偽物の名武偵   作:コジローⅡ

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時系列が戻って、ここから本当の意味で3章が始まります。
いまさらですが、活動報告に原作技一覧を作成したので、よろしければご参考ください。


26.世界を揺らす最初の一波

 ――俺が()()して、どのくらいの時間が経ったのだろう。

 失われつつある時間感覚の中で、俺はふとそう思った。

 1時間にも1日にも感じる、引き伸ばされた曖昧な時間。それに憔悴している俺の顔を、緑やらオレンジやらの計器の光が照らしだしている。

 体は、あまり動かせない。スペース的には、おそらく3人は入れるだろうが、凝り固まった体が、行動を拒絶する。

 ……状況を、整理してみよう。

 5月7日。その日は、東京武偵高を舞台に、国際武偵競技会『アドシアード』の開催初日だった。しかし突如、誰も予想しえなかった『学園島内での生徒失踪』という前代未聞の事態が起こる。その犯人である『イ・ウー』とかいう犯罪組織のメンバー、ジャンヌ・ダルク30世の目的は、星伽白雪の誘拐。一度は成功しかけたこの計画だったが、後に俺を含めた武偵高の生徒数名による対処により瓦解。事件は終着を見た。

 が、俺はジャンヌ逮捕後、彼女と2人になり、峰理子の居場所を問い詰めた。結果として『イ・ウー』本拠地である原子力潜水艦『ボストーク号』へ向かうための手段――小型潜水艇の隠し場所を教えてもらった。俺はこいつを利用して、少数精鋭による理子救出作戦を計画したんだが、これが、まあ、その……ちょっとしたハプニングがあって、単騎で『ボストーク号』へと潜航する羽目になってしまった。

 というのが、現状である。

 ……いや、こんなこと思い出してる場合じゃねぇんだ。本当は。

 なぜなら、俺が今向かって()()()()()()のは、『イ・ウー』とかいう犯罪組織の本拠地。そのメンバーを俺は2人ほど知っているが、どちらも戦闘力と言う面なら、Sランク武偵に匹敵していた。つまり俺が逆立ちしても勝てねぇ相手なわけだが……そんな連中や、ジャンヌの口ぶりからしてそれ以上の奴らがうようよいるってわけだ。そんな場所へ特攻をしかけているという現状は、もう片足を棺桶に突っ込んでいることに等しい。今まではなんとか生き残ってこれたが……これはもう、さすがに無理かもしれねぇ。

 小型潜水艇を操作して引き返すことはできない。この船は現在、全自動潜航機構(フルオート・コントロールシステム)なるものに従い、ボストーク号へ向けて自動操縦中だ。つまり俺が動かしてるわけじゃないので、進路を変更することもできない。クソ、こんなことなら車輌科(ロジ)の自由履修で習っとくんだった。

 

「かといって、応援も呼べねぇしな……」

 

 俺は制服のポケットに入れていた携帯電話を取り出し、液晶画面に目を向ける。

 しかしそこには、黒い画面のみが映るだけだった。どうやら、ジャンヌの事件の際に海水まみれになったことでぶっ壊れたらしい。4月にもぶっ壊れたってのに……また買い替えなきゃいけねぇのかよ。

 

「まあ……それも生きて帰れたらの話だけどな」

 

 不安が、口をついてこぼれ出す。

 ……やべぇな。状況の難解さに、心が弱気になっている。

 細く長く息を吐き出し、自分を落ち着かせる。こんなところで時雨に習ったリラックス方法が活きてくるとは思わなかった。

 そして、緊張が解けたならば。

 次に頭に浮かんでくるのは、ポジティブな考えだった。

 ――理子を、助け出そう。

 行動の起点となった感情が、再び心の中に湧き上がる。もちろん忘れていたわけじゃなかったが、しかしそれよりも恐怖の方が大きかったことは否めない。

 だが、どのみちもう賽は投げられたんだ。ボストーク号から脱出するにしても、俺じゃこの潜水艇は動かせない。そこで、理子の協力は必要だ。もちろん、俺が生き延びて、なおかつあいつを助けることができ……理子本人が、それを望んでいた場合は、だが。

 ……あ、でも、なんというかその、戦闘はなるべく回避する方向で。ジャンヌは『怪物』とやらと戦え的なことを言っていたが、多分それ普通に負けます。なので、攫ってくる感じで助けられたらいいなと思いました。

 などと、若干情けないことを考えていると――

 ガコン……、という微かな音が反響した。

 

「なんだ……?」

 

 疑問に、俺の眉が歪む。

 が、次の瞬間、俺の体を奇妙な浮遊感が包み込んだ。エレベーターに乗った時に似ている。

 まさか……浮上、してるのか?

 もしそれが当たっていたとしたら……この小型潜水艇が、目的地に到着したということを意味する。

 それはつまり――と、俺が解答にたどり着く、その寸前。

 

「――うわっ!?」

 

 船体が激しく揺れた。と同時に、今度は水が流れるような音が聞こえる。

 なんだ、どうなった!?

 突然の事態に混乱する中……天井にあったハッチが鈍い音を立てながら開いた。

 途端差し込んでくる光が船内を照らし出すと同時に、俺の目がくらむ。長時間薄暗闇にいた影響だろう。

 右手で光を遮りつつ、薄眼を開けると……、

 

「天、井……?」

 

 見えたのは、青空などではなく無機質な天井だった。鉄骨が縦横無尽に取り付けられ、さらにそこには照明がくっついている。体育館の天井みてぇだ。

 ことここにいたって、俺は完全に現状を把握した。

 つまり――到着したんだ。『イ・ウー』の本拠地、ボストーク号に。

 

「ついに来ちまったな……」

 

 そんなことを零しつつ、俺は武偵手帳から取り出した鏡を使い、ぐるりと辺りを確認する。

 そして周囲に人影がないことを確認し、そろそろと顔を出した。

 そこはどうやら、ドックのようだった。漁港のように何艇もの小型潜水艇が水面に浮かび、停泊している。おそらく、潜水艇が入ってくる際に抽出された海水を、同時に別の場所から排水しているんだろう。乱雑に積まれたコンテナ類は、なんらかの積み荷だろうか?

 俺は、もう一度辺りを見回しつつ、ハッチから抜け出て、岸に降り立った。

 即座にコンテナの陰へと身を隠し、そこで大きく背伸びをする。

 凝り固まった背中からバキバキと音がなる。ずっと座りっぱなしだったからな……。

 

「さて、と。どうすっかな、これから」

 

 俺は、戦闘行為になった際にすぐに応戦できるように、装備の確認をしながら呟く。その際、『スタングローブ』も装着した。できることなら二度と使いたくなかったが、状況が状況だしな。

 とりあえず、だ。基本方針は、理子の救出(セーブ)。これで間違いない。

 問題は、あいつがどこにいるのかってことだ。理子の居場所としてジャンヌが案内したのがここだから、まあどっかにはいるんだろうが。もしいなかったら、ジャンヌを『スタングローブ』百裂拳の刑に処してやる。

 さて、脳内とはいえ冗談も飛ばせるくらいには気持ちは落ち着いてる。精神状態は悪くない。

 理子以外に見つかれば、一発で(アウト)。その前に、理子を見つけ出す。

 LDスコアいくつだよ、この状況。無事に生き残ったら単位くれねぇかな、教務科(マスターズ)のみなさん。

 笑いたくなるほど困難な状況だが……覚悟は、決まった。

 ――じゃあ、行こうか。任務開始(ミッションスタート)、だ。

 

 * * *

 

 かつて、俺は理子に言われたことがある。

 隠密行動(スニーキング)は苦手なのか、と。

 まあ、当時それは間違っちゃいなかった。ある程度はそりゃできるとはいえ、やはりまだまだ熟練度は低かったと言えるだろう。

 だが、今は違う。探偵科(インケスタ)に所属したことで、俺は尾行術の修練を行った。その結果として、完璧とは言えないものの、俺はスニーキングスキルを手に入れたのだ。これも、2年間の武偵生活の賜物である。

 というわけで、物陰に隠れながら、しかし周囲の索敵は怠らずに俺はボストーク号の内部を進んでいった。まあ、まだ誰にも会ってないんだが。もしかしたら、そんなに乗員はいないのかもしれない。

