その部屋を一言で表すなら、まさに『無』という言葉が的確だった。
第2女子寮最上階。表札のない扉をくぐったその先に待っていたのは、部屋と呼ぶにも抵抗がありそうな『空間』だった。
何も無い。完全に。
趣味的なものから、テレビやパソコン、果ては寝具や家具すらない。カーペットや畳もないせいでむき出しになっているコンクリートを見たときは、廃墟か牢屋かと思ったほどだ。
そんな、およそ人が生活するには不自由かつ不自然すぎるこの部屋には今、3人の人間がいた。
1人は、当然俺。もう1人は、神崎・H・アリア。
そして最後の1人は、ここの家主である少女――レキだった。
愛銃であるドラグノフを抱えて、いつもどおり制服姿の彼女は床に体育座りして壁によりかかっていた。
レキと同じく壁に背を預けて立つ俺の足元では、アリアがあぐらをかきながら双眼鏡で窓の外を見ていた。こうやって、昨日からキンジの部屋を監視していたらしい。
――さて。
現在の時刻は、午後1時くらい。ちょうど、かなえさんと会ってから1時間ほど経過している。
あれから、俺とアリアは当初の予定どおり、学園島に戻ってからレキの部屋に向かった。アリアは堂々と入っていったんだが、さすがに俺はビクビク物だったよ。見つかったらどうなるか、わかったもんじゃねぇ。
そして出迎えてくれたのは、いつもどおり無表情のレキ。あの月夜の晩以来久しぶりに会った彼女の許可をもらい(アリアは貰う前に入室していったが)、俺は
――で、この現状なわけなんだが……、
『…………』
……し、静か過ぎるよこの空気。
いやまあ、レキはわかる。こいつはいつも寡黙だから、口を開かなくても違和感はない。逆にいきなりぺらぺらと喋りだしたら、そっちの方が怖い。
しかし、アリアさん。お前が黙るのはいただけねぇぜ。いつもの騒々しさはどうした。
あるいはそれだけ今回の件――『
しかし……。
俺はちらりと横目で、レキを窺う。
なんというか、俺も俺でそんなに黙り込むタイプじゃねぇんだが、こいつがいるせいかどうも口が重い。
さっき言ったが、俺がこいつと会うのは例の会話……「強くなってください」といわれたあの夜以来のことだ。
レキはきっと、なにかを知っている。俺が知らない、何かを。それこそ、理子や『
そりゃあ……今までどおりにゃ接することができねぇよ。どうしても、それがちらつく。
かといってじゃあ、全部を聞き出すことは無理だ。どうせ言わないだろうし、なにより今はアリアがいる。あいつの前で、理子が関わる話はしたくない。なんせアリアは、あのハイジャックで彼女に煮え湯を飲まされているのだから。
……とはいえ、だ。このままってのもさすがに気まずい。
よし。ここは思い切って、会話してみよう。
というわけで、俺は顔をレキの方へと向け、
「あー……レキ、その、なんだ。えーっと……いい天気だな」
「そうですね」
「…………」
「…………」
死にたい。
っていうか、なんなんだ俺は!? 俺ってこんなにコミュ力なかったっけ!? 「話題の起点としてはトップクラスの知名度だけど実際使う機会あんまないよね」と言われる台詞を吐くほど、俺は口下手だったっけー!?
し、しかしだ、まだ終わっちゃいない。とりあえず話すことには成功したんだ。こっから上手く持ってけば、まだ逆転は可能!
いくぞ!
「そういや、知ってるかレキ? 空が青いのは、地球の大気が青と緑の波長を散乱させてるからなんだぜ?」
「そうなんですか」
「…………」
「…………」
いっそ殺してくれ。
いや、わからなくはないよ? 天気の話題から繋がってるのは、確かにわからなくねぇけど、しかしそんなウンチクを披露してどうするんだ、俺の脳よ。
やばいな。俺って、こんなに引きずるタイプだっけ?
もしかしたら、ずっとこんな感じになっちまうのか? と俺が辟易としたその時、
「――あ、の、色ボケ武偵ッ!」
「うおっ!?」
突如わけのわからないことを叫んだアリアが、怒気もあらわにしながら勢い良く立ち上がった。
双眼鏡を砕けよとばかりに握り締めるその姿は、さながら羅刹か悪鬼のような威圧感を放っている。
な、なんだなんだ? なにがあったんだ?
アリアが怒りを向ける原因を調べるため、俺は監視用にと彼女に渡されていたもう一つの双眼鏡を使い、アリアが見ている方向を眺めた。
双眼鏡の2つのレンズに映ったのは……キンジと白雪だ。それも、なんだあれは? 嫌がるキンジに白雪が無理やり箸で掴んだ料理を食べさせようと――俗に言う「はい、あーん」ってやつか――している。
それを見た瞬間、俺の心は一瞬で沸騰した。
「あ、の野郎……ッ!」
ふ、ふざけるなよクソ野郎! 仮にも男の夢の一つである「はい、あーん」を拒否ってやがるだと!? 俺なんか、一度もしてもらったことがないというのに!
遠山キンジ、必滅すべし! ていうかお前、護衛だろうが。依頼人となにやってんだちゃんと警護しろよゴラァ!
