幻想世界をバック・ドロップ!   作:セミドレス

8 / 17
第八話 荒神 Ⅱ

 

 1

 

 空の端が、乾いた茜色に染まっていた。

 低い位置にある太陽が、ギラギラとした鋭さのある光を地上に放っている。

 土曜の逢魔時。

 日暮れの風景に、公営の古びた総合病院と、その近くを流れる幅が広く底の浅い川、そして、その川に架かる橋がぼうっと浮かんでいた。

 その橋を、ホセア学院の制服を身につけた数人の高校生が歩いている。

 高校生一同の先頭を歩くのは、鮮やかなブロンドの髪をポニーテールに結いあげた少女だ。

 上背のある少女である。身長は百六十七センチくらいだろうか。

 目鼻立ちのよい、どこか勝ち気な顔をした美少女である。

 少女は、ミドルティーンという年齢とは不釣り合いな体付きをしていた。胸や尻が、過剰なほど艶めかしく発達しているのだ。

 川神舞である。

 舞は、一条春彦と和泉玲奈、そして妖精ファントムのルルを引き連れて、この橋長およそ六十メートルのトラス橋を渡っている。

 ファントムと戦うためだ。

 ここ数日、この時間帯に橋を渡ろうとする通行人に、喧嘩を吹っかけては叩きのめしているファントムがいるらしい。

 そのファントムを討伐するよう依頼を受けて、舞が率いるチームEはこの橋を訪れたのだ。

 この橋は、二車線の車道が通る、それなりの交通量を持つ橋なのだが、ファントム出現を受けて昨日から交通規制がかけられている。

 

「今回のファントム、なんだか弁慶みたいですね」

 

 四人が橋の真ん中近くまで進んだ時、玲奈が言った。

 誰かに向けた言葉というわけではない。思ったことが自然と口から漏れたらしい。

 それに、晴彦が応じた。

 

「様々な逸話を持つ弁慶だけど、伝承によっては身長百九十五センチ体重百二十キロを超えていたとも言われているんだ。蛮先輩よりも大きいね」

「荒沢さんよりも……それは大きいですねぇ」

 

 晴彦と玲奈がそんなやりとりをしていると、先頭を歩いていた舞が足を止めた。

 

「あれ? どうしたんですか、舞先輩」

「来るわよ」

 

 晴彦が口にした疑問に、舞は周囲に目を配りながら、ぼそりと答えた。

 同時に、舞達から十メートルほど離れた位置、車道の中央付近から、竜巻のようなものが発生した。

 高さ三メートル程度の、美しい桜色の竜巻だ。

 花びらの竜巻だった。

 アスファルトの一点から桜色の花びらが無数に噴き出し、それが螺旋を描いて勢いよく宙を走っているのだ。

 舞たちが身構える前で、花びらの竜巻は数秒ほど踊り続けた後、破裂するように飛び散った。

 竜巻があった場所に、一人の少女が立っていた。

 少女の年齢は舞達と同年代――十六歳か十七歳くらいに見える。

 身長は百六十センチを少し超えるくらいだろうか。

 額が広く、どこか知性的な印象を感じさせる顔立ちだ。

 肌は白い。

 その白い肌が、ショートカットに切り揃えられた黒髪と見事なコントラストを成している。

 少女は、褪せた青色の()を身につけている。

 形は空手や柔道や柔道の道着と同じだ。

 左肩から左胸にかけて『HELIO ACADEMY』というロゴが、白い文字で大きくプリントされている。

 黒帯を締めていた。

 道着が少々くたびれているのに対し、帯は新品に近い状態に見える。

 

「アンタね、通行人に喧嘩を吹っかけてるファントムってのは」

 

 車道と歩道とを分離するガードレールを挟んで、舞は肌の白い少女型ファントムに尋ねた。

 

「喧嘩ではありません。全ては、志を遂げんがための手立て……」

「志? なんのことよ?」

 

 ファントムの答えに対し疑問符を浮かべる舞に、背後から応じる声があった。

 