 船内を探索してみて思ったんだが……なんというか、内装がやたら洒落ている。剛気に見せてもらった軍用潜水艦の内部とは違って、武骨な感じが全くない。今歩いている廊下にはレッドカーペットが敷かれているし、壁面だってわざわざクリーム色の落ち着いたものになっている。天井に等間隔で設置された照明も、さすがにシャンデリアとかじゃなかったが、デザイン自体は凝っていた。

 どうやら、この艦の設計者は相当こだわりを持っていたらしい。あるいは、改装されたか、だ。

 そんなことを考えつつ歩き進めていくわけだが……、

 

「マジで誰もいねぇな……」

 

 そろそろ探索を開始して10分ほど経つんだが、まだ乗員は見ていない。慎重に慎重を重ねたせいで移動速度が亀なのも理由だろうけどな。

 このまま歩き回って理子を発見する確率は……まあ、そう高くないだろう。

 

「……しかたねぇ、か」

 

 このままでは埒が明かないと考えた俺は、危険を承知で、近くの扉に近づいていった。発見される危険度は上がるが、こうなったら一部屋ずつ探すしかない。

 扉に耳を当て、内部の音を探るが……何も、聞こえない。扉の厚み次第だが、それでも無音というのは安心できる要素ではある。

 他に何か室内の様子を知る手がかりはないかと扉を観察してみると……あった。この鍵穴、ずいぶん昔のやつだ。今じゃ無理だが、昔の鍵穴は扉の内側を覗き込めるようになってんだ。別に意図したものじゃないだろうが。

 というわけで俺は鍵穴に右目を寄せる。この瞬間に誰かが廊下を通ったら、俺が終了のお報せになってしまうので迅速に行う。結果は――無人、か。

 だったら、せっかくだ。侵入させてもらおう。もしかしたら、理子に繋がる手がかりもあるかもしれねぇしな。

 こういう積極性は、普段の俺らしくないかもしれない。だが、ちんたらしてる時間も退路もない以上、多少強引になってでも動かざるをえなかった。

 という理由から俺は鍵を開錠(バンピング)しようと思ったんだが……普通に開いてるよ、おい。物騒だなぁ。

 

「おじゃましますよっと」

 

 小声で断りを入れつつ、俺はすばやく室内に身を滑り込ませる。

 そこはなんというか……一言でいえば、『混然』といった感じの部屋だった。

 全体的な広さとしては10畳ほどはあるだろうが……物が乱雑に散らばっているせいで、やたらと狭く感じる。レキとは真逆だな。

 寝具やクローゼット、ドレッサー(部屋の主は女だろうか?)。そういったもん以外のスペースは、ほぼ何らかの荷物に埋もれている。しかもそれらの統一感がない。

 一番多いのは機械類。エンジンっぽい内部パーツやなんらかの外装が転がっている。それだけなら技師(エンジニア)の部屋かとも思ったんだが、その機械類に紛れるように銃器や刀剣類が転がっているので、一気にわからなくなった。戦う技師とか、漫画でありそう。他にも、香水瓶(アトマイザー)とかも見つけた。

 あとはそうだな……全体的に赤だったり金だったりと、装飾が派手だ。なんか水墨画みたいな掛け軸とか龍が壁に書かれたりしてるし。あんま詳しくはないが……なんとなく中華っぽい。

 

「まあ……理子とかジャンヌみたいな外国人がいるんだし、中国人もいたっておかしくねぇか」

 

 そんなことを呟きつつ室内を物色するも……駄目だな、理子につながりそうなものはない。

 代わりに、

 

「お、この柳葉刀(りゅうようとう)いいな。鞘もついてるし、補助刀剣(サブエッジ)によさそうだ」

 

 鉈のような刀剣――日本じゃ青竜刀と呼ばれる刀を発見したので、パクらせてもらった。紛うことなき窃盗だが、戦力はあればあるほどいい。敵の戦力を削ぐという意味でも。

 俺は一度制服のジャケットを脱ぎ、裏地に柳葉刀をくくりつけた。武偵高の制服は背中に刀剣を隠せるように仕込があるんだ。

 装備の増強を行った俺は、人の気配を探りつつ廊下に出て、安全を確認したのち、次の部屋に忍び込む。

 

「なんだここ……衣装部屋か?」

 

 そこは、一見して衣裳部屋(ドレスルーム)のような部屋だった。

 色とりどりの衣装や、数々のウィッグ、さっきの部屋より大型のドレッサーと化粧品、果ては人の顔を(かたど)った特殊マスク。以前、本当に不本意ながら入室したことのある、特殊捜査研究科(CVR)のドレスルームに似ている。

 しかしそれだけの部屋ではないようで、ぬいぐるみとかゲーム機とかアニメのDVDとか、美少女物(フリフリの服装)ゲームのポスターとかもあったりする。

 ていうかこれ……理子の部屋だろ。絶対。

 だがそうだとしたら、これは困った。2個目の部屋がいきなりアタリだったのはいいが、部屋の主がいないんじゃしかたない。これまで誰にも会わなかったことを考えると、もしやメンバーはどこかに集まってんのか?

 だったらここで帰りを待つほうが確実かとも考えたが……万が一ここが理子の部屋でなかった場合、袋の鼠もいいところだ。

 やはり、捜索は続行しよう。なにより、敵地でじっと待ち続けるとか、たぶん精神が保たない。

 というわけで、俺は理子部屋(仮)を後にしようとして……、

 

「――待てよ?」

 

 ふと思いついて、足を止めた。

 そして、くるりと振り返る。

 その視線の先にあるのは……数々の衣装やウィッグ、そして特殊マスクだ。()()()()()()()()()()()

 じー……、と俺はそれらの道具を見つめる。

 

 ――そして、3分後。

 

 そこには、理子部屋(仮)から拝借した変装道具を使い、俺とは似ても似つかない超絶イケメンが爆誕していた。

 

「おお……すげぇ」

 

 鏡で自分の姿を見ながらそんなことを口走っているとただのナルシストにしか見えないが、しかしマジで変わるもんだ。きっと、マスクの元になった人がとびきりの美形だったんだろうな。

 最初はマスクだけ付けてみたんだが、俺の短髪に恐ろしいほど似合ってなかったので、黒の長髪のウィッグを装着。それに加え、武偵高の制服を隠すため、同じく黒のロングコートも着用してみた。クソ暑ぃ……。

 しかしまあ……これで、変装は上手くいったはずだ。これで姿を見られても素性がバレることはないだろう。あとから身元を調べられて襲撃されたら困るし。

 それはそうと、俺が変装したこの姿、どっかで見覚えがあるんだよな……。どこだっけか?

 まあ、思い出せないものはしょうがない。今はそんなことに拘ってる場合じゃねぇしな。

 さて、それじゃあそろそろ捜索を再開しよう。

 俺は最初の部屋同様、慎重に退室しながら、再度移動を開始した。

 なるべく足音を立てないようにしながら、そして周囲に最大限気を配りながら進んでいく。

 その途中、俺は『イ・ウー』とやらについて考えてみることにした。

 結局なんなんだろうな。こいつらは。犯罪組織ってとこまではわかるが……逆に言えば、それ以上がわかんねぇ。

 しかし、俺はどうも知らない内に関わりがあったらしい。『教授(プロフェシオン)』とやらが言うには、だが。しかもレキまで知ってる風だったし……駄目だ、謎すぎる。

 ――そんな風に考えていたから、気づけなかったんだろう。

 いままでと同じように次の部屋を調べようとしていた俺に、突如背後から声をかけられた。

 

「おいっ、そこでなにをしておるのぢゃ!」

 

 その瞬間、多分俺の心臓は一瞬止まった。

 やばい……見つかった!?