嫉妬に肩を震わせ、歯の根をギリギリとかみ合わせる俺ははたから見ればさぞ気持ち悪いことこの上なかったろうが、その時の俺はそれほど怒っていたわけだ。
しかしなんとか、俺は気持ちを落ち着かせる。ここで俺が妬ましさに打ち震えたところで、まさかキンジの部屋まで乗り込むわけにはいかないからな。それじゃあ、この『外部からのボディーガード』の意味が無くなってしまう。
アリアの作戦を、一個人である俺の感情で台無しにするわけにはいかないよな、と双眼鏡から目を離し、ちらりとアリアに目を向けると、
「バカキンジィ……ッ! 今すぐそっち行くから待ってなさいよ!」
あれー!? 作戦立案者さんが
俺は慌てて、部屋を出て行こうとするアリアの腕を掴み、
「ち、ちょっと待てバカ! ここでお前が行ったら、この作戦の意味がねぇだろうが!? ただ家に行くだけならまだしも、これじゃ監視してたことまでバレんだろ!」
「は、な、せ~! あたしはね、別にキンジと白雪がい、いいイチャイチャしてようがどうだっていい! それはホントにホントよ! けどね、なにが許せないって、白雪のことは任せろって言っておいて、あんな腑抜けたマネしてることよ!」
「だから落ち着けって! 気持ちはわからなくもねぇが、そうは言ってもお前、これでまた『魔剣』にこっちの行動が察知されたら、また振り出しだぞ!」
俺の指摘にアリアは「うぐっ」と声を詰まらせ、それでも納得はしてくれたのか、
「……あー、もうっ。わかったわよ、あんたの言うとおりだわ。もう行こうとしないから、そろそろ腕放してよ」
「わかっていただけたようでなによりだ」
アリアの腕から手をどけつつ、俺は嘆息する。
なんというか、悪い意味で変わらねぇなぁ、こいつは。かなえさんと会った後くらいは大人しかったんだが(というか挙動不審っぽかったが)、気づけばまたいつもの短気っぷりを発揮してやがる。
しかしまあ、なんだ。ともあれ、一応怒りは鎮まったらしい。これでアリアも、今後は冷静な対応を取ってくれるだろう。
安堵した俺は、一人静かに「やれやれ」と呟くのだった。
――10分後。
「もう無理ッ! 今度こそ風穴あけに行ってやるわ!」
「はえぇよ! お前10分前の自分の台詞思い出してみろ! ……って、こらこらなんでガバメント抜いてんだよバカ!」
「は、な、せ~!」
「この展開さっきもやったよなぁ!? 学習能力ゼロか! おいレキお前もこいつ止めるの手伝ってくれ!」
「…………(もくもく)」
「マイぺ――――――スッ! 食ってる場合かー! なに一人でカロリーメイトもしゃもしゃやってんだよお前は!?」
そんな会話があったことは、俺たち3人の秘密である。
* * *
――監視生活、3日目。
と、こういう書き方をするとなんだかアレな感じだが、とにもかくにも、俺がレキの部屋に転がり込んでから、今日で3日目だ。
意外なことにというか幸いなことにというか、ことここに至ってもまだ、女子寮への潜伏がバレてはいなかった。現在ゴールデンウィーク中ということもあり、基本的に一日中部屋にこもってりゃいいしな。それに、寮から出るときも非常階段を使うという手があったし。それでも、奇跡に近いんだが。
ちなみに、着替えとかもろもろの生活用品については、さわやかイケメンこと不知火亮さんに俺の部屋から取ってきてもらった。ありがてぇぜ、ホントに。
さらに変化があったとすれば、それは俺とレキの関係性だ。といっても大した話じゃなく、単純に俺が普通にレキと話せるようになったってだけのことなんだが。さすがに3日も同居生活を続けていれば、どうしても話す機会は増える。結果、ほとんど以前と変わらない状態になった。無論、あの夜のことは頭の片隅にあるが。
――で。
その3日目の今日、5月5日。時刻は夜6時を半ば回ったころか。俺は、レキの部屋でキンジからゴールデンウィーク中の護衛について報告を受けていた。
「ふーん。じゃ、とりあえず今んところはなんもねぇんだな」
『ああ。一応、問題はない』
床の上に置いたスピーカーモードの携帯電話から聞こえるキンジの言葉に、俺は眉を少し寄せる。
お前のほうは問題なかったのかもしれんが、こっちはお前らの行動にいちいちアリアがキレて大変だったんだぞ。ちくしょう。
「了解。他にはなにかあんのか?」
『いや、とりあえず報告はこんなところだな。――と、悪い。すまんが、そろそろ切るぞ。予定があるんだ』
「予定?」
『白雪と、7時から花火を見に行く約束をしてるからな。ちょっと今出かけてるから、それまでに家に帰らなきゃならないんだ』
「花火ぃ?」
そんなの今日やってたか? と首をひねり、直後思い出す。
そういや、荷物の受け渡しの時亮が言ってたな。東京ウォルトランドで花火大会があるとかなんとか。「神崎さんを誘ってみたら?」とか言われたっけ。
で、その花火を白雪と見ようってか。しかしまあ、よく白雪をウォルトランドなんて人が多い場所に誘えたもんだな。
「ウォルトランドであるやつか? あいつ、そういう大勢が集まる場所、苦手じゃなかったか?」
『ああ。だから、ウォルトランドには入らない。葛西臨海公園まで出て、そこで見ることにした』
なるほど。確かに、それならランドの方よりかは人は少ないだろう。
だが……、
「でも、いいのかよ? 仮にもボディーガードだろ、お前。クライアントを外に連れまわすのは感心しねぇな」
『じゃあずっと部屋に篭って陰々滅々と過ごせってか? 一日くらい平気だろ。今までだって何も無かったんだから。……それに、上手くいえないが……白雪には、もっと外の世界を知ってほしいんだ。あいつは、無理をして自分を抑えこんでる。たまには、それを解放させてやりたいんだよ、俺は』
「…………」
まあ、正直キンジの思いもわからなくはない。
これでも、俺だって白雪とはもう1年の付き合いになる。あいつの
だが……時期が悪い。今白雪は、『魔剣』に狙われている。そんな状況で、それははたしていいことなのか?
……いや、それは俺が決めることじゃねぇか。
俺は、視線を対面に座るアリアに向け、
――ドウスル?