「知れたことを。川神舞。貴方と荒沢蛮を呼び寄せることが、我らの願い」

「っ! 一人じゃなかったのね」

 

 予想していなかった背後からの声に舞が驚きながら振り返ると、少し離れた場所に、先ほど竜巻と共に現れた少女とは別の少女が立っていた。

 身長や顔立ちは、先に現れた少女と非常によく似ている。

 違うのは肌と髪の色、そして服装だ。

 新しく現れた少女は、何年も強い陽射しに焼かれ続けたような、濃い褐色の肌をしていた。

 頭髪は銀色だ。腰のあたりまで無造作に伸びている。

 この褐色の肌を持つ少女は、非常に軽装だった。

 着ているのは、オレンジ色のトランクスとブラトップだけである。

 引き締まった腹や脚のラインが丸見えだった。

 他に身につけている物といえば、飾りのついたピンク色の細い縄を、頭と両腕の上腕部に一本ずつ巻いているくらいだ。

 

「私と荒沢を呼び寄せたかったと言ったわね? アンタ達、何が目的よ!?」

 

 舞は二人の少女型ファントムに鋭い声で尋ねた。

 それに対して、先に現れた道着姿のファントムが答えた。

 

「答えのわかっていることを聞かないでください、川神舞」

「そう」

 

 舞はひらりとガードレールを跳び越え、道着姿のファントムと向き合った。

 軽装のファントムは、手を出す気はないと言いたいのか、無言で退き、舞達がいたのと反対側の歩道へ入った。

 とりあえず、この二人のファントムは、自分や、この場にはいない荒沢と戦いたがっているらしい。過去に封印したファントムの敵討ちか何かだろうか。

 舞は目の前の二人について、そう考えた。

 

「舞お姉さま!」

「先輩!」

「手出しは無用よ」

 

 自分の身を心配する二人の後輩にそう告げると、舞はまっすぐにファントムの前へと向かった。

 

  2

 

「この時を待ちわびていました、川神舞」

「なんだか知らないけど、戦いたいなら相手したげるわ。ただし、負けたら封印よ」

 

 四メートルほどの距離を開けて、舞と少女型のファントムはそれぞれ構えを取った。

 舞は左半身を半歩前に出し、両拳をこめかみの高さに構え、踵を僅かに浮かせている。

 キックボクシングやフルコンタクト空手等の、蹴りのある打撃系格闘技の構えに近い。

 それらと違うのは、背中を心持ち丸め、上体を前に出していることだ。

 この前傾姿勢は、タックルを仕掛けられた時に対応するためだ。

 蹴りを出すことだけを考えれば、上体を完全に起こしておいた方が良いのだが、それだとタックルを受けた時に、素早く対応できないのだ。

 直立した構えを取っている時に、身を沈めて突っ込んできた相手に胴や脚を抱えられると、そのまま倒されてしまう可能性が高い。

 だが、あらかじめ前傾姿勢をとっておけば、倒される前に相手の体に覆いかぶさるようにして持ちこたえることができるのだ。

 組み技にも対応できる打撃の構え――それが舞の構えの意味だ。

 相手がロクな知性を持たない獣のような存在なら、得意としている中国拳法の構えからラッシュを狙うのだが、目の前にいるのはいかにも格闘技をやっていそうな姿のファントムである。

 合理的なシステムに裏打ちされた技を警戒しなければならない。

 舞の前に立つファントムは、独特の構えを取っていた。

 両足を肩幅くらいに広げベッタリと地に付けている。

 柔らかく握った拳は、胸の高さに。

 全体のバランスは、背筋のピンと伸びた直立姿勢だ。

 

「ブラジリアン柔術……」

 

 ファントムの構えを見て、舞はそう呟いた。

 ブラジリアン柔術――前田光世という明治時代の柔道家によってブラジルに持ち込まれた技術が、現地で独自の進化を遂げて誕生した格闘技である。

 柔道の技術から産まれた格闘技だが、そのシステムは柔道とは似ても似つかない。

 柔道が『投げ』の武道だとすれば、ブラジリアン柔術は『寝技』の格闘技なのだ。

 ブラジリアン柔術は、相手を地面に倒し、その状態から有利なポジションを確保することに優れた技術体系を持っている。

 人と人とが素手で戦う場合に一番大切なのは、殴ることでも、蹴ることでも、投げることでも、関節を極めることでもない。相手を地に倒して、そこから有利なポジションを奪うことである――