 口から飛び出しそうなほど心臓が高鳴る。背中から夥しいほどの冷や汗が吹き出る。

 どうする。戦闘か。逃走か。初手は。きっかけは。

 刹那の内に思考がめまぐるしく動く。しかし何をするにしても、ここでいきなり逃げ出せば、無防備な背後をさらすことになる。それならばいっそ対峙して、隙をうかがったほうが建設的だ。

 という思考に至り、おそるおそる振り返ると……そこには、一人の美人がいた。

 肩口まで伸ばした、おかっぱの黒髪。高い鼻に、切れ長だが綺麗な瞳。大きな金の輪っかでできたイヤリング。ここまではまあ、いい。普通だ。

 しかし、その服装が異常だった。全体的に布地が少ない。細い胸当てと、腰回りを覆う絹布。衣類と言えそうなのはこれだけだ。

 後は装飾品のみ。首、腕、足元、いたるところに宝石を使った豪華な仕様だ。頭にもコブラを模った黄金の冠がついている。意味はわかんねぇが。

 その全身金ぴかの女は、俺に目を向けては逸らしながら、きょどきょどと話しかけてくる。

 

「そ、その、ぢゃな……そ、そう! き、今日はいい天気ぢゃな!」

 

 いやここ潜水艦だけど?

 と、思わず素で返しそうになり、慌てて言葉を飲み込む。あ、危ねぇ……。

 というか、なんか居た堪れない。俺も先日、レキにそんなこと言ってたからな。なんとなくこの女が緊張していることは読み取れた。

 それと、もう一つ。こいつ、多分俺を誰かと勘違いしている。じゃなきゃ、不審者である俺に、こんな態度を取るはずがない。

 ということはまさか……この姿が、こいつの知り合い、それもこの艦に居てもおかしくない人物――すなわち、『イ・ウー』のメンバーに偶然似ていたってことか?

 な、なんというミラクル。

 しかし、これは嬉しい誤算だ。この恰好をしていれば、自然な形で艦内を動きまわれる。いままでよりもずっと捜索速度が上がる。

 となると……まずは、この状況を切り抜けねぇとな。

 眼前の女をどうにかまこうと画策する俺だったが……自然とそれを行うには、ある問題があった。

 それは……、

 

「……? どうした、なぜ口を開かぬのぢゃ?」

 

 不審気にそう問うた女が図らずも答えを言ってくれたが……喋れないんだ、俺は今。

 俺は理子みたいに変声術を使えるわけじゃない。仮に使えたとして、今俺と勘違いされている人物の声も知らない。つまりはこのまま口を開けば、それは俺の素の声になるわけで……端的に言って、偽物だとバレる。

 さてどうするか……と思案する中、女の瞳が不安に揺れた。

 

「な、なんぢゃ。まさか、(わらわ)とは話したくないということか? こ、このまえはカナの姿で、妾に『ケイタイデンワ』の使い方を教えてくれたではないかっ!」

 

 若干涙目になりつつ、女はそう言ってきた。

 やべぇ。このまま騒がれたらまずい。なにより、ずっと黙っていれば、さすがにこの人も不審に思うだろう。

 どうやって切り抜けるか頭を悩ませ……俺は苦肉の策として、コートの内側の防弾制服から取り出した武偵手帳を開き、セットになっているボールペンで白紙に文章を書き込んだ。

 そして、それを女に向けて見せる。

 

「な、なに……? 『風邪をひいて声が出なくなった』……?」

 

 女が、声に出して文章を読み上げる。

 若干苦しい気もするが、どうだ? これで行けるか?

 場合によっては逃走もやむなしと足裏に力を入れる俺に対し、女は顔を赤くしつつ、

 

「な、なるほどの。それならその……妾が看病してやっても、よいのぢゃぞ?」

 

 ぷいっと顔をそらしながら、女は少しぶっきらぼうにそう言った。

 その態度から俺は、この女が俺と勘違いしている人物に対し、どんな感情を抱いているのかだいたい察したんだが……さすがに、それはまずい。

 俺は慌てて、もう一度手帳に文章を書き込む。

 

『いや、その必要はない。いまから部屋で休むところだったんだ。だから、悪いがもう行くぞ』

「そ、そうか……」

 

 しゅん……と、女の顔が悲しそうに伏せられる。子犬みたいで少しかわいいと思ったのは内緒だ。

 さて、今のうちに離脱を……、

 

「……うん? なんか、お前……身長が、縮んでおらぬか?」

「――ッ」

 

 女の指摘に、俺は体をびきりと硬直させる。

 ま、まずい。もともと特定の誰かに変装しようとしたわけじゃなかったから、身長なんて気にしてなかったぞ。

 というか、おい。この面の持ち主はどこまでハイスペックなんだよ。イケメンで長髪が似合ってて、しかも高身長だと?

 チクショウ……チクショウッ! 世の中は、なんでこんなに不公平なんだよ! 神様ほんとふざけんな!

 などと知り合いのシスターにぶち殺されそうなことを考えつつ、しかし状況はまたしても危うい。

 切り抜けるには、また強引な言い訳になるが……これしか、ない。

 俺は、心の中で「ごめんなさい」と「ざまあみろ」を唱えながら、言い訳を書き記した手帳を広げた。

 

『実は俺、普段は短足を隠すために上げ底の靴を履いてたんだ』

「なん……ぢゃと……?」

 

 女が、月○天衝でも撃てそうな顔で愕然とする。

 だ、大丈夫かな、これ。変装相手のキャラ的に。

 しかし一応納得はしてくれたらしく、女は鷹揚に頷きつつ、

 

「あいわかった。お前の秘密は、妾がちゃんと石棺(はか)まで持っていくことを誓おう」

 

 誓うなよ、そんなこと。

 だが、まあ、これでなんとか誤魔化せた。いやしかし、自分でやっといてなんだが、ちょろいなーこいつ。こんなんで誤魔化せるのかよ。

 わずかに女の将来が心配になりつつ、俺はこの場を後にしようとする。

 が、それに女がついてくるかのように足を一歩踏み出したので……俺は、足を止めて、

 

『君にひとつ、言っておくことがある』

 

 と手帳に書き、女に見せた。

 女もまた足を止め、いぶかしげに俺を見る。

 そんな彼女に、俺は続けて、『一人で部屋に戻れるから、ついてこなくていい。看病もいらない』と書こうとして――しかし、それより早くとんでもないものが俺の目に飛び込んできた。

 なんと、視線の先にあるT字路を、横切ったのだ。()()()()()()()()()()()()()()()()

 ほ、本物……!?

 や、やばい。本物と鉢合わせたら、一発でバレる。何かがあって今の奴が引き返して来たら、その時点で終わりだ。

 俺は焦りながらも、殴り書きで『ついてくるな トイレに行く』と書き込み、そのページを千切る。そしてそれを強引に女の手の中に握らせると、俺はダッシュでその場を走り去った。

 

「あっ、キン――」

 

 背後で声が上がるが、無視。

 1分か2分か。走り続けた俺は、やがて立ち止まると、壁に背をついて大きく息を吐いた。

 

「――っはああああ。あっぶねぇ……」

 

 危うく変装がバレて殺されるところだった。今いんのかよ、本物。

 まあ、ある意味では結果オーライだ。さっきの半裸女はこの格好のおかげで誤魔化せたし、それ以前に本物に会ってたら、その時点で終わりだったからな。

 しかし……どうするか。このままこの変装を続けるか。それともやめるか。

 前者のメリットは、ある程度の安全性。本物と出会うか、もしくは半裸女と本物が会っていて偽物がいると露見していた場合、アウト。

 後者のメリットは、行動力の確保。実を言うと、この格好はパフォーマンスが落ちる。分厚いコートは体を重くし、俺と本物で目の大きさや形が違うのか、視界が少し阻害されている。加えて、長髪というのは体の動きに応じて動くので、ある種の予測線になってしまう(だから武偵高ではあまり推奨されていないんだが)。

 さて、ではこの2つからどっちを取るかと思案し……俺は、後者を取った。行く先行く先厄介ごとに巻き込まれる運の悪さに定評のある俺、運任せとも言える前者は選びづらかったんだ。

 近くにあった適当な部屋に変装道具を放り込み、俺は再び普段の武偵高の有明錬に戻る。

 それから、先ほどのように探索を再開しようとして……ふと気づいた。

 

「そういや、さっき紙渡したとき、なんか妙に小さくなかったか?」

 

