斯くして、一色いろはの日常は巡りゆく。   作:あきさん

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だから、一色いろはは約束する。―に―

  *  *  *

 

 ずいぶん懐かしいことを思い返してしまった。といっても、懐かしく感じられるってだけで、実際にはまだあの時から一年も経っていないけど。

 そんな回想に浸るきっかけとなったのは、自分のクラス、そこでの出来事。

 わたしは文実での仕事があるため、劇のほうには参加できない。なので、缶詰め状態になる前にせめて顔を出しておくくらいはとドアに手をかけた時だった。

 

 ――いつまでもここにいて、いつまでも楽しい時間を。それでいいじゃないか。

 ――ダメよ、そんなの。いつまでもここにいたら、いつまでも大人になれないもの。

 

 もし、耳に届いてきたセリフが、なんてことないシーンのものだったなら。きっとわたしは、何のためらいなくこの扉を開いていただろう。

 けど、そうじゃなかったからこそ。わたしは今も目を閉じたまま、中に入ることもできず、ドア脇の壁に寄りかかりながら。

 クラスのみんなが練習している様子を、サウンドオンリーの劇を、一人静かに輪の外で観賞し続けていた。

「ねぇ、ピーター。わたしたちはロンドンへ帰っていいかしら?」

「……好きにすればいいさ。だが、言っておく。大人になってしまったらここへは戻ってこれないんだからな。いいか、二度とだ。絶対にだ」

 大人になったら……か。確かにそのとおりかもしれない。

 永遠に続く楽園も、夢の国も。

 綺麗事に理想論も、絵空事に夢物語も。

 全部、大人に近づけば近づくほど肯定しづらくなっていく。大人ならではの知識や理性が童心に邪魔をして、現実的じゃないものは認めづらくなっていく。そうやって、大抵の子供はおとぎ話を卒業していく。

 じゃあ、いつまでもを信じ続けるわたしは……ピーター側?

 けど、ウェンディの言いたいこともわかるしなー……。

 なんて感じで自己投影したり共感したりしながら物語にのめり込んでいると、制服のポケットに入れていた携帯がぶるると震え出す。おそらく、なかなか戻ってこないわたしにしびれを切らした副会長か、不思議に思った書記ちゃんのどちらかが電話をかけてきたのだろう。

 コールが教えてくれたとおり、休憩に入ってから結構な時間が経ってしまっている。その間に何かトラブってしまった可能性も否定できない。劇の続きは気になるが、そろそろ戻らなきゃだ。

 電話を取る代わりに、壁に預けていた身体をよいしょと起こす。

 そうして、再び歩き出した直後。

「……どうせすぐ戻ってくるさ」

 大人になれない少年の、物悲しげなセリフが追いかけてきて。

 思わず立ち止まりそうになった。振り向いてしまいそうになった。だって、今のわたしには、そう言いたくもなるピーターの気持ちがわからなくもないから。

 どれだけ寂しくても、認めたくなくても、飲み込めなくても、さよならをしなきゃいけない時は必ずやってくる。ましてや、『みんな』と永遠に続く楽園なんて現実の世界には存在しない。

 でも。

 だからこそ、そんな『いつまでも』を、わたしは『ずっと』夢見ていたいんだ。そんなものなんてと切り捨て、諦め、手放してしまえる大人にはなりたくないんだ。

 ピーターのセリフには、達観と執着の二つを共存させた独白を。

 セリフから続く無音の場面転換には、今戻るべき場所へ戻っていく自分の足音を。

 わたしは、それぞれ、返しながら。

 

  *  *  *

 

 階段を下りてすぐの空中廊下を進んでいくと、男子が数人、会議室の前に寄り集まっていた。

 ひそひそ声で話しているため会話内容まではわからない。ただ、トラブルを面白がって覗き見している野次馬というよりは、高嶺の花を遠巻きに眺めているような。そんな印象だ。

 とはいえ、彼らが陣取っているのは会議室への入り口、扉の前。そこにそのまま居続けられても邪魔なだけである。

 なので、表面上は申し訳なさそうに。けど、何を言いたいのかは伝わる困り笑顔で、わたしは彼らに声をかける。

「あのー……」

「……っ、か、会長!?」

 そしたら、マジのガチで驚かれた上、恐ろしい速さで道を開けられた。わたしは腫れ物か何かですか、まったく失礼な。……まぁ、昨日の今日じゃ、この扱いは仕方ないかもだけど。