 そういった思想の元で発展した格闘技なのだ。

 この思想の正しさは、九十年代にアメリカから世界に広がった総合格闘技ムーブメントの中で証明されている。

 総合格闘技のメソッドが確立される前、黎明期の混沌とした異種格闘技戦の舞台で、ブラジリアン柔術は無敵を誇っていたのだ。

 空手家が、レスラーが、サンビストが、次々と柔術家に敗れたのだ。

 地面に引き込まれ、次の瞬間に肩の関節を極められる者もいた。

 胴体にまたがられ、失神するまで顔面にパンチを打ち込まれる者もいた。

 うつ伏せになったところにのしかかられ、背後から首を絞められて意識を落とした者もいた。

 ブラジリアン柔術の選手は様々な方法で他の格闘技の選手に勝利したが、そのどれもが相手を地に倒し、有利なポジションを奪うという手順を踏んでからの勝利であった。

 寝技におけるポジショニング技術を独占していたが故の無敵性だった。

 その無敵を誇っていた時代の柔術家が異種格闘技戦で取っていた構えを、舞の前に立つファントムは忠実に再現しているように見える。

 

「わかりますか、川神舞」

 

 柔術家のファントムが、どこか嬉しそうに言った。

 

「貴方と荒沢蛮に勝つために私が見つけた答えが、これです」

「ちょっと古いんじゃないの? 二十年前ならともかく、今どきそんなクラシカルな構えしてる格闘家はいないわよ」

 

 自信に溢れた表情を見せる柔術ファントムに、舞は呆れを含んだ声で言った。

 九十年代ならともかく、それ以降の格闘技界でブラジリアン柔術が絶対的な地位を保っていたということはない。

 この二十年で異種格闘技戦に関する技術は大きく進歩し、その勢力図は日々変化し続けているのだ。

 現在の総合格闘技界で主流のスタイルは『寝技に対応できる打撃屋(ストライカー)』である。

 寝技に特化した純正柔術スタイルは、はっきり言えば過去のものである。

 

「私がやるのは、柔術ということです」

「あっそ」

 

 柔術ファントムの言葉に素っ気なく返した。

 その態度とは裏腹に、奇妙な昂ぶりが舞の中に生まれていた。

 格闘技の技術を存分に駆使した戦いを、これからできる。

 それを舞は喜んでいるのだ。

 かなりの回数、ファントムとの戦いを経験している舞だが、中国拳法を中心に習得している格闘技術を満足に使えたことは、ほとんどなかった。

 格闘技が、対人戦を前提に作られたものだからだ。

 ファントムが相手では、システムの全てを機能させることができない。

 むろん人型のファントムも多く存在するが、大概は力が強かったり、不思議な力を持っているだけで、格闘技術という面から見れば素人と同じだ。

 そんな相手では、どういう技も存分に振るえない。

 本質的には、サンドバッグを叩くことの延長線上にあるものだ。

 だが今回は、覚えた技や駆け引きを、本気で使えるかもしれない。

 ひょっとしたら、舞の人生で初めてのことかもしれなかった。

 小学生の頃に、荒沢を相手に試合の真似事のようなことをしていたような気もするが、年齢を考えればゴッコ遊びの域を出ないだろう。

 面白い。

 わくわくしながら、舞はゆっくりと、しかしまっすぐ柔術ファントムへ向かう。

 タックルに気をつけながら接近し、隙の少ないパンチで柔術ファントムを追い立てるつもりだった。

 しかし――

 

「むぅ」

 

