1
始め、和泉玲奈はそれが何なのかわからなかった。
黒い、大きな動物が、校門の脇に立っている──そう思った。
そして、思ったのと同時に、動物が玲奈の方に向きなおった。
玲奈の背筋を、怖気が走った。
「和泉か」
動物が言った。地を這うような低い声である。
その声を聞いて、ようやく玲奈はそれが何なのかに気づいた。
動物ではなく人間──荒沢蛮だった。隣には川神舞の姿もある。
放課後──
荒沢に憑いたバスファントムを退治するため、二人と校門前で落ち合うことになっていたのだ。
頭上に広がる空は、重々しい灰色の雲に覆われている。
「こんにちは、荒沢さん……」
「ああ」
恐る恐る玲奈が頭を下げると、荒沢は短い返事をした。
怖い。
今、玲奈は、荒沢を恐れている。
初めてのことだった。
玲奈は荒沢のことを、気さくで心優しい先輩だと思っていた。
しかし、今、玲奈の前に立つ荒沢からは、優しさなど欠片も感じられない。
玲奈の知る荒沢とは、全くの別人であるように感じられる。
確かに荒沢の肌は陽に焼けていたが、ここまで黒かっただろうか。
人を視る時に、これほど虚ろな眼をしていただろうか。
違ったはずだ。
何より、荒沢の巨体はこんな無機質なものではなかった。
岩山のように荒々しくも、どこか柔らかな包容力のようなものを感じさせる──そんな肉体だったはずだ。
間違っても、目の前にあるコンクリート壁のような体ではなかった。
『ブチ切れて、めちゃくちゃ不機嫌になってる』
今日の昼、バスファントムが何をしていたかを知った荒沢の様子を、舞はこのように表現していた。
明らかに言葉が足りていない。
実際に向き合ってみると、切れたとか不機嫌だとかいうレベルではない。
人間は、精神状態の変化だけで、これほどの変貌を遂げるのかと思う。
どれほど苛烈な怒りが荒沢の中に渦巻いているのか、玲奈には想像することすらできない。
失ったもの──死んだ父と、いずれは自分が立て直すはずだった父の会社。荒沢は、それらをファントムに騙られ、弄ばれたのだ。どれほど屈辱的なことか。
玲奈は荒沢が放つ威圧感だけでなく、その豹変を引き起こした底の見えない激情にも寒々しいものを感じていた。
「こら、荒沢、ちったぁ愛想よくしなさい。玲奈が怖がってるじゃない」
不意に、舞が荒沢の脇腹を肘で小突きながら言った。
玲奈は悲鳴をあげそうになった。舞の行いが、ニトログリセリンが入ったガラス瓶を蹴飛ばすようなことに思えたからだ。
もし荒沢が爆発したら、自分も舞も、きっと一瞬でくびり殺されてしまう──
玲奈は身をすくませた。
しかし、幸いなことに荒沢の反応は危険なものではなかった。
「ああ、すまんな」
ボソリとそう呟いただけだった。
玲奈はほっと胸を撫で下ろした。
「じゃあ二人とも、バス停に行くわよ」
玲奈の内心を知ってか知らずか、常と変わらぬ様子で舞が歩き出した。荒沢が無言で後に続く。
舞は、荒沢の怒りをほとんど気にしていないように見える。
それが素なのか、それとも、そういう態度の方が荒沢に良い影響を与えると計算してのものかはわからない。
どちらにしても、舞と荒沢の間には、ある種の信頼があるように思えた。
バス停に到着すると、既にバスファントムが停車していた。
塗装のくすんだ車体が、曇り空の下にぼうっと佇んでいる。
「コイツか……」