 半裸女の許から離れるとき、俺はあいつに武偵手帳から紙を千切って渡した。のだが、冷静になって思い出してみると、やけに紙片が小さかった気がする。

 気になったので武偵手帳を開き、問題のページを見ると……やっぱりだ。全部千切ったつもりが、斜めに切れて半分くらい残ってる。丁度、『ついてくるな トイレに行く』と書いた内の、『トイレに行く』の部分が残っている。

 ……ま、いいか。伝えたい言葉の方は渡せたんだし。

 問題ないよな、と手帳を仕舞おうとして……、

 

「あれ……?」

 

 残ったメモの裏側に、うっすら数字が透けて見えた。

 なんだこれと思いひっくり返すと、『080524』と書かれていた。そしてその上には、『火野』という文字。

 ……あ、思い出した。これ確か、火薬運搬係りで一緒になった後輩の電話番号だ。連絡を取り合う必要があるかもってことで聞いてたんだっけ。

 あちゃー、そんなページを使うとは、ミスったな。まあ、急ぎだったし、番号自体は携帯電話に登録してるから問題ねぇか。……あ、そういや壊れてた。

 無駄に精神的ダメージを負いつつも、俺は行動を再開する。

 なんというか……あれだな。

 振出しに戻る、ってな。

 

 * * *

 

『砂礫の魔女』・パトラ。

 名前にもその名残が残っているが、彼女はかのクレオパトラの子孫である。

 一般にクレオパトラと言えば、印象的なのはやはりクレオパトラ7世だろう。自身、神にすら迫る美貌を持ちながら、激動の古代エジプトを、プトレマイオス朝を守る女王として生き抜いた女傑だ。

 パトラもまたそんなクレオパトラ7世を髣髴とさせる玉容を誇るがゆえに、自らをクレオパトラ7世の生まれ変わりである覇王(ファラオ)と信じていた。

 そんな彼女は、世界的犯罪組織『イ・ウー』の構成員で()()()

 過去形なのは簡単な話で、つまりは今のパトラはすでにメンバーではないという意味だ。

 もともとパトラは、数多の実力者が在籍する『イ・ウー』においてなお、『ナンバー2』を名乗れるほどの実力者だった。

 しかし、素行の悪さ(一例として、同じくメンバーであるブラドに対し呪いをかけた)が目立ち、ついには『退学』――つまりは、組織から除名処分を受けていた。

 にもかかわらず、パトラの姿は依然『イ・ウー』の本拠地であるボストーク号にあった。彼女は『退学』になった後も、『イ・ウー』のリーダーの座を狙い、この艦に留まり続けたのである。もっとも、ほかの理由もあったのだが。

 しかし、除名処分となった人間をいつまでも在籍させておくほど『イ・ウー』という組織は甘くない。いかにナンバー2といえど、ナンバー1である『教授』の手にかかれば、瞬く間に排除できるだろう。

 ただし。

『教授』がその気になれば、の話だが。

 

(気味が悪いのう。妾を『退学』にしたくせに、いまだこの艦に残ることを認めるとは)

 

 パトラは、ボストーク号の艦内を歩きながら、自身が置かれた状況に首を捻る。

 パトラの滞在を認めているのは……舐められている、ということだろうか。確かに、パトラとて真っ向から『教授』を打ち破るのは至難だと考えている。

 あるいは。

『教授』にとって、パトラを『イ・ウー』に留めることが、何らかの意図を持っているか、だ。

 

(あり得そうな話ぢゃ。というか、あの男の行動には全て意味があると考えた方が自然かもしれんの)

 

 腕組みをしながら考えつつ、パトラは歩を進める。『イ・ウー』を乗っ取ろうとは企んでいても、現リーダーには一定の敬意も持ち合わせているようだった。

 ――と、その時だった。

 レッドカーペットを踏みしめながら進むパトラは、ふと視線の先にとある人物を発見した。

 神が造形したような美貌。艶やかに流れる黒の長髪。その黒に負けないほど漆黒に染まるロングコート。冗談のような美男子が、そこにいた。

 その姿を見た瞬間、パトラの鼓動が高鳴った。

 

(と、トオヤマキンイチ……!)

 

 頬が上気する。耳が熱い。視野が狭まり、彼のみが瞳に映る。

 遠山金一。

『イ・ウー』メンバーであると同時に、パトラが淡い恋心を抱いている(対外的には認めていないが)男の名だった。

 

(ど、どうしよう。どうすればいいのぢゃ!? は、話しかければよいのか……!?)

 

 自らを覇王とまで自称するパトラは、しかし恋する乙女モードに突入し、普段の尊大さは鳴りをひそめる。

 だが、彼女はそこでは止まらない。ドキドキと心臓を高鳴らせながらも、関係を進めるために一歩を踏み出す。

 

「おいっ、そこでなにをしておるのぢゃ!」

 

 まあ、人間とっさにしおらしくもできないのだが。

 

(あ、あああ。妾のばかっ。これではまるで詰問しているようではないかっ!?)

 

 内心で絶賛後悔中のパトラ。この場面はもっと柔らかい言葉でアプローチすべきだったはずだ。げに恨めしきは、いつでも不遜な物言いばかりする己の口か。

 しかしそんなパトラの内情を知らない金一は、ゆっくりとパトラに振り向く。

 ――あ、かっこいい。

 それがパトラの偽らざる本心だったが、しかしそういうときに限って口は動かない。

 代わりに、

 

「そ、その、ぢゃな……そ、そう! き、今日はいい天気ぢゃな!」

 

 先ほどの失態を取り戻そうと、余計なことまで口走ってくれる始末だ。汚名挽回(誤字に非ず)である。

 当然またもやパトラは心中で悔恨の念いっぱいなわけだが、そこに追い打ちをかけるように、金一は無言でパトラを見返す。

 沈黙が身に染みる。それに耐えきれなくなったパトラは、

 

「……? どうした、なぜ口を開かぬのぢゃ?」

 

 できるだけなんでもないかのように装いつつ、金一に訊ねた。

 しかし、金一はさらに無言を貫く。ぴったりと口を閉じたまま、黙して語らない。

 その態度がパトラの不安を煽り……最悪の考えに至らせた。

 

「な、なんぢゃ。まさか、(わらわ)とは話したくないということか? こ、このまえはカナの姿で、妾に『ケイタイデンワ』の使い方を教えてくれたではないかっ!」

 

 喋らない=自分と話したくないという、若干過程をすっ飛ばした結論に涙目になりつつ、パトラは金一に詰め寄る。

 引き合いにカナ――金一の()()()()の姿――に携帯電話の操作法を手ほどきしてもらったことを出してまで、それは否定してほしい考えだった。

 余談だが、パトラは電子機器――というよりも、近代的なものや常識に疎い。ある程度は学ぶことで利用可能になるが、精密機械などは苦手分野だった。携帯電話の操作を習ったのも、金一といつでも連絡できるというメリットがあったからこそだ。あとは、優しいカナが覚えやすいようにとある『ゲーム』を利用したことも一助になっていたのだろう。

 それはそれとして、パトラの心配は杞憂に終わった。懐から取り出した手帳に文章を書き、風邪をひいて声がでなくなったことをパトラに伝える。

 それを知ったパトラは、安堵すると同時に、チャンス到来を悟った。

 

「な、なるほどの。それならその……妾が看病してやっても、よいのぢゃぞ?」

 

 恥ずかしさから頬を染めつつ、パトラは金一にそう言った。

 ぐっじょぶ自分、とパトラは自らを褒める。これはなかなかいいのではないか? 多少物言いはパトラ節を発揮してはいるが、健気さをアピールしつつ、かわいさも乗せた。いかにも、『ちょっと素直になれない女の子が勇気を出してみた』といった感じだ。

 ……まあ、『部屋で休むから一人にしてくれ』と、すげなく断られてしまったのだが。

 そう言われては、ついていくわけにもいかない。強引に押し切ることもできなくはないが、それで嫌われてしまったら、という不安がパトラの足を留めさせる。

 ならばせめて見送りだけはしよう、と決めたパトラだったが、そこであることに気づいた。

 

「……うん? なんか、お前……身長が、縮んでおらぬか?」

 

 金一の発言に顔を落としていたパトラは、そこで目に映る金一の体の位置がいつもより低いことに気づく(パトラは恥ずかしさから金一の顔を直視できず、視線を下向けることが間々ある)。