 舞のパンチの間合いに入る直前、柔術ファントムは退いて逃げたのだ。

 舞がそれを追おうとすると、今度は左にステップを踏んで間合いを外した。

 それから、ジリジリとした距離の取り合いが始まった。

 逃げる柔術ファントムに追う舞という構図だ。

 普通、このような状況は追う側の方が距離をコントロールしやすいのだが、舞はなかなか距離を詰められずにいた。

 タックルを恐れて、隙の生まれる、疾く大きな動きを避けているからだ。

 そのまま、息の詰まるような緊張したやりとりが、二分近く続いた。

 二分が経とうとした時、その空気に舞が耐えられなくなった。

 舞は短気で攻撃的な性格の持ち主だ。おまけに、今は軽い興奮状態にある。

 このような()()()()()やりとりに長く耐えられるはずもなかった。

 柔術ファントムは、舞のパンチの間合いよりほんの数センチ長い距離を維持して逃げ回っている。

 これは、パンチは届かないが、蹴ることはできる距離だった。

 前蹴りを出そう。

 舞の頭の中に、そんな考えが浮かんだ。

 柔術ファントムの腹のど真ん中。

 右に逃げても左に逃げても、屈んでも跳んでも、前に出ても後ろに退いても、必ず体のどこかに当たる前蹴り。

 それを、渾身の力を込めて放とう。

 焦れた舞がそう決めて右脚を振り上げようとした時、逆に、柔術ファントムが舞の右膝あたりを狙って左足で前蹴りを放って来た。

 まるで舞の思考を読んだかのような、絶妙のタイミングだった。

 舞は攻撃するのをやめ、柔術ファントムの前蹴りを、右脚を持ち上げてカットした。

 次の瞬間、とん、と柔術ファントムが踏み込んできた。

 舞にカットされた左足を、そのまま踏み込みに利用したのだ。

 胴タックル。

 上手い動きだった。

 柔術ファントムが、姿勢を低くして舞の腹に抱きつくような形になった。

 膝への前蹴りは陽動であり、タックルに入ることが柔術ファントムの狙いだったのだ。

 柔術ファントムはタックルの勢いのまま、舞を倒そうとする。

 しかし舞は重心を落として耐えることに成功した。

 舞の反応速度が優れていたことと、パワーや体重で柔術ファントムに勝っていた結果だ。

 タックルで舞を倒し損ねた柔術ファントムは、舞に組み付いたまま、ずりずりと上体を起こした。

 舞と柔術ファントムは胸を合わせるような形になった。

 そこから柔術ファントムが、今度は足をかけて舞を倒そうとし始めた。

 舞はそれを捌きながら、バックステップを踏んで後退していく。

 ごん、と音を立てて、舞の背中が何かに当たった。

 歩道と車道を分けているガードレールだ。

 舞は一旦ガードレールに体重を預けて態勢を整えると、自分を倒そうとしてくる柔術ファントムを、逆に、力に任せて押し倒した。

 かなりの勢いで、背中からアスファルトに落ちてゆく柔術ファントム。

 落着の直前、柔術ファントムは舞の体を拘束していた腕を解き、受け身をとった。

 にもかかわらず、柔術ファントムは落着と同時に、

 

「がぁっ!?」

 

 と悲鳴をあげた。

 柔術ファントムが腕を解いた瞬間、舞が自分の体と柔術ファントムとの間に折り畳んだ右腕を潜り込ませ、肘の先を胸の真ん中に突き立てたからだ。

 落着の瞬間、柔術ファントムの胸の一点を、舞の体重が勢いよく貫いたのだ。

 舞と柔術ファントムは、みじぃ、という骨が軋む音を耳にしていた。

 

「へぇ、根性あるじゃない……」

 

