幻想世界をバック・ドロップ!   作:セミドレス

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第六話 最強のふたり Ⅲ

 

 1

 

 水無瀬小糸は、左手で掴んだ一条晴彦の首根っこを思い切り引いて、地面に叩きつけた。

 一拍の後、晴彦の頭があった場所を、直径五十センチ程の円盤が凄い勢いで通り過ぎた。ドローンファントムの突進だ。

 先ほどから小糸は、研究施設の広く暗い通路を、晴彦を連れて右へ左へと駆け回っている。

 ロボットファントムが率いるドローンファントムの群れに追いつかれたのだ。

 断続的にドローンファントムが体当たりを仕掛けてくる。

 その攻撃から、小糸は必死に逃げ回っているのだ。

 

「水無瀬さん……俺を置いて……」

 

 小糸に引かれる形でドローンファントムの攻撃を避けた晴彦が、尻餅をついた状態でそんなことを言った。

 その中性的で美麗な顔が青ざめている。体力的な限界が近いのだ。

 

「馬鹿なことを言ってないで、早く立って」

 

 絶対零度の眼差しを晴彦に向けながら、小糸はそう要求した。

 動きを止めれば十五秒で大怪我をしてしまうような状況なのだ。

 

「でも、このままじゃ水無瀬さんまで……」

「だから、馬鹿なことを言う元気があるなら体を動かして」

 

 弱音を吐く晴彦を、小糸は冷たい声で叱りつけた。

 確かに、晴彦を捨て置けば小糸はファントムの群れから逃げることができるだろう。

 だがそんなことをすれば、晴彦が死んでしまう可能性すらある。

 冷たいと評されることの多い小糸だが、他人同然の相手だからと見殺しにできるほど人間性を捨ててはいない。

 だから晴彦の首根っこを掴み、力づくでドローンファントムの突撃を回避させているのだ。

 

「こっち!」

 

 新たなドローンファントムの突撃に対応するため、小糸は無理やり立ち上がらせた晴彦を、両腕で引きずるようにして走らせる。

 その時、右腕が強い痛みを発した。

 前腕の骨に亀裂が入っているのだ。

 息もあがってきている。

 細身とはいえ、百七十センチ以上の身長を持つ晴彦を振り回し続けているのだから当然のことである。

 このままやられるのか――

 そんな不安が、小糸の胸に浮かんだ。

 晴彦が連れていた妖精ファントムのルルに、施設内にいるはずの荒沢蛮を探して連れてくるよう指示を出している。

 だが、もしルルが荒沢を見つけるのに手間取ったら、合流する前に体力が尽きてしまう可能性もある。

 むしろそうなる可能性の方が高いようにすら思える。この研究施設は、かなり広い。

 そろそろ、荒沢の助け無しでこの状況を乗り切る方法を考えねばならない。

 何か作戦を立てなければ。

 そう思いはしたのだが、良い作戦など思いつける気がしなかった。

 そもそも小糸は、ファントムとの戦闘中に作戦というものを立てた経験が一切ないのだ。

 絶大な攻撃力に加え、恵まれた身体能力とファントムの気配を察知する特殊感覚を持つ小糸は、これまで策を弄することを必要としたことがなかった。

 非常に効率の良い索敵殺害作戦(サーチ&デストロイ)を個人で行うことができたからだ。

 自らの天才性に頼ってきた事が、苦境に立たされた今、仇となっている。

 あの荒沢ならどうするのだろうか。

 小糸の脳裏にそんな思考が走った。

 自らの能力が通用しない敵と、足手纏い(晴彦)を抱えた状態で相対した時、荒沢はどのような選択をするのか。

 都合良く反撃のアイディアを閃いて切り抜けるのか、晴彦を置いて逃げ出すのか、それとも何もできずにやられてしまうのか。

 どれも、違うような気がした。

 ではどうなるのかというと、小糸にはわからない。

 いや、そんなこと、今はどうでもいい。

 また数機のドローンファントムが突っ込んでくるのに気付いて、小糸は思考を打ち切った。

 晴彦の手を引いて突撃を避ける。

 

「開け開け、開け開けよ、天地開闢の調べ!」

 

 身を躱しながら、小糸は荒い呼吸に乗せてパロールを唱え始めた。

 もう一度だけ、能力による攻撃を試してみることにしたのだ。

 

「調べ調べ、調べ調べて、標を留め置け!」

 

 Ahaaaaaaaaaa!

