1
リングがある。
四角いリングだ。
一辺の長さは、およそ六メートル。
三本のロープに囲まれている。
鋼鉄のワイヤーにゴム管が被さっているだけの、硬いロープだ。
床面は
どことは言わず、全体がぼうっと黒ずむように汚れたキャンバスだった。
その表面は紙ヤスリのようにザラついていて、人間の皮膚ぐらいなら簡単に削ってしまいそうな気配がある。
元は純白であった平織りの生地が、汗や血を何年間も吸い続けたことで、そういう風に変質してしまったのだ。
プロレスのリング──アークプロレスリングの道場に設置された、練習用のリングである。
そのリング上で、荒沢蛮は歯を噛み締め、巨体を震わせていた。
正面に立つ男を、憎悪と憤怒のこもった眼で睨みつけている。
身長は百八十五センチくらいか。
体重は、百十キロをいくらか超えているだろう。
荒沢と向かいあっても見劣りしない体格を持つ、中年の大男。
父である荒沢光頼──正確には、五年前に試合中の事故で急逝した光頼の姿を模したファントムである。
「悪気はなかったんだ」
光頼が、荒沢の苛烈な視線を平然と受けながら、余裕のある態度で言った。
「ここは、おまえの夢に依存した世界だからな」
「なに!?」
「おまえが帰りたいというなら、引き留めはしないということだよ、蛮」
「……そうかよ」
荒沢が、ぼそりと呟いた。
震えが止まっていた。
代わりに、剥き出しになった上半身の筋肉が、引き攣ったように隆起していた。
俺の夢!? わけのわからない事を!
引き留めない!? 父の名誉を汚す貴様を置いて俺が立ち去るとでも!?
光頼の言葉に、煮えたぎっていた荒沢の全身の血液が、いよいよ皮を破って噴き出しそうになった。
荒沢は、それに耐えようとした。
冷静さを失った状態で戦うことほど愚かなことはない。
呼吸を一つ、二つ、三つ──
「もちろん、おまえが望むなら、ここで父さんと一緒に暮らすこともできる」
かっ、と怒りが燃え上がった。
まるで、荒沢がこの偽りの世界を肯定しているかのような物言いが、神経を逆撫でした。
「ふざけるな! 死ね!」
叫びながら、荒沢は光頼に襲いかかった。
爆発した衝動は、荒沢の自制心をあっさりと弾き飛ばしたのだ。
光頼に向かって突進する荒沢。
その唇は捲れあがり、犬歯が剥き出しになっている。
荒ぶる修羅の貌だった。
2
殺す。
荒沢の理性を決壊させた感情の濁流は、全てがそこに行きついた。
目の前にいる光頼への殺意である。
それも、混沌とした殺意だ。
今すぐにでも殺したい。
できる限りの苦痛を与えてから殺したい。
苦と惨にまみれたむごたらしい死に方をさせたい。
父の姿を辱めるような死に方はさせたくない。
殺す、という単純な意思の中に、様々なベクトルが混在している。
しかし、荒沢の動きに淀みはなかった。
前蹴り──
一気に距離を詰めた荒沢は、前蹴りを放った。
荒沢の右足が、光頼の体のど真ん中へ突き進む。
荒沢の巨体が持つ質量──百二十キロの体重が、完璧な形で蹴り足に乗っていた。
素人がまともに受ければ、間違いなく内臓破裂によって死に至るだろう。
恐ろしい威力を秘めた一撃である。
だが、この蹴りは、あまりにも正直過ぎた。
真っ直ぐに近づき、真っ直ぐに出した蹴りである。
仮にもプロのアスリートである光頼には、通用しない。
光頼は、とん、と後ろに跳びながら、腹の前で両腕を交叉させ、荒沢の蹴りをいなしてしまったのだ。
