いまどきめずらしい大きな丸眼鏡と、お下げにした三つ編みが特徴の東京武偵高・1年生である。
武偵高に3名しかいない、獣医のスキルを持った
しかしその心胆の強さが発揮されるのは対動物の場合のみで、普段のつぐみはむしろ気弱な性分だ。
だから、つぐみにとって今の状況は歓迎できるものではなかった。
「うう……お化けとか、でないよね……?」
自らを鼓舞するためか、意図せず独り言が口から漏れる。
あたりに人影はない。学園島は、武偵高生の島。この時間になると、すっかり人通りは減り、日中の騒々しさはなりを潜める。
夜風に吹かれてざわざわと妖しく葉を鳴らせる街路樹に、つぐみは体を震わせた。
つぐみは、夜が嫌いだ。人間の根源的な恐怖の対象である暗闇に、彼女もまた恐怖心を抱いていた。
そんな彼女が一人きりで夜道を歩いているのは、
そして治療が終了したのが、つい先ほどの話だ。だから彼女は今、こうして女子寮へと向けて歩いていたわけである。
「――あれ?」
ふと、つぐみは足を止めて呟いた。
その原因は、前方に人影を認めたからだ。後姿から察するに、武偵高の男子らしい。街灯に照らされて、後ろで一くくりにされた黒髪が見えた。
こんな時間にめずらしいな、とつぐみは思ったが、それを言ったら自分もそうかと思い直す。つぐみ自身がそうであるように、なにも一切が自宅に帰っているわけではない。居残り訓練や部活など、理由はいくらでもある。
だから、つぐみはその時点では人影について気に留めることはなかった。
だが、次の瞬間、
「あっ」
前を歩く男子生徒がポケットから何かを落としたことで、つぐみは小さく声を上げた。
男子生徒は、落し物に気づいていない。そのまま歩き続けている。
(どうしよう……って、ううん。拾わなきゃダメだよね)
つぐみはわずか逡巡して、そう決めた。気弱さからくる人見知りゆえに、見ず知らずの人間――それも男子だ――に話しかけるにはそれなりに勇気がいったが、それでもこの場面で素通りできないほどにはつぐみの心根は優しかった。
(急がなきゃ……っ)
つぐみが迷っていた間にも、男子生徒は足を進めている。このままだと返せなくなるので、つぐみは小走りで落し物の下まで駆け寄った。
落し物までたどり着くと、つぐみはすぐにしゃがんで、落し物を手に取る。が、小走りになったせいで眼鏡がずれたのと、そこが街灯と街灯の間だったことで、つぐみはそれがなんなのかよくわからなかった。なんとなく、ゴムのような、弾力性のあるものだとはわかったが。
とにかくそれがなんであれ、つぐみはこれを持ち主に返すのみだ。
もうひとふんばり、つぐみはちょうど街灯の下にいる落とし主までダッシュして、
「あ、あの! これ、落としましたよ?」
そう言って、右手に持った
つぐみの声に反応して、男子生徒がゆっくりと振り返る。
そこでふいにつぐみは、なんだか少女マンガみたいなシチュエーションだな、とぼんやり思った。
落し物を拾って渡した相手が異性。普通は男の方が拾う側なのだろうが、それはともかく、つぐみは少し心臓が高鳴るのを自覚した。
(これがもとでロマンスが始まったりなんかしちゃったりして……きゃーっ!)