パチパチとまぶたを閉じたり開けたりしながら、アリアに伝える。
アリアもまた同様にして、
――モンダイ ナシ ゾッコウ
と、送り返してきた。
ゾッコウ……続行ってことは、好きにやらせろってことか。意外な返答だが……オーケー、了解だリーダー。
「おい、キンジ。話はわかった。しっかり守れよボディーガード。今白雪が頼りにできるのは、お前だけなんだから」
『……わかってるよ。じゃあな』
その言葉を最後に、ブツリと通話が切れた。
さて……と。
「――で? キンジたちの外出を許したのはなんでだ?」
「『
携帯電話をポケットに仕舞いながら尋ねる俺に、アリアは簡潔に答えた。
なるほど。ようするに、キンジたちを囮にするってわけか。確かに、警備が厳重な学園島内から出たとあれば、『魔剣』からすればこれ以上ない好機。そこを叩きに来る可能性は高い。
しかし、だ。
「素直に来るかね?」
「どうかしら? 普通に考えれば、武偵がわんさかいる学園島から出たなら、是が非でも仕掛けにくるはずだけど……あたしのカンでは、多分来ないわ。元も含めてSランク3人がついてるわけだし、『魔剣』はそこまで短絡的じゃない気がする」
スッと目を細め、おとがいに指をかけつつ考えを口にするアリア。
……だが、その口元が若干ほころんでいるのを俺は見逃さない。
そして、それが証拠になる。アリアの言が、ただの
アリアの性格上、自分のカンには絶対の自信を持っているはずだ。なのに、そのカンからすれば無駄な囮作戦を行おうとしている。
となれば……目的は、別にあるということになる。
で、この状況でアリアが食いつきそうなことといえば……、
「お前、さては監視にかこつけて花火を見に行く気だな?」
「…………な、なんのことかしら? ふー。ふー」
いや、目がめっちゃ泳いでるから。自由形金メダル取れそうなレベルだから。あと吹けない口笛は結構恥ずかしいからやめたほうがいいぞ。ソースは中学時代の俺。
俺は一度嘆息して、
「……まあ、別にいいんじゃねぇの? お前だってずっと篭りっぱなしでストレス溜まってんだろうしな。護衛も欠かさねぇってんなら、それもありだろうよ」
いやまあ、実際のところはやっぱり良いことじゃないのかもしれねぇけど。それでも、こいつの息抜きになるんなら、俺は許容する。
なんせ、日々キンジと白雪のイチャラブ(俺ら視点)を見せ付けられて、日に日にアリアの機嫌が悪くなっているのだ。膨らみ続けるガス風船を爆発するまで放置するバカはいないように、俺もここらでアリアという風船のガス抜きをしたいと思ってたところだ。
それに。
なんせ、アリアは天下のSランク武偵。その実力は折り紙付きで、俺自身その力を目の当たりにしている。加えて、白雪には限定付きとはいえSランク級のキンジが付いてるし、なにより護衛される白雪自身がAランクの超偵だ。『魔剣』とやらがどれほどの実力を持っているかは知らねぇが、この3人を相手に勝利できるとは到底思えなかった。
なので俺は口ではいろいろ言いつつも、それほど心配はしておらず、だからこそアリアにああ言ったのだ。
はたしてその判断は正しかったようで、アリアは一瞬で顔中に喜色を表すと、
「そうよね! たまには息抜きだって必要だわ。うんうん、あんたもよくわかってるじゃない!」
ものすごい勢いで掌を返してきた。大層喜ばれているようでなによりである。俺の心の安寧的に。
これでキンジは白雪に外の世界を見せてやることができるし、白雪も引きこもりぎみの生活を少しでも変えられるし、アリアは花火を見に行くことができるしで、いいこと尽くめになるはずだった。
――しかし。
どうやら世界はそんなに甘くなかったらしい。
突如、空疎な室内に似合わぬ軽快なメロディーが流れた。電子音であるそれを、俺は何度か耳にしたことがある。たしか、アリアの携帯電話の着信音だったはずだ。
俺の記憶は間違ってなかったようで、アリアはスカートのポケットからごそごそと携帯を取り出し、
「――
液晶画面に映った発信元であろう人物の名を呟き、通話に入る。
「一体どうしたのよ、いきなり……え? 今日これからって、どうしてよ? ……ママの裁判について? ち、ちょっと待って、それってどうしても今日じゃないといけないの? ……そういうわけじゃないけど、でも…………わかった。それじゃあ、あんたの事務所に行けばいいのね? ……うん……うん……じゃあ、今から行くから。……ええ、また後で」
ピッ、とアリアは終話ボタンを押した。
……あー、まあ、なんだ。詳しい通話の内容はわかんねぇが、要点は掴めてる。
つまり、
「行けなくなった……んだろ? 花火大会に」
「……うん。ママの担当弁護士がさ、今日中に話しておきたいことがあるから来てくれって。だからあたしは、白雪たちの方にはいけそうにないわね」
明らかに気落ちした声で、アリアはそう言った。
しかしまあ……なんとも間の悪い話だ。さすがにこればかりはすっぽかすわけにもいかないだろう。
「じゃあ、どうする? 今からキンジたちに連絡してやめさせるか?」
「武偵的にはそっちが正解だけど……いいわ、そのまま行かせて」
「いいのか?」
「だって、かわいそうじゃない。多分、白雪は今日のことすごく楽しみにしてるはずよ。キンジとずっといちゃいちゃしてたのは正直ムカつくけど……その気持ちは、あたしだって少しわかるもの」
「……そっか」
俺は……正直、まだアリアのことを誤解してたのかもしれない。
普段は、凶暴というか攻撃的で溌剌な部分が目立つが、その実この女の子は、優しさをちゃんと秘めてる。自分が嫌われている相手のことを想えるってのは、すげぇことだよ、本当に。
「じゃあ……護衛は、俺があいつらについていけばいいのか」
「そういうことになるわね。……ああ、レキも一緒に行けそうなら頼んどいて。契約時間外だけど、その分報酬は上乗せするって言えば、来てくれるかもしれないから」
「わかった。じゃあ、そういうことでこっちは進めるよ。お前も、弁護士さんとの話、しっかり行って来いよ」
「ん……じゃあ、よろしくね」
そう告げたアリアは、荷物もそこそこにレキの部屋を後にした。
さて……俺の方も動くか。
俺は一人きりになった室内で、携帯電話を操作し、電話帳から『レキ』を呼び出す。スリーコールの後、返答があった。
『はい』
「レキか。有明だ、今いいか? それと、どこにいる?」
『
「そうか……悪ぃんだが、レキ。時間外だが、護衛任務の同行頼めるか? 白雪たちが葛西臨海公園まで、花火を見にでかけるそうなんだ。もちろん、
『それは構いませんが……そもそも白雪さんたちが出かけないようにすることは、できませんか?』
「何?」
思いもよらないレキの提案に、俺は問い返した。
いや、言っていること自体はもっともなことなんだが、レキが積極的に意見を出すのはめずらしい。疑問に思うのも、無理はねぇと思う。
レキは、そんな俺の疑問に答えるように言った。
『外出は、おすすめできません。ここ数日、風に邪なものが混じっている。危険が迫っている可能性があります』
風……か。
レキが、よく言っているやつだな。それが何を指しているのか(あるいは本当にただの風なのか)わかんねぇが、どうもレキはそれを信奉というかなんというか……とにかく、絶対視している節がある。
だからまあ、無駄に機嫌を損ねるよりは(まあ無いだろうが)レキの意見を尊重してやってもいいんだが……、
「……お前がなんらかの危惧を持ってんのはわかったけどな、俺はできればあいつらの外出を認めてやりてぇんだ。それに、Sランクが2人もついてるなら、そうそう『魔剣』も襲ってこねぇんじゃねぇかと思う。これは、アリアも同じ判断をしてる」
『……わかりました。
「悪ぃな、助かる」
俺はほっと一息つきながら、レキに礼を伝える。
なにせ、レキが来れなきゃキンジと俺しかつかないことになる。まあ、それでもSランク級のキンジがいるならなんとかなりそうなもんだが、あいつの強さは限定的だからな。念を入れておきたい。
「あいつら7時に待ち合わせしてるそうだから……そうだな、じゃあその5分前にモノレール駅で落ち合えるか?」
『はい。では、後ほど』
「ああ、よろしくな」
レキとの通話を終え、俺は外出の準備を整え始める。
といっても、たいしたことはない。せいぜいが、何かがあった時のために、武装の確認をするくらいだ。まあ、これも杞憂になることを祈ってるが。あとは、ハンカチとかかな。意外に思われるかもしれないが、俺はここらへんちゃんとしてたりする。
俺は時間までの数十分をスマホをいじることで潰し、それからレキとの待ち合わせ場所に向かった。
* * *
夜の浮島北駅――学園島のモノレール駅には、俺が想像していた閑散とした光景はなかった。制服、私服、浴衣、さまざまな服装をした学生たちの姿が散見でき、ゴールデンウィーク中にもかかわらず学園島に残っている生徒が多いことを教えてくれる。キンジたちみたいなことを考える連中は意外と多かったらしい。
俺はその光景を壁に寄りかかりながらぼうっと眺めていた。ちなみに、俺は上着だけ脱いだ制服姿だ。武偵高の制服は目立つからな。
しかし……いいなぁ、みんな。楽しそうに連れ立っている彼らを見ていると、俺はなんでこんなことしてるんだろうという気分になってくる。監視任務って聞こえはいいけど、実質ただのデバガメだからね?