 仰向けに転がる柔術ファントムに、膝立ちになって覆い被さりながら、舞は感心したように言った。

 柔術ファントムの両脚が、舞の胴体を抱え込んでホールドしていたからだ。

 ガードポジションと呼ばれる状態である。

 柔術ファントムが、悲鳴をあげながらも体の動きを止めずに作った形だった。

 この位置関係は、基本的に舞の方が有利なポジショニングである。

 上から顔面を殴りつけることもできるし、柔術ファントムが着ている道着の襟を利用して首を絞めてもいい。

 対して、背を地面付けている柔術ファントムは、動きの自由度が低い。

 だが、上を取った舞が一方的に有利なポジションというわけでもない。

 柔術ファントムは、胴体を挟んだ両脚で舞の動きに干渉したり、場合によっては関節技をかけることができるからだ。

 そして、もし舞のバランスを崩して転がし、上下を入れ替えることに成功すれば、柔術ファントムは圧倒的に有利なポジションを得ることができる。

 馬乗り――マウントポジションだ。

 そうなれば、舞は柔術ファントムにほとんど何もできなくなり、柔術ファントムは一方的に舞を殴ることができるようになる。

 ガードポジションで上を取った舞は、有利を得ながらも、ある意味でピンチに立たされているのだ。

 

「いくわよ」

 

 舞は、呟きながら右拳を柔術ファントムの顔面に向けて落とした。

 それほど力のこもった拳ではない。

 バランスを崩して上下を入れ替えられないよう注意を払っているからだ。

 舞の拳を、柔術ファントムは両腕でブロックした。

 舞はそこへ、角度を変えながら次々とパンチを落としていく。

 どのパンチも腕の力だけで放たれるパンチだ。大した威力は込められていない。

 その代わり舞の重心も動いていないので、柔術ファントムは上下を入れ替えることができない。

 八発目のパンチが、柔術ファントムの腕をすり抜け、初めてその顔を打った。

 その次は、十四発目の拳が、ガードを突破した。

 その次は二十発目が当たった。

 舞は、このまま柔術ファントムが動かなくなるまで拳を振るい続けるつもりだった。

 軽い拳とはいえ、ヒットしているのは頭部である。

 少しずつでも脳にダメージを蓄積させれば、次第に柔術ファントムの動きは悪くなっていくはずだ。

 五発に一発しか当たらない拳が、いずれは四発に一発、三発に一発と当たる頻度を増やしていく。

 そして振るう拳が全て当たるようになった時、つまり、柔術ファントムが動かなくなった時が、舞の勝利となる。

 真綿で絞め殺す、というには少々過激だが、柔術ファントムはこのままではゆっくりと嬲り殺しにされてしまう。

 それは柔術ファントムもわかっていようが、かといってそう簡単に逆転出来る状況でもない。

 パワー、そして体格――フィジカル面で、柔術ファントムが舞に劣っていることも状況の厳しさに拍車をかけている。

 この膠着した攻防は一分近く続いた。

 そして、舞が三十発目のパンチを打とうとした時、変化が起きた。

 柔術ファントムが、ぐいっと体をひねり、強引に上下を入れ替えようとしたのだ。

 しかし、舞はそれに耐えた。そして、大きく腕を振り上げた。

 柔術ファントムのガードが、体をひねる動きをしたために開いていたからだ。

 これまでの()()()ながら放っていたものとは違う、強烈なパンチが打ち下ろされた。

 ゴッ、という重い音が響いた。

 舞の右拳が、柔術ファントムの顔面を正面から打ち抜いた音だ。

 危険な一撃だった。

 柔術ファントムは、頭部を舞の拳とアスファルトとに挟まれる形となっていた。

 パンチの衝撃が、ほとんど分散することなく柔術ファントムの頭部を襲った。

 普通の人間が受ければ、脳挫傷を起こして死んでもおかしくない攻撃だった。

 だが、柔術ファントムは、こらえた。

 意識を落とすことも、戦意を喪失することもなかった。

 それどころか、反撃の糸口を掴みさえした。

 頭を打ち抜かれた次の瞬間に、舞の右腕を抱えこんでいたのだ。

 まさか、これを狙ってガードを開けたのか――

 舞は驚愕した。

 柔術ファントムの鼻から、どろどろとした濃い血液が溢れていた。

 舞の背筋を、ぞくりと嫌な感覚が駆けた。

 右腕を強く引かれ、舞の上体が前に泳いでいた。

 同時に、舞の胴体に絡みついていた柔術ファントムの左脚が、舞の右脇へ滑りこんできた。

 柔術ファントムがずるりと舞の下から這い出し、舞の背中に回り込むように動いた。

 その動作に巻き込まれ、舞の右腕が柔術ファントムの左脚によって固められていく。

 オモプラッタ。

 ブラジリアン柔術を代表する、肩を極める関節技だ。

 それを舞は仕掛けられたのだ。

 

