識は、スイッチが切れるように、プツンと唐突に途切れた。

 

 4

 

「荒沢……荒沢! 起きなさい!」

「うぉっ、川神!? ええと、ここは俺のアパートの前……? ああそうか、俺、ファントムに憑かれてたのか!」

「大丈夫ですか、荒沢さん?」

 

 玲奈は、舞に起こされ、驚きの声をあげる荒沢の双眸を、じっと覗き込んだ。

 辺りには、夜空から細い雨が降り注いでいる。

 玲奈と舞は、今しがたまで、バスファントムが荒沢に見せていた幻影の世界へ乗り込んでいたのだ。

 

「どうした和泉、えらく心配そうな顔をしてるな? あのファントム、そんなにヤバイ感じだったのか? 怖えな」

 

 荒沢が玲奈に向かって、そんなことを言った。

 その態度には、言葉とは裏腹に危機感がない。

 バスファントムに乗り込む前は、かなりネガティヴになっていたというのに、今はむしろリラックスしているようにすら見えた。

 そんな荒沢に、舞が溜息をつきながら言った。

 

「荒沢、アンタ、今日はゆっくり休みなさい。わかったことは、明日、教えてあげるから」

「休め? 何があったか知らんが、ぜんぜん疲れてないぜ、俺」

 

 意外そうな顔でそんなことを言う荒沢に、舞が眉を吊り上げた。

 

「いいから! 筋トレも外出も禁止! あと、明日の朝は私が迎えに来たげるから、一人で外に出るんじゃないわよ!」

「えぇ、そんなに……?」

「返事はハイ! さっさと帰宅!」

「お、おう……じゃあな、川神、和泉」

 

 今にも暴れ出しそうな舞の気迫に押され、すごすごとアパートの自分の部屋へ歩を進める荒沢。

 それを見送ってから、玲奈と舞は、どちらともなく歩き始めた。

 

「舞お姉さま、あの幻の世界は、そんなに危険なものなのですか?」

 

 玲奈は舞に、そう尋ねた。

 舞の荒沢に対する態度が、あまりにも過保護なものに思えたからだ。

 

「たぶん、荒沢にとっては、かなりね。だって……」

 

 舞はそこで言い淀むと、二度、深く息を吸い込んでから、玲奈に告げた。

 

「だって、あの会社……アークプロレスリングは一昨年に解散しちゃったし、荒沢のお父さまだって、もう五年も前に亡くなってるんだもの」

「え……?」

 

 思わぬ事実を知らされ、玲奈は思わず歩みを止め、舞の顔を見つめた。

 舞は、眉間に皺を寄せ、眼を尖らせていた。

 バスファントムに対する憤怒が、そのまま表れていた。

 そんな舞にかける言葉を、玲奈は見つけられなかった。

 

「あれは、荒沢が取り戻したがってる世界なのよ」

 

 怒りの表情とは真逆の、哀しげな声で、舞はポツリと付け加えた。

 玲奈と舞は、再び歩き始めた。

 疎らな雨が、夜道を音も無く打っていた。

 

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