 ぷんすかしつつも、納得はしつつ。人の捌けた先にある扉をがららと開く。

「戻りまし……」

「あ、いろはちゃん、おっそーい」

「……は? いや、なんでいるんですか」

 中央に立っていた人物の姿に、ついつい、フィルターもストッパーも介していない声が抜け出てしまった。

 ほんとマジでなんでいるの……ていうかしばらく来れないんじゃなかったの……。

「なんでって、そんなの決まってるじゃない。これを取りに来たのよ」

 動揺するわたしとは対照的な、平然とした様子で。手にしていた書類らしきものを何枚か、こちらへ差し出すようにひらひらと踊らせる陽乃さん。

 はぁと微妙な返事をしながらもそれを確認してみると、ひとまずの理解と納得に至る。

「あー、なるほど、有志団体の……え、じゃあなんであの時電話でしばらく来れないなんて言ったんですか」

「わたしはそんなこと一言も言ってないよ。勉強見てあげられなくなるとは言ったけど」

 …………確かに。

 や、確かにそうだけど……そうなんだけど……!

「その超ふてくされてる感じ……。いやー、期待どおりの反応でお姉さん嬉しいなー」

「またそうやってわたしで遊ぶ……」

 せめてもの反撃に目を細めむーっと睨んでみたものの、ムカつくくらいにとっても素敵な笑顔を返されただけで安定の効果なし。うん、知ってた。

「……まぁいいです。それよりはるさん、今日はしばらくここにいる感じですか?」

「うん、そのつもり」

「そうですか……」 

 寂しさが埋まったことによる安心からくるものなのか、嵐の前の静けさに対する不安からくるものなのか。自分でも判別のつかない吐息が思わず漏れた。

 すると、そんな感情の排気を聞いていた陽乃さんは、にやりと意味深に口元を歪めた後。

 わたしの耳元に顔を近づけ、こしょっと秘密めかすように囁く。

「大丈夫よ、今回は見てるだけで何もしないから」

「……………………はい?」

 そして、耳打ちされた内容は、わたしがまったく予期していない方向からのものだった。

 ……見てるだけで、……何もしない? あのはるさんが?

 これまでの全てを根底から覆すようなノータッチ宣言に思考力を奪われ、わたしはひたすら目ぱちくりの口あんぐり。

 やがて、どれくらい放心しているのかもわからないほど真っ白な頭の中に、ぷにっと頬を突っつかれた感触が差し込む。

 そこでようやく、長いような短いようなフリーズが解けた。

「ちょっ……なっ、何してるんですかー!」

「んー、やっぱりいい反応するねぇ」

 慌ててばたばたっと距離を取るわたしのうろたえぶりに、陽乃さんが心底おかしそうにくすくす笑う。あー、もー、みんなの前なのに……。しかも、しかも乙女の柔肌を……!

 恥ずかしさにほてる顔や心をどうにか冷まそうと視線をあたふたさせているうちに、そんな笑い声も、時間の経過と共にフェードアウトしていく。

 しかし、その声が完全に絶える寸前。仕切り直すように咳払いをして、陽乃さんが話の逸れ目や切れ目といったものを、本題の継ぎ目へと戻す。

「……ま、とにかくそういうわけで、お姉さんのことは気にせず好きにやりなさい」

 わたしをじっと見据える瞳が、言外に語りかけてくる。――そういうの、得意でしょ、と。

「無責任なこと言うなぁ……先生のくせに」

「なんでもかんでも教えてあげるのが指導者ってわけでもないでしょ。だからこそ、時には黙って教え子を見守ることも先生には必要なのであ~る」

 うわ……。

 真面目くさった雰囲気はどこへやら、今度は目を閉じ指を振り振り、おどけた口調で何事か説き始めた陽乃さん。とりあえずその超得意げな感じがめっちゃイラッときたので今後は控えてもらえますかだめですかそうですか。

 わたしは、うさんくさいものを見るような目を向けつつ、はーっと長めの息を吐いた。

 別に苛立ちを逃がしたかったわけじゃない。呆れて思わずってわけでもない。ただ、らしくなさの水面下に見えたものが、頭の中に根拠のないひょっとしてを生んだからってだけで。

 けど……仮にそうだとしても……一体何のために……?

「仲睦まじく談笑しているところ悪いんだが……」

 しかし、終着点を見つけ出す前に制止の声がかかってしまう。副会長だ。

 思量の中断を余儀なくされ、仕方なく、はいはいなんでしょとそちらを向けば。

「会長。……そろそろ仕事をだな」

 呆れいっぱいのため息を添えながら、副会長がちらと瞳を動かす。

 その先にあったものは、生徒会役員用に割り振られたスペースだ。もっと正確にいうなら、机の上にある書類の山だ。

 …………。

「うえー……あれ全部わたしの判子待ちですかマジですか……」

「だからこうなる前に電話したんだ。まぁ、それを言ったところでもう後の祭りだけど……」

 どうしてこんなになるまで放っておいたんだ!