「くぅっ!?」

 

 完全に極められる前に、舞は声をあげながら、ごろりと前転して技から逃げた。

 その結果として仰向けになった舞に、すぐさま柔術ファントムが上体を被せてきた。

 柔道の横四方固めに近い形になった。

 柔術ファントムの左腕が舞の首を、右腕が舞の左脚を抱え込んでいる。

 舞が非常に不利な状況だ。

 柔術ファントムは、舞が少しでも隙を見せれば、即座にチョークスリーパーや腕ひしぎ逆十字固めを仕掛けることができる。

 早急に脱出しなければならない。

 舞は、唯一自由に動かせる左腕を振るい、柔術ファントムの頭部を掌底で突いた。

 

「くぅ……無駄だ、川神舞」

 

 柔術ファントムが言った。

 しかし、言葉とは裏腹に、苦しげな声だった。

 舞の強烈な拳を顔面に受けてから、まだ十秒も経っていないのだから当然のことである。

 脳に受けたダメージが、まだほとんど脱けていないのだ。

 その状態で、頭部に打撃を受ける苦痛は相当なものであるはずだ。

 これでいこう――

 舞は思った。

 このまま、何度も何度も、執拗に柔術ファントムの頭部を攻める。

 柔術ファントムが嫌がって舞から離れるか、脳震盪を起こして動かなくなるまでだ。

 そう決めた舞が二発目の掌底突きを打とうとした時、柔術ファントムがずるりと舞の上で動いた。

 強引にチョークを仕掛けてきたのだ。

 首の両側面を通る動脈を締め上げ、脳への血流を阻害して舞の意識を落とす。そういうことを狙っているのだ。

 しかし、仕掛け方が強引だったため、きちんと極まっていなかった。

 この掛かり方では、舞の意識が落ちることはない。

 それでも、脳への血流が多少は阻害されているらしく、舞は自分の顔が赤くなっていくのを感じていた。

 かまうものかと、舞は柔術ファントムの頭を叩いた。

 一つ、二つ――

 三つ目の攻撃を打ち込んだ時に、コツコツという硬い音が近づいてくることに舞は気付いた。

 革靴か何かを履いた人間が、こちらに向かって歩いてきているのだ。

 かなり体重のありそうな、重い足音だ。晴彦でも玲奈でも、柔術ファントムの相方でもない。

 足音は、舞と柔術ファントムから数メートル離れた所で立ち止まった。

 この戦いに手を出す気はないらしい。

 ならばよし。

 舞は足音のことを意識から切り離した。

 そして、柔術ファントムの頭部への攻撃を再開した。

 四つ、五つ、六つ、七つ――

 舞は何度も何度も柔術ファントムの頭を叩いた。

 拳ではなく、掌でだ。

 柔術ファントムの脳を揺さぶって、ぐちゃぐちゃの()()()にしてやるのだ。

 もちろん、何千回叩こうと、頭蓋骨の中で脳がペースト状になるということはありえない。

 だが、そうしてやろうというぐらいの気迫を持って、舞は柔術ファントムを攻撃していた。

 しかし、柔術ファントムは舞の攻撃に耐えた。

 舞の首を締め上げる力を一切緩めない。

 むしろ、その力は次第に強くなっている気さえする。

 二十七、二十八、二十九――

 自分にのしかかる柔術ファントムの頭を叩き続ける舞。

 そこへ、上方から声が響いた。

 

「おい川神、そのあたりにしとけ。死んじまうぞ」

 