 困惑するパトラ。そこに投げられた金一の返答は、あまりに衝撃的だった。

 

『実は俺、普段は短足を隠すために上げ底の靴を履いてたんだ』

「なん……ぢゃと……?」

 

 パトラの瞳孔が開き、絶望感漂う顔に変化する。

 まったく気づかなかった。確かに基本暑かろうがブーツを履いてはいたが、まさかそんな理由があろうとは。

 乙女としては幻滅級の真実に、しかし、

 

(ま、まさかキンイチにそんな秘密があったとは……。ぢゃが、それを隠そうとしていたとは、なんというか……可愛げがあってそれはそれで悪くないのう。うむ)

 

 恋は盲目とはよく言ったものだった。

 パトラ的には問題なかったようで、「秘密は墓まで持っていく」発言をしながら、納得してみせた。

 そんなパトラに対し、金一はこの場を去ろうとしたのだろう。体を反転させかけていた。

 

(あっ……)

 

 ついてくるなとは言われたが、反射的に追いすがるように1歩踏み出してしまう。

 が、その歩みが2歩目を刻む前に、金一はパトラに手帳を掲げた。

 

『君にひとつ、言っておくことがある』

(言っておくこと……?)

 

 金一の言葉に、パトラの眉が疑問に歪む。

 金一はそれを見てさらに何かを書き込もうとし……急になにやら慌て始め、急いで手帳に何事かを書いた。

 それを手帳から破ると(その際に半ばで千切れていた)、彼はパトラの手の中に紙片を握りこませる。

 手を握られてドキリとしつつも、走り去っていく金一にパトラは声をかける。

 しかし金一が止まることはなく、そのまま何処かへ行ってしまった。

 

「な、なんだったのぢゃ……?」

 

 残されたパトラは途方にくれながら呟く。

 その時、手の中で紙片がかさりと鳴った。パトラはとりあえずそれを見ると、そこには『ついてくるな』とだけ書かれていた。

 それを目にしたパトラは、わずか悲しみを感じた。わざわざこうやって念押しするほどに、自分について来られるのが嫌だったのか、と。

 しかし、パトラは気付く。『ついてくるな』と書かれたその『裏』。紙片をひっくり返したそこには、数字で『33322』と記されていた。

 最初は意味がわからなかった。しかし、遅れてパトラの脳裏にある記憶がよぎった。

 それはつい先日、カナに携帯電話の操作方法を教わった時の話。

 カナは、パトラが携帯電話ならではの文字入力に慣れるための一環として、ある『ゲーム』を行った。

 それは、カナからの会話は、すべて紙に書いた数字と記号で伝えるという内容だった。それを携帯電話を手にしたパトラが打ち込みつつ解読する、というわけだ。

 その甲斐あってか、今では文字入力に関してなら(まあ、まだ機能面では不慣れな部分が多くあるが)、パトラは完璧にマスターしたと言ってよかった。

 具体的には、数字を見て、それを携帯電話なしで解読できるくらいには。

 

「なになに……?」

 

 パトラは数字に目を走らせ、解読を試みる。

 まずは「3」が3つ。これはさ行を3回で「す」になる。

 ちなみに、「さ」と「し」という組み合わせにはならない。区切る場合は、間を開けるようになっている。

 気を取り直して、次は「2」が2つ。これはか行を2回で「き」になるだろう。

 解読はこれで終わり。結果として繋げてみると、「す」「き」となった。

 

「なるほどのう。好き、というわけぢゃな……………………え?」

 

 理解した、瞬間。

 ぼんっ! と、パトラは沸騰した。

 

(な、なななななんぢゃ!? どういうことなのぢゃこれは?!)

 

 許容外の出来事に、パトラの脳が悲鳴を上げる。

 なぜにこのタイミングで愛の告白か。まさか、この数字は暗号でもなんでもなく、ただの偶然だった? 馬鹿な、そんなわけがあるか。たまたまこんな意味のある文章になるとは思えない。

 と、いうことは。

 

「わ、妾、告白されてしもうた……っ!」

 

 喜び半分、困惑半分で、両手を赤くなった頬にあてるクレオパトラの子孫がそこにいた。

 ――遠山金一が『イ・ウー』を離反し、ボストーク号から脱走したのは、この数十分後の話だった。

『ついてくるな』とはそういう意味だったのか、と後にパトラは気付く。『イ・ウー』からの離反はすなわち、その全メンバーを敵に回すことを意味する。その危険な死出の旅路に、彼はパトラを巻き込むまいとしたのだ。

 パトラが「次にキンイチにあった時は、敵対しないようにしよう」と心に決めたのも、同じく数十分後のことだった。

 

 ちなみに。

 この出来事に背中を押されたパトラが金一に告白し、一組の新婚夫婦が誕生したとかしなかったとか。

 

 * * *

 

 移動することおよそ10分。いまだ理子は発見できず。

 ……というか、マジでいねぇんじゃねぇか? あいつ。それだったら本気で困るんだが。帰れねぇ。

 かわりに、別のメンバーは発見した。銀髪ロングで灰色ブレザーと孔雀の羽付き帽子が特徴的な少女とかな。見つからないようにするの大変だったけど。

 それと、ぐるぐるといろんなところを回ってみてわかったんだが――どうもこの艦は、住居目的の部屋だけではないらしい。

 恐竜の骨格標本や名画などが並んだ、もう一つ博物館(ミュージアム)みてぇな部屋とか、舞踏会でも開くの? ってくらいの大ホールとかがあった。この分じゃ、室内プールとかカジノとかもありそうで怖い。さすがに無いだろうが。

 一体なんなんだ、この艦は? いや、そもそもこの組織自体がよくわかんねぇんだが。

 そんなことを考えながら歩き進めると、また新たな大扉が見えてきた。重厚な木扉に金の取っ手、わざわざ精緻な模様まで彫られている。これだけでいくらするんだか。

 そして、その扉は開け放たれていた。耳を澄ますと、中からはかすかに話し声が聞こえてくる。

 ……誰かいる、な。

 俺は足音を立てずに近づき、身体を大扉の陰に潜ませる。その間にも周囲の気配に気を配ることは忘れない。

 そして、鏡を使って室内を覗き見て――愕然とした。

 そこは、これまでにも何回か見たようなホール部屋だった。天井をシャンデリアが飾り、床には上品な刺繍がなされた絨毯が敷かれている。部屋自体に特異な点は見当たらない。

 問題は、そこにいた2人の人物だった。

 一人は、俺くらい若い白人女性だ。透き通るような、まるで光そのもののような、色素の薄い金の長髪。翠玉色(エメラルド)の大きな瞳と、それを一層映えさせる雪のように白い肌。日本人とは違う、国に根差した美しさがある。

 濃紺のロングスカート・ワンピース、ホワイトブリム――フリル付きのカチューシャ、そして純白のエプロン。いわゆるメイド服に白雪級のスタイルの肢体を包んだ、ヴィクトリアンメイドがそこにいた。

 こいつは、まだいい。こんなところにメイドがいることは驚いたけど、少なくともこいつはまだ()()()()()()()()()『』。

 だが……、

 

「なんだ、あいつは……」

 

 俺は、メイドの正面に立っているもう一人……いや、()()に目が釘付けになる。

 一言で言おう。

 そいつは、『怪物』だった。

 2メートルを超える体躯。大木のような腕や、一踏みで天井まで跳躍できそうな強靭な脚、それらを覆う獣のような黒く毛深い体毛。手足にはナイフほどもある爪に、口元からは牙が覗いている。オオカミに似た(かお)に嵌まった両目は、まるで血を流しこんだような真紅に染まっており、人ならざるおぞましさを連想させた。

 ……ああ、ジャンヌ。お前が言ってた意味がわかったぜ。

 こいつは、確かに『怪物』だ。それ以外の言葉がいらないくらい、わかりやすい表現だったよ。

 そんで、俺の考えも正しかった。あいつと戦う? アホかよ、あの腕を見ろ。脚を見ろ。爪を見ろ。牙を見ろ。俺でさえ、あれらを見るだけで何通りもの死に方を予想できる。本人であるやつには、それ以上の殺し方があるだろう。

 そんなやつに突っ込んでいったところで、俺に勝ち目なんて欠片もない。例えあいつが理子を縛る元凶だとして、じゃあヒーローみたいにぶちのめしてやれるかといえば、そりゃ答えはNOだろ。

 情けないと、笑いたい奴は笑えよ。それでも俺にできることは、せいぜい理子をここから連れ出すことが関の山だ。

 ……悔しさは、ある。自分の実力不足で、女の子一人救えない自分に、心底腹は立つ。

 それでも。できることを冷静に実行できなきゃ、目的一つ果たせない。

 だから、ここから去れよ、有明錬。あんな怪物は見なかったことにして、今まで通りの探索に戻れ。一番生き残る確率の高い選択肢を選べ。

 ぐるぐると、胸の奥で嫌な感覚がとぐろを巻く。

 しかしそれを無理やり飲み込んで、俺は足を踏み出し――

 

『それにしても、あの雑魚「4世」は、玩具としてはなかなか優秀だよなァ』

 

 ――止まった。

 今……やつは、なんて言った? 地獄から轟いてるみたいな気持ちの悪ぃ声で、何を言いやがった?