荒沢の前蹴りは、光頼に対しほとんどダメージを与えることができなかった。
それでも──
荒沢は止まらなかった。
蹴りをだして崩れた姿勢から、強引に前進したのだ。
光頼が退くのと同じ速さで、荒沢の体が前に出た。
歯を食いしばり、憤怒の眼で光頼を見据えながら突っ込んでゆく。
そんな荒沢を迎え撃つべく、光頼が太い右腕を構え、振るった。
エルボースマッシュ。
びゅおう、と空気が切り裂かれ、渦を巻く。
当たらなかった。
光頼がエルボーを突き出したのと同時に、荒沢が、ふっ、と身を沈めたのだ。
そのまま、姿勢を低くした荒沢は、勢いよく光頼に衝突した。
斜め下から掬い上げるようにぶつかり、光頼の重心を浮きあがらせる。
さらに、両腕を光頼の左右の膝の裏に絡ませ、思いきり引いた。
両脚タックル。
荒沢と光頼は、もつれるようにリングへと倒れこんだ。
荒沢が上で、光頼が下。
荒沢の首を、光頼が右腕で抱え込み、引き寄せている。
荒沢の股の間に、光頼の太い腹があった。
馬乗り──マウントポジション。
荒沢が圧倒的に有利な状況だ。
今は荒沢の首に光頼の腕が回っているため、両者の上体が密着した形となっているが、光頼の腕を振り払って上体を起こすことができれば、荒沢は一方的に光頼の顔面を殴り続けることができる。
荒沢の唇に、引き攣った爬虫類の笑みが貼りついていた。
ばちん。
肉が肉にぶつかる音がした。
荒沢が、右の手のひらで光頼の左耳を叩いたのだ。
鼓膜や三半規管にダメージを与えることを狙った嫌がらせである。
首に巻きついている光頼の右腕を外すための布石だ。
ばちん、ばちん。
荒沢は繰り返し光頼の耳を叩く。
二つ、三つ、四つ、五つ……
「蛮、かっこつけて怒ってるフリなんてやめろよ」
不意に、光頼がそんなことを言った。ささやくような声だ。
相手をする必要はない。
荒沢はなんの反応も返さず、光頼の耳に攻撃を続けた。
光頼が、再度口を開く。
「本当は父さんに会いたかったんだろう? 自分に正直になれよ」
動きが止まった。
荒沢は、悪鬼の形相で光頼を睨みつけた。
その瞬間、荒沢の背中をぞくりと嫌な感覚が走り、視界の右半分が何かに塞がれた。
なんだ!?
荒沢は戸惑いながら、必死に思考した。
右眼に、赤っぽいものが覆い被さっている?
いや、違う。
覆い被さるというのは、表面に貼りつくってことだ。
これは違う。
右眼──眼球の表面でなく、奥の方で何かが起きたのだ。
それくらいはわかる。
なぜなら、太い棒のような、妙な感触が眼の裏に──
一瞬の内にそこまで思考を走らせたのと同時に、荒沢の右眼を激痛が襲った。
眼球そのものに、押し潰すような強い力がかかっている。
「くぁあっ!?」
荒沢は、たまらず頭を振って逃げた。
ずるりという、右眼から何かが抜け出すような感触を荒沢は味わった。
体勢が不安定になった荒沢の下で、光頼が身をよじった。
二人は絡み合ったままごろりと転がり、上下が入れ替わった。
荒沢は下で、光頼が上になった。
ただし、荒沢の両脚が光頼の胴体を抱え込んでいる。
ガードポジション。
上になっている光頼の方が自由に動けるが、下になっている荒沢も両脚で光頼に干渉したり、関節技を狙ったりすることができる。
上下のどちらが有利とも言えない状態である。
「甘いなぁ、蛮」
上体を起こして膝立ちになった光頼が、不敵な笑みを浮かべた。