 ……どうしてもなにもないですね、はい。ただの自業自得ですね、はい。

 

  *  *  *

 

 はぐるま、はぐるま、ぐーるぐる。

 社畜のはぐるま、ぐーるぐる。

 ……まぁ、そんな感じで、ブラックなテーマがふと脳内再生されてしまうくらいには忙しいどうもわたしです。もうかれこれ一時間近く、ひたすら書類を捌いては山を崩し、山を減らしては増やされての繰り返しだ。

「会長。次はこれを」

「あ、いろはちゃん、これとこれもお願い」

「……了解ですー。そこ置いといてください」

 いやあのほんとマジで片付けても片付けてもキリないんですけどなんですかこれ回転寿司か何かですかわたしもうお腹いっぱいなんでお会計したいんですけどどこですればいいですか。

 胸の中でうだうだぐだぐだ愚痴りながら、はーっと長い長いため息を吐く。

 連戦も連戦、しかもぶっ通しなので、さすがに疲れてきてはいる。けど、このタイミングでやる気なしのだらだらモードを発動してしまえば余計に片付かなくなるだけだ。さらには仕事のお持ち帰りとかいう全然嬉しくないおまけつき。

 ……大事なプライベートの時間を仕事に奪われてたまるか! 意地でも終わらせてやる! それで、この戦いが終わったら、わたし……や、なんでもないです。

 ついついうっかりと心の口でいけないフラグを立ててしまったけど、そこはまぁ、途中で止めたからギリセーフということにして。

 とりあえず今はと強引に思考の脱線を切り上げ、次の書類へ手を伸ばす。

 ちょうどその時、がららと扉の開く音。

「……先生でしたか」

 てっきり何かしらの申請や報告をしに来た人かと思ったが、平塚先生だった。

「ん? 誰かを待っているのかね?」

「あ、いえ、そういうわけでは……」

「新しく仕事を増やされずに済んでほっとしたってだけでしょ。ね、いろはちゃん」

「……またそうやって余計なことを」

 なんでこういう時だけ反応するんだ……今の今までほんとに見てるだけだったのに……。

 ちくり刺すようにむっと睨めば、返ってくるのもくすくす笑い。そんなわたしたちのやりとりは相変わらず、いつもどおりで。また、そのいつもどおりは相変わらず、どこか子供じみていて。