 俺が知る限り、『4世』という言葉が指す人物は2人しかいない。

 一人は、神崎・H・アリア。名探偵シャーロック・ホームズの曾孫。つまりは、ホームズ4世。

 もう一人は、峰理子。大怪盗アルセーヌ・リュパンの曾孫。つまりは、リュパン4世。

 あいつが口にした4世という言葉が、そのどちらかを指しているとは限らない。

 それでも、俺の足は縫い付けられたようにその場から動かなかった。

 背後から、声が届く。

 

『なあ、オイ。お前もそうは思わねぇか、ジェヴォーダン?』

『リ……わ、私は、その、「理子」様のことは好きで……』

『チッ。つまんねぇな、お前は。張合いもねぇ。子孫ってのは、どいつもこいつもこうなのか? まあ、おめぇはまだ目覚めてない分、欠陥品と呼ばれるホームズ4世に負けるような、どうしようもねぇゴミみてぇな()()()()()()()()よりは望みがあるがなァ。ゲバババッ!』

 

 …………。

 

『そ、そんなっ。理子様はゴミなどでは……っ』

『あァ? 庇い立てするか、ジェヴォーダン? なんならお前も、あいつみたいにボロキレにしてやってもいいんだぜ』

『ひぅ……も、申し訳ありません。リサを、リサを傷つけないでください……!』

『くだらねぇ。遺伝子検査ではっきりしているとはいえ、お前が本当にジェヴォーダンの血を引いてるとは思えねぇな。……しかし、まあ訂正してやるよ。確かに、お前の言うとおり、リュパン4世はゴミじゃねぇ』

『え……?』

『あいつは……体のいい()()()()であり、良質な5世を産むための()()だったよなァ。ゲゥゥゥアバババババッ!』

 

 ――振り返るな……ッ!

 ギリィ……ッ、と砕けるかと思うほどに、俺は歯を食いしばる。

 クソ。チクショウ。なんなんだ、あいつは。俺の友達を、2人も侮辱しやがって。理子を、玩具だの牝犬だのぬかしやがって……!

 そしてそれ以上に……なんなんだ、俺は。

 仲間をあれだけ馬鹿にされて、それでも俺は飛び出せない。そんなことをしたって返り討ちにあうだけだってことがわかってるからだ。殺されるってことが、わかってるからだ。

 いつ敵に見つかるかわからない状況で、そのくせ立ち去ることもできずに突っ立っている。どっちつかずの中途半端野郎だ。

 動けよ、おい。ここから離れろ。とっとと理子を探しに行け。

 そんな風に命令してみても、俺の足は動かない。背後で垂れ流しにされる声を、ただ聞き続けるだけだ。

 

『まあ、その5世にしたって、まともなやつが生まれるかどうか怪しいところだがな。シャーロックの野郎の曾孫は、緋緋色金の力すら使えねぇゴミだ。推理力も欠片も受け継いでねぇ、牝犬と互角程度のお粗末な戦闘力。とんだ出来損ないだよなぁ』

 

 拳が、握りこまれた力の強さに音を鳴らす。

 ――耐えろ。

 

『そのパートナーにしたって同様だ。クソッたれのカナの弟だから少しはやるかとも思ったが、実力はホームズ4世と同程度。しかも小夜鳴の話じゃあ、遠山金一の訃報以来、すっかり腑抜けになりやがったそうだ。ゲハッ、ゲハッ、その原因が「イ・ウー(おれたち)」とも知らずによ。おまけに、もう一人のパートナーは、遺伝子的にただのカスだ。同じく遺伝子に見放されたリュパン4世は、えらく評価していやがったがな』

 

 聞き覚えのある名前がいくつか出たが、どうでもいい。そんなの関係ないくらいに、頭が熱くなっていく。

 ――耐えろ。

 

『お前が男だったら面白かったのになぁ、ジェヴォーダン。そうしたら、あの繁殖用牝犬(ブルード・ビッチ))と交配させて、あの生意気な狼風情を手駒にできたのによ。それとも、どこかから優秀な遺伝子を持った牡でも連れてきて、お前と交わらせてみるかァ?』

『うっ……うっ……おね、がいします。リサに、ひどいことをしないでください……っ』

 

 事情はわからない。敵である『イ・ウー』同士でなにがあろうと、知ったこっちゃない。ただ、女の子を平気で泣かせるあのクソ野郎には腹が立つ。

 ――それでも、耐えろ。

 

『ゲハハッ! まあ、そんなことを試すとしても、そりゃリュパン4世の交配で優れた次世代を生み出せるかの実験が終われば、だ。どのみち、あいつにはそれを試すつもりなんだしな』

『え……? で、でも、理子様は仰ってました。初代リュパンを超えたことを証明できれば、解放されると……』

『つくづく間抜けだなぁ、お前も4世も。お前らは、犬とした約束を守るのか? オレは守らねぇがな』

『では、最初から理子様を……』

『当然だろう。せっかく手に入れた優良種を手放すわけがねぇ。だが、単に産ませるだけじゃ面白くねぇんで、いろいろと趣向を凝らしてはみたがな。ホームズを斃せば解放すると約束してみたり、あいつが後生大事に抱えてた十字架を奪ってみせたりなぁ。今頃、あの犬は必死に取り戻す方法を考えてることだろうよ。まあ、取り返したところで、すぐにまた奪ってやる予定だがなァ』

 

 言ってることが、なにを指しているのかは判然としない。ただ、それでもわかる。あいつがどんだけ、あのお気楽娘……いや、そう振る舞い続けてきた女を傷つけたのか。

 ――耐えろ。絶対に手を出すな。

 

『ああ……十字架を奪ってやった時は良かったなァ。涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、オレの脚にすがりついてくるあいつを蹴り飛ばしてやったときは、最高だった。無理やり首元から十字架を引きちぎってやった時の絶望に染まる表情……あれも、いい。おかげで、後から思い出しただけで、この姿に戻れた。なかなか無ぇんだぜ、こんなのは』

『そんなことのために、理子様をあんなに……』

『あんな形でもなけりゃ、あいつは役に立たねぇだろうが。……だが、そろそろ潮時かもしれねぇな』

『潮時……?』

『あいつ単体の使い道なんざ、オレがこの姿に戻るための道具くらいだ。だが、そんなものは他にいくらでもやりようがある。残る道は、やはり5世を産むための母体とすることだが……あの分じゃ、望み薄かもしれねぇな。こりゃあ――』

 

 その、続きを。俺は、なんとなく予想できてしまった。

 やめろ。言うな。その続きを、口に、出すな……!