玲奈や舞よりも先に、荒沢がしっかりとした足取りで乗り込んだ。
バスファントムの精神干渉も、今の荒沢に影響を与えることはできなかったらしい。
2
バスファントムから降りた荒沢は、とてもよく知っている、しかしここ数年間は見ることのなかった風景を、乾いた心で眺めていた。
神奈川県東部の埋立地だ。
大型トレーラーが楽に通行できる大きな道路が走り、倉庫や駐車場がポツリポツリと間隔をあけて存在している。
どこか荒涼としたものさえ感じさせる、広い空間である。
そんな風景の真ん中に、クリーム色の外壁を持つ、大きな建物があった。
ルタ 鶴見。
1500人近い収容人数を誇るイベントホールである。
かつては荒沢の父、光頼が興した団体、アークプロレスリングの道場と事務所がこの建物の中にあった。
本来なら、荒沢にとって郷愁の念を抱かずにはいられない場所である。
しかし、今の荒沢の心には、そのような感情など一切芽生えていない。
変わりに、吐き気を催すような不快感があった。
偽物だからだ。
荒沢の目の前に広がる懐かしい景色は、バスファントムが作り出した偽りの世界である。
父、光頼が生きていて、アークも存続している世界。
許せなかった。
荒沢にとって、この世界は不快でならない。
侮辱だからだ。
確かに、光頼が死んだことも、アークが倒産したことも、間違いなく悲劇と呼べることだ。
しかし、その結末は、父が、そして団体が、己の意志に従って必死に走り続けた末に発生したものだ。
潰れていないアーク。死んでいない父。
そんなものは、紛い物だ。
そしてこの世界では、紛い物が、臆面もなく本物のように振る舞っているという。
これは、本物を侮辱する行為だ。許せない。
だから、殺す。
父を貶める父の偽物は、必ず殺す。この世界はなんとしてでも自分の手で叩き潰す。
そのようにぐつぐつと煮えたぎる溶鉄のような決意が、荒沢の全身を駆け巡っている。ともすれば、衝動のままに暴れ初めてしまいそうだった。
「荒沢」
荒沢の後ろに立っていた舞が、声をかけた。
荒沢が振り向くと、舞はいつになく真剣な表情をしていた。
「焦るんじゃないわよ」
舞が静かに言った。
荒沢は返事をしなかった。
かわりに、深く息を吐き、吸い込んだ。そして、無言で舞に背を向けた。
「ゆく」
荒沢はルタ 鶴見に向かって歩き出した。その足取りは無造作な、しかし乱れのないものだった。
3
父、光頼が、リングの上に立っている。
アークの道場の扉をくぐり、その姿を見た荒沢は、呼吸ができなくなった。切ない懐かしさに、胸がつかえた。
しかし、それも一瞬のことである。
胸の内に生じた全ては、すぐに怒りと憎しみへと変化した。
焦るな。
荒沢は先ほど舞に言われたことを、口の中で小さく繰り返した。激情を押さえ込み、道場をぐるりと見渡す。
光頼以外の人影は、ない。
どういうわけか、他のレスラーはいなかった。
道場の中にいるのは、荒沢と、荒沢の後ろに立つ舞と玲奈、そして、偽者の光頼だけである。
光頼はリング中央に立ち、微笑を浮かべて荒沢を見下ろしたまま動かない。リングブーツを履き、緑色のロングタイツを身につけている。客の前で試合に臨む時の姿だ。
「AJ-loading.The phenomenal one.」
道場の入り口から動かず、荒沢はパロールを唱えた。
しかし、特異能力が発動したという感覚がない。
なぜだ?