 男の声だ。

 死んでしまう? 何を言っているのだろうか。バカな奴だ。このファントムは今も元気に私の首を締め上げているじゃないか。

 舞はそんなことを考えながら、腕を振るい続けた。

 三十六、三十七、三十八――

 その時、重い気配が舞と柔術ファントムに被さってきた。

 舞の首に絡みついていた柔術ファントムの腕が、力任せに引き剥がされた。

 次いで、のしかかってきていた柔術ファントムの体重が消える。

 舞の視界に、紺色の空ががった。

 妙にたくさんの雲が浮かぶ空だ。

 その空の真ん中から、男の顔が舞の目を覗き込んでいた。

 目や鼻の輪郭が濃い、大雑把なつくりの顔――荒沢蛮の顔だ。

 コイツが邪魔をしたのか、楽しかったのに。生意気な。一発、殴ってやろう。

 そんなことを考えながら、舞は腕を振るおうとした。

 あれ?

 舞は驚いた。

 先ほどまで柔術ファントムを殴りつけていた腕が、うまく動かないのだ。

 いや、腕だけではない。脚も、首も、まともに動かない。全身が、鉛になったかのようだ。

 頭も、頭蓋骨の中に有刺鉄線を突っ込まれたかのように痛い。

 

「おい、川神! 大丈夫か!? しっかりしろ!」

 

 突然、荒沢が頬をぺちぺち叩きながらがなりたててきた。

 具合が悪いのだから、近くで大きな声を出さないで欲しいと舞は思った。

 

「うるさいわね、じゃましないでよ……」

 

 そう言いながら、舞は寝転んだ状態から、上半身を起こした。

 柔術ファントムのチョークによって、意識が半分落ちていた。

 どうやらそういうことらしいと、舞は気づいた。

 肉体的なダメージはほとんど受けていない。すぐに回復するだろう。

 そう自己検診してから、舞はあたりを見回した。

 すぐ傍に荒沢がいた。

 その足元に、柔術ファントムが仰向けに倒れている。

 柔術ファントムはピクリとも動かない。その顔は血まみれで、ぼこぼこに腫れ上がっていた。

 荒沢の後ろから、晴彦と玲奈、そして柔術ファントムの相方である、軽装の少女型ファントムが歩いてきていた。

 

 3

 

「貴方の勝ちです、川神舞」

 

 軽装の少女型ファントムが、倒れている柔術ファントムの傍らから、立ち上がった舞に向かって言った。

 舞の隣に立っていた荒沢が、空気を察して、数歩退いた。

 

「そうみたいね。気付かなかったわ」

 

 舞はそう答えた。

 気付かなかった、というのは、柔術ファントムが意識を失っていることに気付かなかったという意味だ。

 これは、柔術ファントムが失神した後も舞の首を締め続けていたことと、それによって舞の意識も混濁し、落ちかけていたせいだ。

 軽装のファントムは、舞の言葉にはこれといった言葉を返さず、

 

「次は、私です」

 

 と、舞の目をまっすぐ見ながら、ポツリと呟いた。

 そして次の瞬間、ダン、と音を立てて、舞に向かって左膝を突き出しながら跳躍してきた。

 跳び膝蹴りだ。

 

「くっ!」

 

 舞は、咄嗟に両腕をクロスして顔面をかばった。

 強烈な衝撃。

 思わず後ろに下がる舞。

 軽装のファントムはアップライトな構えを取ると、素早いステップで舞を追ってきた。

 一瞬で密着に近い間合いになる。

 軽装のファントムの両腕が、舞の後頭部に回された。

 舞の背中が粟立った。

 ぐい、と非常に強い力で舞の頭がファントムの両腕に引かれる。

 同時に、ファントムの右膝が跳ね上がってきていた。

 舞は両腕で、必死にそれをガードした。

 耐えられなかった。

 ガードごと頭を弾かれた舞は、ガクリと膝をついた。

 追撃が来る――

 そう判断した舞は、両腕で頭を覆った。

 だが、次の攻撃はなかった。

 軽装のファントムは、バックステップを踏んで舞と距離を取り、構えを解いていた。

 今日は、これ以上やる気が無いらしい。

 