 そんなわたしたちのやりとりに、平塚先生は苦笑にも似た微笑を浮かべつつ。現教え子に向けていた会話の矢印を、今度は元教え子へと向ける。

「こんな時間まで付き合ってるとは珍しいな、陽乃」

「そう? 去年もこんな感じでちょくちょく一緒に残ってたと思うけど」

「だからこそ珍しいと思ったのだよ。去年と今年ではいろいろと勝手が違うだろう。……少なくとも君にとっては、な」

「ん……まぁ、ね。本当にいろいろと違うよ。あの子たちやめぐりはいないけど、可愛い教え子がいるところとか、特に」

「……まぁいい。今はそういうことにしておいてやろう」

「嫌な言い方するなー、もう」

 どこか既視感のある会話に、またしてもわたしは手を止めてしまっていた。

 けど、そんな言葉の交わし合いが続いたのは、ほんの短い間だけ。

「……いやぁ、それにしても、時間の流れとは本当に早いものだなぁ。私にはまだ去年の文化祭が最近の出来事であるかのように感じるよ」

「静ちゃん、そう感じるのはわりとやばいラインだよ? 大丈夫?」

「うぐっ……だ、大丈夫だ。私はまだ若い……私はまだ若手のはずだから……」

「ありゃ、思ったより深刻」

 だからわたしも、二人の他愛ない話をBGMに仕事を再開する。……あと誰か手遅れになる前に早くもらってあげてください、ほんとに。

 そうして、ぺらり、ぺらりと。一枚、また一枚、おまけでもう一枚と。

 押印済みの書類を、わたしは順調に増やしていく。

 かたかたキーボードを打っている音、ごそごそ鞄を漁る音、かりかりペンを走らせる音。誰かの笑い声や呆れの声、ひそひそ話す声。……あと、悲しい自虐に怨嗟の声。

 周りの作業音や様々な声が耳を素通りせず入り込んでくる時もあったものの、そちらに気を取られすぎることもなく、引き続き一定のスピードで捌いていく。

 どうやら、思いのほか集中できているらしい。書類が回されてくるペースも落ちてきたし、これならなんとかなりそうだ。

 ……ただ、今日の神様は、どうしてもわたしに意地悪をしたいみたいで。

「ところで一色。今日は席を外したままな者が少し多いようだが……何かあったのかね?」

 世間話の谷間に平塚先生が落としたのは、そんな疑問の種。

 視線はそのままに、わたしはぽつりとこぼすようなトーンで答える。

「……委員長は宣伝広報のフォローで外回り、記録雑務の担当部長は物品管理のヘルプに回ってます。他は単に欠席かと」

 これ以上手を止めたくないから。核心をつくような質問だったから。そんな二つの理由が声を介した結果、自分でも引くくらいに事務的な返答となってしまった。

 あまりにも露骨で、不自然で、淡々としすぎている。見る人が見れば、わたしをよく知る人からすれば、間違いなく違和感を覚えるくらいに。

 なのに、平塚先生は。

「……そうか」

 言及するわけでも追及するわけでもなく、一つ、意味深に頷いただけだった。今はそういうことにしておいてやろうと言いたげな表情で、静かにゆっくりと目をつぶりながら。

 しかし、今はこの場に、些細な引っかかりすらも見過ごしてくれない人がいる。

「あれ? いろはちゃん、委員長じゃないんだ」

 やっぱり……。

「です」

 ……なんだけど。

 やっぱり……では、あるんだけど。そこから先は全然やっぱりじゃなくて。

「そっか」

 なぜか陽乃さんは、わたしがそうしたことを、どこか残念がるように。でも、わたしがそうしたことで、どこかほっとしたように。

 わたし宛てとも独り言とも取れる言葉をそっと漏らした後、優しげにふっと笑いつつも。

「……ま、いいや」

 何かを言いかけてやめるというめっちゃ気になる違うムカつくトークテクニックを頼んでもいないのに披露してくれた。……あー、もー、ほんとめんどくさいなこの人。わたしもそれよくやってたから人のこと言えないけど。

 なので、リアクションは一瞥とため息だけに留めておく。

 だが、一度でも入り込んでしまえば、外に吐き出すか内に飲み下すかをしない限り、引っかかり続けるのが異物というもの。考えても仕方がない、意味がないと、冷静な自分が頭の片隅でちらついていても。

 陽乃さんは言った。自分は何もしないと。

 この人は真実を具体的には語らないけど、真実そのものを騙ることだけはしない人だ。たとえそれが本人にとってどれだけ残酷なものでも、優しい虚実とすることなく、これが現実なのだと容赦なく突きつけることができる人だ。 

 ……けど、同時に。

 語らないし騙らないからこそ、誰よりも嘘つきな人。――それが、はるさんだって。  

 

 少し前に根拠もなく生まれた、ひょっとしても。今、生まれたばかりのもしかしても。

 全部、わたしの推測で、邪推で、経験則で、希望的観測でしかないというのに。

 その帰結は、少なくとも、間違ってはいないだろうと。

 判断したわたしは、最後の書類にぽんと判子を押し、わたしの承認済みとした。

 

  *  *  *

 

「たまには一緒に帰ろっか」

 帰り支度をしていると、そんなお誘いを受けた。

 特に断る理由もなかったので、わたしはオッケーですと二つ返事で頷く。

 そうして、階段を下り、玄関口を通り、通用門を抜け。

 今は、夏の気配がまだ強く残る空の下を二人、不揃いな足並みで歩いていた。

 いつもみたいにじゃれ合うわけでもなく、お互いに口を開くわけでもなく、どこかへ寄り道するわけでもなく。たまたま帰る方向が同じだったから、なんとなく一緒に帰っているというだけのような、そんな歩調。

 無理して話すくらいならいっそ黙ってたほうがいいんだろうけど……その、あれだ。いくら忙しかったとはいえ、ちょっとそっけなくしすぎたかな的な罪悪感があるというか。しかも、ひょっとしたらーとかもしかしたらーとかいろいろ裏読みしちゃったし……。