特にきついのは浴衣の彼女をつれたカップルだ。いや、別に羨ましくないよ? しかし、いかがなものかと思うぜ、浴衣ってのは。剛気曰く、和服は世界一脱がせやすい衣服らしいからな。そんなもんを高校生が着てデートってのはいかんと思うんですよ。あと、男くたばれ。
などと俺が卑屈になりつつも実際浴衣を脱がすのはどれほど簡単なんだろうかとシミュレーションを始めた時――
「おまたせしました」
と、か細く、しかし芯を感じさせる凛とした声がかかった。
その声に聞き覚えがあった俺は、視線をそちらに向け、
「おう、レキか。わざわざすま――」
――ねぇな、と言おうとして。
直後、言葉を失った。そして、同時に思った。
いいじゃない、浴衣。がんがん広めようぜ、と。
――そこにいたのは、まさに美人としか形容しようのない女の子だった。
薄緑の生地に牡丹と百合の花が散りばめられた浴衣には、同じく薄い青の腰布が主張しすぎずいいアクセントになっている。純粋な日本人にはあり得ないライトブルーの美髪は、しかし純和風の浴衣に不思議なほどマッチしていた。足元を見ると、鮮やかな色合いの鼻緒が、雪のように白い小さな足を引き立てている。彼女のトレードマークとも言えるヘッドホンと、肩に引っさげたドラグノフ狙撃銃を収めているだろうバッグは異彩を放ってはいたが、しかしそれを抜きにしても文句なしの和服美人――そんな様相のレキが、静かに佇んでいた。
綺麗、だ。素直にそう思う。
普段……というか、初めて見るレキの洒落た姿に俺が放心していると、彼女は首をわずかに傾げ、
「錬さん? どうかしましたか?」
「え、あ……いや、なんでもねぇ」
慌てて返す俺。見とれてたとか言えるか。
少しドギマギしながら、俺はレキに尋ねる。
「その……どうしたんだ、その浴衣。お前、そういうの持ってたのか」
「いえ、これは
「へ、へぇ……」
気の抜けた返事をして、俺は視線を逸らす。今度、レキにその同級生が誰か聞いておこう。そして万雷の拍手と共に感謝しよう。
などと名も知らない恩人へと思いを馳せていると、レキが――俺の勘違いでなければ、若干、本当に若干表情を陰らせ、
「……ご迷惑、でしたか?」
「え、は? な、なんで?」
「護衛任務のための外出なのに、このようなそぐわない恰好をしてしまったので。迷惑でしたら、すぐに着替えて――」
「い、いやいい! そのままでいいから!」
その場で反転し、去っていこうとするレキを慌てて引き止める。
「そんなことしなくていいから、ほら行くぞ。キンジたちが来るのを改札で待ち伏せよう。7時にあいつん家で待ち合わせてるそうだから、そのうち来るだろ」
「ですが……」
「ああもう、いいから行くぞ!」
なおも渋るレキに焦れた俺は、彼女の手を引き、強引に歩き出す。
女子の手を握るとか最強に恥ずかしいが、ここで拘泥しててもしょうがない。キンジたちに見つかっても厄介だしな。
それに……だ。
本音を言えば、俺はレキにこのままの恰好でいてほしかった。もちろん、任務に臨む服装じゃないってのはわかってるが、しかしそれでも欲望が勝るくらいには、レキの浴衣姿は魅力的だった。これを無しにするってのは、ちょっと勿体ないってレベルじゃない。
くあ……っ、恥ずいこと考えてんなぁ、俺。
羞恥心に頬が染まるのを自覚しながら、俺は夜の駅構内を歩く。
――心なしか、繋いだレキの手が、じんわりと熱を帯びていたような気がした。
* * *
――実際のところ、レキには選択することができた。
有明錬には「気づいたら着替えさせられていました」などと言ったが、それを為した同級生の少女は思い込みの激しい部分があるとは言え、嫌がることまで強行するような人物ではない。本当にレキが拒否すれば、その要求は当然のように通っただろう。
ではなぜ、それをせずに浴衣姿のままで錬との待ち合わせ場所まで赴いたかと言えば、その答えはレキ自身判然としていなかった。
これは明確な
けれど。
同級生の少女に、狙撃科専門棟で着付けをしてもらっているとき、レキはこんなことを考えていた。
(私の浴衣姿を見て……錬さんは、どう思ってくれるでしょうか)
普段行っている、感情なき思考ではなく。
期待と不安がほんのかすかに入り混じった、感情ありきの思考で。
レキという完全にして不完全な少女は、そう思った。
――そして、時は流れ、レキは浮島北駅で待っていた錬と対面することになる。
……結論から言えば、結果は芳しくなかった。
錬は一度も、レキの艶姿を褒めることはなかった。どころか、終始せわしなく視線を逸らし、こちらを見ることすらほとんどなかった。
もちろん、それは錬が照れていたからにすぎないし、普通ならそんな態度で好印象であることがわかるだろうけれど、生憎とそういった経験値はゼロに等しいレキにとっては、悪印象に受け取られたと判断するしかなかった。
(……当然、ですね。任務中にこんな恰好をして、私は一体なにを……)
だからレキは、少女から武偵に戻ることに決めた。
くるりと踵を返し、駅構内にある売店へと足を向ける。幸いなことに、ここは学園島モノレール駅。外部での
そう考え、この場を一度後にしようとするレキだったが……しかし、錬に制止をかけられた。
「そんなことしなくていいから、ほら行くぞ。キンジたちが来るのを改札で待ち伏せよう。7時にあいつん家で待ち合わせてるそうだから、そのうち来るだろ」