その胸に、真っ赤な血のしずくが点々と垂れている。
「てめぇ……」
荒沢が呻いた。
荒沢の顔は酷いことになっている。
右の眼球が、眼窩から外に飛び出て、神経の束によってぶらさがっていた。
光頼に指を突き入れられ、ほじくり出されたのだ。
あるべきものを失った穴から、どろり、どろりと血がこぼれている。
「油断するからそうなる」
光頼が、荒沢の顔面に向けて拳を振り下ろした。
荒沢は、両腕で顔を覆って光頼の拳を防いだ。
しかし、光頼の攻撃が一度で終わるはずもない。
拳が次々と荒沢の頭部に襲いかかってくる。
それをブロックするたびに、眼窩から垂れ下がっている荒沢の右眼がぶらぶらと揺れ、血が飛び散った。
あまりにも凄惨な光景である。
だが、片眼を抉られてなお、荒沢の闘志は萎えなかった。
「舐めるなぁ!」
吠えた。手負いの獣の咆哮だ。
荒沢は光頼の攻撃を防ぎながら、左手で自らの右眼球を握った。
「かぁっ!」
ぶつり。
音を立てて視神経を引き千切った。
さらに、右眼を、光頼の眉間に向かって投げつける。
光頼の攻撃が、ほんの一瞬だけ止まった。
その隙に、荒沢は飛びつくように光頼の首を抱え、引き寄せた。
膝立ちになっていた光頼が、前に崩れる。
そこから荒沢は、光頼の腕を取ろうとした。
できなかった。
やはり光頼は、一筋縄でいかない相手である。
執拗な寝技の攻防が始まった。
3
荒沢は、蛇のように光頼と絡みあいながら思っている。
寝技で──
このまま、寝技で決着をつけねばならない。
俺の右眼が、
立ち上がって、突きや蹴りで戦うということは、もうできない。
片眼しか見えないのでは、遠近感をきちんと把握できないからだ。
そのような状態で打撃戦を行えば、いいようにやられてしまう。
だから、寝技で勝負しなければならない。
それにしても痛いな。
右眼がだ。
いや、違うな。俺の体に右眼はもうないのだから、痛むはずがない。
痛むのは、右眼を千切り取った後の神経だか眼底だかだ。
ズキズキと、脳味噌を鉛の棒で強く押されているような痛みがある。
吐き気がするほど辛い。
だけど、悪くない。
痛みのおかげで、思考がすっきりしている。
さっきみたいに、怒りで頭の中がぐちゃぐちゃになっている状態よりは、いくらかマシだ。なにをすべきか、冷静に考えることができる。
俺は、どうにかして
そうすれば、ガードポジションからでも様々な攻撃ができるからだ。
三角締めを狙ってもいいし、オモプラッタを仕掛けてもいい。
なんなら、腕絡みや変形の腕ひしぎで、捕らえた腕をブチ折ってやることだってできる。
だというのに、俺はなかなか腕を取れない。
立て続けに、何度も何度も。
それを防がないといけないから、俺は腕を取りにいけないのだ。
しかし、狙われているのは、頭だ。
こめかみや顎のいいポイントに当たれば、ノックアウトされることはないにしても、意識が鈍る。
そうなると、
マウントを取られるのは、絶対に避けたい。
だから、俺は防御に労力を割いているのだが、既に結構な回数、頭を叩かれている。
眼を潰されたせいで、右側からの攻撃にうまく対応できないからだ。
何秒かに一度は、ゴツンという衝撃を受ける。
もちろん、俺もやられっぱなしではない。
ただ腕を狙うだでなく、
それでも、押されているのは俺だ。
4
どれくらい時間が経っただろうか?