 ――だが。

 やつは、あっさりと言いやがった。

 

『――殺すことも、考えねぇとな』

 

 耐えろ、と。頭の中で誰かが言った。

 動くな、と。本能が警鐘を鳴らしていた。

 そんなにうるさくするなよ。言われなくても、わかってる。それが一番合理的な考えだってことは、少し頭を捻れば誰にでもわかる。

 ……ああ。

 でも、さ。

 

 ――無理だろ、これは。

 

「……誰だ、お前は?」

 

 遠雷のような低く重い声が、俺の鼓膜を震わせる。

 音質は、さっきと比べて随分クリアだ。はっきりと聞こえてくる。

 そりゃそうだ。その声は、俺が今対峙しているやつが出した声なんだから。

 

 俺の目の前で喉を震わせる、『怪物』が出した声なんだから。

 

 ……なに、やってんだ俺は。

 なんで飛び出した。なんで扉の陰から出て、押し入った。なんで、この怪物の前に姿を晒した。

 馬鹿だ、俺は。

 馬鹿だから、こんな風に言うんだ。

 

「テメェが泣かせたお姫様を救いに来た、馬鹿な勇者様だよクソ野郎」

 

 拳銃を抜き放ち、俺は眼前の怪物に照準(ポイント)する。けれど、銃口はわずかに震えている。今更になって、後悔と恐怖が襲いかかる。

 しかし、やつは小揺るぎもしない。泰然と立ったまま、まるで拳銃なんて一切恐れていないかのように口元を裂いた。

 

「ゲバババッ。侵入者か、おもしれぇ。まさかここに潜り込むムシケラがいたとはなァ。それで、勇者様? お前は一体、オレに何の用件だ? 悪いが、お姫様なんて高尚な存在に、心当たりは無ぇんでな」

 

 やつは、言葉通り面白そうにそう言った。

 仲間を呼ぶ様子もない。おおかた、俺みたいな『ムシケラ』にそんな必要はないと、舐めてやがるんだろう。

 それに思うところはある。が、それ以上に自分にイラついていた。この期に及んで、何が『勇者様』だ。保身として名前を隠したところで、たいして意味はねぇだろ。ここで死んだらな。あとで襲撃されるかもとか、今考えることじゃなかった。

 俺は、ちらりと視線を逸らし、メイド姿の女の子を見る。

 改めて見れば、本当になんでこんなところにいるのかわからないほど普通の女の子だった。さっき泣いてた名残か、目に涙をためて、全身を震わせながらおどおどとこちらを見ている。目が、合った。

 なんとなく、この子は敵じゃない気がする。戦闘力的な意味じゃなくて、もっと根本的なところで。

 俺は視線を怪物へと戻し、

 

「理……いや、テメェをぶちのめしたい理由が多すぎるな。潰してやるってことだけ言っとくわ」

 

 咄嗟に理子の名を出そうとしたが、寸前で変更した。もちろん、殺すとまで言った以上、理子を死なせたくないってのが一番の理由だ。だが、こいつはそれ以外にもアリアを侮辱した。キンジを侮辱した。おまけに、金一さんの死がこいつらのせいだとも、そう言った。

 戦いたくない理由なら、いくらでもある。けど、許せない理由の方が大きかった。

 睨みつける俺に、怪物は愉快そうに笑い、

 

「そうか。丁度、オレも暇していたところだ。4世が盗みを始めるまでな。せっかくこの姿でいられるうちに……遊んでやるよ、鼠」

「そいつはどうも、獣野郎。猟銃より少しばかりいい(やつ)で仕留めてやるよ。感謝しやがれ」

 

 震えを抑え込め。前を向け。

 もう退けない。きっと、ここで死ぬ。誰も称賛なんてしてくれないし、結局目的も果たせなかった。

 それでも。

 ここでこいつに立ち向かわなかったら、俺は死んでも死にきれない。

 だから。

 ――さあ、男を見せろ有明錬。

 

 * * *

 

 リサ・アヴェ・デュ・アンクに戦闘のセンスは全く無い。

 それが、『イ・ウー』メンバーの()()()()共通認識だった。

 だからこそ、彼女の組織内の役回りは、非戦を念頭に置いたものだった。会計士、ナース、薬剤師、メイド。彼女が担う役割は多々あれど、そのどれもが戦闘に直結しない、いわゆる非戦闘員である。

 光を織り込んだような薄い金髪が特徴的な、北ヨーロッパ――オランダ生まれの、少女。普通に生まれ、普通に生き、アムステルダムのメイド学校で学徒となっていた、そんな普通の女の子であったリサは、『世界の裏側』など知らずに日々を過ごしていた。

 しかしある日、北海へと進路を取った『イ・ウー』に勧誘を受け、一般人リサはボストーク号に乗船したのだ。

 人外魔境とも呼ばれる『イ・ウー』が、なぜそんな普通の少女を求めたのかと言えば話は簡単で、つまりは彼女もまた、人外たる要素を備えていたのだ。

『ジェヴォーダンの獣』。

 18世紀のフランス・ジェヴォーダン地方に現れた獣の名だ。100人に迫る人間を襲い、しかしその黄金のごとき金の体毛の美しさで知られる、大狼である。

 しかしこの伝承には、続きがある。それは、ジェヴォーダンの獣の正体は、大狼ではなく秂狼(ルー・ガルー)――つまりは、狼男なのではないかという説だ。

 そして、この説は当たっていた。ジェヴォーダンの獣は、人間としての一面も持ち合わせていたのだ。

 その()()()()()()()()()()()()()は子を遺し、やがてその血脈は受け継がれていった。そう――リサ・アヴェ・デュ・アンクにも。

 ゆえにこそ、その力を受け継ぐ少女を、将来性という意味で『イ・ウー』は勧誘したのだ。

 とはいえ、その誘いを断ること自体はできた。しかしリサは、自らの意思で参入を決意したのだ。そこには当然理由があった。乗船からすでにいくつか年が巡った今でも、それは果たせていないが。

 そんなリサは今、ある種の窮地に立たされていた。

 

「なあ、オイ。お前もそうは思わねぇか、ジェヴォーダン?」

 

 眼前でリサにそう問いかけたのは、ジェヴォーダンの獣に勝るとも劣らない『怪物』、竜悴公(ドラキュラ)(・ブラドだった。

 実際ブラドは最強の生物の一柱、吸血鬼として、同じく最強の名を冠するジェヴォーダンの獣のライバルだったそうだ。もちろん、力に目覚めていない今のリサなど、爪の一撫でで殺せるだろう。

 ではなぜそんな怪物の前にリサが立っているのか。

 それを説明するには、まずブラドの()()()()()について説明する必要がある。

 まず、ブラドは常日頃からこの怪物の姿になっているわけではない。普段は小夜鳴(さよなき)(とおる)という人間の優男として生活している。

 これは、永の時がもたらした()()だった。もともと吸血鬼という種族は知性を持たず、ゆえに滅びを迎えることになったのだが、ブラドだけは人間の血を偏食していたため、人間の知性を備えたことで生き残ったのだ。

 しかし人間の知性を失わないために、人間からの吸血を繰り返していたため、しだいに遺伝子が人間のものへと上書きされていき――ついには、『小夜鳴徹』という()()()()に隠れる必要がでてきた。

 普段は小夜鳴という、いわゆる『第2の人格』が行動し、()()()()()()()()でのみブラドに成り変わる(互いの意思疎通は脳内で行われる)。

 そのタイミングとは――小夜鳴が、激しく興奮したとき。つまりは神経伝達物質が大量に分泌された時だ。

 長い時の中で大抵の刺激に慣れた小夜鳴が、遠山金一から『吸血』で写し取ったヒステリア・サヴァン・シンドロームを併用して異常興奮したとき、夜の王ブラドは降臨するのである。

 つまりブラドが今この姿でいるのは、異常に興奮できる条件が揃っていたからだろう。

 そして、彼がリサを、メイドという立場を利用して連れまわしているのは、その状態をより長く継続するためだ。

 リサは、生来の臆病な性格から、わずかの威圧でも震え上がり涙を流す。嗜虐趣味(サディズム)で興奮できるブラドからすれば、これほど使()()()()()者もいないだろう。

 加えてリサが、100年前のライバルの血を引いていたことも原因だろう。かつて己と伍した相手の子孫が、一切の抵抗なく屈服している。その征服感は、ブラドの変身時間を伸ばすには十分な物だった。

 以上の理由から、リサはブラドの興奮を継続させるための『娼婦』として帯同させられていたのである。

 

(どうして……どうしてリサがこんな目に……)

 

 涙目になり、心中で不幸を嘆きながらも、しかしリサは抵抗できないままブラドの問いに答えていく。

 自分に良くしてくれていた峰理子が蔑まれることに忌避感はあったものの、傷つけると脅されれば、リサは引き下がるしかない。リサは戦うことを、そしてなにより傷つけられることを恐れていた。

 そんなリサに、ブラドは愉悦を満たすために、なおも言葉を続ける。理子を侮辱し、シャーロック卿の子孫を侮辱し、そのパートナー2人を侮辱する。

 そして、ついでとばかりにリサをただ良質な次世代を生み出すための『道具』へと、引きずりおろそうとしたのだ。

 

「うっ……うっ……おね、がいします。リサに、ひどいことをしないでください……っ」

 

 リサはついに涙を流し、ブラドに懇願する。

 アヴェ・デュ・アンクの女は、生涯たった一人の男とのみ添い遂げる。ただ次の世代を産み出すためにのみ抱かれるなど、不本意どころの話ではない。それは、一族の誇りを失うほどの行為だった。

 それを知ってか知らずか、ブラドは哄笑しながらリサへの脅しをひとまず取り下げた。

 そして、その口で言ったのだ。『理子を殺すことも、やぶさかではない』と。

 

(そ、んな……理子様が、殺されてしまう……!)