 

 ドローンファントムの群れの奥に控える全高一・五メートル程の円柱状の影――ロボットファントムを睨みながら、小糸は歌声を放った。

 やはり小糸の声は、能力が発動する前に掻き消えてしまった。

 ちっ、と小糸は苛立たしげに舌打ちをした。

 その時、

 

「おいおい、マジかよ」

 

 という声が、小糸のすぐ後ろから聞こえた。

 

「っ!?」

 

 全く警戒していなかった背後からの声に、小糸が仰天しながら振り向くと、そこにはいつの間に現れたのか、荒沢のどっしりとした巨体が佇んでいた。傍らには妖精ファントム、ルルの姿もある。

 

「あなた、一体……」

「蛮先輩!?」

 

 荒沢を見た小糸は、その異様な姿に気付き、唖然とした。小糸の隣で晴彦も驚きの声をあげていた。

 荒沢は血で濡れていたのだ。

 右脇腹が裂けており、そこから溢れた大量の血でスラックスの右太股から膝までがぐっしょりと赤く湿っている。

 さらに、左拳の正拳部分が、小指から中指にかけてぱっくりと割れていて、傷口から白い骨が見えていた。

 悪い冗談のようだった。

 荒沢は小糸が知る限り最強の特異能力者だ。

 なのに、どのような敵に遭遇すれば、これほどの深手を負うというのか。

 

「ちょいと、タチの悪い女に引っかかっちまってな」

 

 荒沢が、苦笑しながらそういった。

 引き攣った、無理のある笑みだった。

 顔色も悪い。血を流しすぎているのだ。

 

「戦えるの?」

「正直、あの数は厳しいな……む」

 

 小糸の質問に、荒沢は硬い表情で答えた。

 それと同時に、ドローンファントムが三機、また突っ込んできた。

 荒沢は一歩前に出ると太い右腕を振るってそれらを叩き落とした。

 

「あ、やべ」

 

 ファントムの攻撃をあっさりと捌いたかに見えた荒沢が、ふらりとバランスを崩し、片膝をついた。

 貧血を起こしているのだ。

 晴彦が、信じられないものを見たような表情で荒沢に声をかける。

 

「せ、先輩……?」

「大丈夫だ。それより一条、水無瀬の声が消えた理由、わかるか?」

 

 荒沢は晴彦の心配する声を遮ると、逆に質問を投げかけた。

 

「……たぶん、逆位相の音波をぶつけてるんだと思います。ヘッドホンなんかについてるノイズキャンセリング機能みたいに。あのタイプの警備ロボット――伊調社のLSK型は、かなり高性能な音響センサーを装備していたはずですから」

 

 短く思案してから、晴彦はそう答えた。

 ロボットの型番まで言い当てる晴彦に、荒沢と小糸は眼を丸くした。

 

「お前、ロボットマニアだったのか?」

「いえ、ホームページを見たことがあるだけですよ?」

「……まぁいい、あっちも音波を出してるってことは、スピーカーを壊せばいいんだな」

 

 荒沢はそう言いながら立ち上がった。

 その右手には、先ほど叩き落としたドローンファントムの残骸が握られていた。

 残骸といっても完全に機能停止しているわけではなく、センサーらしき部品がピカピカと光を放っている。

 

「ふんっ!」

 

 軽い振りかぶりから、荒沢は残骸をロボットファントムに向けて投げた。

 脇腹を抉られているため、腕以外をほとんど動かさない不細工な投げ方だった。

 しかし、それでも荒沢の圧倒的なパワーによってなされる投擲である。

 残骸は凄まじい速度で突き進み、数十メートル先にいるロボットファントムに突き刺さった。

 その衝撃でロボットファントムは数メートル後退し、その体から火花を散らせている。

 大きなダメージを受けていることは間違いないが、スピーカーが破損したかどうかまではわからない。

 

「水無瀬、後は頼む。これでダメだったら、俺も観念するからよ」

 

 そう言って、荒沢はその場に座り込んだ。

 

「ええ」

 

 小糸は小さく息を吸い込むと、朗々とパロールを唱え始めた。

 

「開け開け、開け開けよ、天地開闢の調べ。調べ調べ、調べ調べて、焔を知らしめせ!」

 

 Ahaaaaaaaaaa!