「アンタはムエタイってわけね……」

 

 舞は軽装のファントムに向かって言った。

 ムエタイは、タイの国技である打撃系格闘技だ。

 先ほど軽装のファントムが行った、相手の頭を抱えこんで膝を見舞う。

 これは首相撲というムエタイの技術である。

 

「ええ。その通りです」

 

 ムエタイ使いのファントムは頷いた。

 そして、舞だけ見ながら続ける。

 

「川神舞。明日、同じ時間にここへ。次は私と戦ってもらいます」

「いいわよ。どの道、アンタたちを倒すのが私の仕事なんだから。だけど、私が勝ったら封印させてもらうわよ?」

「ええ。私を倒した後であれば、封印でもなんでも好きにしてください」

 

 剣吞なことを言う舞に対し、潔く返すムエタイファントム。

 その後、思い出したように言葉を続けた。

 

「ただし、私が勝ったら、荒沢蛮の居場所を教えてもらいます。知っているのでしょう?」

 

 ムエタイファントムの言葉に、舞は思わず荒沢を見た。

 このファントムは、自分の顔を知っていたのに、荒沢の顔は知らないのか?

 疑問に思いながらも、舞は返答した。

 

「いいわよ。住所でも電話番号でも、私が知っていることは全て教えたげるわ」

「それは重畳。では……」

 

 ムエタイファントムは満足げに頷くと、倒れている柔術ファントムを抱え上げた。

 一拍おいて、その足下から桜色の花びらが噴き出し、二人のファントムを覆う。

 そして数秒後、花びらが消えた時、ファントムたちの姿も消えていた。

 

「あいつら、ファントムだったのかよ。というかなぜ俺の名前を…… おい川神、話が見えん。説明してくれ」

 

 荒沢が、舞に対して尋ねてきた。

 

「別にいいけど。その前に、なんでアンタがここにいるのよ?」

「病院の帰りだ……まぁ偶然通りかかっただけだな。驚いたぜ? 和泉と一条が突っ立ってるのが見えたから来てみれば、お前が試合だか喧嘩だかわからないことやってるんだから」

 

 荒沢が、大げさな態度でそう言った。

 そして、改めて舞に質問する。

 

「で、あいつらなんなんだ? 俺のこと探してたみたいだが」

「退治を依頼されたファントムよ。なぜか私とアンタを狙ってるみたいだけど」

 

 舞はそう答えると、ため息をついた。

 

「疲れたから、ちゃんとした説明は座れる場所でしたいわ。適当な喫茶点にでも行きましょ。どうせ暇でしょアンタ」

「え、マジ?」

 

 舞の言葉に、なぜか驚いたような声を漏らす荒沢。

 舞は、異論は受け付けないとばかりにそれを無視して、晴彦、玲奈、ルルの三人に向き直った。

 

「晴彦、玲奈。アンタたちは大丈夫……ってどうしたのよ?」

 

 なぜか、三人とも引きつった顔で舞を見ていた。その顔が、どうも青ざめているように見える。

 

「どうしたのよアンタたち?」

「いえ……」

 

 舞の質問に、目をそらしながら玲奈が口ごもった。

 そんな玲奈に向かって、苦笑しながら荒沢が歩みよった。

 

「すまんな和泉。こいつ、自分の容姿にいろんな意味で無頓着なところがあってよ…… ええと、鏡あるか? 持ってたら貸してくれ」

「あ、はい」

 

 荒沢の言葉を受けて、玲奈は肩にかけている鞄から鏡を取り出し、差し出した。

 鏡を受け取った荒沢は、それを舞に向ける。

 そこには、顔や胸が、柔術ファントムの血でべっとりと赤くなった舞の姿が映っていた。

 

「グロいわね……」

「まずは家に帰って着替えような、川神」

 

 顔をしかめる舞に対し、妙に優しい口調で荒沢は言った。




 舞先輩が完全に総合格闘家になっちゃってますね。
 中国拳法が異種格闘技戦やったって資料がないんで仕方なかったんです。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。