「ですが……」
「ああもう、いいから行くぞ!」
強引に手を取られ、レキは錬に連れられてゆく。
右手が触れ合った瞬間に零れた「ぁ……」という小さな吐息に、きっと錬は気づいていないだろう。
二人、手を引かれながら歩く。
喧騒が遠い。潮騒のようにぼんやりと、レキの耳朶をくすぐる。
視界には、錬の背中。一般的な男子高校生より、いささか鍛えられたその広い背中が、つかず離れず前を行く。
ただ、それだけのこと。
だけど。
レキにとってただそれだけの事実が――彼女の体温を、ほんの少し上げた。
* * *
7時を10分ほど回ったころ、予想通りキンジと白雪(彼女もまた浴衣を着込んでいた)は改札へとやってきた。
それを物陰から確認した俺たちは、気づかれないように距離を開けつつ、彼らの後に続き、モノレールに乗り込んだ。
そのモノレールで台場へ向かい、ゆりかもめで有明(俺じゃないぞ)へ。そこからりんかい線で新木場、ラストは京葉線。ようやくのことで、葛西臨海公園まで辿りついた。
しかし……尾行しといてなんだが、全然気づかれねぇな。無論、
かろうじて背中が視認できるような彼我の距離を保ち、光源がぽつぽつと立ち並ぶ電灯しかない薄暗闇にまぎれ、護衛対象たちを追う。レキがいてよかったな。自称視力5.0(まあ本当だろうが)の狙撃姫がいれば、まず見失うことはないだろう。
夜の臨海公園は――
なんというか、普段とは少し違う雰囲気があった。俺自身、そんなに来たことがあるわけじゃないが、夜にってのは初めてだ。
遠くから、花火の音が聞こえてくる。キンジの読み通り、どうやらこの公園からでも花火を見れそうだ。
あたりに一番多いのは、やはりというかカップルだった。俺は経験ないが……こういった雰囲気が、彼らには好まれるのだろうか。
……ふと、隣を見てみる。
そこには、レキがいる。それも、他意はないだろうし自分の意思ですらないが、めかしこんだ姿で。
ひょっとしたら……俺たちも、周りから見ると――
「? どうかしましたか?」
「あ、いや、なんでもねぇ!」
視線に気付いてこちらに顔を向けたレキに、俺は慌てて誤魔化す。
なに考えてんだ、俺……。
邪な考えをかぶりを振って追い出しつつ、さらに尾行を続けること数分。
キンジたちは人工なぎさへと到達し……続く俺たちは、それをなぎさ後ろの林から見守ることにした。
ここからじゃキンジと白雪の会話は聞こえないが、表情を見る限り、悪い雰囲気じゃない。きっと、いい気分転換になったんだろうさ。どっちにとっても、な。
それに……まだ帰りがあるとはいえ、『魔剣』の襲撃もなかった。まあ、これだけ人気があれば、無理からぬことかもしれないが。
これなら……うん。
「なあ、レキ。せっかくだから、俺たちも少し、花火を楽しまねぇか?」
と、俺はレキに顔を向けつつ提案してみた。
『魔剣』が襲ってくる気配がないからとか、口に出したようにせっかくだからとか、まあ理由はあるが……なにより俺も、キンジじゃねぇがレキにもっと広い世界を知ってもらいたいと思った。
いつか話したかもしれねぇが――俺は去年、レキと何度かコンビを組んで任務を行っていたことがある。つまりはその分、こいつと過ごす時間はあったわけだが……なんというか、狭いんだ。こいつは。
見識、世界、認識、いろんなものが狭い。他者との関わりを、世界との交わりを、極端に薄くしている。
そんな彼女の在り方は、時々見てる方が不安にさえなるんだ。
だから俺は……こういう機会に、少しでも『外』に目を向けてやれたらと、そう思う。
そんな俺の考えなど露知らないだろうレキは、こちらを向き、
「花火を、楽しむ……花火ならば、白雪さんたちを見る都合上、視界に入っていますが」
「そういうこっちゃねぇよ。ちょっと白雪たちから視線を外してさ。ゆっくりと、花火だけ見ようぜってこった」
「ですが……そうすると、護衛任務に支障が出るのでは?」
「この距離だ。何かあったらすぐ動けるし、それにこれだけの衆人環視の中じゃ、『魔剣』もでてこれねぇよ」
俺はレキの懸念を打ち破るように、あえて断定の形で答える。
実際のところ、襲撃の可能性はゼロじゃないし、俺がすぐ動けたからなんだって話ではあるんだが。まあ、そこはキンジの腕とアリアのカンを信じよう。
俺の言葉にレキは数秒思案し、結論が出たのか小さくうなずいて、
「わかりました。あなたがそう言うのならば、私は従います」
と、答えた。
従うって、そんな上司相手みたいな態度は必要ねぇんだが……レキがそれでいいならいいか。
さて、そうと決まれば、
「じゃあ、座ろうぜ。歩きっぱなしで疲れたろ」
と、促し、視線を前に戻す。
さて、言った手前、俺も座って、たまにはゆっくり花火鑑賞とでもいくかな。……そのまえに汗でもぬぐっとくか。まだ5月とはいえ、今日は少し蒸し暑い。知らぬ間に額に汗が滲んでいた。
ポケットから、出がけに入れていたハンカチを取り出して――っと、いけね。取りこぼした。
取り出す段階で開かれつつあったハンカチは、落下しながら完全に広がっていく。それは、ひらひらっとわずかに滞空し、やがて着地した。
――レキの足元に。
「すいません。ありがとうございます」
一言断りを入れたレキが、俺のハンカチへと腰を下ろす。
……えーっと。
い、いや! まあいいんだけどね! そもそも借り物の浴衣で座れとか言った俺が、配慮が足りなかったねっ!