 

 リサのシミひとつない白い顔が、蒼白に染まる。

 脳裏に浮かぶのは、いつも楽しそうに笑いかけてくれた理子の顔だった。リサとは比べものにならないほどつらい過去を背負って、それでもリサと仲良くしてくれた、友達の顔だ。

 嫌だ。理子が殺されるのは、絶対に嫌だ。

 けれども、リサは動けない。力がないという以前に、リサの臆病な心が行動を阻害する。

 どうしようもできない悔しさに、どうしようともしない情けなさに、リサはまた落涙する。

 それを止めるかのようにリサがぎゅっと目をつぶったその時、

 

「――あん?」

 

 ブラドの、いぶかしげな声が聞こえた。

 それに反応したリサが目を開けると、ブラドがリサの背後に視線を向けていた。

 

(ブラド様は、いったいなにを見て……?)

 

 リサは、その視線につられるように後ろを振り返る。

 ――そこに、いた。

 学生服に身を包んだ、黒髪の少年。視線だけで人を射殺せそうな鋭い目つき。見知らぬ東洋人が、屹立していた。

 リサはこの少年を知らない。少なくとも、知っている『イ・ウー』メンバーに彼はいない。

 けれども、彼が着ている服は知っていた。肩のあたりに刺繍されているマークは、武偵高のものだ。すなわち彼は、リサたちの敵、武偵ということになる。

 それに気づいたリサは、逃げるようにその場から距離を取る。ブラドと少年の間から抜け出るように。

 そんなリサを尻目に、ブラドは喉を鳴らした。

 

「……誰だ、お前は?」

 

 それは、当然の質問だった。

 リサも持つ疑問に、少年は拳銃を抜き放ち、ブラドに向けて構えながら言い放った。

 

「テメェが泣かせたお姫様を救いに来た、馬鹿な『勇者様』だよクソ野郎」

 

 その言葉を聞いて。

 リサは確かに一瞬、時が止まったように感じた。

 

(勇、者様……?)

 

 脳内で、少年が口にした単語を反芻する。

 リサにとって……否、アヴェ・デュ・アンクの女にとって、その言葉は特別な意味を持っていた。

 アヴェ・デュ・アンクは代々、『勇者様』――つまりは、己が仕えるべき武人にすべてをかけて尽くし、その庇護を得て傷つくことなく生き延びてきた。主の生活面すべてを完璧にサポートし、代わりに主には剣を、銃を、力を使って守られてきたのだ。己を守る絶対的な武者――勇者とは、つまりそこから来ている。

 リサが『イ・ウー』に身を寄せているのも、その勇者が関係している。

 リサは、ずっと悩んでいた。祖母や母にはいた勇者が、どうすれば自分にも見つかるだろうかと。そんな折やってきた『イ・ウー』――その首領シャーロックに、『イ・ウー』には一騎当千の強者が多くいると聞いた。だからリサは自分だけの勇者を求めて『イ・ウー』に参入するも、結局見つかることはなかった。

 そして、今日。リサの前に『勇者』を名乗る少年が現れた。

 さらに、言ったのだ。「ブラド(テメェ)が泣かせたお姫様を救いに来た」、と。

 明言は、していない。けれど確かに、リサはブラドの度重なる脅しに、幾筋もの涙を流した。

 期待と不安が湧き出す。もしそうだったならという気持ちと、やはり違うかもしれないという気持ちが、交互にリサを揺らす。

 そんな中、ブラドは少年を嘲るように笑いながら、

 

「ゲバババッ。侵入者か、おもしれぇ。まさかここに潜り込むムシケラがいたとはなァ。それで、勇者様? お前は一体、オレに何の用件だ? 悪いが、お姫様なんて高尚な存在に、心当たりは無ぇんでな」

 

 心底愉快だと言いたげな口調に、なぜか少年はリサに目を向けた。

 視線が絡み合う。ナイフのように鋭い目が、リサを射抜く。

 けれども、なぜかリサにはそれが怖いものには思えなかった。むしろ、どこか頼もしさすら感じていた。

 少年はリサから視線を外し、再びブラドを睨んだ。

 

「リ……いや、テメェをぶちのめしたい理由が多すぎるな。潰してやるってことだけ言っとくわ」

「――っ」

 

 少年の台詞に、リサの喉が小さく鳴った。

 今彼は、『リサ』と言いかけた。なぜ名前を知っていたのかはわからない。だがおそらく、名前を伏せることでブラドの興味がリサに移ることを防いだのだろう。

 ここまでくれば、もう確定に近かった。

 

(この人が……リサの、勇者様)

 

 リサは、大きく目を見開き、少年を見つめた。

 懸念は、ある。以前シャーロックに条理予知(コグニス)――推理してもらったときに聞いた話とは、今の状況は少し違う。

 まず、リサの勇者は東から来る。これはいいだろう、彼は東洋人だ。

 次に、ちょっと目つきが悪い。……ちょっと? いや、まあ一応当たっているといえる。

 3つ目に、喋り方がぶっきらぼう。聞く限りぶっきらぼうというよりもう少し野蛮な感じだが、おおよそは合っている。

 最後に、女たらし。これはさすがに現状ではわからないが、もしそうだとしてもリサは精一杯尽くすつもりだ。

 問題は、それら人物像ではなく、リサと勇者が出会う際の光景。その予知だ。

 シャーロックは言った。リサと勇者は、()()()()()()()()()出会う、と。

 そこが決定的に違う。違うが、すでにリサはようやく巡り会えたかもしれない勇者様に、舞い上がっていた。

 

(がんばってください、勇者様……!)

 

 リサは、胸の前で両手を組んで、勇者様(仮)からひと時も視線を外さないように見つめる。

 リサの視線の先。少年と怪物が、口上を述べる。

 

「そうか。丁度、オレも暇していたところだ。4世が盗みを始めるまでな。せっかくこの姿でいられるうちに……遊んでやるよ、鼠」

「そいつはどうも、獣野郎。猟銃より少しばかりいい(やつ)で仕留めてやるよ。感謝しやがれ」

 

 忠誠の一族、リサ・アヴェ・デュ・アンクが見守る中。

 勇者様と吸血鬼が激突する。

 

 ――後に。

 シャーロックの予言通りの人物が現れ、リサは深く自戒することになるのだが、それはまだ先の話である。

 

 * * *

 

 悪意渦巻く人外魔境、『イ・ウー』本拠地ボストーク号にて、その戦いは始まった。

 これは後に、世界の裏側で語り継がれることになる戦いだ。

 なぜなら。

 この戦いをきっかけとして、『ラウンズ』と『イ・ウー』の全面衝突、その戦端は開かれたのだから。

 

 ――世界が、揺れ始めた。

 




読了、ありがとうございました。
おかしい、本当はボストーク号での話は1話で終わるはずだったのに。ふと思いついたパトラの話でここまで分量が膨らむなんて……。

最近、読者がどうとかではなく、僕が1万文字くらいでは満足できなくなってきました。どうやら僕は変態だったようです。

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