荒沢が疑問に思ったのと同時に、光頼が口を開いた。
「無駄だよ、蛮。ここは、父さんが死ななかった世界だ。お前が特異能力に目覚めるきっかけになるような事が起こらなかった世界なんだよ。だから、力は使えない」
そんなことを言った。
「そうかよ」
荒沢は顔を歪めながら短く返すと、上半身に着ていた黒いカッターシャツとインナーウェアを、力任せに破り捨てた。
そして、ゆっくりとリングに向かって歩き出した。
地を這うような声で、後ろに立つ二人に言う。
「川神、和泉、手を出すなよ。
「好きにしなさい。死にそうになった時は助けたげるわ」
舞が素っ気ない口調で応じた。
荒沢は何の反応も返さないまま、油断のない歩調で進み続け、リングのすぐ下に立った。
光頼は、リング中央から動いていない。
荒沢が赤コーナー近くのエプロンサイド──リングの外縁部に上った。
瞬間、光頼が仕掛けた。
荒沢に向かって、猛然と駆けだしたのだ。
さらに、光頼は肘を曲げた右腕を、引き絞るように後方へと反らせた。ランニング・エルボーの態勢だ。
それに対して、荒沢は鋭く反応した。光頼がコーナーへ辿り着くよりも早く、ヒラリとトップロープに跳び乗り、そこから跳躍したのだ。
滑らかな動きだった。まるで、光頼がどのタイミングで攻撃を仕掛けてくるかを予見していたかのようである。
光頼の頭上を跳び越え、リング中央に着地した荒沢は、落着の勢いのまま前転し、立ち上がりながら光頼の方に向き直った。
その時には、光頼も荒沢に体を向けていた。
二人は、リング中央を挟んで対峙する形となった。
荒沢が青コーナーを、光頼が赤コーナーを背負っている。
荒沢は、鬼の表情で光頼を睨んでいる。
光頼は、不適な笑みを荒沢に向けている。
「ふざけやがって……」
荒沢の忌々しげな呻きが、食いしばった歯の間から漏れた。
──目の前の幻影は、俺の記憶を元に創られている。
光頼の正体を、そう看破したからだ。
もし、父がこういう戦いをするなら、このタイミングで仕掛けてくるだろう──そういう荒沢の事前シミュレート通りに、光頼は仕掛けてきたのだ。
そして、その時の光頼の動きは、記憶の中の父の動きと寸分違わぬものだったのだ。
いや、動きだけではない。
表情、視線、仕草、そして呼吸のリズムまでもが、荒沢が覚えている父と同じものだった。
畜生!
全身の血液が沸騰しているようだった。
目の前の光頼は、ただ姿形が似ているだけの偽物ではない。
限りなく父に近い性質を持っていながら、その実態はバスファントムが自分を弄ぶために生み出した幻なのだ。
父の尊厳だけでなく、自分の中の思い出すらも汚す存在だ。
そんな存在、絶対に認められない。
荒沢は、これ以上に大きくなることはないと思っていた腹の底の炎が、さらに勢いを増していくのを感じていた。
怒りが憎しみを生み、憎しみが怒りを煽る。
激しい負の感情サイクルが、荒沢の中に発生している。
ドロドロした粘着質の溶岩が、全身の細胞の隙間に満たされてゆくようだった。
その身を焦がす灼熱を視線に込め、荒沢は悪鬼の形相で光頼を睨みつけた。
今すぐにでも襲いかかって八つ裂きにしたいのを、こらえている。
動き出す前に、全身の骨肉に溜まっている熱を、少しでも発散しなければならないからだ。
焦るなという、舞にかけられた言葉が、まだ頭の片隅に残っている。
身体強化の特異能力を封じられている以上、生前の父に近い力を持っているであろう相手と、冷静さを欠いた状態で戦うのは、危険なことである。
だから、衝動のまま前に出ようとする体を、必死に抑えているのだ。
そんな荒沢に対し、光頼が言った。
「蛮、そんなにこの世界が嫌いか?」
どこか困っているような、惚けた声だった。
声音だけでなく、表情にも緊張感がなかった。光頼は微笑すら浮かべていたのだ。
その様は、今にも理性が吹き飛んで狂ってしまいそうな荒沢とは、あまりにも対照的だった。
沈黙──
光頼の質問に、荒沢は答えない。
ただ、カチカチという、怒りに震える荒沢の歯が鳴る音だけが、リングに響いていた。
お久しぶりです。
柴田勝頼選手のIWGP戦に腸が縮み上がったので投稿しました。