感覚的には、もう二十分くらい動き続けている。
なのに、まだ俺は
忌々しい限りだ。
少し前から、
時折、俺の首を狙ってくるようになった。
ネックロックを俺にかけようとしてくるのだ。
舐めやがって。
こういうガードポジションの状態で使う技じゃない。
当然、隙だらけの強引な入り方になる。
だけど、俺はその隙を突くことができない。防ぐだけで手一杯になってしまう。
頭を殴られすぎて、反応や動きが悪くなっているからだ。
5
糞、やられた。
左眼をだ。
やられたといっても、右眼みたいに、指を突っ込まれたわけじゃない。
瞼の上から、指の腹で強く擦られただけだ。
だが、それだけでも、視力は一時的になくなってしまう。
少なくとも、この戦いが終わるまでに回復することはない。
俺はこれから、視力に頼らず戦わなければならないのだ。
6
完全に見えないというのは、思っていたよりずっと苦しい。
打撃を、半分も防げない。
組み合っているから、相手の動きは、わかることにはわかる。
だけど、その動きにきちんと反応できるかというのは、また別の問題だ。
ごつごつ、ごつごつと、凄い数の拳が落ちてくる。
俺は為す術もなく打たれ続けた。
7
一瞬、意識が飛んでいた。
いいエルボーを、こめかみにもらったのだ。
だけど、その意識が飛んだ隙に、マウントを取られたり、関節を極められたりはしていない。
どうやったのか覚えていないが、致命的な状況だけは回避したらしい。
でも、それだけだ。
脳を揺らされて、俺の動きは確実に悪くなっている。
8
頬を殴られた痛みで目を覚ました。
これで何度目かわからない。
記憶が途切れ途切れになっている。
ダメージの蓄積が、いよいよ危険なところまできているらしい。
9
まどろんでいる。
意識がある時間と眠っている時間、どちらが長いのかもうわからない。
殴られると、痛みとともに俺は眠りにつく。
もう一度殴られると、痛みとともに俺は目覚める。
その繰り返しだ。
よくないな。
こんなことを続けていると、そのうち俺という存在はちりぢりになって消えてしまうだろう。
10
ごつんと頭を殴られた。
その痛みで、朦朧としていた俺は、殴られている最中だったことを思い出した。
もう殴られたくないので、俺は、俺を痛めつけてくる腕を捕まえようとした。
だけど、あと少しというところで、腕はするすると俺の手から逃げていった。
逃げた腕が、こんどは俺の頭に絡みついて、首をおかしな方向に曲げようとしてくる。
首をへし折られて死ぬのは嫌だから、俺は力任せに腕を振り払った。
その隙をついて、腕はまた俺の頭を殴ってきた。
ごつん。
痛い。
俺の意識がふっと消えた。
そして、次の痛みで俺はまた目覚めるのだ。
11
痛みが消えた。
12
この間、うまい酒を飲んだんだ。
なんて銘柄だったかな。
確か、十四年もののスコッチだったはず。
和泉の家で飲んだんだ。
あれをまた飲みたいな。
すごく、甘い香りがするんだ。
なんにしても、酒を飲むのは、この試合が終わった後だ。
まさか、試合中に、リングの上で酒を飲めるわけがないからな。
13
やっぱり、ビールがいいな。
缶ビールだ。
冷蔵庫から取り出したばかりの、キンキンに冷えた五百ミリ缶。
それを、一息で空ける。
すごく気持ちが良さそうだ。
そう思わないか、親父。
14
どうしたんだ親父、すっかり息があがってるじゃないか。
ちょっとばかし情けないんじゃないか? 目の見えない俺を相手にそんなザマというのは。
ま、もういい歳なんだから仕方がないか。
俺が知ってる若い頃の親父は、もっと凄かったんだがな。
どうせ親父と戦うなら、一年でも二年でも早く、もっとコンディションがいい時期にやりたかった。
なんで、やらなかったんだっけ?
いや、やらなかったんじゃなくて、できなかったのか。
俺が小学五年生の時、親父が死んじまったせいだ。
あの時は大変だったんだぜ。
マスコミ連中はうるさいし、文部省の大臣が出てきて業界に色々と口を出してきたりしてさ。
いや、待てよ。
親父が死んでるってなら、なんだって俺は今、親父に眼ん玉を潰されながら戦ってるんだ?