わずか頬を紅潮させるつぐみの眼前で、ついにその男子生徒の容貌が露になった。
適度に切りそろえられた黒髪。小柄な自分より頭2つほど大きな身長。鋭い、切れ長の瞳(本来人に怯えられるほど目つきが悪いだけなのだが、つぐみの乙女フィルターが修正した)。格好いいと評すことの出来る(乙女フィルター以下略)面貌が、そこにはあった。
想像が現実になるのではー! とテンション上がったつぐみは、そこで素敵な出会いをくれた
そこにあったのは、人間の手首だった。
瞬間。
宗宮つぐみは処理落ちした。
「………………?」
一瞬、それがなんなのかわからなかった。
逆に言えば、一瞬が過ぎてなんなのかわかった。
そして、至極当然の帰結として、
「――――――――――ッッッッッ!?」
つぐみは、人の可聴域を超えた絶叫を迸らせ、くるりと反転して逃げ出していった。
くるくると、つぐみが投げ出した手首が夜空を舞った。
以後、つぐみが夜に落し物を拾うことは、生涯なかったらしい。
なお。
これから1ヶ月ほどの間、『怪人・平成の切り裂きジャック』の噂が学園島を席巻することになるのだが、それはまた別のお話である。
ジャンヌ・ダルク30世は逃げていた。
恐怖から。脅威から。追い立てられるように逃げていた。
その原因は、つい数分前の出来事にある。『
ただ一人を除いては。
4人のうちの1人である有明錬。彼は、信じられない一手を、ジャンヌに一切気づかせることなく密かに打っていたのだ。
『
今回ジャンヌが行っていたのは、まさにそれだ。自分を監視しているつもりになっているキンジたちの裏をかき、ジャンヌこそがキンジたちを監視していた。
だが、それは間違いだった。4人の裏をかいたジャンヌ――そのさらに裏を、錬はかいていたのである。
つまり。
有明錬こそが、実はジャンヌを監視していたのだ。
『
だからジャンヌは今、根城にしていた第1女子寮から逃走しているのだ。居場所がバレていた以上、もうその場には留まれない。どこか、潜伏場所を変える必要があった。
世闇にまぎれて、ジャンヌは走る。息が荒い。髪が乱れる。策士の一族にあるまじきなりふり構わない己の姿に、ジャンヌは歯ぎしりする。
走って、走って、走って……第1女子寮からかなり距離を取ったその時、唐突にジャンヌの足がピタリと止まった。
「…………待て」
ジャンヌは、小さく呟く。
なにか、ひっかかる。十数分前の、あの忌々しい屈辱の中に、どこか違和感があった。
それは、なんだ?
ジャンヌは、一つ一つ記憶の中に残された問題点を挙げていく。
監視がバレていたこと――違う。
居場所がバレていたこと――違う。
有明錬に、逆に監視をされていたこと――ここだ。
ジャンヌの意識に、この点がひっかかる。だが、具体的にこの部分の何を問題に感じているのだ? と、ジャンヌは自問自答する。
「私のことを監視されていたこと自体は、大きな問題ではないはずだ。いや、もちろん問題ではあるのだが、それよりも居場所がバレたことの方が重要のはずだ。なにせ、あの部屋で私が行っていたことは、大して無いぞ。白雪たちを監視したり、普通に生活していたり、あとはせいぜいファッションショーをおこなった、り……」
羅列の途中で、ジャンヌの言葉は尻すぼみになっていった。
そして、数秒の沈黙が流れ――変化が、起きた。
最初に、ジャンヌの顔はさぁ……っ、と真っ青になった。
次に、反対にジャンヌの顔がかぁ……っ、と真っ赤になった。
はたから見たら相当に面白い変化であったが、幸いというべきか、しかしその場には他に誰もいなかった。
だから。
策謀の一族、ジャンヌ・ダルク30世のこんな叫び声を聞いた者も、誰一人いなかった。
「殺すっ! いや、死なせてくれっ! あれは、あれは、私じゃないんだ――――っ!!」
「ねえ、
「……失礼を承知で言うぞ。母親の状況に、ついに頭がおかしくなったか?」
新宿警察署の留置人面会室。そこから少し離れた廊下で、連城黒江(くろえ)弁護士は、こめかみを抑えながら答えた。
目の前にいる少女は、神崎・H・アリア。現在自分が弁護をしている神崎かなえの娘である。
連城は今日、たまたまかなえに話があって新宿警察署を訪れていたのだが、そこで偶然アリアと出会った。アリアは、隣に連れていた少年に先にロビーへ向かうように言って、連城をここまで連れ出した。
連城はてっきり、かなえの裁判絡みでなにか話があるのだと思ったのだが……開口一番の台詞が、さきほどのお兄ちゃん云々である。ストレスで脳をやられたのかと疑うのも無理はなかった。
「ホントに失礼ね、そんなわけないでしょ。まあけど……あたしも、ちょっと言葉が足りなかったわ。正確には、お兄ちゃんみたいに思ってる人からプロポーズされたんだけどどうしよう? って意味よ」
「なにそれラノベのタイトル? あと、さっきとまるっきり台詞が違ってるぞ。言葉が足りないとかいうレベルじゃない」
「らのべ……?」
「そこに反応しなくていい。……それで? 私にはどうも、お前が言っている意味がよくわからないんだ。順を追って説明してくれ」
そして連城が聞き出した事情によれば、こういうことらしい。
昨日ちょっとしたいざこざがあって、その際にアリアはある少年のことを兄のように思ったそうだ。
プロポーズのくだりで顔を赤くしつつ、けれど嬉しさを垣間見させるアリアを半眼で見つつ、連城は内心で大きく首を捻った。
(本当にアリアにプロポーズしたのか? その少年は。まあたしかにこの子は飛び抜けて可愛いが、その分性格がなあ……。ドMなんだろうか?)