 なんて感じで、開けては閉じてと何度も唇をあたふたさせていたら。

「いつもどおりでいいのに」

「あ、あー……そう言ってもらえると助かります」

 それが結果的に功を奏したようで。くすっと笑う声に釣られ、わたしも胸を撫で下ろす。

「……ま、そういうところも可愛いから、ついつい意地悪したくなっちゃうんだけどね」

「意地悪っていうか取って食うじゃ……」

「こらこら、人聞きが悪いこと言わないの」

「悪いのは性格もじゃ……」

「もー……生意気なことばっか言うのはこの口かっ」

「ひゃうっ……ごめんにゃしゃひ……」

「よろしい」

 ……代わりに、ほっぺたをぷにーんとつままれてしまったけど。まぁ、今回は悪ノリした報いということで。

 みたいな感じで、気づけば、ずれていた空気はすっかり元通り。後ろめたさに遅れ気味だった歩調も、曲がりくねった道が終わる頃には、いつもどおり。

 けど、その先、駅へと一直線に伸びた道を進んでいた時のこと。

「なんか、懐かしいな」

「へ……? なんですか急に……」

 突然のノスタルジックな呟きには、何の前触れも前置きもなかった。何を見てだとか、何を聞いてだとか、そういう脈絡だってなかった。

 一体何の話だと首を傾げていると、陽乃さんは口元を笑みの形に作りつつ。

「昔はさ、こうやって一緒に帰ってたんだよ。雪乃ちゃんとも隼人とも」

「あー、そういえば葉山先輩と幼馴染みなんでしたっけ」

「そそ。……ま、そうしてたのもちっちゃかった頃だけなんだけどね」

 隼人も、雪乃ちゃんも、わたしも。ふっと一笑しながら細められた瞳に、あるかどうかもわからないそんな結句が浮かんでくる。

 何かを切り捨てることや何かを諦めることはすごく簡単なのに、切り捨ててしまった何かや諦めてしまった何かを再び手に入れることはすごく難しい。

 それは、時間が経てば経つほど。すれ違いや勘違いを重ねれば重ねるほど。

「なんか、大人になるのってすごく虚しいことのように思えてきました……」

「当たり前でしょ、そんなの。大人になるって要はそういうことなんだから」

 覚えておきなさいとばかりに、陽乃さんがわたしのおでこを指で軽く突っつく。

 そして、今度は、どこか意味ありげに空を仰ぐと。

「ただ……だからこそ、そうじゃない大人が一人くらい、周りにいたっていいのかもね」

「そうじゃない大人、って……?」

 流れていく雲を漠然と見つめていた瞳が、ちらと動いて。

「大人になりきれない大人のこと、かな」

「……そういう大人なんて、どこにでもいると思うんですけど」

「それは悪い意味で大人になれない人でしょ」

 今度は茶化すように一笑すると、陽乃さんはやたらと上機嫌な様子で、わたしも聴き覚えがある歌を口ずさみ始めた。ちょっと苦くて、ちょっと刺激的で、ちょっと甘い。そんな歌を。

 やがて、マリンピアも駅前広場も後ろへと過ぎ、改札を抜けた先のコンコースまで来ると。

「いろはちゃん、蘇我方面よね。じゃ、このあたりで」

 陽乃さんは電光掲示板に目をやりながら。どうやら帰り道の電車は別々らしい。

「あ、はい。……また明日? です?」

「うん。また様子見に行くね」

 疑問符だらけのめちゃくちゃな挨拶になってしまったものの。わたしの心情を察したように笑顔で手を振った後、陽乃さんは反対のホームへと続く階段を上っていく。

 ……けど、はるさん、また明日とは言わなかったな。

 

  *  *  *

 

 大人になった誰もが一度は思う。いつ、どこで捨ててしまったかもわからない自身の翼を、何度も求めながら。――ああ、子供の頃に戻りたい、子供に戻れたらと。

 子供の頃に誰もが一度は思う。あの空を自分の好きなように、好きなだけ羽ばたけることを何度も夢見ながら。――ああ、早く大人になりたい、大人になれたらと。

 大人になれない少年は言った。大人になってしまったら、二度と戻ってはこれないのだと。その『いつまでも、ずっと』がすぐに恋しくなるぞと。

 大人になろうとする少女は言った。誰にでも帰らなくてはいけない場所があると。だから、その『いつまでも、ずっと』は捨てていかなければと。

 そして――当たり前のように大人になってしまったあの人は言った。だから、だからこそ、その『いつまでも、ずっと』大人になりきれない大人が、一人くらい、周りにいてもいいと。

 なら。

 大人になれないこと。

 大人になろうとすること。

 大人になってしまうこと。

 大人になりきれないこと。

 それらの違いは、一体なんだろうか。

 

 ただ、一駅という短い区間の中じゃ、その答えは見つかるはずもなかった。

 

 

 

 

 




くっそ遅れてごめんなさいでしたァ!

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