これは、どう考えてもおかしい。
死んだ人間と戦えるわけがない。
俺はきっと、なにかとんでもない思い違いをしているはずだ。
なにかを忘れている気がする。
なにか……なんだったかな。
ああ、そうだ──
15
荒沢は覚醒した。
怒りと憎しみが蘇り、殺意がすべてを塗り潰した。
16
ぶしゃり。
リングの上に大量の血が飛び散った。
一度ではない。
ばしゃ、ばしゃと、断続的に、真っ赤な血液がリングを濡らしている。
荒沢が光頼の喉元に噛みつき、頸動脈を食いちぎったのだ。
ガクガクと痙攣する光頼の体を押しのけ、荒沢は立ち上がった。
全身が、光頼の返り血でぐしょぐしょに濡れていた。
「かぁああああああああ!」
荒沢は叫んだ。
叫びながら、リングに転がる光頼の頭を、踵で思い切り踏み抜いた。
めじっ、という、おぞましい音がした。頭蓋骨が軋む音だ。
一度ではない。
めじっ、めじっ、めじっ、めじっ、めじっ、めじっ。
荒沢は何度も何度も光頼の頭を踏みつけた。
「がぁああっ!」
獣のように吠えながら、荒沢は光頼の胸に膝を落とした。
がき、と短い音がした。
光頼の肋骨が、一瞬で粉々になったのだ。
光頼が、ごぼごぼと泡だった血を吐き出した。
荒沢は光頼の胴を跨ぎ、馬乗りになった。
殴った。
重い、岩のような拳で、血みどろの光頼を殴りつける。
ただ、ひたすらに殴り続ける。
荒沢の拳が当たるたびに、光頼の頭はがくんがくんと揺れた。
光頼の首の筋肉は、完全に弛緩しきっているのだ。
いや、首だけではない。
光頼の肉体に、作動している器官はもうない。死んでいるのは明らかだ。
しかし、荒沢は拳を止めない。
があっ、があっ、があっ、
喘ぎながら、殴り続けている。
血で赤く染まったリングは、地獄そのものだった。
17
「もう、いいじゃないですか……」
リングの下から荒沢と光頼の戦いを見守っていた川神舞は、隣に立つ和泉玲奈がそう言ったのを聞いた。
嗚咽の合間の、かぼそい声である。
玲奈は、荒沢を見つめながら、泣いていた。
無理もないことだと舞は思う。
頭から大量の血を被った荒沢は、光頼の死体を狂ったように殴り続けている。
いや、狂ったように、ではない。
今、荒沢は完全に狂っている。
見るに堪えない、最悪の光景だった。
普通に暮らしてきた人間なら、こんな凄惨な暴力を目撃することに耐えられない。耳を塞ぎ、うずくまってしまうだろう。
しかし玲奈は、涙を流しながらも、血まみれのリングから目をそらさない。
この地獄絵図が生まれる大元のきっかけを自分が持ち込んだという責任感があるせいだろうか。
立派だ。
舞は玲奈のことを、高潔だと思った。
その玲奈が、もういいと言っているのだ。
ならば、終わらせよう。
舞は決めた。
もともと、それが自分の役割なのだ。
「五行万象を発生し、緋にして燈なる火の気は金を禁ず。心の火気で拳を満たさん……」
舞は、静かにパロールを唱えた。
心臓から発せられる火の気が、体内に満ちていく。
その灼熱を、舞は右手に集めた。
ふっ、と息を吐いて、意識を集中し、
「ハァッ!」
舞は足元に向かって掌底を叩き込んだ。
ごう、と音を立てて、紅蓮の炎が一瞬で周囲に広がる。
そして、偽りの世界は、あっさりと焼け失せたのだった。
18
雨が降っている。
一滴一滴が小石の重さを持つ、大粒の雨だ。
風はない。
重い雨が、真上から次々に落ちてくる。
その雨に打たれながら、荒沢は立ち上がった。
荒沢の足元は、どす黒く澱んでいる。
雨によって荒沢の体から流れ落ちた血が、雨水を染めているのだ。
荒沢は天を仰いだ。
どのような光も見えない。
雨粒が地面を叩く音だけが響いている。
「荒沢さん……」
背後から、名を呼ぶ声が聞こえた。
雨音に紛れて消えてしまいそうなくらい、小さな声だった。
荒沢は、声に向かって振り返ろうとした。
途端に、脚がもつれて、よろけた。
しかし、倒れる前に、誰かが荒沢の体を受け止めた。
柔らかな、それでいて力強い感触──よく知っている女の体だ。
「川神……」
荒沢は呟いた。
「終わったのよ」
舞が言った。
荒沢は応えず、また天を仰いだ。
眼球を失った虚ろな穴から、幾筋も赤い糸が垂れている。
血の涙を流しながら、荒沢はただ天を仰いでいる。
不意に、荒沢の頬に、なにかがそっと触れた。
手だ。
指の細い、小さな手が、弱々しく左の頬に触れている。
「うっ」
荒沢が、びくりと肩を振るわせ、声を漏らした。
荒沢の中で張り詰めていたものが切れたのだ。
雨が降っている。
重い雨粒は、震える荒沢の巨体を、痛いほどに打ち続けた。