若干もやっとした感情を抱えつつ、俺も隣に腰を下ろす。
そして眼前の景色に意識を向けると――もう、ハンカチのこととか、どうでもよくなった。
彼方、ウォルトランドの上空で、色とりどりの大輪が夜空を染め上げる。間断なく打ちあがる火の花は、まるで夜を吹き飛ばそうとするかのように、鮮やかに光を放っていた。
破裂音は遠い。海を挟んだ先で上がっているからだろう。花火自体の派手さとは違い、その音は不釣り合いにぼやけている。
しかし――こういうのも、悪くはなかった。
普段目に、そして耳にするような間近の花火じゃない。しかしそれゆえに、どこか幻想的な物として、幾数発の花火があった。
気づけば。
俺は、あるいはレキよりもこの光景に感じ入り……知らぬ間に、口ずさんでいた。
「『夜空に咲く火の花よ、どうか僕らを照らしておくれ』――」
過去の記憶に閉じ込められていたメロディーが、脳裏から奔流となって流れ出す。
ひょっとしたら……あの人も、こんな景色を見たことがあったのだろうか。
そんな感傷に浸っていると、
「その歌は……
「ん? ……ああ、そうか、レキも知ってたんだっけな」
「はい。去年の
「そっか。花火を見てるとさ、自然に思い出したんだよ」
ぼんやりと返事をして、俺はまた黙る。
そのまま二人、無言のまま、打ちあがる花火を見続けていた。
数十秒か、あるいは数分か……時間の感覚が曖昧になり始めたころ、レキがぽつりと呟いた。
「――好き、なのですか?」
「え……?」
主語抜きの急な問いかけに、俺はわずか呆ける。
しかし、すぐに思い当った。たぶん、花火のことだろう。話の流れ的にアイナさんのことかとも思ったが、こいつがそういう色恋関連のことを訊くとは思えねぇしな。
だから俺は、素直に答えた。
「――ああ、好きだよ。……なんかさ、あの暗闇を吹き飛ばすような明るさが、すげぇ好みなんだよな」
なぜだろうか。やっぱ、あれかな。俺の行く先って基本いつもお先真っ暗だったから、そういうのに憧れんのかな。
俺の回答にレキは「そうですか」と答えて、それきりまた口をつぐんだ。
なんとなく、俺も黙ったままで花火を見ていると――突然少し強い潮風が吹き付け、直後、レキが小さく呻いた。
俺は慌ててレキを心配し始める。
「おい、どうした? 大丈夫か?」
「大丈夫です、少し目に砂が入ったようで……」
「砂……」
俺がなぎさの方へ目を向けると、親子連れの小さな子供が、砂を蹴りあげて遊んでいた。なるほど、あれが風に乗って飛んできたのか。
……って、レキのやつ、指で少し目元をこすっている。
俺はとっさにレキの腕をつかみ、それを止めさせた。こういう時はこすらず、洗い流さないと悪いんだ。
ついでに、顔を寄せ、レキの瞳を覗き込む。
猫のような金の両目は……よかった、充血はしてない。
「どっかで洗い流してこい。いいか、こするなよ。護衛は、俺がやっとくから」
「……すいません、では少しだけ外します」
そう言ったレキは立ち上がり、早足でこの場を後にする。
それを見送った俺は、ふと気づいた。
そういやすっかり花火に夢中になってたけど……白雪たちはどうなったんだ?
や、やべぇ。割とマジで忘れてた。
腰を上げ、慌てて白雪たちが立っていた方向を探すも、彼女らの姿はない。ま、まさかもう帰った……?
や、やべぇえええええ! こんなのアリアにバレたらぶっ殺される!? 風穴カーニバルされちゃう!?
どうしよう、どうしようと混乱した俺は意味もなく左右に首をめぐらせ、
近くの木陰からこちらをのぞき見る星伽白雪と目が合った。
……んー。
あれ? なんで白雪がここに?
意味不明の状況に思考回路はショート寸前。別に今すぐ白雪に会いたかったわけじゃないし、泣きたくなるような
などと考えていると、
「み、見てないよっ!?」
「(びくっ)!?」
急に大声を出し、高速でぶんぶん手を振る白雪。び、びびった。
ていうか、え? 何の話?
「白雪お前、何言って――」
「み、見てないもんっ! 錬君とレキさんが、で、ででデートしてたところなんてっ。あ、あまつさえ……きゃーっ!」
「はぁ!?」
ちょっ、ホントに何言ってんだお前!?
とはいえ、なにが起こっているかは大体わかった。なぜ白雪がここにいるかはわかんねぇが、こいつ俺とレキがここにいるのをデートだと勘違いしてやがる。
そりゃまあ、こいつには今日の護衛任務は伝えてなかったからわからないのも無理ねぇが……これは、由々しき事態だぞ。
なぜならこのままでは――伝わってしまう。この誤った情報が、白雪の親友であり、俺の悪友兼元相棒であり、校内トップクラスの厄介な人物……鈴木時雨に!
駄目だ。それだけは駄目だ。以前、中等部でも似たようなことがあって時雨にあることないこと吹聴された結果、俺はクラスのアイドルを弄んだクソ野郎として追い掛け回される羽目になった。まあ、誤解は解けたが。
ぬおおおお! その二の舞になんてさせるかよ!