相当に酷いことを考えながら、プロポーズとやらを疑問視する連城。ちなみに、この酷評は連城が独身であることは関係ない。全くない。
それはともかくとして、ようやく事情は把握できた。朧げに、だが。
「それで? お前はその『プロポーズ君』に対してどうしたいんだ? イギリスでは男女共に16歳で結婚できるのだろう。学生結婚か」
「ばっ、バカ! ママのことだってあるのに、そんなことできるわけないでしょ!」
(こいつ、普通に
額に青筋を立てる連城。
だが、彼女は大人の女である。いちいち子供の言うことに腹を立てるほど、脆弱な精神はしていないのだ!
「あたしは、独り身のあんたほどがつがつしてないのよ!」
「このクソガキ! 照れ隠しだとしてもそれは許さんぞッ!」
……しないのだ。
* * *
「で……結局、お前は私にどうして欲しいんだ?」
「それは……ごめん、正直あたしもよくわからないの。偶然あんたに会ったから咄嗟に連れてきちゃったけど……あたし自身、まだ混乱してて……。昨日お兄ちゃんみたいって思ったのに、今日いきなりプロポーズされたって、どうすればいいかわからないのよ……」
「あー……」
柳眉を歪めるアリアに、連城は納得したように唸る。
(恋愛によくある『ギャップ』というやつか。友人と思っていた者から告白されて、友情と愛情の差に戸惑うという例のやつだろう。さすがにこんなケースは滅多にないだろうが……さて)
連城はどうしたもんかと、困ったように目を閉じる。
彼女自身、恋愛経験は豊富ではない。しかも、こんな状況、周りにもいなかった。アドバイスを求められていることはわかるが、とはいえ明確な答えは返せそうにない。
なので、
「……とりあえず、友達にでも相談してみればいいんじゃないか?」
「え……?」
「正直に言うが、私にはお前が悩んでいることに答えを出せそうにない。それに、お前たちのように若い気持ちは、もう忘れてしまったよ。そんなに前の話ではないのにな……」
「連城……」
遠い目をして語る連城に、アリアはなんと言えばいいのかわからなくなる。
そんなアリアの様子に気づいた連城は困ったように笑い、
「すまない、どうでもいいことを言ってしまったな。私にはお前の力になってやれないが……一つだけ、助言はしておこう」
――その瞬間の連城の顔を、アリアはきっと忘れない。
まるで、敬愛する母であるかなえのような……
連城は、凛とした声で言った。
「つまらない恋はするな、アリア。お前が兄だと思ったなら、それでいい。告白されたから好きになるなんてことは、やめておけ。愛無き恋は、つまらんぞ」
「愛無き恋……」
「そうだ。どうせなら、どっぷり惚れてから好きになれ。好きになってから惚れるより、そっちの方がずっと恋愛は楽しめるぞ」
そう言って、連城は少し茶目っ気のあるウインクを飛ばした。
アリアはもう一度小さく、「つまらない恋はするな……」と、呟いた。
そして、
「うん……わかったわ、連城。あたし、もっとよく考えてみるっ。――ありがとう! じゃあね!」
言うだけ言って走り去っていくアリアの背中を見ながら、連城は「忙しない子だな」と苦笑する。
自分のアドバイスで、アリアの何かを解消してやれたなら、少なくとも今日ここで出会った偶然にも意味はあったのだろう。
大人として完成されたとは未だ言えないが、そんな自分でも子供に何かを示すことはできた。
その事実にほんの少し誇らしげな気持ちになりながら、連城は神崎かなえとの面会に向かう。
願わくば。
アリアの未来に、彼女の笑顔がありますように。
* * *
……ちなみに。
遠い未来で連城は、6股の疑いをかけられた某『プロポーズ君』の弁護を担当することになるのだが……それはまだまだ先のお話である。