 

 小糸の声が響くと同時に、ロボットファントムとドローンファントムの群れが、一斉に炎に包まれた。

 荒沢の攻撃はスピーカーの破壊に成功していたのだ。

 ガシャリガシャリと音を立てて、ドローンファントムが次々と墜落する。

 

『私ノ使命ハ荒耶識社ノ秘密ヲ……』

 

 ロボットファントムも、割れた電子音性を最期に残して動かなくなった。

 あっけない幕切れだった。

 十数秒後には、全てのファントムが燃え尽きていた。

 

「すごい……」

「半端じゃねえよな」

 

 小糸の凄まじい能力に呆然と呟きを漏らす晴彦に、荒沢が相槌を打った。

 そして荒沢はゴロリと仰向けになると、

 

「そんなことより一条、救急車呼んでくんね?」

 

 と、気怠い声で言った。

 

 2

 

 荒沢、小糸、晴彦、ルルの四人が施設の外に出た時には、陽が完全に沈んでいた。

 深い紺色の空には、真っ二つに切り落とされたような半月が浮かんでいる。

 施設に面した道で、四人はただ佇んでいる。晴彦が呼んだ救急車を待っているのだ。

 施設は街からかなり離れた立地のため、救急車の到着までそれなりに時間がかかるだろう。

 

「蛮、大丈夫……?」

 

 ルルが荒沢に、恐る恐るといった様子で問いかけた。

 

「出血はもう止まっているので、死ぬことはありませんよ。心配してくれて、ありがとうございます」

 

 荒沢は柔らかな態度で答えた。

 だが、その言葉や態度の裏に不安や動揺があることは、ルルにも一目でわかった。

 荒沢の視線は血塗れの左手に向いている。

 小指と薬指が動かなくなっていた。腱が切れているのだ。

 刃物による綺麗な切り口のため、手術で腱を繋ぎ直すことはできるだろうが、何かしらの障害が残る可能性もある。

 それを荒沢は恐れているのだ。

 そんな荒沢へ、小糸が声をかける。

 

「だいじょうぶよ、きっと治るわ。それにしても、あなたがそんな傷を負うなんて、何があったの?」

「妙なファントムがいたんだよ。綺麗な姉ちゃんだったが、妙に()()()感じでよ。思わず仕掛けちまったらこのザマだ。勝ったとはいえ情けねぇ」

 

 そういった後、ふぅ、と深く息を吐き出してから荒沢は言葉を続けた。

 

「水無瀬、お前こそ怪我したと聞いたが、大丈夫なのか?」

「…………」

 

 荒沢の問いに対し、小糸は無言で上着の右袖をまくり上げた。

 

「うわっ」

 

 小糸の右腕を見たルルが、思わずといった様子で声をあげた。

 前腕の真ん中あたりが、紫色に腫れ上がっていたからだ。

 

「不全骨折だな。骨膜が無事なら、すぐ治るだろ」

「ええ」

「…………」

「…………」

「お互い、油断したなぁ……」

 

 短いやりとりと沈黙の後、荒沢がポツリと呟いた。

 小糸が小さく頷いて応じた。

 その無表情から心の内を読み取ることは、荒沢にはできなかった。

 

「そうだ、水無瀬」

 

 荒沢が何かを思いついたように、小糸を呼んだ。

 

「なに?」

「ちょっとここに座ってくれ」

「なぜ?」

「いいからいいから」

 

 小糸は眉を小さく持ち上げながら、荒沢の言葉に従って道路の舗道と車道を分ける段差に腰掛けた。

 

「よっこいしょ」

「なっ!?」

 

 小糸は驚きの声をあげた。突然、荒沢がその巨体をごろりと横たえ、小糸の太股に頭を乗せたからだ。

 俗に言う膝枕の状態だ。

 小糸は顔を思い切りしかめた。荒沢の短い髪がチクチクと小糸の白い肌に刺さっていた。

 

「あなた、馬鹿なの?」

「癒やされるぜ? いいじゃねぇか、怪我人をいたわってくれよ」

「……髪が刺さって痛いわ」

「へへっ、サンキュー水無瀬」

 

 小糸の文句も取り合わず、荒沢は満足気な表情だ。

 怪我人である自分に小糸は手を出さないだろうと高をくくっているらしい。

 実際、小糸は今の荒沢から多少気に入らないことされても、暴力を振るって力尽くで止められる人間ではなかった。

 そのことを見透かしたように、荒沢は右手を持ち上げ、膝枕のついでといった様子でいやらしく小糸の脚の側面を触りながら、会話に参加してこない晴彦に声をかけた。

 

「どうだ一条、羨ましい……一条?」

「はい」

 