俺は即座に行動を決め、強襲科仕込みの縮地交じりの接近歩法で白雪に詰め寄る。
そして、がっちりと両手で肩を
「し、白雪! このことはあのおしゃべりには言うな! いいな?!」
「え? え?」
「い・い・な?!」
「う、うんっ! 言わないよっ?! 言いませんっ!」
「よし! 行っていいぞ! 回れ右して、GO!」
「はいっ」
俺が手を放した瞬間、白雪はくるりと踵を返し、お前本当に浴衣なの? と言いたくなる速度で去って行った。
辺りに、静寂が戻る。
と同時に、俺の緊張も解けた。
「はぁああ……厄介なことになっちまったなぁ」
変な疲れを感じながら、俺はため息をつく。
面倒なことにならなきゃいいんだが、な。
――その後戻ってきたレキと共に、俺は場所を変えてキンジたちの護衛を続行した。
結局、アリアのカン通り、その日『魔剣』が襲ってくることはなかった。
けれど。
俺たちが気づいていなかっただけで。
『魔剣』の脅威は、すぐそこまで迫っていた――
* * *
遠くで咲き乱れる火の花の繚乱に、やはりレキはこれといった感慨を持つことはなかった。
映像としては処理している。花火とはどういうものかという知識も有している。その知識が、今こうして経験に結び付いたことも理解している。
けれど、そこで止まる。『花火が綺麗』ではなく『花火が上がっている』としか認識できない。
ただし。
それは『花火』というファクターのみを切り取った場合の話だ。
ちらりと、小さく隣をうかがう。
適当に切りそろえられた黒髪が夜風に揺れ、普段から厳しい目つきは、いつもより和らいでいるように見える。
そんな有明錬が、すぐそばにいる。
その事実を考えると、なぜか花火が少しだけ輝いて見えた。
レキは今、護衛任務の最中である。が、同時にこうして錬と並んで座りながら、花火を眺めている。
今日の錬は少しいつもと違う、とレキは考察している。任務中にこうして任務外の行動に誘ってきたこともそうだし、レキのために座敷がわりにハンカチを貸すという紳士的な行動もそうだ。平素の錬とは、なにやら差異がある気がする。
しかし、
(それは私も同じですね……)
違うと言えば、今夜のレキ自身もまたいつも通りとは言えなかった。
先の待ち合わせのときもそうだったが、今もこうして任務よりも錬の提案に賛同している。
いったいなぜ?
そんな自問が湧き上がるが、しかし自答はできなかった。
そんな中、やおら錬が口ずさみ始めた。
「『夜空に咲く火の花よ、どうか僕らを照らしておくれ』――」
それは歌だった。
一小節しかなかったけれど、メロディーを持ったそれは、確かに歌だ。そして、レキはその歌を知っていた。
――
今からおよそ1年前、E&S社が運営する豪華客船アフロディーテ号で行われた仮面舞踏会。
その事件の解決に奔走したのが、当時コンビで任務を受けていた錬とレキ――通称『ミュージアル』であり。
その事件で鍵を握っていた人物『御剣アイナ』が歌っていたのが、先ほど錬が口ずさんだフレーズだったのだ。
確認のために錬に尋ねるとやはりその通りだったらしく、彼は肯定し、
「花火を見てるとさ、自然に思い出したんだよ」
と、遠い目をして言った。
哀しそうな声で、そう言った。
――その時。
ふいにレキは、思考というプロセスを一切通さずに、意識せず口を開いていた。
「――好き、なのですか?」
「え……?」
錬が驚いたようにこちらに振り返った時、ようやくレキは自分が何を聞いたのか気づいた。
気づいて、そして困惑した。
御剣アイナのことが好きなのか、などと……どうして自分は聞いているのだろう?
最近多くなってきた自問に答えが出るより、錬の言葉の方が早かった。
「――ああ、好きだよ。……なんかさ、あの暗闇を吹き飛ばすような明るさが、すげぇ好みなんだよな」
――瞬間。
ちくり、と。いつか感じたような小さな痛みが、胸の奥の奥を刺した。
けれどもその痛みはすぐに消える。波が引いていくように、さあっと薄らいでゆく。
痛みが完全に消えたころ、そこにはレキはいなかった。
長らく息をひそめていた『ウルスの
『ウルスの蕾姫』は、前を向く。
そして、真に感情無き声で呟く。
「そうですか」、と。
――火の花はもう、輝いてはいなかった。
* * *
星伽白雪は、ついに来るべき時が来たのだと思った。
5月5日。場所は、葛西臨海公園人工なぎさ。
打ち付ける波の音と、風情ある花火の音が入り混じる砂浜で、白雪は携帯電話のディスプレイをじっと見つめている。
撫子の花雪輪をあしらった清楚な白い浴衣。夜闇の中であっても艶やかに照る黒の長髪。これ以上はないほど浴衣がマッチした日本美人である白雪の姿は、人目を十二分に集めるほどに艶美にして美麗だったが、その表情には険が表れていた。
原因は、手元の携帯電話に着信した、1通のメールだった。
題名は無題。
差出人は――『魔剣』。
「やっぱり……私は、狙われてたんだね……」
困ったように、白雪は呟く。
そんな予感は、あった。
それが今、こうして顕在化しただけのことにすぎない。
「キンちゃん……」
不安そうな声音で小さくキンジの名を零し、彼に羽織らせてもらった上着を握りしめる。
今この場に、キンジはいない。気分転換にとここに連れてきてくれたのはキンジだが、数分前に「トイレを探してくる」と言って、少しの間外している。
頼りになる幼馴染がそばにいないことに胸を締め付けられつつも、これは自分の問題だと思い直し、白雪はメールの開封を決意する。
「どこかに、移動しないと」
この場にとどまってメールを読むのはまずい。重要なメールだ。きっと、意識はそこに集中するだろう。万が一戻ってきたキンジに気付けなければ、読まれてしまう可能性がある。そうなれば、内容如何によっては、キンジが危険を冒すことになるかもしれない。
それは、駄目だ。そればかりは、許容できない。
だから白雪は人工なぎさを離れた。次いで、どこに行くのがいいかと考え……人工なぎさ後ろの林に目をつけた。
(あそこなら、大丈夫だよね)
見るからに、人気がなさそうだ。あそこなら、キンジが来ることもないだろう。
一歩一歩、白雪は林へと向かっていく。視線は下がり気味で、視界には足元が映る。気も、重い。当然だ、なにせこれから読もうとしているのは、かの連続超偵誘拐魔『魔剣』からのメッセージなのだから。
本音を言えば、読みたくなどない。けれど、読まなくてはならない。読まずにいたせいで、白雪の周りにいる大切な人たちに危害が及ぶようなことは、あってはならない。
白雪は覚悟を決める。
このメールに書かれていることがどんな内容であれ、決して彼らは傷つけさせないと。
足取りに力が戻る。林の中へ分け入る。
そして白雪は決然と顔を上げ、
「好きだよ」、と。
レキに告白している有明錬を目撃した。
ずざざざあっっ! と、瞬間的に白雪は近くの木の陰に隠れた。
そして、一気に混乱の
(ええ……ええっ!? ななな、なに!? どういうことなの!? だって、錬君はアリアに……ええ?!)
率直に言って、意味がわからなかった。
それは、なぜ錬たちがここにいるのかではなく……単純に、錬がレキに告白していることそのものが、だ。
なぜなら、白雪は知っているのだ。
神崎・H・アリアが、数日前に錬からプロポーズを受けていたことを。
情報源は、他ならぬアリアだ。実を言うと、アリアと白雪は、アリアがキンジの部屋を去った後に、話し合いの場を設けていたことがある。
それは、アリアの苦渋の決断だった。錬からのプロポーズをどうすればいいのか誰かに相談したかったアリアだが、なにせ彼女は
そういった経緯で白雪は、錬のプロポーズ騒動を知っていた。
ちなみに、相談の結果「現状維持」になったことを、蛇足として述べておく。蛇足の蛇足として
と、いうわけで。
以上のことから考えると……、
(ふ……二股!? 二股なの、錬君?!)
と、いうことになる。
あわわわ、と頬に両手をあてながら、白雪はどうしよう、どうしようと意味もなく首を振る。
そして、唐突に思い至った。
いやいや待て待て、星伽白雪。まだ、二股――というか、告白だと決まったわけではない。もしかしたら、自分の勘違いかもしれない。えーと、ほら……花火のことが好きとか、きっとそういうことだ。そうに違いない!
ふうっと、白雪は息を吐く。まったく、何が告白だ馬鹿馬鹿しい。今たった一場面を見ただけで友人を疑うなど、大和撫子としてあるまじき行為だ。品性が疑われる。
というか、そんな場合ではないのだ、こっちは。白雪には今、重要な用事がある。
とりあえず、場所を変えよう。錬たちがどういう事情でここにいるのかは知らないが、彼らにメールを見られても、問題度は同じである。
そう決めた白雪はひそやかにここから立ち去ろうと、忍び足で歩き出す。が、その一歩目で好奇心に負け、ちらりともう一度だけ錬たちに目を向けると、
錬が、レキに思いっきり顔を近づけていた。
(きっ、きしゅっ、キスしてるぅ―――――――――ッ!?)
どしゅうっっ! と、光の速さで白雪は木の陰へ舞い戻った。
ぜはーっ、ぜはーっ、と興奮から荒い息が漏れる。大きく深呼吸し、白雪は先ほどの考えを修正する。
はい、アウト。これ、もうダメ。完全に二股確定です。
友人の思わぬ本性と現場を見てしまった白雪は、愕然としながら息を整える。
もう、無理だった。あそこまでいってしまっては、もう弁護はできない。
まず、認めよう。有明錬は、アリアとレキに対して二股をかけている。そして今、その片割れと逢瀬を果たしている。
となれば、これから白雪がすることは当然、
(こ、これはもう――見るしかないよね! 後学! 後学のために!)
ということらしかった。空気を読んで立ち去る? なにそれおいしいの?
白雪的超思考が今回も斜め方向に全力疾走したことで、白雪は覗きを敢行することに決めたらしい。
……のだが。
(あ、あれ? レキさん、いなくなってる……?)
再度木陰から顔を出すと、そこにレキはおらず、錬しか居なかった。
なにやら残念な気持ちが湧き上がってくる中、件の錬はやおら立ち上がり、慌ただしく周囲を見渡し始め――白雪とバチッと目があった。
あ、やばいと思ったのは一瞬だった。
けれど口は思考より一歩先を行っていた。
「み、見てないよっ!?」
首振りと手振り付きで、白雪は豪快に嘘をついた。
大事なシーンは余すところなく見ているわけだが、それを錬に素直に言うわけにはいかない。
しかしこんな嘘、だまされるわけがないだろう。現に、錬もなにか言おうとしている。
白雪はそれに被せるように、
「み、見てないもんっ! 錬君とレキさんが、で、ででデートしてたところなんてっ。あ、あまつさえ……キスなんて……きゃーっ!」
「はぁ!?」
キス、の部分は恥ずかしさから小声になりつつ、白雪は嘘を継続。
が、世の中そんなに甘くない。普段嘘をつきなれていない白雪のそれはあっさり看破され、距離を詰めた錬に肩を掴まれる。
そして、ひどく慌てた様子で彼は言う。
「し、白雪! このことはあのおしゃべりには言うな! いいな?!」
「え? え?」
錬の懇願に、白雪は一瞬誰のことかわからなかったが、すぐに察する。
きっと、アリアのことだ。錬は、アリアがプロポーズの件を話したことを知っているのだ。だから、ここで口封じする腹なのだろう。
(ど、どうしよう。これ、黙っておいた方がいいのかな……?)
白雪は悩む。確かにアリアのことは気にいらないが、それとこれとは別の話の気がする。なにより、女子的にここは見逃してはいけないのでは……?
とも思ったのだが、
「い・い・な?!」
「う、うんっ! 言わないよっ?! 言いませんっ!」
錬の剣幕に押され、つい頷いてしまった。
「よし! 行っていいぞ! 回れ右して、GO!」
「はいっ」
白雪の返事に満足したのだろう。錬は白雪を解放した。
白雪は白雪で錬の指示に従い、無意識に
人工なぎさまで戻ると、そこにはすでにキンジが帰ってきていた。
いないと思ったら猛ダッシュでやってきた白雪に面くらいつつ、キンジは白雪に訊ねる。
「し、白雪? どうしたんだよ、そんな走って――」
「う、ううん! なんでもない! なんでもないのっ」
「そ、そうか……?」
困ったように髪をかきながら納得するキンジを前に、白雪は自戒する。
(ううっ……
あんな錬は久しく見てなかった、と白雪はのちに述懐する。
結局。
この後も、どこか硬い態度の白雪にキンジが首をひねりつつ、花火鑑賞は終わりを告げた。
ちなみに。
数時間後、キンジの部屋で「あ、メール忘れてた」と軽い調子で、『魔剣』からの脅迫状は開封されることになった。
さらに後日、白雪からその話を聞いた『魔剣』ことジャンヌ・ダルク30世は肩を落とすことになるのだが……それはまだ先の話である。
* * *
ある者は全力を尽くし、覇道を進む。
ある者は知力を尽くし、外道を這う。
ある者は栄光の座を欲し、ある者は策略の成就を願う。
表の勝者、裏の勝者。
2つの勝者が、1つの舞台で決まる。
互いに、反対側を知らぬままに。
栄冠と策謀のアドシアード――開幕。
読了、ありがとうございました。