 荒沢は晴彦を見ながら、心配そうに表情を曇らせた。

 晴彦は暗い表情で、何かに耐えるようにじっと地面の一点を見つめていたのだ。

 

「どうした?」

「いえ……」

 

 不明瞭な態度の晴彦を見て、荒沢は表情を曇らせた。

 その耳元にルルが降り立ち、小さな声で言った。

 

「晴彦、自分のせいで小糸ちゃんが怪我しちゃったから落ち込んでるんだと思う」

 

 なるほど、と荒沢はルルの言葉に頷いた。

 勝手についてきて足手纏いになったあげく、女に守られ怪我をさせてしまったというのは、男として辛いだろう。

 しかし、ロボットファントムを倒すことができたのは晴彦の知識があってのものである。荒沢も小糸も、晴彦を責める気持ちは一切なかった。

 かといって、それを口に出して下手な慰めの言葉をかけても、余計に晴彦は落ち込んでしまうかもしれない。放っておくのが今は一番だろう。

 ただ荒沢は、晴彦に遠慮して静かにするという気にもなれなかった。傷の痛みを騒いで紛らわせたいのだ。

 そういった思考の結果、荒沢はルルに相手をしてもらうことにした。

 

「ああ、やっぱり膝枕はいいなぁ〜! 水無瀬の可愛い顔もしっかり観れるし絶景っすよ、ルルさん」

「じゃあ私も〜! あ、ホントだイイ景色」

「ですよね。綺麗な水無瀬に半分こお月さま。ま、ちょっと空が広く見えるのが物足りない気もしますがね」

「あはは、舞っちとかだと、すごく狭くなりそうだよね、空」

「川神は凄いっすからね。ま、水無瀬くらいが普通なんでしょうけど」

「だねぇ。そういえば蛮はやっぱ大っきい方が好きなの〜?」

「当然す。あ、でもお腹が緩んでるのは嫌っすね。胸は大きいけどお腹ダルダルよりは、ペタンコでも締まってる方がいいっす」

「こだわりだね! じゃあ、私はどぉ〜?」

「ルルさんのことは大好きっすよ、俺。焼けた肌もセクシーですし」

「えへへ〜」

「…………」

 

 小糸が、自分(ひと)の膝の上で妖精と猥談を繰り広げる荒沢の頭に無言でそっと手をかけた。

 

「ん? どうした水無瀬? 重かったかぁっ!?」

「わっ!? 蛮〜!?」

 

 荒沢とルルが驚きの声をあげた。

 小糸が荒沢の頭を持ち上げ、太股を抜いてからポイとアスファルトに投げ出したのだ。

 

「あいてて、水無瀬よぉ、そんなに嫌なら実力行使の前に言ってくれよ」

「ファントムの気配よ。施設の中からこっちに来てる」

 

 後頭部を打った荒沢の恨み言を無視して、小糸は冷たい声で言った。

 それに対し、荒沢が地面に寝転んだまま答える。

 

「俺がやられた奴かもしれねぇな」

「封印していなかったの? 倒したのでしょ?」

「時間が無かったんだよ。なに、膝を潰しているから何もできんはずさ」

 

 気の抜けた態度を見せる荒沢に、小糸は眉をひそめた。

 荒沢は件のファントムを大きな脅威と考えていないようだが、小糸はそのように楽観することができなかった。

 なにせ、当の荒沢を()()してしまった相手なのだから。

 

「どういうファントムなの?」

「能力は光の剣の生成と高速移動。他にもあるかもしれんが、なんであれ単騎の直接攻撃型……俺の領分だ」

 

 そう言うと、荒沢はのっそりとその巨体を起こした。

 

「水無瀬、一条、下がってろ」

 

 荒沢がそう言ったのと同時に、ガシャリという音が響いた。

 荒沢が交戦した黒衣の女ファントムが、閉鎖されていたシャッターを破いて施設の中から現れたのだ。

 

「よぉ姉ちゃん、リマッチの要求か?」

「そんなところね」

 

 荒沢の言葉に、女ファントムは妖艶な笑みを浮かべながら答えた。

 そして、荒沢たちに向かって歩きだした。

 ゆっくりと、左足を引きずるようにして歩いている。荒沢のドラゴン・スクリューによって膝を壊されているからだ。

 

「やめといた方がいいんじゃないか?」

 

 荒沢は両腕を持ち上げ、アップライトに構えながら言った。

 視線をまっすぐ女ファントムに向けている。

 女ファントムの額には、痛みのためかうっすらと汗が浮かんでいた。黒いコートや帽子も埃で汚れている。

 まともに戦えるコンディションには見えない。

 

「お気遣い、ありがたいわ……でもっ!」

 

 女ファントムが笑みを口元に貼り付けたまま、気迫とともに急加速した。

 滑走による高速移動能力を発動させたのだ。

 一気に荒沢との距離を詰め、両腕を振りかぶる。

 その瞬間、女ファントムの腕が急激に肥大化した。筋力を強化する能力だろうか。女ファントムが荒沢に見せた能力は、これで三つ目だった。

 質量を増した両腕を、女ファントムはハンマーのように左右から荒沢に叩き落とす。

 しかし――

 

「くっ……」

「つくづく芸が多いな、姉ちゃん。だが、俺に力比べを挑むのは悪手だぜ」

 

 女ファントムは悔しげな様子で歯を食いしばっている。

 荒沢が女ファントムの左拳を右掌で、右の手首を左手の親指と人差し指で受け止め、捕らえてしまったからだ。

 よほどの度胸と反射神経がなければ、このような芸当はできない。

 二人は変則的な手四つのような状態になった。

 そこから、荒沢は力に任せて女ファントムをゆっくりと押し潰していく。

 女ファントムが仰向けに倒れ、荒沢がそこへ覆いかぶさるような形になった。

 荒沢が組み合ったまま、女ファントムに顔を寄せた。

 

「ワン、ツー、スリー。プロレスなら俺のピンフォール勝ちだな」

 

 そう言って、荒沢は唇を獰猛な笑いの形に歪めた。

 パロールを唱えてキスをすれば、すぐにでも女ファントムを封印できる状況だった。

 荒沢はそれを実行しようとしたが、あることに気付いて動きを止めた。

 女ファントムの紅い瞳が、哀しみの色を湛えていたのだ。

 荒沢に対する憎悪や闘志ではない。

 もっと別の何かに対する深い哀しみが、女ファントムの双眸から溢れていた。

 なぜかはわからないが、荒沢はそれが酷く気に入らなかった。

 それで動きを止めてしまったのだ。

 その瞬間、女ファントムが動いた。

 首を荒沢に向けて持ち上げたのだ。

 荒沢の唇に柔らかいものが触れた。

 予想外の事態に、荒沢の思考は硬直した。

 

「ちゅーしたぁあああ!?」

 

 ルルの絶叫が響いた。

 同時に、荒沢の唇の中に女ファントムの舌が挿し込まれる。

 

「ん、んん……」

 

 悶えるような呼気と共に、柔らかなな感触が荒沢の口腔をなぞる。

 艶めかしい刺激を受ける荒沢の中に、奇妙な感覚が発生した。

 能力を使用する時の感覚に似ているが、脱力感のようなものがそこに付随していた。

 まさか、勝手に能力が発動している?

 荒沢がそう思った時、女ファントムが唇から離れた。能力によって封印される様子はない。

 ただ、女ファントムはその美しい顔に、驚きの色を浮かべていた。まるで世界がひっくり返るのを見たかのような顔だった。

 大人びた美人がこういう表情をするのも、可愛げがあっていいな。

 そんな場違いなことを考えながら、荒沢は女ファントムを解放した。

 

「行けよ」

 

 立ち上がった荒沢は、女ファントムを見下ろしながら言った。

 

「なんのつもり?」

「気紛れさ」

「……礼は言わないわ」

 

 女ファントムはアスファルトから起き上がると、荒沢に背を向け、左足を引きずりながらフラフラと歩き出した。

 

「俺の強さに惚れたか……火傷しちまうぜ?」

 

 女ファントムの背中が見えなくなった時、荒沢は気取った口調でそう呟いた。

 

「蛮、すっごくキモいよ?」

「色に溺れて危険なファントムを逃がしたの? 救いようが無いわね。また人が襲われたらどうするの?」

 

 ルルと小糸だ。

 白けた目で荒沢を見ていた。

 

「いや、あの姉ちゃんに先に手を出したの俺だし……そんな悪い奴じゃない感じだったからよ……」

 

 バツの悪そうな態度で、荒沢は何やら言い訳じみた言葉を発する。

 しかしそれは半月の夜空に吸い込まれるばかりだった。

 ピーポーピーポーと、気の抜けるような救急車のサイレンが遠くから近づいてきていた。




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